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生きるとは 人間のコミュニケーション生態系 

Imgp1868 (2013.11.19)  耳が聞こえないのに、

 「落語が好き」

というのは、どういうことだろう。そして目が見えないのに

 「宇宙が好き」

というのも分からない。

 ● 私は落語が好き

 先日、浜松市の天林寺(禅宗の曹洞宗)で、耳と目に障害を持つ盲ろう者の福島智(さとし)さんの講演( 写真上 )を聞いて、まず、そんな感想を持った。同寺の「仏教に親しむ会」が開いたときのことなのだが、福島さんは、バリアフリー分野が専門の東大先端科学技術センターの教授。

 福島さんは、幼少の頃、眼が見えなくなり、続いて18歳のときには耳も聞こえなくなった。

 声に出して話すことはできるのだが、目が見えなくなったときは、テレビの映像が消え、音声だけになったように感じた。もっと衝撃だったのは耳が聞こえなくなったときだった。周りからまったく切り離されたような、いわば

 暗闇に放り出されたような孤立感

を味わった。周りとのやりとり、コミュニケーションがまったくできなくなってしまったことへの衝撃である。だから、自分だけでは何にもできない。

 Imgp1879 夜の海の底に向って沈んでいくような気持ちだったという。絶望しかけたこともあったらしい。自殺を意識したこともあったらしい。しかし、それでも、なんとか試行錯誤、絶望と希望の32年を

 「川の流れのように今日まで生きてきた」

と明るくいう。そこには肉体的な痛みはない。しかし、見えない、聞こえないということは

 「心が痛い、心が窒息しそうだった」

とも語った。

 ところが、その話ぶりは、両脇に「指点字」通訳の二人の女性を交えてはいたが、

 とてもユーモアに満ちた話し方

だった。まるで落語を聞いているような雰囲気である。会場の参加者も深刻な、そして切実な話なのにとても和やかだった( 写真中 )。

 心に痛みがあるからこそ、落語が好きなのだろう。心が窒息するような気分を少しでも明るくしたいという気持ちがよく伝わってきた。福島さんはSFが好きだというのも、わかるような気がする。現実があまりにも厳しいからだ。心が滅入らないように「SFを読む」。その気持ちが講演でよく伝わってきた。

 ● 私は、宇宙が好き-  結論的メモ

 福島さんは、見えないのに宇宙が好きだともいう。これはなぜなのだろう。

 それは、

 人類の存在に意味はあるか

と自らに問いかけることになるからだ。

 「そもそも宇宙において、人類にその存在価値はあるのだろうか」

という問いだ。言い換えれば、つまり、こんな自分が生きている意味はあるのかと福島さんは何度も自問自答した。福島さんは、これに対し、

 Imgp1866 もし、人類の存在に価値があるとすれば、その人類の内部に生じているささいな肉体的、精神的諸条件の違いに、果たしてどれほどの根源的な意味があるのか

というように、「障害」という現象を自ら体験してきたことをもとに思索する。その道具として、宇宙がある。だから、好きなのだ。宇宙は福島さんを勇気付けたともいえよう。

 このことは、目や耳は正常だが、声が出ない、体も動かせないという難病の車椅子の天才物理学者、S.ホーキング博士が、

 宇宙を創るのに神は必要だったか

という難問に、この数十年挑み続けている執念にも似ている。

 この思索を土台に講演で、福島さんが言いたかったことを結論的なメモの形で、ここにまとめておきたい。

 今の情報社会も含めて人間社会というのは、自然環境同様、人間と人間がつくりだす

 コミュニケーション生態系

とみなすことができる。つまり、たとえば、少数者である障害者との、あるいは同士のコミュニケーションが豊になれば、自然界の生態系がそうであるように、人間社会全体としても望ましい波及効果がある。多様な人たちとの情報の共有はより社会を活力あるものにする。

 頼りになる人が周りにいないという意味の孤独は、あるいはその人の生きる力をより強くするし、自立できるかもしれない。しかし、社会とのコミュニケーションを断ち切って孤立してしまっては、人は生きられない。これは自然の生態系から離れていきものが生存できないのと同様である。

 具体的に言えば、障害者の「指点字」( 写真中にその実例 )などのコミュニケーションが豊かになることは、障害者ではない多くの人たちのコミュニケーション生態系を多様に、そして豊かにする。逆もまた同様であろう。

 だが、忘れてはならないのは、福島さんたちが開発した指点字システムなどはあくまでもコミュニケーションの手段であり、道具に過ぎないという点だ。

 問題は、

 障害者であろうと、なかろうと、その手段、道具を使って

 どう生きるか

ということである。これこそが、苦しみと希望をかかえて人生を生きるということではないか。

 以上が、福島教授の言いたかったことであろう。

 そのとおりであると思う。

 ● 左手のピアニスト

 福島さんの言う「苦しみと希望をかかえて人生を生きる」というもうひとつの事例を、この講演会が行なわれた前日土曜日の

 夜のEテレ「左手のピアニスト」( 11月16日放送=写真。同番組テレビ画面より)

で拝見した。

 Imgp1830_1 ピアニストとして将来を嘱望されていた智内威雄(ちないたけお)さんが、利き手の右手の使いすぎで指が動かなくなってしまった。右手の障害は交通事故や戦時負傷などもあるが、この障害は局所性ジストニアといって、ピアニストの職業病のようなもので、ほとんど治らない難病だという。タイピストの職業病の腱鞘炎どころではないらしい。

 当然、ピアニストとしては挫折感に襲われたであろう。しかし、智内さんは

 挫折の向こうにも新たな可能性はある

と信じて、普通は左手は伴奏用なのだが、左手だけで演奏する極めて珍しいピアニストとして活動を再開していた。右手がダメなら、ペダルを踏む足の使い方を工夫すればいいと思い立ったのだ。左手に負担のかからない演奏法も模索していた。

 仲間づくりの手段として

 「左手のアーカイブス」

という楽譜データベース、演奏法データベースも公開していた。

 「音楽とは、弾く人の生き方を音で表現することだ」

というわけだ。

 そこには、まさに福島さんのいう

 生きるとは、人とつながること

のもうひとつの実践例があった。

 ● 与えられた今がベスト

 この福島さんや、智内さんの生き方を見ていると、ブログ子はつくづく次のように思う。

 与えられたところで、どう生きるのか、そこが勝負である。現状に不満タラタラでは、自分の無能を叫んでいるに過ぎず、しょせんどこに行っても、まともにはつとまらない。人生、迷いや希望はあれど、そして挫折があり、不満はあまたあれど、今こそがベストなのだ。

 障害者だったフランスの印象派画家、T.ロートレックは

 人間はどれも醜い。しかし、人生はどれも美しい

と喝破した。彼は、生涯、このことを絵にぶつけ続けた。

 障害者であれ、そうでない人であれ、その人生に乾杯! 

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