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飛ぶ夢をしばらく見ない

(2013.05.25)  このブログのテーマは「科学・技術と社会」なのだが、何か、純文学についても語れないか。そんな思いでいたら、先日、BSプレミアムで

 数奇な人生 ベンジャミン・バトン

という映画をやっていた(D.フィンチャー監督)。年をとるごとに若返っていくという破天荒な男の物語である。男を演じるのはブラッド・ピットというから、見てみた。原作は鬼才の作家、フィツジェラルドの同名短編(1922年)である。

 ● 若返り小説「ベンジャミン・バトン」

 Image1561 ブログ子もそうなのだが、女に限らず男だって年々若返っていくなんて、なんとすばらしい人生だろう、ましてやイケメン俳優のブラッド・ピットが演じるのだから、たまらない。と思うのが普通。  

 しかし、結論を先に言うと、

 家族の崩壊という見るも無残な悲劇的な結末

が待っていた。戦慄の最後なのだ。

 日本でも脚本家の山田太一の手になる

 『飛ぶ夢をしばらく見ない』(新潮社、1985年)

という作品があるが、こちらは女性が老女から次第に若返っていくという物語。国際映画祭出品作品として、石田えりと細川俊之主演で映画化されてもいる。こちらも、男と女の愛の結末は悲劇的。

 なぜ悲劇的になるのか。それは、つまり、若返るということは、実は、当然だが、自分がいつ死ぬかということが明確に分かった上で人生を送ることを意味するからだ。この恐怖との戦いなのだ。そのことが物語を次第に深刻化させる。

 悲劇的な結末という点では同じなのだが、両方の小説を比較しながら読んでみると、おもしろい。同じ若返るという設定であっても、その若返り方にも違いがあり、比較することで考えさせられることが多い。

 そこで、以下に両作品をつぶさに比較してみた。

 ● 日本にも山田太一作品   

 フィツジェラルド作品。小説では、主人公、ベンジャミンは身長170センチの外見70歳くらいの大男として生まれたと設定されている。白髪。しわしわの、そしてしわがれた声で老人特有のひねたひげ面の老人赤ん坊である。映画では、大男ではなく、老けてはいるものの、赤ちゃんらしい小さな男の子になっていた。

 物語は「ベンジャミン・バトンは」という3人称で進行する。若返る本人を中心に進行する。

  Image1565_3 一方、山田作品では、もうすぐ50歳になる男と、年齢不詳の女が、ある病院で同室になり、互い見知らぬ間柄で、しかも顔が見えないようにした衝立を隔てて出会うというところから物語が始まる。声からは30代かもしれないというのに、実は70歳に手が届くような白髪だらけの「老婆」だったという衝撃的な幕開けは秀抜。一気に読者は物語のなかに引き込まれる。

 こちらは男、田浦という1人称「私は」で語られるので、変身しないほうから、若返っていく女を観察するという趣向だ。

 次に、若返るスピード。

 フィツジェラルド作品では、普通の人と同じスピードで、つまり、1年間に1歳、70歳から1歳ずつ若返るという設定。ベンジャミンはゆっくり若返る。その分、話は複雑になる。言葉づかいや精神年齢も肉体年齢にあわせておおむね変化する設定。歳相応に精神年齢も若くなる。

 これに対し、山田作品では、67歳の老女が約1年で、40代前半、20代前半、10代前半の少女、最後は4、5歳の幼女と若返る。つまり1年間の愛の物語。したがって、相手の普通に歳を取る男は、48歳から49歳になるだけで、ほとんど歳を取らない。女だけが急速に若返る。若返っても、言葉づかいや精神は60代のままという設定。

 そして筋書きだが、フィツジェラルド作品では、ベンジャミンは見かけ年齢50歳(すなわち、生後20年)で、20歳の女性と結婚する。男は、30歳下の女性をめとるのだから、うらやましい。

 ベンジャミンは、人生のちょうど半分、すなわち35歳で、肉体年齢=見かけ年齢となり、妻とも同じ年齢になる。結婚と同時に子どもが生まれる。ここらあたりが、人生最高の充実の時期である。

 しかし、ここから暗転し始める。

 ベンジャミンの見かけ年齢25歳になると、妻は45歳。男20歳で妻は、なんと50歳。男が30歳年下という逆転逆転現象が起きる。これでは男は恥ずかしくて、夫婦一緒には街に出られないだろう。だから、離婚。

 そして、男性15歳。妻は55歳。あと15年しか生きられないという男性の恐怖。結婚と同時に生んだ息子は、今では35歳にもなっている。父親は息子よりずっと若いことになる。

 そして、男性4、5歳。孫すら小学校に進学したのに、自分はどんどん、年々若返っていく。息子はもちろん、孫すら若返る男性を相手にはしなくなる。家族は完全に崩壊する。

 女性が若返る山田作品も、基本的には同じなのだが、男性がほとんど歳をとらないので、悲劇性はそれほどてもない。山田の場合、ひとひねりあって、普通に歳をとっていたのが、67歳からあることがきっかけで女性が急速に若返るというように設定している。なので、若返える前までの67年間の出来事が記憶にある。ここがフィツジェラルド作品とはここが違う。過去の思い出を引きずって、たとえば若返る女性はかつて自分は二人の子どもを生んだということを知っている。そのことが、若返るという過程で、さまざまな障害やトラブルを引き起こす。

 ● 男女すべてが若返ったら

 両作品を読み比べて、ふと思った。

 男も女もすべて、若返り始めたら、どんな物語になるのだろうと。

 フィツジェラルドの場合では、年齢差が次第に広がるという問題はなくなる。因果関係が逆転、つまり、結果がまずあって、その原因をさかのぼるという人生になるわけだ。世界は何事もなかったように進行する。ことになるのかな?

 Image578 一方、山田作品では、つまり、どの人間も死の1年前になると、記憶はそのままに、そして因果関係もそのままに急速に肉体が若返るのだから、たとえば、それまで選挙権があったのに若返った結果二十歳未満になってしまい、ふたたび選挙権がなくなる。これでは現行制度のままでは社会的には大混乱に陥る(フィツジェラルドの場合、生まれながらに持っていた選挙権が、若返って二十歳未満になると選挙権がなくなるというだけの話。かな?)

 ● タイムマシン最新作「ルーパー」

 こうした小説を読むと、

 若返りとタイムマシン

ということが気になる。しかし、ブログ子も、その関係を明確に話すことができない。

 ただ、最近のタイムマシン映画

 「ルーパー」

があることを紹介しておこう。30年後の未来の自分がタイムマシンでやってきて、現代の自分を殺そうとするという奇想天外なストーリー(らしい)。

  興味がわいたので、見てみた。

 タイムマシンを使えば、30年後の年取った自分と今の若い自分とが同じ場所で対決することができることは分かった。しかし、未来から来た自分が、今の自分を殺してしまったら、未来の自分はどうなるのだろう。因果関係がおかしくなる。

 とすると、タイムマシンで過去に行くことなどできるのか。よく理解できなかったことを正直にここに書いておきたい。

 上記の二つの小説は、過去への時間旅行という点で、タイムマシンを想起させる。が、実はタイムマシンとは無関係なのかもしれない。タイムマシンは時空の問題であり、それを操縦する人間そのもの、肉体や思考には何ら変化を起こさせないからだ。

 どうだろうか。

 たまには、こうした空想というか、思考実験をして楽しんでみるのも「科学・技術と社会」を考える上で、新しい発想を生み出しそうでいい、かな?

  補遺

 かつての人気タイムマシン映画「バック・トゥ・ザ・フィーチャー」には、こうした思考実験をしてみたいという意欲が湧いてくるほど、考えさせる要素はない。逆に言えば、それほどエンターテインメント性が強いともいえる。

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