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なぜ体罰はなくならないか その社会背景

(2013.07.23)  大阪市立桜宮高校のバスケットボール部顧問の教諭から体罰を受けた同部キャプテンが自殺するという痛ましい事件が起きてから半年。

 大阪だけでなく、ブログ子が暮らす浜松市の教育委員会の最近の調査(全小中学校と市立高校対象)でも、この1年間に体罰と認められる出来事が181件も発生している(写真下 = 2013年7月12日付中日新聞)。中学校では半数以上が部活動中の体罰だった(補遺)

 ● 学校教育法では明確に禁止

 学校教育法(第11条)は、明確に体罰を禁止しているのに、そして民事裁判、刑事裁判の判例でも、身体的な苦痛を伴う体罰は、学校教師に与えられている懲戒権を逸脱した違法行為であるとされているのに、

 Dsc0205620130721 なぜ体罰はなくならないのであろうか。

 それどころか、

 言っても聞かない生徒に対する体罰は必要

と本音では考えているスポーツ指導者は少なくない。保護者ですら、いわゆる必要悪を容認しているフシがある。

 身体的な苦痛を伴う体罰であっても、それは懲戒権行使の範囲内という意識である。

 ● 浜松学院大教授が問題提起

 果たして体罰は指導者にとって必要なものなのであろうか。また、その社会的な原因や背景はなんなのか。

 この問題についてゼミ形式で話し合う場が、ブログ子も参加するこじんまりとした学習会で話し合われた。講師は自身もサッカー選手であり、指導者でもあった大野木龍太郎氏で、浜松学院大学教授(スポーツ社会学)。

 学校の国語の授業や数学の授業では、まず体罰問題は起きない。なのに、なぜ体育の授業や運動系部活では体罰が頻発するのであろうか。同氏のこの問題提起から、ゼミナールは始まった(写真上)。

 何が違うのか、参加者は自らの体験をもとに、現在のスポーツに対する感想、受けた体育授業に対する率直な意見が飛び交った。討論中心というゼミ形式のいいところであろう。

 ブログ子は、体罰に走るのは、教師の不満のはけ口、裏切られた期待に対する怒りが直接の原因であり、教育効果とは無縁であると述べた。ただ、どういうことに対する不満なのかは気づかなかった。

 ほかの参加者からは、

 体罰は指導者の思考停止ではないか

あるいは、

 体罰は練習量の「質より量」主義の結果ではないか

などさまざまな意見が披露された。ここでも、なぜ思考停止になるのか、何のために練習量が問題になるのかという点にはうまい解答が出てこなかった。

 言い換えれば、いちいちもっともであるが、国語や数学の授業やサークルでは体罰がないのに、なぜ体育授業や運動系部活だけに体罰が頻発するのかという理由を説明するのには決定力に欠ける。

 この点については、何のために学校でスポーツをするのかという目的をはっきりさせることなしには、解明できないということが、討論を煮詰めるうちに段々わかり始めた。

 ● 勝利至上主義が第1の原因

 討論の結果、原因が大きく分けて二つあることが浮かび上がった。

 その第一。

 スポーツとか、体育というのは、単に身体を動かすだけではないという点だ。ルールにのっとってプレーするという性質が不可分につきまとう。今の体育や部活の目的は体を動かした結果がどうなったかという結果が目的化している。ここに問題がある。

 つまり、 授業や部活など今のスポーツ教育の目的が勝利至上主義にある。このことが指導者をあせらせ、思考停止の「怒りの体罰」に走らせる社会的な要因

なのだ。

 至上主義は「選手」という言葉からもうかがえる。単なるプレイヤーではない。結果がすべてという勝利至上主義ではない、たとえば楽しむ同好会には体罰はないのはこのためだ。

 国語や数学でもスポーツ同様、反復練習はあるものの、勝利至上主義ではない。必ずしも100点を取る必要はない。50点でもすごいことがあるし、70点でもクラスでは下位ということもあるだろう。

 しかし、身体を使うスポーツの場合、勝ちか、負けか。ゼロか100点か。どちらかなのだ。こうなると、指導者の指導力が、国語や数学の場合に比べて格段に比重が高くなるのも無理はない。このことも指導者のプレッシャーとなり、体罰がなかなかなくならない原因だろう。

 それでは、このような勝利至上主義はどこから来るのか。

 勝利至上主義に走ることについて、学校体育教師や部活顧問だけを責められない。そこには指導者個人の資質のほかに社会的な要因があることを忘れてはなるまい。むしろ学校を取り巻く社会環境が大きい。

 具体的にいえば、国民体育大会では開催県は天皇杯/皇后杯を獲得するよう事実上義務付けられている。スポーツ根性アニメ放送が理想のスポーツ教育として、繰り返し垂れ流される。さらには五輪マスコミ報道でも金メダル至上主義が開催のたびにあおられる-などだ。

 ● 第2の要因は地域スポーツクラブの未成熟

 体罰がなかなかなくならない第二の社会的な原因は、

 日本では学校以外に活動できる地域スポーツクラブが未成熟

という事情がある。ここが欧米とは決定的にことなる。

 学校スポーツでしか、スポーツができないという閉鎖的な環境が体罰を容認する風潮を助長し、生徒も自殺に追い込まれるという不幸な事態を招いている。

 Image180020130712 これに対し、国語や数学は塾通いという形でいくらでも生徒の能力を伸ばせる。授業が社会に対し開放系であることから、学校教師の負担はその分軽くなり、体罰などという問題は生じない。

 生徒たちも学校以外の自由選択の余地がある。能力に応じて、ある意味のびのびと自己の事情に合わせて学び続けることができる。 

 別の言葉でいえば、体育や部活の勝利至上主義のあまり、

 日本ではスポーツを文化としてとらえる考え方が欧米に比べて根付いていない

ということになる。ルールを重んじ正々堂々の戦い、チームプレーのなかから連帯感を育てるというスポーツ文化の基本となる土壌が醸成されていない。

  生徒だけではなく、体育指導者自身にとっても、身近にスポーツクラブがないことは不幸である。自分の経験以外に他者から学ぶ機会がないからだ。

 指導が我流というか、ひとりよがりになり、客観視できない。これではいくらがんばっても指導に限界があり、ついつい体罰という思考停止になるのも無理はない。

 日本の学校スポーツにはこの意味での視野の狭さがあり、ブログ子にはなかなか学校スポーツの指導者を、たとえば人生の師として尊敬したいと思わせる人材がみつからないのもゆえなしとしない。

 ● 指導者は被害者の面も

 さらにひるがえると、未成熟という問題には、スポーツが明治期に西欧から輸入され、学校教育に取り入れられたという歴史的な事情もあろう。ルールを伴うスポーツ発祥の西欧とは違って、日本ではスポーツは学校でするものという意識、思い込みからいまだに抜け切れていない。

 そこから体育教師や指導者は閉鎖社会の中で重い責任と期待を背負わされていると感じるようになる。

 その意味では、指導者は社会的な被害者ともいえる。

 その典型が、体罰すれすれのしごきが絶えない高校野球の監督であろう。とりわけ、甲子園を目指そうという場合、地方大会も、全国大会も、気の抜けない勝ち抜きのトーナメントであり、監督の力量と采配が決定的にものをいう。

 毎回、必ず100点を取らなければならないという、そのプレッシャーのものすごさについては、

 高校野球は監督で決まる

という監督への連続インタビューにあますところなく語られている(「週刊現代」2013年7月27日号、ノンフィクションライター、中村計)。これを読むと、県外から有力選手を多く引き抜く、いわゆる〝外人部隊〟がなくならないのも無理はないと思えてくる。

 ● 学びあう地域スポーツクラブをもっと

 このように体罰問題には、体育や部活指導者の資質や、学校のあり方だけでは解決しない社会的な原因がある。

 となると、スポーツ文化を根付かせようという社会の意識が変わらない限り、勝利至上主義を改めない限り、体罰問題は学校関係者だけでは解決できないだろう。古くて新しい構造的な問題なのである。

 その意味で、体罰の根本問題で問われているのは、関係者はもとよりだが、わたしたち国民ひとり一人の意識改革なのである。

 そのことをゼミ討論は具体的に教えてくれた。

  ● 補遺 文科省調査 静岡県内=231件

 一方、2013年8月9日付でまとまった文部科学省のすべての国公立と私立学校を対象にした小中高体罰調査では、

 静岡県は231件(昨年2012年度)。

 うち、国公立では173件、私立校は58だった。中学・高校では「部活中」がもっとも多かった。

  浜松市と文科省の調査結果とは必ずしも整合性がない。これは、なにをもって体罰というか、なかなかその基準が難しいことをうかがわせる。しかし、それでもおおよその傾向、つまり部活中に多発しているという傾向に変わりのない点が注目される。

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