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2013年2月

規制委のもう1つの責務  事故原因の特定        

(2013.02.25)  まもなく、東北大震災や原発事故から丸2年を迎えようとしているが、原発の再稼働に向けた駆け引きが活発化している。原発の新しい安全基準の骨子案が今月初めに固まったからであろう。原子力規制委員会の検討チームがとりまとめを急いでいた。

 早ければ7月にも、この基準を満たしているかどうか、規制委は電力会社からの再稼働申請を受け付け、審査するという。

 だが、忘れてならないのは、事故原因の特定がないまま、原発の再稼働の安全審査はできないということだ。

 それぞれの号機ごとにメルトダウンに至った原因、4号機については水素爆発に至った原因を特定し、再発防止の見地から、特定原因をどのように新安全基準に反映させたのか、まず、規制委は国民が納得するような説明をするべきだ。

 現時点では、この説明がまったくない。説明がないばかりか、規制委のホームページにすら公表されていないのは、問題だ。

 事故原因の解明は、政府や国会の事故調から法的に引き継いだ規制委の責務である。しかも、民間事故調、東電社内事故調、政府事故調、国会事故調のどの事故調も自らの事故原因解明が、まだまだ不十分であったことを強調している。

 今、東電のウソ説明で、1号機の復水器の再調査が行なわれようとしている。少なくとも政府事故調、国会事故調の報告書を精査、あるいは独自調査を追加し、それぞれの号機ごとに事故原因の特定を含めた全容を具体的につまびらかにするべきだ。

 これは、規制委のもう一つのきわめて重要な役割であることを強く意識してほしい。安全審査うんぬんは、その後の話である( 補遺 )。少なくとも、今後、特定ができるごとに、審査指針の改定をする覚悟が必要だろう。

  ● 未解明の放射能漏れ

  4つの事故調査報告書のいずれも、外部および発電所内の交流、直流という全電源喪失がどういうプロセスを経て炉心溶融、水素爆発、大量放射能漏れにつながったのかについて、その具体的な因果関係の特定を浮かび上がらせてはいない。

  具体的に言えば、肝心なそれらの間の原因と結果にまで踏み込んで事故を究明しておらず、各号機ともに不明のままなのだ。それどころか、頼みの綱の発電所内の非常用電源(交流と直流)が、地震で喪失したのか、その後の津波によるものか、各号機ごとに明確に見極められていない。これでは、これほどの組織事故なら再発防止のために当然試みられるはずの再現実験すら、やりたくてもできない。

 さらに放射能漏れのほとんどは、3月15日早朝、2号機の格納容器で起きたことは、東電報告書も認めている。しかし、どこから、どんなふうにとまでは言及を避けている。

 また停止中の4号機の建屋がなぜ水素爆発で吹き飛ばされ、使用済み核燃料プールがむき出しになったのかは依然謎だ。これが首都圏3000万人避難という最悪のシナリオにつながりかねなかったことを考えると、ぜひとも解明が必要だ。

 こういう原発の安全性を見極めるのに欠かせない疑問点をそのままにして、再稼働はあり得ないのではないか。新安全基準の骨子案のように、

 フィルター付きベント(排気)装置を2系統設置(沸騰水型)

をすればいいというものではあるまい。電力会社が言うように、1系統で十分という主張に反論することは難しい。放射能漏れの原因がわからないのに、装置は多いのにこしたことはないという程度の論理はいかにも、苦しい。多いことがそれ自体トラブルのもとになることもある。

 ただ、結果的にわかったことは、いずれの号機についても、原発をコントロールするための全電源の同時かつ長期の喪失と、原子炉を冷却する冷却源の長期の喪失が、メルトダウンの連鎖を招き、それがメルトスルーに至り、日本を悪夢の瀬戸際まで追いやったことだ( 注記 )。

 しかし、突き詰めて、1号機の非常冷却用の復水器(IC)が、水の供給が8時間ぐらいなくても自動的に機能するはずだったのに、なぜほとんど機能しなかったのか。このことでいち早く炉心溶融を起こし、水素爆発に至った。地震による損傷か、津波によるものか、はたまた外部電源喪失、あるいは非常用電源喪失によるものか。さらには、設計上に問題があったのではないかとの指摘も出てきそうだ。

 ● 新基準、規制委は国民に説明を

 原因を詰めないから、ここでも新安全基準は、原子炉の冷却監視の特定安全施設(第2制御室と非常用電源設置)など全電源喪失の防止や、冷却源の確保などに重きを置かざるを得なかった。

 こういうのを、一時的な間に合わせの

 弥縫(びほう)策

というのだろう。原因を突き止めた上での根本的な解決策ではない。福島事故と同じような事故はあるいは防止できるかもしれない。しかし、新たなたとえば、注記したような電源にも冷却にも関係がない制御棒事故には対応できない。南海トラフ「浜岡」では、この心配のほうが強い。

 それどころか、弥縫策では余計なところまでいじりまわすところから、それがもとで、いつかまた事故が、それもこれまで以上に大きな事故が起きる恐れもある。

 Image1167_2 再発防止する安全審査とは、まず、事故原因の具体的な特定をひとつひとつすることであり、次いで、その結果を安全基準に反映することだ。事故原因と新安全基準の関係は、電力会社と規制委だけが知っていればいいというものではない。放射能漏れは結局住民の健康に影響するのだから、安全側に立った基準になっているのかどうか、国民に丁寧に説明する責務が規制委にはある。

  ● 注記 『原発再稼働 最後の条件』

 この長期にわたる全電源喪失と、長期にわたる冷却源喪失が事故の基本的な原因であることは、原子炉設計技師だった大前研一氏の

 「福島第一」事故検証プロジェクト 最終報告書( 写真 )

でも、結論付けられている(小学館、2012年7月)。

  注意すべきは、基本的な原因だけを安全審査に反映させただけでは、新たな原因による原発事故は未然に防ぐことはできないことだ。

 福島と同じ事故は、基本的な原因だけを考慮すれば、再発はできるかもしれない。しかし、福島とは異なる、たとえば、南海トラフ「浜岡」で懸念されるような

 巨大地震の強振動に伴う制御棒機能の喪失による核暴走

には何の役にも立たない。長期の全電源喪失も長期の冷却機能喪失も、この場合はなんの関係もないからだ。基本的な原因に至る一つ一つの原因を特定していくことで、あらゆる事故に対する教訓が得られる。これを厭うようでは、それは、

 大前氏がつとに技術者を戒めた

 傲慢のそしり

をうけるだろう。それどころか、規制委は職務怠慢のそしりすら受けるだろう。

 それともう一つ。規制委の安全審査基準は、ハード志向が強すぎる。福島原発事故は、

 組織事故

であるという観点が欠落している。

  ● 補遺 フォローアップ有識者会議

 昨年秋口から、月2回のペースで、政府、国会それぞれの事故調報告書をフォローアップする有識者会議が開かれている。事務局は内閣官房と原子力規制庁。

 この会議には、元政府事故調委員長の畑村洋太郎氏、元国会事故調委員長の黒川清氏、民間事故調の北澤宏一氏がメンバーとして加わっている。

 突っ込んだ議論で、事故原因を特定し、新安全基準に生かす責務があろう。

  福島原発の4つの号機それぞれの事故原因の特定は、これからの原発安全基準の改定において最も良いお手本、いわば〝教科書〟にしなければならない。

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科学者たちの闘い

(2013.02.24)  科学者たちへのふんばりを期待する、あるいは応援する言論が目立つ。原発の新安全基準づくりを急ピッチでまとめようとしている原子力規制委員会への風圧が高まっているからであろう。再稼働が遅れるのは困るという政治的な、あるいは電力会社からの圧力だ。

 Image705_2 2月24日付中日新聞が

 科学者よ、屈するな

という大型社説を掲げている。さらに、2月20日付で朝日新聞が、自民党や一部メディア(産経新聞を指すと思われる)が規制委を反原発的な〝暴走〟を始めていると激しく批難していることに対し、

 およそ見当違い

との論陣を張った( 補遺 )。

 さらには、「アエラ」2013年2月18日号でも、写真のような

 自民党が狙う規制委支配

という内幕を解説してみせている。総選挙後早速、衆院に

 原子力問題調査特別委員会を設置

したのは、規制委の独立性に対し、けん制しようというのが狙いらしい。

 ブログ子も、科学者たちの奮闘を支援したい。

 ● 活断層の調査と評価、規制委に責任一元化を

 では、その矢面に立たされた科学者たちはどんな闘い、主張を展開しているのか。月刊科学雑誌「科学」(岩波書店)のこの1年間のバックナンバーを調べてみた。

 第一。2012年8月号 大飯原発の破砕帯問題と耐震安全審査のあり方

 鈴木康弘氏(名大減災連携研究センター教授)と渡辺満久氏(東洋大学社会学部)の共同執筆なのだが、活断層の過小評価問題を論じている。これは、従来の審査体制の不備によるものと結論付けている。

 それでは、どうしたらいいのか。両氏は

 調査も含めて活断層評価の責任は規制委に一元化を

と主張している。「活断層の見落とし問題を解決するには政府(つまり、規制委)が責任を負うというはっきりとした体制に変更することが必要」と主張している。

 活断層調査を電力会社に委ね、しかも、

 活断層であることを否定するために準備された資料だけでは、(見落としのない)十分な検証はできない

と指摘している。また電力会社の再調査の有無にかかわらず、安全側に立って

 活断層ではないことを電力会社が科学的な根拠を示して証明しない限り、活断層とみなす

という原則を堅持すべきであると述べている。グレーはクロという考え方だ。

 活断層調査について、あるいはその評価について、どこが最終的に責任を負うのかという責任の所在が、これまであいまいだったことが意図的とも思える見落とし問題を生み出していると、両氏はいいたいのだろう。

 この指摘は図星だ。責任の一元化には、専門調査官など人材の充実が重要であろう。

 ● 場所が決まった後に作文することが問題 

 第二。2013年2月号 規制委の活断層調査 科学的に検証された適切な結論

 著者は、規制委の外部委員の渡辺満久氏。

 「電力会社が事業者として求められているのは、活断層ではないことを(科学的な根拠を示し高い精度で)証明すること」であり、「断層運動以外の可能性もあることを主張することではない」と主張している。

 また、最近の変動地形学偏重の調査という批判は当たらないとしている。むしろ、従来どおり地質学的な知見に基づく判断が多いくらいだとしている。

 問題なのは、建設場所が決まってから、そこが安全であるという作文を始めていることだと断罪している。活断層と断定できない場合には「安全側に立って適切に想定すること」という「手引き」に忠実であるべきだとも指摘している。

 いずれの主張も、ブログ子は支持したい。

 ● 自公の改選議席44以下に押さえ込む

 自民党は7月にも行なわれる参院選挙を終えるまでは、これ以上目立った動きは、国民の反発を恐れて、すまい。仮に自公で過半数を握ることができれば、科学者攻撃は激しさを増すだろう。

 参院の第一会派で、参院勝利で死中に活を求めたい民主党はもちろん、野党の奮起を期待したい。自公の当選者数を、改選議席44以下に抑え込むのがポイントだろう。これだと、与党寄りの無所属を加えても、過半数の122に達することは、相当高いハードルになる。

  ● 注記 埋もれた警告 2013.02.24  

    日本の科学ジャーナリズムの無力に思う

  最近の事例ではないが、科学者たちの闘いを紹介した

 NHK「ETV特集 埋もれた警告」

が面白かった。初回放送は、東北大震災の年、2011年12月で、今回は再放送だった。科学者たちが闘ったのは必ずしも行政や政治家ばかりではなかっさことがわかる。科学者たちとも、科学者は闘った。

 貞観地震(869年)を津波堆積物からその全容を解き明かしたが、バブル景気のなか無視され続けた箕浦幸治東北大教授、

 地震の空白域こそ、次に来る地震の場所であり、今のような地震多発域に注目するようなのは「後追い」ではないかとし、地震予測の長期評価のあり方に地震学会や文部科学省に疑問を投げかけた島崎邦彦東大名誉教授(元東大地震研)、

 航空写真などを基にした新しい学問、変動地形学を駆使して活断層の見落とし、あるいは過小評価を指摘し続けた中田高広島大名誉教授、

 地震防災の体制づくりのあり方に疑問や警告を続けてきた石橋克彦神戸大名誉教授、

などが、登場していた。

 この番組をみていて、思ったのは、彼らの闘いに対して、学界依存体質の強い科学ジャーナリズムがいかに無力であったかという点だ。

 科学・技術と社会の観点に、たとえば、疑わしきは国民の利益にという原則など、みずからきちんとした方法論を持たない日本の科学ジャーナリズムのひ弱さを痛感し、忸怩たる思いがした。

 事後に騒ぎ立てる科学ジャーナリズムであってはなるまい。公平・中立、客観報道の欺瞞性が鋭く問われた番組だったと思う。

 疑わしきは、安全側に立つという原則こそ、科学ジャーナリズムの思想ではないか。

  ● 補遺

 たとえば、産経新聞の社説に当たる「主張」で、

 規制委「承認」 健全運営なお見極めたい

がある(2013年2月17日付)。

 この中で、これまでの「規制委の運営は、脱原発に向けての暴走を危惧させるような言動が目についた」と総括している。その上で「規制委の健全性の維持のためには、国会に新設された原子力問題調査特別委員会に、その監視役を強く期待したい」と結んでいる。言葉はやわらかいが、総じて〝恫喝〟に近い論説である。

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春告魚、いさざのおどり食い

(2013.02.23)  語呂合わせなのだが、最近では

 静岡県で、きょう2月23日と言えば、「富士山の日」

ということになっている。しかし、北陸生まれで、北陸育ちのブログ子としては、今ごろの季節になると、春遠からじという気分で

 いさざ

を思い浮かべる。

 Image707 奥能登の穴水町では、毎年、まもなく、このいさざを中心にした「まいもんまつり」が開かれている。春を待ち焦がれる奥能登の人たちの気持ちが、よくわかる。寒風のなか、そろそろ、四つ手網で、いさざ漁が始まるだろう。

 俳句では冬の季語なのだが、春告魚の異名はいかにも、風流。

 漢字では、「魚」へんに、つくりは「少」と書く。なるほど、いまごろの季節、産卵のため川を遡上してくるのだが、その透き通ったメダカのような姿は、魚という印象は薄い。だからだろうか、全国的な言い方としては、

 しろうお、しらうお

といい、漢字では白魚と書く場合が多い。

 そんなスズキ目ハゼ科のいさざが、JR浜松駅のデパ地下の鮮魚店に、早春の味として袋に水とともに生きたまま入れて並んでいた( 写真。 佐賀県産。50匹くらい入って1袋=680円。写真左奥は網走湖産シジミ。1盛398円 )。

 このいさざ、ブログ子もそうだが、

 おどり食い

といって、そのままかまずに食べるのが一番おいしい。のど越しを楽しむのである。ピチャピチャはねないように、少し粘り気のある酢醤油とともに楽しむのが粋。金沢あたりの料亭では、20匹ぐらいで2000円ぐらいは取られる。

 デパ地下には、同じ冬の季語、今が旬のまるまると太った赤ナマコも並んでいたことを付け加えておこう。

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佐鳴湖のヤマトシジミは訴える         - 生き物が持続できる「豊かさ」とは

(2013.02.19) ブログ子は、浜松市の佐鳴湖のほとりの高台に暮らしているが、近くには国の史跡にもなっている縄文時代人の蜆(しじみ)塚がいくつもある。ごみ捨て場の跡である。膨大な数のシジミなどの二枚貝の殻が1000年単位の長きにわたって採取され続け、そして食べられ続けてきたことを示す。

 ブログ子同様、数千年前、この豊かな湖のほとりには、多くの縄文人が家庭を持ち、暮らしていた証拠である。それを支えたのは佐鳴湖だったであろう。

 Image704 だが、しかし、ふと、不思議に思うことがときどきある。

 今、近くのかなり大きな地元スーパー(佐鳴台店)に行っても、シジミの地物としては、お隣の県の「愛知県産」しかないという事実である( 写真 )。

 佐鳴湖のヤマトシジミは、どこへ行ってしまったのだろう。

 ● 結論  

 消えたヤマトシジミは、きっと次のようなことを訴えていることだろう。

 生き物が持続できる「豊かさ」とは、水質(COD値)も大事であり、必要だ。行政の「シビル・ミニマム」としては、それでいいかもしれない。だが、十分といえるためには、そこからさらに一歩踏み出してほしい。わたしたち生き物が持続して生息できる水環境づくりをしていかなければならないのではないのかと。

 それが縄文時代の佐鳴湖にはあった。何千年と続けられた当時の蜆塚はそのあかしであると。

 わたしたち、ヤマトシジミが持続的に自然繁殖できる環境は、人間にとっても持続的に豊かに暮らしていける水環境なのではないのか。過去の反省を踏まえて、そんな豊かさを今、人間は目指すべきではないのかと。

 なぜなら、それはかつての日本人の自然観でもあった。あの佐鳴八景がなつかしいと。

 ● 1960年代に消滅、2012年、ようやく自然繁殖を確認          

 そんなおり、ブログ子も参加しているこじんまりとした会合(浜松市中区佐鳴台)で、

 佐鳴湖のヤマトシジミは再生できるか

という学習講座を聞いた。講師は、静岡県立浜松北高校教諭(理科)で、浜松市の佐鳴湖シジミプロジェクト協議会委員の辻野兼範氏( 写真 )。

 佐鳴湖のヤマトシジミは、詳しいデータはないが1960年代、つまり昭和30年代後半に入るころには消滅したと言われている。

 しかし、1950年代まで、つまり、昭和30年代前半まで、水のきれいな佐鳴湖のほとりでは、(ヤマト)シジミ採りが夏場に盛んだった。そのころのような自然繁殖できる環境を取り戻したい。そう考え、辻野さんは、この5年間、ヤマトシジミの復活と再生の道筋づくりに情熱を注いできた。

 手始めとして湖畔のシジミハウス( 写真 =佐鳴湖シジミ育成試験ハウス)で人工受精を続け、育ったシジミを湖に放した。

 Dsc012002 そして、2012年、比較的に水のきれいな東岸の「せせらぎ水路」内で、シジミが、これまで到底無理ではないかといわれてきた予測に反して、自然繁殖していることを突き止めた。まだわずかだが、消滅したか、あるいはシジミハウスでしか繁殖できないという事態から、ようやく復活・再生の光が差してきた。

 これで、再生の道筋はできたかというと、そんな単純な状況ではないらしい。一安心という気のゆるみで、せっかくの再生が元の木阿弥になりかねない状況であり、むしろ危機感をつのらせている。辻野さんの話は、おおむね、そんなふうだった。

 ● 復活は、日本人の自然観をよみがえらせる文化戦略

 どういうことか-。

  一言で言えば、水質の指標、COD値(化学的酸素要求量、たとえば目標の5mg/リットル。佐鳴湖=8mg/リットル程度)さえ改善されれば、あるいは濁りの少ない、つまり高い透明度(たとえば、1m。佐鳴湖=1mの半分程度)さえ達成すれば

 豊かな佐鳴湖はよみがえる

とはいえないからだ。

 確かに、見かけ上よみがえったようにみえる。だが、海の水と、川の水、湖面に降る雨水が、気候により、季節により、ときには日によって動的に入り混じる汽水域が佐鳴湖。その汽水湖に生きる生物が持続して生息できる水環境にしてはじめて、豊かな湖と言えるからだ。湖中の生き物も含めて季節の変化や潮の干満などを動的に映し出してきた佐鳴湖は、静的な湖とはずいぶんと違う。

 その動的な風景は、日本人の伝統的な暮らしが求めてきた生き物と一体的な自然観であり、風景なのだ。和歌にまで詠まれた「佐鳴八景」は、その代表であろう( 注記 )。

 今でもシジミの入った味噌汁、お吸い物のシジミ汁は、日本人の伝統的な食事として欠かせない。そこで使われているヤマトシジミは、汽水湖を代表する生き物であり、伝統の食材なのである。

 このように、ヤマトシジミを復活、再生させることは、実は、日本人の自然観を復活させ、大切に守っていこうという文化戦略であることを忘れてはなるまい。佐鳴湖うんぬんという地域の問題にとどまらない広い意味の、つまり日本の伝統文化的な意義がある。

 このことは、佐鳴湖のヤマトシジミの消滅時期が、欧米文化が席巻しはじめる1960年代の高度経済成長時代とぴったり重なっていることからも理解できよう。

 Image692 別の言い方をすれば、ヤマトシジミには、湖の水の汚れを浄化し、それを湖底に固化して排出する優れた浄化能力があるが、それだけが、シジミ再生の目的ではないということだ。

 湖底に出された排出物は、湖底の泥の中にいるゴカイ、ユスリカなどのえさになる。残りはバクテリアによって分解される。その食物連鎖により、そして、汽水域という動的な環境が加わり、湖底が死んだ分解層になることを防いでいる。シジミは、いわばそのエンジンの役目を担っているというわけだ。

 ● 清流ルネッサンスⅡ地域協議会

 そんななか、辻野さんたちが危機感を募らせているというのは、活動のもととなっている

 清流ルネッサンスⅡ(国土交通省)の行動計画

の事業が2012年度(平成24年度)で、つまり、この3月で予算を伴う事業としては終了するからだ。

  国の事業から離れて、次の行動計画、つまり清流ルネッサンスⅢとも言うべき行動計画づくりが、ルネッサンスⅡの終了を受ける形で設立された

 佐鳴湖のみらいを育む会

などによって今、始まっている。

 辻野さんたちの佐鳴湖シジミプロジェクト協議会(事務局=浜松市環境部環境保全課)もこの会に参加している。だが、上部組織の佐鳴湖地域協議会の正式な承認を受けて、新しい次期行動計画がスタートするのは、2年後の2015年度(平成27年度)。

 しかも、その場合でも、これまで行政(浜松市、静岡県)と市民とが協力してプロジェクトを進めてきたのに対し、これからは、辻野さんによると、

 行政は、シジミプロジェクト協議会には関与しない

らしい。理由は明確ではない。どうやら行政としては、シビル・ミニマムは果たしたということであろう。というのは、これまでの行動計画の主な課題であった佐鳴湖の浄化対策が一定の成果を上げたからだ。つまり環境省の全国湖沼水質ランキング(指標はCOD値)において、少しずつ、COD値が改善し、ついに公表対象の

 ワースト5から外れた

のだ(2009年度)。まだ飲用、遊泳には適さないものの、高度経済成長時代直後の値の半分以下になった。行政はホッとした。これ以上のことは、市民のみなさんがなんとか独力で取り組んでほしいということなのかもしれない。

 それと、もう一つ、水質改善を目指す環境保全課としては、シジミ再生を目指し育苗に力点を置き始めたことは、環境保全課としてはシジミプロジェクトが所管事項に合わなくなってきたとの思いもあるのだろう。観点が違うというわけだ。それなら育苗関連のセクションと連携したらいいと思うのだが、行政の縦割りが、連携を阻んでいる。

 ● 冷たい〝押し水〟として、「湧水」の復活を

 Image701 辻野さんたちは、2年後に始まる次期行動計画に参加すべく、今、これまでの成果と実績を背景に独力で、そして新しい形で、

 佐鳴湖シジミプロジェクト協議会

を引き継ごうとしている。

  全国的に見ても、環境省「レッドリスト」によると、ヤマトシジミは、今すぐではないが、将来的には絶滅する危険性のある

 準絶滅危惧種

に分類されている。今から定期的に生態調査をしながら、地道な再評価が必要なのだ。増やす努力は当然だ。この意味でも、辻野さんたちの取り組みは重要であろう( 注記2 )。

 再生の切り札も見え始めている。

 湖水の水循環を早くし、しかも湖に流れ込む水量を増やすアイデアとして、冷たい湧水(地下水)を、シジミ生育に好適な〝押し水〟にするというものだ。今でも佐鳴湖の北部に多数掘られている湧水井戸。河川の底に井戸を掘り、地下水を河川底に引き込むというわけだ。夏場の湖面の高温化はこれで避けられる。

 かつて1950年代まで、シジミが多く取れた北岸や東岸には、南岸に比べて、この冷たい湧水が湖底から多く湧き出ていた。

 シジミのことはシジミに聞け

というわけだ。辻野さんは、押し水のないところにはシジミは生育しにくいという経験もしている。

 汽水湖の水辺(湖棚、こほう)は、生き物たちの宝庫。

 繰り返すようだが、

 ヤマトシジミにとって、持続的に生息しやすい水環境は、人間にとっても豊かな暮らし空間なのだ。

 ブログ子も、良好な水環境づくりとは、つまるところCOD値の改善だと、知らず知らずに思い込んでいた。しかし、それは、日本人の自然観からみれば本当は見当違い、少なくとも長期的な対策ではない。そんなことを教えてくれたヤマトシジミの学習講座だったと思う。

  そのせいか、また自分がつくったせいか、学習講座を聞いた夜にいただいた酔い覚ましの

 愛知県産のヤマトシジミの味噌汁

は、なんだかとてもおいしい気がした。地元産だったら、もっとうまかったであろう。縄文人をうらやましく思った一日だった。

 (写真下は、シジミハウスから見た佐鳴湖の北岸風景)

  ● 注記  佐鳴八景

 そこに生息する生き物と自然風景を一体として詠んだ歌には、北岸あたりの

 かき連(つら)ね落ちくる雁のたまずさの

    数も太田の霧のあけぼの 

      - 湖畔、入野の文学者、竹村広蔭(江戸時代) 

 時代が下った戦前の昭和になっても、歌人、高峰博も、佐鳴八景を詠んでいる。

 渡りきて今宵(こよい)はここに雁がねの

    枕辺芦(まくらべあし)の花の散るらん

 この生きた風景をささえているのが、野鳥たち、あるいは水底のヤマトシジミなのであろう。

 そう考えると、佐鳴湖の豊かで、美しい景観とは、理想的には、和歌にも詠まれた

 佐鳴八景

の姿であろう。鳥も含めて多様な生き物が持続的に生息している日本の伝統的な風景である。

 問題は、1970年代にはその鳥類(たとえば、水辺のカワセミなど)もめっきりと減り、2000年に入るころには、1970年代に比べても、さらにはっきりと野鳥の姿が減ったことである(鈴木譲東大弁天島水産実験所教授談)。

  ● 注記2 浜名湖でもとれる浜松市自慢の天然のニホンウナギは、先日、環境省がついに

 絶滅危惧種

に指定した。

 静岡県の調査によると、ニホンウナギは、佐鳴湖にも生息する。佐鳴湖のウナギの生態について継続した生息調査をすることや、ひところの勢いを取り戻す、あるいは復活させる活動も、佐鳴湖の豊かさを取り戻す観点からは重要であろう。

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最大多数の最小不幸               予見のできる科学ジャーナリズムの思想

(2013.02.13)  「科学・技術と社会」を考えるこのブログは、科学・技術の限界について

 予見のできる科学ジャーナリズムの確立

を目指している。

Image1169 それでは、その基盤となる思想とはどのようなものであり、従来の、公平・中立、あるいは客観報道を装ったジャーナリズムとは、どこが、どんなふうに異なるのか、原則は何か、また、なぜ、今、「限界」予見性が必要なのか、まとめておきたい。

 ● ジャーナリズムとは何か

 まず、ジャーナリズムとは何か。こうである。

 よりよい社会をつくるために

 ありきたりではない出来事を

 批判精神をもって価値判断し(つまり、取捨選択し)、

  その結果を5W1Hのニュースとして、あるいは

  主張のある評論として、

 社会に伝えていく

 言論活動

のことである。

 ● 公平・中立、客観報道の幻想

 ポイントの第一。記者がニュースとして、あるいは評論として取り上げる段階で、何を、どう書くかという段階で、すでに価値判断がなされているという点に注意すべきである。

 記事によるか、あるいは写真やビデオ映像、音声によるかなどということには無関係に、何を、どう取り上げるかという価値判断は、記者がそれを意識しようとしまいとにかかわらず、ジャーナリズムには必然的につきまとう。批判精神があるかどうかはともかく、記者は、何らかの基準の下に、この判断を強いられている。

 実は、それどころか、記者であれ、デスクであれ、報道関係者なら、誰でも、記事化しないという極めて重要な価値判断を毎日のように現場で強いられていることは、経験でよく知っている。

 選択などせず、また主観を交えず、見たものをありのまま、そのまま書けばいいというかもしれない。が、そんなことは限られたスペース、限られた時間では不可能なのだ。映像でもできない。

  新米記者から出稿されてきた5W1Hの20行程度の記事にも、また訃報記事ですらも、写真を付けるのかどうか、評伝を書くのかどうかなど、さらには、どの面のどこにその記事を置くのかなど、きりがないほどの価値判断が、社内にいる受け手側の紙面整理に当たる整理記者を悩ませている。

 したがって、ニュースにしろ、評論にしろ、たとえ、そこにジャーナリズムに必須の批判精神がなくとも、価値判断の伴わない、いわゆる公平・中立な報道というものがあると信じるのは、報道界も含めた社会の共同幻想であり、にぎにぎしく言われる客観報道というのも、報道界の虚構に過ぎない。

 ポイントの第二。「よりよい社会をつくるために」というところにも、目的というべきか、思想というべきか、先ほどより、積極的な価値判断が要る。

 なければ、それはジャーナリズムの名に値しない。取捨選択の基盤、基準、あるいは大原則がないのだから、世の中にはこんなおもしろいものがありますよという娯楽的な意味はあっても、もともとの批判精神の伴うジャーナリズムとしての存在意義はない。

 ● 最大多数の最小不幸

 そこで、いよいよ、予見のできる科学ジャーナリズムの大原則とは具体的には何か、ということになる。

 経済学には、あるいは法哲学には、目指すべき社会として、今から200年ほど前の法哲学者、J.ベンサムの有名な

 最大多数(国民)の最大幸福

という思想がある。功利主義といわれる考え方、価値基準である。これになぞらえて言えば、予見のできるジャーナリズムの思想とは

 最大多数(国民)の最小不幸

であると思う。つまり、社会には幸福な人、不幸な人、幸福でも不幸でもない普通の人がいる。科学・技術の限界を予見できるようにするには、幸福な人や普通の人たちではなく、限界によって不幸な目にあう人たちに注目するというわけだ。

 もちろん、「科学・技術と社会」を論ずる以上、何ごとも無条件ではあり得ず、

 ただし、少数者のほうに対し、最大限の尊重を必要とする基本的人権を侵害しない限りという条件がつく。あるいは、

 ただし、公共の福祉に著しく反しない限りという条件がつく。

 これを予見のできる科学ジャーナリズムの

 最小不幸の原則

と名づけたい。

 これは一見、ベンサムの思想と同様、社会正義とは必ずしも合致しない功利主義のように思うかもしれない。しかし、ふたつのただし書きをつけることで、少数者のほうに極端な犠牲を強いらせることのないよう、つまり非倫理的な事態を少数者側に押し付けないよう功利主義の対極、規範主義によって歯止めをかけたことになる。

 逆に言えば、ダメなものはダメというような書生論的な規範主義は、問題解決の手段としての予見のできる科学ジャーナリズムではとらないという立場である。

 このようにして、ジャーナリズムを、経済学や法学のように人々の幸福を考える活動としてではなく、事故、薬害、健康被害、公害、貧困、戦争、犯罪など社会で起きるさまざまな好ましからざる不幸をできるだけ少なくする活動ととらえる。つまり、科学ジャーナリズムというのは、

 不幸や不利益の優先回避の言論活動

と考えるわけだ。この最小不幸の原則は、よりよい社会をつくるために、不幸や不利益に焦点を当てた思想であるとも言える。

 この最小不幸の原則を、批判精神をもって価値判断する言論活動の基盤、すなわち思想に据えたい。

 こうすると、「限界」予見性のジャーナリズム活動の実践が、法哲学の思想と整合性を持たせることができるという視野の広さが獲得できる。経済思想としても、この原則は有効であろう。少なくともバッティングすることはないので、わかりやすい。

 ● 疑わしきは、国民の利益に

 最小不幸の原則というジャーナリズムの思想から、

 疑わしきは、国民の利益に

という「よりよい社会をつくるため」の具体的な指針が出てくる。その意味は、

 疑わしきは、(不利益をこうむる、より多くの)国民のほうの利益に

というものである。さらに、突き詰めれば

 疑わしきは、(不利益をこうむる、より多くの)国民の安全側に立った判断をする

というのが、予見のできるジャーナリズムの価値判断の基準となる。

 したがって、科学的な根拠を示して明確に断定できないからといって、(不利益をこうむる、より多くの)国民の安全側に立つことを拒否する立場はとらない。これが予見のできる科学ジャーナリズムの立場となる。

 ここが、公平・中立を標榜する言論活動とは、重大かつ基本的に異なる。客観報道を装うジャーナリズムの欺瞞性とも異なる。

 一見簡単そうだが、実は1960年代、犠牲者が急速に増加した水俣病は、公平・中立、客観報道の幻想に終始し、安全側に立つことを拒否したジャーナリズムが引き起こしたともいえる悲劇だった。

 科学・技術の限界に対し、予見のできる科学ジャーナリズムは、この貴重な教訓を今に生かすところから出発しなければなるまい。

 ● 求められる専門性

 幸福とは違って、不幸の有り様は、一様ではない。貧困ひとつとっても、さまざまな質の異なる不幸がある。それだけに最小不幸の原則は、単純ではないという点は注意すべきであろう。

 最大多数の最小不幸の、この難点を克服し、どこに限界を置くべきなのか、その予見性を発揮するには、何が多くの国民にとって不幸であり、不利益なのか、多様な視点や選択肢を、最小不幸の原則から、きちんと提示できることが極めて大事である。

 それには、今のような科学ジャーナリズムのアカデミズム(大学)依存体質から抜け出すことが、まず求められる。

 アカデミズムというのは、価値判断をしたがらない領域だからだ。実は、それだからこそ、ジャーナリズムがそれらに依拠して公平・中立を装う。しかし、以上述べたように、公平・中立、客観報道というのは、社会の不幸に目を向ける活動である以上、幻想にすぎない。

 これは、裏を返せば、皮肉なことに、今もって日本には、学問的な方法論を持たないという意味で

 今もって日本には科学ジャーナリズムが不在

というアカデミズム側から鋭く批判される原因ともなっている。ジャーナリズムとアカデミズムの相互不信は依然として根深い。ただ、批判を善意に解釈すれば、

 公平・中立、客観報道といってごまかさないで、きちんと方法論を持ちなさい

といっているともいえよう。

 科学ジャーナリズムが独立した専門職として、科学・技術者とは別に、きちんとした方法論を持つ。もう少し詰めた言い方をすると、さまざまな専門家の見方に、最小不幸の原則に照らして、それらを取捨選択する、つまり限界の設定の方法論を持つ。

 アカデミズムからの批判は、公平・中立、客観報道という幻想に代わって、ジャーナリズムが専門性をもって社会を見る目を養うという意味の

 科学・技術の社会学

という方法論を学びなさいという示唆ではないか。社会の中の科学・技術という視点であり、そこから見えてくる限界に目を向ける方法論である。

 ● なぜ今、予見性なのか 「限界」を分析する目

 科学や技術の専門家は、当然だが、その成果を最大幸福に資するものとして語る。それは、科学や技術の成果が輝かしいものとして、限りなく進展していく場合には、さしたる問題は起きない。科学ジャーナリズムも、その成果を好ましいものとして、啓蒙活動を続ければいい。いわば、最大幸福という名の幸せなジャーナリズムの時代と言えるだろう。

 地球上の、社会の中の科学や技術なのだから、何の問題もなく限りなく、いつまでも無限に進展していくということは、あり得ない。何がしかの問題が次第に起こるようになる。科学・技術に内在する問題だけでなく、社会的な制約に起因する問題、科学・技術の限界も次第にみえてくる。

 事実かどうかは疑問もあるが、地球温暖化問題が社会的なテーマになるのもそうだし、安全神話が通用しなくなった原発の事故もまさに、この限界論議なのだ。

 なのに、科学・技術を対象とする科学ジャーナリズムは、依然として、啓蒙時代の幸福な時代そのままに公平・中立、客観報道を信仰し続け、無力を露呈している。ジャーナリズムも、「限界」分析のジャーナリズムとして、今、変革の時期に来ている。

 そうした場合、往々にしてその分野の専門家という内部にいる人にはみえない問題、つまり限界あるいは社会の不幸に目を向けるのが科学ジャーナリズムの役割であろう。

 限界に対し、予見のできる科学ジャーナリズムが、幸福ではなく、

 最小不幸の原則

をかかげるのは、ある意味、必然といえよう。

 その意味で、予見のできる科学ジャーナリズムというのは、限界を設定する最小不幸という名の

 不幸な時代の科学ジャーナリズム

と言えるだろう。

 さらに、突き詰めて言えば、最小不幸の原則、あるいはそこから出てくる「疑わしきは国民の利益に」というのは、「科学・技術の限界」を判断するジャーナリズムの尺度

ということになろうか。この限界尺度は、最大幸福を旨とする専門家からは出てこない価値基準であろう。

 だからこそ、予見のできる科学ジャーナリズムの独自視点となり得る。これからのジャーナリズムの専門性とは、「限界」の予見性のことである。 

 そして、最後に、これは、専門家依存体質からは決して出てこない性質のものであることを、再度言及しておきたい。

  注記 

 「限界」予見性の科学ジャーナリズムにとって、

 科学技術社会論(STS)のアプローチを取り入れた

 科学論『科学論の現在』(金森修+中島秀人、2002年 )

は、有益だろう。パラダイムシフトという概念を用いた1960年代の『科学革命の構造』(1962年、トーマス・クーン)の科学哲学は、もはや現代には通用しない。『科学論の現在』はそれに代わる新しい科学論を海外事例を総覧し、日本のあり方を模索した労作である。クーンの限界を認識し、どのようにして、西欧の科学論研究者が

 社会的な意思決定の場に貢献する科学論

にたどり着こうとしてきたのかがわかる。その道のりには、科学ジャーナリズムが科学啓蒙時代からどのようにして抜け出せばいいのかというヒントが提示されている。

 なお、戦略提言「政策形成における科学と政府の役割及び責任に係わる原則の確立に向けて」 (科学技術振興機構研究開発戦略センター)も、原発事故の反省に立った提言が含まれており、科学論研究者とは異なる政策立案者の立場からのSTSアプローチの具体的な実践事例として、参考になる。

 科学に対する国民の信頼を回復するには、政策決定にあたって政府側と科学・技術者側の間の意思決定のあり方や、互いの行動規範をどう構築するのかについて論じられている。とくに、政策決定の手順の原則について海外事例が各国ごとに具体的に示されているのが特徴。

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顕微鏡下の「センス・オブ・ワンダー」       - 科学ソムリエの役割

(2013.02.12)  農家でも家庭でも、貯蔵ができるせいか、春の新タマネギとは言うものの、今では年中楽しめる。これからの新タマは格別だが、ブログ子も季節に関係なく、ときどき、疲れたときなどは

 たたき用カツオの上に刻んだタマネギを乗せたもの

を晩酌の肴にしている。辛口の熱燗のお酒にピッタリである。これにレモン汁をたらし、レタスをトッピングとして添えることができたら、これはもうりっぱなカルパッチョ。サラダ感覚で生でタマネギを食べるのもいい。生で食べると、タマネギのあの独特の刺激臭が、ニンニクほどではないにしても、疲れをとってくれるのがありがたい。

 だが、しかし、これまで一度たりとも、あのタマネギやニンニクの正体がどんな風なものなのか、その微細な様子をまじかに見たことも、考えたこともなかった。

 ● 植物細胞を究める

 そんな折、先日、ボランティアをしている浜松科学館(浜松市)で、1000倍の拡大能力を持つ

 顕微鏡で植物細胞を究める(サイエンスわくわく探偵団)

という小学校高学年、中学生を対象にした理科実験教室に参加させてもらった。静岡県内の「中高大の理科教育連携を考えるグループ」の主催なのだが、顕微鏡の台数にまだ余裕があるというので、急きょ、実験教室の片隅で子どもたちと机を並べて4時間もの授業に臨んだ。

 Image685 その様子を示したのが、上の写真。結論を先に言えば、静岡大学農学部教授や子どもたちの教育に手馴れた元高校教師(生物担当)が協力して計画を組み立てたからであろう、実に、周到に準備された驚きの授業だった。

  双眼鏡型の顕微鏡の操作では、両目をしっかり見開いて観察すること(片目はダメ)、そのための顕微鏡の調整の仕方、細胞のスケッチでは実線と同じ大きさの点のいずれかで描くこと(絵画でよく使われる、ぼかし陰影は使わない)など、科学実験ではこうした準備が非常に大切なことを、まず体と手で学ぶ。

 ついで、いよいよタマネギの生きたままの細胞の分裂の様子を観察する。

 タマネギのごく小さな黒いタネから発芽中の根のそのまた先を鋭くとがったピンセットで数ミリ切り取る。さらにその根端の細胞内を観察しやすいように特殊な方法でピンクに色素で染色する。成長著しい根の先は、タマネギの中でも細胞分裂を盛んに繰り返しているはずだから、顕微鏡観察に好都合というわけだ。

 ついに、生命の設計図といわれているDNAやRNAが入っている黒っぽい緑色に染色された核が見える。拡大率を上げると、核の中に黒い点が2つのものと1つのものとがある。

 ニンニクの場合、拡大率を上げると、つまり、400倍、1000倍にすると、染色体も黒っぽく見える。ごく細く見えないDNAがくるくる巻き上がって凝縮して太くなったかららしい。みえるだけでなく、二手に別れようとしている様子も鮮やかに見えた。核分裂である。それが終わり、二つの独立した細胞になる寸前の仕切りの様子などいろいろな位相のものもなんとかわかった。

 このとき、これが生命の源の姿かと思うと同時に、DNAと染色体とは実体は同じでも、顕微鏡下ではこんなにも鮮やかな違いがあることも実感できた。これでは、染色体の正体が当時すでに知られていた核酸の一種、DNAの折り重なったものであることを突き止めるまでの20世紀前半の生物学者たちのあの手この手の苦闘も無理はないと、少なからず納得した。

 ● R.カーソン女史の遺した言葉

 今から50年以上も昔、『沈黙の春』で知られる生物学者、R.カーソン女史は、最後のメッセージとして次のような遺言を残している。

 子どもと一緒に雨の森に出かけてみましょう。

 自然は嵐の日も 穏やかな日も

 夜も昼も

 憂鬱そうに見える日も

 子どもたちへの一番大切な贈りものを用意しておいてくれます。

   - 『センス・オブ・ワンダー』(新潮社、上遠恵子訳)

 彼女の言う「贈り物」とは

 生命の不思議さに驚嘆する感性、センス・オブ・ワンダー(sense of wonder)

のことである。

   先日のこのブログ(2月4日付)でも、科学ソムリエの心得について

 http://lowell.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-093b.html 

で4か条、たとえば、だれでもが楽しめることなどを挙げた。今回の授業には、理系大学出身のシニアのブログ子も、これから本格的に学ぶ小学生も同じ机を並べて学んでも、十分楽しめたし、それぞれが驚きを感じることもできるものだった。

 Image690 そんな心得を持った優れた科学ソムリエの役割とは、カーソン女史が遺した

 子どもたちへの大切な贈りもの

を、質の高い感動を、今の時代、雨の森でなくても、用意できることだろう。

 そんな思いで、この日の夜の晩酌では、かつて少し読んだ光学顕微鏡よりもさらに微細な様子がわかる電子顕微鏡の世界

 『新 細胞を読む』(山科正平、講談社ブルーバックス。写真下)

を拡げてみた。ともに学んだ子どもたちの中には、やがて、この小宇宙のさらなる驚異と謎の世界に目を向ける人材が出てくるような気がした。

 注記

 生き物の小さな細胞がたくさん集まって一つの「組織」や「器官」をつくっている様子については、

 『MicroFantastique(ミクロファンタスティック)』(西永奨、考古堂書店、1997年)

が面白い。電子顕微鏡を使っているのだが、拡大率は、数10倍から数100倍と、今回の授業で使ったものと同程度。しかし、走査型電子顕微鏡の特徴として立体感があり、そのファンタスティックな様子は圧巻である。その分、リアルであり、子どもたちをより強く生命の世界に引き込むだろう。

  注記2  2013.03.01

  立体感の出せる電子顕微鏡の特徴うまく活用して、1mmから0.01mmの世界をクローズアップして見せた記事に、

 科学雑誌「ニュートン」2013年4月号 電子顕微鏡で見る花粉の世界

というのがある。

 花粉症の季節に合わせたカラー企画で、圧巻。オクラ、アサガオ、リンゴ、菊などの花粉、つまり動物で言えば精子にあたる世界の驚きと不思議を伝えている。

 風や昆虫によって「めしべ」に運ばれたおしべの花粉には、なんと、受精するための管を出す〝穴〟、あるいはすき間が開いている。しかもこの穴やすき間の形は植物によってさまざまな。いずれも芸術性の高い形をしているのには、不思議でもあり、また驚く。 

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論説 = 廃炉の決断を求めたい           - 南海トラフ「浜岡」を追う

(2013.02.08)  国際水準から30年以上遅れているといわれている原発安全基準。これを国際水準に見合うように改めようと、その見直し作業が原子力規制委員会の検討チームで始まって半年になる。新基準の骨子案が固まった(写真= 2013年1月31日付毎日新聞)。

 Image664 南海トラフ沿いの巨大地震に対し、日本で最も危険で、しかもその危険性が切迫しているのが浜岡原発(中部電力)である。このトラフに関連して、あるいはそれとは別に敷地内に活断層が走っている疑いが指摘されているが、新基準をクリアするには

 「活断層 40万年前まで調査」

をする必要性もある。

 中部電力は、4年前、代替の6号機の増設とセットであるとはいえ、事故を起こす前に採算性という経営判断で老朽化した浜岡原発1号機と2号機を自主的に廃炉にした。日本で唯一の決断である。この決断を生かし、残る3、4、5号機についても、コスト的にハードルの高いこの新基準を大義名分に、廃炉にするという経営決断を求めたい。

 これなら、反原発運動に屈したのではなく、新基準という国の大方針、つまり国策に殉じた経営判断というりっぱな大義があり、国民世論を真摯に受け止めたいという電力会社としての名分が立つ。電力業界もこの大義名分を抑え込むことは難しいのではないか。

 しかし、それも巨大地震に襲われてからでは遅い。東京電力の二の舞を演じることは、ぜひとも避けるべきだ。

 Image665 幸い、総発電量に対する原発依存度も15%前後とほかの電力会社に比べて低い。廃炉にしてもその経営への影響は最小限に食い止められる。

 決断には静岡県民380万人の命がかかっているのはもちろん、中部圏での原発立地であり、国家百年の大計を誤るかどうかにもかかわっている。このことを中電経営者は忘れてはなるまい。 

 ● 注記 南海トラフ巨大地震の検証

 2013年1月31日付毎日新聞に巨大地震についての最新の検証結果が特集されている(写真中)。

 また、浜岡原発の活断層問題についての総括的なブログについては、このブログ

 2012年12月20日付 原発直下の活断層問題 問われる「浜岡」

を参照してほしい。詳しい参考文献が、この問題を考える場合、よい手がかりとなろう。

 Image617_2 また、この1月20日付ブログについての学習講演会が、2013年1月20日、沼津労政会館で行なわれた。ブログ子も参加したが、そのときの様子が写真下。

  ● 注記2 南海トラフ「浜岡」直下に巨大活断層の恐れ 

  規制委が浜岡原発に対して、新基準の骨子案が固まった今の時点で、どのように考えているか、注目される。

 ヒントは、以下の二つ。

 第一。規制委の田中俊一委員長は、骨子案は「世界最高レベルの厳しさ」とした上で、わざわざ、記者会見で、浜岡原発1、2号機が中電の経営判断で4年前の2009年廃炉になった事例を挙げながら、次のように述べている。

 「金がかかるから原発の運転をやめる電力会社もあるだろうが、われわれはまったく(そんなことは)考慮しない」

 これは、中電さん、残りの原発もやめたらどうですか、と言っているのに等しい。規制委、すくなくとも田中委員長の腹は決まっているのだ。

 この発言については、たとえば2013年1月31日付毎日新聞朝刊「クローズアップ」にも出ている。

 第二。これに呼応するかのように、あるいは、補足説明するかのように、規制委の森本英香次長が、次のように述べている。

 「今の時点では、規制委員会自らが浜岡について評価する段階ではない」

 これは、NHK静岡放送局の地域番組「静岡流 浜岡原発防災に備えて」(2013年2月8日夜放送)の収録映像での発言。

 今の時点で中電自らが廃炉を決断するならば、それは結構なことだが、という意味であろう。また、今の時点では、とわざわざことわっているのは、中電がみずから判断しないのであれば、近いうちに規制委自らが不適格の評価を出すだろう、という含みのある廃炉の催促発言ともとれる。

 番組では、中部電力浜岡地域事務所の村松立也専門部長が、福島事故のことを考えると、

 「思いもよらないところから何かがおこるかもしれない」

との思いから

 「もしかして、もしかしてと繰り返して対策を打っている」

と話している。

 この「もしかして、もしかして」という現場の不安を完全に払拭するのは、巨大地震が来る前に早く中電自ら「廃炉」を決定をすることであろう。上記の規制委幹部の発言はこれを暗に催促している。

  それは少し早すぎるというのであれば、

 「もしかして、もしかして」浜岡の原発真下に活断層があるのではないかという不安を、まず、ともかくも解消すべきであろう。

 というのも、このブログ(2012年12月20日付)でも指摘したように、浜岡原発の付近、あるいは直下の南海トラフ沿いに巨大な活断層がある可能性が名古屋大学などの専門家が具体的に指摘しているからだ。

 確かに、2013年1月現在で政府の地震調査研究推進本部が「主要な活断層帯」としたのは110活断層(長さ20キロ以上で、ずれればM7.0以上の大地震を引き起こす恐れがあるもの)であり、このリストには浜岡原発周辺に、そんな危険な断層群は確認されていない(主要ではない活断層が海底に16あることは中部電力も認めている)。だからと言って、原発敷地内には危険な活断層はない、とまではいえないのだ。

 というのは、このリストには落とし穴があるからだ。海沿いの活断層である。海底に陸上と同じような活断層がたとえあったとしても、海底であるところから調査が困難でなされていないか、あるいはしたとしても調査が行き届かず、活断層かどうか確認できていないかのどちらかなのだ。海沿いは、活断層がないのではなく、いわば「空白」なのだ。

 その証拠に、4、5年前から政府の推進本部があらためて九州地域で海沿いを中心に活断層帯がないかどうか、再調査し見極めたところ、当然のことだが、多数の海底活断層帯が新たに発見された。この結果、九州地域の活断層帯数はなんと一挙に倍増している。

 浜岡原発周辺は、地殻変動の激しい南海トラフ沿いであり、海底に巨大な活断層帯(群)があったとしてもなんら不思議ではない。あって当然なのだ。もしか、もしかの話ではない。現に、専門家はその存在を具体的に指摘している。

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「木」へんの四季  柊物語

(2013.02.07)  節分がすぎて、ようやく春の気配が感じられるようになってきた。四季が感じられる日本の良さだろう。

 「木」へんに春と書いて椿。俳句では、椿は春の季語だから、うまくできている。「木」へんに夏と書いて榎。落葉高木だが、確かに春から夏にかけて小さな花をつける。

 Image655 驚いたことに、「木」へんに秋と書く漢字があるかと、思ったが、なんとある。読み方は「シュウ」であり、訓読みでは「きささげ」。きささげというのはこれまた落葉高木で、秋にさや状の実が垂れ下がるという(『新潮日本語漢字辞典』)。かつては版木や碁盤、下駄に使われたらしい。

 「木」へんに冬と書いて、これは柊。冬の季語で、ひいらぎと読む。確かに初冬に白い小花をつける。

 節分前の先日、JR浜松駅の、いわゆるデパ地下を通り過ぎたら、赤鬼の紙の面付きで

 ひいらぎ

が販売されていた(写真)。豆がらの音、ひいらぎの葉のとげ、イワシのにおいは、厄除けになる。玄関、戸口に飾りましょうとあった。

 金沢に20年暮らしたブログ子にとって、そんな風習は知らなかったので、思わず見入ってしまった。金沢市東山の宇多須神社の節分豆まきなら知っているが、ひいらぎというのは、だいたい太平洋側に自生する。金沢や石川県全体ではほとんど自生していないからだ。

 民俗学に詳しい静岡産業大学の中村羊一郎さんよると、

 全国的な習慣で、イワシの頭とか、ニラ、髪の毛などを加えることも多い。この習慣を

 ヤイカガシ(焼き・嗅がし)

という。本来は焼畑などでにおいに敏感なイノシシなどの被害を防ぐために耕地の周囲においたものが原型らしい。ひいらぎは、この連想で、あとから加えられたものという。

 田んぼのカカシ(案山子)

も、この「嗅がせる」からきているという。

 もともとは、ひいらぎのトゲの厄除け、魔除けというのは、イノシシ除けであり、とても合理的な発想から生まれた伝統行事だったのだ。

 調べてみたら、紀貫之「土佐日記」の元日(旧暦)の項に

 ひひらぎ

が登場する。これが後に元日から、旧暦の元日に近い節分の行事に移ったのであろう。

 伝統行事も、もとをたどれば、科学的な根拠、経験則があるものが多いということに気づいた節分だった。

 今、こごみ、タラの芽、フキノトウ、むかご。和食党が冬の恵みを楽しむ季節である。

 注記

 静岡県内の伝統年中行事については

 『静岡県の年中行事』(富山昭、静岡新聞社)

に詳しい。

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「ちょっとピンぼけ」だったが 運命の1枚

(2013.02.05)  期待もせず、何気なく見た番組だったが、

 フォト・ジャーナリズムとは何か

ということをつくづく考えさせられた。先日の日曜日夜のNHKスペシャル

 作家、沢木耕太郎 推理ドキュメント 「運命の一枚」

である。

 ● キャパは出世作になぜ沈黙したのか

 世界的に知られる戦場カメラマン、ロバート・キャパの出世作、

 「崩れ落ちる兵士」(1936年9月撮影。スペイン内戦の戦場で)

は、戦争という対象にぎりぎりまで肉薄した衝撃の一枚として、つとに有名だ。

  しかし、沢木さんの推理とその仮説、分析によると、

 撃たれてもいなければ、死んでもいない

という。その検証結果をNHKが紹介したものであり、仮説と推理をもとにその瞬間をCGを駆使して具体的に再現してみせており、推理に説得力があった。

 問題の民兵兵士は、これから始まる実戦に備えて、戦闘訓練の演習中、ゆるやかな下り坂で滑って、後ろに転倒、銃を手から離した瞬間の写真だというのだ。

 Dsc01167 その証拠に、戦闘真っ最中だというのに写っている銃はロックされており、ただちに発射できる状態にはなっていないこと、撮影されたとされる日付には、まだ撮影地では戦闘は始まっていなかったという歴史的事実-が決め手となった。

 これだけでも、衝撃である。しかし、問題は、これだけではなかった。

 撮影者は、キャパ自身ではない

というのだ。撮影者は、そばで一緒にカメラを向けていた

 キャパの恋人、ゲルダ・タロウであろう

と、これまた、このときのほかの多数の写真も検証しながら、沢木さんの仮説をもとに、そしてCGを駆使して特定した(写真上= NHKスペシャルの番組画面より)。

 さらに問題の写真に写っている撮影範囲は、そのときの状況により、これまたキャパの持っていたライカカメラでは、わずかではあるが撮影できない部分があることがわかったというのだ。これに対しゲルダのカメラなら、十分可能であることも具体的に示されていた。

 これにより、キャパがなぜ、22歳の時に撮った輝かしい出世作について、その後、ほとんど語ることがなかったのかという理由がようやくわかる。語りたくても、真実は語れなかったのであろう。沈黙を守るしかなかった。

 撮影から77年目の〝真実〟と言えそうだが、恋人に対するこの負い目こそ、キャパが戦場へ、そのまた最前線へと、突き進んでいく力になったのは皮肉である。

 そして、撮ったのが、これまた有名な

 D-DAY

という

 「ちょっとピンぼけ」の「ノルマンジー上陸作戦の決定的な写真」

となって結実する。海岸に待ち受けるドイツ軍からの機関銃の弾がまじかに飛び交うなか、震える手でシャッターを切った

 本物の戦争の写真

だった。手ぶれでピントが合っていない。それほどに戦場に肉薄している証拠だろう。しかも連合軍兵士の後ろからではなく、前から撮影したアングル。この写真こそ、恋人、ゲルダ・タローへの鎮魂の一枚となったであろう。

 番組の推理が正しいとしても、キャパを

 「堕ちた偶像」

とするのは当たらない。

 確かに「ちょっとピンぼけ」ではあったかもしれない。沢木さんの推理が正しいとすれば、いわゆるやらせや、架空のウソやでっち上げではないにしても、十全の誠実さには欠けていたであろう。

 しかし、22歳の若者にそれを求めるのは酷であり、欠如もまた伝えたいことを達成するための方便の範囲内だったとブログ子は考えたい。たとえ、その伝えたいことが幻想であったとしても。

 彼が、そして彼女が何を伝えたかったかということが、明確に「運命の一枚」の写真から伝わってくるからだ。スペイン内戦は帝国主義に反対する正義のための戦争であるといいたかったに違いない。だからこそ、世界的な米写真誌「LIFE」もいち早く取り上げたのであろう。

 ジャーナリストにうそや偽りのない誠実さは不可欠である。だが、肝心なことは、撮った写真で何を伝えたいのか、フォト・ジャーナリストとして写真で何を証言したいのかという誠実さの具体的な中身なのだ。誠実さは何によって示されるのか、と言い換えてもいい。

  ● フォト・ジャーナリズムとは何か

 フォト・ジャーナリストの広河隆一氏によると、

 フォト・ジャーナリストとは、実際に現場に立ち合わなくては成立しない、

 いわば「瞬間の証言者」

という意味のことを語っていた(放送大学講義「フォト・ジャーナリズムとは何か」2013年1月放送)。

 カメラという、その証言力が普通のジャーナリストとは違うという意味だろう。だから、フォト・ジャーナリストが現場に立つことで、事件や戦争の抑止力になる。

 抑止力、これこそが、フォト・ジャーナリストの存在意義

と広河氏は強調していた。フォト・ジャーナリストは、写真家ではない。証言者であるというわけだ。

 Image663 今回の「運命の一枚」は、このフォト・ジャーナリスト=瞬間の証言者説を無条件には正しくないことを示した。ジャーナリストとして誠実であれば、という前提が要る。いかようにも事実を加工できる今のデジタル時代においては、ますますこの前提が意味を持つ。

 抑止力うんぬんについては、広河さんの言うとおりだろう。しかし、これとても、カメラが抑止力になるのではない。カメラをのぞく人間の誠実さが抑止力につながるのである。

 「週刊新潮」2013年1月31日号のグラビアには、写真とともに

 生誕100年 2人のロバート・キャパ

という記事が出ている(写真下)。この記事によると、1954年5月25日、北ベトナムの戦場に向かった40歳のロバート・キャパは、地雷を踏んで死んだ。ゲルダ・タローの死から17年後のことだったという。

 戦場にあったキャパは、何を伝えようとしていたのかという点では、生涯一貫していたように思う。正義のための戦争はあるという信念だ。それをカメラで世界に示したかった。運命の一枚にしろ、D-DAYのピンぼけ写真にしろ、戦後撮った写真にしろ、ジャーナリストとして、この訴えたいことについては 一貫していた。この一貫性こそ、キャパの誠実さのあらわれであろう(注記)。

 そして、今、必ずしも「真」を「写」すとは限らないデジタルカメラの時代。極論すれば、キャパが生まれて100年、カメラが真実を写し出す時代は終わった。

 撮った写真で何を具体的に伝えようとしているのか、証言しようとしているのか、あるいは何を伝えたいがために活動しているのかというジャーナリストの志の高さや誠実さが、キャパの時代以上に試される時代になっている。

 今回の推理ドキュメントは、あらためて、これからの時代、証言者として

 フォト・ジャーナリストの本当の意味の誠実さとは何か

というその内実のあり方を、私たちに突きつけたように思う。

  注記 余談

 結局、このフランス軍が仕掛けたインドシナ戦争でキャパは死亡するのだが、その後、1960年代に、フランスが手を引いたベトナムにアメリカが介入。

 自分の名前にもアメリカ人の呼び名を付けたほどのキャパだったが、この戦争を取材していたとしたら、どんな感想をいだいたであろう。

 もちろん、これは歴史の後知恵にすぎず、彼の誠実さとは無関係である。

 キャパは、幸せな時代に生きたと思う。

  注記2

  この番組を見ながら、ふと、ビデオジャーナリスト、山本美香さんのことを思い出した。昨年2012年8月にシリア内戦の取材中、政府軍に銃撃されて死亡した。彼女はジャパンプレスの記者だった。紛争地の女性や子どもたちの視点から、戦争孤児など戦争の悲劇を世界に伝え続けていた。その姿に、取材中、若くして戦場で戦車にひき殺されたゲルダ・タローを思い出さずにはいられなかった。

 ここでも、正義の戦争などないことを、あらためてブログ子は思い知らされた。

注記3

当の沢木耕太郎さんは、この2、3年、月刊「文藝春秋」に、 

 キャパの世界、世界のキャパ

という連載を続けている。先月の1月号が、「崩れ落ちる兵士」問題を扱った

 キャパの十字架

だった。そして、今月2月号は

 あしながおじさん

である。キャパは、1944年のイギリス滞在中、イギリスの戦災孤児少女と米軍兵士が手をつないでいる姿を撮った。その場所を探し回る旅である。

 「キャパ」を歩く

という企画であろう。

 作家、山本一力さんは、有名な歴史上の人物の伝記についても、

 それでも隙間は無限にある

と、書いている(講談社の読書人の本『本』1013年1月号)。この沢木さんのこの推理ドキュメントはまさに、その通りであることを証明している。

 「ローエル」を歩く

もいいのではないか。

  補遺

 このNHKのドキュメントについては、沢木さんの近著

 『キャパの十字架』(文藝春秋)

にその詳細がある。

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「不都合な真実」と「好都合な真実」の間   - 複雑系を追う

2013.02.04)  地球の温暖化という問題は、決定性の現象ではあるが、複雑すぎてあらかじめ結果を予測することができない複雑系であることは前回述べた。たとえ今よりコンピューターがいくら高性能となっても、本質的に結果を予測することはできないという意味だ。ごくわずかの揺らぎでも、その非線形性から結果が大きく変化するからだ。

 Photo そういう性質を持っているところから、温暖化真実論者と温暖化懐疑論者の間で、丁々発止の論争がこの20年、延々と続いてきた。IPCC最新報告書(第四次、2007年)は、人為的に排出された二酸化炭素が原因で今温暖化が起きていることは、ほぼ確かであると結論付けている。しかし、それでも一向にどちらかに収束するというような気配すら、その分野の専門家の間でもみえない。

 それどころか、データの取り扱いをめぐって、2009年秋にはねつ造ないし改ざん一大スキャンダルすら起きており、温暖化真実論者の信頼が国際的に大きく揺らいだ。

 前回も取り上げたが、真実論者は、巻き返そうとばかり、

 『地球温暖化懐疑論批判』(2009年秋)

という本を日本で緊急出版。ところが、これが懐疑論者の名誉を毀損したとして、東京地裁で訴訟騒ぎにまで発展した。

 最近の日本でも、専門的な知識を持つ専門家による懐疑論の新著が多く出版されている。たとえば、

 渡辺正『「地球温暖化」神話 終わりの始まり』(丸善出版、2012)

がある。渡辺氏は東大生産技術研究所副所長で教授。植物などの光合成研究の専門家である。その知見を生かして、二酸化炭素の循環問題を詳細に論じている。なかなか説得力があり、真実論者も反論するのは容易ではないだろう。

 ブログ子の意見をいうと、渡辺氏の論理は正しい。

 ● 温暖化神話こそ人為

 この本については、ユニークな生物学者として知られる池田清彦氏(早稲田大学国際教養学部教授)も、最近の「週刊文春」で書評を書いている。渡辺氏の懐疑論を支持し、いわく、

 温暖化という「神話こそ人為。このでたらめにそろそろ気づくべきだ」

としている。この書評欄は

 〝本読みの達人〟たちの希望がわく「初春の一冊」

と銘打っている。そんな欄で国際教養学部の教授が警鐘を鳴らしているのだから、温暖化は本当か、と疑いを持つのも当然だ。

 さらには、この本については、廃棄物リサイクル問題など環境問題の工学的な研究でも知られる武田邦彦氏(中部大学工学総合研究所所長)がこの本を書いた渡辺氏の分析や見解を強く支持することを公に表明している。温暖化を真に受けるなんて、

 知の侮辱

であるとも、ぶち上げている。温暖化を信じるなんて科学的な無知に過ぎないとばっさり。

 ● 地球シミュレーターの警告

 一方、そんななか、NHKBSアーカイブス

 「気候大異変 地球シミュレーターの警告」

というタイトルで2006年に放送された番組を紹介していた(1月28日深夜)。案内役がIPCCの議長だったジェームス・ワトソン博士であったので、ブログ子も注目した。

 Dsc01057_2 この番組の終了後、2013年1月現在の状況を踏まえて、国立環境研究所の江守正多氏(同研究所地球環境リスク評価室長)が番組の感想を述べていた(写真下=同番組の画面から)。

 それによると、放送から7年近くたった現在(2013年1月)でも、温暖化が進行しているという地球シミュレーターの結果(さらには21世紀最後の10年間の様子)は、大まかには、あるいは定性的には基本的に正しいとコメントしていた。世界各国の同様のスパコン結果、20ぐらいあるそうだが、いずれも定性的には一致しているという。

 一致とは、具体的には、温暖化の原因が人為的な二酸化炭素排出の増加によって説明できること、熱帯で今より巨大な熱帯低気圧(台風)が頻繁に発生し、しかも日本にも上陸の可能性があること、東京の熱中症死亡者は、50年後には今の2.5倍、21世紀末ごろには11倍に増加すること、東海地方はそれほど今と変化がないのに対し、東北では干ばつや乾燥化が進行、逆に九州では豪雨や雨の日が多くなること-などである。

 このまま温暖化が進むと、日本だけでなく、たとえば、中国でも、砂漠化と大洪水が同時進行するらしい。当然、水不足と乾燥化による食料危機は深刻化するだろう。

 ただ注意すべきは、温暖化の要因は、二酸化炭素にかぎっても都市化に伴う排熱のヒートアイランド現象、火山活動がある。さらに間氷期の気候変動、最近の太陽活動の低下(11年黒点周期の乱れ)、太陽系外からの宇宙線による地球上の雲発生の変動なども有力な要素である。二酸化炭素のキャリアーとなる大規模な深層海流の変動解明もポイントだろう。

 2014年にもまとまるIPCC最新報告(英文、第五次)が注目されるし、日本は京都議定書から離脱したものの、代わって自主的な取り組みが、2020年の新枠組みづくりに向けて始まる。離脱しなかった各国は、今年から京都議定書による第二約束期間にはいる。

 この2010年代は、予見のできる科学ジャーナリズムの真価が問われる時期であり、複雑系を追う10年間にもなろう。

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「不都合な真実」と「好都合な真実」の間       -  北極圏の場合 複雑系の真実を追う

(2013.02.02)  南極海の温暖化について書いた先ほどのブログの続きで、

 北極圏、北極海では温暖化はどうなのか

について、書いてみたい。そこで書いたように、北極圏はもっとも温暖化の影響が敏感に現れる場所であり、また大陸がない分、温暖化のメカニズムは、そう複雑ではないだろう、と予想される。

 ● 北極海の海氷、年々、減少傾向

 事実、北極海の海氷は、毎年、縮小し続けている。温暖化のせいだと素直に解釈すれば、合点がいく。

 先日1月30日深夜、NHKBSプレミアムでアーカイブス「北極大変動」というのを再放送していた(アーカイブス番組としての初回放送は2012年4月。今回のはアーカイブスの再放送)。

 それによると、北極海の海氷は9月中旬ごろ、その年の最小になるが、

 1980年9月に比べて、2007年9月の海氷の面積は約6割も減少、観測史上、最小

という。番組では、その比較図まで出ていた。ただ、海氷は、陸地から流れ出た氷山と違って、海面上昇効果は事実上、ゼロではある。

 Image652 その後も、減少を続けて、

 2012年9月21日付朝日新聞によると、

 北極海の海氷 最小を更新

として、1980年代の9月最小期の平均分布と2012年9月16日(この年の最小)の分布図

が比較できるように掲載されている(写真)。宇宙航空研究開発機構(JAXA)が公表した水循環変動観測衛星「しずく」の観測データである。

 記事によると、これまで上記に書いた2007年9月の最小面積425万平方キロが最小記録だったが、この記録を2012年8月に更新(421万平方キロ)、その後さらに縮小した。掲載された図から見積もると、

 1980年代の最小分布の約半分以下

となって、二つのデータはよく一致する。つまり、年により、多少はジグザク増減するものの、北極海の最小期9月の海氷の面積は、縮小傾向にあるといえるだろう。

 この30年、最小期9月の北極海の海氷は毎年、縮小し続けている

というのは、これが何によるものか、という原因論は別にして、科学的に根拠のある確実な事実であろう。番組によると、

 残った海氷も、ずいぶんと薄くなり、たとえば白クマがかつては容易だったのに、今では移動できにくくなっているという。泳がなくては移動できないという事態。食料が得られず、今では

 シロクマは絶滅危惧種であり、将来は絶滅する危機にある

らしい。

 ところで、北極圏にほとんどが入るグリーンランド島はどうなっているのだろう。

 この島で起きていることは、温暖化によるものとすれば、素直に解釈できる。

 これまた、NHKBSアーカイブス「北極大変動」(2013年1月30日深夜再放送=初回のアーカイブス放送は2012年4月)によると、

 グリーンランドの陸氷の上に、これまでみたことのないような河が流れているのだ。

 川は、ムーランと呼ばれる垂直ならせん状の穴

に流れ落ちていた。つまり、地面と陸氷(氷河)の間に水が流れ込んでいるのだ。だから、その水がおそらく、潤滑油の働きをして、氷河の流れを加速している。

 こうなると、陸氷が海に流れ出る氷山の量は増える。

 これは、海氷とは違って、海面上昇を生むだろう(温暖化に伴う海面からの蒸発は無視するという仮定はあるが。もっとも氷山は海水を冷やす効果があるので、定性的にはこの仮定を置くことは無理ではない)。

 ● 北極圏は温暖化の臨界点をこえたか

 この番組の中で、長年、北極点を含めて北極圏の氷の調査をしている海洋開発研究機構の菊地隆博士の言葉が印象的であった。博士は、冬でも北極海に氷がないところがあるという驚くべき現状(2008年時点)を目の当たりにして

 「北極海は、(人の手ではもはや押しとどめることのできない負の連鎖が始まる)臨界点をこえてしまったのではないか。その可能性が高い」 

と述懐していた。後戻りのできない時点、臨界点をすぎた。もはや、どう温暖化対策をほどこしたとしても、この進行は人為的にはとめることができない。自動的に進行するというのだ。二酸化炭素排出を今すぐに各国ともにゼロとしたとしても、もはや温暖化は止められない。夏場の北極の氷の消滅は避けられないということだろう。

 その温暖化の自動的な進行のメカニズムを、もう少し詳しく解説すれば、こうだ。

 Photo 温暖化で、氷が縮小し、しかも薄くなる。氷と氷の間にも隙間ができる。すると、それまで氷の表面で全反射していた日射は、そのすきまから海水に入り込み、海水温を上げる。結果として、温暖化はさらにすすむ。すすむと、さらに翌年の凍りはまた薄くなる。またまた海温は上がり、温暖化が急激に進行するという

 北極海の負の連鎖(正のフィードバック)

で北極圏の海氷の大崩壊が進行する。

 これが急速に進んでいる様子が、上記した1980年代からの30年の姿なのだろうか。

 この意味では、地球温暖化などは神話だという懐疑論に反論した

 『地球温暖化懐疑論批判』(写真下、東京大学など5機関が参加するサステイナビリティ学連携研究機構。2009年11月)

は、人間界から地理的に近い距離にあり、その分大きな影響を受けやすい北極圏に限れば、正論であろう。

 ● 温暖化の原因は人為的な二酸化炭素排出か

 北極圏では温暖化で氷が薄くなり、巨大地下資源、石油やガスの開発競争が以前より容易になり、ロシアやノルウェーで熾烈になっている。これは、けしからんということになりがちだ。事実、番組「北極大変動」第2集では、この問題を取り上げている。

 これ以上地下に固定してある二酸化炭素をほじくりだすなんて、とんでもないというわけだ。

 温暖化の原因の主なものは人為によるものであり、それは二酸化炭素の過剰な排出によるものである。

 これは本当なのだろうか。複雑系の原因要素を探し出すのは容易ではない。きちんとした幅広い検討が必要だろう。

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科学ソムリエの心得  タングラムづくり

(2013.02.04)  科学を文化として考えてみようという思いから、ブログ子は浜松科学館(浜松市)で、ときどきサイエンスボランティアをしている。

Image659  たいていは小学生だが、就学前の子どもたちも相手にしている。科学を文化としてとらえるには、

 遊び心

がとても大切だというのが、少しずつわかってきた。

 先日は、参加人数は少なかったが、小学生といっしょに

 木で「タングラム」

をつくり、それで、いろいろ遊んでみた(写真上)。

 これがなかなか面白い。

 タングラムというのは、写真下のように、正方形の板を分割して、

 大きな三角形2枚、中くらいの三角形1枚、小さな三角形2枚、正方形1枚、ひし形1枚

合計で7枚にしたもの。これをいろいろ組み合わせて、写真に写っているような図形(影絵)をつくる。

 いわばシルエットパズルであり、子どもたちの知育のための図形(幾何学)遊びともいえるもの。

 まず、正方形の板に鉛筆でカットする線を定規を使って描く。次にその線に沿って電動糸のこぎりで分割する。ブログ子もそうだったが、電動のこなど、使ったことがないので、みんな慎重にカッティングに挑む。

 工作はそこまでで、たいていみんなもうまく出来上がる。

 そしてシルエット遊びに入る。影絵で示されている図形を、カットした7枚全部使って再現するのだ。

 ブログ子も、ボランティアであることを忘れるくらい熱中してしまった。

 しかし、写真にある「さかな」の形がいかな再現できなかった。テキストによると、5分くらいで小学生ならできるそうだが、20分かかってもついにできなかった。

 これに対し、子どもたちの中には意外に簡単に再現できた人もいた。なんとも悔しいので、家に帰って、夜、再び挑んで、3、40分くらいでようやく再現できた。その瞬間、そうか、そういう構造になっていたのか、という発見と感動があった。

 なかなか、できなかった原因は固定観念があったことや、パッとみてシルエットの向こう側がどうなっているのか、その幾何学的な把握力、想像力が足りなかったことだとわかった。だから、単純なシルエットのほうが、構造がみえにくい分、再現がむずかしい。

  かつて中学生のとき、図形の証明問題がブログ子は得意だった。うまいところに一本の補助線を引くことができれば、たちどころに証明ができた。タングラムはその直感力が問われる遊び。あれから50年、すっかりその得意技もさび付いてしまっていたことがわかった。

 それはともかく、このパズル、なかなか奥が深いと思ったら、なんと西洋では、200年も前から一般に普及していたらしい。

 Image662 できるシルエット図形の数も、数百種類もあるそうだ。中国では2000種以上の図形を示したパズル本まで発行されているという。このタングラムでいろいろな漢字がつくられていることも知った。一言で言えば、洋の東西にかかわらず、みんなこのパズルにはまっているのだ。

 ところで、高名な宇宙物理学者の池内了さんが、最近の

 現代科学の見方・読み方 科学の案内人

と題して、科学的なものの見方について書いている。このなかで、ご自分であみだした、サイエンスボランティア、あるいは池内さんの言葉で言えば、

 科学ソムリエの心得4か条

を紹介している(FUJI Xerox「GRAPHICATION(グラフィケーション)」2013年1月号)。要約すると

第一。伝えたいものは何か、その明確な目的を

第二。だれもが楽しめる工夫を

第三。「なぜ?」という問いかけを

第四。次の行動につながる具体的な示唆を

である。ブログ子の経験から、科学は文化であるという観点から、科学ソムリエの心得として、もう一つ付け加えるとすれば、第二とも関連するのだが、

第五。驚きや発見のある遊び心を

ということだろうか。手や足など参加者の体を使った遊びから、驚きや自発的な発見が生まれるなら、心得としては理想だろう。

 自ら工作してつくったタングラムのパズル遊びには、これがあった。科学ソムリエ自身も楽しめる工夫があった。

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「不都合な真実」と「好都合な真実」の間          - 温暖化は欺瞞の政治神話か、それとも科学的な警告か

(2013.01.31)  植生の変化にしろ、気温などの気候変動にしろ、長期にわたる地球温暖化の影響が地球上でもっとも敏感に現れるのは、北緯67度よりも緯度の高い海ばかりの北極圏であろう。

● 南極大陸は安定しているか

  Image648 陸地というのは、グリーンランドぐらいだが、北極海にはる海氷は薄く、少しの海水温、あるいは気温の変化でも、比較的に氷から水に、あるいはその逆に変化しやすい。しかも、周囲にはユーラシア大陸、北米大陸など人の活動も盛んなところがあるという人文地理的な要因も人為的な変化を受けやすい理由だろう。

 これとは対照的に、南極圏のほとんどを占める南極大陸は、数千メートルという分厚い氷に覆われている。その温度も氷点下40度くらい。昭和基地のような南極では気温の比較的高いところでも、年平均気温は氷点下10度くらい。氷は零度にならないと、とけないのだから、多少の温暖化なんか関係ない。氷は年中氷のままであり、温暖化に対しては安定している。

 陸氷が氷河として海に流れ落ち、白い氷山となる量と、新たに南極大陸内陸部に降り積もる雪が凍る量とは、この1万年以上にわたる間氷期の間ではほとんどつり合っていて、全体としては氷の量の変化はない。

 そういう意味で、南極大陸に温暖化の影響が仮にあったとしても、氷が増えたり、あるいは減ったりしてはいない、安定している。氷の温度がわずかに高くなる、たとえば氷点下40度から氷点下30度の氷になるだけだ。ブログ子はそう思っていた。

 ましてや、南極大陸は人間活動の盛んな大陸からは隔絶されている。だから、温暖化が実際に起こっていると仮定して、その原因のほとんどが、これまた仮に人為的なものであったとしても、そして大気大循環を考慮したとしても、北極に比べたら、まあその影響、つまり気温や海水温の変化、さらには海面の上昇あるいは下降うんぬんは南極圏では無視していいだろう、とたかをくくっていた。

 ● 南極大陸自身が融けていく

 ところが、温暖化という問題は、仮に起こっているとしても、そんな単純なものではないということを思い知った。 

 温暖化がすすむと、南極大陸の上に乗っかっている氷がとけるのではなくて、突然、南極大陸自身が崩壊する危険がある。

 つまり、氷を乗せたまま南極大陸自身が崩壊する、カタストロフィーが次々におきる可能性が出てきた

というのだ。こうなると、バランスを崩した南極大陸の氷が南極海にいっきょに入り込み、みるみる海水面は数10センチ高くなることも考えられる。

 先日夜のNHK「クローズアップ現代」で放送された

 南極大陸が融ける? 温暖化調査最新報告

というのがそれである。国立極地研究所の藤井理行前所長がそのメカニズムを説明していた。

問題はそのメカニズム。番組によると、南極大陸に降り積もった氷をすべて取り除いた陸地の形を調べたら、昭和基地のあたりは海面よりは上にあるが、なんと、大陸の半分くらいは今の海水面より下にあることが最新の極地探査で明らかになった。その様子を地図上に表したのが写真上(= 1月29日NHK「クローズアップ現代」の画面より。うす緑の部分が海面下の大陸)。

 Image646 海水面が少し上昇すると、海面下のところに海水が入り込み、バランスが崩れる。その結果、その上に乗っている棚氷がいっきょに不安定になり、分裂、崩壊するというのだ。その実際の様子をとらえたNASA衛星写真が下の写真(同番組の画面より)。

 つまり、氷がとけるうんぬんというよりも、底に水が入り込むことのできる南極大陸の地下構造のほうが問題なのだ。

 全地球の氷の約9割を占める南極の氷の温度は、氷点下40度。不安定化で、海に流れ出た氷山の分だけ海水面が上がる。

 このメカニズムだと、地球が温暖化すると、南極海の海水温度は、あるタイムスケールの間は必然的に低下する

だろう。恐ろしいのは、海水面が上がると、南極大陸は、その分支えがなくなり、さらに力学的な不安定化を招くという

 負の連鎖(正のフィードバック)

が働くことだ。この不安定化の連鎖で、さらに、氷山が増加し海面が上がる。それがまたますます大陸の不安定化を進行させる。最終的には南極大陸は〝海没〟し、ほとんどなくなる。

 この間、海水温度は氷で冷やされるので低下する。しかし、海面上昇は物理的な不安定化が原因なのでとまらない。というのは、熱力学的には、海水温が下がると、海水は縮み、蒸発は少なくなるが、定性的には、それらが互いに相殺する。その結果、先ほどの海面上昇はとまらないことが予想される。

 つまり、地球が温暖化すると、南極海の海水温はむしろ低下する。

 結論的に言えば、

 温暖化問題は、線形的でストレートな話ではなく、非線形の問題なのである。つまり、わかりやすく言えば、原因と結果の因果関係の間に、さまざまな要因が入り込んでいて、意外な結果がでるというたとえ、

 風が吹けば、桶屋が儲かる

式の非線形問題なのだ。わずかな原因の違いが、結果に大きな違いを生む。

  ● もう一つの解答

 ところが、ところがである。

 上に述べた、仮に温暖化が進行しているとした場合、確かに、

 この30年、衛星データによると、北極海の海氷が減っている。これはうなずける。

 しかし、なのに、同じ衛星データを見ると、南極海では氷の量が増加している。

 それは、上の南極大陸の地下構造によって説明できるといいたいのだが、別の観点から

 このパラドックスの理由は何か

という疑問に取り組んだ最近の研究がある。

 「温暖化でも南極の氷がとけない理由」( 「Proceedings of the National Academy of Science」誌オンライン版2010年8月16日号、米ジョージア工科大学研究チーム)

である。そのポイントは、

 海面下の深層海流

にあるというのだ。

 こうだ。温暖化がすすむと、海水面からの蒸発が盛んになり、南極海の上空から降りそそぐ雨の量が増える。すると海水面近くの塩分濃度は小さくなる。海水密度が小さくなるので、これまでのように、なかなか沈み込まない。すると、比較的に温かい深層水が海面に出てこれない。だから、海面の氷は以前よりもとけにくくなり、結果として増える一方となる。

 ここでも、温暖化すると、南極の海水表面温度はかえって下がる

というのだ。かき混ぜ効果がきかなくなるから、海氷が増加するというのが、その理由らしい。

 この説によると、

 地球温暖化による南極海の海氷の増減は、世界規模で起きている深層海流の沈み込みの有無にまで関係している

ことになる。北極海と南極海の増減の違いは、深層海流の沈み込みがあるかないかの違いによるというのが真実だというわけだ。

 ● 予見のできる科学ジャーナリズムの試金石

 以上の二つのどちらが正しい解釈なのか。それとも、二つとも的外れなのか。

 その判定は、それぞれのモデルで、どの程度、新しい現象を予測できるか

にかかっている。それが双方ともにできていない。

 現象にモデルを合わすことはできるが、予測ができない。これが

 地球温暖化が欺瞞の政治神話、あるいは科学的な警告

の間でゆれている原因だろう。

 その理由は何だろう。

 それは、次回の

 北極圏の場合

の後に、詳しく紹介したい。

 が、結論を先に言えば、

 温暖化の物理現象において、原因と結果の因果関係は確かにあるのだが、それの間が互いに強くカップリングしているからだ。だから、ある原因はある結果を生むが、その結果がまた別の原因となるというふうな構造になっていて、つまり要素還元論的に原因と結果を明確に分離できない。したがって、モデル化しても、それは非線形のシミュレーションであり、温暖化現象は、いわゆる

 複雑系

を扱うことに相当する。だから、似たような原因であっても、意外な結果が出てきてもおかしくない。わかりやすい例でたとえれば、風が吹けば、桶屋が儲かる式の現象であり、

 思考を変動させれば、つまり、

 因果関係が明確に分離できないことに目をつければ、モデルを使った温暖化真実論は

 欺瞞であり、神話

となる。温暖化懐疑論である。

 一方、そもそも分離できない因果関係をあえて単純化した「好都合な」モデルを構築する科学者たちにとっては、

 温暖化は科学的な警告

と胸を張る。ただ、そこには、現象を記述するモデルは構築できても、単純化で現象の本質的なメカニズムが抜け落ち、決定的に大事な予測を確実な根拠を示してはできないという欠陥がある。それでも温暖化真実論者にとっては、懐疑論者というのは温暖化を「不都合な真実」として、政治的な立場から隠蔽しようとしているようにみえる。

 好都合な真実も、不都合な真実も、どちらでもつくりだすことができるというのが、温暖化現象の解明の難しさなのだ。

 ここで注意すべきは、この困難は、計算機の能力が向上すれば、こんな事態は改善されるだろうというのはまちがいであるという点だ。

 現象の予測は、本質的に不可能

なのだ。ここが非線形現象の複雑系と、普通の線形現象の根本的な相違なのだ。

 古典物理学の範疇なのだから、現象の決定性は当然あるが、それを人知ではあらかじめ知ることはできない。ましてや予測などできない

 ここが大事な点だ。

 ここに、複雑系の真実を追い、政治と科学のあり方を提示するに当たって、

 予見のできる科学ジャーナリズム構築の試金石

がある。

 つまり、疑わしきは予防するという原則

の確立だ。何が原因であるか、どんな結果が現れるか、わからない場合、重大な結果が出てくる可能性もある場合、予防する原則、つまり疑わしきは国民の利益になる行動をとる。このことは、本質的に重要になる。

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