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「疑うことから出発」のススメ

(2013.03.26)  ちょくちょく読んでいる「週刊新潮」なのだが、その3月28日号(2013年)の連載コラム「サイエンス宅配便」がいつになく興味深かった。物理学に強い科学作家、竹内薫さんが

 「現実主義」のススメ

というタイトルで、前号(補足)に引き続き、

 浜岡原発訪問記

を論説風につづっている(写真)。中部電力にお願いして、視察に行ったらしい。

   Image81520130328 ところが、科学に強い竹内さんとは思えないほど、記述や結論が情緒的であったのに驚いた。

 それを具体的に知ってもらうために、少し長いが引用する。

 「全長1.6キロ、高さ22メートルの防潮堤は、これ以上の対策は無理、というほど、堅固だ。潜水艦みたいに建屋を密閉する仕組みも立派だ。浜岡原発では、福島の事故のほか、震災時の他の原発の状況も調べあげ、あらゆる対策が施されている。」

と、お願いされた中部電力もおどろくほどのべたぼめ。これには、感謝する前に中電はひょっとしたらあきれてしまったかもしれない。

 ● あまりに情緒的な、あまりに

 これ以上の対策は無理というほど堅固、潜水艦みたいな密閉で立派、あらゆる対策がほどこされている。いずれも、それぞれ根拠が示されていない。しかも情緒的な表現に終始している。だから、どうしてそんなことがいえるのかという読者の聞きたい疑問や納得にはつながらない。

 そもそも無理かどうかなどは、安全の確保問題のこの際まったく関係ない。ましてや立派かどうかなどは論外。どうして「あらゆる」などといえるのか。問題はその対策が有効かどうかの見極めなのだ。

 ジャーナリストではないかもしれないが、科学作家と名乗っているのに、表現を裏付けるきちんとした具体性と客観性がない。具体性が命の訪問記としては失格。また文芸コラムならともかく、客観性を尊ぶ科学コラムとしては、致命的だ。

 ひとことで言えば、圧倒的な現実を前にして、科学ライターとして肝心な、現実を疑うということを忘れてしまった。現実を真理そのものとして信じてしまった。圧倒的な現実が、それ以上に圧倒的な自然界からの脅威に耐えられるかという検証を忘れさせてしまった。コラムに具体性も客観性もないのは、このせいなのだ。

 ブログ子も理系出身だからわかるのだが、宗教が信じることから始まるのに対し、科学は疑うことから始まる。宗教では神を信じる者は救われる。しかし、科学では神、つまり真実とされているものを疑うところから、新しい道が開ける。これに対し、信じる科学者は救われない。

 ● 「臨機応変な現実主義」とは何か

 あまつさえ、「現実主義のススメ」と題されているコラムの結論部分は、いかにも公平・中立をよそおって、こう書いている。

 「エネルギー政策は国の命運を左右する大問題であるので、(個人の抽象的な好き嫌いのレベルという)結論ありきの「思想」で論じるのは危険だ。原発推進であれ、脱原発であれ、原理主義に陥ったら国は終わりである。臨機応変な現実主義で舵を取るしかない。ところで-」

 善意に、これを要すると、竹内さんの言いたいのは、

 現場の実情を自らよく見て、その上でものを言え

ということだろう。その通りだ。

 ただ、自らよく見たがゆえに、竹内さんの言う 

 臨機応変な現実主義

というのが、原理・原則もなく無批判に圧倒的な現実を追認する、つまり信じるという方針を指すなら、それこそ原理主義と同様、

 国は終わり

だ。なぜなら、中立をよそおってはいるが、実は、無批判な体制支持主義と変わらないからだ。これがいかに国を破滅の瀬戸際にまで立たせるか、まざまざと示したのが、今回の原発事故だったことを忘れてはなるまい。

  以上が、主な論点なのだが、竹内さんの名誉のために、少し補足しておきたい。

 こうである-。

 前号(3月21日号)を、念のため紹介すると、

 再稼働の大前提である安全性は、実のところどうなのか、これを確かめたいとして

 「浜岡原発レポート」

というタイトルになっている(写真下)。

 Image820 中身は、上記と大同小異。つまり、具体性も客観性もない。

 一例を挙げると、防潮壁については「ヨーロッパ中世の城壁都市みたいな姿に圧倒された。」「「壮観」というよりほかにない。」と、読むほうが気恥ずかしくなるほど手放しで、その印象を語っている。

 科学作家としての冷静な目がない。冷静どころか、実のところ、安全性はどうなのかということを見極めるために、わざわざ「視察」に行ったはずなのに、すっかり忘れてしまっている。安全性と壮観とは何の関係もない。いわんやヨーロッパ中世の都市と原発の安全性とは、よほどのこじつけでもしない限り、無関係だろう。

 ● 他人事と我が事との違い

 こう言えば、きっと竹内さんから、

 じゃあ、具体性があり、また客観性もあり、提案もある批判精神のある論説かコラムを示してほしい

というかもしれない。

 それは、同じ「週刊新潮」の最新号2013年4月4日号の竹内薫さんという科学作家のコラム

 神奈川県知事に告ぐ!

という「サイエンス宅配便」が、典型だろう。世界遺産登録を目指す神奈川県がこんな環境破壊をしていいのかと怒り、公開質問状を公表している内容。

 竹内さん宅のベランダの前の山が、みにくいコンクリートでぶざまに固められてしまったことを怒っている。だから問題にきわめて具体性がある。

 また、提案にも、地面深くまで杭を打ち込んで強度を増す「ノンフレーム工法」にすれば、木を切る必要はなかったと県の「非」を具体的に指摘している。この工法の有効性が科学論文で確かめられているとまで書いて、提案の正当性をそれなりに補強している。

 これなど、費用対効果の議論を別にすれば、さすがは理学博士だけのことはあると強い説得性があった。

 ここには、大仰であいまいな言葉は一つも出てこない。理路整然としている。さすがは科学作家は違うと、うならせる筆致だった。

 なぜ、同じ筆者なのにこうも違ったのか。

 受け入れ難い現実にまず、怒りと疑問を持ったことが大きい。これでいいのかと現実に対して疑うことから出発した。壮観な防潮壁には、感嘆のあまり、疑いをいだくことをつい忘れてしまったのとは対照的だ。

 加えて、取り上げた問題が、浜岡原発のようなしょせん他人事の話とは違い、環境破壊のほうは、竹内さんにとって切実な我が重大事だったからだろう。真剣さが違ったのだ。

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