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再考 人はなぜスポーツをするのか

Imgp1402_1 (2013.10.09)  まもなく「体育の日」だが、以前このブログで

 人はなぜスポーツをするのか

という記事を書いた(2013年8月26日付)。これを読んだある有名なスポーツ雑誌から、ユニークな内容だとしてこのテーマで寄稿を依頼された。

 しかし、スポーツに詳しくないブログ子としては、不安もあり、念のため浜松市に在住で、スポーツ社会学を専門とする知り合いの大学教授に査読とコメントをお願いした。案の定、いくつかの問題点が指摘された。

 ● 敗者の側から本質に迫る 

 前回の結論は、

 人がスポーツをするのは、勝者として「自己満足ではない達成感」を得るため

というものだった。そのために社会的な決まりごとであるルールがスポーツにはあるという論理だった。

 この結論について、一読した教授から、ズバリ

 何をもって「自己満足ではない達成感」とするのか。その先が知りたい

と指摘された。相手に勝ったという客観的な事実に基づく勝利感がそれだと言いたかったが、それだとすると、その達成感理論は、勝ちさえすればいいという悪名高き勝利至上主義と紙一重であることに気づいた。

 そのことを見越してか、件の教授は

 スポーツは勝者の論理で語るよりも、圧倒的に多い敗者側の立場で語ることが、その本質に迫ることができる

とアドバイスしてくれた。

 勝ったにしろ、負けたにしろ、対戦した相手を人間として、あるいはスポーツマンとしてリスペクト(尊敬、尊重、敬意)することができるかどうか。そこにスポーツの本質がありはしないかというのだ。

 ルール違反ではないが、アンフェアで勝ったとした場合、至上主義では、勝ちは勝ちだと意に介しない。たとえば、決勝戦を有利に戦うために、予選のある特定の試合では負けに徹するという珍妙なケースである。

 これに対し、正々堂々のスポーツマンシップにのっとる敬意主義では、そのようにしてまで勝ちたいかとなる。敬意どころか批判の対象にすらなるだろう。この場合、敗者こそが、敬意の対象としての真の勝者ということになる。

 ● 体罰は敬意主義の否定

 スポーツの本質としての敬意主義から

 人はなぜスポーツをするのか

にこたえるとすると、次のようになる。

 勝ったにしても、負けたにしても、選手が互いに相手に、その磨いた技によって、あるいは死力をつくしたそのスポーツ精神の発露において、敬意を評するため

ということになる( 注記 )。そのために一定のルールがある。

 このように、スポーツの本質を問うことは、プレイヤーの人間性を問うことなのだと気づいた。

 これこそ、勝てばいいという偏狭な勝利至上主義をのりこえる要諦であろう。

 指導者自らプレイヤーに敬意を払わないという点で、スポーツ系部活に多く、また今も根強い体罰は、敬意主義を軽視、はっきり言えば否定した結果なのだ。敗者に敬意を払わない指導者というのは、きっと対戦した勝者にも敬意を払わないであろう。スポーツはルールであり、人間性などは関係がないともいうだろう。そこにあるのは勝てばいいという短絡的な至上主義だけなのだ。

 このように、その分野の専門家から問題点を具体的に指摘されることのありがたさを身にしみて感じたことを付記しておきたい。

 ● 注記

 スポーツの本質としての敬意主義の典型的な具体例として

 プロ野球日本一を決める最終戦最終回、広島対近鉄のいわゆる

 江夏の21球

がある。勝者の広島、敗者の近鉄ともに、技と知恵に死力を尽くし、スポーツの神髄をものの見事に体現してみせた。わかりやすい言葉で言えば、互いに「敵ながら、あっぱれ」と賞賛しあったことだろう。

 これに対し、高校野球甲子園での対松井秀喜徹底4球作戦

は、果たして敬意主義にかなうだろうか。アマチュアとはいえ勝利を追求するわけだから、真っ向勝負だけがすべてではない。したがって敬意主義に反するとまではいえないのではないか。

 さりとて、スポーツの神髄がここにあるとまで考える人は多くはあるまい。ルールを守っているのに、なぜ批判されるのか。

 とすると、ルールとは別の、倫理学の一部であるスポーツ倫理の問題にかかわることになる。スポーツの本質としての相互の敬意主義が成り立つには、ルールを守る以外に具体的にどんな倫理が求められるのか、という問題である。

 簡単に言うと、勝ち方がさわやかではなかったとか、潔くなかったとかいういかにも日本人らしい情緒的な問題として片づけてはなるまい。分かりやすく言えば汚い勝ち方ではなぜダメなのか、掘り下げて合理的に考えようということだ。

 そこで、もう少し視野を広げると、一定のルールにのっとり勝利を追求するスポーツの場合、正直性など人間性の倫理学と矛盾することは、おおいにあり得る。たとえば、「和をもって尊し」とする倫理とは違って当たり前。

 とすると、その矛盾を容認することのできる基準、つまりスポーツ倫理独自の考え方が必要になるという点に行き着く。それは何か、という問題である。

 仮に、先の松井選手5連続敬遠を正当化するとしたら、スポーツ倫理にどんな新しい考え方が必要かという問題である。

 また、逆に、そんな新しい考え方は必要ではない、単に監督の、あるいは選手の人間としての倫理性であるとするならば、通常の倫理学におけるスポーツ倫理の独自性とは何か。その存在意義そのものが問われることになる。スポーツ倫理の不要論である。

 不要、有用論には、そのスポーツ倫理が職業倫理としての

 技術者倫理や科学者倫理

とどう違うのかという問題もある。

 はっきり言えば、スポーツ倫理の独自性とは何か。ほかの倫理学にはない独自の概念とは何か。そう言い換えていいかもしれない。技術者倫理では公衆の安全を最優先するという原則がある。科学者倫理では、社会に向って分かっていることと分かっていないこととを明確に説明する責任の原則がある。医学倫理では、医師の説明と患者の納得というインフォームド・コンセントの原則だろう。

 漠然と言われている、ルールにのっとり正々堂々というあのスポーツマンシップの合言葉とは、具体的に何を指すのか。

 松井〝5連続敬遠事件〟から20年。そして頻発する体罰事件。

 勝利至上主義が根強いなか、人はなぜスポーツをするのかというその本質をめぐる問いかけは、今も続いている。

 ● 補遺 2013年10月12日記

 10月12日夜のBS1

  ドキュメンタリーWAVE 選

  W杯予選の最も熱い日 セルビア対クロアチア

というのを見た。

 冷戦終結とともにタガが外れ民族対立が表面化、激しく対立する怨念の両国。ボスニア=ヘルツェゴビナの内戦から20年、激しい憎しみのサッカーから、お互いを認め合う冷静な姿勢もみられるようになったゲームへと変化しつつあるという。異常なまでに勝ちにこだわる観客席はともかく、選手たちは、互いに試合中、挑発することを極力控えるという冷静さを保ったことが紹介されていた。

 引き分けに終わった試合だったが、スポーツの本質がどのようなものであるかをうかがわせる具体的な事例であろう。こうした変化は勝ちさえすればいいという勝利至上主義だけからではとうてい説明はできない。試合を通して、相手の存在を認め、そこに敬意を払ってこそ、白熱した試合中でも冷静さを維持することができるからだ。そんな感想を視聴後、持った。  

 (写真は、インテル対ローマ(セリエA)。 2013年10月14日放送のBS1テレビ画面より)

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