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2013年6月

圧巻、マンタの遊泳 アクアスタジアム

Dsc0184920130628 (2013.06.30)  あの熱帯に生息するという巨大なマンタ(オニイトマキエイ)の遊泳をまじかに見ることができるというので、アクアスタジアム(JR品川駅前)に出かけてみた。

 それが、写真上である。

 横幅3メートルはあろうかという、その悠々たる泳ぎは、決してサメなどには劣らない。巨大魚の風格たっぷりである。長い尻尾が特徴的だ。真正面からエサのプランクトンをがぶ飲みするのもさすがに豪快だ。

 それでいて、魚の中では、なかなか賢いらしい。同じ巨大水槽には、

 ノコギリエイ(写真中)

もいたが、マンタに比べて、見劣りがしたのは、気のせいか。

 Dsc01840 このほか、この水族館では、イルカショーもやっていたのには、びっくり。大都会の真ん中でイルカショーが見れるとは、知らなかった(写真下)。

  その驚くべき知能というか、茶目っ気ぶりは、驚異的であった。人間と戯れるすべを十分わきまえている。

 なにしろ、見に来た観客に水をかけるサービスぶりなのである。まるで人間のような演技力だった。

 Image20130628_5   

   

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「テレビの消える日」は来るか 放送60年

Dsc018122 (2013.06.27)  アメリカの経済学者だったと思うが、かつて

 『テレビの消える日』(邦訳=講談社、1993)

という本を書いた人がいた。J・ギルダーという未来技術に明るい人だったらしい。1990年にこの原著が出たときのタイトルは

 Life After Television 

というものだった。テレビ時代の次に来る未来の暮らし、というぐらいの意味だろう。

 ● J・ギルダーの恐るべき予測

 テレビは将来、パソコンに取り込まれてしまうだろう。そして、パソコンと融合した、いわばテレコンピュータとも言うべきテレビは、視聴者と双方向性の機能を持つようになるだろう、と予測した。まだインターネットのなかった時代だったから、その卓見たるや、敬服に値する。

 地上デジタル放送が本格化した今、スマホならぬ、スマートテレビの時代が模索されている。このことを思うと、その予見性は、20年先を見越したものであり、技術革新の速いこの分野であることを考え合わせると、驚異的であるとさえ言える。

 世界に先駆け、今のような方式のテレビの研究が日本の浜松市で始まって今年で90年。日本でテレビ放送がNHKと民放で本格的に始まった1953年からでも、今年で60年がたつ。

 しかし、ブログ子に言わせれば、人間の感覚器管の中で最重要な視覚機能の延長としての

 テレビが消える日は、永遠に来ない

と断言したい。テレビがパソコンに取り込まれてしまうことはない。独自の存在感を持ち続けるであろう。生物学的にみて、今の人間が人間のままである限り。

 Image1702 確かに、テレビは、これからも人間の視覚機能の延長として、パソコンとの融合など、これまでより速いスピードで、より高度に進化していくかもしれない。しかし、それも、人間の進化と無縁に進化することはあり得ない。そこには技術の進歩がこえることのできない生物学的な限界が存在する。

 人間の視覚機能を最大限引き出すことはできる。しかし、人間が備えている機能をこえる技術進歩は、無意味であり、退化であろう。

 その意味で、人間の目の延長としての「テレビの消える日」は、永遠に来ない

と思う。

 ● テレビ発祥の地、浜松

 今年は、「テレビの父」と言われる浜松市安新町出身の高柳健次郎氏が、今のような送像側も受像側も全電子方式のテレビ研究を志した1923年から90年。翌年、1924年には、浜松高等工業学校で、組織としてその創造研究を本格的に開始している。校風は

 自由啓発

だった。

 その「テレビジョン発祥の地」という立派な記念碑が、浜松市立高校隣接地の西部協働センター(浜松市中区広沢1丁目)の道路沿いに建てられている(写真上)。

  そこにかかげられた高柳直筆のレリーフによると

 「全電子方式を採用し、世界に先駆けて撮像管受像管を発明し、大正十五(1926)年十二月二十五日「イ」の字の受像に成功」(注記)

とある。「テレビ完成は昭和十年、(今のような)全電子方式テレビを完成。今日のテレビの基礎技術を確立す」とつづく(写真中=写真をダブルクリツクすると、いずれも拡大)。

 テレビの時代は、まさに昭和とともに始まったといえるだろう。

  Image1699 高柳氏がテレビ開発に心血を注いだ

 浜工専電子研究所

の場所については、上記の協働センター正面玄関脇に、

  浜工専電子研究所跡

という標柱がたっている(写真下)。

 ● テレビは20世紀最大の発明

  こうした歴史を振り返ってみてもわかるが、今のテレビの画面は、当初のブラウン管から液晶などにとって変わられたものの、白黒テレビがカラー放送に移行したものの、その大きさといい、社会的機能といい、ほとんど変化していないことに気づく。

 それでは、逆に考えて、仮に、テレビが消える日が訪れるとしたら、それはどんな状況のときであろうか。それは、人間の目が退化して、なくなる日であろう。

 そのときは、テレビ独自の存在意義はなくなる。パソコンなどのほかのものに取り込まれてしまうだろう。そんな日が100年後、200年後、いや1000年後にすら来るとは、ブログ子にはとても想像できない。

 Image1777 20世紀の重要な技術発明として、コンピューター、原子爆弾などが挙げられることが多い。しかし、ブログ子は、テレビこそ20世紀最大の発明と考えている。人々の消費行動を支配するというほかの発明では考えられない社会的な機能を果たしているからだ。

 さらに、時間スケールを拡げると、人類の大発明、つまり火の発明、印刷術の発明にも匹敵する発明だとも思う。

 ただ、火にしても、印刷にしても、テレビにしても、いずれもあまりにも身近であるだけに、その偉大さに気づきにくいだけのように思う。

 ● テレビ技術発達小史

 参考文献としては、

 http://www.nhk.or.jp/strl/aboutstrl/evolution-of-tv/index.html 

が、簡潔で一般にもわかりやすく、手ごろである。

  注記 

 浜松科学館(浜松市)には、このときの高柳の実験を忠実に再現した展示が常設されている。90年たった今でも、当時の様子を知ることができる。

 その様子が最下段の写真。左側の送像側から、右側のブラウン管型テレビ(通称、イ号テレビ)に、イロハの「イ」が伝送されてきている。

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重圧と緊張との闘い 「江夏の21球」

(2013.06.26)  このような土壇場のスポーツドラマというのは、最近の例で言えば、

 サッカーW杯出場を決めた本田圭祐のど真ん中PK

であろう。後半ロスタイムという土壇場のPKで、日本はオーストラリアに1対1と追いつき、引き分けに持ち込んだ。勝ちはしなかったものの、絶体絶命の試合を救った。

 Dsc0177321_2 本田選手は、蹴る直前、ゴール右を狙ったのだが、キーパーの微妙な動きを察知、足の蹴り角度を瞬時に変更、ど真ん中に蹴り込んだ。これが、サッカーに詳しい人の解説だった。

 ブログ子などは、最初から決めていた度胸満点のど真ん中シュートと思っていたが、そんな単純なものではなく、読みに読んだ上での

 一瞬の駆け引き

の結果らしい。そうかもしれない。

 ● 押しつぶされた近鉄、はねのけたリリーフ

  深夜、NHKプレミアムアーカイブス、

 江夏の21球

を見た(写真上= 同番組画面より。以下、同じ)。

 小雨の降る大阪球場。1979年の日本シリーズ、広島対近鉄、互いに3勝で迎えた最終の第7戦。広島1点リードで迎えた9回裏、リリーフ、江夏豊投手が近鉄打線に投げた21球の攻防を、選手、監督の心理にまで踏み込んでつぶさに解説したスポーツドキュメンタリーである。放送は、いまからちょうど30年前の1983年。

 原作は、若きノンフィクションライター、山際淳司の出世作『スローカーブを、もう一球』所収の「江夏の21球」(初出はスポーツ誌「ナンバー」(1980年))らしい。

 見た感想を先に言ってしまえば、

 この一戦の、そのまたこの回に、どちらの球団も初の日本一がかかっているという重圧と、その重圧をはねのけ、押しつぶされまいとする肉体的な、そして精神的な緊張との闘い

だったといえる。その重圧と緊張から、

 Dsc0175119 神技の1球、つまり第19球

が生まれた。押しつぶされたのが近鉄。はねのけたのが広島なのだろう。

 このことは、本田選手の場合のPKでもいえる。後半ロスタイムのこのPKに日本のW杯出場がかかっているという重圧である。そこから、神技の一蹴が生まれた。

 ● 運命の絶体絶命の第19球は「神技」

 ドラマは、ノーアウト満塁で迎えた第17球から始まった。江夏は代打、佐々木を空振り三振に討ち取る。

 そして、次の打者、石渡茂への第19球でドラマは最高潮に。依然、1アウト満塁。

 江夏は、警戒していた広島のスクイズを外し、「ストライク」。スクイズ失敗をさそった(写真中 = 運命の第19球)。この絶体絶命の1球を、江夏は自ら、外したのは「神技」と言い切る(写真下)。練習してできるものではない。また偶然に外れたのでもないと番組で語っている。

 それにしても、敗将、西本幸雄監督のよくよくの不運と無念を思った。それというのも、西本監督は8度のリーグ優勝を飾ったにもかかわらず、この江夏の21球の試合も含めて一度も日本シリーズを制覇していないからだ。

 それは、ともかく、明暗をわける勝者と敗者、勝負の世界は、なんと厳しいものなのだろうとも思った。

 Dsc01761 この年、1979年というのは、あの江川投手がドラフト指名で阪神に入団、即時トレードで巨人に移籍(交換相手は小林繁投手)という前代未聞の出来事があっただけに、一層、真っ向勝負のすごみを感じた。

 伝説的なこの勝負をみて、これこそがスポーツの醍醐味だという気持ちにされられた。

 スポーツは、小説より劇的なり

ということを思い知った。

 それに比べ、ひるがえって、自分は、立ちはだかる壁に、ひるむことなく立ち向かってきたことがこれまでの仕事にあったかと問われれば、正直、忸怩たる思いがした。

 ● 参考文献 江夏の21球

 このドキュメンタリーについては、参考文献として

 フリー百科事典ウィキィペディアの項目に

 江夏の21球

がある。全21球それぞれについて、1球ごとに時々刻々の変化の様子がわかるように、一覧表にわかりやすくまとめられている。

 ただ、臨場感のある映像の視覚効果には、かなわないような気がする。

 この作品原作の完成後まもなく病魔に襲われた山際淳司氏の早世が惜しまれる

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泣いて馬謖を斬る その真相とは

(2013.06.24)  もう50年近く前の話だが、高校時代の漢文の授業で

 泣いて馬謖(ばしょく)を斬る

というのを習った。高校2年のときであったように思う。意味は、

 私情においては忍びないが、組織の規律を保つために、やむを得ず取り立てたり、愛していた人たちの過ちを厳しくとがめ、処断する

という三国志の故事として名高い。後代の小説「三国志演義」もその解釈において大同小異。

 蜀の諸葛孔明は、魏との乾坤一擲の戦いに、小さい頃からの知り合いであり、また武将でもある馬謖を大抜擢。しかし戦ったものの、孔明の指示には忠実ではないこともあり、魏軍に大敗してしまった。

 痛手は大きく、孔明はやむなく馬謖の責任を追及し、斬ったという史実に基づくらしい。

 実は、習ったときから、この解釈にしっくり来なかった。が、さりとて反論もできないまま、今日に至った。

 指示はあったにしても、戦いは臨機応変が大事である。抜擢が裏目に出て大敗したからといって、任せた以上、孔明にこそ結果責任=任命責任がある。これを認めるのが将師の将師たる節操ではあるまいか。結果をみて、あれこれいうのは卑怯ではないか、という思いだった。

 それというのも、軍律うんぬんがさほどに問題なら、仮に大勝しても、馬謖を処刑したであろうか。そうではあるまい。将師のご都合主義のほうが軍律を最も乱すもとであると考えたい、

 早い話、蜀の王、劉備に自分がとがめられるの恐れて、孔明は先手を打ってあわてて馬謖を斬ったのではないか。

 これが、ブログ子の見方である。

 ● 作家、宮城谷昌光の新解釈

 ところが、この10数年、月刊誌「文藝春秋」に「三国志」を毎月休むことなく連載していた作家、宮城谷昌光さんが、馬謖の故事について

 ただちに斬ったのは孔明の自己保身

との新解釈を語っており、わが意を得た思いだった。

 連載145回にわたる大長編である。それが、この7月号で完結したのを記念したインタビュー「「三国志」歴史に何を学ぶのか」の中で披瀝している。

 正史「三国志」にできるだけ忠実に従い、小説「三国志」を執筆した。その結果、孔明の本質は、現実的な内政家であると喝破する。その上で、この新解釈を打ち出している。単なる思い付きではないところに、解釈の重みを感じる。

 Image1693宮城谷さんはいう。

 認めた異能の人物の汚名をすずぐ機会を与えてこそ、国家の利益になる。殺してしまっては元も子もない。将師が敗戦の責任を部下になすりつけたと言われても仕方がない

と、はなはだ手厳しく語っていた。

 その通りだと思う。

 斬ってしまっては一罰百戒にはならない。死人に口なしだ。心ならずも、泣いて、というのは、あとからつけた格好づけといえる。

 自己保身のほうが、よほど諸葛孔明の人間性に深みが出てくる。自己保身から馬謖を斬るか、余人をもって代えがたい逸材にカムバックのチャンスを与えるかという悩みに悩む選択の深みである。理想主義者ではない悩みともいえよえう。

 そこに、史実としての人間、諸葛孔明があろう。

 孔明は神のごとき智謀の人というのは虚構であり、幻想だ。それはまた、都合のいい後知恵でもあろう。後代の小説、三国志演義に引きずられすぎるのは禁物だ。

 諸葛孔明の名望は、全体的に実体とはかなり乖離しているような気がする。乖離がはなはだしいと、話がこっけいになる。

 このインタビューを立ち読みして、50年来の胸のつかえがとれた。このブログの隠しテーマ、

 常識を疑え

の典型例がまた一つ増えた。

 あの世の諸葛孔明も、きっとこの新解釈に、微笑み、うなづいていることだろう。

   (写真は、かつてブログ子が愛読した『秘本三国志』(陳瞬臣、文藝春秋、1977)。最終巻の第6巻に描かれている馬謖の故事部分)

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生命とは何か ワトソン論文から60年

Image16812 (2013.06.24)  生物学に革命をもたらしたワトソン論文が1953年、世界的な科学誌「Nature」に掲載されてから、今年でちょうど60年(写真上= 同論文とワトソン著『二重らせん』(1968)も)。

 そのせいか、日本の科学雑誌「ニュートン」が最新の7月号で

 生命とは何か

という総力特集を組んでいる。生きているとは、どういうことか、死んでいる場合に比べてどこが違うのか、という問題に光をあてている。

  60年たった今も、その明解な解答には程遠い。

 ●分子、細胞、個体レベル

 ワトソンらの論文は、遺伝情報を担うDNAの構造決定という分子、すなわちミクロレベルでの確固たる出発点を提示してみせた。生物の設計図にあたる細胞内の染色体(ゲノム)の正体は、このDNAであり、遺伝情報はここに書き込まれていることがわかった。

 これに対し、マクロレベルでは、生命とは、一般に

 植物にしろ、動物にしろ、動くこと

 外界からエネルギーを取り込んでいたり、要らないものを外界に排出していること

 自らを複製し、子孫を残すことができること

の3要素が不可欠であるといわれている。死んでいれば、動くこともないし、えさをとることもない。また子どもを産むこともない。

 このミクロレベルとマクロレベルの間がどういうふうにつながっているのか。これを解明する60年だったといえよう。

 Image1678 問題なのは、DNAというのは遺伝情報が書き込まれた物質に過ぎないという点だ。そこから生命のもとであるたんぱく質をどのようにつくりだしているのか、ということがわからなければ

 生命とは何か

はわからない。だから、ミクロとマクロを具体的につなぐには、DNAからたんぱく質を生み出す場、

 細胞の存在

とセットでDNAを考える必要がある。 

 だから、このつなぎの場として、生命とは何かにとって

 細胞からなりたっていること

という第4の要素が必要だろう。アメーバのような原始的な生きものであれ、何であれ、細胞でできていない生命というのは考えられない。それはちょうどDNAを持っていない生命が考えられないように。

 生物は死ぬと、いつかはそのすべての細胞は分解する。

 これで、分子レベル、細胞レベル、そして細胞同士がくっついている個体レベルと出そろった。

 ● シュレーディンガー『生命とは何か』

 それでは、このそれぞれの階層を貫いている物理学的な原理は何か。物理学的な、というのは、この宇宙全体にいろいろな生物がいるとしても、地球生物だけでなく、すべてに共通する原理という意味だ。

 Image1683 これを深く考察したのが、オーストリアの世界的な物理学者、シュレーディンガーである。その講演(1944年)の内容は

 『生命とは何か』(岩波新書、1951年。写真中)

におさめられている。この講演録は、上記のワトソン博士など多くの生物学者に多大な影響を与えたらしい。

 ● 「負エントロピー」を食べて生きている

 その核心は、

 生物体は「負エントロピー」を食べて生きている

というものだった(写真中=『生命とは何か』より)。

 さすがは、熱力学の大家であり、生命というものの核心を喝破した。

 閉鎖系では自然にほおって置けば、熱力学の第二法則により、必ずエントロピーは増大していく。そして最後は熱平衡に達して死に至る。これは生き物でも、あるいは宇宙の進化でも同じ。

 しかし、生物は、計算してみると常にエントロピーを減少させている。ということは、増大する一方のエントロピーを排出し、代わりにそれ以上の「負エントロピー」を取り込んで増大を打ち消すメカニズムが存在する系、それが生命に他ならない。

 つまり、生命というのは、物理学的には、開放系であり、代謝系である

と見抜いたのである。これがミクロ、細胞、マクロをつなぐ原理なのだ。

 言い換えれば、

 生物とは、単なる神が創った機械などではあり得ない

ということになる。エントロピー増大という秩序の崩壊に抗し、つねにそれを食い止めようとしているシステムなのだ。

 ● 人生に生きる価値はない ?

  以上は、生物学的な、あるいは物理学的な話なのだが、ブログ子の結論を言えば、

 Photo 生命とは何かということは、地球外生物が発見されたときに大きく前進するだろう

ということである。発見された地球外生物は、果たして細胞をもっているか、どうかが一つの鍵であろう。

 それでは、哲学的には、生命とは、人生とは何か。

 これについては、

 『人生に生きる価値はない』(中島義道、新潮文庫、2011年)

という少し、というか大分ひねくれた本がある。いろいろな意味合いに取れるややこしいタイトルであるが、言わんとするところは、

 「人生に(誰にでもあてはまるような、そして永遠にあてはまるような)生きる価値(なんか)はない」

というぐらいの意味に、ブログ子はとった。著者自身、いろいろな意味合いをつけている。いかにも「明るいニヒリズム」哲学者らしい。

 わかりやすく言えば、短い人生、「明るいニヒリズム」で行こう。人は人、オレはオレ、あまのじゃくもまた良しというところであろうか。他愛もない話といえば、話である。

 もとにもどると、だからこそ、それぞれにあった生きる意味をみつけることができる。それが「生きているとは何か」ということだろう。

 ● なぜ生物に心の宿る必要があったか

 それにしても、ブログ子は思う。

 なぜ生物に「心」が宿る必要があったのか

という問題である。物質やエネルギーには、自己決定権という意味の心はないのに。 

 生きているとは何か。それは自己決定権という心が備わっていることであり、ここが死んでいる状態とは、決定的に、そして根本的に異なる。

 人生も、もちろん、そうだろう。

 このことは、細胞から成り立っていようが、いまいが、きっとどこかにいる地球外生命も納得してくれるように思う。

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驚異の「アマゾネス」の世界 ハキリアリ

(2013.06.23)  このブログは、科学や技術と社会の関係について論じようというのがテーマである。

 人間社会では、男女共同参画社会づくりといって「男女が社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野の活動に参画できる」社会の実現を目指している。基本法にも、そう書いてある。それが活力ある日本をつくるというわけだ。

 ● 産むメス、産まないメス 真社会性昆虫

 ところが、このことは、真社会性という昆虫の仲間ではそもそも通用しない。進化論的な繁栄の帰結として、高度な分業、つまり、同じメスの中でも

  Dsc01877 生殖の分業

まで行っている。同じメスでも、産む女と、膨大な数の産まない女である。性差別どころか、生殖差別で繁栄を極めている。

  先日、アリの仲間の

  ハキリアリという社会性昆虫

の驚異の世界が、NHKのEテレ

 「地球ドラマチック 驚異のハキリアリ」

というタイトルで放送されていた(写真上=同番組画面より)。

 途中から見始めたのだが、感想を一言でいえば、

 アリの家族は、女だけの部族「アマゾネス」

のようだと思ってしまった。

 こういう〝高度な〟社会性昆虫を最近では、

 真社会性昆虫

というらしい。シロアリやミツバチもこの仲間という。

 Dsc01881 どういう点が、高度な社会性というのかというと、

 第一には、繁殖が分業化されているという点

 巣内、つまり家族のなかでは、巨大な大きさの女王アリ一匹だけが卵を産む役割を担う。

 女王アリは産む機械であり、それ以外の役割はない。産んだ卵はほとんどすべてが女王アリによってメスとして生まれてくるように調整されている。またすべて不妊調整が施されているという。

 それらのメスは育児期間がすぎると働きアリ(ワーカー)として、女王の世話を担当する(写真中= Eテレ番組画面より)。

 第二は、卵の世話や育児、食料調達、見張りや農園の管理なども、カーストと呼ばれる社会的な役割が決っている階級性がある。身分制社会である。

 つまり、家族構成は、一匹の大きな女王をトップに、比較的に小さいほとんどの働きアリ(メス、不妊)、体の大きい兵隊アリ(ソルジャー、写真下=同番組より)、ごくわずかの羽根のある雄アリ、ごくごくわずかの羽根のある処女女王アリからなる。

 この場合の雄アリというのは、人間世界でわかりやすく言えば

 ヒモ

だろう。次に女王アリになる処女女王アリに交尾する役割が与えられている。この役割が終われば、その交尾の雄アリは力尽きて死亡する。相手の女王アリは、結婚飛行で一生分の精子を受け取ると羽根を落とし、巣をつくり二度と交尾はしない。ひたすら繁殖に励む、というのだ。

 ● 女王アリ、君臨すれども統治せず

 ブログ子にはわからなかったが、こうした繁殖分業制と身分制のある昆虫がどうして繁栄できたのか、ダーウイン進化論的には大変に興味がある。不妊が進化論的に生存にとって有利に働くとは考えにくい。不思議である。

 Dsc01873 個体メスが個々に利己的に繁殖に励むのが最も繁栄するのではないかと思う。それとも、同じメスでも生殖の分業がその効率からして、より有利とでもいうのだろうか。

 いわば、産まないメスたちの共同戦線。おもしろい進化論研究のテーマだと思う。

 ところで、先ほど、女王アリをトップと言ったが、女王アリは集団生活においてはなんら命令などは出していないらしい。リーダーなどではない。これまた驚いた。

 女王は繁殖という形で君臨すれども、統治せずというのだから、人間社会でもイギリスのように、女王をいただいて世界の7つの海で繁栄した実例もあり、おもしろい。

 では、どのようにして、アリ集団は効率よく統治されているのか。

 特殊なホルモンや腹部を利用した摩擦音でコミュニケーションをとっているだけなのだという。嗅覚と聴覚だというのだから、これまた驚きだ。単純なルールで複雑な行動を統御しているらしい。

 これなども、人間社会の問題、いわゆる

 セールスマン巡回問題

に、大いに活用されているらしい。

 人の進化の歴史は、せいぜい数100万年ぐらい。これに対し、アリの進化は100倍も長く、なんと数億年もの長きにわたって、しかも繁栄しながら続いている。

 思うに、男女共同参画というのは、新参者の浅知恵でしかないのかもしれない。もっとアリたちに学ぶべきなのかもしれない。

 いや、悔しいが、学ぶべきなのだ。

  なお、生物一般について、子育てなどオスとメスの家族の姿については

 「千差万別な家族の姿」(「ニュートン」2013年5月号)に詳しい。

 オスとメスの駆け引きから性の進化に迫っており、真社会性生物のハチについても詳しく出ている。個体の利己的行動ではなく、なぜ自己犠牲の繁殖が進化にとって有利なのか、解説されている。

 ● 建築する生物たち

 Image1692 こうした真社会性昆虫にはハキリアリ、シロアリのほか、ミツバチでもみられるらしい。

 真社会性昆虫の研究がもっと進めば、共同参画社会の実現こそが日本をより繁栄させるという美しい常識に一石を投じることになるかもしれない。

 このブログには、一度は常識と思っていることを本気で疑ってみるという隠しテーマがある。真社会性昆虫の研究はそのいい材料を提供していると番組を拝見して、痛感した。

 なお、番組では、ハキリアリの巣づくりについても触れてはいた。写真のような大変におもしろい本があることを紹介しておきたい。

 この本を書評した解剖学者で名著『唯脳論』の著者、養老孟司さんは、巣をつくる行動の進化と、実際の生きもののほうの進化との関連にふれ、

 「巣は体でない体」 

と語っていた(毎日新聞2009年9月6日付朝刊読書欄)。巣をみれば、その生き物がたどったであろう進化の軌跡がわかるというわけだ。人間社会で言えば、

 住宅は住んでいる人の体(実体)を現す

といったところか。見事な視点であると思う。

 (写真最下段 = シロアリなど生き物たちの巣づくりの驚異に迫った『建築する動物たち』(マイク・ハンセル、青土社、2009年)

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その時、南海トラフ「浜岡」は海側に傾く

Image1674 (2013.06.21)  前回は「しんぶん赤旗」を取り上げたので、今回はバランスをとって、業界寄りの月刊誌(発行=エネルギーフォーラム社)の

 「月刊 エネルギーフォーラム」2013年6月号

を取り上げる。トップ記事は

 〝六ヶ所〟を狙い撃ち!

   「新規制基準」の深謀遠慮

という記事(写真上)である。ジャーナリストの山崎康志氏の取材記事なのだが、規制委の次のターゲットは、

六ヶ所再処理工場(日本原燃、青森県六ヶ所村)

だというのだ。ここは原発で使用済みとなった燃料棒からプルトニウムを取り出し、再び、もんじゅなどの高速増殖炉などで使えるようにする施設。

 使用済み燃料棒の再処理を待つための工場隣接の中間貯蔵施設(日本原燃、青森県むつ市)も視野に入れているという。いずれも、もんじゅと並んで日本の核燃料サイクル政策を支える最重要プラントである。

 ● 今、六ヶ所再処理工場はどうなっているか

 深謀遠慮というのは、現在の地震学では予知は困難であることから、起こりうる最大の地震が原発敷地直下で起きることを想定した耐震設計が求められるという点。

 これまでは起こりうる地震を想定したのが、新基準が適用されるこれからは、起こりうる最大の基準振動を前提にして耐震審査が実施される。

 これまでせいぜい500ガル程度の加速度に耐えられればよかったものが、南海トラフ「浜岡」並みの1000ガルが求められかねない(浜岡の場合、東北大震災を受けて、最近、中部電力は自主的に基準振動を約1000ガルから1900ガルに倍増する補強対策を打ち出している)。

 ところが、原発とちがって、再処理工場はすでに試運転などでプラント内部は高濃度の放射能で汚染されている。つまり、配管などを耐震補強しようにも、それが極めて困難なのだ。もはや一から建設しなおす必要が出てくるというわけで、その打撃は大きい。

 耐震補強は再処理工場の稼働の死命を制することになる。規制委はこれを狙っているというのが、記事のポイント。

 かてて加えて、この六ヶ所村のある下北半島の東方沖には、まじかに南北に走る

 大陸棚外縁断層=下北半島沖撓曲(とうきょく=たわみ)帯

が84キロにわたって存在することが最近わかった。地震を起こせば、M8クラスの巨大地震の可能性がある。

 この帯は、活断層である可能性がきわめて高い。専門家によると、下北半島の東海岸沿いに段丘やたわみなど過去に地盤の隆起を示す地形が多く存在するからだ。こうなると再処理工場や中間貯蔵施設はこれまでのようなM7クラス耐震ではなく、M8クラスの耐震性が求められる。万事窮すとなる(この地域、東通村には同居の東電の東通原発、東北電力の東通原発もある)。

 だから、規制委は、再処理工場がこの秋、10月に竣工しても、完工に必要な使用前検査を受けさせないらしい。その前に、12月に出来上がるサイクル施設の新規制基準の審査をクリアした後に、使用前検査を行なうという手順を示しているという。

 Image916 審査で何を確認するかというそのサイクル原子力施設用の審査ガイドによると、

 海底に顕著な変動地形が認められる場合にも (中略) (変動地形の直下に)活断層を想定する必要がある

となっている。

 当然、審査官はこの点で活断層であるかどうか、ガイドに従って申請事業者の日本原燃に確認することになる。活断層ではないことを具体的に示すデータが提出されない限り、稼働はできないことになる。論法としては、活断層ではないというデータが示されないときは、想定どおり、敷地直下に活断層があるものとみなされるのだ。あれば原発立地はできない。

 立地してしまったものは仕方がないという論理は、新基準では原発版リコール制ともいうべき

 「バックフィット制」の適用

で、通用しなくなった。

 車同様、古かろうと新しかろうと、すべての原子力施設は最新の規制基準に適合しなければならなくなったのだ。

 ●浜岡原発にも、巨大な遠州灘撓曲帯

 実は、写真中の遠州灘に面する南海トラフ「浜岡」にも、直下に活断層をうかがわせる遠州灘撓曲(とうきょく)のあることが、名大大学院の鈴木康弘教授(変動地形学)らの調査で福島原発事故後に明るみに出た。

 東京新聞朝刊の記事(2011年7月17日付)は以下の通りである。

 浜岡原発直下に活断層 名大教授ら指摘

 中部電力は存在を否定

 = 「tokyo_web.mht」をダウンロード 

 7610807844_58e1922f50_2 この件については、当時の保安院の専門家からなる審議会でも議論された。中部電力も海底の地質構造を探るため海上音波探査を行なった。しかし

 「撓曲帯に対応する海底地層の変化はみられない」

として活断層の存在を否定した。ただ、この探査では海底下約5キロより深い海底地下構造について調べることができない。このこともあり、

 「中電の説明は十分ではない」

との宇根寛氏(国土地理院測量部長)など複数委員の意見が審議会で示された。この問題は現在も、先延ばしされたままであり、未決着なのだ。

 ● 地すべりでプラントが倒壊

  7610807690_30aee70edb_3 仮に、撓曲帯の真下に、想定どおり活断層があって、南海トラフ巨大地震に伴って、この活断層が動いたとすると、どうなるか。

 これにこたえたのが、活断層調査に詳しい東洋大学の渡辺満久教授(変動地形学)。同教授へのインタビューの様子を伝えた「You Tube」(2012年7月20日公開)によると、

 原発が立地する地面が(不等に)隆起し、地盤は地すべりしながら海側に大きく傾く。この地すべりに原発は耐えられないだろう

というのが教授の見立てである(解説図)。この重大な見解は、浜岡の場合、福島原発事故とは様相が大きく異なることを示しており、注目される。

 地盤の不等な海側への地すべり隆起で

 原子炉の緊急停止に失敗し、核暴走が起きるか、

 あるいは、原発の敷地が地盤ごと大きく海側に傾き、核暴走のまま、プラント全体が倒壊する

 そんな事態が予想される。つまり、津波という福島原発とはまったく異なる事態である。

 これに対し、防潮壁うんぬんという対策ばかりが注目されているが、これなど見当違いになりかねない指摘だ。原発敷地全体が大きく海側に傾き、プラントがズタズタに倒壊または崩壊する危険があるという問題だ。

 核暴走で原子炉が爆発したチェルノブイリ事故の悪夢。これが、巨大地震と同時に再現されることになる。まさに考えたくもないことが、南海トラフ「浜岡」では起きる可能性が高い。こうなると、即時避難区域は、30キロ圏どころではすまないだろう。

 ● 活断層調査、やり直しを

 渡辺教授は、インタビューで

 「浜岡原発を含めて、これまでの原発施設の活断層調査は、あまりにずさん。専門家は何をしていたのか。きちんと評価し直すべきだ」

と訴えている。当然の主張だ。

 今からでも遅くはない。静岡県民として真摯にこの声に耳を傾けたいし、傾けなければならない。少なくとも、撓曲帯下の断層を含めて、やり直しの敷地内活断層調査がすむまでは、再稼働は認めるべきではない。それを県民の総意にしたい。

 冒頭に取り上げた月刊誌にならえば、再処理工場問題の次には

 南海トラフ「浜岡」が狙い撃ち

にされるに違いない。静岡県民としてブログ子は、これは歓迎すべきことと考えたい。

 ● 中電、今が絶好の機会

 業界が右を向いているからといって、自分まで、無分別に右に向く必要はない。

 電力会社として原発を持たないと、業界内で肩身が狭い。そんな時代は遠い過去の話ではないか。原発を持たないクリーンな姿勢は、自民党が今推し進める電力の完全自由化を控えて、かえって消費者に大いにアピールするだろう。

 メリットは、それだけではない。

 廃炉を決断するとしたら、今なら痛手は小さく、長い目でみると、原発依存度の低い当の中部電力がもっともその恩恵に浴することになる。関西電力のような原発依存度の高い事業者では、言葉は悪いが、もはや手遅れのような気がする。

 浜岡原発について、ただちに廃炉とこのまま当分は停止継続の意見をあわせると静岡県民の6割近い。このことを考えると、県民はもちろん、脱原発=原発依存度ゼロの国民からも、廃炉決断の中電は大いに賞賛されるだろう。

 中部電力は、福島原発事故をしでかした東電の愚かな二の舞を演じてはなるまい。今が、堂々たる大義名分が立つ絶好の機会である。

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原発の新規制基準、今必要なこと

(2013.06.21)  原子力規制委員会が、原発の新しい規制基準を決定したことを受けて、全国紙、地方紙一斉にこのニュースをトップで伝えている。

 このブログでは全国紙、地方紙ばかりをこれまで取り上げてきたので、今回は、少し目先を変えて

 Image167520130620 日本共産党機関紙 「しんぶん赤旗」

の一面をここに紹介する(写真上=2013年6月20日付)

 案の定というべきか、

 再稼働ありき

と横見出しで大きくアピール。たて見出しには、

 規制委が新基準決定 国民の安全置き去り

 電力各社 申請へ

というふうに伝えている。主張のある機関紙だけあって、横見出しに評価を打ち出しているのが特徴(一般紙では、解説記事にせいぜい3段ぐらいの見出しでつけるのが普通)。ひとめでみて、わかりやすい。が、ステレオタイプの見出しでインパクトはないか、または小さい。たて見出しの「国民の安全置き去り」というのもそうだが、お定まりの言い方だからだ。

 そうは言っても、一般紙もこの赤旗紙と似たり寄ったりだった。

 ● 「基盤機構」との統合を視野に

 ところが、NHKのこの日(6月20日)夜の

 クローズアップ現代(写真下)

が鋭かった。

 世界一厳しい審査基準が決定されたのは結構だが、これからの審査に当たって安全を実質的に確保するには何が必要か。専門機関としての能力的な面でも、人員数的にもアメリカなどに比べてかなり劣っている現状をどう克服していくか。

 そんな視点から、関西大学社会安全学部の安部誠治教授を招いて、論じていた。その中で教授は

 原子力安全基盤機構(JNES、本部=東京都港区)との統合を進めることも視野に入れるべきだ

と言及していた。規制委の態勢強化策として傾聴に値する卓見だろう。

 基盤機構は、原子力施設の設計から廃炉までの安全対策、評価、解析、検査、技術支援を業務としている専門機関で、独立行政法人。おおむね電力各社から独立しているといわれている。

 委託事項を請け負うだけの下請け機関の位置づけよりも、統合により自ら積極的に関与できる責任と自覚を持ってもらう意味合いは、安全確保の上で、大きい。

 さらに統合については、現時点でも、基盤機構は規制委の求めに応じている。具体的には共同で新基準づくりや、基準に基づいて審査官は何を確認するのかなど審査ガイドづくりの技術支援面で具体的な作業をしている。統合しやすい実績と実質があるといえよう。

 この実績と実質を今後の規制委の活動に生かすべきだろう。

 ● 透明性、独立性、専門性が必須

 Dsc01712n20130620 規制委には、

 透明性と独立性の確保

が求められる。独立性の見地から、現場の電力各社の意見をともすると無視しがちである。しかし、それでは安全確保の実質を欠く。

 専門知識を持つ電力各社自ら安全文化の向上を図ることがなんと言っても大事だが、それには規制する側にも専門知識が不可欠だからだ。お任せ文化は通用しない。

 だから、規制委とその事務局の原子力規制庁も、専門性を持つことが喫緊の課題。

 役人集団、素人集団では審査にあたって、形式は整っているとはいえても、審査結果に専門的な重みが伴わない。

 透明性が確保できたとしても、それだけで安全性が確保されるわけではない。透明性の確保は必要条件ではあるが、安全確保の十分条件ではないからだ。

 ● スローガンより、その中身を論ずる

 冒頭の「しんぶん赤旗」紙を皮肉るわけではないが、スローガンではなく、「国民の安全置き去り」にしないためには、今何をしなければならないか。その中身を論ずることが、基準が決まった今、必要なことであろう。

 基準が世界一厳しいかどうかという形式は問題ではない。日本の原発は世界一安全に運転できるかどうかという実質が問題なのだ。

 ● 補遺 4年後の2017年が、脱原発の正念場

 産経新聞2013年6月25日付によると、

 規制委は、規制庁の人材難について、田中俊一規制委員長は

 「頭の痛い問題」という表現で、人材不足を認めている。原発の安全技術に精通した人材として規制委には更田(ふけだ)豊志委員がいる。しかし、事務局の職員のなかには、そうした人材は決定的に不足している。

 田中委員長はこの点についてさらに

 「将来的には規制庁の職員だけで新基準による審査ができるように願っている」

と述べている。基盤機構との統合を視野に入れているとも取れる発言だ。

 注目されるのは、現在の規制委の委員長と委員の任期は5年という点。再任は法的に可能。国会の同意人事でもあり、4年後の任期切れの2017年9月が、原発再稼動の正念場だろう。

 浜岡の再稼動問題でも、この時期は、再稼動に慎重な川勝平太静岡県知事の任期切れとも重なり、脱原発の流れを左右する正念場となろう。

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勝者の自虐史観「もう一つのアメリカ史」

Image1645_3 (2013.06.18)  NHKが衛星放送BS1でシリーズ放送していた

 オリバー・ストーンが語るもう一つのアメリカ史

が、先日、第10回(テロの時代 ブッシュからオバマへ)で完結した。

 ● 未来志向の史観

 もともとのタイトルは

 The Untold History of the United State

というもので、2012年にアメリカで放送されたものらしい。

 この「The Untold History」というのを、一言で要約して言えば

 (太平洋戦争の)勝者の自虐史観

ということだろう。4月からの一連の番組を見終わって、つくづくそう感じた。勝者の素朴な愛国史観に対し、警鐘を鳴らしている。

 太平洋戦争の敗者、日本の自虐史観=東京裁判史観とは異なり、増長する愛国史観に高転びするぞという未来志向の警告を発している。

 日本の自虐史観は、後ろ向きの自虐史観。戦前の日本は朝鮮半島、中国大陸、東南アジアの国々を侵略し、多くの国民に多大な犠牲を強いた、すまなかったというものとは質的に違う。

 ただ、似ているところもある。ベトナム戦争では日本と同様、アメリカは惨めな敗者となったことである。自らも従軍したこの戦争の体験者、オリバー・ストーンが、この10回シリーズを語ったというのは偶然ではあるまい。

 警告を込めた未来志向の自虐史観は、敗者の中から生まれるのであって、決して勝者のおごりからは生まれないことを示している。

 ● トルーマンとブッシュ・ジュニア

 シリーズでおもしろかったのは、やはり、勝者となった第二次大戦前後の話。

 ながながとは書かないが、ひとことでまとめれば

 ハリー・トルーマンというのは、

 ひょんなことから副大統領に選出され、ひょんなことから大統領にまでさせられてしまった世にもまれな小心小男。

 その小男がこれまた、小心ゆえに

 ひょんなことから日本に原爆投下までをも引き受けさせられた自信過剰男だったというエピソードは皮肉たっぷりでおもしろい。

 言いえて妙で、この酷評は多分に真実だろう。

 Image1508_2 シリーズ最終回に、これと似たような小心小男として、ジョージ・ブッシュ・ジュニアが登場する。9.11の同時多発テロ時の大統領である。

 勝つためには手段を選ばず、ウソの口実で無理やりイラクを戦争に引きずり込んだ。その揚句、イラクにあるはずだった大量破壊兵器は存在しなかった。国連安保理を舞台にしたあまりにも破廉恥な茶番だったことが白日のもとにさらされた。

 ● 欺瞞に満ちたオバマ大統領

 しかし、ブログ子がみるかぎり、欺瞞に満ちた大統領というのは、小心でも小男でもないが、

 バラク・オバマ

の右にでるものはない。

 国内的には透明性の高い社会を、国際的には法と秩序の国際社会をうたう。しかし、ビンラーディン容疑者暗殺にみずから先頭に立ち、ついにはパキスタンの主権を踏みにじる形で暗殺を堂々と実行したその

 超法規的な手段

は、まさにオリバー・ストーンが言うように

 ヒツジの皮をかぶったオオカミ

である。裁判無用、問答無用と、その場で無抵抗の容疑者を射殺。暗殺実行前に練られたシナリオどおりの非道さを押し通した。

 イラク戦争の時には拘束した元サダム・フセイン大統領をその場で射殺したりはしなかった。形ばかりとはいえ、イラク人による裁判を行い、その結果、判決どおり、絞首刑に処せられた。オバマ政権にはそうした配慮すらなかった。問答無用という無法ぶりを大統領自身が演出するなどというのは前代未聞といえよう。

  標榜する言葉とは裏腹なその極端な無法ぶりは驚くべきものだ。このようなことは、ブッシュ・ジュニア時代にもなかったのとは、著しい違いであろう。

 国内的には、リーマン・ショックの不当なほどの金持ち救済策が番組では取り上げられていた。これがショック後のアメリカ社会をますます

 超格差社会

にしている。

 テクノロジーへの極端な過信もある。際限ない無人兵器の開発がその例であろう(写真中=米空母からのステルス無人戦闘機の発進テストの光景。2013年5月16日共同通信配信)。この光景は、戦争が人間同士の戦場でのぶつかりあいから、一変、人間とロボットの戦いという非人間的な新しい段階に入ったことを物語っている。

 テクノロジーを駆使し、人間同士の信頼より、勝つためには手段を選ばないというやり方はますます

 テロの時代

を過激なものとしていくであろうと番組は警告していた。

 Image166020130614 テクノロジー過信の究極の現われが、最近暴露されたネット監視という

 米情報機関「国家安全保障局」(NSA)による極秘の情報収集

であろう(写真中=2013年6月14付朝日新聞)。これまでベールにつつまれていた米巨大情報機関の諜報活動が通話記録、通信記録の収集にまでおよんでいたという一大スキャンダルにまで発展している。

 ここには、ビンラーディン暗殺後の今も、テロの恐怖に支配されているアメリカ政府の自縄自縛的な姿がある。

 ● 後ずさりする勇気

 かつて偉大な大統領、F.ルーズベルトは

 「ソ連との軋轢を過小評価したい。こうした衝突は避けることができると信じている」

と述べたという。

 さらに言えば、米ソ冷戦の最中、キューバ危機では、米ソともに土壇場で

 後ずさりする勇気

を示して、人類の危機を乗り切った実例がある。前を向いたまま後ろに下がることは、決して敗北でも、弱腰でもない。前に進むことによって引き起こされる最悪の事態を自ら回避するための冷静な判断の結果であり、理性的な行動の表れである。

  このような高度な判断や理性的な行動は機械やコンピューターには、決して、そして、およそできないことを忘れてはなるまい。なぜなら、そこには人間同士の信頼感があるからだ。人間だけが理解できる論理をこえた冷静な判断があった。

 この意味で、兵器の極端なテクノロジー化には、論理的であるがゆえに意外な、そして取り返しのつかない盲点や落とし穴がある。

 テロの時代にあって、アメリカはテロの脅威を過小評価する勇気がいまこそ要るのではないか。かつての共産主義社会の極端なまでの密告社会がどんな末路をたどったか、今一度、アメリカは二の舞にならぬよう、振り返ってみる必要があろう。

 テロから国民を守るためという目的は手段を決して正当化しない。

 アメリカは今、テロの恐怖の下、不透明で法と秩序のない自滅の道を自ら歩んいるように思えてならない。

 アメリカの真の敵は、異国の地にではなくアメリカ人のなかにいる。アメリカは今、それを忘れている。

 シリーズを見終わって、そう思った。

 注記

 Image1659 自虐史観というのは、素朴な心情に訴える愛国史観同様、いつの時代にも、どこの国にもある。どんな国にも汚辱の歴史が一つや二つはあるからだ。たとえば、お隣り韓国にだってある。

 そんな韓国人による最新刊が書店にも並んでいる(写真下=浜松市内の書店)。

 反日民族主義を国是として国民を洗脳しなければ国が成り立たない韓国の悲しいまでの事情を語る

 『困った隣人 韓国の急所』(井沢元彦/呉善花、祥伝社新書)

や、韓国は先進国かと疑問を投げかけ、日本人が知らない素顔の韓国について語る

 『歪みの国・韓国』(金慶珠、祥伝社新書)

など、枚挙にいとまがない。

 しかし、勝者の自虐史観というのは珍しい。敗者の負け惜しみなどではなく、勝者のおごりを自ら戒めていると考えれば、オリバー・ストーンの放送もわかりやすいかもしれない。

 そういう意味で、ストーンは

 勇気ある「真の愛国者」

かもしれない。

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「浜岡」に対する静岡県民の総意とは何か

(2013.06.17)  静岡県知事に、原発再稼働に慎重な現職の川勝平太さんが過去最多の100万票超という圧倒的な支持をうけて、再選された。

 これで、浜岡原発の再稼働に対する知事の基本姿勢は明確にわかった。

 ● 住民投票はすべきが総意

 次の焦点は、南海トラフ「浜岡」に対する県民の総意はどうかということである。

 ところが、原発の再稼働に対する住民投票条例づくりの直接請求が昨年、県議会で頓挫したので、正式には現在のところわからない。

 Image165620130611 しかし、この選挙の関連で、中日新聞東海本社が行なった県民1000人世論調査の結果がよい手がかりになる。浜岡原発の再稼働の是非と、再稼働についての住民投票の賛否の結果が2013年6月11日付朝刊に掲載されている(写真。注記)。

 住民投票に「賛成」が39%に対し、「反対」は7%。再稼働をめぐる住民投票はすべきだというのが、県民の総意といえるだろう。これははっきりした。

 ● 比較第1位なら総意は再稼働「賛成」

 それでは、一度は挫折した投票条例づくりだが、仮に実施したとしたらどんな総意が得られるのだろうか。

 それは、投票の結果の決め方によるが、仮に過半数の意見を県民の総意とすると決めたとする。

 すると、世論調査では

 再稼働「賛成」は39%、停止継続32%、ただちに廃炉26%

なので、いずれも過半数に達せず、総意は決められない、総意はないということになる。

 また仮に、最も多い意見を総意とするならば、

 再稼働「賛成」が静岡県の総意

ということになる。

 いずれにしても、ブログ子などが求めている

 ただちに廃炉

というのは、総意にはならない。

 総括すると、「ただちに廃炉」派を確実に比較第一位にするには、「停止継続」派の大部分、25%分以上を取り込む必要がある。これは「停止継続」の約8割を取り込むことに相当し、なかなかハードルは高い。

 このくらい取り込めれば、過半数を総意とするという厳しい条件もクリアする。確実に、

 静岡県民の総意は「ただちに廃炉」という県是

が確立することになる。

 ● 住民投票へ議論を煮詰めよう

 再選を果たした川勝知事の任期後半には、確実に浜岡原発の再稼働が県政の大きなテーマになることは確実である。

  川勝知事は、再選直後の記者会見で浜岡原発の再稼動について

 「現状は条件が整っていない。この現状は今後相当長く続く」

との厳しい見方を示し、今後4年間の任期中に再稼動の是非を判断するのは困難との見通しを述べている(中日新聞2013年6月19日付朝刊)。同記者会見では、再稼動の是非について住民の直接請求に基づく住民投票をすべきであるとも強調している。

 結論として、知事の意見を聞くまでもなく、今のような再稼働について県民の意見が大きく三つに分かれている状況は、安定した県政運営にとっても好ましいことではない。県民の総意を明確に打ち立てるしっかりとした県民レベルの議論を今から煮詰める努力が、県民側はもとより、行政にも議会にも求められる。

 注記

 この調査は、RDD方式といって、コンピューターを使った電話世論調査。調査員による面接方式に比べて荒っぽく、応対の無機質な面がいなめない。回答者にある程度考えさせる時間的な余裕をほとんど与えていない欠点がある。即答型なのだ。

 したがって意見集約の精度がそれほど良くないことが知られている。このことから、あまり細かい議論や結論を引き出すことはできないことに注意すべきである。おおよその傾向をつかむのには便利であろう。

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監視の「番犬」から、権力の「飼い犬」に

Erarrowclicktopright3576_aa300_sh20 (2013.06.17)  たまには新書というお手軽な本もいいと思って、最近刊の

 『新聞消滅大国アメリカ』(鈴木伸元NHK記者。幻冬舎新書。写真上)

を手にとった(写真)。ブログ子は最近まで日本の新聞業界にいたこともあり、興味を持った。アメリカの危機的な状況は、10年後の日本であることを思うと、この本を読んでゾッとした。

 一言で言えば、IT技術の普及に伴う紙メディアの経営難から、各社ともにすさまじい人員削減が行なわれている。そのせいで、いまや権力を監視する番犬のはずの日刊紙が、権力の飼い犬に堕落する瀬戸際にまで追い込まれているというのだ。

 ● NYTは3年間で1400人解雇

 何しろ、2009年までの3年間で、あのニューヨークタイムズ(NYT)紙が記者を含めて社員数の3分の1に近い約1400人も解雇した。ワシントンポスト紙も、全支局を廃止した。西海岸でも、有力紙のサンフランシスコクロニクル紙が半数を解雇というすさまじさだ。

 同著によると、この3年間で全米で約50日刊紙が消滅したという。企業買収の盛んになっているというし、その後もますます、解雇は加速しているという(補遺)。

 ● 日本は宅配制度と再販制度に守られて

 これに対し、日本の新聞業界にはかってに販売価格を変えることを禁止する

 再販売価格維持制度(通称、再販制度)

というものがある。日本は自由主義経済の国なのに、新聞だけは売主が勝手に値引き販売ができない。1部買っても、まとめて10部買っても値引きはできない。値引きは違法なのだ。きわめて変則的な独占禁止法の例外規定だ。

 新聞はほかの商品とは違い、言論の自由を守る商品特性があるとの美名のもとに、国民にほとんど知られずに、これまで〝ひそかに〟存続し続けてきた。

 新聞は、唯一のこの再販品であることで、販売店のすみわけ、地域割りが定着。過当競争を排除し、戦後60年以上にわたって経営を安定させてきた。

 新聞以外の書籍も再販品だが、最近では「自由価格本」という名で、新本でも割り引きができるやり方が、少しずつ普及してきた。しかし、新聞業界には、

 値引き可能な自由価格新聞

というものは、一切、存在しない。

 ● 日本はこの10年で年率2%ずつ人員削減

 Image1114 どのくらい経営が安定しているか。

 日本新聞協会が発行した

 「データブック 日本の新聞2010」(写真下)

によると、協会加盟の新聞・通信社社員総数の推移では、2009年の10年間では約6.0万人(1999年)から、毎年2%程度ずつ減少、2009年には約4.9万人に。総売上高の減少に比例する割合で、ゆるやかに減少している。

 日本はアメリカとは違って、業界保護の再販制度や、それを前提とする宅配販売店テリトリー制があるために、今の制度のままでは激変は考えにくい。事実、加盟の日刊新聞社が潰れたという話はない。

 ● 「対岸の火事」視はできない

 しかし、独禁法の〝鬼子〟である

 再販制度はいずれ崩壊する

というのが、世界の流れからみて業界の常識。いつまで持ちこたえられるかが焦点なのだ。その制度が土壊した時、すなわち国民がこの制度を支持せず、見放したとき、そのときは米業界同様、業界再編や、さらには企業買収による御用新聞の続出など

 弱肉強食の新聞戦国時代

がやってくるだろう。

 果たしてこのことがいいことなのか、どうか。世界で最もジャーナリズムの盛んな米業界の今後をみればわかるだろう。

 ブログ子の意見は、再販制度の維持は、悪名高き鬼子ではあっても、国民の利益を守る必要悪であると考えたい。それには、社説や評論など、ますます国民の側に立った新聞づくり、論説記事の多様化と強化が重要になってくる。

 そういう意味で、米業界の今の動きは、「対岸の火事」視はできない。10年後の日本の新聞界を占う契機であり、

 他山の石

にすべきである。

 補遺 ワシントンポスト紙もついに身売り 2013年8月6日

 そして、ついには、長年収益が減り続けていた米有力紙、ワシントンポスト紙も

 アマゾン創業者のCEO(ベゾフ氏)に個人買収される

という深刻な事態に至っている。なにしろ、過去5年間で営業収益が半減するという深刻さだったらしい。ネットビジネスを中心に新聞改革を行い、経営を立て直すという。

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そんなに急いでどこへゆく 時計展に行く

Image164620130615 (2013.06.15)  自宅近くにあるせいで、土曜日の午後、散歩がてら浜松市博物館(浜松市)に出かけた。「時の記念日」(6月10日)ということもあるのか、

 市民コレクター展「掛け時計と変わり時計」

というのをやっていた(写真上)。

 収集した浜松市在住の黒田清孝さん自身の解説が、時計職人らしい実直な話ぶりでなかなかおもしろかった。

 高度経済成長前の昭和30年代の掛け時計の精度をお聞きしたら、

 「一日にして3分くらい」

と即座に答えてくれた。いまなら1カ月3分くらいが、がまんの限度だろう。ということは、

 今は、50年以上まえの30倍もせかせかしている

ということになる。ゼンマイ仕掛けの掛け時計のなかった江戸末期から明治初期では、一日の長さが季節によって一定していなかった。このこともあり、1日30分の精度、つまり「一刻」の四分の一の精度があればいいほうらしい。

 ということは、

 いまは、明治初期ごろに比べ、300倍も忙しい時代

ということになる。前回のこのブログで取り上げた池内了さんの

 急ぎ過ぎる現代

というのも、むべなるかなという感慨を持った。

 なにしろ、最近の株式のコンピューター売買では、1000分の1秒差が勝負というのだから、驚く前にあきれてしまう。

 ● 占領下でも日本は時計輸出国

 さて、振り子の等時性を利用したその掛け時計。日本では

 明治初期から中期にかけて、アメリカ製の

 八角合長型やダルマ型(いわゆる四つ丸型)

を輸入することで普及した。この間、国内でも試作が始まり、明治20年代には国産品が量産された結果、輸入は激減したらしい。

 大正時代になると、逆に日本は、その精度の良さから時計を海外に輸出するまでに成長する。アジアだけでなく、フランス、イギリス、そしてアメリカへも輸出した。

 昭和に入り、目覚まし時計なども出回ったという。そして、戦後の米軍占領下でも、時計は輸出品であり続け、

 Made in Occupied Japan

という〝ブランド〟で海外に届けられたほど日本は 

時計の国

となっていた。展示会場には、このときの丸型金属製の目覚まし時計が展示されていた。実に精巧なつくりに感心した。

 ● 動力源の変遷をたどると

 この歴史を、時計を動かす動力源に着目して考えると、

 江戸時代の櫓時計は、おもりが少しずつ下に落ちる分の位置エネルギー利用の水平時計

 明治以降のゼンマイ時計は、ひずみという弾性エネルギー利用の振り子垂直時計

 最近の水晶時計(クオーツ)は、電池エネルギー利用の発振時計

というふうに変遷してきた。

 江戸時代前にも、奈良時代以前には

 漏刻という水時計があった。これも動力源は水の重力位置エネルギーを利用している(注記)。

 さらには、それ以前、日本ではほとんど使われなかったものに、

 日時計

がある。これは、日影棒の影の位置から時刻を知る装置。大きな特徴は、時計自体を駆動させるにはエネルギー源を必要としない点である。太陽の存在を前提に、その地上に現れる影だけで時刻を知る方法だからだ。だから、表示板は水平時計でも、垂直時計でもいい。

 こんな方法がエジプトでは紀元前3000年も前にはすでに利用されていたらしい。

 Image1655 実際は、その起源はもっと古いだろう。

 最近では、おもちゃ時計(装飾インテリア時計)も人気だという。おもちゃ時計といっても、遊び心のあるこったものであり、写真下は、展示会場にあったもの。

 ● 時間は十分にある。  

 有名な皮肉屋の『悪魔の辞典』には、「時計」の項目にこうある。

 人にいかに多くの時間が残されているか、気づかせてくれて、その人の未来に対する不安を和らげる、人間にとってきわめて大きな精神的価値のある機械。

 時間は十分にある。本当に「時間がない」のは死んだ人だけなのだ。そんなことをこの警句は皮肉っている。なにもそんなに急ぐ必要はない。時間は十分にあると。

 注記 

 時の記念日については、

 日本書紀によると、

 太陽暦の671年6月10日

に公式に、この水時計「漏刻」で時刻を告げたとある。このことから、6月10日を時の記念日としている。天智天皇のころにはもう水時計があったことがわかる。

 今の奈良県明日香村には、謎の石造りの水関連施設が多く散在しているが、この中にはこの漏刻もあったように思う。

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このごろ日本で流行るもの

(2013.06.14)  ブログ子の敬愛する宇宙物理学者、池内了さんが、中日新聞の文化欄「時のおもり」におもしろいことを書いている。

 B787に重なる原発再稼働

というのだ(2013年6月5日付)。要するに、原発再稼働にしろ、B787のバッテリートラブルにしろ現代人というか、とりわけ政権与党は急ぎすぎているのではないか、と性急さを戒めている。この背景には経済事情があることは、国民みんなが知っている。

 ● ささいな事故の恐ろしさ

 Image163920130605 福島原発事故も、B787バッテリー改修騒ぎも、いまだ根本的な原因はかいもくといっていいほどわかっていない。

 それなのになぜそんなにも急ぐのか。今以上の重大事故が起きるのではないか。

 原発事故については、これまで何度もこの欄で書いてきたので、あまり多くは語らない。が、原子炉の中の水の状態を中央制御室に正確につたえなければならないはずの水位計のちょっとした狂いが、破局を招いた可能性が指摘されている(政府事故調委員長の仮説)。大仕掛けの原子炉の構造に比べれば、ほんのわずかな、とるに足らない計器の設計ミスが、巨大事故の根本原因である可能性だ。

 ● もんじゅのナトリウム漏れ事故との共通点も

 原発事故では、わたしたちはまだ事故の本当の姿をとらえていない。事故の全体像を捕らえていない。なのに再稼働というのはどう考えても恐い話だ。

 このことは、ナトリウム漏れ事故を起こした事故でもいえる。この事故原因は、なんとだれもがなんの注目もしていなかったナトリウム温度計のごくささいな設計ミスだった。これが、ナトリウムの流れによる共振で冷却装置を破壊した。国をゆるがす大事故を引き起こす引き金になった。

 B787のバッテリー事故も、それ自体はたいした事故ではないのかもしれない。しかし、発火を抑えるあらゆる改修をしたことは、かえって危険ともいえる。これまで発火が起こることで未然に大事故にまで進行しなかったものが、改修で大事故を引き起こすことが十分考えられるからだ。

 この場合も、バッテリー発火事故事故の全体像はつかんでいない可能性が高い。

 というのも、運行再開が始まって2週間がたつが、国内だけでも表示不具合など一見ささいとも思える10件近いトラブルが相次いで報告されているのが気になる。バッテリーが発火するようになっていたときにはなかった出来事のように思える。

 ● 補遺 アエラも、ドタバタ劇を皮肉る

 Image164420130617 蛇足だが、原発の再稼働にからんだ自民党の動き、経済論理については、最近の

 「アエラ」2013年6月17日号に詳しい。タイトルは

 どさくさ再稼働の巧妙

というもの。中身に新味はないが、

 規制委へじわり圧力、事故調の成果にもフタ

となかなか辛らつな書き方になっているので、おもしろい。池内さんの話の政治版として読めばわかりやすい。

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エベレストが泣いている 

Image164320136 (2013.06.14)  先日、80歳で3度目のエベレスト登頂に成功という冒険家、三浦雄一郎さんの快挙について、このブログで、手放しで

 すごい

と書いた。ところが、山に詳しいある男性から、三浦さんがすごいのは確かに間違いない。しかし、今、

 エベレストは大混雑で困っている

という指摘を受けた。運動オンチのブログ子にはなんのことか、すぐにはわからなかった。いろいろ説明をきいているうちに、ようやくその話の意味がわかった。

 いまごろのエベレストの山頂近くは、天候にも恵まれ、少しオーバーに言えば、登山家の群れで文字通り、押すな、押すなの大渋滞らしい。

 ● コラムニストの山頂取材にびっくり

 そんなこともあり、少し図書館で最近のエベレスト登頂について調べに出かけた。しらべるまでもなく、なんと、写真上に示すように

 満員のエベレスト

という特集記事か出ていて、びっくりした(世界的に知られたカラー雑誌『ナショナルジオグラフィク 日本版』(2013年6月号))。山頂で何が起こっているのか、この山に登ったコラムニストの問題提起の特集である。

 登頂成功の華々しい写真の数々の外側には何があるのか

 それを確かめたいというものであり、コラムニストの目が光っていたのはさすがである。

 この雑誌の後ろに写っているのは、三浦さんの快挙に同行したカメラマンの記事。ベースキャンプで笑顔で乾布摩擦をする三浦さんの写真とともに

 三浦さん、次の夢へ

と、大きな見出しがみえる(産経新聞2013年6月13日付)。

 この二つは、あまりにも対照的である。三浦さんの快挙をたたえる産経新聞。これに対し、今のエベレストのなげかわしい大渋滞状況をどう解消し、どう再生したらいいのかと嘆く『ナショナルジオグラフィック』。

 このコラムニストの記事によると、この写真は、去年の5月19日の山頂直下のヒラリーステップと言われている岩場の様子(約8770メートル)。8000メートル以上のデスゾーンの中でもとりわけ危険性の高い岩場に、薄い空気と寒さに震えながら、今か、いまかと登頂の順番待ちが200人以上なのだ。

 それでも、この日だけで234人が順番待ちに耐えて登頂に成功したという(死亡4人)。

 ● 夜は一層、大混雑

 ブログ子などは、なにも知らないから、ぬけがけで少し早めに最終キャンプを出発すればいいのではないか、と思ったりもする。

 現実は、まだ夜明け前には数時間もあるのに、はや真っ暗闇のなかにヘッドランプをつけた登山家が大行列をつくる。その光のラインが山頂近くまで一本の白い糸のように切れ目なく続く写真も見開きで大きく掲載されていた。

 これでは、自分の体力に合わせて登山などできない。疲れたからといって、休めない。押されるまま前へ、前へと進むしかない。だから、遺体もあちこちに放置されたまま。

 いまや登頂は、自分の体力との勝負でも、自然の厳しさでもない。人ごみをいかにうまくかき分け、切り抜けることができるかというマネジメント能力にかかっている(注記)

 何しろ、エベレストには最近では毎年1000人近く上る。成功率は最近では50%を少し超えるぐらい。今年の分まで含めれば、これまでに6500人以上が登頂に成功している。そのほとんどは、この20年くらいが占めている。

 三浦さんの3回成功分、この中に含まれていることになる。乾布摩擦の効果もあっただろうが、スタッフたちのマネジメントの成果が大きく効いたようにも思う。

 初登頂成功以来、1960年代までは、成功者は年間10人くらいで、死亡率も高かった(現在は1%くらい)。

 ● 登山家はなぜエベレストを目指すのか

 件の取材で登山したコラムニストは、ネパール政府に対し入山許可数の制限を、登山者にはごみや汚物を残さないことを、遺体を放置しないことを訴えていた。

 これらを含め、6つのアイデアを提案している。日本の登山家、野口健さんがエベレスト清掃登山を主唱し、富士山でも実践している。いまのエベレストの状況では、せっかくのこれらのアイデアがどれほど効果があるのか、うたがわしい。

 それにしても、世界の聖なる山、エベレストの山頂がこれほど騒がしく、俗化しているとは知らなかった。このことを知ったら、初登頂(1953年)に成功したニュージーランドの登山家、E.ヒラリーさんはどんな思いをいだくだろうか。

 人はなぜ山に登るのか。そこに山があるからだ、冒険があるからだ、ではすまない事態だろう。

 エベレストは泣いている。そう思った。

 注記

 最新号の「週刊文春」(6月20日号)の末尾の投書欄「読者より」に次のような手厳しい投書が載っている。

 「今のエベレストは「金・時間・普通の体力」があれば頂上まで導いてくれるツアー登山が主流。今回の三浦氏の登山はその最たるもの」

 この投書、返す刀で、だから、政府が検討している三浦賞には違和感を覚える、と政府に対しても、選挙目当てではないかと言わんばかりの辛らつさで切り込んでいる。

 痛快だ。60代の男性の投書だが、手放しで「すごい」と書いたブログ子も、その通りだと思う。「80歳にしては、すごい」と訂正したい。

 横並びの意見ではないきちんとした主張に敬意を表したい。

 泣いているだけではなく、エベレストは怒ってもいる。

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こうして予防する認知症 

File005220130602 (2013.06.12)  シニア世代のブログ子にとって、なにが驚いたといって、写真上の

 認知症65歳以上462万人 

       「予備軍」含め4人に1人

という記事ほど、びっくりした最近記事はない(写真上=中日新聞2013年6月2日付)。

 「サンデー毎日」6月23日号も、即座に反応した(写真下)。

 そこで、このブログでも、サンデー毎日の記事からポイントをまとめて、読者の注意を喚起しておきたい。

 ボケない脳の鍛え方=

         「20130623.doc」をダウンロード

 Image1641_2  

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実験で試してみよう 振り子+自由落下

(2013.06.10)  理系出身ということもあり、浜松科学館(浜松市)でサイエンスボランティアをさせていただいている。

 相手は小学校に入ったか、これから入るくらいの子どもたちが多い。これくらいの子どもだと、よほどわかりやすく、うまく話を運ばないと、おもしろいと思って実験したり、してもらったりしても驚いてはくれない。驚くためには、実験結果が子どもたちの経験とは異なっていたり、想像していたものとは違っていることが、不可欠。

 ● 離すと五円玉はどうなる?

 先日、親子連れの人たちに、右図のようなごく簡単な実験をしてもらい、結果がどうなるか、想像してもらった。

 Image16372 ごく細い糸(図の赤)の一方のはしに五円玉を、もう一方のはしに適当な重さのおもりを結びつける。それを水平にした割り箸にたらす。五円玉のほうは水平にして手に持つ。持った五円玉を離したら、おもりはどうなるか、という実験だ。

 あまりに簡単な実験で、戸惑うぐらいだ。

 たいていの子どもは、そして親はなおさら、そのままおもりは地面にドスンと落ちると想像する。実は、ブログ子も最初、そう思った。

 実際に、手を離すと、おもりは途中で止まり、五円玉は割り箸にぐるぐると勢いよく何回か巻きついてしまうという意外な結果になった !

 五円玉を水平より少し下にしても、上にしても巻きつくという結果は同じ。ただ、少し下にすると、巻きつく勢いが弱まったり、上にすると巻きつく勢いが強まったりするだけで、おもりは床にドスンとは決して落ちない。

 ● なぜ割り箸に巻きつくのか 

 この結果に、付き添ってきたたいていの母親たちも不思議そうに考え込む。経験とは違う意外な結果というわけだ。

 どうして意外な結果なのか。

 ブログ子も最初そうだったが、割り箸を使ったこの実験は、割り箸の代わりに水平な机の角におもりをたらした実験と同じだと勘違いして、混同しているからだ。机の場合では、当然、おもりはドスンと床に落ちる。そして、手を離した机上の五円玉は、勢いよく水平方向に放りだされる。

 どこが違うか。割り箸の場合、手を離すと五円玉は重力で、真下に振り子のように落ちる点だ。落ちながら、しかも割り箸からの距離は加速度的に短くなっていく。

 それがどうして勢いよく割り箸に巻きつくのであろうか。

  Photo_2 ブログ子も最初、巻き込むなどということは絶対にあり得ないと確信していた。

 なぜなら、時計の振り子がそうであるように、五円玉を水平な位置から離しても、エネルギーの保存則により、五円玉が割り箸の向こう側に行っても水平な位置より上に行くはずがないからだ(写真中の単振り子の模式図を参照)。一瞬不思議だと思った。

 ● 重力は保存力

 しかし、しばらくして気づいた。この間、おもりのほうは重力で落下するのだから、その分のエネルギー、いわゆる位置エネルギーが減る。その減った分のエネルギーが五円玉の運動エネルギーに移行し、全体として力学的なエネルギーは保存される。

 つまり、向こう側に行った五円玉は水平な位置では止まらず、さらに上に、しかも、振り子の長さが短くなった分、回転力の勢いを増しながら、グルグル割り箸に巻きつくことになる(より詳しくは「注記」を参照)。

 これが実験のからくりであり、真相なのだ。つまり、この「試してみよう」という実験というのは

 重力は保存力である

という事実を前提にした実験なのだ。

 言い換えれば、単振り子の運動と自由落下の運動を結び合わせたこの「試してみよう」という実験は、運動エネルギーと位置エネルギーの和は一定であり、その和は五円玉とおもりの運動のいかんにかかわらず保存されるという動力学系なのだ。

 もちろん、この実験にはこのような物理法則があることを教える必要はないが、こういうことを演者が知っていると、子どもたちにいろいろ試してもらう時の楽しみは増える。

 たとえば、おもりの重さをいろいろ変えてみる。五円玉が勢いよく割り箸に巻き込むという定性的な事実はどの場合も変わらない。その理由も法則を知っていれば明らかであろう。

 実際に、子どもたちとともにいろいろやってみて、このことを納得してもらった。

 ただし、異なることもある。100倍重いおもりでも、軽いものと並んで落下する(つまり、重いほうが速く落ちることはない)。しかし位置エネルギーは軽いものより100倍ずつも減る。だから、その分、保存則により、それを受け取る五円玉の割り箸に巻き込まれるスピードは10倍も速い(エネルギーは速さの2乗に比例するからだ)。

 実際に、より重いおもりを使うと、割り箸に巻き込まれる五円玉の回転スピードはより速くなる。

 実験の背景にある法則がわかると、実験のやり方をいろいろ変えて、予測どおりかどうか試してみることもできて、楽しくなる。驚きも出てくる。

 ● ゆかいな40年ぶりの高校物理

 Image835 NHKのEテレ放送には、大掛かりな実験をやってみせる

 「大科学実験」

というミニ番組がある。先日の土曜日夜は、ゾウの体重を、どのようにして測定するかという難問に挑戦していた。

 大きな筏(いかだ)を川に浮かべ、その上にゾウをなんとか乗せ、筏の沈み具合を調べる。ゾウを下ろして、代わりに人間をその沈んだところにまで何人か乗せる。個々の人間の体重を体重計で測定し、それらを合計するというわけだ。結果に約1%の誤差しかなかったのには驚いた。

 この単純な実験も、保存力という重力の性質を応用したもののひとつである点で、割り箸の実験と基本的に同じなのだ。

 40数年ぶりに、高校物理を思い出したゆかいな一日だった。実験のおもしろさとともに、やはりボランティアはしてみるものだと実感した。

    (写真下は、浜松科学館の外観) 

 ● 注記 大科学実験  2013年6月22日夜「Eテレ」テーマ=高速スピン 

  回転木馬のメリーゴーラウンドのような回転する円錐形の底面円周に均等に4人が乗り込む。乗ったままゴーランドをスタッフが外からグルグル回し、手を離す。

 そこから、しばらくして、4人が一斉に調子をあわせて、ゴーラウンド円錐の頂点近くまでよじ登る。

 すると、ゴーラウンドの回転速度はスピードアップするのがわかる。これは、水平方向には外力がないため、移動に伴う角運動量は一定に保存されるからだ。

 角運動量、つまり運動量のモーメントというのは、円錐中心からの距離、Lと乗っている人の重さの合計、mそして、回転スピード、Vとすると

 L×mV = 一定

となり、よじ登ることでLが短くなる分、ちょうど回転の速さ、Vはそれに反比例して大きくなるというわけだ。

 実際の実験でも、Lが半分くらいになるまでよじ登ったところでの、回転周期はおよそ倍くらい速くなっていた(すなわち、クルクル回る周期は倍くらい早くなっていた)。

 割り箸の場合は、上下の重力の方向にクルクル巻きつくのだが、重力は保存力なので、大科学実験の水平の場合と同様、巻きつくほどに回転の勢いは速くなる。

 これが、浜松科学館での実験のもう一つのからくりなのだ。

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静岡新聞も動き出した

(2013.06.09)  スーパー銭湯「極楽湯」につかった後、ふと静岡新聞を拡げたら、社説で

 原発廃炉

について、論じていた。写真のように

 国策として道筋つけよ

と政府や国会に要望している(2013年6月9日付)。

 Image163420130609 脱原発をひた走る中日新聞を追いかけて、ついに静岡新聞も動き出したか

という感慨を持った。地元紙として応援している新聞だけに、少し明るい気持ちになった。

 少し、というのは、この社説で全国のほかの原発については具体的に論じているのだが、なぜか、お膝元の浜岡原発については、まったく黙んまりだったからだ。

 いまや原発について突っ込んだ論説を張らないようでは、新聞は売れなくなってしまったことを反映したものであり、昔日の感を強くする。

 ● 原発論説の転換点か

 静岡新聞も、原発論議ではそろそろ軸足を移すというか、論調の転換点に立たされている。

 脱原発に軸足を移し、県内でも急速に部数を伸ばしている東京新聞を筆頭に、朝日新聞、中日新聞に遅れをとってはならじという悲壮な危機感のようなものを感じる。このままでは県内を食い荒らされて、県紙の雄として部数のジリ貧に歯止めをかけられないとの焦りである。ジリ貧はとくに県東部や西部で顕著なのだ。

 さて、その主張のポイントは以下のとおりだ。そのまま引用したい。

 「日本の原発は「国策民営」で推進してきたが、廃炉を電力会社だけに押し付けてはならない。廃炉を「国策」に位置付け、電力会社の負担を減らす法整備や原発立地地域の支援策などを打ち出して廃炉への道筋をつけるべきだ。」

 要するに、国主導で電力会社に引導を渡せというわけであり、その通りである。

 さらに社説は、原発推進を国策としてきた国の責務の観点から、自民、民主などの超党派議員でつくる「原発ゼロの会」が先月まとめた廃炉促進法案骨子案に注目している。

 賛成するとまでは言っていないのがミソだが、それでも主張を裏付ける何がしかの具体策を論じているのは前進だろう。

 これまでの原発推進、あるいはあいまいな態度から、一歩踏み込んだことは、評価できる(注記)

それでもまだ及び腰なのは、世論に押されての急な方向転換であり、無理もない。

 ● 南海トラフ「浜岡」どうするのか

 地元の今後の原発情勢をにらみながら、全国注視の、肝心要の南海トラフ「浜岡」をどうするのか、県民の願いを半歩でもいいリードする、より踏み込んだ提案を期待したい。

 今回の社説は、国民にとっては小さな一歩だが、静岡新聞にとっては大きな一歩だと思う。中部電力の鼻息よりも、県民の息遣いをうかがう時代がようやくやってきたように思う。

 日本一危険な、人によれば世界一危険な浜岡原発について、地元紙の判断は全国注視だろうし、法案の成立後、廃炉提案に踏み切れば、日本の新聞業界からも高い評価を受けるだろう。

 静岡県民として、静岡新聞の地だね社説の今後におおいに注目したい。

  ● 注記 静岡新聞の原発論調

             - 「五つの提言」

 Image984 原発事故後の静岡新聞の論調を一言で言えば、

 脱「原発依存」

である。自民党と同様、依存度を下げよという主張である。そのためには、

 中部電力は住民の不安払拭を

というスタンスを取ってきた。この不安の払拭は、当然ながら事故前からかかげていた。

 これらを整理して明確に示したのが、同紙連載「続 浜岡原発の選択」(写真下)で提言した

 「五つの提言」(2012年6月)

である。

 原発推進はもはや国策になりえない

 再稼働の是非は不安解消後に

 中部電力は6号機計画の撤回を

 原発に頼らない地域振興策を

 県民も原発のあり方に関心を

が柱。

 二番目の再稼働については、国内の電力供給状況や代替電力の導入状況を勘案した上で、是非議論をすべきであるとの条件がついている。これなども自民党の考え方に近い。

 原発依存度ゼロという脱原発ではない。

 それが、今回の社説では原発廃炉に踏み込んだのは画期的といえる。今後、いつ浜岡廃炉に言及するのかというのが焦点。

 静岡新聞社としての勝負は、中部電力が決断する前に、社説で、うながすなど一押しできるかどうかにかかっている。

 中電の決断後では、地元紙としては追随であり、敗北だろう。とても県民紙とはいえない。

 つまり、「静岡新聞の選択」も問われる「続 浜岡原発の選択」なのだ。

 今回の社説は、そのための準備作業のようにブログ子にはみえるのだが、これは愛する地元紙ゆえの〝ひいきめ〟なのだろうか。

  補遺  北國新聞の場合

 同じ地方紙でも、志賀原発の活断層問題でゆれる石川県の地元紙、北國新聞/富山新聞の論調は、福島原発事故前後で基本的な変化はない。安全性に注意して再稼働を、というものだ。

 たとえば、最近の2013年6月6日付社説

 志賀原発の断層報告 規制委の同意を得られるか

では、事業者の北陸電力が「活動性はない」と結論づけた報告書を規制委に提出したことについて、

 「同意が得られるかどうかが原発再稼働の大前提」

と強調している。というか、むしろ規制委の行き過ぎを、高圧的にたしなめる論調だ。

 わかりやすく言えば、〝産経論調〟である。

 このほか、この1年間でも、原発ゼロに批判的な姿勢を貫いており、はなからではないにしても、廃炉うんぬんという問題を真正面からは取り上げていない。

 一口に地方紙といっても、その原発論調は、福島以後では、これまでのような一色ではなく、少しずつ変化しているように感じられる。

 北陸に比べて、東海地方のほうが巨大地震の不安をより身近に感じている。その県民の不安感がマグマとなって、地方紙の論調に地殻変動を引き起こさせているように思う。

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「源氏物語」をどう読むか

(2013.06.06)  円地文子さんの現代語訳『源氏物語』(全10巻、新潮社)を読み始めている。理系出身のブログ子なのだが、やはり日本人として世界に冠たる古典、

 源氏物語

ぐらいは読んでいないのは恥ずかしい。

  ようやく、文章のくせにも、登場人物の相互関係にも慣れてきた。光源氏の最悪の状況を記述した「須磨」の章あたりまでは読んだ。これから復活の物語が始まるところだ。

 Dsc0166320130606bstbs_2 だが、しかし、どうもまだ波に乗れなくて、登場人物の心理の奥にぐんぐん引き込まれているというわけでもない。

 早い話、古典の魅力を堪能するまでには至っていない気がする。源氏絵の世界に遊んでもみた。それでもなお、男と女の心理の奥の奥までは読み取れていない。

 どうしたらいいのか、と思っていたら、BS-TBSで

 私の源氏物語 魅力 引力 古典の力

というのを放送していた。要するにその中身は、

 ドナルド・キーンさんと、瀬戸内寂聴さん

の講演を収録したものである。

 Dsc0168320130606bstbs_2 キーンさんの話は、まあ、まあ、ありふれた話でハッとするようなものはなかった。日本に帰化したとはいえ、しょせん外国人。だから、これは仕方がない。ただ、しかし、『源氏物語』を世界に広めてくれる貴重な人材であることは間違いない。

 ● 近代的な「宇治十帖」から読む

 これに対し、瀬戸内さんの話には、ハッとさせられることが多かった。さすが源氏物語のわかりやすい現代語訳を一大決心で10数年前に完成させた作家だけのことはある。

 円地文子さんがこれまた一大決心をして現代語訳に取り組んでいた現場を同じ屋根の下でまじかにみていた。そんな若き日もある瀬戸内さんなのだが、そのエピソード話は余裕綽々。しかもユーモアたっぷりの話ぶりなのでおもしろかった。

 しかし、講演の要点、ポイントというか、それを一言で言えば、たとえば

 「(最後のほうの)宇治十帖はとても近代的。ここから読めば、おもしろい」

と、初心者の読み方の勘所を話してくれていた。たとえば、記憶喪失という現代的な話も出てきて、わかりやすいというのだ。実作者らしい鋭い指摘だ。平安文学に関心を持っていても、今の世の中の出来事を鋭く観察する眼力がある作家だからこそできるのだろう

 こんなことは凡庸な研究者にはとても言えないし、指摘できない。

 実行してみようと思う。

 (写真は、ともにBS-TBS「私の源氏物語」(2013年6月6日夜放送)の画面から)

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「花は咲く」になぜ違和感を覚えるか

(2013.06.05)  常識を一度疑えというこのブログの趣旨に賛同していただいているある熱心な読者から、例のNHKの

 東北復興プロジェクト・ソング「花は咲く」

に違和感を持つのは、私一人でしょうか、とたずねられた。

 Image1505_2 実は、ブログ子も、この歌に違和感を覚ええた一人であることを正直に遅まきながら、告白しておきたい。

 いかにも、NHKらしい、そう「らしい」歌なのに、いやな感じがぬぐいきれない。

 最初は、歌詞がふわふわして、どこにも具体性がないというのが、理系出身のブログ子としては不満であり、それが原因だと思った。

 しかし、あるとき、気づいた。

 繰り返し歌われる間に、この具体性のないふわふわした感じが、東北震災で忘れてはならない何か大事なものを、こっそり忘れさせる効果があることに。

 語弊があるかもしれないが、あえて言えば、「いやし」というよりも、〝いやしい〟歌だと気づいた。力が出なくなる歌なのだ。

 ● 反戦歌「花はどこへ行った」の具体性

 そう思うようになったのは、ブログ子が団塊世代であることと無関係ではないだろう。

 祈りのベトナム反戦歌「花はどこへ行った」

を、1960年代の高校生時代に、同世代のアメリカ人留学生とともに英語で歌った経験がある。

 原題は

 Where Have ALL The Flowers Gone ?

である。高校生ながら、ひどく心を揺さぶられたのを今も覚えている。

 この歌の原型がつくられたのは1950年代、つくったのは、今は知る人も少なくなったが、アメリカの教祖的なフォークシンガー、

 この歌は、何かを思い出させる歌であり、また、行動のための歌なのだ。

 そのことは、歌詞の、具体性からもわかる。

 1番から5番までの構成は、次のようにつながっている。

 花はどこへ行った。少女がつんだ。

 少女はどこへ行った。男の下へ嫁に行った。

 男はどこへ行った。兵隊として、戦場へ。

 兵隊はどこへ行った。死んで墓場に行った。

 墓石はどこへ行った。花で覆われた。

となり、元に戻って

 (その)花はどこへ行った。(注記)

 ここには、いつまで戦争に明け暮れているのか、という、静かではあるが、具体的で強烈なメッセージ性がある。忘れてはならないものが歌い込まれている。行動しなければ、という力が湧いてくる。

 「花は咲く」

にはこれがない。自己満足や、いやしのマッサージではこまる。

 ● 原因は具体性とメッセージ性のなさ

 あえて、言い換えれば。

 「花はどこへ行った」は、そのメッセージ性のゆえに、歌をうたう「つらさ」を教えてくれた。

 これに対し、「花は咲く」は、そのメッセージ性のなさゆえに、歌をうたう「気楽さ」を押し付けられた。

 これこそが、違和感の原因であり、建前を押し付ける失望感のおおもとであろう。

 しかも、このプロジェクトが善意とビジネス抜きで続けられているだけに、事態はより深刻といえるだろう。思いとは、逆の効果を生んでいるからだ。

 読者からのこの問いかけに、

 NHKは正義であるという〝常識〟

を一度疑ってみるという、なかなか勇気の要る姿勢を教えられた。

 注記

 この歌詞についての詳しいことは、

 「Wikipedia」の「花はどこへ行った」を参照してほしい。

 ● 補遺 

 この心に響く名曲、もともとは、

 ミハイル・ショーロホフの小説『静かなドン』

のなかに出てくるコサック地方の子守唄から、1955年にシーガーがインスピレーションを受けて3番まで一気につくったらしい(本人のインタビュー証言)。

 2013年6月放送のBSプレミアムアーカイブス「世紀を刻んだ歌「花はどこへ行った」)によると、飛行機に乗っていたシーガーは、わずか20分くらいの間に3番まで仕上げたという。

 その後、別の人物が4、5番を加えて、現在の形に完成された。

 ショーロホフ自身の戦争体験も交えた『静かなドン』のメッセージは、

 戦争の悲劇は、戦場だけではなく、すべての人々の日常にもおよぶ

というものであり、ベトナム反戦歌にも通じるものがある。

 この歌が、もっとも世界に喧伝されたり、歌われたりしたのは、北爆開始などベトナム戦争が本格化する1964年から、ベトナム・テト攻勢など米軍の敗色が濃くなった1968年前後。ブログ子が留学生とともにこの歌を高校でうたったのも、ちょうどこの時期にあたる。

 当時、アメリカのフォークグループ、PPMがうたって世界的にヒットしたのを記憶している。

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ヒトはなぜ病気になるか ダーウィン医学

(2013.06.03)  アンブローズ・ビアスという19世紀後半の皮肉屋の有名な著作に

 『悪魔の辞典』(こびあん書房、郡司利男訳、1982年)

というのがある。病気という項目を引いてみると、

 造物主が寄付した医科大学の基金。葬儀屋の生計を維持するために気前よく供給されるもの

とある。なかなか言いえて妙。

 ● 番組「病の起源」

 ヒトの病気には造物主がかかわっている、あるいは死に至る病気は多く、しかもますます多種多様性をおびてきているということを皮肉っぽく解釈してみせている。

 ヒトはなぜ病気になるのだろうか。そんな視点から放送されているのが、先月から始まった

 NHK総合スペシャル番組「病の起源」

である。

 腰痛は、ヒトが進化段階で、食料の入手の都合から2足歩行をするようになり、そのせいで骨盤に負担がかかりやすくなり、引き起こされる。農業の田植えなどの前かがみ姿勢はさらに負担を増加させたというように、進化という視点から病気の起源を探ろうというのだ。

 Image1607 人の病気をヒトの進化700万年と結びつけて考える。いわば

 ダーウィン医学

というわけだ。

 番組では、がんの起源、つまりサルなどに比べて、なぜヒトにはガンが多いのかという問題にも迫っていた。

 人間の極端な大脳の発達

が原因らしい。巨大化した脳の機能を維持する物質が、実は増殖するガンの重要な栄養源になっているという。人類の出アフリカという進化の一大出来事も、紫外線を受ける量を少なくし、ガンの発生を増やしているという。

 ● 2足歩行や脳の急激な巨大化

 さらには、脳卒中(脳出血と脳梗塞)については、あまりに脳の巨大化が速すぎて、運動系の、たとえば心臓の血管系を太くするのに比べて、脳の血管系の太さの増大が間に合わなかったために、起きる病気だという。

 それほど、200万年の間に起こった脳の巨大化は異常に速かったらしい。

 この話を聞いていたら、ふと、思った。

 腰痛に悩む現在の人類は、あと数百万年もすれば、2足歩行に適した体型に進化して、腰痛という病気がなくなるのかとも思った。適応進化である。

 脳の細い血管についても、あと数百万年もすれば、適応進化で、運動機能にふさわしい大量の血液輸送に耐えられる脳血管につくりかえられるのかもしれない。そうなると、未来の人類には脳卒中という病気がなくなることが予測される。現在のサルのように。

 もちろん、脳卒中には別の要因、血管をもろくする塩分の取りすぎ、コルステロールなど脂っこい食事、タバコ喫煙なども原因であろう。

 しかし根本は、心臓系に比べて脳血管系の細さに原因があるという。

 もうひとつ、この番組をみていて、思ったのは、こうした新しい視点から、病気の治療法まで見つけられるかどうか、という点である。

 もし、仮にそうなれば、

 ダーウィンのいう

 「種は変化する」

というのは仮説ではなく、分子レベルで事実であるという証拠になるだろうと思った。ただし、これもまた、分子レベルの進化論として

 進化の中立説

でも十分説明できるだろう。

 だから、自然淘汰というダーウィン進化論を証明したことにはならない。証明できるのは「種は変化する」ということだけだ。変化を決定付ける原因が、ダーウィンのいう環境要因の「自然淘汰」かどうかは依然謎というべきだろう。

 ただ、こういうヒトの話では、観察に数百万年もかかる。これをせめて年単位、月単位で観察することができたら、どうなるのだろう。

 つまり、

 ヒトのダーウィン医学をウィルスの変異

に置き換えるのだ。

 ● 感染症に応用 新型インフルの変異 

 4年ほど前に話題になった

 新型インフルエンザの変異

は、ウイルスが

 生き残るための適応進化

と考える。人体からの防御反応に対して、ウイルスが全滅しないよう身を守るために変異すると考えるわけだ。

 ダーウィン医学は

 変異の速いウイルス感染症の治療、つまりワクチンづくり

で威力を発揮するのではないか。そんな気がした。

 とするならば、

 造物主が寄付したせっかくの基金

である。番組の次のテーマは、うつ病や糖尿病の起源だけでなく、感染症こそ取り上げるべきではないか。

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しっかり休む年寄り「半日仕事」で成功

(2013.06.03)  最近の元気の出るシニアというか、老人の快挙と言えば、間違いなく

 最高齢の80歳で3度目のエベレスト登頂に成功

した冒険家、三浦雄一郎さんだろう。支援のスタッフが大勢いたとはいえ、それにしてもすごいの一言に尽きる。

 生還できた原因は、と聞かれて

  しっかり休んで〝半日仕事〟に徹したこと

と実感を交えて語っていた。

 Image161120130530 具体的には、通常は設営しない8500メートルでの第5キャンプを設営して、ふらふらになった下山時に半日休息した。このことが成功の要因だったらしい。目いっぱい仕事をしていたら、生きては帰れなかったと真顔で語っていた。

 キャンプだけでなく、休息ということでは、酸素ボンベを、十分に余裕をみて通常の倍くらいの110本も用意した。それでも、休息しながらの登山で最後の1本、それも残り少なくなるまで使い切ったという。

 精神力もさることながら、こういう用意周到も成功のかぎだったろう。

 そして、さらに、登頂後、麓まで降りてきた三浦さん、

 「80歳がスタート。そう思えば、人生おもしろくなる」

とにこやかに満足の笑顔で話していた。人生には目標が必要だというのが持論の三浦さんらしいものの考え方、というかプラス思考である。

 こういう生き方なら、長生きも意味がある。人生80年時代の名言だろう。

 これを聞いて、ブログ子も

 「60歳がスタート。そう思えば、人生楽しくなる」

と思った。人生とは、心の持ちようが大事なのだ。

 そう三浦さんは語っていたように思う。

 (写真=  毎日新聞2013年5月30日付) 

 三浦さんの人生訓をまとめると次のようになるだろう。

 「miura80.doc」をダウンロード

 

 ● 補遺 2014年1月9日記

 「週刊新潮」2014年1月2日・9日号「週刊新潮掲示板」によると、

 この登頂成功からまだ半年しかたっていないのに、三浦氏は

 「80歳の世界最高齢で(3度目の)エベレスト登頂を達成できた2013年。次なる目標は、85歳でヒマラヤのチョーオユー(8201メートル)のスキー滑降です。12月22日から、トレーニングを開始しました。」
というメッセージを載しているのには、びっくりした。要するに、死ぬまで冒険をやめないことを宣言したものだろう。

 何かに熱中できるものがある。そいうい人生というのは、はやりうらやましい。少なくとも、人生、しょせん気晴らしとうそぶいているひねくれ人より、人間が上等である。

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「廃炉」選択できる会計の枠組みを急ごう

(2013.06.02)  日ごろは滅多に読まない〝経団連広報紙〟日経新聞なのだが、6月1日付の1面、

 原発廃炉 利用者が負担

  電気料金に上乗せ 経済産業省検討

は、電力会社寄りの見出しが気にはなるが、脱原発側からも十分に検討の価値がある(写真=日経2013年6月1日付朝刊)。

 他紙の追いかけ記事は翌日2日付だから、日経の特ダネ(経済産業省のリーク?)かもしれない。

 ● 利用者の負担総額変わらない仕組み検討

 Image162020130601 来月から原発の規制基準が強化される。そんななか、電力会社が経営上の理由で廃炉を選択するケースが相次ぐことが予想される。

 その場合、躊躇しないよう各電力会社が廃炉を選択しやすい方策を、経産省が検討し始めていることをいち早く、日経らしく、経営者側の立場に立って伝えているからだ。

 廃炉を選択した場合、いきなり債務超過に陥り、会計上、経営破たんしかねない心配がある。そういうことのないよう、40年運転前で廃炉にしても、一時的に発生する

 巨額の廃炉コストや原発の資産価値の低下を、その後の複数年に分割して計上、経営上の負担軽減をなだらかにする

のがポイントらしい。

 今の40年運転を前提とした場合と途中での廃炉選択とでは、転嫁の最終的な総額では違いがないのがミソらしい。この一時的な負担軽減を図る事業者に有利な会計仕組みは事故原発には適用しないことする。そうすれば、廃炉の促進にもつながろう。

 うまく機能すれば、今のように

 廃炉=巨額損失

という役員の経営責任が問われかねない事態を回避できる。つまり、電力会社の経営陣に対し、スムーズに

 会計上の引導

を渡すことができる。廃炉でも、再稼働でもない宙に浮いた形の

 休炉

も避けられる。今の制度下では、廃炉に伴う一時の巨額損失を回避するため、経営上、廃炉にせず、休炉にしておくという狗肉の、そして最悪の危険となる選択肢がある。廃炉後の分割計上が認められる新しい仕組みだと、なんら利益を生まない休炉は経営上最悪の選択になり、株主から経営責任が問われかねない。

 さらには、早めに廃炉を選択したほうが、廃炉に伴う特別損失をより多くその後の年数に分割できる。電力会社は激変を緩和しつつ、各年度の負担軽減を図る。廃炉の早期選択には、そういう経営側にも、早期廃炉を望む脱原発側にもメリットがありそうだ。

 ●業界も廃炉研究に着手を

  このように、電力会社に

 会計上の大義名分

を与える今度の制度は検討に値する。

 ただし、負担総額は変わらないとしても、電気料金に早期の上乗せ負担を利用者に求めることになる以上、電力業界挙げて

 廃炉作業を効率的に進める工程の共同研究開発

に力を入れるなどの努力が求められる。

 同時に、電力消費者側からみて、この新しい会計システムのメリットとデメリットを精査する必要は、当然ある。

 このニュースを、経団連広報紙がわざわざ1面トップにしたのには、それなりの理由があるはずだ。ことを有利に運ぼうとする電力会社側の意図とは何かという問題である。

 また、経産省が、大きく報道してもらいたいとの政策意図のもとに、日経にリークしたとしたら、そこにどんな行政側の意図が隠されているのか。この仕組みの問題点をあぶりだすには、そのへんをよく検討しなければならない。

 そういう意味で日経新聞1面独自ニュースは消費者にとっても重要であり、問題点のありかを知る手がかりがあるという意味で、この記事は高く評価できる。

 言い換えれば、日経1面トップの、しかも独自ニュースは、いい意味でも、悪い意味でも、単なる「ヨイショ」記事だけではない。このことに気づかせてくれた今回の独自記事だった。

 ● 真綿で首をしめる時

 そうしたこともあるが、規制が厳しくなるなかで、経営判断の一つとして電力会社が廃炉を選択しやすいよう、法的な枠組みとともに、財務体質的な面の検討を急ぐ必要がある。

 電力会社が受け入れやすい方策を消費者とのバランスを考慮して準備することは、なによりも優先すべき国民の安全という利益につながる喫緊の課題だ。

 原発反対を声高にただ叫んでいるだけでは、電力会社をますますかたくなにさせ、かえって国民を危険に陥れる。

 真綿で首をしめる

という面白い言い方がある。今はその時であろう。 

 ● 補遺 朝日が大型社説6月3日付

 朝日新聞がこの会計制度の特例について、大型社説

 Image162320130603_3 脱原発政策 廃炉促進へ専門機関を

をかかげている。経済産業省の検討について

 「方向性には賛成する」

と賛意を表している。

 ブログ子の主張と基本的には同じなのだが、朝日社説の場合は、脱原発を急ぐには、世界ではほとんど政府が関与しているとして、海外の事例も参考にして

 専門機関が要る

と踏み込んでいる点だ。論点を整理して国民的な議論にかけるべきだとも主張しているが、ブログ子もそれに賛成したい。

 その場合、「いっそのこと税金を投入して廃炉を急ぐ」「あるいは廃炉原発も専門機関に移して、小規模な売電で得られる収益を廃炉費用にまわす」など、いろいろな考え方があるとしている。具体的な提案をあれこれ提示することで、主張に説得性をもたせている。

 これに対し、1面トップであんなに大きく扱った日経新聞には、この問題に対する社説が3日付までにはないのは、どうしたことか。

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後からわかる「後知」 東海予知は困難

(2013.06.02)  内閣府は東海地震など南海トラフで起きる巨大地震について、前兆現象など現在の手法で予知するのは困難とする専門家による最終報告をまとめた。それが写真上の

 東海地震 予知は困難 「前兆滑り」検知限界

というニュース(中日新聞2013年5月29日付)。東北大震災を受けての政府としての対策最終報告である。

 ● 現状は予知ではなく「後知」

 今回のような巨大地震でも、また地震発生直前になっても前兆滑り(固着域のプレスリップ)がそもそも検知しにくい、あるいは検知したとしてもそれが前兆滑りかどうか、そしてそれが巨大地震発生に直結するのかどうか、科学的に判断しにくいというのが結論の根拠である。

 はっきり言えば、前兆滑りかどうかは、地震が起こってみなければわからないというレベルなのだ。その地震が起こった後でしか、予知はできないというわけだ。こんな話では、政府が警戒宣言など出せるわけがない。

 今回の報告書を要するに、今の予知研究は、予知ではなく「後知」ということになる。もっと言えば「後知恵学」なのだ。

 きつい言い方をすれば、基本的に占星術と変わらない。むしろ科学的な装いをしている分、たちが悪い。

 ● 「前兆滑り」の検知Image161020130529 に限界

 ブログ子は、この記事を読んで、いまさらながら16年前の結論を再確認しただけではないかという、いきどおりを感じずにはいられなかった。

 16年前、阪神大震災を受けて、このニュースとまったく同じ最終報告書(1997年6月)を文部科学省(当時は文部省)の測地学審議会地震火山部会という専門家部会がまとめている。

 写真下に示すように、文言、言い回しまで同じ。

 念のため、16年前の結論の部分を抜き書きしてみると、次の通りなのだ。

 「前兆現象の複雑多岐性を考えると、同じ現象が「東海地震」で繰り返されるという保証は必ずしもない。地震に至る過程が上記と時間的経過が著しく異なる場合、或いは地殻変動の振幅が小さい場合、「東海地震」の予知は困難である。予知が可能となる場合はどの程度なのかとの疑問を生ずるが、残念ながら昭和19年(1944年)東南海地震の事例のみからでは、予知が可能である場合の確率を推定することはできない。」(測地学審議会「レビュー報告」1997年6月。写真下)。

 この「中日」1面準トップ記事は、トップの南海トラフ対策最終報告

 家庭で備蓄1週間分

の記事の重みを読者に知らしめる役割を演じている。予知に頼るな、というわけだ。地震予知ほど国民の期待と専門家の見立てにおいて隔絶を露呈した分野も少ない。

 ● 家庭備蓄1週間分の覚悟

 日本が、いわゆる「ブループリント」立案により地震予知に本格的に動き出して、今年で50年。

 それだけに、警戒宣言など予知に頼よってきた防災の弊害を、今後いかに少なくするかが、大きな課題である。

 要するに、予知ができるという大前提の上に、

 警戒宣言が発令される

 今回の最終報告書は、結局は家庭での備蓄1週間分に落ち着いた。

 巨大で、広域の震災が予想される南海3連動地震では、救援はこれまでの3日ではなく、1週間以上も遅れるという覚悟が要る。道路、鉄道が広域にわたって寸断され、物流が大混乱するからだ。

  ● 静岡県民の責任重い知事選

 ここで、忘れてならないのは、この政府の対策最終報告書でも、南海トラフ「浜岡」原発事故が想定されていないことだ。また、南海トラフ「富士山」噴火も含まれていない。これでは、現実的ではない。実際の役に立たない可能性が高い。

 これらの問題は、政府に下駄を預けておけばいいという問題ではない。静岡県を中心に中央政府とが密接に関連して解決をしなければならない問題であろう。

 静岡県の知事選挙が始まっている。南海トラフ「浜岡」の再稼働も争点である。具体的には再稼働の可否や、廃炉問題をめぐる県民の総意づくり、すなわち住民投票条例づくりの可否に対する知事の態度が争点である。

 次期知事に、だれが当選しても、これらの問題と真正面から取り組まなければなるまい同時に、原発震災加害者になりかねない静岡県民の国民に対する責任も重い今度の知事選挙といえる。

というこれまでの防災体制を根本から見直す必要がある。予知に頼らない新たな防災態勢づくりを急がなければならない。

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