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読書ノート 生態学の今西錦司を読む

(2013.12.22) Imgp2260_1 理系出身のブログ子のそもそもの哲学的な問題意識。それは、単細胞、高等生物を問わず、

 生物はなぜ心を持つ必要があったのか

ということ。物質や、エネルギーには心がないのに、というわけだ。この場合の心とは自己決定の仕組みを指す。主体性とか、自発性とか言ってもいいかもしれない。物質やエネルギーにはこれがない。

 脳があろうが、なかろうが、生物が、環境の変化に対して自律して生き残る可能性を少しでも高めるため、つまり選択の余地を残すためではないのか。なんの手立てもなく、ただひたすら環境に鼻面を引きずり回されるだけの存在であってはならないという、目的のために、危機に際して選択できる心を持たせる必要があった。

  この意味で、生物の種は、

 変わるべきときがきたら、その中の個体とともに一斉に、しかも環境にいちいち相談することなく自力で、変わっていく

という、自然淘汰を否定した今西進化論に共感したい。種-個体一体論である。個体がまずあって、そしてやがて種が次第に形成されるというのではなく、種と、その成員の個体とが同時に変化していく。この考え方は、今西進化論の核心だが、個体の遺伝的な変異が次第に種内に固定されていくというダーウィン進化論との根本的なちがいでもある。

 この意味では、ゲノムレベルであるとはいえ、自然淘汰を否定した中立説もまたダーウィン流である。同じ自然淘汰を否定した今西説とは、否定の次元が異なっており、互いに相容れないだろう。

 ● 『生物の世界』(講談社文庫)からの抜き書き

  「生物の高等と下等とを問わず、およそ生物が、生活しなければならぬ、働かねばならぬ存在であるということは、生物がこの世界において主体的であらねばならぬということであり、認めるということもまた働くことにほかならない以上、認めるということもやはり何らかの方法をもって生物はこれを主体的に認めているのである。そしてこの主体性こそは生物が生物としてこの世界に現れたはじめから生物に具わった性格であって、この主体性のの蔭にやがてこの中からわれわれにみるような意識とか精神とかいうものの発達するべき源も潜んでいた。」(71ページ)

 「分裂前の卵細胞と言えどもそれが主体的存在であったからこそ主体的存在としてのわれわれが発展しえたのである。」(71ページ)

 ● 『私の進化論』からの抜き書き

 突然変異に続いて、正統派を支えているもう一本の柱、自然淘汰について。

 「突然変異と自然淘汰の結びつきは、突然変異の方がランダムに、無方向におこると考えるからこそ、どこかで舵をとってこれをコントロールし、その結果として生物を適応に導くような作用が、(種が変化し、進化するのであれば)存在するのでなくてはならない、ということになるのであって、この作用に対して、ダーウィン以来自然淘汰という言葉が使われてきたのである。

 しかるに私は、今日のすでに完成をみるに至った生物というものは、自然状態において、けっしてランダムな突然変異などしていない、という。もちろん、突然変異の可能性を否定するわけではないが、必要もないのに突然変異なんかしない、というのである。しかしそのかわり、必要が生じたときには、生物の方で、突然変異のレパートリーの中から、これぞという切り札を出すことによって危機を(その自発性において)乗り切ろうとする。それも一匹や二匹の個体が問題なのではない。同種の個体である以上は、危機にのぞんで、どの個体もが同一の突然変異を現すのでなければならない。同種の個体とは、そういうときにそなえて、はじめから、同じものとして作られているのである。

 だから、必要に応じて体質改善をしなければならないのは、じつは種なのである。それでうまくいかないときに、非運に見舞われるのもまた種なのである。その点で、種のレベルにおいてはつねに自然淘汰がつきまとい、適応できなかった種は滅亡し、今日われわれのみる完成された生物の種は、すべてこれ、自然淘汰の合格者ばかりである、というようなことはいえても、個体レベルにおいて、かつてダーウィンが考えたように、同種の個体間に自然淘汰のはたらく余地はありえない。同種の個体とは、(今西の上記の基本的な考え方にしたがうとすれば)この場合、方向性のある、同一の突然変異でもって、与えられた情況に同じ様に対応すべきものだからである。

 自然淘汰といっても、私がここでとくに注意しておきたいと思うのは、ランダムな無方向の突然変異と結びついて、個体レベルではたらく自然淘汰と、このような方向性をもった突然変異と結びついて、種レベルではたらく自然淘汰とでは、理論上たいへんなちがいがあるにもかかわらず、いままでのところ、このちがいを明らかにしようという企てが、ほとんど試みられていない、ということである。

 ランダムな突然変異と結びついて、個体レベルではたらく自然淘汰など、おこりえないと私はいうのだが、それがもし、いまなおいわゆる正統派進化論者のあいだで信じられているがごとく、生物の進化をつかさどるほとんど唯一のメカニズムである、とするならば、これだけ長年月にわたってこの地上に生きながらえていながら、生物はいまなおその環境に対して全然盲目であり(なんとなればランダムな突然変異でしか環境に対処できないから-原注)、適応とか進化とかいった生物にとって(いまを生きるために)最大に重要な問題を、すっかり環境まかせにしている(なんとなれば、自然淘汰がはたらいて、はじめて、このランダムな突然変異に、適応にむかう方向性が与えられるのだから-原注)。これでは、こと進化に関するかぎり、生物には主体性などかけらも認められていない。まさに唾棄すべき機械論ではあるまいか。いや、生物の主体性を抹殺して、進化を説明しようなどというのは、機械論をとおりこした一種の神秘主義でさえある。

 これに対し、適応乃至は進化に導く突然変異は、もともと環境に対する生物の側からの(自発的な)はたらきかけであると私は考える。そう考えるかぎり、環境は進化を誘発するものではあっても、進化の主導権は、どこまでも生物によって掌握されていなければならない。その結果として、適応に成功する場合も、失敗する場合も、あることだろうが、いずれの場合についても、くわしく調べれば生物の側にそうなるべきちゃんとした理由があるからこそ、そうなったのである。それを、生物からみれば、いわば中立的傍観者であるべきはずである環境のせいにして、自然淘汰というものをその(環境のこと)代弁者にでっち上げ、いちいちこの代弁者にお伺いを立てないことには、進化が説明できないというようでは、これはおかしい。生物のことは一応生物の枠内で片付けるというところにこそ、生物の学としての自律性も、認められるというものではなかろうか。」(93-95ページ)

  環境は進化を誘発するものではあっても、進化の主導権は、どこまでも生物によって掌握されていなければならないという文章について言えば、

 ヒトが樹上生活からサバンナへ重力に逆らってまで垂直2足歩行を生きるために決断したとき、アネハヅルが越冬のためヒマラヤ超えに挑むと決めたとき、シャチが南米バルバドス半島の危険ななぎさにあらんかぎりの知恵を働かせて上陸しアシカを狙うと決断したとき、

 進化が誘発されたのであろう。自発性が、環境をしてその生き物の進化を促しているのである。その結末が結果的に絶滅への道であったとしても。

 ペンギンもかつて、いろいろなところに住んでいた(「本」2014年1月号、生物ジャーナリスト藤原幸一「スーパーバードに魅せられて」)。たとえば、かつて7000万年前ごろまでは大空を飛ぶ鳥だったのに、飛ぶことをやめてしまったのも、いちいち環境にお伺いを立てた結果ではなく、みずからの決断から、そういって悪ければ、自らが置かれた環境のなかから自分の生理的な、そして生化学的にマッチした適応行動を個体群が一斉に起こした自発性からだったのだろう。その時の生き物は、いちいち個体内にそのときの環境に都合のいい突然変異が次々に起こってくれるのを待ってなどいない。それでは、個体はもちろん、種だって絶滅してしまう。

 ● 『ダーウィン論』からの抜き書き

 第4章 自然淘汰を否定したところは同じだが

の章で、今西氏は、木村資生氏の「分子進化の中立説」とのちがいについて書いている。

 「種がさきにできて個体があとからできたのでも、あるいは個体がさきにできて種があとからできたものでもなくて、種とその個体とは、生物のはじまりから同時にできたものなのである。」(43ページ)

 「遺伝学者たちの考えがやはりそう(ただ一個の生物がまず出現し、つぎにそれと同じものを複製して個体の数を増やしていったということ)なのであって、ひとつの突然変異がどこかで発生し、それが繁殖を通じて集団内にひろがってゆく。かならずしも自然淘汰を受けなくても、(ゲノムレベルでは淘汰に有利でも不利でもない突然遺伝子の変異が遺伝的浮動で種内に)ひろがってゆく場合が(ほとんどで)あるというのが木村説だが、私のように種と個体とはもともと二にして一のものであり、種が変わるときにはどの個体にも同じような突然変異が生じなくてはならない。どの個体にも同じような突然変異が生ずるものならば、自然淘汰のはたらく余地が、なくなってしまうではないか、というのとでは、自然淘汰の否定というところでは(今西と木村の説は)一致していても、話のもってゆき方がいささか異なるのである。」(43ページ)

  この場合の「いささか異なる」というのは、大いに異なるということだろう。

 「なお、どういう根拠からいったものか、はっきりしないが、ダーウィンにも自然淘汰がはたらかないのに、種の変わる可能性のあることを認めた、つぎの言葉があるから引用しておこう。「有用でも有害でもない変異が、自然淘汰のはたらきを受けずに、動揺しながらも個体群の中にとどまったり、あるいは最終的にはその中で固定してしまったりする場合もあるであろう」

(原著40ページ)。」」

 突然変異が方向性を持たなければならないという、この件については、今西氏は、

 『私の進化論』

で次のように述べている。

 「だから一度適応の線ののりだしたら、あとはあるところまで、進化はその線に沿うて直進するのでなければならない。

 このわかりきった理屈を、なぜいままでだれも取り上げようとしなかったのであるか。なぜならば、(それは)この理屈の中には、突然変異はランダムでなければならないという、進化論の正統派的主張にそむいて、突然変異が方向性を持つという、大それた仮定の承認が要求されているからである。それよりもさらに悪いことは、突然変異に方向性を認めるということになると、それがランダムであるからこそ役に立つべき自然淘汰が、もはやそこにはなんの必要もないことになり、ダーウィン以来受けつがれてきた進化論の構成は、ここにおいてその第一段階と第二段階を、まさに崩壊の危機にさらすこととなるのである。しかし、じっさいそのようなことになろうとは、(正統派進化論者としてはとても)信じがたいにちがいない」(175ページ)

 これは、いわゆるキリンの首問題である。

 これに対し、今西は『私の進化論』で次のようにまとめている。

 「種というものはそれ(生物は適応するもの)だから、いまさらなにもランダムな突然変異などという、不経済きわまる手段に訴えるまでもなく、突然変異が必要とされるような状況に立ち至った場合には、その状況に応じて必要な突然変異が現れてくるように、できているものだと仮定しよう。けれどもこの仮定のため、私はついに異端という烙印を押されることになりそうだが、いまは先を急ぐので、このことには触れない」(179ページ)

として、

 「もう一度はじめから述べるならば、生物の種は環境の変化に適応するため、まず突然変異の頻度を高める。次には現れてくる突然変異を、(生殖細胞内の閉じない多重フィードバック機構により)適応の方向に沿うようにする。たくさんの個体がいることだから、この際適応の方向にむかって、なにほどかのばらつきが生じてもやむをえない。適応の道にのって、同一方向にむかい、小きざみながらなおも突然変異を重ねてゆくうちに、種の個体は次第に新しい適応型に変わってゆく。この際も個体によって変化に多少の遅速がができることはやむをえない。かくして適応に達すれば、突然変異の頻度は落ちるが、このときすでに、種はその個体もろとも新しい種にまで変化していないものともかぎらない。これを「多発突然変異」による進化ということにしよう。」(179ページ)

 この辺については、児玉龍彦氏の『逆システム学』の

 閉じない多重フィードバック

として洗練されたものにできると思う。この文章で述べている仮定は、『逆システム学』では正しいことを教えてくれていることに注意。

 ● 『主体性の進化論』からの抜き書き

 ● 今西進化論に対する手厳しい批判

 これについては、柴谷篤弘・長野敬・養老猛編の

 『講座 進化』(東京大学出版会、1992年)の

 第6章 現代日本の生態学における進化理解の転換史(岸由二慶大教授、生態学)

に詳しい。今西進化論現象は数十年、少なくとも1960、70年代の20年間

 「鎖国」

を生み出したと手厳しく批判している。いわゆる京都学派を、世界的なサル学研究の業績をかさにきた権威主義で研究の世界水準を大きく遅らせたと批判している。

 それが、現代ダーウィニズム(生態学の分野では進化生態学)に対する「開国」に転換され始めたのは、1980年ころからだと、岸教授は明確に指摘している。この講座発刊の前後(1991年前後)、つまり、今西氏死去前後(1992年)の1990年代以降今西進化論が勢いを取り戻すことはなかった。後継者が育たなかったのが惜しまれる。

 「適応論はもはや日常的な研究道具として定着した。日本の生態学会もまた、通常科学としての進化生態学と社会生物学の国際的な流れに合流したといってよいのである。」(187ページ)

と結論付けている。

70

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