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2013年7月

第4の創世記へ iPS細胞の「影」

(2013.07.31)  新聞界にいたことのあるブログ子は、新聞の片隅のベタ記事、それも「止め記事」のこわさを何度も経験している。こわさとは、今はどうでもいいような小さなニュースなのだが、それがいつしか大ニュースとなってあらわれてくる予感がするという意味だ。

 ● ベタ記事のiPSシンポジウムに注目

 今でも、ベタ記事をていねいに読み、そのニュースが将来の何を合図しているのか、半日も考えることがある。

 つまりは、

 ベタ、ないし止め記事は、あすの大ニュース

というわけだ。

 Image1809ips20130727 そんな記事を先日みつけた。写真上がそれ。7月27日付中日新聞朝刊の総合面に、せまいところに押し込まれるように

 京大でiPSシンポ

と出ている。見出しも入れてわずか20行ちょっとの記事。

 iPS細胞づくりでノーベル賞を受賞し、シンポジウムを主催した山中伸弥教授。人間のiPS細胞から自分の精子や卵子をつくったり、ブタの体の中で自分用の臓器をつくったりすることができる。

 このことについて

 「(その)新しい技術を社会が受け入れるか(どうか)は、研究者や倫理学者ではなく、社会全体で決めること」

と強調したと記事は伝えている。

 つまり、その言わんとするところは、新しい技術は臨床段階目前まで来ているといいたいのである。社会全体で考えなければならないほど、iPS細胞研究は、倫理学者の饒舌な言葉遊びの段階はとっくに過ぎているというわけだ。その通りだと思う。

 Image821ips20130327 事実、目の網膜の難病治療では、来年夏にも臨床治療が行なわれることが政府によってつい最近認められた(写真中=  2013年3月27日付毎日新聞朝刊)。理化学研究所が行なうもので、世界で初めてのiPS細胞の臨床応用である。

 iPS細胞の機能から、人間の臓器をつくったブタは、体質はもともとのブタというよりも人間の体質に近くなるという。

 iPS細胞の持つ「光」部分の無限の可能性は否定しない。

 しかし、目の網膜組織や心臓などの臓器ならまだしも、脳や神経組織までブタでつくれるとなるとどうなるのだろう。

 人間の脳を持ったブタがつくれるのだろうか。同時に声帯という器官もつくりだされれば、人間のように話し、声も人間のように出すブタができることになる。

 いわんや生殖なしに、卵子も精子も自由につくりだされるとなると、人間の進化というのはどうなるのだろう。生殖機能がなくなっても、人類は永遠に存続できる。

 ● 内閣府で基本指針の見直し

 こう考えてくると、山中教授の言う「社会全体で決める」には、どういう手続きを踏む必要があるのか、早急に詰める必要がある。

 現在、内閣府の総合科学技術会議が専門調査会で、iPS研究のこれまでの指針を、見直しも含め再検討している。脳や生殖細胞も含めて、今年中にもこの新しい事態に対応するため、臨床も含めた新たな基本方針をまとめる(注記)

 この事実を国民の多くは知っているのだろうか。そして、これでいいのだろうかという疑問も出てくる。

 ● 生物学革命の世紀に

 Image18152 この半世紀、

 生物学の革命

といわれた時期がこれまで3回あった。

 旧約聖書の冒頭のアダムとイブになぞらえて、いずれも第二の創世記といわれたりもした。

 最初は、1950年代の生物の設計図、DNAの構造の発見。第二は、1970年代の体外受精(試験管ベビー)技術の確立、第三は、1990年代のクローン羊、ドリーの誕生の時期-である(写真下= 左はA・ローゼンフェルト著(早川書房刊、1972)、右はI・ウィルマット他著(岩波書店、2002))。

 そして、今、iPS細胞の時代という、

 いわば第4の創世記の時代へ

突入しようとしている。

 一言で言えば、

 21世紀は生物学の時代

といわれているのも故なしとしない。

 だが、しかし、私たちの社会は、これにうまく対応する仕組みをいまだ持っていない。ここに問題がある。

 ● 一定の歯止めは必要

  作家で精神科医でもある帚木 蓬生が、今から20年も前に

  『臓器農場』(新潮社、1993年)

で描いた「影」の世界を回避する知恵を、今こそ出さなければなるまい。どこかで「影」の部分の歯止めを設ける必要があるだろう。それは世界に先駆けてiPS細胞を発見した日本の責務でもある。

 山中教授は、国際シンポでそのことを訴えたかったのではないか。

 そんなことを、かのベタの止め記事は語っているように思う。

  注記 2013.08.01

   8月1日夜のBSニュース(NHK)によると、

 内閣府の総合科学技術会議の生命倫理専門調査会が

 「動物でヒトの臓器」をつくる基礎研究を、一定の条件のもとに認める報告

をまとめた。

 一定の条件とは、人間の尊厳を損なうことがないというややあいまいな歯止めのこと。ヒトの脳を動物体内でつくりだすことは明らかにこの条件を満たさない。

 しかし、ヒトの精子や卵子はどうであろうか。あなたは、ブタがつくった精子と卵子から生まれたと言われた場合、人間の尊厳は損なわれないか。それとも平気か、という問題に帰着する。

  もう少し、根本的な問題点としては、

 人間の尊厳と、より広い生命の尊厳との関係をどうとらえるか

というのがある。どこまで人間の尊厳、あるいはわがままを優先するのか。ブタには尊厳などないとしていいのか。これは難しい。

 パンドラの箱を開けてしまわないよう、具体的な指針づくりではもっと詰めた論議が必要だろう。研究指針づくりの前に、広く国民から意見を求めることが必要と考える。

 今後、文部科学省がこの容認方針をもとに研究指針を作成するという。具体的にどんな歯止め策を打ち出すのか、注目したい。

 ● 参考論説

 現在の問題点について解説したものに、NHK解説委員の時論公論、

 http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/162447.html

が参考になるだろう。

 ( 写真最下段=  日本におけるiPS細胞の中核的な研究機関。科学技術振興機構「JSTnews」最新号<TOPICS>より )

   Image1493ips

 

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浜岡原発、段丘域の活断層再調査しっかり

Image180720130727 (2013.07.28)  中部電力が、南海トラフ浜岡原発の敷地内を走るH断層系が本当に活断層ではないのかどうか、同社自らの過去の判断を確認するための補充、再調査に乗り出した(写真上= 2013年7月27日付中日新聞朝刊1面)。

 英断であり、静岡県民として大いに歓迎したい。

 再調査する敷地北部(後期更新世地層)には、過去何回も(活断層などによって)隆起したことをうかがわせる段丘がいくつもある。このことを念頭に、念入りで説得力のある地質学的な再調査をすべきであろう。

 青森県の東通原発や再処理工場でも、こうした段丘があり、敷地内に活断層があると規制委から指摘されている。浜岡原発と似た地形なのが注目される。

 新しい規制基準では、敷地内の断層は、まずもってすべて活断層であると想定される。安全審査をパスするには、活断層ではないとの具体的な証拠の提出が電力会社に求められる。活断層であるのかどうか判断できないものは、安全側にたって活断層とみなされる。これでは再稼動はできないことになる。

 確定できない場合は、さらに過去にさかのぼって調査し、確定判断をする。今回の調査もこのためであり、かつての保安院に指摘された点について確答するためだ。

 これまでは判断できないものは、白だったが、今度からは、白でもグレーでもなく、黒と厳しくなった。敷地や周辺には、かならず活断層があるとの想定で審査が行なわれるのだ。それがいやなら、電力側は審査想定を否定する合理的な証拠を示す義務が課せられている。

  Image1811 新しく定義された活断層とは、今から約13万年前以降の後期更新世の地層に動いた形跡のある断層。これまた過去に余計にさかのぼる分、厳しくなった。

 陸側の段丘だけでなく、海側にも巨大な活断層を思わせる「たわみ」のあることが名古屋大学研究グループによって、最近指摘されてもいる。この事実も、実は東通原発と似た状況なのが、不気味である。

 ともかく、ごまかしのないきちんとした再調査は、中電にとってはもちろん、静岡県民にとっても、大きな恩恵をもたらすであろうことは間違いない。

 ( 写真下= 中電の地質調査の実施に関する発表資料。同社ホームページより。太いピンク破線で丸く印のついた補充調査地域には段丘があることがはっきりとわかる。 )

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ターシャ・チューダー的こころ

Dsc0214920130729 (2013.07.30)   なくなった小沢昭一さんの超長寿ラジオ番組に

 小沢昭一の小沢昭一的こころ

というのがあった。夕方、ブログ子もときどき拝見していた。その心とは要するに、何も経済大国を目指さなくてもいい、丁寧な暮らしの「貧」主主義で行こう、というものだった。だから、小沢さんは貧しい時代のことを忘れずに最後までハーモニカをこよなく愛し、吹いていた。

 ● 花もいつかは散るように

 アメリカの童話作家だったあのターシャ・チューダーさんも、丁寧な暮らしの「貧」主主義で行こうというものだったことを、先日のBSプレミアムで、ターシャさんの人となりというか、生き方をまとめた

 花もいつかは散るように

という番組(写真)を見て、気づいた。愛したのはハーモニカではなく、自ら育てていた庭に咲く花々だった。

 番組は息子夫婦や、孫夫婦が語るターシャの生き方を生前の映像とともに描いていた。知らなかったが、2008年に92歳でなくなったらしい。

 生前の暮らし方では小沢さんとターシャさんは似た考え方だったが、死に方ではずいぶん違うような気がした。

 小沢さんは、あくまで人間を愛した。

 これに対し、ターシャさんは自然を愛した。

 焦って結果ばかり求めるなという助言も心に残ったが、

 最後の言葉は

 「私たちはみんな死に向っている。恐れることはない。今を精いっぱい生きること」

だったらしい。

 ● 遺灰は育てた庭に

 アメリカでは土葬が一般的だが、火葬にしたあとの遺灰はターシャさんが育てた庭にまかれたという。だから、彼女のお墓はない。

 お墓はなくとも、大自然の中で永遠に生きる

という選択をした。

 庭に咲く花が、ターシャなのだ。

 見事な人生哲学である。

 私のお墓の前で泣かないでくださいという新井満さんの

 「千の風になって」

ではないが、それならとお墓そのものをなくしてしまった。私は死んではいないと言いたいのだろう。

 そんな境地にターシャさんを立たせたものは何だったのだろう。

 番組をみながら考えた。そして、気づいた。

 自然の不思議さに驚嘆し、感謝する感性

 センスオブワンダー

ではなかったか(注記)。この心があったからこそ、自然に帰ることを少しも恐れなかった。また、晩年、年を取ることは楽しいことだと語っていた理由も理解できる。

 そして、また遺灰を自ら耕し育てた庭にまいてもらうようにした理由もよく理解できる。自然と自分とが一体になるという喜びからなのだろう。

 花もいつかは散るように、ターシャさんもまた大自然に帰っていったのだ。

 花も人間も結局は同じである。

 つまり、この世だけがすべてではないという境地。彼女は、このことを理系出身のブログ子に教えてくれたように思う。

  ● 注記 センスオブワンダー

 これについては、今から60年近くも前に書かれた米生物学者で作家のR.カーソン女史の

 『センス・オブ・ワンダー』(上遠恵子訳、新潮社、1996年。写真下)

がある。

Dsc02165_2

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色彩のある原発震災俳句

Image180620130729_2 (2013.07.27)  最近、

 うまい !

とブログ子が感心したり、思ったりしたマスメディアに載った名言や、心に響く身近な一言というがある。

 ひとつは、7月29日号の「アエラ」。

 今週の1行、キャッチコピーというので、アベノミクスを、圧勝した参院選の結果にからませて、

 安倍のみ、クスッ。

 見事である。何の説明も要らない。念のために写真を掲げておけば、こんな状況なのであろう(7月22日付中日新聞1面)。

 ● 猛暑なのに寒すぎる 

 もうひとつは、愛読している最近の「週刊新潮」。

 渡辺淳一さんのコラム「あとの祭り」で、そのタイトルは

 猛暑なのに寒すぎる。

 猛暑を皮肉ったというよりも、クーラーがききすぎて、老人の体温調整が追いつかないという話。わが身にしみる。過ぎたるは及ばざるが如し。いや、如しどころか、それ以上に悪いというわけだ。

 ● 終の住処か このビルは

 最後は、マスメディアではないが、ブログ子が身近で聞いたしみじみとした話。

 原発震災で、あの浪江町から浜松市にいち早く避難してきた70代女性Nさん。短歌歴15年だが、現代俳句もたしなむ。二年半の避難生活から浮かんだ一句が見事。

 春夕焼け 終(つい)の住処(すみか)か このビルは

 被災者の万感の思いが凝集されたような句だと思う。西側の小さな窓から、佐鳴湖の向こうに沈もうとしている春の赤い夕焼けがみえる。ただそれだけを詠んだのだが、かえって寂寞とした詠んだ人の心のうちが垣間見える。

 色彩のある原発震災俳句

として、そしてまた被災者の思いが込められているものとして、いつまでも記憶にとどめておきたい。

 わずか17文字の俳句。だが、出来事の風化を食い止めるこんな力があるとは知らなかった。

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いま、福島のツバメに何が起きているか

(2013.07.24)  世界的に知られている進化生物学者、T・ムソー米サウスカロライナ大教授が、自らかかわったチェルノブイリ事故の生物調査からわかったことや、福島原発事故後の現地調査結果を、一般の人々にもわかりやすく報告するという講演会が浜松市内で開かれた(写真上)。

 反原発でも、脱原発派でもない独立した研究者であることを特に断っていた。

 ● 米進化生物学者の浜松講演

 Dsc0207820130723 チェルノブイリ事故で大気中に放出された放射能が野生の鳥や昆虫、特に野生のツバメにどんな影響を与えるか。突然変異率や、それが生物にどのような形で具体的に現れるのか(表現型問題)。

 そして、どのように子に遺伝していくのかなどの調査研究を、同教授は、この10数年続け、多数の国際学術誌に発表している。福島での調査は2011年の事故直後から数回にわたって実施してきた。

 この講演では、野生のツバメを中心にチェルノブイリと福島の動植物の変異について比較検討している。

 ● 遺伝子損傷率が上昇

 その結論を先に言えば、

 チェルノブイリでも、福島でも、ツバメをはじめとする調査した大部分の野生生物では、被ばくレベルに正比例して、遺伝子損傷率が統計的にみて有意に上昇している

というものだった。このことは個体レベルだけでなく、精子など生殖細胞にも当てはまるという。

 また損傷に伴う小頭症という脳の障害もムソー教授たちの研究グループは世界で初めて突き止めたという。

 さらに出生率も低下しているし、生存したとしても寿命が短くなっている

というのだ。

 このため、突然変異率が通常より高く、しかもそれが実際に個体群の減少につながっていると結論付けている。たとえば、局所的には有意に絶滅している個体群もあるという驚くべき結果である。

 通俗的に言われているように、汚染地域に人がいなくなって、かえって生物が繁栄しいるという見方がある。が、同教授は、汚染地域外からの侵入者が増えているというみかけによるものであり、英BBC放送が伝えているような 

 汚染地域は「野生の天国」というのは誤り

と指摘していた。それどころか、もともと汚染地域にいた生物個体群に限れば、世代が交代するにつれ、遺伝的にも絶滅の危機にあるというのが実態だということだろう。

 Dsc02085_2 そのほかの詳しい成果については、写真中の講演スライドを参照してほしい(写真のダブルクリツクで拡大)。

 また、講演で使用されたスライドについては、下記の「補遺」からダウンロードできる(主催者「春を呼ぶフォーラム」、「放射能測定室「てぃ~だ」提供)。

 ● 福島の現状ではどうなっているか 

 講演で興味深かったのは、ムソー教授による

 事故後のツバメの地域ごとに分けた巣調査

である。その巣が事故後も利用されているのか、はたまた何らかの理由で放棄されたものなのか。そのことを自治体ことに写真のような先にミラーがついたバーで調査した。

  Dsc02100_3 それをまとめたのが、写真の棒グラフ(写真下)。

 放射線の強い浪江町、双葉町、大熊町ではツバメが今も利用している割合は、いずれも10%前後と低い(赤色)。ほとんどが放棄されている。

 これに対し、比較的に弱い南相馬などは、いずれも50%前後と高い。半分は事故後も利用されている(青色)。

 ● 体毛に白化(突然変異)

 このことは何を意味するか。

 (空間)放射線の強いところでは、ツバメが死亡したか、あるいは何らかの障害で巣に戻れなくなってしまったかの、どちらかだろう。

 弱いところは、事故前とあまり変わらない生活が続いているというわけだ。

 厳密には、事故前でのこうしたグラフがないので、疫学的には確実なことはいえないが、

 Dsc02103_2 浪江町などの放射線の強いところのツバメは、死亡か突然変異などで大きく生活環境を変えられるという放射線の影響を受けた

というのが自然な結論だろう。現に、福島でも、チェルノブイリと同様、

 ツバメの体毛に白化

という突然変異が、通常の場合以上に多く見られるという(補遺のスライドには、その写真)。

 ● 研究費の支援のない日本

 ムソー教授が強調していたことだが、こうした研究には国際的には支援がある。なのに、しかし、

日本の公的な機関からの支援はゼロ

などと繰り返し、嘆いていた。

 これには、福島県民に対するむやみな不安を呼び起こしてはならないという政府の〝やさしい配慮〟もあるのだろう。

 しかし、そうした配慮は結果的にむしろ福島県民の健康不安や実際の被害を拡大し、放置するということにつながらないか。

 水俣病とその原因企業チッソ、原発事故の放射能漏れとその原因企業東電。このままでは、ふたたび、1960年代の水俣病のような悲劇を、今度は福島県内で引き起こす危険性がある(注記)。

 水俣病対策の失敗という教訓から、科学的な根拠に基づいた広域的で、包括的な福島県民の健康調査とその対策を一刻も早く政府はスタートさせるべきだ。

 ● 許すまじ東北の「沈黙の春」

 そのためには、まず私たちはツバメたちの声なき警告に耳をすます謙虚さが今、求められている。講演を聞いて、そのことを痛感した。

 春風に乗って日本にやってくるツバメ。

 東北地方に、R.カーソン女史の言う

 「沈黙の春」

が訪れることがあってはなるまい。

 (最下段の写真=講演するT・ムソー教授、浜松市内のクリエート浜松)

  ● 注記

 Image180420130729eyes_2 最新号の「アエラ」2013年7月29日号の巻頭論説「eyes」(姜尚中)では、長期にわたってじわじわとあらわれてくる低線量被ばくの問題においては、将来の救済が水俣病の場合に比べて、より遅れる可能性が指摘されているのは、ポイントを突いており、注目される。

 また、同号の同欄で、もう一人の筆者、福岡伸一氏も、

 リスクの大きさを死者数に還元する危険性

について述べている。その中で、時間をかけ世代を超えて蓄積、顕在化する場合のほうが、最初の死者数がたとえ少なくとも、ついにはそれをはるかに超える結果をもたらすかもしれないと、狂牛病の体験から警告している。

 被ばく当初にはほとんど死者のいない低線量放射線のこわさもこのたぐいであろう。

  明確に言えば、リスクの大きさは、時間の関数であり、t= 0 という出来事が起きた当初だけでは、一般には決らない。時間がたてばたつほど、リスクが増大するケースも多い。水俣病にしろ、低線量被ばくにしろ、このたぐいの現象は多い。

 安全性の考え方については、50年近く前の名著

 『安全性の考え方』(岩波新書)

がある。メリットとデメリットを勘案した「許容量」を安全性の判定の基準にするという考え方である。しかし、この考え方には、許容量が事前に、あるいはt= 0の時点で決定可能であるとの仮定がある。

 時間とともに被害が広がる胎児性水俣病や低線量被ばくでは、これは通用しない。許容量の考え方に代わる新しい安全性の考え方が求められている。

Dsc0207920130723_2

 ● 補遺 参考文献

        ティモシー・ムソー講演会 チェルノブイリから福島へ

    - ツバメたち動物が教えてくれたこと -

    =「File0055.jpg」をダウンロード

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なぜ体罰はなくならないか その社会背景

(2013.07.23)  大阪市立桜宮高校のバスケットボール部顧問の教諭から体罰を受けた同部キャプテンが自殺するという痛ましい事件が起きてから半年。

 大阪だけでなく、ブログ子が暮らす浜松市の教育委員会の最近の調査(全小中学校と市立高校対象)でも、この1年間に体罰と認められる出来事が181件も発生している(写真下 = 2013年7月12日付中日新聞)。中学校では半数以上が部活動中の体罰だった(補遺)

 ● 学校教育法では明確に禁止

 学校教育法(第11条)は、明確に体罰を禁止しているのに、そして民事裁判、刑事裁判の判例でも、身体的な苦痛を伴う体罰は、学校教師に与えられている懲戒権を逸脱した違法行為であるとされているのに、

 Dsc0205620130721 なぜ体罰はなくならないのであろうか。

 それどころか、

 言っても聞かない生徒に対する体罰は必要

と本音では考えているスポーツ指導者は少なくない。保護者ですら、いわゆる必要悪を容認しているフシがある。

 身体的な苦痛を伴う体罰であっても、それは懲戒権行使の範囲内という意識である。

 ● 浜松学院大教授が問題提起

 果たして体罰は指導者にとって必要なものなのであろうか。また、その社会的な原因や背景はなんなのか。

 この問題についてゼミ形式で話し合う場が、ブログ子も参加するこじんまりとした学習会で話し合われた。講師は自身もサッカー選手であり、指導者でもあった大野木龍太郎氏で、浜松学院大学教授(スポーツ社会学)。

 学校の国語の授業や数学の授業では、まず体罰問題は起きない。なのに、なぜ体育の授業や運動系部活では体罰が頻発するのであろうか。同氏のこの問題提起から、ゼミナールは始まった(写真上)。

 何が違うのか、参加者は自らの体験をもとに、現在のスポーツに対する感想、受けた体育授業に対する率直な意見が飛び交った。討論中心というゼミ形式のいいところであろう。

 ブログ子は、体罰に走るのは、教師の不満のはけ口、裏切られた期待に対する怒りが直接の原因であり、教育効果とは無縁であると述べた。ただ、どういうことに対する不満なのかは気づかなかった。

 ほかの参加者からは、

 体罰は指導者の思考停止ではないか

あるいは、

 体罰は練習量の「質より量」主義の結果ではないか

などさまざまな意見が披露された。ここでも、なぜ思考停止になるのか、何のために練習量が問題になるのかという点にはうまい解答が出てこなかった。

 言い換えれば、いちいちもっともであるが、国語や数学の授業やサークルでは体罰がないのに、なぜ体育授業や運動系部活だけに体罰が頻発するのかという理由を説明するのには決定力に欠ける。

 この点については、何のために学校でスポーツをするのかという目的をはっきりさせることなしには、解明できないということが、討論を煮詰めるうちに段々わかり始めた。

 ● 勝利至上主義が第1の原因

 討論の結果、原因が大きく分けて二つあることが浮かび上がった。

 その第一。

 スポーツとか、体育というのは、単に身体を動かすだけではないという点だ。ルールにのっとってプレーするという性質が不可分につきまとう。今の体育や部活の目的は体を動かした結果がどうなったかという結果が目的化している。ここに問題がある。

 つまり、 授業や部活など今のスポーツ教育の目的が勝利至上主義にある。このことが指導者をあせらせ、思考停止の「怒りの体罰」に走らせる社会的な要因

なのだ。

 至上主義は「選手」という言葉からもうかがえる。単なるプレイヤーではない。結果がすべてという勝利至上主義ではない、たとえば楽しむ同好会には体罰はないのはこのためだ。

 国語や数学でもスポーツ同様、反復練習はあるものの、勝利至上主義ではない。必ずしも100点を取る必要はない。50点でもすごいことがあるし、70点でもクラスでは下位ということもあるだろう。

 しかし、身体を使うスポーツの場合、勝ちか、負けか。ゼロか100点か。どちらかなのだ。こうなると、指導者の指導力が、国語や数学の場合に比べて格段に比重が高くなるのも無理はない。このことも指導者のプレッシャーとなり、体罰がなかなかなくならない原因だろう。

 それでは、このような勝利至上主義はどこから来るのか。

 勝利至上主義に走ることについて、学校体育教師や部活顧問だけを責められない。そこには指導者個人の資質のほかに社会的な要因があることを忘れてはなるまい。むしろ学校を取り巻く社会環境が大きい。

 具体的にいえば、国民体育大会では開催県は天皇杯/皇后杯を獲得するよう事実上義務付けられている。スポーツ根性アニメ放送が理想のスポーツ教育として、繰り返し垂れ流される。さらには五輪マスコミ報道でも金メダル至上主義が開催のたびにあおられる-などだ。

 ● 第2の要因は地域スポーツクラブの未成熟

 体罰がなかなかなくならない第二の社会的な原因は、

 日本では学校以外に活動できる地域スポーツクラブが未成熟

という事情がある。ここが欧米とは決定的にことなる。

 学校スポーツでしか、スポーツができないという閉鎖的な環境が体罰を容認する風潮を助長し、生徒も自殺に追い込まれるという不幸な事態を招いている。

 Image180020130712 これに対し、国語や数学は塾通いという形でいくらでも生徒の能力を伸ばせる。授業が社会に対し開放系であることから、学校教師の負担はその分軽くなり、体罰などという問題は生じない。

 生徒たちも学校以外の自由選択の余地がある。能力に応じて、ある意味のびのびと自己の事情に合わせて学び続けることができる。 

 別の言葉でいえば、体育や部活の勝利至上主義のあまり、

 日本ではスポーツを文化としてとらえる考え方が欧米に比べて根付いていない

ということになる。ルールを重んじ正々堂々の戦い、チームプレーのなかから連帯感を育てるというスポーツ文化の基本となる土壌が醸成されていない。

  生徒だけではなく、体育指導者自身にとっても、身近にスポーツクラブがないことは不幸である。自分の経験以外に他者から学ぶ機会がないからだ。

 指導が我流というか、ひとりよがりになり、客観視できない。これではいくらがんばっても指導に限界があり、ついつい体罰という思考停止になるのも無理はない。

 日本の学校スポーツにはこの意味での視野の狭さがあり、ブログ子にはなかなか学校スポーツの指導者を、たとえば人生の師として尊敬したいと思わせる人材がみつからないのもゆえなしとしない。

 ● 指導者は被害者の面も

 さらにひるがえると、未成熟という問題には、スポーツが明治期に西欧から輸入され、学校教育に取り入れられたという歴史的な事情もあろう。ルールを伴うスポーツ発祥の西欧とは違って、日本ではスポーツは学校でするものという意識、思い込みからいまだに抜け切れていない。

 そこから体育教師や指導者は閉鎖社会の中で重い責任と期待を背負わされていると感じるようになる。

 その意味では、指導者は社会的な被害者ともいえる。

 その典型が、体罰すれすれのしごきが絶えない高校野球の監督であろう。とりわけ、甲子園を目指そうという場合、地方大会も、全国大会も、気の抜けない勝ち抜きのトーナメントであり、監督の力量と采配が決定的にものをいう。

 毎回、必ず100点を取らなければならないという、そのプレッシャーのものすごさについては、

 高校野球は監督で決まる

という監督への連続インタビューにあますところなく語られている(「週刊現代」2013年7月27日号、ノンフィクションライター、中村計)。これを読むと、県外から有力選手を多く引き抜く、いわゆる〝外人部隊〟がなくならないのも無理はないと思えてくる。

 ● 学びあう地域スポーツクラブをもっと

 このように体罰問題には、体育や部活指導者の資質や、学校のあり方だけでは解決しない社会的な原因がある。

 となると、スポーツ文化を根付かせようという社会の意識が変わらない限り、勝利至上主義を改めない限り、体罰問題は学校関係者だけでは解決できないだろう。古くて新しい構造的な問題なのである。

 その意味で、体罰の根本問題で問われているのは、関係者はもとよりだが、わたしたち国民ひとり一人の意識改革なのである。

 そのことをゼミ討論は具体的に教えてくれた。

  ● 補遺 文科省調査 静岡県内=231件

 一方、2013年8月9日付でまとまった文部科学省のすべての国公立と私立学校を対象にした小中高体罰調査では、

 静岡県は231件(昨年2012年度)。

 うち、国公立では173件、私立校は58だった。中学・高校では「部活中」がもっとも多かった。

  浜松市と文科省の調査結果とは必ずしも整合性がない。これは、なにをもって体罰というか、なかなかその基準が難しいことをうかがわせる。しかし、それでもおおよその傾向、つまり部活中に多発しているという傾向に変わりのない点が注目される。

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平成デモクラシー 政治主導とは何か

(2013.07.22)  参院選が「ねじれ」解消の結果となったことを受けて、あらためて、この20年、ことあるごとに叫ばれてきた

 Image1738 政治主導とは何か

について、考えてみたい。

 そう思っていたら、政治学者の佐々木毅東大名誉教授が、講談社の情報誌『本』2013年6月号で

 「平成デモクラシー」を問う

という寄稿をしていたのが、興味深かった(写真)。東大での最終講義の内容のポイントがまとめられている。

 平成デモクラシーとは目新しい用語だが、明治藩閥政治から政党内閣制への移行や普通選挙の実施など自由主義の風潮が高まった大正デモクラシーとの対比で、名づけられたものであろう。

 ● 政治家主導との違い

 この中で、佐々木さんは、平成デモクラシーを特徴付ける言葉の一つは、政治主導であると語っている。そして、

 政治主導とは、政党主導のことである

とズバリ喝破している。これを政治家主導と解するのは混同であり、誤解だという。

 「つまり、政治主導と政治家主導は同じどころか、時には相矛盾する現実を意味する」

と説く。

 「逆にいえば、政治主導は政治家に対する組織的な統制力なしにはあり得ないのであって、政治家たちがそれぞれ勝手なことをいうこととは両立しない」

と論じている。政党内で議論を徹底して煮詰める組織的な努力は、日本はほかの先進国に比べてきわめて不十分だという。見事な分析である。

 だから、民主党は瓦解した、党内ガバナンスがなかった

というわけだ。こうなると、衆参が「ねじれ」ていたから、決められなかったのではないということになる。ねじれていなくても、政治家主導では決められない政治に早晩陥ることになったろう(注記)。

 ● トップの指導力は、政治主導の代替

 この四半世紀、リーダーは

 指導力を発揮せよ

と社説などで叫ばれ続けてきた。しかし、これは、未成熟な、あるいは組織的な弱体を補う政党主導の代替なのだ。

 佐々木さんは、こうした分析から

 平成デモクラシーはなお暫く真摯な自己改革を必要としている

と結んでいる。

 ● 政治改革の実現、なお道遠し、

 政治家と政党関係の未熟さについて、佐々木さんは

 ほとんど当時(明治後期の政治家、中江兆民時代)のまま今も残り続けている

と東大最終講義で示唆したと書いている。

 それはなぜなのかについては、佐々木さんは何も書いていない。ブログ子に言わせれば、その原因は、徹底的な議論を避けたがる日本人の

 物言えば唇寒し秋の風

の風潮だろう。松尾芭蕉の警句らしい。代わって、

 阿吽の呼吸

を良しとする〝美風〟である。

 ● 「男は黙ってサッポロビール」の国

 西欧では、政治に限らず、スピーチは重要なコミュニケーションの手段である。論理的にユーモアを交えて話す訓練を学校でも習う。日本にはない修辞学である。スピーチがうまいことは政治家の必須条件。スピーチライターというビジネスまである。

 よく考えれば、そんなことは当たり前で、そもそもデモクラシーというのは、言葉、もっと言えば演説やスピーチで成り立っている。

 それなのに、これに対し、日本では明治まで「演説」という言葉はなかった。ながながと演説することは「口舌の徒」としていやしむ風潮すらあったことは注目しなければならない。

 一言で、言えば

 男は黙ってサッポロビール

をよしとするのが日本なのだ。

 これでは、とても日本はデモクラシーの国とはいえない。民主主義という言葉やその仕組みを明治期に輸入した国のひ弱さと言えるだろう。要するに根付いていないのだ。

 こうなると、佐々木さんならずとも、政党主導という党内熟議が求められる平成デモクラシーの政治改革はなお道遠しといえそうだ。

 ひょっとすると、この解決は政治改革では無理なのかもしれない。日本文化の深層にかかわる大変にむずかしい課題、というか壁のような気がした。とすれば、なおなお道遠しだ。

 佐々木さんの話を読んで、そう感じた。

 ● 補遺 日本を「取り戻す」とは 平成政治の見方

 佐々木さんの最近の論考には、もう一つ

 日本を「取り戻す」とは

という評論がある(2013年7月14日付中日新聞「言論」欄「視座」)。このところの自民党の選挙公約のキャッチコピーについて書かれている。

 この論考では、日本の政治は過去志向が根強く、未来志向には弱いという点で際立っている

と分析している。

 取り戻すという言葉には、過去の何を取り戻すのかという問いかけが否応なくつきまとうと佐々木さん。

 既得権益を守る従来型の利益誘導と決別して、「新しい日本を創り上げていく」という今回の自民参院選公約においてどこまで未来志向を貫けるか、と今後の政治の「視座」を提示している。

 自民党が既得権益などの過去志向に埋没するようでは、アベノミクスは足元から崩壊するであろうと予言している。

 なるほどと感心もし、大勝後の自民党政治をみる視点として重要な見方であろうとも思った。

 以上、佐々木さんの二つの論考を読んで、平成政治の見方が少し変わってきた。一読をすすめたい。

 ● 注記

 民主党の政治が、政治家主導であったことは、元首相だった鳩山由紀夫氏のたびかさなる反党行為騒ぎが示している。

 最近でも、この参院選で、民主党が政党として党公認を取り消したのに、菅直人元首相が取り消された候補者を応援している。このような反党行為が象徴しているように、政党の体をなしていないことは明らかであろう。

 官僚主導から政治主導を叫んている民主党だが、その実態は政治家個人主導だった。これでは政党としてガバナンスがなかったと批判されても仕方あるまい。しかも、その個人主導も、田中角栄元首相のような指導力はなかったのだから、政権崩壊は当然の帰結だろう。

 民主党政権は、自民党に敗れたのではない。政治主導をはきちがえたから、敗れたのだ。

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過ぎたるは及ばざるが如し、いや-

(2013.07.20) あすの参院選の投票日を前に、7月20日付読売新聞は1面の真ん中に

 拝啓 有権者の皆さんへ 

   論点 限りなく明確

という大型論説を掲げている。筆者は特別編集委員の橋本五郎さん。

 Image1799_2 一方、朝日新聞でも

 迷っている人たちへ

という社説を掲げている。

 要するに、みなさん投票に行きましょう、ということに尽きるのだが、どの党に、あるいは誰に投票するか迷っていても、なぜ投票所に行くことが大事なのかという理由付けが、それぞれ違っていて、おもしろかった。

 いずれの論説も、国政選挙史上、最低の投票率になるのではないかという危惧から書かれたものであることは、明らかだろう。

 ● 読売「ねじれ解消を問う」選挙

 読売では、論点ははっきりしている、何も迷うことはないとズバリ指摘している。

 今回の選挙の意味も争点も明確であり、

 「何よりも大きいのは「ねじれ」が解消されるかどうかです」

と論じている。すなわち、決められる政治か、はたまた今のような「ねじれ」で決められない政治を続けるのかどうかというわけだ。

 合わせて63議席を獲得して、自民・公明両党で過半数を取るのか、はたまた、72議席以上の当選で自民単独で過半数を占めるのかという

 数字の選挙

と言わんばかりの主張である。

 争点がはっきりしている大事な選挙なのだから、有権者はここは投票に行くべきだという論理構成になっている。

 裏を返せば、与党が圧勝することを見越した上での主張である。圧勝しても、投票率が戦後最低では、

 画竜点睛を欠く

というわけだろう。わかりやすく言えば、投票率でケチがつくのはごめんだというのだろう(注記)。

 ブログ子に言わせれば、熟議に至らずもっぱら政争の具となってしまった衆参「ねじれ」の解消は大事だと思う。参院が政争の具になるのは、参院は衆院のカーボンコピーだと議員自ら参院をいやしめているからだ。そこから衆院の仇は参院で晴らすという意識が出てくる。

 だから、敵討ちではなく、参院では衆院とは異なる観点からの熟議のできるよう選挙のあり方も含めた根本的な制度改革は必要だろう。そうでなければ、結局、一院制でいい、衆院だけで十分という批判を跳ね返すことは基本的にできないような気がする。 

 ただ、当面の選挙でいえば、

 過ぎたるは及ばざるが如し

で、自民単独過半数は、国民だけでなく自民党にとっても危険だ。なぜなら、かの徳川家康も、

 過ぎたるは及ばざるより悪い

として、勝ちすぎを戒めている。多くの国民もおそらく内心これを心配しているであろう。言い得て妙の至言だと思う。

 だから、参院の抜本改革の前に行なわれるあすの審判では、神も舌を巻くほどの

 絶妙な結果

が出るとブログ子は予想している(補遺)。国民一人一人とは違って、国民の総意は愚かではないからだ。

 この絶妙な結果は、国民が参院においては観点を変えた見地からの熟議を重んじよ、参院を単なる衆院のカーボンコピーにするなと言っているに等しいといえる。

 仮に、選挙結果が衆院同様、自民党単独過半数ということになれば、参院はもはや不必要、見放したと国民が考えている結果だ。

 ● 朝日社説「自分の考え整理できる」

 一方、朝日は、なぜ投票所に行くことが大事かという点について、重要なのは結果ではないとしている。大事なのは、自分の考えがどの政党や候補者の主張に近いかを考える過程で

 「自分の考えが整理できることだ」

とその効用を説いている。これは、国政選挙の目的としては本末転倒で、ちと苦しいが、ことの一面は突いている。

 自民大勝を予想した上での言い回しであり、ブログ子には、なんだか、負け犬の遠吠えのようにも聞こえる。こじつけの牽強付会といえば、いえよう。さらに踏み込んで、

 「最も関心のあるテーマに絞って投票してもいい」

とも書いている。

 だから、というわけでもないが、ブログ子は、原発再稼動反対や原発廃炉を鮮明にしている政党に投票したいと思っている。

 ● 投票に行く「義務」がある

 とりわけ、地元の南海トラフ浜岡原発の廃炉を明確に打ち出している政党や候補者に投票したい。

 読者は、どんな投票行動をするだろうか。

 少しオーバーに言えば、個別テーマだけでなく、今回の選挙は参院の存在意義そのものが問われる審判だ。

 だから、有権者には主権者として投票に行く権利ではなく、義務がある。

 ● 注記  

 この日20日付きの読売社説は、やはり

 参院の意義と役割も考えたい

と早くも、選挙後の与野党が参院改革の協議の場をつくるよう求めている。参院の意義とあり方を見直すきっかけとして、衆院と似通っている参院の選挙制度を抜本的に改革することを挙げている。

 これは、つまるところ、一院制にしないとしたら参院の役割とは何か、ということを具体的に問う古くて、そして新しい課題でもある。

  ● 補遺 投票率は52.6%と戦後参院選3番目に低かった

 今回の選挙では、やはり、絶妙な結果が出た。つまり、

 自民・公明与党が、与党参院過半数に必要な63議席を大きくこえて76議席を獲得した。しかし、自民単独で過半数を占めるに必要な自民単独72議席には7議席足りず、65議席にとどまった。

 この絶妙なバランスには、自民独走を警戒する与党公明党も舌を巻いたであろう。また参院でのプレゼンス(存在意義)を確保できてホッとしたことであろう(公明党の新勢力は、非改選9議席も加え20議席)。

 何しろ、たとえ、新勢力の無所属3と諸派1がすべて自民党入りしても、自民党単独では参院過半数には3議席足りない。だから、公明党としては、万々歳といったところであろう。

  憲法改正に必要な参院発議総員242の3分の2獲得については、自民、公明の与党、それに改正に基本的に賛成のみんなの党(新勢力18議席)と日本維新の会(9議席)をあわせると、なんと162議席と、現行憲法の規定の総員の3分の2にぎりぎり届く。

 ただ、公明党(新勢力20議席)は、与党といっても改憲発議要件の緩和なども含め改憲には否定的。はっきり言えば、改憲反対は党是だろう。

 また、たとえ改憲に基本的に賛成だとしても、具体論に踏み込んだ場合、これらの政党間で足並みがそろうかどうか、政治的な駆け引きがあり、自民党の目指すような改憲の道は厳しいというのが、今回の選挙の意味だろう。

 国民の総意というのは、これほどまでに絶妙なことがお分かりであろう。

 かの家康の箴言を見事に守ったし、また、自民党にとっても、勝ちすぎの戒めで堅実な政権運営ができる。その意味では、2009年の民主党鳩山政権大勝は、家康に言わせれば、

 「ワシの言ったとおりの悪い結果を生んだ

といえそうだ。今では、民主党消滅の危機すら招いている。

 一方、投票率は、初のネット選挙解禁にもかかわらず、戦後参院選では3番目に低い52.6%だった。有権者総数の過半数ぎりぎりという実質戦後最低といえそうな低い数字。

 投票したのが有権者の過半数ぎりぎりというこの数字は、何を意味するか。国民の総意は参院の抜本的な改革であると受け取るべき数字だ。カーボンコピーから抜け出し、新しい参院像を示せというのが国民の総意だろう。

 2007年参院選挙で「ねじれ国会」を首相として生み出した安倍首相。今回その汚名返上を成し遂げた。

 ねじれ国会の解消が、成長戦略を目指した電力システム改革など構造改革や財政健全化につながるのかどうか、注目したい。

 そんな特筆すべき参院選挙であるところから、毎日新聞社WEB版「2013参院選特集」の

 党派別当選者一覧

を写真下にかかげておく(投開票翌日2013年7月22日閲覧)。

 Dsc02062

 

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世界最古の古代ヨーロッパ黄金天文盤

Dsc02037 (2013.07.19)  先月、世界記憶遺産に登録されたことは知っていたが、それがどのような記憶遺産なのか知らなかった。ところが、先日夜、BSコズミックフロントで

 世界最古の古代ヨーロッパ天文盤

という番組が紹介されていた。

 2002年にドイツ中部のネブラという町の郊外、ミッテルベルクの山頂で発見された。太陽の動きなどを知る携帯用の農業暦円盤で、

 ネブラスカイディスク

と名づけられているらしい(写真上。直径約32センチ)。

 ● ドイツで発見、年代は3600年前

 もっともブログ子を驚かせたのは、それが付着していた植物の同位体年代測定で、

 なんと今から約3600年前

ということだった。2005年にまとめられた研究チームの結論らしい。

 Dsc02036 紀元前1600年ごろといえば、西ヨーロッパにはこれという文明がなかったとされてきた時代である。中国では殷の時代が始まったころ、ヨーロッパアルプスの南にあり、比較的に開けた地中海のギリシャ文明でも、栄え始める数百年も前の時代である。

 そんな時代のドイツ、フランスといった西ヨーロッパに高度な天文知識を操作できる金象嵌の天文盤があったなどとは驚きだ。

 当時はまだ文字などはなかったらしいが、そんなはずはあるまい。季節ごとの太陽の動きを正確に把握し、月の動きとの関連もわかるという農業暦のようなこれほどの高度な知識が文字なしで伝承するはずはないと思う。

 というのは、大きさが30センチ強と携帯に適したものであることから、また、比較的に浅いところにうずめられたことから、かなりの数がつくられ、ある程度普及していたことを示しているように思う。とすれば、いまだ知られざる高度な文化、文明が古代ヨーロッパにあったことを示唆しているように思う。

 ● ギリシャのアンティキテラとの類似性

 それで思い出すのは、このブログ(注記)でも取り上げた

 アンティキテラの機械(古代ギリシャの日食月食予測盤)

である。制作年代は、アルキメデスの時代、というから紀元前200年前後らしい。

 Dsc02027 思うに、今回の携帯用の天文盤の大きさといい、使用目的といい、その精巧さといい、よく似ている。

 ヨーロッパアルプスで隔てられていたとはいえ、そして、1400年以上のへだたりがあるとはいえ、今回の天文盤は、きっとギリシャの天文予測機械に大きな影響を与えたと、ブログ子は思う。

  ● 注記

 該当のブログは

 天文学の〝モナリザ〟=

 http://lowell.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-77a8.html 

  (写真は、いずれもNHK番組の画面より。

 写真上= 修復後のディスク。青色は銅板についた緑青(銅像の色)。もともとの使用中の天文盤は星空を表すような黒色だった(銅板を高温処理をした結果、写真中)。

 写真下= 発見時の腐食の進んだディスク。緑青が銅板を保護してはいたものの、腐食はかなり進んでいた。修復技術の発達で緑青が銅板を覆っていた状態にまで復原できたらしい。いずれも、写真をダブルクリックすれば拡大写真に)

 補遺 古代の「オーパーツ」

 〝場違いな〟人工加工物のことを

 オーパーツ

というらしい。スカイディスクは、まさに古代ヨーロッパのそれである。この10年の研究から、場違いではないなら、紀元前1600年以上も前に栄えた、それにふさわしい失われたというべきか、未知の古代ヨーロッパ文明があったと思う。地中海周辺のギリシャやローマではなく、ヨーロッパアルプスの北側、たとえば、かつての東ドイツあたりなどにである。

 この番組を見終わって、ふと思った。

 逆に、「ナスカの地上絵」のように、これまでオーパーツというのは、よく面白半分に

 高度な文明を持った宇宙人がもたらしたもの

として片づけられたり、語られたりすることが多い。古代エジプトをめぐる映画「スターゲイト」(1994年)などはその大掛かりな代表例かもしれない。なにしろ、巨大ピラミッドは高度文明の宇宙人がつくったオーパーツだというのだから。

 しかし、スカイディスクの研究が示したことを考え合わせると、オーパーツも、

 本気で

 失われた古代地球文明の見地

から分析しなおす必要があるのではないか。これこそが、納得できるまで突き詰めてみるという科学的な態度であろう。その走りがこのスカイディスクではないか。

 この番組は、私たちは過去の文明について過小評価しすぎている、あるいは現代文明におごりすぎていることを強く示唆しているように思う。

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弁天島の新幹線は大丈夫か M9の想定を

(2013.07.17)  こういう記事こそ、地元紙の強みだろうし、歴史学者の出番でもあろう。

 7月16日付静岡新聞1面に、歴史家の磯田道史静岡文化芸術大准教授が、巨大地震で

 Image17920130716 浜名湖弁天島を通る新幹線「浸水の危険」

と警告しているとの記事が写真付きで大きく掲載されている。

 弁天島周辺の新幹線線路の海抜は約6メートル。JR東海が先日、巨大地震が来ても新幹線全線は津波などすべての面で大丈夫と

 安全宣言

を出したばかり。だから、この磯田氏の警告は大きな反響があったらしい。

 ● 津波は最高で約15メートルにも

 しかし、この安全宣言は、県が最近まとめた第4次被害想定を前提にしているのだが、その中でも、

 M8クラスのレベル1

を想定している。この場合は、湖西市あたりの遠州灘では津波高は最大でも約7メートルだから、海岸から1.5キロもはなれている新幹線の線路が浸水する恐れはまあ、ないと考えていいだろう。

 しかし、問題は、4次被害想定のもうひとつのケース。つまり、レベル2というマグニチュードM9クラスの最悪の場合(南海トラフ巨大3連動地震)だ。

  この場合は、被害想定では、湖西市の遠州灘には最高15メートルの高さの津波が押し寄せる。陸上の場合には減衰も考えられる。しかし、ほとんど海面ばかりの浜名湖南部の場合、弁天島鳥居の中洲をこえ、ほとんど弱まることなく10メートルをこえる高さの大波が弁天島付近の新幹線を襲うだろう。

 ● 300年前の巨大地震で約9メートル津波の可能性

 事実、東大地震研究所の歴史地震調査によると、

 今から300年前の宝永大地震(1707年)では約9メートルの津波が到達した可能性

がある。今とは弁天島の地形はずいぶん異なるが、これだと、十分、線路が浸水する可能性はある。

 このあたりは、地盤が軟弱であり、宝永地震でもあちこちで数メートル隆起したり、あるいは数メートル沈降したりした事実が知られている。

 同氏は

 「日本の大動脈のなかで最も弱点をさらしている場所」

と指摘している。ブログ子もこの現状認識に賛成したい(静岡県にはもうひとつ、新幹線を含めた動脈のボトルネックとして静岡市清水区のサッタ峠がある。ここが切断されると、首都圏からの救援は大幅に困難になる)。

 ● 地盤の軟弱性で脱線も

 高速運転中に地震が起きても脱線防止装置が全線にあるとJR側は言う。しかし、津波警報が間に合わず、真横から大津波を受けても、脱線は食い止められるか。

 大津波が来るのは地震発生後2分前後。これに対し、新幹線が地震で送電をとめ緊急停止するまでには1分前後はかかろう。しかも、脱線防止といっても、この地域特有の地盤の軟弱性は不安材料だろう。

 次の巨大地震として発生する確率はM8よりは小さいとはいえ、M9が起きれば、弁天島周辺の新幹線もただではすむまい。

 M9(被害想定レベル2)に備える津波対策、地盤対策が必要だというのは正論だ。

 JR東海は、今、10年計画で数千億円をかけた新幹線開通50年老朽化対策を実施している。歴史という現実に向き合い、そこから具体的な教訓を学びとろうという磯田氏の警告を真摯に受け止める好機ではないか。

  ● 大学教員としての責務

 それにしても、ブログ子は、失礼ながら、頻繁にテレビ出演している磯田氏を、いわゆる歴史オタクだと思っていた。

 それが今度の警告で、社会に向って言うべきことは、根拠を示して言うという大学教員としての責務を十分自覚し、覚悟もあったことを、図らずも知った。

 大学教官とは、かくあるべきだろう。

 ひるがえって、静岡県内には全国に知られた名誉教授も含めて日本史が専門の国立大学教授が何人かいる。が、ほとんどはそうした自覚と覚悟にとぼしいのはさびしい気がする。

 気楽な評論などではなく、歴史学者の現代社会に対する具体的な問題提起、警告あるいは専門家らしい具体的な提案がもっとほしい。 歴史学に閉じこもった歴史学では、せっかくの貴重な教訓が今に生かせない。

  ● 補遺 磯田氏は社会学者 2013.08.02

 最近のアエラに、

 時をかける歴史学者

として、磯田氏が大きく紹介されている(8月5日号「現代の肖像」)。なぜ、茨城大から浜松市の静岡文化芸術大学に移って来たかなどおもしろい記事である。どうやら南海トラフ巨大地震への備えらしい。

 上記にも書いたように、

 震災で歴史学者の使命知る

とある。磯田さんは、日本近世史研究者などではない。古文書など歴史という切り口から現代社会を分析する社会学者であろう。

 あまりにおもしろいので、ここで、そのいったんを写真で、具体的にお見せしておきたい。

 引用が過ぎると、お叱りを受けるかもしれないが、そういう人は、ぜひ、本号アエラを買って一読することをすすめたい。とくに、歴史研究者には(東大地震研究所には、古文書を読み解く歴史地震学者、西山昭仁という若き気鋭の特任研究者がいることも、公平性のため付記する。こちらは、文学博士の学位を持ち、国の防災会議でも主査をつとめるほどの本格派)。

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Image1817220130805  

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人間日時計 猛暑のなかで考えた

Image1770_2 (2013.07.16) 連日の猛暑のなか、朝早く、ボランティアをしている浜松科学館(浜松市)に先日の祝日に活動に出かけた。そんな折、ふと入り口のところの足元に

 大きな楕円形をした日時計

があるのに気づいた(写真上)。人間日時計といったおもしろいものだった。おおよその日付のところに立ち、立った自分の頭の影で、その時のおおよその時刻がわかる。

 立ってみて、自分の頭の影を携帯電話用カメラを真下にして映したのが、写真中。

 撮影時刻は真昼の12時30分だったが、ごらんのように、頭の影は12時30分を指していた。

 感心して、その場を離れようとして、ふと気づいた。

 南北を示すスチール製鉄板と、12時を示す「12」を示す時刻針とが重なっていない。ズレている。おかしい。太陽暦の場合、太陽が真南に来たとき、正午のはずなので、影は真北を指すはずであり、その場合、二つの線は重なるはず。

 ところが、日時計では、一致していない。3度ほどズレている。なぜだろうか。

 ● 地球が丸いことを気づかせてくれた

 Image17792 日時計の説明板を読んで、ようやくわかった(写真下)。

  日本の時刻は、日本標準時といって、兵庫県明石市(東経135度)での太陽の観測で時刻が制定されている。

 浜松市は東経約138度と、明石市より、3度も東側。ということは、太陽が動く時間にして12分、浜松市は明石市より早く太陽は真南に来る。

 言い換えれば、明石市は浜松市で太陽が真南に来てから、12分後に標準時の「12」時になる。

 つまり、明石市では、南北の線と12時を示す時計の針は完全に一致する。ずれはないのだ。

 日時計の不一致はそのせいなのだ。東経約140度の東京だと、明石市より20分(角度にして5度)も早く、太陽は南中する。

 そんなことを真夏の正午過ぎの猛暑の中で、考え、気づいた。地球は平坦ではない。丸い。

 猛暑はたまらないが、太陽は人間に地球は丸いということを気づかせてくれる。また時刻とは、そもそも太陽が地球を回ることによって計られるものだとも教えてくれた。

 冬至近くなったら、もう一度、この人間日時計にたたずんで、この続きを考えてみたい。

 つまり、写真上でもわかるが、なぜ日時計は楕円形なのか、という問題だ。

 いまは暑くて、とても、それどころではない。  

 Image17723 

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野球でいえば9回裏の逆転ホームラン 

Image176120130710 (2013.07.12)  サッカーに限らず、スポーツにはそれほど関心のないブログ子だが、この試合をヤマハスタジアムで見た感想は、

 プロ野球でいえば、9回裏の逆転本塁打

といえるほどの劇的な結果だった。この試合というのは、7月10日に行なわれた

 ジュビロ磐田とアルビレックス新潟

の対戦のことである(写真上)。

 ジュビロは、折り返し近くの今の時点で、J1の18チーム中、最下位である。このままでは、

 J2降格か

の恐怖がある。

 Jリーグができてから20年、これまで、ずっとJ1で活躍してきたジュビロ。この夏にはホームスタジアムが改装されて、観客席が増設される。そんな年に降格ではたまらない。

 そこで、浜松市在住の友人に誘われて、応援に出かけた。

 しかし、磐田は案の定、のっけから1点先行された。それが、後半ようやく同点に追いつく。また引き分けか、とあきらめかけていた矢先だった。

 いままでの磐田とは違った。攻撃パターンが変わり、決め手は欠くものの、シュートが出始めた。

 決定力不足かな

とブログ子も不安だった。

Image176520130711  しかし、なんと、4分のロスタイムに入って山崎の見事な決勝シュートが決った。

 翌日の静岡新聞にもスポーツ欄トップカラーで

 関塚磐田、初勝利

とでかでかと掲載されていた(写真下)。

 同紙スポーツ記者の観戦記に、

 「開幕から14試合で1勝しかできなかったチームが、失った自信を少しずつ取り戻している」

とあったが、その通りだろう。

 もう少しいえば、この決勝点は、勢いを取り戻す大きなきっかけになるだろうと思った。

 そうなるには、次の

 仙台戦

にはぜひとも勝たなければならない(補遺)これまでの「負けぐせ」から、勝ちぐせをつけたい。

 その意味で、ロスタイムでのこの決勝点は大きい。

 ジュビロのこれからが楽しみだ。スポーツは、やはり勝たなければ、おもしろくない。

 この日のビールは、うまかった。 

  ● 補遺 残念、ベガルタ戦は、1対1の引き分け

 その仙台戦は、7月13日夜、仙台市で行なわれた。期待して、パブリックビュー会場のJR浜松駅に近い

 ソラモ

で、ブログ子も生ビール片手に観戦した(写真=最下段、ソラモ)。前半PKで先行したものの、1対1の引き分け。試合終了10分前で追いつかれるという〝醜態〟だった。それにしてもシュート数では、

 ベガルタの20に対し、なんとわずかジュビロ4

 これでは勝てるはずがない。GKの川口がかわいそうなくらい孤軍奮闘。老骨に鞭打ってよく防戦したと思う。ドローゲームになったのが不思議なくらいジュビロは後半へたばっていた。連戦だった仙台に勝てなかったのは、実力の差だろう。

 ここで勝つのと、引き分けなのとでは、それこそ雲泥の差だったのに。

 いまだ勢いに乗れていないように感じた。

 素人考えだが、夏バテ対策が必要な気がした。

 とにかく、後半折り返しのこれからの夏場が、来期J1降格かどうかを占う正念場だろう。

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目からウロコの「おうちの科学」 

Image1735 (2013.07.11)  コンビニストアの一角にずらりとペットボトルが並ぶ清涼飲料コーナー。夏本番の今、飛ぶように売れている。

 透明なボトルにはさまざまな形状がある。がしかし、ブログ子は、恥ずかしながら、一度もそのボトルの形や構造の違いには合理的な理由があることには気づかなかった。

  それはただ、デザインの違いにすぎないと漫然と思っていた。 

 ● ペットボトルは円筒形か角形か

 ところが、先日の6月30日付中日新聞家庭欄「ファミリー」の

 おうちの科学

に、目からうろこが落ちるような記事が載っていた。

 ペットボトルの形状には中身に応じて3タイプ

というサイエンスライター、内田麻里香さんの解説だ。

 ペット(PET)とは、正確には、石油からつくられるポリエチレンテレフタラートの略称。わかりやすく言えば、可塑性の高級プラスチック。可塑性といっても、熱に弱いものもあれば、強いものもある。

 透明ペットボトルの容器を円筒形に成型するか、それとも角形にするか。それは中に入れるもの性質によって決まる。

 Image1739 中身を入れたあと、内部にガスなどの圧力がかかるものは、破裂などで容器が壊れないよう均等に圧力がかかる円筒形にする(注記)

 だから炭酸飲料やコカコーラなどのボトルは円筒型になっている。ガスタンクが円筒形、あるいは球形なのと同じ理由。

 缶ビールを開けると、プシューと音がすることでもわかるが、開ける前には強い膨張圧がかかっている。だからペットボトルよりも強い缶で、しかも円筒形になっている。

 これが、角形の缶ビールや、ペットボトルビールがない理由ということになる。

 一方、殺菌するため熱い液体を詰める場合には、陳列時に冷やされて内部の体積が縮む分、内部圧力が減少する。押しつぶされないよう内部減圧に強く、潰れにくい角形ボトルにする。

 だから、製造過程で紅茶とか、日本茶、ジュースなどの熱いものを詰めるボトルは基本的に角形。

 ● 注ぎ口の白い首輪は何のため

 減圧となる熱いものを詰める場合、透明ペットボトルが変形しないようにすることも必要。このため直接注ぎ口が、熱に弱い透明ボトルに接触しないよう

 ボトル注ぎ口全体に首輪のようなつなぎリングキャップ(熱に強い不透明な白色プラスチック)

を装着している。このため熱い紅茶や日本茶を注ぎ込むボトルには、ほとんどこの白い首輪がついているというわけだ。

 一方、発泡性のない冷たい液体をそのまま詰めるスポーツ飲料やミネラルウォーターボトルにはこの白い首輪は必要がない。すきまなく商品を並べるのに好都合な角形が便利なのである。わざわざ成型の難しい円筒形にする必要がない。

 こう考えると、注ぐと内部が加圧されるものと、減圧されるもの、それぞれに白色リングキャップの有無に分類できるから、全部でボトルには4タイプあるように思う。

 しかし、加圧の円形の場合には、透明なボトルを変形させるような熱いものを詰めるケースはほとんどない。たいてい常温だ。つまり、形が円筒形のボトルには、注ぎ口に白色キャップはつける必要がないので、大きく分けると

 Dsc02011_2 ボトルの形状は、3タイプ

となる。

  フランスの水、ボルビックなどには、注ぎ口に白いプラスチックはない(写真下、角形ボトル)。製造工程において、ボトルに熱いものを詰める必要がないからだろう。

 ● 余談 雑プラスチック発電

 余談だが、

 透明ボトルは高級プラスチックとして再利用するため別途資源回収し、もう一度ペットボトルとしてリサイクルされる。二度のお勤めである。

 これに対して、透明ではないラベルなどは、つまり不純物の多いものは同じプラスチックでも、

 いわば低級プラスチック、あるいは雑プラスチック

として「容器包装プラ」マーク分別する。いわば劣化したこちらのほうは、また透明なボトルとして二度のお勤めをすることはないというわけだ。

 しかし、いずれも石油からつくられるので、燃料としては申し分ない。プラスチックというものはどんなものでも、熱に強い弱いに関係なく、最後は燃料として最後のお勤めができるありがたい資源なのだ。もとは原油なのだ。だから、火力発電の一種、

 雑プラスチック発電

というのはどうだろう。

 熱効率が課題なのだろうが、厄介なものとして、土中に埋める処分はもったいない。最後は燃料として使いたい。

 「おうちの科学」という身近な科学から、いろんなことを思い浮かべることができた。解説者のライターに感謝したい。

  ● 注記 丸形は減圧には弱い

 膨張圧には滅法強い丸形ボトルだが、半面、減圧にはぐしゃりと潰れて弱い。

 角形と、丸形のボトルに空気を入れて、きつくフタをして、冷凍庫に入れておく。すると角形にはそれほど変化がないのに、丸形は空気が冷えて縮んだ分の減圧で、ゆがみ潰れかかっている。丸形は、角形に比べ、内部減圧には弱いことが、これでわかる。

 この記事には、こうしたわかりやすい

 おうちの科学

がなかったのは、少し残念。

 意図的に書かなかったように思う。記事を読んだ読者に自発的な実験を思いついてもらいたかったからだろう。

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過酷事故に即応する能力と覚悟があるか

(2013.07.09) 原発の新しい規制基準が施行された。同時に、電力会社が相次いで再稼動のための安全審査の申請を原子力規制庁に提出した。

 ● 過酷事故への即応を義務付け

 新基準の言わんとするところは、安全神話を否定し、詰まるところ、

 大量に放射性物質が大気中に飛散する過酷事故が突然起きることを前提に、即応できる能力があるか

という点。さらに言えば平常時でも最高レベルの安全確保の覚悟はあるか

という2点だろう。 

 具体的に言えば、新基準の柱は、過酷事故への対策を電力会社に義務付けたこと。これまでのような自主努力に任されていた点を改めた。安全神話を否定している。

 2つ目の柱は、立地で科学的に予想される最大の地震や津波に対し、多重の備えを電力会社に義務付けた点。これまでは、科学的に予想される合理的な範囲の地震や津波に備えさえすればよかったのとは大きく変わった点である。

 この2つの義務が果たせないのなら、再稼動は認めない。廃炉にしなさいということを新規制基準は言っている。

 Dsc0190220130702たとえば、2つめについて。

 敷地内や周辺に断層があるか、またはあると予想される場合、

 その想定される断層は活断層である

とみなされる。原発立地を可能にするには、この想定をくつがえす「活断層ではない」との科学的な証拠の提出が事業者に求められる。提出がなければ、活断層とみなされる。再稼動はできないことになる。これまでは、明確に活断層とは断定できなければOKだったものが、否定しなければならなくなった分、格段に厳しくなった。グレーゾーンは、安全側に立って活断層とするという原則である。

 簡単に言えば、敷地や敷地周辺の断層はすべて活断層とみなされる。それがいやなら、活断層ではないという科学的証拠が必要ということになったのだ。場合によっては、さらに数10万年までさかのぼって地質調査をしなさいというわけだ。事業者の手抜きは許さないというわけだ。

 Image1728● 原子力村からも告発

 こうした能力と覚悟について、先日の放送大学の特別講義「未来への教訓 検証 福島原発事故」で、田辺文也氏は否定的な意見を述べていた(写真上)。同氏(注記)は社会技術システム安全研究所長(茨城県ひたちなか市)。

  田辺氏は、講義で

 想定外が起こるからこそ知的対処能力のある人材が必要なのに、そうした人材はほとんどいない

と述べていた。

  ブログ子もこの主張を支持したい。そもそも、福島原発の事故の全体像がほとんどつかめていない現状では、原発の再稼動うんぬんは論外といえまいか。

 ● 鋭い朝日社説「木だけでなく森も見よ」

 7月9日付の各紙社説がおもしろい。

 20130709_2 産経新聞社説は、あいかわらず、この新基準施行を

 再稼動に向け進む好機に

とやらかしていた。のんきな太平楽であろう。

 朝日新聞は

 木だけでなく森も見よ

と書いていた(写真下)。大局的な観点からのチェックも厳しくすべきだと主張しているのだ。正解だろう。おそらく、申請した電力会社もこの指摘にドキリとしたのではないか。すでにこのブログでは指摘したことだが、盲点だ。

 個々の原発ごとの審査も大事だが、森、つまり、原発と原発の間の関係も間引きするよう検討すべきだというのだ。

 「狭い地域で複数の原発を稼働させるリスクをどう考えるか。規制委は検討を急ぎ、見解を示す義務がある」

と指摘。福島原発では、ドミノ倒しのように連鎖的に個々の原発が次々と制御不能になる可能性があったことを指摘したものだ。このリスク回避には、原発密集地では間引きが必要なのだ。

 ● 南海トラフ巨大地震「浜岡」の場合

 それでは静岡県の場合の「森」にあたる問題は、

 南海トラフ巨大地震「浜岡」

という観点である。「木」として浜岡原発が新基準にたとえ適合したとしても、大局的な観点からは再稼動はできないと判断すべきではないか。

 川勝平太静岡県知事も、浜岡の再稼動と新基準の関係について、

 「規制(基準)以外にも固有の問題がある」

と述べ、新基準だけで簡単に再稼動を判断すべきではないとの見方を示している(7月9日付朝日新聞静岡版)。

 当然だと思う。すくなくとも、今後4年間の任期中にはゴーサインは出さないとの決意なのだろう。 

  注記

 田辺氏は京大工学部原子力工学科出身で、元「旧日本原子力研究所研究主幹」などをつとめている。30年以上、いわゆる原子力村の住人だった。

 最近ではその体験から、上記のような能力と覚悟が村にはないとして、できるだけ早く原発ゼロを目指そうと訴えている。 

 田辺氏には専門的な新著『メルトダウン』(岩波書店、写真中)がある。このなかで3号機について、事故10日後の3月21日未明、再溶融(メルトダウン)し、融けた燃料が格納容器へ融け落ちる、つまりメルトスルーした可能性を具体的なプロセスや計算で指摘している。放送大学の講義でも、放射能の拡散状況に照らしより詳細に分析、メルトスルーの公算を指摘している。

 このように、原発事故では事故の全容はいまだつかめていない。

 また、同氏の一般書『まやかしの安全の国 原子力村からの告発』(角川SSC新書)も、原子力村の責任と覚悟について具体的に知ることができる好著。

 なぜ脱原発が必要かということを痛切に感じることができる。一読をすすめたい。

 

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日本版「天地創造」  陰陽師Ⅱ

(2013.07.08)  日曜日の午後、BS朝日を見ていたら、

 陰陽師Ⅱ(おんみょうじ、滝田洋二郎監督、2003年)

という映画を放送していた。原作は夢枕漠の『陰陽師』シリーズらしい。

 何しろ、安倍晴明役の野村萬斎のほかに、中井貴一、深田恭子という主役級の俳優が登場するのだから、しかも「天地明察」、「おくりびと」の滝田監督なのだから、おもしろくないはずはない。

 このブログのテーマは「科学と社会」なのだが、科学と魔術とは、西洋科学でもかつて深い関係があったことが解明されている。西洋科学は魔術のなかから生まれてきたといっていい。

 Image219 日本ではどうか、という興味もあった。

 舞台は今から1000年も前の平安京。簡単に言えば、源氏物語の紫式部の時代。

 この映画は一見、荒唐無稽なホラー映画のように思われがちなのだが、実は、

 日本版「天地創造」ミステリー

なのだ。記紀の記述をもとにしており、言ってみれば

 日本古代史の謎= 出雲伝説に材をとっている。深田恭子は最高神、天照大神を演じている。中井喜一はヤマトに滅ぼされた出雲の王役。野村の安倍晴明と対決する幻角という「鬼」に扮していた。ヤマト政権への怨念を持つ。

 体制派=安倍晴明 対 反体制派、幻角=鬼

という構図である。ラストシーンでのその壮絶な戦いは、ホラーという概念を完全に超越していた。

 巫女の衣装の野村萬斎の独壇場、すなわち

 能の世界

である。時空を超えた変幻自在が展開する。

 このラストシーンを見て、なぜ、監督は野村萬斎を主役にすえたかがわかった。こんな世界は能役者以外では、とてもできない。

 また、おそらく、こんな演出は、能楽を伝統文化、とりわけ武士のたしなみとして持つ日本だけでしかできないのではないか。

 安倍晴明は、ラストシーンで

 「鬼がいなくなれば、世の中、味けなくなる」

と語る。脚本にもたずさわった監督が言わせたのだと思うが、なるほど、おもしろいせりふだ。

 滝田監督の史眼と現代をみる眼力の鋭さに敬服する。

 ( 写真は、安倍晴明をまつる京・一条戻り橋の晴明神社。訪れてみて、かつて、ここに千利休の聚楽第屋敷があったことを知った )

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隕石をめぐる「ポスドク」連続殺人事件

Image1724 (2013.07.07)  高名なミステリー作家、横溝正史風に言えば、この小説のテーマは

 「ポスドク」連続殺人事件

ということになろうか。

 ポスドクというのは博士研究員(任期付)のことだが、「この小説」というのは、新進作家、伊与原新氏の最新刊

 『ルカの方舟』(講談社、2013年7月)

のことである。

 ● 『ルカの方舟』の著者

  伊与原氏は、3年前に別の作品で、横溝正史ミステリー大賞を受賞し、今、まだ40歳になったばかり。経歴が神戸大理学部を卒業後、東京大学理学部大学院博士課程修了と聞いて、ブログ子は、ピンときた。

 ご本人も、東大でポスドクか、それに近い競争の厳しい研究環境に10年前後置かれていたのであろうと推察できた。

 それも、作品内容のかなり高度な地球科学的な最新知見を駆使していることからみて、専門分野は

 地球科学、それも地質学関連

だったのではないか、とも想像できた。付け焼刃ではこんなすきのない作品はつくれない。

 著者自身が、おそらくモデルであろう、うだつの上がらないポスドクが、隕石の分析をめぐってふたつの殺人事件を引き起こすというのがストーリー。

 二つもの殺人事件を引き起こしてまで、なぜ任期付きのポスドクが証拠ねつ造やデータ改ざん、論文盗用をするのかというところが、読み手側としては興味がわくだろう。着眼点はすばらしい。

 その社会的な背景には、耐え難いほどの競争があるという厳しい現実がある。それを隕石の分析という先端的な地球科学分野で具体的に、そしてミステリー風に描いてみせたのだ。

 ● 「地球外生命」証拠ねつ造ミステリー

 このストーリーを重視して、小説の題名を決めるとしたら、

 「地球外生命」証拠ねつ造ミステリー

ということになろうか。

 火星などの地球外生命という宇宙のロマンと、若手研究者の研究環境という現実の厳しさとのコントラスト。

 これが、これまでにはない新しさであり、「売り」だろう。著者自らの体験を土台にしているだけにリアリティがある。

 テーマのこの着眼点や地球外生命の仮説の着想では元研究者らしく見事である。

 しかし、なのに、小説としての完成度は、まだまだ低い

と言わさせるを得ない。それは、理系作家として、人間が描けていないというだけではない。

 ● 惜しまれる舞台設定のずさんさ

 宇宙のロマンのほうは見事なのに、また、若手研究者の環境の描写も説得力があるのに、対照的に、全体の舞台設定があまりにずさんなのだ。

 ジャーナリズムの現場を少しは知っているブログ子としては、これは見過ごすわけにはいかない。がっかりだ。大きくこの小説を毀損している。

 具体的に指摘したい。

 論文ねつ造スキャンダルなのに、それをかぎつけてきた科学雑誌記者が件の大学の論文ねつ造調査委員会に加わる。しかも、なんと大学と協力して真相を突き止めるというストーリーになっているのだ。

 そんなばかな大学は日本広しといえどもあるはずがない。隠そうとする大学をあばくストーリー展開が普通だ。これでは、せっかくの科学雑誌記者はまるでバカということになってしまう。事実、ピエロ的なバカを演じていた。

 あるいは、それどころか、殺人事件を捜査する捜査員も委員会に加わるという設定なのだ。こんなことはそれこそ

 1000%あり得ない

と断言できる。それほどあり得ない舞台設定である。

 ましてや、ねつ造の予備調査に加わった刑事が大学の委員会などで大学関係者の逮捕状をとる予定だと事前に捜査情報を委員会で漏らす。そんな堂々たる情報漏えいは、それ自体が刑事事件であり、読んでいてあ然とした。

 逮捕された研究者の供述内容がことこまかに刑事から大学や加わった雑誌記者に同時進行風に伝えるというのも、非常識。こっけいですらあった。

 これらは、ジャーナリズムについて著者が無知であることをさらけ出したことになる。官憲とアカデミズムの緊張関係がまったくない。警察がみだりに大学に出入りすることすらはばかられるのに、「癒着」している筋立てになっている。

 このほかにも、現実にはあり得ない設定が散見される。ミスではないものの、いわゆるご都合主義で事がトントンと運ぶ場面も多い。これなど、いくらミステリーだからといって、現実無視であり、あまりにひどい。興ざめである。基本的な原因として、著者の筆力不足がある。

 宇宙のロマンの精緻な着想と、現実の殺人事件捜査の舞台設定でのずさんさとの間には、極端な落差がある。これが作品を大きく毀損している。

 Image1727 ● 二兎を追った結果か

 筆力もさることながら、こうなったより根本的な原因は何なのだろうと考えた。そして、気づいた。

 宇宙のロマンと、ポスドクの厳しい現実

とを、どっちつかずに小説化したことだと気づいた。よく言えば、欲張った。詰めすぎた。しかし、はっきり言えば、いわゆる

 二兎を追った結果

ではなかったか。体験により著者のよく知っている若手研究者の厳しい現実のほうに重きを置いたほうがよかったと思う。そうすれば、この小説のインパクトは大きくなっただろう。

 二兎を追ったために、筋があちこちに飛び、ミステリーとしての論理一貫性がなくなってしまった。これには、著者自身もこまった、というか、もてあましたであろうと想像する。

 もっとはっきり言えば、二兎を追ったために、あり得る話なのに、あり得ないという印象を読者に与えてしまうのではないかとブログ子は危惧する。

 これは作家として若さが出たというべきかもしれない。かかわった二人の編集者のアドバイスがどういうものであったか、少し気になるところだ。

 ● 「砂の斜塔」に絞る

 批判ばかりしているのはなんだから、競争の激しいポスドクに重きを置いて、タイトルを付けるとすれば、どうなるか。少し古いが、松本清張風に書けば

 砂の斜塔

というのはどうだろうか。

 大学はもはや若い人材を育てる「白い巨塔」ですらない。砂のように崩れつつある大学という意味だ。

 この10年で、小説に描かれたような行き場のなくなった若手のポスドクは、文部科学省調査では、推計だが2万人にも膨れ上がっている。

 独創的で、革新的な成果は、若手研究者によって担われている場合がほとんど。その若手の研究意欲がこの10年で大きくゆがんできていることは、否定できない事実である。

 出身地の大阪弁を効果的に取り入れているなど、伊与原氏には才能のあることはわかった。次回作に期待したい。

 読み終えて、そう感じた。

 ● 補遺  数学小説『SF 知識鉱脈』

 Image1726 伊与原氏の作品より、さらに高度な物理学的な専門知識を駆使したSFには、あまり知られてはいないが、

 数学小説『SF 知識鉱脈』(笹原雪彦、日刊工業新聞社、1979年)

がある。1970年代のエネルギー危機を背景にした小説。着想として

 エネルギーと情報の等価性

というアイデアをSF化している。著者は京大理学部出身で、ここでは大手新聞社の科学部記者が登場する。

 高度に専門知識を駆使するSFの元祖としては、東北大薬学部大学院出身の瀬名秀明氏の出世作

 『パラサイト・イヴ』(1995年)

はあまりにも有名。ミトコンドリアの反乱をホラー化した。ホラーとはいえ、木村資生氏の世界的な業績、分子進化の中立説が紹介されているのにはびっくりしたものだ。

 それに比べると、ずいぶんとレベルは下がるが、恥ずかしながらブログ子にも

 法医学ミステリー『先生、事件ですよ !!』(関西新聞社編、恒友出版、1986年)

がある。こちらは、SFではなく、現実に起きた事件を大阪医科大学法医学教室に取材したノンフィクションである。

 なお、ポスドクの研究環境については、告発の書といってもいい

 『高学歴ワーキングプア 「フリーター生産工場」としての大学院』(水月昭道、光文社新書、2007年)

や、最近では、科学・技術政策ウォッチャーで、自らも医学系ポスドクだった若手による

 『博士漂流時代 「余った博士」はどうなるか?』(榎木英介、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2010年)

がある。いずれの著者もポスドク体験者であり、ポスドクの深刻な実情がひしひしと伝わってくる。

 科学・技術大国日本とはいうものの、その現場やその将来がいかに希望の持てない寒々としたものであるかが、両作品からは伝わってくる。

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ヘルニアは「腰痛」の主な原因か

Image1720_2 (2013.07.03)  2足歩行をはじめた、いわば 

 人類の進化病

といっても過言ではない腰痛。日本人の大人、約2800万人も悩んでいるらしい。たいていのひとは、腰椎にある5つの椎間板がヘルニアになったので痛む。避けられない、いわば老化病だと思っている。

  ブログ子も腰痛で悩んでいる一人であり、腰痛は、ひどくなると整形外科手術をしないと完治はしないだろうとあきらめている。

 しかし、この常識、本当にそうなのだろうか。

 先日、大きな本屋さんの最新刊コーナーで立ち読みしていたら、

 『腰痛をこころで治す』(PHPサイエンスワールド新書、2013年7月)

というのが目が留まり、びっくりした(写真上=浜松市内の書店で)。

 腰巻には、腰痛の85%は、原因不明であり、それらは心療整形外科で治るかもしれないという。心療というのは、簡単に言えば、精神科である。

 この本の著者、谷川浩隆氏は、ベテランの整形外科医。新著によると

 レントゲン撮影では腰椎の椎間板のいずれにも異状はみあたらないのに、腰痛で手術をしたという〝患者〟がいるらしい。逆に、明らかにヘルニアなのに、痛みがほとんどなく、手術などとんでもないという〝健康な人〟もいるそうだ。

 こうなると、極端なヘルニアの場合はともかく、腰痛については痛みを受け取る側の脳に過敏症などの問題があるのではないかと疑いたくなる。わかりやすく言うと、神経過敏な人には腰痛患者が多い。

 ● クローズアップ現代でも取り上げられて

 この問題については、先日のクローズアップ現代(NHK)という番組でも取り上げられていた(写真下=2013年7月2日夜)。

 Dsc0191320130702 腰痛に悩む人の85%は、その原因が特定できていないというのだ。残りの15%についてはヘルニアなどと原因が特定されている。

 だから、腰痛の大部分は、不安やストレスによって痛みを増幅している可能性があることが、出演した専門医によって指摘されていた。

 こうなってくると、腰痛の治療として、抗うつ剤を飲むということもないではないことになる。腰痛は精神科で治療するというわけだ。

 腰痛はこころの病気

というわけだ。だから、件の新著には、

 心療整形外科のすすめ

というサブタイトルが付いていた。

 そこまで極端ではないにしても、現在の医療現場では腰痛治療では、精神科医も加わっているらしい。医療の発達したアメリカではこうした精神科医も参加する取り組みが盛んになっていて、一定の効果を上げているという。

  もうひとつ、腰痛の常識を疑う必要のあることがある。

 それは、腰痛がひどいときには、無理をせず、体を動かさずに安静にしているのがいいというのは、本当かという点。

 腰痛治療では、だからといって、いつも一定の姿勢を保っているのはよくない。適当な運動が腰痛治療の要諦らしい。

 ● こころは万病の元?

 それにしても昔から病は「気」からというが、本当にそうなのかもしれない。

 こうなってくると、こころは万病の元ということになりかねない。厄介な時代になったものだ。

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一度はのぼってみたい富士山とスカイツリー

Image1712 (2013.07.01)  日本人として、一度は登ってみたいのが、きようが「山開き」の富士山。ましてや世界文化遺産に登録されることが決ったのだから、静岡県民なら、そうだろう。

 ところが、ブログ子は静岡県民なのに、まだ、一度も登ったことがない。静岡県内には、ブログ子と同世代で、もう1000回以上ものぼったという登山家がいるのに、少し恥ずかしい気持ちである。

 もう一つ、これまた、一度はのぼってみたいと思っていたのが、東京タワーの倍近くの高さがある

 東京スカイツリー(東京都墨田区、電波送信塔)

である。去年の5月開業から1年がたった先日、展望デッキにのぼった。デッキの高さは、東京タワーのてっぺんよりも高いというから、数十キロ先までの東京が一望できる。

 ● なぜ人は塔にのぼりたがるか

 夜のスカイツリーは一段と美しい。「そり」の雅な姿をみせていた。そして、展望デッキから、透明な床ガラス越しに真下の米粒のような地上をのぞくと、その「そり」の美が一段と迫力を見せている(写真= 展望デッキから塔の足元を撮影)。

 そこからは、豆粒のような車の列が見えた。

 日本の美ともいえる「そり」構造の真上からの眺望であり、デッキが地表ではないことを思い知る。

 その一方で、心配性なのか、福島原発事故のように、のぼったはいいが、「全電源喪失」したら、自分たちは一体どうなるのだろうと思ったりもした。

 しかし、あんな地面に張り付いて、自分たちは毎日あくせくしているのだと思うと、塔にのぼったことで、なんだか、こころが晴れ晴れとしてくる。

 親という字は、「木」の上に「立」って、子どもを「見」よと書く。その親は、木よりも高い塔にのぼって自分自身をみつめよということだろう。

 なぜ人は塔をつくりたがり、のぼりたがるのかが、のぼってみて初めてわかった。

 高い塔はかつては権力の象徴であったが、スカイツリーは、もはやそんなものではない。しかし単なる電波塔でもない。

 一度地面をはなれ、視野を広げ、よくよく人生を見つめなおす

 心柱の役割

を果たしていると思う。

 地球が丸いということをまざまざと実感せざるをえない宇宙飛行士の心境が少しはわかったような気がする。

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ハゼとエビのシェアハウス 水族館異聞

Dsc0182720130628 (2013.07.01)  先日、品川アクアスタジアムの話を書いたが、その中で書き残したことがある。

 ハゼとエビのシェアハウス(共同生活)

の様子が、実物展示されていた。ハゼ(ギンガハゼ)とエビ(ニシキテッポウエビ)。いずれも砂地の水底や海水に暮らす底生魚である。

 この異種同士が、互いに助け合って生きているというのには、感心させられた。

 その様子が写真( アクアスタジアム)である。中央の岩の下に巣穴。右にハゼ、左にエビが顔を出したところ。なんとも、ユーモラスである。

 エビは水底に穴を掘ってねぐらをつくることは得意。だが、視力が弱く、敵が近くにいても気づかない。

 一方、ハゼは、視力はそこそこなのだが、底生魚なのに巣をつくらない。これまた危険。そこで、底生魚同士が足らざるを補い、共存共栄というわけだ。

 見ていると、エビは盛んに巣穴の中の砂をかき出している。一方、ハゼはさかんに巣穴の出口付近であちこち警戒したり、近づく魚を追い払ったりしている。ときどきはエビと一緒に巣穴にいたりもする。それが写真。

 なるほど、シェアハウス

である。

 最近、ブログ子は佐鳴湖シジミの復活プロジェクトに参加するようになったせいか、こうした生き物の生活に随分と興味を持つようになった。 

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不運の名将か、幸運の凡将か 西本監督考

(2013.07.01)  野球体育博物館を改称し、新装なった野球殿堂博物館に出かけた。東京ドームの中にある博物館で公益財団法人(理事長は今、話題の「あの」加藤良三氏)。

 ● 安倍首相の直筆銘入り「金のバット」

 土曜日の午後なのに入館者はそれほど多くはなかったが、長嶋茂雄氏が、松井秀喜氏とともに国民栄誉賞をもらったというニュースもあり、そこそこにぎわっていた。

 Dsc0186420130629 安倍普三首相から長嶋氏に贈られた記念品、

 金のバット(写真)

が飾られていた。

 安倍首相の直筆で「長嶋茂雄」の銘がバットに刻まれていた。純銀製で、表面を金メッキしたものらしい。金メダルのつもりだろう。

 こうなると、このダブル栄誉賞もなにやら政治的な、もっと言えば、間近かに迫っている参院選目当ての人気取りのにおいもする。 それに付き合わされた長嶋さんはともかく、松井さんは、いい気持ちではなかったかもしれない。

 ● 殿堂入り180人の博物館

 名称変更しただけあって、名球会などから殿堂入りした元選手や元監督など180人のりっぱなレリーフがずらりと飾られたホールはなるほど圧巻だった。

 そのなかで、野球にそれほど詳しくないブログ子の目に留まったのは、400勝の金田正一氏とならんで、1988年に殿堂入りした西本幸雄氏。レリーフには

 監督歴20年、8度のパ・リーグ優勝

という文字があった。監督として8回もリーグ優勝を果たしたというのは、確かにすごいことであることはわかる。

 だが、一度も日本シリーズを制覇し、日本一に輝いたことはない。

 人は、これを称して

 不運の名将

というらしい。

 どのくらい不運なのだろうか。レリーフの前で考えた。

 ● 過去引きずった日本シリーズ8連敗

 日本シリーズに出てくるくらいだから、双方の力は五分五分だろう。とすると、2分の1の確率で、8回も続けて負け続けるというのは、

 256分の1= 0.4%

に過ぎない。社会現象の統計学的考察では、どのくらい確からしいかを示す有意水準は一般に95%に設定することになっている。

 つまり、5%より小さい確率は無視してよい、起こらない

ということになる。

 すると、西本監督の日本シリーズ8連敗= 0.4%というのは、一回、一回、前回の目がなんであったかには無関係なサイコロを振るような意味の偶然では決してあり得ないことになる。それほど異常に小さい数字である( 注記 )。

 その原因は何なのだろう。

 それは、前提とした、つまり、1回、1回の日本シリーズは独立しているという仮定が間違っているのだ(と思う)。独立していないというのは、たとえば試合の土壇場で

 またこれまで同様、負けるのではないか、という心理が選手にも西本監督にも去来した結果

ではないかということを意味する。肝心のところで過去におびえるトラウマである。

   不運にしろ、幸運にしろ、いずれにしても、8連続日本一を逃すというのは偶然ではあり得ない。江夏の21球の場合のような行き詰るような試合では、似た過去のいやな、すなわち負けた記憶が監督にも、選手にもよみがえり、土壇場で自滅する。

 そんな影響が出た。

 ● 自らは「幸運の凡将」

 西本監督自身は、名将と言われることについて、あえて言えばと、ことわりながらも、

 幸運の凡将

と述べている。リーグ優勝の原動力となった有能な選手を多くかかえながら、監督として申し訳ないとの意味が込められているのだろう。

 これは自嘲や謙遜とばかりはいえない。

 西本監督は、パリーグ一筋20年の監督だった。このことが余計に過去を引きずる原因になったのではないかと推測する。すくなくとも、それと8連敗とは無縁ではないのではないか。

 このように、原因を探っていくと、トラウマにとらわれたという意味では、大変に失礼な話だが、自ら言うように

 西本監督は凡将

なのかも知れない。過去を振り払い、その場の勝負に徹し切れなかった。

 素人考えだが、どうも、そんな気がする。

 そう考えると、殿堂入りしたほどの名指揮官にもそんな心のゆらぎがあったのかと、かえって

 人間・西本監督

に惹かれた。人間は、サイコロではない。そのことを自らの野球人生でファンに示したように思う。

  ● 注記 シリーズの負け確率は平均70%前後か

 それでは、五分五分ではないとしたら、日本シリーズに立ち向かう西本監督はどれくらいの負け確率なのだろう。

 仮に、50%の負け確率が、トラウマのせいで、各シリーズ平均して75%の負け戦だとする。

 この確率で日本シリーズ8連敗となる確率は、0.75の8乗で、

 約10%

となる。これは社会的な有意水準5%より高い。したがって、十分に社会で起こりうると考えてよい。負け確率が70%だと、それが5.8%となり、ぎりぎり有意水準をこえていて、95%の確かさで起こりえると考えてよい。

 私たちが見たのはこんな状態の西本日本シリーズ人生だったのだろう( 負け確率がもう少し低く平均0.60だとすると、8連敗の確率は1.7%と有意水準を下回ってしまい、そんなに低い負け確率ではないことになる )。

 これとは対照的なのが、川上哲治巨人監督。1965年に野球殿堂入りを果たし、1970年代には日本シリーズ9連覇を果たしている。

 こちらは、実力もさることながら、いわゆる「勝ちぐせ」がついていたのであろう。打撃の神様、川上巨人にファンが飽き飽きしたのも無理はない。ドラマのない予定調和では、スポーツはおもしろくない。

 そんなことも知った殿堂見学だった。

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