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原発事故責任、検察は争う姿勢明確に 

(2013.05.08)  図書館で偶然だが、2013年5月6日付産経新聞1面をみて、驚いた。原発事故の刑事責任について、

 検察は、どうも起訴見送りの様相

と伝えていたからだ(写真)。

 Image146420130506_2 とんでもないことだ、これまでもこのブログで書いてきたが、十分に起訴は可能である。

 試算から予見すべきであったのに、経営の効率化を重視するあまり、事故の可能性を察知するのを怠ったと東電社長など幹部は、社内タスクフォース会議などで公式に内外で認めている。

 一言で言えば、警告は出ていた。なのに、それをあえて無視した。これを過失と言わずして、なんと言おう。

 記事によると、業務上過失致傷という刑事責任を問うには、事故のもととなった大津波の予見性が東電にあったかどうか、同時に、事故の回避性があったかどうか、の2点が必要不可欠。東電幹部のいずれも予見性はなかったとの見解を事情聴取でのべているらしい。

 社内では、さまざまな条件を想定したシミュレーションなどで大津波の試算はあったが、実際にそのような試算による大津波が来るとは予想していなかったというのだ。試算はあくまで試算であり、警告ではない。それが現実化するとの予見性にはつながらなかったという論理だ。

 この論法がまかり通るならば、それでは、何のために試算したのか。そして、報告書にまでその試算がまとめられたのは何のためなのか。警告するためであったことは、社会通念上、明白だ。

 大津波に原発が襲われるかもしれないという予見性はあった。ただ、経営陣は無視したのだ。経営効率化の妨げになるとして。警告につながらない試算のための試算などあるはずもない。ましてや、その試算結果を報告書にまでまとめるはずがない。

 また、唯一の証拠ともいうべきテレビ会議の記録を調べても、検察は予見性をうかがわせる証拠はなかったとしている。

 今夏にも刑事責任を問うべきかどうかの判断が下されるらしいが、裁判で争う姿勢を明確に打ち出すべきであろう。これだけの事故を起こしたのに、あまりに大きすぎて罰することがためらわれるというのでは、検察は要らない。

 初めから逃げ腰というのでは、検察の面目は地に落ちる。

 近頃の検察は、なんともおかしい。巨悪に擦り寄るというのでは、情けない。検察がたとえ不起訴にしたとしても、市民による検察審査会が強制起訴に踏み切ることも視野に入れたい。

 東電らの刑事責任追及だけでなく、裁判を通じて事故原因を特定することや、事故をうやむやに風化させないという役割も裁判は担っていることを忘れではなるまい。

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