« この宇宙を創るのに神は必要だったか | トップページ | 芭蕉の「蛤塚」 別れをどう生きるか »

湧き水の街、大垣ぶらり散歩

(2013.11.22)  先日11月19日付のこのブログで紹介した福島智さんの講演、

 生きるとは、(人と)つながること

にならったわけでもないのだが、岐阜県在住の知人に誘われて、浜松から、湧き水の街、大垣をぶらりと散歩してきた。街のいたるところにポンプでくみ上げなくても湧き出る自噴水(最下段のスナップ)がある。しかも、飲める。これには驚いた。

 ● 戸田氏の居城

  Imgp1926_2 木曽川、長良川、揖斐川の合流点に近いのだから、初代藩主の戸田氏鉄(うじかね)の昔から、大洪水の多い街。ブログ子も小学生のころ、集落全体を堤防で囲う

 輪中(わじゅう)

という、ちょっと不思議な洪水対策がこのあたりにあったことは教わった。

 今でも、大洪水の記憶を残す場所がまちなかの戸田藩の居城、大垣城にある( 写真。手前の銅像は初代藩主、戸田氏鉄。この城は、関ヶ原合戦の前夜まで、家康を迎え撃つ西軍の総大将、石田三成が陣取るなど前線総司令部となったことで、歴史上有名。水郷の地らしく、家康は遅れていた秀忠着陣までの時間稼ぎ策として、揖斐川を決壊させるという城の水攻め作戦まで立てていたらしい。城攻め、水攻めが得意の秀吉ならこの作戦を即実行に移していただろう)。

 天守閣がやや小高いところに石垣を築いてそびえている平城である。明治の大洪水では、なんとその石垣のたもとまで水に浸かった。その痕跡が今も残っている。これでは、人々が暮らす海抜の低い城下は壊滅的な水害に見舞われたであろうことが想像できた。

 しかし、治水対策が進んだ現在は、城の外堀だった水門川も清流となり、街に涼やかな落ち着きを与えている。

 Imgp1984_2  藩政時代の面影を残す船町界隈( 写真 )は、かつてここに大洪水などあったとは思えない静かな風情を感じさせてくれる。赤い欄干の橋が周りと妙にマッチしている。

 この風流な風景たたずまいのなかに、奥の細道むすびの地記念館という芭蕉記念館もある。

 東京都江東区深川にも芭蕉記念館がある。ここを奥の細道第一句「行春や」の旅立ちの地とするならば、大垣はむすびの句「行秋ぞ」の地というわけだ(芭蕉については、別項に)。

 近くには、創業260年にもなる「つちや」という和菓子老舗があり、特産の渋柿をつかった秘伝の「柿饅頭」も販売されている。見事な店構えとその脇の屋根付きの袖壁、いわゆる、うだつ( 写真の右端 )の風格には見ほれてしまった。

● 一句浮かんで

 Imgp1937 件の知人から、帰り際、大垣特産の渋柿をいただいた。いまごろの季節、干し柿にすればおいしいという。寒風の軒先に吊るすなどの作り方まで教えていただいた。ので、我が家でつくってみた( 写真 )

  不思議なことに、歌ごころなどないはずのブログ子にも、ふと一句浮かんだ。大垣の「垣」にかけて、

 干し柿の赤み深めて行秋ぞ

 「生きるとは、つながること」というのは、具体的にはこういうことをいうのだろう。

  旅してみて、このことを実感した。

  Imgp2030

 以下は、散歩スナップ( 上= まちなかの飲める湧き水(自噴水)、下= 奥の細道むすびの地記念館にて ) 。

Imgp1911_2

Imgp1997_1_4  

|

« この宇宙を創るのに神は必要だったか | トップページ | 芭蕉の「蛤塚」 別れをどう生きるか »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/533942/58622705

この記事へのトラックバック一覧です: 湧き水の街、大垣ぶらり散歩:

« この宇宙を創るのに神は必要だったか | トップページ | 芭蕉の「蛤塚」 別れをどう生きるか »