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再論 村上文学の魅力とは何か         - 解けない謎と異次元性

(2013.12.29) 以前、このブログ(2013年10月18日付)で、村上春樹氏について

 なぜ村上春樹さんはノーベル賞を(今年も)とれなかったか

というのを書いた。結論だけ言うと、

 「授与されなかったのは、失礼な話だが、文学そのものが、あるいは今ひとつ怪しげなのもだからかもしれない。少なくとも明確に著者の作品の意図が、先の論説委員を含めて読者に伝わっていない。こういえば、少し言いすぎであろうか。」

と辛らつに書いた。辛らつといっても、まだずいぶんと控えめに言ったつもりだった。が、あとになって、このブログについて、ある春樹ファンから、ものすごい抗議コメントが届いた。「今ひとつ怪しげなもの」というのにカチンときたらしい。理系のおじんに何がわかるかとかなんとか、ボロクソに批判、というよりも批難された。

 Imgp2476_1 抗議の趣旨は、世界中でこんなにいろいろな人に読まれていて、明確に著者の意図が伝わっていないなどというのはありえず、指摘は間違いであり、とんでもない認識不足の表れであるというものだった。著者の意図が明確に伝わらなくて、これほど世界各国で長年にわたって読まれ続けているはずはないではないかというわけだ。

 一理ある。

 ● 世界が読む村上春樹

 しばらく、どう答えたらいいか考えあぐねて沈黙していたら、なんと、先日、Eテレで

 世界が読む村上春樹

 境界をこえる文学 春樹文学の魅力

という番組が放送されていた。どういうわけか、司会は沼野充義(みつよし)東大教授(ロシア・ポーランド文学、現代日本文学)。それに芥川賞作家の綿矢りさ氏、春樹文学のフランス語翻訳を多く手がけているフランス人翻訳家が加わって、春樹文学の魅力について議論していた。

 確かに、この30年、世界で広く、しかも広い世代にわたって村上春樹は読まれている。

 翻訳家は、フランスで広く読まれている理由について、フランスは、デカルト以来、哲学の国であり、文学といっても論理的なものが多いという。これに対し、村上文学は、いずれも現実と非現実との間を、論理的というよりも自由に行き来している。そこにはある種のあいまいさがあり、それが魅力となっているのかもしれないと分析している。

 りさ氏は、どこにでも起こりえる普遍的な設定、都会的な設定が愛読される理由ではないかと話していた。

 ズバリ、司会者の「村上文学の魅力とは」との質問に三氏は次のようにフリップに書いていた(「」内は回答そのもの)。

 翻訳家。どの作品にも「解けない謎」、あるいは解決のない謎があること。

 綿矢氏。「人類共通の原風景」が描かれていること。

 沼野氏。現実と非現実との「絶妙のブレンド」。天才といってもいいくらいのブレンド力が魅力。

 翻訳家の指摘、解けない謎については、先のブログでも紹介したロングインタビューでも村上氏自身、つぎのように答えている(季刊誌「考える人」2010年夏号 特集=村上春樹ロングインタビュー、46ページ)。

村上「僕の小説を読み解こうとして、そこに謎なり、質問があるとしたら、その謎なり質問なりを、別の謎なり別の質問にパラフレーズすることが、いちばん正確な読み取り方ではないかと思います。読者がそれぞれ自分なりに、謎を違うかたちに置き換えていくこと。でも簡単なことではないですね。」

とやや煙に巻いている。補足として、

 村上「謎があるから解答がある。質問があるから答えがあるというものではない、ということです。これが謎です、これが答えです。これが質問です、これが解答です。これをやってしまうと、物語ではなく、ステートメントになってしまいます。(中略)

 小説というのは、もともとが置き換え作業なのです。心的イメージを、物語のかたちに置き換えていく。その置き換えは、ある場合には謎めいています。繋がり具合がよくわからないところもあります。しかしもしその物語が読者の腹にこたえるなら、それはちゃんとどこかで繋がっているということです。そういう「よくわからんけど機能している」ブラックボックスが、つまり小説的な謎ということになります。そしてそのブラックボックスこそが、小説のライフラインなんです。読者はある程度そのブラックボックスを、よくわからないなりに、自分の身のうちに抱え込まなくてはなりません。そしてできることなら、そのよくわからない性を、自分なりの「よくわからない性」にモディファイしなければならない。もし真剣に自律的に読書をしようと思えば、ということですが。」

 - 自分にとって切実な謎に置き換える。

 村上「そうです。そこに生じた質問を、自分にとってより身近な、切実な質問に置き換えること。その落差のなかにおそらく解答が潜んでいるんです。でもそういうことができる人は、かぎられているでしよう。かなりの胆力が必要とされる作業だから。」 うんぬん。

と続く。この後、「とくに短編小説の場合、謎が謎のままぽんと放りだされておしまいということがあります」とも語っている。

 こうなると、村上文学を読み解くのは、なかなか大変であることがわかる。

 ● 村上文学のオリジナリティ

 なんとなく、想像するのだが、村上文学と

 アニメ、漫画あるいはマンガ、ファンタジー

と親和性があるのはこの謎があること、そして現実と非現実を自由に行き来していることと関係しているのかもしれない。少なくとも無縁ではない。

 この番組を見て、次に思ったのは、確かに、現実と非現実を自由に行き来し、謎がある村上文学には、世界的に見回してもほかの文字文学にはない、つまり

 オリジナリティがある

ということだった。この点は、評価していいことであり、村上氏自身も自負しているような気がする。

 しかし、そのオリジナリティがノーベル文学賞につながるものかどうか、これはまた別問題のような気がする。文学賞を授与するかどうかは、その文学のオリジナリティが人間精神のあり方に新しい可能性を切り開いたかどうかにかかっているからだ。

 その意味において、因果関係のある論理明解な文学と同様、あいまいさや解けない謎を、現実と非現実の自由な行き来のなかに内包したままの文学も、あっていいとは思う。が、しかし、そんなオリジナリティのある村上文学が、肝心の人間精神のあり方の新しい可能性とつながっているかどうか、すくなくともブログ子にとっては、あいまいであり、謎であるように思える。

 オリジナリティと新しい可能性は別なのだ。直接に繋がらない。

 村上文学のオリジナルな異次元性と人間精神のあり方の新しい可能性との関係を、作品の形で明確にすることが、ノーベル文学賞への道であろう。この部分だけは論理明解でなければならない。

 あいまいな気分だけでは、文学賞の獲得は無理だと断言できる。

 番組では、せっかく、世界の文学に詳しい東大教授が司会をしているのに、こうした村上文学の基本的なスタンスについて、突っ込んだ議論がまったくなかったの残念だ。

 面白いから読んでくださいといわんばかりのミーハー談義に終始したのは、いくら教育テレビとはいっても、失敗ではないか。少なくともお粗末である。

 村上文学に切り込む鋭さがほしかった。

  ● 蛇足

 最後に、蛇足を一つ。

 2014年は、川端康成氏に続いて、大江健三郎氏がノーベル文学賞を受賞してちょうど20年。また日本人として1963年初めて、最終選考3作品一歩手前の6作品に残った三島由紀夫氏から50年がたつ。

 そろそろ日本人受賞者が出てもいい頃との声もある。番組にいう春樹文学の、あいまいさと解けない謎の魅力が、果たして魔力の文学賞を引き寄せることができるかどうか、今後2、3年注目してみたい。

 ( 写真は、Eテレ番組のテレビ画面から= 12月28日夜放送 )

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