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2013年4月

カラスは、羽のはえた類人猿

(2013.04.30)  先日のBS11の

 地球生きもの図鑑

が面白かった。「カラスの知られざる知性」というタイトルだったが、身近にいるカラスのなんと知性の高いことかということを紹介していた。

 Image991 毎週、家庭のゴミだしで、カラスがたくみに家庭ごみをつついているのを見ているだけに、カラスは頭がいいとは知っていた。しかし、これほど頭がいいとは驚きだった。

 カラスに危害を加えた人間の顔を、二年たっても覚えているらしい。覚えているだけでなく、発見したら、仲間に鳴き声で知らせて、警戒するような仕草もできるという。さらに、それだけでなく、子どもにもそのことを教え込むらしい。

 こうなると、カラス社会には

 文化

があることになる。こうしたことを裏付けるような映像が紹介されていなかったら、とても信じられないことばかりだった。

 だから、番組では、カラスのことを

 羽根のはえた類人猿

と名づけていたが、なるほど、うまいネーミングと感心した。カラスは脳の大きいオウムよりも賢い。

 なぜオウムより賢いのかというと、番組では

 カラスの雑食性

が指摘されていた。さまざまなえさをうまく料理する工夫が、カラスの知性を磨いているのだというのだ。

  つまりは毎朝、家庭ごみをあさりながら、カラスはせっせと知性を磨いているというわけだ。

  ● 驚きのカレドニアカラスの道具使い

 そんなカラスの中でも、驚くべき知性を持っていたのが、

 カレドニアカラス

である。米オークランド大学生物学チームの発見らしいのだが、えさを手に入れるための道具を得るための道具を見つけてきて、まんまとえさを獲得するという映像である。

 映像では、えさをとるには長い枝が必要な状況を設定。その長い枝は近くのかごの中にあるのだが、くちばしではとれない。しかし、さらにその近くの木の上には、それがとれそうな短い枝がくくりつけてある。

 すると、カラスは、その短い枝をまず獲得する。そして、ほとんど迷うことなく、それでかごの中の長い枝を引き寄せる。そして、その長い枝で、見事、えさを手元に引き寄せたのだ。

 これなど、人間の幼児でも、なかなか難しいのではないか。賢いサルでも容易ではないだろう。

 カラスの知性が高いことは間違いない。

 ● 人間を区別するものは何か

 さらには、死んだ仲間の

 弔い

までしているらしいというのまで、紹介していた。死んだカラスの近くの木に数十羽がとまり、しばらくすると一斉に飛び去る様子が映し出されていた。

 これが、いかにも弔いの儀式に似ているというのだが、どうだろう。人間の思い込みであり、まさかとは思う。が、ひょっとすると、事実かもしれない。しかし、実証はむずかしいだろう。オラウータンなどの霊長類では、死んだ子をいつまでも背負う母親がいるらしいのだが。

 さて、こうした一連の事実を知ると、あるいはウソをついたり、欺いたりもするカラスもいるらしいことを知るにつけ、

 人間をほかの動物と区別するものは何か

という深遠な問題にぶち当たる。そんなものは、そもそも存在しないのではないか。

 キリスト教のいう

 人間は、神に選ばれた特別な存在

という観念は間違いなのではないか、という気分になる。

 すなわち、鳥たちの驚異の知性は、人間を謙虚にする。

 (写真は、「ナショナル・ジオグラフィック」(日本版、2008年3月号表紙)。説明によると、このニューカレドニアカラスは、針金を曲げて、釣り針をつくり、えさ取りなどに利用しているという)

  補遺 もの思う鳥たち

 Image998 このブログを始めたごく最初のころに、取り上げた科学書に

 『もの思う鳥たち 鳥類の知られざる人間性』(日本教文社、2007年。原著は1993年)

がある。この本を読むと、

 人間の肉体は、確かにダーウィンの言うように進化でつくられたかもしれないが、その精神は神から与えられたものである

というローマ教皇庁の公式見解(ヨハネ・パウロ2世)とは違って、刻々と変化する環境に対して、肉体的にも精神的にも主体的に生きていることが、明白にうかがわれる。環境に鼻面を引き回されてなどいない。

 思うに、西欧では省みられることのなくなった

 今西錦司博士の『主体性の進化論』

は、いつの日か、ダーウィンの進化論に取って代わられるだろう。

 動物たちは単なる受身的な精密機械ではない。環境の変化で変わるときがきたら、種はみんな一斉に変わる。進化の真相はこれであろう。親から子へ、子から孫へ、などと自然任せのまどろっこしいことでは種は滅びてしまう。

 カラスは、そんなことも教えているように思う。

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続 コンピューターは「錯覚」するか

(2013.04.28)  先日、このブログに、

 コンピューターは「錯覚」するか=

  http://lowell.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-6cf8.html

というのを書いたら、ある親切な物知り読者から、今度、

 BSフジの日曜科学番組「ガリレオX」(4月28日放送)

で錯覚をテーマに取り上げるらしいと教えてくれた。

 見て、なるほど、これはすごいとびっくりした。コンピューターは、人の脳の高次情報処理を見事に再現してくれていた。

 ● 明大に錯覚美術館

 コンピューターは、視覚ばかりか、聴覚も、触覚も、また味覚までも「錯覚」する

ということがわかった。こうなると、人間はどういうときに錯覚するか、ということを数学的に計算できる。つまり予測できることになりそうだ。

 視覚の錯覚、つまり、錯視でも、エッシャーのだまし絵のような、実際にはつくることのできない

 不可能立体

もコンピューターで創り出すことができる。静止画だけでなく、

 不可能モーション

というのまで、番組では紹介されていた。たとえば、単に転がり落ちているだけなのに、あたかも重力に逆らって玉が転がり上っているように、人には見える動画が紹介されていた。

 明治大学には錯覚美術館というのがあることを、ブログ子は初めて知った。明治大学には錯覚も研究する先端数理研究科があるからだろう。番組では、そこの杉原厚吉さんが紹介されていた。

 杉原さんによると、なぜ錯視が起こるのかについて

 実際には直角ではないのに、人の脳は、図形の角の部分を直角と認識する

のが、錯視の原因の一つと語っている。わかりやすく言えば

 「脳は直角が好き」(杉原)

だかららしい。

 ● 聴覚、触覚、味覚の錯覚も

 Km16170lbsx 別の錯覚、聴覚の錯覚、つまり錯聴についても、番組では、音などないのに、そこにあたかも音があるかのように錯覚するという事実を

 NTTコミュニケーション科学基礎研究所

が研究している様子を紹介していた。幻聴とは異なり、前後の音声と調和するように〝滑らかに〟脳は錯覚する。

 そのほか、触覚の錯覚、つまり錯触についても、実際には円柱を触っているだけなのに、パソコン画面に富士山のような円錐を映し出し、それを見ながら、さわっていると、円錐を触っているような滑らかなカーブ感覚が伝わってくるという(写真=BSフジ科学番組「ガリレオX」より)。

 味覚の錯覚、つまり、錯味でも、実際には単なるクッキーを食べているのに、画面に映し出されたチョコレートを見ながら食べると、チョコの味がする。そんな舌をだます実験も紹介していた。この場合、舌からの味覚情報を脳内で処理する段階で、その情報よりもチョコという目からの視覚情報をどういうわけか優先する。だから、クッキーをチョコのように甘いと脳は人に感じさせているらしい。

 五感のうちでも、人間の場合、とくに視覚情報が認識において優先度が高い

というわけだろう。

 ● 心理学はいまや先端的な数理科学

 こうなると、番組ではなかったが、もう一つの五感、

 嗅覚の錯覚、つまり錯嗅

もきっとあるだろう。

 さまざまな感覚器官から入ってくる情報を、人間の脳は、どのように優先順位を付けたり、前後関係から調整したりして高度に処理しているか、ということを知る重要な分野、それが錯覚であることがわかる。

 つまり、脳は末梢の感覚器官にだけ頼って情報処理をしているわけではないのだ。こうなると、

 錯覚は、単なる心理学的なだまし

とこれまで思っていたのは、ブログ子の錯覚だった。

 心理学は、もはや人文科学の文学部の一分野ではない。それは錯覚。そうではなく、実験で検証可能な先端数理科学、はっきり言えば自然科学の分野である。

 件の物知り読者は、そのことをブログ子に教えてくれた。

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「読んだふり読書」の効用

(2013.04.27)  「週刊現代」最新号(5月4日号)を読んでいたら、 轡田(くつわだ)隆史さんの連載

 人生のことば

というのが面白かった。

 読んでいない本なのに読んだふりをするのは大切なこと

と書いていた。なぜなら、この読んだふり読書には、「そのうちに、ほんとうに読む機会も増えてくる」という効用があるからだと解説していた。読まずに積読のも「読んだふり読書」。なかなか含蓄のある「人生のことば」だと感心した。

 そうなると、ブログ子も随分と「読んだふり読書」を重ねてきたと反省したり、この謹言も一面の真理を言い当てていると納得したりした。

 ● 「核心解説」になっていない

 Image985_2 ところで、前回、畑村洋太郎氏の近著をあらためて、読んでみたいと近くの書店をのぞいてみたら、新刊コーナーに並んでいた(写真上。講談社)。

 買うつもりで、パラパラと、その場で読んで驚いた。タイトルに核心解説と銘打っているのに、いっこうに核心がない。政府事故調の中間報告書と最終報告書の概説、あるいは焼き直しにすぎないのだ。報告書の記述を基に、問題点や状況をまとめただけだった。

 あきれたのは、総括に相当する

 事故の教訓をどう生かすか

という章。仮説を立てて、事故の全容解明や事故原因の特定など事故の全体像をつかむことが大切だと図入りまでして強調している。

 なのに、そして、自ら事故調の委員長までつとめた失敗学の提唱者、畑村氏なのに、

 この本自体には、どこにも仮説を立てて、核心解説をした形跡がない

というのは、どういうことか。これでは、ずさんな解説書と言われても仕方あるまい。

 これなど、前回ブログの特別対談そのものは貴重な意見ではあったものの、そのもとになった本自体は、なんだか「読んだふり読書」すら必要のない本だと思う。

 ● 最新刊『続・浜岡原発の選択』を買う

 Image984 それよりも、同じコーナーにあった最新刊

 『続・浜岡原発の選択』(静岡新聞社編集局編、静岡新聞社。写真下)

が、地元、静岡県の関心事にこたえていて、よほど核心記事が盛り込まれていた。ので、畑村さんには悪いが、こちらのほうを買ってしまった。

 こちらのほうは、多分、読んだふりはできないだろうし、また、刻々と迫ってくる巨大地震を扱っているとあって積読というわけにもいくまい。早速、精査したい。

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消費者物価指数を効果的に上げる方法

(2013.04.24)  この3月、物価の番人、日本銀行の黒田新総裁が意を決して

 年2%のインフレ目標

をかかげた時、ふと思った。消費者物価指数を2%上昇させる効果的な、そして具体的な方策にはどんなものがあるか、思いをめぐらせた。

 この15年間、いくたびか日銀総裁が交代し、政策担当の首相も自民党から民主党、そして再び自民党とめまぐるしく代わったが、それぞれの意に反して上昇どころか、物価が下がるデフレが続いてきた。

 だから、ブログ子のような理系人間がいくら考えても無駄だと観念していた。

 ● 地価、エネルギー、教育関係の品目

 Image968_2 ところが、ふと気づいた。いろいろな品目から計算する物価指数をはじき出すのに、比較的に影響の大きい、つまり乗数効果の高い品目の値段が上がる政策をすればいいということに気づいた。指数に寄与する度合いの大きい分野の物価を上げるのだから、すぐにも物価指数は上がるような気がする。

 それでは、そんな分野、品目とは具体的に何か。ブログ子には、それは生活に密着した基礎的な、というか土台のような品目だろう、とまでは考えついた。

 ところが、それにズバリこたえた記事が、『本』(講談社の読書人の雑誌。2013年5月号)に出ている。関西大学会計専門職大学院の吉本佳生特任教授の

 消費者物価指数の秘密

である。それによると、

 一番早くて効果的なのは、地価

なんだそうだ。地価さえ上がれば、賃貸住宅の家賃も上がる、などなど波及効果が大きいという。このことを物価指数の具体的な分析からあぶりだしている。

 その次に考えられるのは、有力候補として

 エネルギー価格であり、教育(子育て)関係

なのだという。逆に言うと、これらが大幅に上昇しないと、全体で年2%上昇はむずかしそうだとわかるらしい。

 ● 物価指数の中身の検討を

 記事では、明示的には書かれていないが、地価にしろ、エネルギーにしろ、教育関係にしろ、いずれも社会生活の土台となる項目なのだ。それだけに、波及効果が大きい。

 吉本教授は、今こそ

 私たち国民も、もっと細かく消費者物価指数に注目しましょう

と訴えていたが、会計のプロの物価分析だけに、説得力があった。

 物価指数という日銀的なアバウトな、そういって悪ければマクロな視点ではなく、指数計算の対象になる項目をひとつ一つ検討してみるというミクロな視点の重要性に気づかされた。

 補遺

 消費者物価指数の上昇といっても、足元の経済実態を反映しない、つまり、先を見越した物価の狂乱的な上昇はなんとしても歯止めをかけなければならないのは、いうまでもない。

 1970年代の一時的なトイレットペーパー事件は、この事例として記憶に新しい。生活の土台とは関係ないものの急速な値上がりには、需要と供給の実態を反映しているというよりも、なにがしかの思惑、あるいはその逆の共同幻想による不安心理が働いている。 

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原子炉中心主義からシステム中心主義へ

(2013.04.24)  講談社の読書人の雑誌『本』の最新号(2013年5月号)に掲載された

 特別対談 福島原発事故から何を学ぶか

を読んだ。政府事故調の委員長をつとめた畑村洋太郎氏(失敗学の提唱者)と歴史学者の加藤陽子氏が、畑村氏の近著、

 『福島原発事故はなぜ起こったか 政府事故調核心解説』(講談社)

の紹介がてら語り合ったもの(写真)。

 Image967 結論を先に言うと、何を学ぶかという対談タイトルなのだが、特別対談では、それについて、明示的には書かれていない。

 そこで、ブログ子が対談を読んで、まとめてみた。要するに

 これまでのような原発の原子炉中心主義から、巨大技術の全体を俯瞰するシステム中心主義に切り替えることが、規制のあり方にしろ、事故再発の防止にしろ、大事である

ということを学べということらしい。

 部分、部分をみていてはわからない隘路が、システム全体を俯瞰してみてはじめて、みえてくるというわけだ。巨大技術の場合、これまでのような部分、部分の「形だけの運用」でよしとするようではダメだということを今回の事故は警告したというわけだ。

  だから、対談では、事故から2年もたったのだから、全電源喪失あるいは冷却源の喪失という部分的なことだけに限らず、事故全体がどのように進行していったのか、その全体像をつかむ努力と解明が、これからの再発防止を考える上で必要だと訴えている。

 まだまだ部分的にしか、事故原因は解明されていないというわけであり、これは鋭い指摘だと思う。

 ● 効率重視の罠にはまる

 それは示唆的でもある。たとえば、原子力規制委が規制を厳格にしようとしているが、部分、部分の規制指針の強化だけでは、またぞろ事故は起こると警告しているのは、正鵠を射ている。

 しかも、対談内容から推測すると、このシステムというのは、注水とか、配電盤の設置方法などの原発敷地内だけのものではなく、社会システムまでも含む。たとえば、避難道路の確保やオフサイトセンターのあり方まで含めてシステムとして考える。

 これまでは、あまりに効率重視の罠にはまりすぎて、かえってとうてい割の合わない事故が起きたというのだ。その通りだろう。

 ● 技術者倫理「公衆の安全最優先」の欠如

 事故は、さまざまなレベルの

 技術者たちの不作為

で起きたとした上で、

 一番大事なものは何か

という想像力と、その大事なものが「自分に預託されている」という意識を持たない人間がそこに(つまり現場に)いた

と畑村氏は鋭い。大事なところを直視しないで、形式だけで騒いでいる社会のあり方を批判している。

 それでは、畑村氏の言う「一番大事なもの」というのは何か。明示的には書かれていないが、

 技術者倫理の根本

 公衆の安全、健康、福利を最優先する

という姿勢であり、行動規範であろう。

 どの分野の倫理規定でも、たいてい第一条に上げられている規定だ。

 事故やミスの予見性や、その回避性を突き詰めて見極めるというこの最優先思想が、いまだ「形だけの運用」に終わっている。

 もっと具体的に言えば、専門知識を持つはずの技術者の多くは、業務上、当然払うべき注意義務を怠っている。これは倫理上の問題であるばかりか、刑法上の過失責任すら問われかねない状況といえる。

 ● 形式運用の根本原因

 では、なぜ、技術者は、一般的に「形式だけの運用でよし」と満足してしまうのか。

 それは、

 専門分野について、積極的に意見を述べる

という倫理規定がないからだと思う。従来の技術者倫理では、意見を表明する場合には、客観性、真実性、正直性をモットーとせよ、としかたいてい書かれていない。

 これでは技術者は、社会から見ると黒子、影の存在

としか映らないし、技術者自身もそうとらえている人は多い。だから技術者という専門職に誇りが持てない。だから、「形式だけの運用でよし」となりがち。技術者は黙っていい仕事をすればいいんだという閉じられた職人技の世界となる。

 巨大技術の場合には、この無自覚、無責任さが災いする。

 これに対し積極的な意見表明は、自らの責任自覚を高める。また、意見表明は、

 客観的で、かつ、真実性のある正直でわかりやすい方法で行なう

とする。主観的な、あるいは欺瞞的な論理や方法は用いない。

 一言で言えば、科学・技術者は

 専門知識を用いて、自分や雇い主に都合よく公衆をあざむかない

という技術者倫理である。正直ベースでいこうとなれば、原発の「安全神話」の浸透を避け得たはずである。

 畑村氏は、この対談で、システム中心主義の重要性とともに、このことを技術者として大事なものであると表現したように思う。

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「博士の愛した数式」は何を描いたか

(2013.04.23)  先日、BS-TBSで、10年前に書かれた『博士の愛した数式』(小川洋子、新潮社)を原作とする同名映画を放送していた。

 Image966 原作は、ブログ子も出版された当時、読んだ。交通事故で80分しか記憶が持たない数学者を主人公にした物語である(主演は寺尾聰)。それも大の阪神タイガースのファンという設定。数学といっても、小学校で習う素数が中心で、

 数の原子

といわれている数字に着目した物語になっている。素数とタイガースがどう結びつくのか、心配したものだが、さすがは芥川賞作家である。みごとにまとめあげていた。

 日常に潜む素数として、阪神タイガースの背番号が使われていた。

 たとえば、江夏投手の28は、素数である約数の和の合計がちょうどその数字になる完全数といわれている素数。村山投手だった背番号、11は、最小の素数が二つ並ぶ「ことのほか美しい」というように。

 ● 人間らしく生きる幸福論

 原作を読んだときには、数学の美しさ、魅力をテーマにした物語だったと思った。

 しかし、今回、映画を見て、はたと思い当たった。小川さんが描きたかったのは、それもあるが、それはテーマを描く道具に過ぎなかったのではないか。素数や阪神ファンというのは、道具立てなのではないか。

 つまり、小川さんは、

 たとえば、事故や認知症などで記憶が欠落する障害、あるいはハンディがあったとしても、なにか熱中するものがあれば、人間らしく生きることができる

という現代的なテーマを描きたかったのであり、道具立てを使って具体的にそれを文学的に表現した。

 人間の幸福とは何か

を考えてもらう物語だったのだ。一言で言えば幸福論だった。そこに映画をみた人や読者が感動したり、共感したりした。

 こう考えてくると、車椅子の天才宇宙論学者、S.ホーキング博士に世界が感動するのもうなずける。記憶の持たない数学者の生き様は、障害をものともせず、神の領域ともいわれる究極の宇宙論に挑み続けるホーキング博士の姿と、感動の質において変わらない。

 ● 再読で新たな発見

 日本数学会はこの原作に日本数学会出版賞を贈っている。その理由として、森田康夫数学会理事長は

 「数学の魅力を専門家以外にもわかってわかってもらうために」

賞を授与したと語っている(「週刊新潮」2005年4月7日号「TEMPO」タウン)。数学を(テーマとして)取り上げていただいて、どうもありがというというわけだが、ちょっと勘違いの気もする。記事によると、著者の小川さんにしてみれば受賞するなんて意外だったらしい。それはそうだろう。数学というのは、書きたいことを具体化するための道具立てにすぎなかったのだから。

 再読する、あるいは原作を映画で見てみる。そうすると、新たな発見があることを知った。 

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論争する科学こそ バークレー白熱教室

(2013.04.20)  Eテレで、偶然だが、先日の金曜日の夜、

 大統領を目指す君のためのサイエンス「バークレー白熱教室」

を拝見した。カリフォルニア大バークレー校のR.ムラー教授(物理学)が、

 地球温暖化の真実

について、熱っぽく語っていた。

 ● 「温暖化の真実」は真実か

 結論は

 Dsc0148920130419e 1750年以降の地球平均気温の長期的な上昇トレンドは事実であり、しかも、すべて二酸化炭素の排出という人間の行為が原因

というものだった(数年といった短期下降トレンドは火山噴火によるものらしい)。具体的には、陸地と海洋をあわせた全地球年間平均気温は、この50年で0.64度、陸地では0.90度上昇。海面は、この100年で20センチ上昇したというもの。

 写真上は、その講義の様子(2013年4月19日放送のEテレ画面より)

 地球上の温暖化を示す膨大な証拠を洗い直し、同時に、100年以上にわたり地域ごとに蓄積されてきた地球の年間平均気温データを詳細に再検証した

 プロジェクト「バークレーアース」

の創設者であるだけに、説得力があると、一応ではあるが、信じたい。

 このままでは、今世紀半ばの2050年には、1.5度から2.0度ぐらいさらに上昇すると予測していた。この結果、破壊的な変化、たとえば、平和の破壊、戦争が勃発するだろうと語っていた。

● 「社会のなかの科学」という視点

 一言コメントすれば、大学の学生向け講義ということもあるのだろうが、複雑系でしかも、非線形性の高い温暖化問題をいとも簡単にスパッと割り切り、最後は断定的に語っていたのが、気になった。

 むしろ、複雑系であるという科学的な見方を正直に学生に提示してほしかった。そのほうが、温暖化と政治とのかかわりを、具体的に知るのにはよかったのではないか。

 Image964 もうひとつ、大統領を目指すというタイトルがついているのだから、

 科学と政治、論争する科学

という視点がほしかった。物理学の枠から一歩も出ない講義内容なら、このタイトルは

 羊頭をかかげて狗肉を売る

たぐいと大差はないだろう。

 つまり、科学的なテーマをめぐる一般の人も巻き込んだ社会的な論争という視点である。

 「社会のなかの科学」

という現代的な考え方であり、規制科学(レギュラトリーサイエンス)とも言うべき分野へのいざないにもなる(写真下= 『科学論の現在』(金森修+中島秀人))。

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コンピューターは「錯覚」するか

(2013.04.17)  このブログを始めた当初、

 目に入ってくる情報と、それがどう見えるか、ということとはまったく別のこと

という話をした。どう見えるかというのは、脳に入力された情報を、脳自身がどう処理しているかにかかわっている。

 2つの目からは正常に光が入ってきているのに、脳内の情報の処理に〝異常〟があると、その人にとっては、たとえば、まったく左側というもののない世界が出現する。この世界に左側があるとは思いもしない男性が、あるいは女性が、まれではあるが、この地球上に生活している。

 この世界には左側と右側があるのは当たり前というように、世の中の常識というものを一度は疑ってみようという意味を込めて、

 このブログ名を「左側のない男」

とした。

 Image947jst しかし、こうしたことは、世の中ではまれなことであったが、だれにでも

 目に入ってくる情報と、その情報を脳内で処理したあとでは、まったく異なるか、ズレているという状況がある。

 それが、視覚の錯覚、つまり「錯視」である。

 写真(科学技術振興機構広報誌「JSTnews」2013年4月号表紙)がそれ。東京大学大学院教授で、数学者の新井仁之(ひとし)教授の

 脳をだます「錯視」を数学的に解明

という特集。

 ハートがちりばめられた表紙。よくみると中央の大きなハートが浮き上がっているようにみえる。さらに手にとって、斜めに動かすと、大きなハートが一定の方向にドキドキと鼓動をはじめるようにみえる(パソコン上では、パソコンを手で持って動かせば、ハートが動く !)。

 なんとも不思議な絵であるが、新井さんは、脳の情報処理の仕方をモデル化し、

 コンピューターも、人間同様に、「錯覚」する

ことを〝発見〟したらしい。

 人間が錯視するものは、モデル化したコンピューターも錯視するとなれば、その数理モデルは、正しく人間の脳内の情報処理を再現しているというわけだ。みえ方が異なっていれば、それは数理モデルのズレということがすくにわかる。

 Image1633 脳科学の実証的な研究への新しい数学的アプローチ

といえるだろう。 

 こういうユニークな研究には、社会的にも応用が広がりそうで、喝采したくなる。

  補遺

 視覚の錯覚の典型的な、というか、古典的な例としては

 写真下のようなものがある。これは、ブログ子がサイエンスボランティアをしている浜松科学館(浜松市)の展示である。

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発表ニュースは見出しが勝負 静新と中日

Image95620130416 (2013.04.16)  夕食時、ふと気づいた静岡新聞の中面記事が、右の写真(2013年4月16日付朝刊)。見出しだけを見て、最初、何の記事かな、と思った。恐ろしく長いセンテンスの前文を読んで、ようよう、なんとかわかった。

 ● 見出しミスの静岡新聞

 真空で生きた虫観察/ 体表覆う「保護膜」開発

では、何がニュースなのか、全然わからない。見出しがおかしいのだ。真空で、というのをやめて、電子顕微鏡の「電顕」を見出しに使い、

 電顕で生きたまま虫観察/ 体表覆う「保護膜」開発

が正解なのだ。前文や本文にはあるのだが、見出しのどこにも電子顕微鏡、あるいは電顕がない。発表ものなのに、ニュースがこぼれてしまった。出稿した取材記者も落ち度はあるが、見出し付けに責任を負う整理記者のミスだろう。

 中日新聞は、さすがにこの手の落ち度はない(写真下=同日付中日新聞)。見出しに、きちんと「電子顕微鏡」と書いている(補遺)。

 写真も、生きて動いたまま撮影できたことを示す一部「ぶれ」ている写真を掲載している。ぶれているところを円で囲って読者に一目でニュースのポイントがわかるようにもしている。これには、浜松医科大の開発者、針山孝彦教授も感心したであろう。提供写真の使い方がうまい。

 ● 前文も、これまた悪文

 静岡新聞の前文は、複文が入り混じる悪文の最たるもので、落第だろう。

 こうだ。

 宇宙遊泳する飛行士が着用する宇宙服のように、虫の体表をすきまなく膜で覆い、真空の状態にしなければならない電子顕微鏡の中で生きたまま観察することに、浜松医科大や東北大のチームが成功し15日、米科学アカデミー紀要電子版に発表した。 

 これをできるだけ、原文を尊重して、直すとすれば、こうだろう。

 電子顕微鏡の中で、これまでできなかった生きたまま虫を観察することに、浜松医科大や東北大のチームが成功した。15日、米科学アカデミー紀要電子版に発表した。宇宙遊泳する飛行士が着用する宇宙服のように、虫の体表をすきまなく膜で覆う「ナノスーツ」技術。

 Image96220130416 発表ものの場合、見出しが勝負。何がニュースか、取材記者の腕の見せ所でもある。いや、いかに読者にアピールするか、紙面づくりのプロ、整理記者の智恵の見せ所でもあるのだ。他紙の研究を忘れまい。わが自戒も込めて、地元紙、静岡新聞を応援したい。 

 補遺 

 にくいことに、中日新聞は、前文も静岡新聞より、簡潔。

 こうだ-。

  生物を生きたまま電子顕微鏡で観察することに、針山孝彦・浜松医科大学教授らが成功した。

 ニュースのポイント(核心)がズバリ、冒頭に書かれている。しかも、できるだけ前のほうに「電子顕微鏡」というのが出てくるように工夫している。これがプロのライターの仕事であろう。しかも、一文には、二つのことを書かないという原則もきちんと守っている。だから、わかりやすい。

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ノーベル経済学賞の経済学  放送大学

(2013.04.16)  以前、このブログで、経世済民の実学のはずなのに、

 経済学はほとんど実際の役に立たない

と、辛らつに酷評した。ところが、その後、ある経済学者から、言い過ぎではないかとの〝酷評〟をいただいた。

 ● 物理学化を目指した現代経済学

 反省するところも多々あった。そこで、現代の経済学を俯瞰的に、少し勉強し直したいと、放送大学がこの4月から新しく開講している2週間連続の集中講義

 現代経済学

という依田高典京大大学院教授の専門科目を、メモを取りながらテレビ聴講した。

 ノーベル経済学賞受賞者の人となりや学問業績について、歴代の受賞者の約4割にあたる40人くらいも登場させての講義は圧巻であった。毎回、講義の理解を深めるための参考図書と講義内容の復習にあたる「学習のヒント」があり、なかなか内容の濃い番組であった。

 先日、この講義が終了したのだが、1970年代にブログ子の学んだ経済学というのは、知的な巨人であるとはいえ、ポール・サムエルソンの経済学、つまり、おおむねケインズ経済学にすぎないことが判明した。

 経済学の物理学化を目指した巨人の世界的なベストセラー『サムエルソン経済学』という浩瀚な教科書は、確かにブログ子も読みかじった記憶がある。経済学の数学化は、現代経済学の流れを決定的にしたと依田教授。だが、そのことが、現代経済学の豊かな実りという点から、正しいことだったかどうかとも指摘していたのが、印象的だった。

 実物経済のケインズ流の大きな政府か、はたまた貨幣数量重視の、つまりマネタリズムのフリードマン流の新自由主義の小さな政府か

という解説も面白かった。

 ● 企業はなぜ存在するか

 Image955 マルクスの『資本論』を皮肉ったような

 G.ベッカーの『人的資本』

という考え方も今の時代にあっている。

 さらには、もっとも実用的な金融工学のM.ショールズの受賞は、リーマンショックの元凶として、著しく経済学賞の正当性や権威を疑わせるものだったと依田教授の批評は鋭い。

 その一方、

 企業はなぜ存在するのか。市場があるのに

というテーマは、ブログ子にとって、目からウロコが取れたような新鮮さだった。取引費用という考え方を導入したロナルド・コース理論である。そこには市場では取引できない価値があるからだとして、日本的経営の土台に迫っていた。逆に言えば、市場はなぜ存在するのかという、これまで一度も考えたことのない意表を突くテーマであった。

 そのほか、貧困にあえぐ国の多いアジアからのはじめての受賞者が

 経済倫理学のアマルティア・セン(インド人)

だったというのも興味深い。合理的精神旺盛な欧米人には思いつかない発想の持ち主だったのであろう。その著書で、参考図書としても挙げられた

 『合理的なおろか者(rational fool)』

などは、翻訳もあるらしいから、一度読んでみたい気になった。

 ● 再考 経済学は実際の役に立つか

 講義を聞いて、あらためて

 現代経済学は実際の役に立つか

という問題を考えてみた。

 高度に理論が数学化、モデル化されたが、その数学化の過程で、さまざまな仮定がおかれることは避けがたい。その仮定の下に経済定理が打ち立てられている。その仮定には、理論家の生い立ちなどから来る価値判断が本人は意図しなくても、潜んでいる。ここが、実験で理論結果を確かめることができないということも手伝って、物理学の数学化とは根本的に異なる。

 したがって、高度に数学化して客観性のよそおいをほどこしてはいるものの、しょせん、数学モデルは価値を排除し切れていない。

 このことが、精緻に見える理論からの予想がいっこうに当たらない原因であり、依然として、現代経済学には経済学者の数だけ学派(School)が存在する理由にもなっている。

 逆に言えば、むしろ高度の数学化が、実学であるべき経済学の実りを乏しくしているような気が依然として拭えなかった。

 だから、経済価値の歴史、つまり経済思想史の研究が大事であり、ここに切り込んだ経済学賞受賞者がいまだいないのが、

 経済学賞の重大な欠陥、あるいは限界

だと感じた。

 付言すれば、制度の歴史的な変化の研究で経済学賞を受賞した経済学者はいるが、たとえば、D.ノース、しかし、価値が伴う経済思想の変化や、その革新的な分析で受賞した経済学者はいない。

 もっと辛らつに、そして逆に言えば、経済理論の基礎という意味の経済思想史研究に新境地を開いた経済学者の研究がないのかどうか、ここに目を向けることを経済学賞の選考委員たちは忘れている。

 要するに、今の経済理論には、数学的には精緻ではあるかもしれないが、その土台となる公理がない。風の吹きまわして、いつひっくり返るかわからない。これではいわゆる科学とはいえまい。

 ● 経済学賞の忘れもの 

 集中講義の最終回は

 ノーベル経済学賞の忘れもの

というタイトルだった。

 日本人はまだ、一人も経済学賞を受賞していないが、受賞してもおかしくなかった人として

 一般均衡理論の森嶋通夫ロンドン大学教授

を挙げていた(故人)。大の阪神ファンだったらしいのだが、ノーベル財団関係者の面前で、

 「まあ、ノーベル経済学賞なんか、ないほうがいいネ」

と言い放ったことも、もらえなかった一因らしい。

 ● 日本人初は、宇野弘文氏か

 もう一人、依田教授の予想では、

 社会的共通資本の宇野弘文(東大名誉教授)

らしい。こちらは今年85歳だが、社会共通資本の考え方から、TPPに猛反対する反骨精神旺盛な人物。

 ブログ子などは、写真のような

 地球温暖化の経済学

のほうで、知っている程度。

 一人当たりの国民所得などが多い国の税率を高くする所得比例の炭素税の導入

の提唱者だ(1999年6月9日付日本経済新聞「経済教室」)。

  興味深いのは、ノーベル賞の国、スウェーデンは世界で初めてこの税制を本格的に導入したことで知られている。

 また、1990年代以来、毎年夏、宇野氏は、スウェーデンで過ごしながら、こうした経済研究をしている。すでに、スウェーデンでの成果はまとめて、

 『地球温暖化と経済理論』あるいは『社会的共通資本の理論』

として、国際共同出版している。

 地球環境分野の経済学賞の授与は今後、有力視されてもいることも考えると、

 日本人初の経済学賞受賞者は宇野氏

と見られてもおかしくない。

 国際的に活躍した宇野氏は、新自由主義の旗手、フリードマンと鋭く対立、論争した経済学者だが、ブログ子も受賞を予想したい。もっとも長生きできればの話。

 もし仮に、宇野氏が温暖化対策の経済理論などで受賞することになれば、あるいはブログ子も、

 経済学は実際の役に立たない

との主張を一部取り下げるかもしれない。

 もう一つ、講義では取り上げられなかったが、ノーベル経済学賞の候補として、マクロとミクロ経済学に隣接する

 経済物理学の分野

があることを付け加えておこう。この10年で革命的に進展した。

 それはともかく、不明(補遺)を恥じ、いろいろ教えられることの多い刺激的な講義だったと思う。

  ● 蛇足的補遺 ノーベル経済学賞はニセモノ ?

  講義で初めて知ったのだが、1969年に創設されたノーベル経済学賞は、実は、A.ノーベルとは無関係であり、単なる

 スウェーデン国立銀行賞

にすぎないらしい。 だから、その権威や正当性が疑われているらしい。

 しかしながら、名称詐称だといって皮肉るよりも、あるいは言い募るよりも、むしろ、ちゃっかり便乗したスウェーデン人のしたたかさを日本人は学ぶべきであり、賞賛するべきかもしれない。

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多様な視点を忘れまい 経済被害の想定

(2013.04.12)  科学ジャーナリズムも、ジャーナリズムの一分野なのだから、当然だが、物事の問題点を論ずるには、多様な視点で見極めることが大変に重要になる。

 このことを、ブログ子はいつも戒めている。だが、これがなかなか難しい。常識を疑ったりもする。話がうますぎるのも危険なのだ。眉につばをつけてみる。が、つい、つい、ころりと騙されることも多い。

  •  ● 南海トラフ、経済被害総額「220.3兆円」、ホント?

     たとえば、前月、防災相も同席した国の南海トラフ巨大地震対策検討会(河田恵昭主査)の有識者会議でまとまった

     M9.1 津波高34メートル 経済被害総額 220.3兆円

    という数字。この「220.3兆円」というのも眉につばをつけて疑ってみる必要があるだろう。

     第一、被害総額が、有効数字4桁という超精密に算出していること自体、あり得ない数字。

      いかにも、詳しく調べて、正確に積み上げましたといわんばかりの数字であり、ごまかしくさい。そんなことできるわけがない。

     Image93820130401_2 そう思っていたら、『アエラ』(2013年4月1月号=写真)が

     南海トラフ(の経済被害総額)に騙されない

    という分析記事を掲載していた。

     ● 強靭化法案と「不自然な一致」

     要するに、自民党が提出し、昨年6月に廃案になった国土強靭化基本法案の

     10年間で総額200兆円の投資計画

    の数字と、今回の被害総額がほぼ一致するのは「不自然」(複数の専門家)だというのだ。

     今後、参院選挙で自公が過半数をとれば、今回の被害総額の算定が再提出されるであろう基本法案に利用される、つまり、法案の必要性や妥当性の裏付けにちゃっかり利用される

    という見立てを記事化していた。想定額は自民党に擦り寄った、いわゆる都合のいい「アワスメント」になっていないかというのだ。

     ふたたび、

     人よりコンクリートへ

    という政策が、「国民の命を守るため」という口実の下、自民党流の土建国家がまたまた再現されるというわけだ。 

     ● 慎みたい度外れた南海トラフ騒ぎ

     そもそも南海地震だけが危険であるかのように吹聴するのは、危険だとしている。なぜなら、南海トラフ以外では安全だと強調しているのに等しいからだという。油断がおこり、かえって被害は拡大するというわけだ。

     正常なリスク評価を、と書いていたが、そのとおりだろう。

     度外れた南海トラフ騒ぎ

    を慎みたいと、ブログ子も思う。時の政権、つまり自民党的な手法に、踊らされるのはジャーナリズムにもとる。ましてや、科学ジャーナリズムにおいては、リスク論的な合理性を尊ばなければならないからだ。

     何気なく、読んだ記事だが、示唆に富む内容だった。

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    ダークマターとダークエネルギーの正体

    (2013.04.12)  前回のブログ(宇宙の果て)を書いたら、珍しく、天文好きという人から、問い合わせメールが届いた。

     最近一般でも話題になっている宇宙での正体不明のダークマターの存在や、宇宙がどうやら加速膨張をしているらしいという観測(ダークエネルギー問題)と、宇宙の果てとは関係があるか

    という質問である。

     Dsc01415 質問されて、不覚にもはたと気づいた。関係がある。ダークというのを、わが宇宙とは別の異次元宇宙にその正体を求めるという意味にとらえることで、関係する、つまり、つながる。

     遠くの銀河を使った宇宙膨張の赤方変位の観測から発見されたダークエネルギーについては、最近、ノーベル物理学賞(S.パールムッター博士、2011年。補遺)に輝いたことで注目されており、まだ一般にも記憶に新しい。

     ● 正体の源は隣りの異次元の別宇宙に

     さて、どういう関係かというと、前回説明したように、われわれの宇宙が目の前の空間のいたるところで、ごくごくごく狭い「巻き上がった空間」を通じて別の異次元宇宙とつながっている。ならば、

     今推定されている重力源「ダークマター」は、わが宇宙のものではなく、異次元から働きかけられたもの、つまり源は異次元にあると考えてもいいわけだ。なにも重力はわが宇宙の独占物ではない。

     だから、この場合、影響は受けるけれども、この宇宙を探してもその影響の源は特定できないことになる。逆に特定できれば、この異次元=ダークマター説は間違いだったことになる。

     同様に、宇宙の終わりを決定付ける宇宙引きちぎりの「ダークエネルギー」の源も異次元にある。つまり、この宇宙を引き裂く反重力エネルギーというのは、別の宇宙からの影響なのだ。

     宇宙初期にはこのエネルギーはほとんどなかったのに、現在の宇宙では、宇宙全体の7割を占めることがわかっている(上図)。これは別の異次元宇宙からの力が働きつづけているせいだとして合理的に説明できる。その正体の源は、われわれの手が届かない異次元というわけだ。

     ● 宇宙のエネルギーの7割はダークエネルギー !

     注意すべきは、このエネルギー=反重力もまた私たちの目の前の空間を通じて、この宇宙に今も働き続けていることだ。けっして宇宙の果てだけに起きている現象であるわけではない。

     Dsc01383 このダークエネルギーがあまりに大きいと、宇宙の時空は引きちぎられて、ばらばらになってしまう。ずっと後のことだが、宇宙の未来は引きちぎられてしまう運命にある。

     急激に膨らませた風船がついに破裂するというイメージである(下図参照=NHKプレミアム「コズミックフロント」2013年4月11日放送。上図も。放送では件の村山斉教授が出演・解説)

     番組では、このダークエネルギーの大小が、この宇宙の終わり方を決めているらしいことをなかなか明解に語っていた。

     ● 哲学者受難の時代へ

      こうなると、小学生でもいだく

     宇宙の果て

    という不思議は、現代宇宙論の最先端分野に直結していることがわかる。しかも、その不思議の謎解きが、単なる現代のおとぎ話ではなく、人工衛星の打ち上げによる観測データなどから実証科学として成立し始めているというのがすごい。

     現代「宇宙の果て」論は、現代哲学の分野にも大きな影響を与えるであろう。数学嫌い、物理嫌いでは哲学者も落ちこぼれる。

     そんな哲学者受難の時代が訪れている。

     補遺 

     ビジュアル科学誌「ニュートン」2012年4月号には、宇宙の加速膨張を発見した

    パールムッター博士のインタビュー記事が掲載されている。

     それによると、加速度膨張の原因として、これまでの物理法則はそのまま正しい仮定したオーソドックスなアプローチがまずある。

     ダークエネルギーの正体として、素粒子の存在を新たに想定する。今の物理法則(素粒子物理学)を前提にそれを直接あるいは間接的に探索する道。日本の東大などのキセノンを利用した「XMASS」プロジェクトがその代表。

     もう一つは、加速膨張の原因として、これまでの物理法則に根本的な修正を迫るアプローチである。宇宙規模の距離の間には、距離が遠く離れれば離れるほど強い反重力が働くと考える道だ。この場合、宇宙規模ではない距離間では、この反重力は無視できるというわけだ。

     具体的には、アインシュタイン方程式(一様等方のフリードマン方程式)で

     正のΛ項を付け加えるやりかた

    である。方程式にΛ項を導入したことを、アインシュタインは「人生最大の失敗」としたが、加速膨張の発見も含めて、さまざまな事実を、この項の導入で統一的に矛盾なく説明できることに成功すれば、Λ項が50年ぶりに息を吹き返すことになる。

     このやり方だと、加速膨張以外にも、いろいろな宇宙規模的な謎が無理なく、統一的に説明できることが必須となる。検証実験も必要になる。

     こうなると、偉大な科学者の失敗は、これまた偉大であったことになる。

     インタビューによると、これまでのところ、説得力のある有力な仮説は出てきていないという。

     インタビューでは、直接言及されていなかったが、

     ダークエネルギーの正体を、近接するさまざまな異次元からの重力、つまり〝外力〟の影響によるもの

    という仮説もあろう。博士の言う、広い意味の

     あらゆる可能性

    の一つであろう。超ひも理論の今後の進展が不可欠だ。

     ただし、それでも異次元宇宙の存在を証明することは、以上ふたつよりもはるかに難しいだろう。この宇宙とは別の異次元宇宙の存在をとうやって証明するか、という問題に直面するからだ。直接、その存在を証明することは、ほとんど不可能だろう。

     先の二つの方向が行き詰ったときに、注目が集まると期待される。

     なお、博士の加速度膨張宇宙の証拠を示す歴史的な論文は、

     Astrophys.J.,517(1999)

    に掲載されている。

     補遺 朝日「社説」

     おどろいたことに、2013年5月5日付朝日新聞の社説は、ひまダネではあるが、

     暗黒物質 宇宙は謎に満ちている

    という社説を掲げている。ダークマターとダークエネルギーについて、あれこれ書いている。これといって目新しい事実も、新しい視点も提示しているわけではない。ありふれている。いくら休刊日前のひまダネとはいえ、こんな問題を社説に取り上げるのはいかがなものか、という思いだった。

     取り上げるなら、視野の広い新しい視点がほしい。それがなかったのは残念だった。

     新しい視点、たとえば、この宇宙のほんの目の前にも異次元が存在するかもしれないという示唆だ。単に見えない重力源があるというだけではいかにも説得力が乏しい。

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    宇宙の果て、その外側はどうなっているか

    (2013.04.11)  人間と生まれたからには、一度は、世の中の雑事から離れて、宇宙の果てはどうなっているのか、果ての外側はどうなっているのか、のぞいてみたいと思ったり、考えたりした人は多いだろう。

     Image8885 洋の東西を問わず、また古代でも、中世でも人々はさまざまな想像力を働かせて、その謎に挑戦し続けてきた歴史がある(注記)。近代科学が誕生した後も、この問題への挑戦は続いた。

     天文学の分野に進んだブログ子も、子どものころから、その不思議に取り付かれていたし、今もその不思議を楽しんでいる。人間、大なり、小なり、このときばかりは哲学者になる。

     そんな折り、ビジュアル科学雑誌「ニュートン」2013年5月号が

     宇宙の果てをめぐる最新宇宙論

    という特集を組んでいる。ここでも、やはり、

     宇宙に〝外側〟はあるのか ?

    と読者の素朴な関心事に切り込んでいる(写真上)。ついつい、興味も手伝って、買いこんでしまった。今一番科学的な、あるいは理論的な宇宙論研究者として、注目を集めている村山斉東大教授が解説しているからだった。

    ● まず2次元宇宙を考える

     特集を、写真のように、メモを取りながら、読んで見た。

     要するに、結論を先に言えば、この3次元空間の宇宙の果ては、そもそも存在しないということだ。この現実の3次元宇宙にとどまる限り、外側というものも存在しない。

     それでも現代の最新宇宙論からみて、仮に存在するとしたら、それは、どういうものか。

     それは、1次元を上げて、空間がX、Y、ZとUという4次元空間か、それ以上の空間を持つ宇宙から見ると、この宇宙の空間から時空をこえて移動することに相当する。

     このことは、われわれの宇宙よりも1次元落として、2次元の空間しかない球の表面に暮らす人々を考えれば、わかりやすい(メモの図を参照)。

     2次元空間に暮らす人々も

     (球表面の)宇宙には果てはあるか、その外側はどうなっているか

    と不思議に思うだろう。

      しかし、3次元の宇宙に暮らすわれわれからすれば、そんなことはおかしいほど自明であり、

     球表面に果てなどあるわけがない

    と笑うだろう。しかも、球面のどこにいても、そこから見て果ては存在しない。

     球面のどこでもいいが、そこから果ての外側に出たければ、1次元高い3次元(メモの図で言うと、球中心から矢印の方向)に飛び出すしかないと、アドバイスできる。

     しかし、2次元の表面にとどまっている限り、そんな外側はどこにもないと、2次元の世界の人間は考えるだろう。

     ● わが3次元宇宙は9次元空間の宇宙に浮かんでいる?

     同じことを、3次元のわれわれの宇宙に適用すれば、

     この3次元の宇宙の外側は、

     4次元(Ⅹ、Y、Z+U)

    なのだ。注意すべきは、その外側は、遠い宇宙の果てにあるのではなく、2次元の場合同様、自分の目の前のどの空間にもあるという点だ。それはただ、われわれの目には観測できないだけなのだ。

     Uという軸は、どうなっているのか。

     それは、すべての空間で

     〝小さく丸まっている〟

    というのが、現代宇宙論の最新理論、超ひも理論の結論らしい。空間のU軸は、3次元の宇宙では恐ろしく小さく丸まっているので、そんな空間はとてもじゃないが、観測にはかからないというわけだ。

     Image89110ただ、最新の超ひも理論によると、実際は、現実の宇宙の外側は、4次元空間というよりも、どうやら、もっと次元の大きな

     9次元空間

    で構成されているらしい。3次元に暮らすわれわれには、残り6つの次元は丸まっていて、どこにいても見えないというわけだ。

     つまり、空間9次元と時間軸を足して

     10次元宇宙の中に、

     われわれの現実の3次元空間宇宙が浮かんでいる。これが現代宇宙論=超ひも理論のイメージらしい。

     先ほどの球面人間の伝でいえば、この9次元の宇宙に暮らす人々にとっては、3次元の宇宙に果てが、どの場所にもないのは、あまりに自明であろう。

     そんなものあるわけがない

    と笑っているだろう。

     現代の宇宙論、たとえばビッグバンにしろ、その前に起きたとされる急膨張宇宙(インフレーション宇宙)にしろ、その宇宙初期の過程で

     宇宙は、われわれのこの宇宙だけとは限らず、無数に生まれたであろう

    ということを示唆しているというのだから、なおさら驚く。宇宙には、さまざまな空間次元を持つ宇宙があり、そこに住む宇宙人たちもまた、宇宙の果てはどこなのだろうと探し回っている。

     そんな姿を、いずれの宇宙にもそんなものはないことを知っている「神」は、楽しげにご覧になっているのだろう。

     ● 宇宙の数は10の500乗個もある

     解説に当たった村山博士は、

     10の500乗、つまり、1の次に500個のゼロをつけた途方もない数の宇宙がある

    かもしれないと特集インタビューで語っているのには驚いた。ゼロを12個つなげると1兆個だから、この数字がいかに大きいかがわかる。

     これでは、「神」は、いちいち人間などにかまっていられない。

     それぞれの宇宙では、わが宇宙とはまったく異なる物理法則が支配すると考えるのが、自然であろう。

     万能の「神」だといっても、そんなにあれば、混乱しないか。他人事ながらブログ子などは心配になる。

     仏教の世界には

     三千大世界

    という壮大な宇宙観があるが、村山博士の解説を読んだ後では、これとて、

     ごくごくごくごく、そのまたごくごくごく小さな箱庭的世界観

    に過ぎないとさとった。

     そう悟らせてくれたという意味では、人間は偉大な存在であるような気がしてきた。

     Image949 宇宙に果てはあるか。その外側はどうなっているか。考えてみれば、小さいころからの素朴な疑問にも、実は、以上のような深遠な意味があったのだ。

     たまには、こうした気宇壮大な話もいいのではないか。世間のこせこせした悩みなど、たいしたことではない。

     ごくごくごくごく、さらに、ごくごくごく些細なことにすぎない

    という気分になる。

     これこそが現代宇宙論の現代的な意義だろう。科学の力、あるいは効用ともいえよう。

      ● 注記 中世のキリスト教的宇宙観

     たとえば、中世のキリスト教的な宇宙観には、最下段のイラストが比較的によく知られている。

     このイラストでもわかるが、宇宙の果ての外側はどうなっているのかということが不思議がられていたことがわかる。神は、外側で歯車を回し、この宇宙を回転させていたのだ ! コペルニクス以前の天動説を皮肉ったものであろう。イラストの出典は、『日本大百科全書』(小学館)。

     Journeycosmicspacetime_01_by_karl_t これを現代風にもじったのが、その下のカラーのイラスト写真(SPACE.com、Karl Tate 2013)。

      20世紀前半までの宇宙論には、現代宇宙論のように、この宇宙の外側は次数の一つ高いかそれ以上の異次元宇宙であるという発想はなかった。宇宙は唯一、この宇宙しかないという発想が根強かったことが原因であろう。

      ● 読書案内

     『物理学と神』(池内了。集英社新書。2002年)。

     なかなかの名著。人間がつくった「物理学」と、「神」のつくった自然界の謎。

     物理学の目的は、この神の居場所をこの宇宙からなくすことらしい。果たしてそんなことができるのかどうか。

     物理学が専門だったブログ子の考えでは、神というのは、物理学が行き詰まったときに目の前に現れる

     希望

    なのだが。たとえば、アインシュタインの

     神はサイコロ遊びをしない

    というように。だから、物理学は神と共存できると考えている。

     同じく、池内氏は、現在、集英社の読書情報誌「青春と読書」に

     宇宙論と神

    を連載している。2013年4月号では

     神に頼らない 古代ギリシャの宇宙観

    を論じている。

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    なんとも心もとない防潮壁 浜岡原発ルポ

    (2013.04.10)  前回話した伊藤実さん宅で話を聞いた後、伊藤さんの案内で、実際に浜岡原発の見学、といっても外側から観察しに浜岡砂丘に出かけた。台風並みの春先の強力な低気圧が通過した直後とあって、晴れてはいたものの、強い吹き返しの風の午後だった。

     ● 建設中の22メートル防潮壁

     写真上が、南側に隣接する静岡県温水利用センター側から撮った浜岡5号機。左手が遠州灘。5号機より海岸から少し離れたところの右側に、リプレース用の6号機建設予定地が広がっている(パワーショベルで造成中)。

      Image9375 写真中央にある防潮壁が建設中なのがわかる。地盤約6メートルのところから、高さ12メートルの鋼鉄製の壁で原発を囲い、守っている。さらにその上に、4メートルのかさ上げをして、海面から合計で22メートル。

     防潮壁は、基礎が地下深くに打ち込まれた鋼鉄製の構造で、地盤と壁とは「粘りのある鋼鉄製のL字鋼」で補強、津波で内側がえぐりとられにくい仕組みになっているらしい(浜岡原子力館の説明パネルから要約)。この建設に中電は、約1400億円もの費用かけている。

     この写真から、原発建屋の高さや排気塔(約100メートル)の高さの相対的な概要がおおよそわかる。この建屋の中に、原子炉が納まっている(写真最下段。3号機の実物大模型=浜岡原子力館) 

     Image915 近くまで行けなかったのが残念だが、鋼鉄製の壁、8+4メートルというのは、人間の背丈の6倍もあり、近くで見ることができれば、確かに壮観だろう(補遺)

     ところが、これを原子力発電所敷地全体から見ると、どこにそんなものがあるのか、よくよく見ないとわからない(写真右)。

     ブログ子も原子力館の展望台から見たのだが、最初どこに防潮壁があるのか、わからなかった。

     一般の見学者の多くも、そうらしく、説明に当たる女性に指差してもらってようやく、見つけることができたようだ。

     写真で言うと、写真奥の青い遠州灘と陸地の境に、灰色の線が左右に走っている。これが防潮壁。

     なんとも心もとない壁

    という印象なのだ。もし神様が上空からみたら、どこに防潮壁があるのかわかるまい。

     もっと具体的に言えば、富士山静岡空港から飛び立った旅客機が御前崎上空に差し掛かったとき、窓から下に原発敷地ははっきりとみえるが、防潮壁はまず確認できない。広大な遠州灘にくらべたら、ちっぽけなものなのだ。これで、大津波をブロックできるのか、不安になる。

     Image9055_2 この写真のずっと奥(原発の南側)、あるいは右手(北側)には、巨大な三枚羽の風車が海岸沿いにずらりと10基以上ならんでいる。浜岡原発付近は、静岡県有数の風力発電所が立地する地域でもある(写真= 5号機の南側の様子)。

     法律で義務付けられているとはいえ、中電はそれなりに再生可能エネルギーによる発電にも力を入れている。

     ● 軟弱な地層や活断層は本当にないか

     浜岡原発は

     相良(さがら)層

    という岩盤の上に直接立地、支持されている。この層は数百万年前までに堆積した泥岩や砂岩でもろいことが知られている。

     そのせいかどうか、浜岡原発の敷地内にはH断層系と呼ばれる4本の断層が海岸線にほぼ並行して存在する。このこと自体は中部電力自身も認めているし、中電のボーリング調査でも確認されている。

     このH断層系について、中電は

     詳細な地質調査の結果、H断層系は第四紀後期の活動はなく、地震を起こしたり、地震に伴い動くものではないことを確認している

    と同社HPで公表している。第四紀後期(今から12、3万年以降に形成された地層)の活動がないということは、原発立地の耐震規制(安全)指針により、立地が認められない活断層にはあたらないことになり、したがって敷地内には活断層はないというわけだ。

     Image935h 果たしてそれをうのみにしていいかのかどうか。伊藤さんの案内で、相良層の岩盤が地表に露出しているところを案内してもらった。原発敷地を出たすぐ近くに立つ送電用鉄塔の真下に、それはあった。

     実際に、その層を素手で引っかいてみたが、

     写真下(ものさし付き)のように、簡単にはがれた。

     一般の常識からすると、原発立地というのは、それこそ硬い一枚岩石の岩盤の上に支えられて立地しているように考えられている。しかし、そうでもないことを実感した。

     案の定、2009年8月の駿河湾地震では海岸に近い5号機直下の岩盤に軟弱な「低速度層」という〝異常〟が、中部電力の調査で見つかった。

      かたい岩盤の中に、軟弱な堆積した低速度層があると、揺れが増幅されたり、揺れがより長時間続いたりすることが実験で確かめられている。たとえば、そうした実験はNHKスペシャル「MEGAQUAKE Ⅲ 巨大地震」で紹介されている(2013年4月14日夜放送)。

      こうなると、果たして本当に、南海トラフ「浜岡」は大丈夫なのかという、具体的な心配がまたひとつ増えたように感じた。

     Image91031 軟弱な活断層は、本当に敷地内にはないのか

    という疑問だ。

     この疑問と、なんとも心もとない防潮壁の姿を浮かび上がらせた旅だったように思う。

       余談だが、

     この日、原子力館の展望台からは、ちょうど100キロ先にある雪に輝く富士山の頂きが小さくはあるが、はっきりと見えたのには、感激した。

     この美しい日本一の山を放射能で台なしにしてはならないと誓った見学会でもあったことを、ここに付け加えておきたい。

      補遺  

     Image9632012518 天気の穏やかな日に、真近で浜岡原発を撮影した写真が左(= 週刊ポスト2012年5月18日号より)

     防潮壁の建設が始まっているのが、わかる。しかし、敷地正面玄関口ほどには、海側は、「立入禁止」の鉄板も真っ二つに割れ、放置されているなど、意外に警備は厳重ではないことがわかる。

      Image979 また、参考文献として、

     『浜岡原発の選択』(静岡新聞編集局編、静岡新聞社。2011年10月)

    を挙げておきたい(写真最下段)。

     

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    「原発立地、浜岡は最悪」と訴える反対住民

    (2013.04.09)  南海トラフ巨大地震が来れば、浜岡原発(静岡県御前崎市)で起こると予想されていたことが、東北大震災の福島で先に現実となってしまった。

     Image936 そう語る、浜岡原発と同じ町内の地元、佐倉地区の伊藤実さん(浜岡原発を考える会)宅を先日仲間たちと訪ねた。小さいころから浜岡を見つめ続けてきた生き証人である(写真上= 自宅で、これまでの「考える会」の活動を語る伊藤実さん)。

     ● 豊かさへの模索と翻弄  

     それだけに、このままでは御前崎は、いつか原発震災の被害者ではなく、〝加害者〟になってしまうのではないか。そんな苦衷をのぞかせながら、原発立地に反対し続けてきた「考える会」の活動20年を含めて浜岡原発(計画)50年の闘いを振り返ってくれた。

     伊藤さんの話を一言でまとめれば、

     地域を2分しての「豊かさ」への模索と、時代の波に翻弄された歳月

    だったと言えるだろう。その傷跡は、東北大震災後の今も癒えてはいない。

     浜岡原発への道の「裏面史」とも言うべき芦浜原発計画(中部電力、2000年撤退。三重県)と珠洲原発計画(中部電力、2003年撤退。石川県)もまた、実現されなかったとはいえ、

     浜岡原発と同様、模索と翻弄の歴史

    だった。だが、しかし、立地が決り、1号機から5号機までの浜岡原発の実現の経緯、あるいは6号機計画そのものも、以下に示すように、

     豊かさと危険の狭間での綱渡りの歴史

    だったことが、伊藤さんの話から伝わってきた。1号機から5号機建設の立地やタイミングは、恐ろしいほど最悪だった、つまり、

     「原発立地の浜岡は最悪」

    だったと伊藤さんは語ってくれた。ある意味、〝呪われた〟歴史なのだ。

     ● 浜岡の歩みは警鐘の歴史

     浜岡原発(写真中)の1号機が営業運転を開始するのは、1976年。建設が進む2号機に続いて、矢継ぎ早に中部電力が3号機の申し入れを地元にしたのもこの年だった。

     Image916 この年、東大地震研究所の石橋克彦助手が「駿河湾地震説」(のちの東海地震説)を学会などで発表、大きな社会的反響を巻き起こした。だから、地元には大きな不安が走った。

     2号機が運転開始した1978年には、大急ぎで大規模地震対策特別措置法が国会を通過するというあわただしさだった。翌年には米スリーマイル島原発事故ショックが日本全国を襲う(1979年)。静岡県は、原発の安全神話の中で、防災対策の強化という難しい舵取りを迫られた。

     2号機の運転開始から10年、1987年に3号機が動き出すのだが、直前、チェルノブイリ事故(1986年)で、事故の懸念が薄れ始めていた県民に浜岡原発に対する言い知れぬ不安が高まっていく。

      それでも、4号機が1993年に運転を開始する。だが、直後の1995年、予想だにしていなかった阪神大震災が関西を襲う。その惨状に、さすがに原発をかかえる地元ならずとも、一気に原発は危険という認識が浸透していく。

     伊藤さんたちの「考える会」ができたのもこの頃だったという。

     しかし、それでも、景気低迷にあえぐ地元商工会などが、5号機増設の陳情を繰り返した。そして、1990年代後半という日本経済の低迷の中、1997年に5号機について静岡県などから、知事同意という「GO」サインが出る。

     この同じ1997年、地震学の石橋克彦さんは、

     原発震災

    という警告の論考を雑誌に発表、反響を呼んだ(月刊誌『科学』(岩波書店)1997年10月号)。震災と同時に原発事故も起こるという複合災害への備えを警告したものだ。

      5号機着工の年。原発震災の場合の被ばくとはどういうものか、具体的に示したのが東海村JCO臨界事故(1999年)の衝撃だった。このとき初めて、日本国民は、原爆同様、平和時の原発、もっと言えば、原発に使うウランの臨界被ばくも恐ろしいという事実をまざまざと見せつけられた。

     そして、2000年代に入ると、日本は本格的な廃炉時代を迎えるのだが、その先頭に立ったのが、浜岡1、2号機の廃炉と引き換えに6号機をセットで増設する計画、いわゆる「リプレース」計画である(2008年12月)。中電は、この時期から上記のように芦浜原発計画からも珠洲原発計画からも手を引き、浜岡原発に集中投資を始めている。

     ● 不安から具体的な心配へ 御前崎沖の駿河湾地震

      だが、リプレース計画発表の直後、御前崎沖を震源とするマグニチュード(M)6.5の地震(2009年8月)が駿河湾で発生。地元、御前崎市を

     「震度6弱」

    の県内一番の揺れが襲う。静岡県民としても戦後はじめての大地震を経験する。このとき、浜岡原発5号機の地盤に、設計耐震加速度を超えるという〝異常〟のあることがわかったのは記憶に新しい。

     後に、直下の相良地層にある軟弱な「低速度層」の新たな存在が原因と判明する。これまでのような漠然とした原発不安から、5号機直下の岩盤は大丈夫かという具体的な心配に変わり始める。

     この問題については、中電としては、もともと5号機建設は敷地の狭さから当初予定にはなかったという。その無理な立地で、最も海岸寄りに5号機を増設した影響が出たともいえよう。

     ● 6号機リプレース計画直後に「3.11」

     そして、6号機リプレース計画が2010年から本格的に動き出そうとしていたちょうどその矢先、

     Image8961_3 2011年東北「3.11」の原発震災

    が発生した。石橋さんや、伊藤さんの言うとおり、

     浜岡で起きることが予想された「原発震災」が、東北で先に起きてしまった

    といえるだろう。 

     ● 原子炉は緊急停止に成功するか

     浜岡原発では、着々と防潮壁建設が進む。

     しかし、こうしたこれまでの経緯を聞くにつけて、浜岡の場合、大津波対策もさることながら、そもそも

     南海トラフ巨大地震の発生時、稼動中の原子炉が緊急停止(スクラム)に成功するかどうか

    という心配が先にたつ。予想される震源が近いことから、地震感知とほぼ同時に、原発に揺れが襲い、数分大揺れが続いている最中に、施設全体に大津波がやってくる可能性

    が浜岡の場合、高い。

     東北大震災では、第一波、それより大きい第二波と波状攻撃的な横の大揺れが3分近く続いた。その後、おおむね揺れが収まるまでに5分もかかった。原子力館の説明によると、制御棒の挿入作動スイッチが入ってから、スクラムが完了するまではわずか数秒だという。しかし、一定以上の揺れの地震を感知してから挿入スイッチが作動するまでにどのくらい時間がかかるかは、残念ながら教えてもらえなかった。

     スクラムに失敗すれば、福島とは違い、炉心で制御できない核暴走が起こるだろう。原子炉の爆発である。これはチェルノブイリ事故の悪夢の再来そのもの、いや、おそらく、それ以上ではないか。燃料棒のある炉心が融け落ちる、メルトダウンどころの騒ぎではないだろう。

     Image898 こうなれば、御前崎市は原発震災の被害者なんかではない。最悪の立地のところに、なぜ次々に、また唯々諾々と建設を受け入れていったのか。夢よ、もう一度とばかり、原発景気に浮かれていると、「加害者」だと言われるかもしれないという危惧はうなづける。

     (写真上= 6号機リプレース計画の場所。左手に遠州灘、奥は5号機。中央に黄色の建機(パワーショベル)があり、一部造成が始まっているのがわかる)

     ● 汚名返上、名誉挽回の時

       今、地元では、車メーカー、スズキが、これまでの態度を一変、御前崎市と距離を置きつつある。在庫を持たない組み立てシステム、ジャストインタイムの下では、原発震災は企業に立ち直りのできないほどの致命傷を与えるとの認識がなされ始めたからである。世界のトヨタも、脱原発の姿勢に軸足を移しはじめているという。

     しかも、南海トラフ巨大地震は、刻々と近づいている。いついつとは予測できないものの、遠くない時期に、ほぼ確実にやってくる。

     だから、地元住民など御前崎市にとって、加害者になるかもしれないという汚名を返上し、今こそ、日本の大動脈を原発震災からからくも守ったという名誉を挽回する時ではないか。巨大地震が起きてから、いくら反省してももはや遅い。

     先にやってきた東北大震災は、これから起こるであろう南海トラフ「浜岡」に、このことを教えてくれている。

     この意味で、6号機計画はもちろん、浜岡原発を決して再稼働させてはならないという確信が深まった南海トラフ「浜岡」への旅だったように思う。

     (写真中=  自宅から1キロもない浜岡原発の方向を指す伊藤さん。御前崎市佐倉)

      ● 補遺 法的な廃炉への道筋づくりが要る 2013.04.12

      規制委員会は、原発再稼働を認めるかどうか、その新しい規制基準案をまとめた。再稼働をめぐって、廃炉あるいは企業の判断で「休炉」にするべきなのか、法的な枠組みづくりが必要ではないか。

     廃炉にするのかどうかの判断は、現状では電力会社の経営判断にゆだねている。これではいたずらに電力会社が、業界への影響をおもんばかって、心ならずも原発にしがみきかねず、脱原発への道の障害になりかねない。

     今、問題になっている活断層問題も含めて、電力会社が受け入れやすい、いわば大義名分を与える廃炉の法的な枠組みづくりが急ぎたい。

     Image950_3 一言で言えば、名誉ある撤退の仕組みづくりである。新規制基準がまとまったのを機会に、経営合理性の上からも、大義名分上からも、電力会社が廃炉を受け入れやすい法的な環境づくりを急ぐ必要があろう。

     ● 参考文献

     なお、浜岡原発に反対する地元住民たちの声をまとめたものについては、

     『浜岡原発の危険!住民の訴え』(著者=小出裕章・伊藤実など11人。一般社団法人アクティオ、2005年発行=2011年5月復刊)

     また、伊藤実さんには、2005年4月(ひと・まち交流館京都)の講演記録

     「原発震災が起きたら日本はどうなる」

     http://www.ihope.jp/shoot.html 

    がある。

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    帰還基準の合意形成 長瀧重信氏の場合

    (2013.04.05)  なにかと誤解、あるいは批判を受けやすい被ばく医療の長瀧重信氏(長崎大名誉教授、放射線影響協会理事長)だが、2013年4月4日付読売新聞「論点」に、論旨が明解で、かつ具体的な点で注目すべき論考を寄せている(写真)。

     Image88120120404 簡単に言ってしまえば、現在の国の除染目標、つまり自然界からのものを除いた追加的な線量、年間1.0ミリシーベルト以下にするというのは、あまりにも厳しく、現実的ではない。

     科学的にみても、また国際的にも、この目標は根拠がなく、合理性もない。国全体が年間1.0ミリシーベルトでなければならないという「呪縛」にとらわれている。この目標値のために避難生活を必要以上に強いられ、多くの人が避難所で亡くなっている現実を重く受け止めなければならない。

     だから、

     「すべての関係者がまず(年間)1ミリシーベルトの健康(への)影響を科学的、社会的に改めて討論することを提案したい」

    と述べ、科学者の立場から縷々、国際的にどういうことになっているか、その現状を具体的な数値を示して紹介している。

     ● 非平常時、年間1ないし20ミリシーベルト

      長瀧氏の論考のポイントは、

     日本のこの1.0ミリシーベルトというのは、国際的には平常時の勧告値であり、事故後あまり間のない、つまり状況が変化しているような「非平常時」の勧告ではない

    と指摘していることだ。

     大事な点だから、少し長いが論考からそのまま引用する。専門家の立場から勧告を行なう

     「「国際放射線防護委員会」(ICRP)は、100ミリシーベルト以下でも放射線の影響は、直線的に存在すると仮定し、公衆に対して平常時では年間1ミリシーベルトを線量限度と勧告しているが、現在の福島のような復興期(現存被曝状況)では、線量限度は使用せず、1ないし20ミリシーベルトの範囲で「参考レベル」の目安線量を定めている。そして、その地域の社会状況に応じて、可能な範囲で低くすることを勧告している。」

     長瀧氏は、長年被ばく医療やその調査にかかわってきた臨床医として、帰還目安の線量はどのくらいだったらいいか、明らかにはしていないが、ここに書かれた参考レベルを念頭においているのは、明らか。この点につては、「補遺2」も参考にしてほしい。

     ブログ子は、この見方は傾聴に値すると評価したい(注記)。

     ● 社会的な合意形成を求める

     なにがなんでも1.0ミリシーベルト以下にならなければ帰還させないというのは、根拠がないだけでなく、被災者が受ける不利益とメリットを比較考量するというリスク論の考え方からすると、著しくバランス感覚に欠ける。その背景には日本人特有の極端な「核アレルギー」があるように思う。

     ブログ子も、こうしたアレルギーに惑わされずに、帰還目安値について科学的であり、しかも社会的にも合理的性のある設定を、早く社会全体で合意するよう強く政府に求めたい。

     注目すべきことは、科学的に割り出された1ないし20ミリシーベルトの許容範囲のどこに設定するかという問題は、科学が決めるべき問題ではない点だ。社会的な合理性の問題なのだ。

     ● どう扱う「不確実な知識」

     冒頭にも書いたが、長瀧氏が、とかく誤解や批判を受けやすいのは、科学知識について

     確実な知識(被ばくで言えば、急性期の影響)と推定可能な知識(晩発期における低線量被ばくの影響)

       そして、不確実な知識

    と峻別し、不確実な知識について、なにかと「中立性」を保とうすることに原因があるように思う。

     あえていえば、不確かな知識について、あくまで〝科学的〟であろうとして

     疑わしきは、患者の利益に

    という意識に乏しいように思う。この踏み込み不足が誤解を生んでいる。

     たとえば、「チェルノブイリ20年、その影響は今」という特別講演(2006年10月、保健物理セミナー)。

     http://anshin-kagaku.news.coocan.jp/sub061019nagataki.html 

     この講演で、

     科学的に結論できない、未解決、不明、限界などと表現される「不確実な分野」をわかりやすく説明することが重要。だが、日本社会で十分理解されているとは思えない。それは社会がかかえる大きな問題である。

    とスライドで強調している。

     意味の取りにくい文章だが、科学的に「不確実な分野」について、喫緊の課題の場合、社会的な合理性と納得をどう取り付けていくのか、それが重要なのに社会はそれに気づいていないといいたいのだろう。

     しかし、問題が科学的に不確かであるからといって、あとは知らないとばかり、責任を社会に転嫁してはならない。

     不確実な分野、つまり白か、黒かはっきりしない場合、シロでもクロでもない「グレー」なのだから、臨床家として、患者の安全側に立って、さらに調査する姿勢が要る。

     これに対し、臨床家として、科学的であり、中立の立場だと主張するのであれば、それは医療倫理にもとり、誤りだろう。このことは、1960年代、因果関係を立証する確実な証拠がないという理由の一部医師側の「不作為」から、水俣病患者をみすみす多数生み出す悲劇的な結果になったことからも、わかる。

     一言で言えば、科学的に誠実であることと、被災者や患者の立場に立つということとは、なんら矛盾しないということだ(補遺2)。

     公平・中立は、実は、公正ではなく、不利益をこうむっている側を一層窮地に追い立てる手段と化する。

     この点を強調した上で、今回の長瀧氏の論考は、何が医学的、科学的に「不確実な分野」なのか論点整理し、ひとり科学者だけに任せておくのではなく、社会的な利害得失などの合理性に基づいて合意形成をうながしている。この点は、一定の評価をしていいと考える(補遺)。

     帰還基準の設定見直しは福島県にとって、切実かつ喫緊の課題であるからだ。

      注記

     ただし、長瀧氏が持論のベースにしているICRPや、ICRPのデータの基礎になっている国連科学委員会(UNSCEAR)の考え方や勧告が、本当に実態を的確にとらえた上でのものなのかどうか、研究者の間でも議論があることには注意をするべきだ。

     たとえば、被ばくによる健康へのリスクを低く見積もりすぎているのではないか、リスク要因が限定的ではないのか、そもそもシーベルトでリスクを評価することの科学的な是非などである。

     これらの国際機関に対する批判については、

    『人間と環境への低レベル放射能の脅威』(たとえば、ペトカウ効果の章。グロイブ/スターングラス。肥田舜太郎/竹野内真理邦訳。あけび書房。2011年6月)

    が参考になる。批判の根拠は、これらの国際機関も歴史的にはたびたびまちがいを犯し、そのたび勧告や報告書を訂正あるいは改訂してきたという事実があろう。

      ● 補遺  科学論から - 規制科学

     この問題は、科学論では論争する科学、つまり、健康や環境など政策と密接にかかわる科学、レギュラトリーサイエンス(規制科学あるいは行政科学)といわれるテーマに相当する。

     詳しくは、

     『科学論の現在』(金森修+中島秀人、2002年)の第7章を参照してほしい。

     あるいは、より現実的にどう対応するかという「戦略提言」として

     『政策形成における科学と政府の役割及び責任に係わる原則の確立に向けて』

    という科学技術振興機構(研究開発戦略センター)の報告書がある。 

     今焦点となっている原発の規制基準(安全基準)の妥当性判断も、利益に対して社会がリスクをどの程度受け入れるのかという社会的な合意形成の中で、行なわれるべきものである。

     提言は、従来の官僚任せに代わって、この合意形成の原則やその下でのルール試案を、海外の事例を参考に具体的に提示している。

      ● 補遺2

      長瀧氏の特別講演では、低線量被ばくについて、

     「1ないし100ミリシーベルトでの健康への影響は科学的には不確実あるいは科学の限界」

    と結論付けている。その上で、

     「科学の限界領域で、政策や規制の合意形成を行なう際には、経済的、環境的、倫理的、心理的な諸問題をすべて勘案しなければならない」

    と、社会的な要因の重要性を指摘している。つまり、科学だけの問題ではないと喝破している。

     その上で、特別講演では、最後に

     科学的に未解決な分野の説明

    という問題に触れている。科学者の責任として、科学の限界領域を社会にどうわかりやすく説明するのか、あるいは、その場合

     科学者集団である学会の中立とはなにか

    と問題提起している。この学会の中立問題については、このスライドでは明解に結論付けてはいないが、スライドの内容から推測すると、

     患者や被災者の立場、あるいは安全の側に立つ

    という発想はない。むしろそのことを警戒している。

     これは、科学者や学会が意識するとしないとにかかわらず、結果として「中立」は体制側に立つということを意味することにならないか。水俣病の悲劇の拡大の元凶がこの「中立」にあったことを忘れてはなるまい。 

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    「同時多発災害」の心構え             地震、津波、原発の天竜川河口

    (2013.04.03)  新年度に入ったからだろうか、浜松市に暮らすわが家にも、市役所から

     わが身を守ろう !

    という防災の小冊子が届いた(写真上)。南海トラフ巨大地震はもちろん、台風などの風水害にも役立つようにつくられている。避難場所が書かれた地域の防災マップ、家族それぞれが連絡先などを記入できる「防災カード」がついていて、実用性がある。

     Image874 防災マップには、避難所の場所、がけ崩れや土砂災害の危険がある場所、救護病院の位置などが記されていて便利。だから、よく見えるところにはろうと呼びかけている。

     さらに、災害時、どのようにして防災情報を得るのかが、わかりやすく書かれている。いざというときに役立つだろう。避難所の学校の電話番号まで書かれているのには感心した。

     非常持ち出し、備蓄品の準備の仕方もあり、助けを呼ぶのに役立つ笛(ホイッスル)の用意も呼びかけている。

     ● 東海地震予測、天竜川河口付近が震度7  

     パンフレットを参考にわが家を点検していて、ふと、

     南海トラフ巨大地震が襲ってきたとき、もっとも揺れが大きいと予想されるのは、具体的にどこか

    と心配になった。震度7とは、自分でとても立って入られない、家屋の30%ぐらいが倒壊する激震である。

     内閣府(中央防災会議)の「防災情報のページ」に、南海トラフ巨大地震対策検討チームが作成したマップ(写真中= 基本ケースの場合。陸域の震度分布図)が掲載されているが、これを見てブログ子はびっくりした。静岡県がひどいことになるのは、当然としても、その中でも

      最大の揺れ、震度7というのは、浜名湖東岸から天竜川河口付近前後

    なのだ(静岡市は震度6)。つまり、浜松市と磐田市の海岸部。ここにはわが家も含まれる。

     これまでブログ子は、うかつにも最大の揺れは、かつて騒がれた静岡市など駿河湾あたりだと思っていた。が、どうやらこの新しいマップ(2012年8月改訂)では、浜松市寄りになったらしい。

     Image875201208 そういえば、浜松市南部、磐田市南部は、周りでは小さな地震がプチ、プチとかなりの頻度で起こっているのに、それがない「空白域」だと気づいた。ここは固着域(アスペリティ)とも言われており、プレート同士がピッタリとくっついている。だから、ひずみがたまる。それが、周りのプチ、プチに押されて、いつか一気に固着が外れて、巨大地震となるおそれがある。東北大震災はこれだった。

     地震の空白域= 次の巨大地震の発火点、すなわち、最大の揺れ

    というわけだ。海域がどうなるのか、不明としても、震源がかなり陸域に近いことが予想される。

     ● 観光地図に、「浜岡」放射能危険地図を重ねる

     そこで、静岡県の観光地図に、浜岡原発に対する原発防災対策計画域(30キロ圏)と、放射能の危険区域60キロを重ねてみて、またびっくりした。写真下がわが家にあるそれなのだが、

     磐田市のほぼ全体が30キロ圏内

    ということになった。これまた天竜川河口付近までが30キロ圏に入る。

     ということは、Image873 

     天竜川河口付近は、巨大地震で最大の揺れと、放射能汚染の危険が迫る地域

    ということになる。

     しかも、南海トラフの震源が陸域に近いことを考えると、大津波が地震の強い揺れの収まる前に襲ってくることを覚悟しなければならない。その上、同時多発の場合、核暴走を食い止めるための原発の原子炉の緊急停止、いわゆるスクラムに東北震災のように運よく成功するとは限らないだろう。

     同時多発災害の恐ろしさ

    である。同時多発災害では、人的な被害が最も多いとされる津波の避難などは、浜松市南部や磐田市南部の海岸沿いでは事実上できないことになる。そのほかの地域でも、地震で倒壊した家屋や火災で避難はとうていスムーズにはいかないだろう。

     ● さらに「黒い火山灰」の同時災害

     それでは静岡市など静岡県中部や東部は安心か、というと、そうではない。巨大地震に伴う富士山噴火で、放射能入りの大量の火山灰が降ってくる公算が大きい。この対策をどうするのかということは、対策はおろか、現在のところ研究すらなされていない。

     上記のパンフレットは、おおむね地震、津波、風水害ごとに、個々人の対策が示されている。しかし、大変むずかしいが、同時多発災害への備えも考える時期に来ていないか。

        ● わが事として考える

     2013年4月3日付毎日新聞に、中央防災会議の南海トラフ巨大地震対策検討会の主査をつとめた河田恵昭(よしあき)さんのインタビュー記事が掲載されている。最終報告を前にインタビューした記者は、

     被害想定を意味あるものにするには、巨大地震を自分のこととしてとらえることが重要

    と感想をのべている。正解だろう。

     減災対策は行政の仕事だが、被害想定を意味あるものにするかどうかは、私たち一人ひとりの意識であり、備えなのだ。

     わが身を守るのは自分。人事を尽くし、あとは天命を待つ

     これがこれからの同時多発災害と折り合いをつけていくときの

     私たちの心構え

    だろう。行政任せだけでは、助かる命も助からない。

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    事故原因の再現実験こそ使命 学会事故調

    (2013.04.02)  福島原発の事故について、日本原子力学会の事故調査委員会(委員長=東京大学・田中知)が、大変に遅まきながら、

     事故原因を分析した「中間報告」

    を先日、まとめた。

      学会によると、学会事故調の設置目的は

     事故を専門的視点から分析し、その背景と根本原因を明らかにする

    ことだとうたわれている。

     ● 欺瞞の事故調査中間報告

     ところが、学会のHPにその内容が公表されているが、ブログ子は、これを読んで、あきれてしまった。いかにも研究者らしい鋭い指摘や新事実の提示がないというだけではない。

     報告が中間的なものであるとはいえ、欺瞞に満ちている。

     中間報告の「まとめ」は、こう締めくくられている。

     「事故の分析や安全確保策を検討するにあたっても、原子力が多分野の技術を集めた総合的なものであり、分野間の連携とともに俯瞰的な視点が必要となることを認識することが必要である。」

     Image83920130328_2 ご丁寧に、必要となることを認識することが必要、と「必要」という言葉を二度まで使って強調した上で、最後に報告書は

     「これらの点に留意しつつ今後調査を続け、12月に予定されている最終報告書を質の高いものにしたい。」

    と田中委員長自らの言葉で結んでいる。

     しかし、強調したはずの分野間の連携とともに俯瞰的な視点から、ぜひとも必要な

     事故の進行がどう進んだのか、仮説を立てて、再現実験

    を実施し、仮説を検証するのかと、普通は思う。ところが、そう思いきや、報告の記者会見でのやりとりによると、そんな予定はないというのだから、あきれてしまう。最終報告書の目次案にも、そんな計画は示されていない。

     これでは、

     報告書づくりは、学会として一応調査をしたというアリバイづくりにすぎず、欺瞞に満ちている

    といわれても仕方があるまい。毎月一回程度の会合の意味は気楽なアリバイづくりなのだ。

     学会自らが事故原因の仮説を立てる。実力不足で、国内では実験ができないというなら、再現実験そのものは海外のしっかりした実験施設に委託すればいい。

      研究者たちの集まりなのに仮説すら立てられないというなら、日本原子力学会の名称を返上するしかないだろう。たとえば、

     日本原子力同好会

    という名前などがふさわしいのではないか。

     ● 「独自調査せず」と朝日が批判記事

     こんな体たらくだから、マスコミもこの中間報告の発表にはニュース性はないとみたことがうかがえる。

     Image84020130328 2013年3月28日付読売新聞は、第二社会面にわずか2段だった(写真上)。ほとんどニュース性がないとデスクが判断したことは間違いない。

     同じ日付の朝日新聞などは、もっと辛らつ。第二社会面にすら掲載せず、中面の「雑報」扱い。しかも、

     原発事故原因 新事実なし

       原子力学会中間報告 独自調査せず

    と手厳しい見出しになっている(写真下)。

     ニュース性がないというのがニュースである

    と言わんばかりの批判記事であり、見事なジャーナリズム感覚と感心した。

     ● 再現実験で汚名返上を

     今からでも遅くはない。

     冷却機能が失われたことが事故原因と学会事故調は報告している。

     それなら、さらに、たとえば、1号機の冷却機能は電源がなくても自動的に働くはずだったのになぜ働かなかったのか。事故原因は、冷却と全電源の喪失がすべてではないことをうかがわせる。

     仮説に基づく再現実験を計画し、事故原因をとことん突き詰める研究者らしい真摯な姿勢を明確に打ち出すべきだ。じっくり数年かけて、これからの原発のあり方に真に資する、それこそ委員長のいう「質の高い」最終報告書を国民のためにまとめあげようという使命感がほしい。

     学会は、汚名返上のこの機会を逃すべきではない。 

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    原発事故に対する「過失」を認めた東電

    (2013.04.01)  2013年3月30日付の中日新聞に注目すべき記事が出ている。

     すなわち、

      防ぐべき事故、防げず 東電、福島を総括

    という見出しがそれである。

     「原因を天災と片付けてはならず、防ぐべき事故を防げなかった」と総括する報告書を、東電側(広瀬直己社長)が社内に設置した外部委員からなる原子力改革監視委員会に提出、公表したというのがポイント。事故は、従来主張していたように、人間にはどうにもならない天災などではなく、防ぐことのできた人災であると認めた(注記)。 

     Image877 防ぐべき事故を防げなかったことを認めたということは、事故の予見性も事故の回避性もあったのに、業務上、当然払うべき注意義務を怠ったことを認めたことに等しい。

     これはつまり、刑事責任を問うのに必要な業務上の「過失」を認めたことになる(注記)。

     そして電力会社として当然払うべき業務上の注意義務をなぜ怠ったかについても、報告書は

     「原発稼働率を重要な経営課題と認識した結果、過酷事故への備えが不十分になり、経営層のリスク管理にも甘さがあった」

    からだと自ら〝告白〟している(注記2)。

     現在、検察は告訴、告発を受けて、業務上過失致傷罪など事故の立件が可能かどうか、そして公判維持ができるかどうか、関係者の事情聴取や法律論の見地から詰めの検討に入っている。

     しかし、これだけの状況がありながら、刑事責任を問うのは困難として、検察自ら公判審理をはや断念し、よもや不起訴にすることがあってはなるまい。決着は公判でつければいい。

     今こそ、秋霜烈日の検察の姿を国民に示すときであろう。

    注記 

     東電(事故時の旧経営陣)の刑事責任が問えるためには、もうひとつ、事故による被ばくが、傷害、つまり、人を傷つけたことにあたるかどうかということだが、傷害にあたらないとするのは詭弁だろう。事故は過失により起こり、しかも、その事故と被ばくという傷害の間には因果関係があることは明白。その被ばくは傷害なのだ。

     被ばく関連死も考えると、刑法にいう業務上過失致死傷罪が成立するのではないか。

     今から言うべきことではないかもしれないが、不起訴となれば、検察審査会による強制起訴も視野に入れるべきだろう。

      ● 注記2 東電改革最終報告書の総括

     Image87620130329 この点は重要なので、記事だけでなく、もととなった提出の最終報告書の「総括」から該当部分をここに引用する。

      報告書は事故原因について、次のように総括している。

     「継続的なリスク低減の努力が足りず、過酷事故への備えが設備面でも人的な面でも不十分であった」

    と総括した上で、

     「巨大な津波を予想することが困難であったという理由で、今回の事故の原因を天災として片づけてはならず、人智を尽くした事前の準備によって防ぐべき事故を防げなかったという結果を真摯に受け入れることが必要と考える」

    と結論付けている。

     この部分はいずれも、報告書提出直後の広瀬社長の記者会見でも強調されていた(写真下= 東電HPより)。

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