« 顕微鏡下の「センス・オブ・ワンダー」       - 科学ソムリエの役割 | トップページ | 佐鳴湖のヤマトシジミは訴える         - 生き物が持続できる「豊かさ」とは »

最大多数の最小不幸               予見のできる科学ジャーナリズムの思想

(2013.02.13)  「科学・技術と社会」を考えるこのブログは、科学・技術の限界について

 予見のできる科学ジャーナリズムの確立

を目指している。

Image1169 それでは、その基盤となる思想とはどのようなものであり、従来の、公平・中立、あるいは客観報道を装ったジャーナリズムとは、どこが、どんなふうに異なるのか、原則は何か、また、なぜ、今、「限界」予見性が必要なのか、まとめておきたい。

 ● ジャーナリズムとは何か

 まず、ジャーナリズムとは何か。こうである。

 よりよい社会をつくるために

 ありきたりではない出来事を

 批判精神をもって価値判断し(つまり、取捨選択し)、

  その結果を5W1Hのニュースとして、あるいは

  主張のある評論として、

 社会に伝えていく

 言論活動

のことである。

 ● 公平・中立、客観報道の幻想

 ポイントの第一。記者がニュースとして、あるいは評論として取り上げる段階で、何を、どう書くかという段階で、すでに価値判断がなされているという点に注意すべきである。

 記事によるか、あるいは写真やビデオ映像、音声によるかなどということには無関係に、何を、どう取り上げるかという価値判断は、記者がそれを意識しようとしまいとにかかわらず、ジャーナリズムには必然的につきまとう。批判精神があるかどうかはともかく、記者は、何らかの基準の下に、この判断を強いられている。

 実は、それどころか、記者であれ、デスクであれ、報道関係者なら、誰でも、記事化しないという極めて重要な価値判断を毎日のように現場で強いられていることは、経験でよく知っている。

 選択などせず、また主観を交えず、見たものをありのまま、そのまま書けばいいというかもしれない。が、そんなことは限られたスペース、限られた時間では不可能なのだ。映像でもできない。

  新米記者から出稿されてきた5W1Hの20行程度の記事にも、また訃報記事ですらも、写真を付けるのかどうか、評伝を書くのかどうかなど、さらには、どの面のどこにその記事を置くのかなど、きりがないほどの価値判断が、社内にいる受け手側の紙面整理に当たる整理記者を悩ませている。

 したがって、ニュースにしろ、評論にしろ、たとえ、そこにジャーナリズムに必須の批判精神がなくとも、価値判断の伴わない、いわゆる公平・中立な報道というものがあると信じるのは、報道界も含めた社会の共同幻想であり、にぎにぎしく言われる客観報道というのも、報道界の虚構に過ぎない。

 ポイントの第二。「よりよい社会をつくるために」というところにも、目的というべきか、思想というべきか、先ほどより、積極的な価値判断が要る。

 なければ、それはジャーナリズムの名に値しない。取捨選択の基盤、基準、あるいは大原則がないのだから、世の中にはこんなおもしろいものがありますよという娯楽的な意味はあっても、もともとの批判精神の伴うジャーナリズムとしての存在意義はない。

 ● 最大多数の最小不幸

 そこで、いよいよ、予見のできる科学ジャーナリズムの大原則とは具体的には何か、ということになる。

 経済学には、あるいは法哲学には、目指すべき社会として、今から200年ほど前の法哲学者、J.ベンサムの有名な

 最大多数(国民)の最大幸福

という思想がある。功利主義といわれる考え方、価値基準である。これになぞらえて言えば、予見のできるジャーナリズムの思想とは

 最大多数(国民)の最小不幸

であると思う。つまり、社会には幸福な人、不幸な人、幸福でも不幸でもない普通の人がいる。科学・技術の限界を予見できるようにするには、幸福な人や普通の人たちではなく、限界によって不幸な目にあう人たちに注目するというわけだ。

 もちろん、「科学・技術と社会」を論ずる以上、何ごとも無条件ではあり得ず、

 ただし、少数者のほうに対し、最大限の尊重を必要とする基本的人権を侵害しない限りという条件がつく。あるいは、

 ただし、公共の福祉に著しく反しない限りという条件がつく。

 これを予見のできる科学ジャーナリズムの

 最小不幸の原則

と名づけたい。

 これは一見、ベンサムの思想と同様、社会正義とは必ずしも合致しない功利主義のように思うかもしれない。しかし、ふたつのただし書きをつけることで、少数者のほうに極端な犠牲を強いらせることのないよう、つまり非倫理的な事態を少数者側に押し付けないよう功利主義の対極、規範主義によって歯止めをかけたことになる。

 逆に言えば、ダメなものはダメというような書生論的な規範主義は、問題解決の手段としての予見のできる科学ジャーナリズムではとらないという立場である。

 このようにして、ジャーナリズムを、経済学や法学のように人々の幸福を考える活動としてではなく、事故、薬害、健康被害、公害、貧困、戦争、犯罪など社会で起きるさまざまな好ましからざる不幸をできるだけ少なくする活動ととらえる。つまり、科学ジャーナリズムというのは、

 不幸や不利益の優先回避の言論活動

と考えるわけだ。この最小不幸の原則は、よりよい社会をつくるために、不幸や不利益に焦点を当てた思想であるとも言える。

 この最小不幸の原則を、批判精神をもって価値判断する言論活動の基盤、すなわち思想に据えたい。

 こうすると、「限界」予見性のジャーナリズム活動の実践が、法哲学の思想と整合性を持たせることができるという視野の広さが獲得できる。経済思想としても、この原則は有効であろう。少なくともバッティングすることはないので、わかりやすい。

 ● 疑わしきは、国民の利益に

 最小不幸の原則というジャーナリズムの思想から、

 疑わしきは、国民の利益に

という「よりよい社会をつくるため」の具体的な指針が出てくる。その意味は、

 疑わしきは、(不利益をこうむる、より多くの)国民のほうの利益に

というものである。さらに、突き詰めれば

 疑わしきは、(不利益をこうむる、より多くの)国民の安全側に立った判断をする

というのが、予見のできるジャーナリズムの価値判断の基準となる。

 したがって、科学的な根拠を示して明確に断定できないからといって、(不利益をこうむる、より多くの)国民の安全側に立つことを拒否する立場はとらない。これが予見のできる科学ジャーナリズムの立場となる。

 ここが、公平・中立を標榜する言論活動とは、重大かつ基本的に異なる。客観報道を装うジャーナリズムの欺瞞性とも異なる。

 一見簡単そうだが、実は1960年代、犠牲者が急速に増加した水俣病は、公平・中立、客観報道の幻想に終始し、安全側に立つことを拒否したジャーナリズムが引き起こしたともいえる悲劇だった。

 科学・技術の限界に対し、予見のできる科学ジャーナリズムは、この貴重な教訓を今に生かすところから出発しなければなるまい。

 ● 求められる専門性

 幸福とは違って、不幸の有り様は、一様ではない。貧困ひとつとっても、さまざまな質の異なる不幸がある。それだけに最小不幸の原則は、単純ではないという点は注意すべきであろう。

 最大多数の最小不幸の、この難点を克服し、どこに限界を置くべきなのか、その予見性を発揮するには、何が多くの国民にとって不幸であり、不利益なのか、多様な視点や選択肢を、最小不幸の原則から、きちんと提示できることが極めて大事である。

 それには、今のような科学ジャーナリズムのアカデミズム(大学)依存体質から抜け出すことが、まず求められる。

 アカデミズムというのは、価値判断をしたがらない領域だからだ。実は、それだからこそ、ジャーナリズムがそれらに依拠して公平・中立を装う。しかし、以上述べたように、公平・中立、客観報道というのは、社会の不幸に目を向ける活動である以上、幻想にすぎない。

 これは、裏を返せば、皮肉なことに、今もって日本には、学問的な方法論を持たないという意味で

 今もって日本には科学ジャーナリズムが不在

というアカデミズム側から鋭く批判される原因ともなっている。ジャーナリズムとアカデミズムの相互不信は依然として根深い。ただ、批判を善意に解釈すれば、

 公平・中立、客観報道といってごまかさないで、きちんと方法論を持ちなさい

といっているともいえよう。

 科学ジャーナリズムが独立した専門職として、科学・技術者とは別に、きちんとした方法論を持つ。もう少し詰めた言い方をすると、さまざまな専門家の見方に、最小不幸の原則に照らして、それらを取捨選択する、つまり限界の設定の方法論を持つ。

 アカデミズムからの批判は、公平・中立、客観報道という幻想に代わって、ジャーナリズムが専門性をもって社会を見る目を養うという意味の

 科学・技術の社会学

という方法論を学びなさいという示唆ではないか。社会の中の科学・技術という視点であり、そこから見えてくる限界に目を向ける方法論である。

 ● なぜ今、予見性なのか 「限界」を分析する目

 科学や技術の専門家は、当然だが、その成果を最大幸福に資するものとして語る。それは、科学や技術の成果が輝かしいものとして、限りなく進展していく場合には、さしたる問題は起きない。科学ジャーナリズムも、その成果を好ましいものとして、啓蒙活動を続ければいい。いわば、最大幸福という名の幸せなジャーナリズムの時代と言えるだろう。

 地球上の、社会の中の科学や技術なのだから、何の問題もなく限りなく、いつまでも無限に進展していくということは、あり得ない。何がしかの問題が次第に起こるようになる。科学・技術に内在する問題だけでなく、社会的な制約に起因する問題、科学・技術の限界も次第にみえてくる。

 事実かどうかは疑問もあるが、地球温暖化問題が社会的なテーマになるのもそうだし、安全神話が通用しなくなった原発の事故もまさに、この限界論議なのだ。

 なのに、科学・技術を対象とする科学ジャーナリズムは、依然として、啓蒙時代の幸福な時代そのままに公平・中立、客観報道を信仰し続け、無力を露呈している。ジャーナリズムも、「限界」分析のジャーナリズムとして、今、変革の時期に来ている。

 そうした場合、往々にしてその分野の専門家という内部にいる人にはみえない問題、つまり限界あるいは社会の不幸に目を向けるのが科学ジャーナリズムの役割であろう。

 限界に対し、予見のできる科学ジャーナリズムが、幸福ではなく、

 最小不幸の原則

をかかげるのは、ある意味、必然といえよう。

 その意味で、予見のできる科学ジャーナリズムというのは、限界を設定する最小不幸という名の

 不幸な時代の科学ジャーナリズム

と言えるだろう。

 さらに、突き詰めて言えば、最小不幸の原則、あるいはそこから出てくる「疑わしきは国民の利益に」というのは、「科学・技術の限界」を判断するジャーナリズムの尺度

ということになろうか。この限界尺度は、最大幸福を旨とする専門家からは出てこない価値基準であろう。

 だからこそ、予見のできる科学ジャーナリズムの独自視点となり得る。これからのジャーナリズムの専門性とは、「限界」の予見性のことである。 

 そして、最後に、これは、専門家依存体質からは決して出てこない性質のものであることを、再度言及しておきたい。

  注記 

 「限界」予見性の科学ジャーナリズムにとって、

 科学技術社会論(STS)のアプローチを取り入れた

 科学論『科学論の現在』(金森修+中島秀人、2002年 )

は、有益だろう。パラダイムシフトという概念を用いた1960年代の『科学革命の構造』(1962年、トーマス・クーン)の科学哲学は、もはや現代には通用しない。『科学論の現在』はそれに代わる新しい科学論を海外事例を総覧し、日本のあり方を模索した労作である。クーンの限界を認識し、どのようにして、西欧の科学論研究者が

 社会的な意思決定の場に貢献する科学論

にたどり着こうとしてきたのかがわかる。その道のりには、科学ジャーナリズムが科学啓蒙時代からどのようにして抜け出せばいいのかというヒントが提示されている。

 なお、戦略提言「政策形成における科学と政府の役割及び責任に係わる原則の確立に向けて」 (科学技術振興機構研究開発戦略センター)も、原発事故の反省に立った提言が含まれており、科学論研究者とは異なる政策立案者の立場からのSTSアプローチの具体的な実践事例として、参考になる。

 科学に対する国民の信頼を回復するには、政策決定にあたって政府側と科学・技術者側の間の意思決定のあり方や、互いの行動規範をどう構築するのかについて論じられている。とくに、政策決定の手順の原則について海外事例が各国ごとに具体的に示されているのが特徴。

|

« 顕微鏡下の「センス・オブ・ワンダー」       - 科学ソムリエの役割 | トップページ | 佐鳴湖のヤマトシジミは訴える         - 生き物が持続できる「豊かさ」とは »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/533942/56759157

この記事へのトラックバック一覧です: 最大多数の最小不幸               予見のできる科学ジャーナリズムの思想:

« 顕微鏡下の「センス・オブ・ワンダー」       - 科学ソムリエの役割 | トップページ | 佐鳴湖のヤマトシジミは訴える         - 生き物が持続できる「豊かさ」とは »