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科学はわけのわからないものから生まれる

(2013.05.22)  民放の科学番組のなかでは、BSフジの

 ガリレオX

という番組が、一番面白い。取材先のバランスがよく、またそれぞれをきちんとまとまめているという点でも好感がもたれる。先日は、科学との付き合い方を考えようという趣旨で、

 疑似科学

を取り上げていた。科学をその外側からみるという趣向だ。それだけに、どう料理するか、取材先の選択など、番組スタッフの力量が問われるむずかしいテーマだ。

 20130519_2 池内了(総合研究大学院大)、菊池誠(大阪大)、平川秀幸(大阪大)、矢田直之(神奈川工科大)、蛭川立(明治大)など

が登場していた。

 文系的研究者と理系的研究者。科学技術社会論の平川氏。そして全体のまとめ役として高名な宇宙論研究者の池内氏が番組回しをするなど、よく練られた番組構成であった。

 ● 再現性、法則性、因果性が科学の条件

 論じている内容が科学の対象として取り扱えるための第一条件は、何か。

 それは、誰がやっても、また何時やっても条件さえ同一にすれば、同じ結果がでるという再現性が保証されていることである。つまり、一過性の現象は科学の対象にはならない。この意味で歴史学は厳密には科学ではない。

 また、ダーウィン進化論も科学ではないことになる。19世紀までの宇宙論や宇宙進化論もたぶんに哲学的、神話的であり、科学というにはほど遠い。

 地震予知の地震雲の研究は再現性がない。だから科学の対象とは言えない。しかし、前兆現象としての生物の異常行動については、再現性と一過性の境界とあるといえそうだ。

 さらに言えば、東北大震災のような1000年単位のタイムスケールで起きるらしいM9.0以上の巨大地震。これはほぼ一過性といえるので、経験的な、つまり確率論的な予知学では、科学的な分析の対象にはならないだろう。

 第二の条件は、予測までできるかどうかは別にして、ともかく何らかの法則性があることだ。

 物理法則が存在しない分野は科学の対象にはならない。たとえば、物理法則すらもない「無」から物理法則の存在するこの今の宇宙「有」を生み出すという話は科学の対象にはならない。

 ただし、必ずしもニュートン力学的な、すなわち決定論的な法則性である必要はない。量子論的な確率で表わされる法則性でも、もちろん科学の仲間入りはできる。また、法則性は必ずしも定量的である必要はない。

 第三の条件は、因果関係は存在するという因果性である。この因果性がなければ、法則性はない。だから、この条件は現象に法則性がある必要条件ともいえるものだ。

 ある特定の原因が起これば、かならずある一定の結果が生じるというような因果関係が存在しない分野は、科学の対象にはなり得ない。たとえば、合理的な因果関係がない心霊術とか占星術とかは、科学の範疇とはなり得ない。

 しかし、因果性があるからといって、必ずしもその現象に法則性があるとは限らない。

 たとえば、因果性は存在するが、原因と結果がわかちがたく、すなわち強くカップリングしているような複雑系では、単純な古典力学の場合でも、結果を決定論的に予測できない。地球温暖化現象も、ちょっとした初期のゆらぎが原因でドラスティックな結果(気候大変動)を引き起こすという意味で、典型的な複雑系。

 Dsc01639 地球温暖化現象には因果性があり、したがって科学の対象にはなるが、複雑系であるため、定量的あるいは定性的な法則性を導くことが大変にむずかしい科学分野であるといえよう。

 つまり、ミクロには因果関係があるからといって、それらが寄せ集まったマクロにただちに法則性があるとまではいえない。

 突き詰めて言い換えれば、予測性は法則性の十分条件。なんらかの予測ができるならば、そこに法則性があるのは確かだが、その逆、法則性があるからといって予測まで必ずできるとまではいえない。

 ● アートな物理学も登場

 一方、これらの3条件がそろっていれば、それが芸術の分野と見なされていても、りっぱな科学の仲間入りができる。

 たとえば、オランダのアーティスト、テオ・ヤンセン氏の作品

 風で動く「ストランドビースト(砂浜の生命体)」

は、芸術として認められているが、科学の範疇でもあろう。

 先日、BSプレミアムでビートたけしの「アート&トーク」で、ヤンセン氏がたけしに作品について熱く語っていた。まさに3条件を満たす科学であるとの印象だった(写真下=ストランドビーストの未来。番組画面より)。

 言ってみれば、

 アートな物理学

といえるだろう。

  さらに言えば、ストランドビースト同様、

 「この絵はどのようにつくられたか」

については科学で解明できる。これはHowの問題。

 これに対し「この絵がなぜ美しいか」という価値判断がともなう問題には役に立たない。いくら3条件を駆使しても、そこから「美しい」という価値判断を伴う結論が導き出せないからだ。

 科学は、価値判断が伴うWhy(なぜ)には、無力であることがわかる(注記)

 ただし、同じWhyでも、

 神はなぜ存在するのか、または存在しないのか

 宇宙はなぜ存在するのか

 人間はなぜ宇宙に存在するのか

という問題は、価値判断がともなわない範囲の論議であれば、原理的には科学の範疇に入れても問題はない。哲学の専売特許ではない。

 「物理学と神」とか、「宇宙論と神」というテーマを宇宙物理学者の池内氏が論ずるのも故なしとしない。あえて言えば、物理学と隣接領域との境界にあるおもしろいテーマなのだ。

 ● 科学的な思考とは 

 このように科学は、3条件を満たし、かつ価値判断がともなわない現象や分野に限定される。

 この分野の考え方の特徴は、数学を駆使するなどの論理性と、仮説を実験で確かめるなどの実証性という点にある。論理性の根拠は、現象に法則性と因果性があるからだ。実証性は、現象に再現性があることと、予測ができるという科学の性質から要求される。

 現象を帰納的に整理して、仮説を立てる。その仮説から演繹的に予測を立て、それを実験で確かめる。これが科学的なものの考え方、付き合い方というわけだ。

 問題は、どういう経緯で、科学が再現性、法則性、因果性の3条件をもったものとして生まれてくるかということだ。正直に言えば、

 科学はわけのわからないものから生まれてくる

ということだろう。

 どういうことかというと、科学分野ではないものを

 ニセ科学

と呼ぶことにすると、ニセ科学は大別すると2種類に分類される。すなわち、

 科学によって、3条件について全面否定された「ウソ科学」と、

 上記3条件のいずれかが欠けてはいるものの、全面否定するまでにはいたっていない「混沌(こんとん)科学」

である。

 ● 湯川秀樹博士の「混沌会」

 ブログ子は、1970年代、京都で学んでいた時期、晩年の湯川秀樹博士が自宅近くの糺の森(京都市)を奥様とともに和服姿で朝散歩している姿を何度も見かけている。

 ある折、話をする機会があり、当時博士が主催していた研究会の名称をなぜ「混沌会」としたのか、思い切ってたずねてみた。

 確立する前の科学には、致命的ではないが、それまでの論理では説明できないもやもやとしたものがある。科学のタネだが、それが混沌である。混沌の中から新しい理論が生まれる

といった趣旨の話を聞いた。後にノーベル物理学賞となる博士の中間子論はこの混沌(科学)から生まれたのだ。

 逆に言えば、論理一貫性があり、どこにも矛盾がないというのでは、それは既存科学の枠内の話であり、そこからは新しい科学は生まれない。

  さまざまな矛盾を含んだ混沌科学は、知の水平線を押し広げる、実は新しい科学の生まれる豊かな土壌なのだ。これはウソ科学とは違う。

 論理性と実証性のたえざるサイクルにかけることで、混沌科学が科学として生まれ変わるのだ。このサイクルこそが、実は創造的な科学思考なのだろう(注記2)。

 具体的な話をひとつ。

 たとえば、現代宇宙論は、この10数年、論理性と実証性を兼ね備えた見事な科学にまで急速に発展してきた。しかし、今、

 ダークマターとか、ダークエネルギー

という、「わけのわからないもの」(番組での池内氏の発言)を仮説として仮定しないと、観測結果と既存理論との辻褄が合わないという壁にぶち当たっている。

 この「わけのわからない」仮説が、たとえば、既存の物理学で、この宇宙に、この宇宙とはことなる異次元宇宙が存在するという〝発見〟につながるのかどうか、注目されることになる。

 はたまた、既存の物理学ではどうしても説明できないとなれば、新しい物理学の誕生を示唆しているのかもしれない。

 Image1562 宇宙論に限らず、たとえば、いわゆるUFO目撃談においても、一概にあやしげなもの、あるいはわけのわからないものと、はなから排除せず、その背後には科学的な原因があるのではないかと疑ってみる。この姿勢も、新発見につながるという意味で大事なことではないか。

 要するに、混沌科学を非科学的だとして一様に片付けない。科学の母体として積極的に位置づける。これこそが発見的な科学思考だと思う。

 (写真上は、擬似科学について語る池内了氏。番組ホームページより)

  注記

 科学的なものの考え方における論理性や実証性には価値判断が伴わないのだが、それらの前提として価値判断が設定されるケースがある。社会のなかの科学という範疇である。

 具体的には

 論争する科学=規制科学(レギュラトリー・サイエンス)

といわれているものである。これについては、

 『科学論の現在』(金森修+中島秀人。2002年)第7章が参考になる。 

  注記2

  ニュートンに万有引力の逆2乗法則を導くカギを渡したのは、いまから400年も前の天文学者、ヨハネス・ケプラーであったことはよく知られている。しかし、そのケプラーも写真下に示すように、

 五つの正立体による宇宙形状誌『宇宙の神秘』

 惑星が奏でる美しい音楽『宇宙の調和』

などの大著(写真下)で、占星術を思わせるような混沌科学にのめり込んでいる。

 しかし、これらの大著を読んでみると、神が創造した宇宙にはかならずや

 整然とした法則性

があるはずたという信念がうかがえる。このあくなき信念から近代科学が勃興したことを思うと、

 混沌科学

の重要性を思わずにはいられない。

 補遺

 参考文献

 Image1563 A.ポアンカレ

 『科学と仮説』、『科学と方法』

 100年以上間も前の著作だが、明解な主張はいまも輝いている。いかにも数学者らしい緻密な論理であり、思弁的でないのがいい。いずれも、岩波文庫。

  村上陽一郎

 『新しい科学論』(ブルーバックス。1979年)

 科学的な事実は、寄って立つ理論を倒せるか。むしろ、科学的な理論が事実を生み出しているのではないか。とすれば、事実は理論は倒せない。こうした問題に一般にもわかりやすく、しかも認識論にまで踏み込んで論じた科学論。

 1970年代に受け入れられた標準理論といわれる科学的な理論から予想されていたヒッグス粒子。その存在を確認したという最近のニュース(2012年7月)との関連で読むと面白い。

 標準理論がなければ、ヒッグス粒子確認という事実は出てこなかったはずだ。理論が事実を生み出している、というか、明るみに出している。とすれば、粒子確認の事実は、予想通りで矛盾がないとして標準理論の正しさを示唆することはあっても、たおせないことになる。

 倒せるのは、粒子が存在しないと実験が示したときである。しかし、存在しないという矛盾の反証を示すのは、起こりうるすべてを実験で試すことはできないので不可能に近い。

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