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科学は幻想か 脳と数学と物理学

Imgp1456_1 (2013.10.21)  毎月楽しみにしている読書人の雑誌『本』(講談社)の最新11月号に

 科学は「幻想」か

という対談が載っている。理系と文系の対談なら、いくらでもあり、また、ありきたりというか、お定まりのやりとりになりがちで、まあ、面白くもなんともない。しかし、宇宙論の研究者、大栗博司さんと、脳科学者の池谷裕二さんという二人の先端科学者がこのタイトルでやりあうというのだから、プロ同士がどう切り結ぶのか、興味がわいた。

 終始、若い池谷さんのほうが押し気味だったのが、印象的だった。

 池谷さんによると、人間の脳は世界をあるがままに写しとって見ているのではない、脳というものは実に思い込みが強い、見たものを勝手にゆがめて解釈してしまうという。その上で、池谷さんは

 「そんな独りよがりで偏屈な人間の脳が考え出した数式というものが、なぜこの世界の自然現象を案外と記述できるのか、そのことが不思議でしかたがない」

と大栗さんを挑発する。すると、大栗さんは

 「それは数学の力」

と受ける。しかし、池谷さんは、納得せず、

 「しかし、数学は人間の脳がつくりだしたものであって、本当にそれが正しいという保証は、世界のどこにもない」

と食い下がる。大栗さんも、これには参ったのか、ぼくのほうこそ誰かに聞いてみたいと、たじたじなのである。

 ただ、あえて池谷さんの論法を批判するとしたら、脳の思い込みやゆがみは、論理性に関することではない点である。大栗さんの話は脳の論理性を言っている。

 最後に、池谷さんは、大栗さんを断罪するかのように、

 「(自然を対象にする)科学は、どこまでいっても結局は人為的な営み。結局は、科学はヒトの脳の産物にすぎない以上、脳の思考癖という境界線を越えることはできない。もし、宇宙人がヒトの科学を見たら、ひどく非科学的なオカルトに映るかもしれない」

と述べ、大栗さんをしどろもどろにさせ、黙らせてしまった。

 だから、科学なんて、幻想ではないのか、ということになる。

 ● 鍵の「脳は自然の一部」

 この不思議さの謎を解く鍵は、脳は自然をあるがまま写し取らない、思い込みが強い、勝手にゆがめて解釈することも含めて、

 脳は自然の一部

ということに気づくことである。脳も自然の一部と考えながら、上記の二人のやりとりを読んでみると、なんら不思議なことはない。当たり前のことを言っているに過ぎないことがわかる。

 池谷さんの最後の宇宙人うんぬんも、宇宙人の脳も、ヒトの脳も自然の一部と考えれば、互いにオカルトと見えたとしても、互いになんら矛盾したことを記述しているわけではないことがわかる。

 宇宙人とヒトとは、ともに自然の一部であり、その脳の構造と機能が違っているだけであり、それにともない異なった自然観を形成することがあるいはあったとしても、それは違った視点、見方から自然を記述しているだけで、互いに矛盾はしない。

 ただ一つ前提とするのは、

 自然は自己矛盾、つまり自己撞着を含まない

ということだけである( 補遺 )。これを少し分かりやすく言えば、自然界は数学でできているということ。ここから、自然の一部である脳内の論理も無矛盾性を本旨とする数学でできていることになる。

 この無矛盾性さえあれば、宇宙人の脳からつくった科学も、物理も、数学も、ヒトの脳からつくったそれらとはなんら矛盾しない。両立する。

 この前提をおくことは、自然の一部である脳の機能としての論理性についても自己矛盾がないことを意味する。入力あるいは出力に関する脳の情報処理においては錯覚や錯視、錯聴はあっても、その間の関係を決める脳内論理には思い込み論理や歪み論理といった錯論理なるものはない。なぜなら、あれば、必ず脳の構造と機能において自己矛盾を引き起こすからだ。

 こう考えてくると、池谷さんが

 科学はどこまで行っても脳の思考癖という境界線を越えることはできないから、科学は幻想

といいたいとしたら、それは池谷さんの論理の飛躍なのだ。なぜなら、科学は脳の産物なのであり、境界線をこえるもなにも、そもそも脳の思考癖という自然の境界線などないし、こえる必要もないのだ。

 要するに、人間の脳が生み出した科学や数学の法則は、つきつめれば、脳を媒介にした自然の産物そのものだということになる。

 こう考えれば、科学において数学が不条理なまでに有効なのは不思議でもなんでもない。ともに自然の一部だから、有効であってもなんの不思議もない。ブログ子に言わせれば、有効ではないほうが、むしろ不思議である。

 ● 進化段階に応じて「科学に限界」

 ところで、大栗さんが、若い池谷さんの論法になかなか名答を出せなかったのも無理はない。

 池谷さんは、解剖学者、養老孟司さんの名著

 Imgp1457_1 『唯脳論』( ちくま学芸文庫、注記 )

と同じ立場に立っていたからだ。

 この本によると、養老さんは次のように述べている。

 「要するに、あらゆる科学は脳の法則性の支配下にある。それなら、脳はすべての科学の前提ではないか」

 つまり、人間を含めた生物の進化段階に対応した脳の構造とその機能の法則性が、その生物にとっての科学の限界を決めているというわけだ。むろん、先ほども述べた理由により、それらの間の科学には互いに矛盾は生じない。

 別の言い方をすれば、現在の人間の進化段階程度では、自然界の法則の発見には限界がある。自然界のすべての法則を知り尽くすことはできない。生物はその進化段階に応じた自然法則しか原理的に知りえない。

 このことをもって、科学は幻想というのとは間違いである。

 非現実的な、という意味の幻想ではなく、知りえることには一定の限界があるということだ。

 米科学者たちの科学知識を総動員してつくりあげた、いわば科学の粋の原爆が広島で炸裂し、20万人もの日本人が死んだのは幻想ではない。今の人間が知りえる科学の限界内で起こった現実である。決して「宇宙人が見たら、ひどく非科学的なオカルト」などではない。宇宙人も納得する現実だろう。

 話を一般化して、量子論と相対論を統一する統一理論が現在、捜し求められているが、現在の進化段階程度の人間の脳では、たとえ新しい数学が構築されたとしても、到達できるとは限らない。数千万年後の進化した人類の脳の構造と機能があって、つまり、その進化段階の論理があって初めて可能なのかもしれない。

 たとえば、進化した人間には3つの大脳があり、それらが互いに連携しながら情報を同時並行的に処理する進化した人間を想像すればいいかもしれない。しかし、そこでの論理は現在の人間の論理性とはなんら矛盾はしない( 注記2 )

 Imgp1467 時間も空間も仮定しない数学の論理が統一理論に必要だとすると、現在の人間の脳では、たとえ統一理論が存在したとしても、その理論の基礎方程式の導出は不可能であろう。空間も時間も幻想であるとすると、それらを生み出すより本質的な「何か」の枠組みに基づいた数学の構築が必要になる。ひょっとすると、その枠組みという考え方自体も取り払う必要があるのかもしれない。

 それはともかく、池谷さんは、養老さんのような死んだ人の脳ではなく、生きた生身の人間の脳を研究している。それを踏まえて論を展開しているのだから、さすがの大栗さんも、論破するのは容易ではなかったのだろう。

  (最下段の写真=大栗博司『超弦理論入門』と池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』。いずれも講談社ブルーバックス = 浜松市の書店で)

 ● 注記

 『唯脳論』によると、情報の送り手も、つまるところ脳なら、受けるのも脳である。だから、「すべてを脳全体の機能へあらためて戻そうとする試みである。だから「唯脳論」なのである。」

と書いている。

 また、同書は

 われわれの遠い祖先は、自然の洞窟に住んでいた。まさしく「自然の中に」住んでいたわけだが、現代人はいわば脳の中に住む。伝統や文化、社会制度、言語もまた、脳の産物である(からだ)。

とも書いている。

 脳を考えるということは、脳の構造とその機能を考えることだが、

 自分の脳について考えているのは、脳自身である

という、いわばコンピュータープログラムの

 再帰性(リカーシブ)プログラム

のような難問があることも確かである。コンピュータプログラムの場合、無限ループに入り、ダウンするケースであり、手に負えないという意味の「異常終了」となる。

  ● 注記2 数学的な「知の限界」について

  このような進化論的な限界は、いわば「生物学的な知の限界」というべきものである。これに対し、いかなる進化段階にあっても成り立つ

 数学的な「知の限界」

というものも存在することに注意すべきである。数論の論理体系における

 ゲーデルの不完全性定理

によると、どんなに巧妙な論理体系をつくったとしても、真であるにもかかわらず、その体系内では、そのことを証明することができない命題が必ず存在する。不完全性というのはここから名づけられたのであろう。この不完全性定理は、どんなに進化した生物が構築した高度な数学でもかならず成り立つ。いかに高度でも、現在の数学とは矛盾することはないからだ。

 とすると、この事実は、どんなに進化した人類でも、宇宙のすべての真理を手に入れることはできない可能性があることをしめしていることになる。証明できない真の命題に基づく物理現象が宇宙でおきている場合がそれである。

 数学上の問題でも、たとえば、未解決のリーマン予想(ゼータ関数のすべてのゼロ点は座標上で一直線に並ぶという予想)がもし、これに該当するとしたら、現在の人類はもちろん、如何なる高度な知能を持った宇宙人の数学を駆使しても、予想は決して証明できないことになる。

 今はただ、上記に述べたような進化論的な「知の限界」内の問題であり、必ず、人類は予想が真か偽か、どちらかであると信じて、過去150年以上にわたって数学者たちは挑戦を続けているにすぎないのかもしれない。

  20世紀の大数学者、D.ヒルベルト(数学基礎論)は、数学においては

 知るべきことはすべて知ることができる

と誇らしげに語った。しかし、数学といえども、そこには「知の限界」があることが明らかになった。そのことを数学自身が証明してみせたところに数学の偉大さがあると言えよう。決してわからないということがわかったのである。

  ● 補遺

 科学、とくに物理学の場合には、合理的な論理は存在するという意味のこの無矛盾性のほかに、一定の原因には必ず一定の結果が伴なうという因果律が存在するという仮定が加わる。この因果律がないと、そもそも物理法則は宇宙にはないことになり、神秘主義に陥る。

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コメント

私は、数学も物理も人間の作り出した形のない「物(道具)」だと思ってます。その(この)時代の言葉で言えばシミュレータです。巧くシミュレートする場合は「理解した」と感じ、シミュレータの機能の限界でうまくいかない場合は「理解できん」と云う事だろうと思います。脳自体がシミュレータの一種で、数学はその機能の一部です。日常生活レベルでは、ほとんどシミュレートが巧くいくので、なんでも「理解できる」ように思いがちです。数学はシミュレータの機能の内での探索をしているようですが、物理はそれを内蔵して自然界をシミュレート(理解)するもののように感じます。相対論辺りからシミュレータの限界が現れ始め、量子論では「理解」に混乱が感じられます。それ以前でも多体問題とか非線形問題は巧くいきません。ここが脳と云うシミュレータの機能の限界ですが、他に使える道具がないので、自然のシミュレートを半ば放棄して、数式の操作の中に閉じこもっているのが、多分、多分ですが現代の弦理論なのかな?
 

投稿: ms | 2013年10月24日 (木) 10時00分

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