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安全神話の正体暴いた「放射能の正体」

(2013.05.14)  浜松市の湖のほとりの高台に暮らすブログ子だが、ちょっとした機縁で、

 「世界は恐怖する 放射能の正体」(亀井文夫監督、1957年制作)

という白黒映画を見た。上映会の会場になったのは、伊豆半島の南端に近い静岡県河津町の浜区公民館(写真上= すべての原発をとめよう伊豆半島住民連合会主催)。

 伊豆半島西海岸は、浜岡原発から60キロ圏であるから、南海トラフ巨大地震に対する浜岡原発の影響については、ほとんどの住民が重大な関心を持っている。

  Image1496 56年も前の映画だから、当時テレビはもちろんない。また原発が日本に建設され始める10年以上も前だから、原発という言葉も当然ない。

 そんな時期につくられたドキュメンタリーだが、結論を先に言うと、

 とても新鮮で、ハッとさせられたり教えられたりすることの多い映画

だった。

 ● 今、「裸眼の視点」こそ

 浜岡原発など、原発が建設されていく1970年代は、根拠のない「原発の安全神話」にいろどられていく時期とも重なっている。しかし、論より証拠、科学的な事実を執拗に具体的に突きつけることで、この神話の色メガネをいったん外させ、現実を自分の裸の眼でつぶさにみたらどう見えるのか。

 裸の、それも自分の目で見た世界について映画は描いてくれた。

 以下では、この映画の3つの特徴について具体的に述べる。それらをまとめれば、福島原発事故後の今こそ、この映画の

 裸の眼の視点

ともいうべき真価を発揮させる時であろうという印象を強く持った。

 ● 反骨の映画監督と河津町ゆかりのカメラマン

 この白黒映画には、湯川秀樹博士とも共同研究していた戦後の高名な核物理学者で科学史家、武谷三男博士もかかわった映画である。

 ブログ子にとっても大先輩にあたり、一度見てみたいという思いは以前からあった。一時在住するなど河津町にゆかりの菊地周氏が反骨の映画人、亀井監督の片腕として撮影にかかわった。このことから、今回、関係者の尽力で、ゆかりの上映となったらしい。

 さて、映画の中身だが、映画の第一の特徴は、放射能の正体を、あくまでも科学的に、そしてその結果についてもつつむことなく暴き出している点だ。

 このことで、その後、はびこった根拠のない「原発の安全神話」の正体がいかにいかがわしいものか、見事に浮き彫りにしている。

 だから、撮影手法も、現場にカメラをすえ付けるなど具体的である。また、実験の様子や測定データを直接生のままカメラの前に映し出すなど実証的でもある。実験データを都合よく〝きれいに〟整理したり、観客が受け入れやすいように小細工をしていない。あくまで「生」を見せるというドキュメンタリー映画の原点とも言うべき姿勢を貫いているのがいい。

 これには、この映画づくりの3年前に起きた第五福竜丸事件(焼津市、1954)など水爆実験被害の緊迫感、切実感があろう。別の言い方をすれば、「世界は恐怖する」という言い回しも決して当時としては大げさではない。この現実感が、この映画を科学的なものにさせている。

 ● 安全神話を支える「言葉の漂白」

 第二の特徴は、今日盛んに、そしてたくみに行なわれているような

 言葉の漂白

をしていないという点だ。言葉の放射能隠しである。

 たとえば、放射能を持つ放射性物質の雲状の塊を、ズバリ

 「死の灰」

として、映画のタイトルに付けている。映画の中でも何回も繰り返し強調されていた。このことは、

 言葉を飾ることで、つまり、きれいに真っ白に漂白することで、そもそもの素性や正体を隠さないという姿勢を示している。1970年代以降、言葉の漂白が「原発の安全神話」を支えてきたのとは、画然の差がある。

 福島原発事故では、一切、死の灰という言葉は出てこない。代わって、雲状の塊を

 プルーム(plume)あるいは、せいぜい汚染プルーム

と言い換えている。フランス語のふわふわケーキを指すこともある人気のケーキというように言葉を飾っている。放射能という言葉は避けて、わざわざ、上品なフランス語を持ち出しているのがミソ。別な実例で言うと、

 環境放射線、環境放射能

という言い方も、今では頻出している。環境にやさしい放射能、あるいは環境にやさしい放射線があるかのような言い方で、放射能の恐ろしさをできるだけ薄めるようイメージチェンジを図る。

 言い出したら切りがないが、大気中に大量の放射能を出すことを「ベント」というカタカナ文字で、国民にわからないようにする。「除染」という言葉も、放射能隠しの典型。

 放射能の恐怖隠しであるのに、一般の人々に予断を与えてはいけないという〝やさしい〟配慮や美名のもとに横行してきた。

 だが、しかし、このことは、国民の目を「死の灰」の正体から遠ざける大きな役割を担うことに他ならず、悪質な言葉狩りであることを忘れてはなるまい。

   ● 浜岡原発でも「低速度層」

 死の灰だけでなく、言葉の漂白はいたるところにある。

 たとえば、浜岡原発敷地の地下には

 砂岩・泥岩からなる相良層

という大変にもろい地下構造(いわゆるH断層系)がある。手で引っかいただけでボロボロ崩れる。その中でも砂岩の混じり具合が多い層(5号機地下)を飾るために、電力会社は、軟弱地盤という言い方は避けて、

 低速度層

というように言い換えている。この層では地震波がゆっくり伝わることを理由に付けたらしい。つまり、低スピードで安全運転をしているかのような印象を一般に与えるよう表現を巧みに言い換えている。

 Image1500 ところが、これが2009年夏のちょっとした駿河湾地震で想定以上の揺れに襲われた。ぐらぐら地層なのだから無理もない。

  原発の安全神話は、そもそもの正体をはぐらかす、こうしたさまざまな言葉の漂白によって支えられている。映画は言葉を飾ることの危険性をあばき出した。

 言葉を飾って安心していたら、不意打ちを食らったのだ。言葉を飾ると、つまり、漂白すると用心という防護が抜け落ちる。このことを、いみじくも4年前の駿河湾地震は警告した。

 ● 科学者の使命感と責任の自覚

 この映画が上映されてから、10年後、作家の井伏鱒二は、広島の「死の灰」が黒い雨となって地表に降ってくることで起きたある悲劇を描いた

 『黒い雨』(1966、新潮社。写真中)

を発表している。だが、1970年代の原発建設時代に入ると、安全神話の蔭でこの言葉は、建設ラッシュと歩調を合わせるように消えていった。

 上映会の映画は、言葉を飾ることで現実を覆い隠そうとすることの危険性を、実験という科学的な事実を目の前に突きつけて告発しているといえる。

 逆に言えば、言葉を飾るのではなく、具体的な事実で語ることの重要性を示したともいえる。

 このことは、映画に登場する科学者、たとえば気象庁気象研究所などの科学者たちの使命感を持った活躍とは無縁ではあるまい(「死の灰」の正体が有害な放射性物質の固まりであることを初めて日本で実証してみせたのは、この研究所の猿橋勝子研究員)。具体的に言えば、資金難から自らの月給の一部を研究費に回してでも、死の灰の正体に迫りたいという

 科学者の責任の自覚

が映画から強く伝わってきた。原発安全神話の時代にはない使命感である。

  いつの日かきっと問題になるであろう生々しい事実は、いくら年月がたっても、腐らない。古くて新しい映画づくりとは、こういう映画の制作を指すのだろう。

 ● 安全性の考え方

 映画の三つ目の特徴は、

 問題点の網羅性、包括性

である。すなわち、放射線被害の主なものはほとんど紹介している。原爆などの高線量の外部被ばくだけでなく、今福島事故で問題になっている低線量の内部被ばくについても実験の様子を紹介している。先ほどの「黒い雨」を予見しているようなシーンもあった。

 この俯瞰的な視野の広さには、冒頭に述べた科学者、武谷三男博士の果たした役割が大きいだろう。というのも、この映画から10年後、放射線の許容量について

 『安全性の考え方』(岩波新書)

という名著をまとめているからだ。

 要約すると、放射線はどんなに低線量であっても人体には何らかの悪影響がある。だから、医療などの利点や利便性と、健康被害などの不利益とのバランスを正確に見極めよ、と書いている。その上で許容量を決めなければならないとかっ破し、警告もしている。

 その後の原発の安全神話づくりは、これに反し安全性だけを叫んでおり、武谷博士の警告を無視したものといえよう。低線量被ばく、内部被ばくを軽視する風潮にも、映画は注意を促していた。

 これには今の科学者も大いに反省すべきであろう。

   ● 原発におびえない社会に「かえる」         

 上映会では、上記のような映画の感想を少し述べたが、上映会後、地元の人たちから、河津町に古くから伝わる

 雛のつるし飾り「かえる」(写真下)

をいただいた。

 Image1503 生きもののカエルの姿なのだが、美しいリサイクル布をいくつか縫い合わせて、中に小さなビーズのようなものをたくさん詰めた手づくりの品らしい。

 若返る、無事かえる、というシャレの意味が込められているという。河津趣味の会あたりが開発したらしい。河津町のカワズ(蛙)というシャレの意味もある。

 帰宅後、原発におびえることのない社会に無事に「かえる」との願い

を込め、浜岡原発の地図の前の漆トレーに寝転ろがった「かえる」君を飾った。

 これには、映画では時にユーモアをまじえながらナレーションをつとめた徳川無声さんも、喜んでくれるだろう。

 言葉飾りはダメだが、こんな雛飾りなら、こりゃ、おもしろいと-。

 ● 廃炉への法的な道筋づくりが要る

 浜岡原発停止から、ちょうど2年。

 静岡県内では、去年、いったんは否決された再稼働をめぐる住民投票条例制定の再「直接請求」運動が今、後を引き継いだ市民団体「ネットワーク県民投票」によって動き出している。原発に向き合う県民の総意をきちんと今こそ示しておこうという運動だろう。

 目前では再稼働の是非が争点となりそうな静岡県知事選挙も控えている。日本一危険な原発立地県の総意を問う大事な選挙である。

 司法でも、浜岡原発の運転差し止め控訴審(東京高裁)の審理が結審に向けてようやく動き出している。地裁レベルでは静岡地裁で5号機の運転差し止め訴訟の審理が本格化している。静岡地裁浜松支部でも差し止め訴訟が始まっている。

 立法府においても、浜岡原発も含めて原発の廃炉の法的な枠組みづくりの国会審議を急がせる必要があろう。電力会社の経営判断の受け皿の一つとして廃炉の道筋を設けておくことは喫緊の課題だ。

 静岡県民として、こうした動きに自ら積極的にかかわっていくことが、日本の、そして静岡県の希望の持てる未来をつくる近道ではないか。

 言葉飾りでは何も変わらない。他人頼みではこれまた何も変わらない。

 自らの目で確かめ、自らの頭で考え、信じた方向に、ともかくできるところから、まず第一歩を踏み出す。その勇気が今一人ひとりに問われいる。民主主義の歴史をみてもわかるが、小さな勇気が、遅いようで、実は現実を確実に変えていく最良の方法である。

 これに対し、有力者の一声に頼る政治は、いつまた、何時、そのツルの一声でひっくり返るかわからない危うさがある。

 愉快なカエル君を眺めながら、そんな、こんなをあらためて悟ったり、誓ったりした一日だったように思う。

 (最下段の写真は、「映画と講演の集い」第2部(講演)の様子。2013年5月12日)Img_017920130512

 ● 講演タイトルの字幕=

                 「2.doc」をダウンロード

  File0051     

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