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読書ノート 分子生物学の柴谷篤弘を読む

Imgp2266 (2013.12.12) 

  ● 『今西進化論批判試論』についての抜き書き

 獲得形質について

 「生物の行動はある程度遺伝学的に決ってはいるが、おのおのの生物は、その中でかなり自由に変化を持たせ(られ)ている。この変化の一部は、遺伝学的な対立遺伝子によって支配されているということもあるらしい。なかなか単純ではないけれども、一つの生物の種類に属するいろんな個体は、遺伝の枠に縛られながらも、かなり自発的に行動の枠を少しずつ変化させながら生きている。( 中略 )ここに出てくる新しい問題は、生理的あるいは生化学的な性質が(個体の間で)少しずれなくてはならない、ということである。だから、一番初めは生物の自発的な行動の変化であるけれども、その行動の変化によって開発されるものは、たとえばそれまでよりは酸素濃度の低い、酸素分圧の低いところで生活できるような、生化学的な性質である。つまりこのような生化学的な性質を持ったものが(自然淘汰によって)選り分けられようになるのだ。その原因となったのは、(ネオダーウィン流の突然変異なんかではなく)生物の行動であり、行動の幅がずれることによって、それまで問題にならなかった、(たとえば)酸素濃度の低い所での生活能力が急に意味を持ってくる。これが、行動変化と組みになって初めて、適応の意味が現れてくるのである。

 だから、この傾向が進むと、(たとえば)流れの速い所にいた生物が、流れの遅い所により適応した形態、(つまり)生理(的)・生化学的特性を持つように変わってきてもいいことになる。これは偶然そうなったのではなく、最初は生物が自主的に、自発的に生活態度を変えようと動いた結果、そこに出てきた新しい状況において、新しい形質が自然淘汰によって子孫に保存され、(その新しい形質を持った個体が種内に)増えてきたのである。一見したところ獲得形質の遺伝と等しくみえるこのメカニズムは、しかし決して伝統的な意味における獲得形質の遺伝と同じではない。(表現型といった)獲得形質の遺伝とは、(ある個体が)一生の間に身についた性質(形質)が、二次的に(生殖細胞のなかの)遺伝子を(淘汰なしに)直接変化させて、それが、その原因となった行動がかりに現れなくても、それとは無関係に子孫に伝わるという説だが、ここに述べたものはそうではなく、行動の変化が現れた結果、それとは独立に遺伝子の上に生ずる変化が、淘汰上有利になるという、ダーウィンの原理が生きているのである。」(199-200ページ)

  ただ、ここの「それ(自発的な行動)とは独立に遺伝子の上に生ずる変化」というのが、わかりにくい。前後関係から、これは

  それとは独立に(生殖細胞の細胞質で起きる遺伝子間の閉じない多重フィードバックの働きにより)遺伝子の上に生ずる変化

という意味だろう。より簡潔に、

 個体の生殖細胞が持つ遺伝子の上に生ずる生理的・生化学的な変化

と言い換えてもいい。この変化は遺伝子とともに次の世代に受け継がれる。自発的な行動が環境に対しマッチしていれば生き残る確率が高まり、種内に広がっていく。この場合、自らの体制と外部環境に見合った個体の自発的な行動のよしあしが、生存確率を決める。この場合、極端に見合っていない行動に対してのみ、そしてその時のみ自然淘汰が働くだけである。いちいち個体は自然淘汰におうかがいなど立てない。したがって、種内の個々の個体の小さな遺伝的な違いは、ほとんど問題にはならない。みんな同じであり、差はない。それよりも自発的な行動のよしあしが、つまり、「種は変わるべくして変わる」の原則の下、個々の個体の自己決定のみが進化という種の運命を決める。突然変異など待ってはいない。それでは個体は死に、種は滅びる。

 これに対し、ターウィン進化論の考え方は、個体内の微小で連続的な遺伝的変異に注目する。そこに働く自然淘汰のなかで有利ものが生き残るというプロセスで進化という変化が起きる。同じ種といっても、個体Aと個体Bとは、わずかかもしれないが違う。これが進化のもとであると考える(ダーウィンの死後、遺伝的変異の真の原因はDNA上の突然変異であることが実験的に明らかになり、微小連続変異に働く自然淘汰という考え方は捨てられた。しかし、微小連続変異を突然変異に置き換え、その積み重ねに自然淘汰が働くとする考え方はネオダーウィニズムとして今も、基本的に残っている。たとえば、フィッシャーの『自然淘汰(選択)の数学的理論』(1930)のような集団遺伝学においては、自然淘汰の数学的な中身は、種内における突然変異遺伝子の増殖率に差があるものとしてとらえている。自然淘汰に対し有利な遺伝子の増殖率は大きい)

 はっきり言えば、

 ダーウィン進化論は、いちいち自然におうかがいをたてる自然選択説

 今西進化論は、そんなおうかがいなどたてず、種が自発的に種の進化の方向を選択する種選択説=主体性の進化論

なのだ。ある自然環境に立たされた種の中の一つひとつの個体の自発的な行動のよしあしが種全体の運命を期せずして決める。突然変異など悠長に待ってなんかいない、種は自ら変わるべくして、一斉に同じ方向に変わるという意味はこのことだろう。突然変異にも、自然淘汰にも関係なく、一斉に同じ方向に変わる。

 たとえば、サバンナに立ち向かうため垂直二足歩行を決意したホモサピエンス。結局、そのなかで生き残ったのは現在の(現生)人類のみで、動物解剖学のある研究者(遠藤秀紀)によると、その人体の構造変遷は失敗の進化史であり、将来絶滅の運命にあるという。

 「最近の報告によれば、(中略) 生物はどうやら、行動を変化させる場合、遺伝的に自分に最も淘汰上都合のいいもの(行動)を選ぶということがあるらしい。自然淘汰の結果そうなるのではなく、一代一代の生物個体が、自らの遺伝的な背景にとって最も都合のいいような(生理的・生化学的な)形式に行動のパターンを合わせていく傾向があるらしいのだ。(中略)どういうことをやると自分としては得かということが、あたかもわかるように振るまうものらしい。もちろん、意図してそう振舞うのではなく、生理的にそれらが最適度になるように、神経気候が調整されている、ということもあるのだろうか。

 行動の選択がこのように許されると、実に意外なことが起こる。(中略) 遺伝子構成として、個々にはおのおのの環境において不利であっても、行動によって適当な時期に適当な所に動ける場合には、つまり行動の選択の余地がある場合には、自然淘汰で有利になるのである。これはずいぶん、今西の考え方とも合うものだと思う。生物は自分の遺伝的な構成に応じて行動を決める。それは、あらゆる個体に具わった、最初ためして見て、幸い結果がよければさらにつづけるといった形式をふむものかもしれない。これだと生物の行動は自主的で、遺伝的制約は二次的な要因にすぎないことになる。一生の間の行動の型は、遺伝的な構成によって可能な範囲は決められているのだが、適応という点からみればずいぶん互いに矛盾した遺伝子を一個体としてもつものがあり、時期により場所によって有利さ(あるいは快適さ)が変わってくる。生物は、あたかも自分に最も有利である所を選ぶように行動し、一つ一つについては不利になる局面があっても、全体として有利になるように自分の行動を選択しているものらしい。

 ダーウィン的な自然淘汰が、たんに集団(の行動)は環境に対して受身であり、あるいは遺伝的な構成によって決められているのに対し、受動的に起こるのではなく、主体性を持った生物が主体的な行動を選択できる場合に(は)、遺伝的な背景に(できるだけ)マッチするように(生理的・生化学的に行動を自ら)選択しているものであるらしい、ということまでほぼ推定できるような雰囲気になってきている。これは今西が考えているようなレベルの問題で(あり)、一見ダーウィン説からは離れるようだが、しかもなお(行動の結果に自然淘汰が働くという意味で)ネオダーウィニズムの枠内で進んでいる話なのである。しかも、ダーウィン自身も『種の起源』でこの可能性(行動の自発的な選択による進化)にある程度気がついていたふしがあるという。」(203-204ページ)

 生物の主体的な行動というのは、たとえば、次のようなものだろう。

 数百万年前のアフリカ東部のサバンナで、食料を求めて、ヒトが樹上から降り立った危険な行動。あるいは、南アメリカ南部のバルデス半島で、海に生息するシャチが、海岸のアシカを捕まえるために上陸しようという果敢な行動。あるいは、アネハヅルが越冬地を目指して、8000メートル級のヒマラヤ山脈を越える戦略的な行動だろう。これらは、自分たちの遺伝的な構成を生理的、生化学的に最大限に生かし、生存のための選択行動に挑んだ結果なのだろう。これら結果に至るには、その過程で当然自然淘汰が働く。

 たとえば、アネハヅルの場合、いろいろなツルが挑戦したうち、体型の小さい、そして肺機能の効率性に優れたアネハツルだけが、その特性を巧みに生かした自発的な行動、たとえば大編隊Ⅴ字飛行行動のせいで、無事に生き残ったのであろう。生物の進化は環境や遺伝子構成だけでは決らない。むしろ、生物個体の自発的な行動が新しい進化のステージを用意する。何時起こるかもしれない突然変異など悠長に待ってなんかいない。

 今西進化学説の発展のために

 「今西が種社会の成員が、時期が来たら変わるべくして変わるというとき、今西が懐く像は、たとえばこんなものてはないだろうか? そのとき種社会の成員は、相互に彼ら独特の了解の方法のもとに- どうしてやるのかはわれわれには未知である- やはり現状ではおれたちは変わらなければなるまいということを、たがいに感じあい、結論しあう。極端な場合には全員がよりあつまって「会議をひらく」ような形があってもいいかもしれないが、実際の形ではまずそうはならないだろう。そして種社会全体の了解のもとに、各個体が自主的に変わるのである- われわれには未知の、ある、主体的な、生物学的方法によって。

 そのような未知の過程に対するなんらかの手がかりがあるのか? 私は今西がそれをつかんでいると思う。」(241ページ)

  ここに書かれている「やはり現状ではおれたちは変わらなければなるまい」という結論を出し、「各個体が自主的に変わるのである- われわれには未知の、ある、主体的な、生物学的な方法」というのは、細胞内の細胞質で起きている

 遺伝子間を結んだ閉じない多重フィードバック機構

という自動制御ではないか。自主的に変わった結果には、もちろん、自然淘汰が働く。その結果、環境枠内で生き残ったものの形質が種内に次第に広がり、種内に固定される。つまり、新しい形質を持った種が誕生する。

  ● 『進化論も進化する』の抜き書き

 今西進化論とダーウィン、ここが違う

   種社会ごとの棲みわけによる生物種の多様化というのは、いわば「系統発生は個体発生をくり返す(ことで成り立っている)」という進行過程のこと。この言い方の中の「系統」を生物全体社会に、「個体」をもとのただ一個の種社会に置き換えたものに等しい。生物全体社会に階層性があるのはこのせいだというわけだ。

 今西は、この本で、次のように語っている。

 今西「(種の多様化を説明するにも)ダーウィニズムであるかぎり自然淘汰からはみだすわけにはゆかへん。ぼくの進化論では、この(生物種の)多様化を種社会の棲みわけの進んだ結果としてとらえる。同じ多様化でもとらえかたが違うんや。底でこの棲みわけの進行をぼくは(普通いわれているのとは逆に)「系統発生は個体発生をくり返す」で説明したつもりでいる。もと一個の細胞から分化発展してわれわれの身体をつくりあげるように、もとはただの一個の種社会から出発しながら、その社会の分化発展によって生物全体社会の多様化が生じたというのや。ここまでくると、もうダーウィンの説とは全く違ったものになっとる。細胞が分化発展するとき、細胞間に生存競争が起こるやろか。適者生存が起こるやろか。

 それと同じことで、一つの種社会が分化発展する時、種社会間に生存競争が起こったり、自然淘汰が起こったりすると考えるのはダーウィニズムであって、起こらへんというのが今西進化論なんやで。棲みわけというのはどこまでも社会の棲みわけで、社会の分離なんや。棲みわけの前に社会あり、や。(中略)  ぼくから見てダーウィンの足らんところは、(「種の起源」とはいいながら)個体とスペーシス、種とが混乱している。ダーウィンは種社会というものをつかんどらんかったんや」(238-239ページ)

 今西「それで結局種はどうして分かれるかというたら、種社会の分離ということにどうしてもなるな。そしてこの裏には(どんな生物にでもみんなあるはずの)プロトアイデンティティがなければなけなあかん。」

 犬同士が、あるいは猫同士が同類であるのかをどのようにして見分けるのか。この種のアイデンティティの実体というのは、遺伝と同じくらい基本的なものであるが、この「種のアイデンティティ」論というのは、分子生物学においてもこれからだというのだ。

 今西進化論の「主体性」の意味について。

 柴谷「生物現象は眼に見えない「構造」がもとになって生ずる。ここでいう構造は人文社会科学系でいう構造主義の構造でして、生物学でいう形態学的な構造-顕微鏡でしらべられる構造-とは違います。今西さんのいわれる「原理」と同じことかもしれません。そういう構造が(もともとの生物自身に具わった主体的な存在として)先にあって、そのあらわれとして生物の合目的的な諸側面があらわれてくる。主体性というのは、だからこの「構造」をいいあらわす他の表現なのではありませんか。言語学でいう個々の人の話すことば(パロール)の背後に社会的に( ! )規定されている言語(ラング)という構造があり、後者の概念なしに前者は理解できない。(中略)

  このような「構造」が、生物の形態や機能発言の基盤にあって、遺伝はたんにその「構造」の上にのっかって、それを動かす切り替えスイッチとして働くだけのことで、本源的なものは遺伝子のはたらきとは別にあるのだろうというのが、グドウィンとウェブスターの主張です。(中略)

この眼で見ると、今西さんの種社会の概念は、種の個体という眼にみえるパロール的なものの奥にあるラング的な「構造」をとらえたものといえるかもしれない。したがって主体性というのは、概念的に個々の生物個体の自発性のことをいっているようにとられやすいが、本来の意図は個々の個体の存在基盤としての「構造」のことを念頭において言っていると考えたら、このような表現にも普遍的な妥当性が与えられるのではないかと思っているところです。」(48-50ページ)

  個々の個体の存在基盤としての「構造」というのは、

 細胞質の中での遺伝子同士をつないで起こる多重フィードバック

と考えられないか。これが新しい形質を決める。

柴谷「もう一つ別の形でこれを言うと、構造主義に対置されるのが機能主義で、これが要因論、メカニズムの理解、適応の概念の重視を生み出すのです。その意味でも今西さんの理論は反機能主義、すなわち構造主義とつながると思う。」

 今西「主体性がどこから来たんやというたら、(中略)これは神が与えたんやと、そう言うてもええかもしれん(笑)」(50ページ)

 それでは、

 「プロトアイデンティティ」の始まりをどこにおくか。プロトアイデンティティとは、始原的帰属性のこと。

 柴谷「私はそれ(藤岡喜愛の「精神の進化」)を先に進めまして、細胞にもそういう主体性があるだろう。発生が起こるときには主体性のある実在として発生が行なわれ、胚のなかで細胞同士が、ある数の細胞を仲間として認め、われわれには全然わからないたぐいの主体的な世界認識の上に、彼らは彼らなりに生物体をつくる。そういう主体的な生物学、主体的な発生学というのを私はいまではめざしている、その主体性をずっと上までのばしたら、つまり種の成員の間におけるプロトアイデンティティという問題につながるだろう、とみているわけです。

 プロトアイデンティティというのは、現実にはにおいとか形とかで認識するのでしょうが、その一番もとに、もっと基本的な部分で生物の主体性に関連するもの-それが生物の存在とともに出てこないとおかしいと思う」(97ページ)

 この主体性の発生学というのは、

『細胞の意志』(団まりな)

の団まりな氏の考え方そのものであろう。

 団氏はその著書(209ページ)で次のように書いている。

 なぜ細胞たちは最終的な「姿」を知っているのかについて

 「私(団)はこれが、〝遺伝〟なのだろうと思います。細胞たちは、細かい手続きに関する厳密な分子メカニズムにあやつられているのではなく、最終的な〝姿〟を見ているのだと思います。その姿に近づくために、今、何ができるか。それぞれの局面で見せた細胞たちのおどろくべき広さのレパートリーを持つ頑張りや工夫は、このように考えれば、さほど唐突には感じられません。その頑張る姿は、私たち人間の場合とそっくりです。」(209ページ)

 元に戻って、擬人主義はアナロジーにすぎないかについて。

柴谷「ぼくは擬人主義を積極的に取り入れようと思う。人がなんと言おうとかまわない」(248ページ)

  米本「擬人的な表現というものを、アナロジーなんていわないで、基本概念として正当性を主張すべきである。現代の分子生物学の性格としては、こういうイメージなのだということをもっと言わないと、新しいパラダイムの手懸りもみえてこないと思うのですが。」

 柴谷「それでよろしいです」

 今西「おれに「主体性」というような言葉を教えてくれたのは西田哲学やけどな」

 全体論的な視点の重要性について、今西はこの本の最後のほうで、次のように語っている。

 今西「分子生物学のミクロの世界の(最近の)話を聞いていて、ぼくの腑に落ちん点は、この世界はミクロの世界、分子レベルの世界だけやなしに個体レベルの世界もあり、社会レベルの世界もあって、生物はこれらのいろいろな世界に属しながら、そこで生物としてもっと全体論的な生活を営んでいる(という点だ)。すると生物にこれらの異なった各世界に通じる一種の切符というか、何かその間の連絡を可能にするようなものを考える必要が生じてけえへんやろか。そういうものがないと、実は生物がミクロの世界に解体されてバラバラになってしまうような気がするんや。(中略)そういう全体論的なものを考えへんことには、いまの分子生物学は分子レベルにとどまって分子生物学かもしらへんが、生物学にはなれへん違うか。」(227-228ページ)

 ここにいう「各世界に通じる一種の切符」というのは、プロトアイデンティティのことであろう。

  ● 補遺

 柴谷篤弘著『構造主義生物学』(東京大学出版会)

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