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日本の科学者たちはアメリカと闘った

Dsc02364 (2013.09.30)  先日のこのブログに、戦後の日本人は

 何のためにも闘ってこなかった

と主張するオリバー・ストーン監督の話を、好感をもって書いた。

 だが、必ずしも、そうではなかった。

 先日、NHKのEテレで放送された

 海の放射能に立ち向かった日本人

という番組で、そのことを知った。

 ● 死の灰と闘った三宅泰雄

 1954年3月の第五福竜丸「死の灰」事件(焼津市)直後、水産庁のビギニ調査船「俊鶻丸(しゅんこつまる)」に乗り込んだ科学者たち20数人は、実験の行なわれたビギニ環礁で放射能汚染状況を調査、その海洋汚染の実態をもとに水爆開発にひた走るアメリカとどう闘ったかというドキュメンタリーである。

 その科学者たちの先頭に立ったのが、気象庁気象研究所の三宅泰雄氏だった(当時は中央気象台研究部)。三宅氏の部下には、死の灰の詳細な分析結果を世界で初めて公表したことで知られる猿橋勝子氏がいた。

 この結果については、事件のちょうど1年後の1955年3月

 「ビギニ海域における放射能影響調査報告」( 写真上 )

というタイトルの水産庁調査報告書(代表= 三宅泰雄)としてまとめられた。実に素早い報告であることに驚くが、内容がまた驚くべきものだった。

 日本近海の放射性セシウム137は、アメリカが主張するような希釈拡散効果はなく、アメリカ側主張より数10倍も高濃度だった。放射能物質は薄まらず海流に乗ってそのまま近海にまでやってきていたというメカニズムまでが明らかになった。

 ● かつて学術会議も立ち上がった

  日本の科学者の国会とも言われる日本学術会議も動いた。

 Imgp1162_1 それが、

 「放射性物質の影響と利用に関する日米会議」

という報告(1954年11月、写真中)である。作成したのは、

 日本学術会議放射線影響調査特別委員会。

 この日米会議の席上、三宅氏が上記の調査結果を公表、アメリカ側をたじろがせたことを番組は紹介している(写真下)。

 すくなくともこの時期、1950年代半ば、科学者たちは堂々、アメリカと闘っていたことがわかる。

 この背景には、国内約3000万人から反核署名が集まり、ビギニ事件から1年後の1955年8月、広島市で原水爆禁止世界大会の第一回大会が開かれるなど反核運動が盛り上がったことがあろう。科学者たちを後押しした。

 ● かつては原発安全神話はなかった

 Imgp1160_1 科学者たちもまた、これにこたえた。

 「世界は恐怖する 放射能の正体」(亀井文夫監督、1957年)

も、こうした雰囲気の中でつくられた映画といえる。「死の灰」と闘う科学者たちの姿を追ったものである。

 こうした騒然とした中で、日米は

 日米原子力研究協定(1955年11月)

という名の原発同盟を締結。その後、日本は次第に対米従属関係を強化していく。こうした動きの一環として、根拠なき原発の安全神話が生まれてきた。

 つまり、

 かつては安全神話などはなかった

ということを忘れてはなるまい。むしろ、かつて日本の科学者たちは、原水爆の反核のために、死の灰の正体を世界に知らせるために、それらを振りまくアメリカと闘っていた。

  ● 補遺 

 俊鶻丸がビギニ環礁を調査していた時期は、アメリカ国内では首都、ワシントンで、いわゆる原爆の父、

 オッペンハイマー裁判(1954年4-6月)

が開かれていた時期とかさなる。赤狩りが吹き荒れるなか、R.オッペンハイマー博士は、水爆開発を遅らせ、ソ連を優位に立たせた共産主義者との嫌疑がかけられていた。結果は〝有罪〟。機密文書閲覧資格停止の撤回は認められなかった。

 このように第五福竜丸事件をめぐる背景には、アメリカがソ連をしのぐメガトン級核兵器開発に成功するなど、水爆開発競争にようやくソ連に追いついた矢先の緊張した国際情勢がある。つまり、単なる日本国内の事情や、ましてや単なる科学論争では解決できない事情があった。

 このことが、原子力の平和利用としての原発導入においても、対米従属、対国内政治従属を強いられる原因となっていった。つまり、国内政治が対米従属であるがゆえに、国内科学界もまた国内政治に従属を強いられたのである。ある意味、科学と政治の不幸な出合いとなった。

 わが国で初めての原子力予算が科学界には寝耳に水の突然に、しかも巨額で1954年3月の国会で成立したのは、この意味で象徴的な出来事だった。

 ● 注記

 31pcc551dgl__aa190__2 三宅泰雄氏には

 『死の灰と闘う科学者』(岩波新書青版、1972年)という著書がある。

 (写真は、いずれもNHK番組「海の放射能に立ち向かった日本人」の放送画面より)

 この本には、実際にビギニ環礁まで調査船で出かけていった岡野真治氏など22人の科学者の名簿が掲載されている。ここに再掲しておきたい。

 Imgp1286

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