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新聞小説「愛ふたたび」の地方紙による検閲 

(2013.01.29)  先日も、このブログで書いたことだが、地方紙などに連載中の「愛ふたたび」が作者の渡辺淳一さんに何のことわりもなく、多数の新聞で中止になっていたことがわかった。

 Image645 しかも、一社とか2社とかいうのではなく、連載していた19社のうち16社もが、しかも昨年12月9日で一斉に中止していたという。なかには、勝手に「終わり」としてしまったところもあるらしい。

 異常な事態だが、渡辺さんは「小説を検閲するとは」と怒りをぶちまけている(写真= 「週刊新潮」2013年1月31日号「あとの祭り」)。

 結論を言えば、渡辺さんの怒りは正当なものであり、言論機関であるはずの地方紙による「表現の自由」「言論の自由」の侵害に当たる。

 日本の憲法では、21条で

 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

 検閲は、これをしてはならない。

と規定されている。条文の前後の関係、あるいは前文の理念から、

 最大限に尊重されるべき基本的人権を侵さない限り、あるいは公共の福祉に反しない限り、さらには公序良俗に反しない限り

という前提があるのはもとより当然である。

 ただ、憲法が言う「検閲」とは、歴史的な経緯から主として公権力による検閲を想定している。しかし、社会的に有力な組織、たとえば政党や大企業、言論機関が、自らの不利益につながる報道や表現を抑える私的な検閲も広く含まれるといえよう。

 今回の〝事件〟は、この私的な検閲であり、それもあからさまな事後検閲に当たる。

 小説の内容は、読者によってはやや不愉快な部分があるかもしれないが、それは見解の相違であり、それもごくわずか。読んでみてもわかるが、いわゆる「わいせつ性」もない。わいせつ文書の販売を禁ずる刑法175条に違反するなどということもとうてい考えられないのであり、この前提を十分満たしている。

 中止理由は、公表されていない。各社いろいろだろうが、販売部数増につなげたいと思ったのに、一部読者からの苦情があり、これではかえって部数が減少しかねないという判断があったのではないか。

 さらに、突っ込んで言えば、この小説はインポテンツ(勃起不全)をテーマにしていて、皮肉な言い方をすれば、むしろ、ことさらに、あるいはもっぱら性欲を刺激するという『わいせつ性」がないことが、新聞社の気に入らなかった原因かもしれないとすら、思える。新聞社の期待が外れたのだ。

 しかし、一番問題なのは、つまり、この中止問題の核心は

 社説などで言論機関を標榜することをかかげている新聞社が、予想に反して気に食わないからといってそれも一斉に、ことわりもなく一方的に中止するという言論弾圧、おだやかに言えば「表現の自由」を踏みにじったという責任は重い

ということだろう。地方紙に籍を置いたこともあるブログ子としては、

 今回中止をした新聞社の一方的なやり方は、言論機関としては万死に値する蛮行

であるといいたい。編集権の乱用うんぬんの次元ではない。連載中のものを一方的に新聞社の都合で打ち切ることは、どういうものを紙面で取り上げるかという選択にかかわる編集権(ケースによっては、事前検閲にはあたるが)とは関係がない。

 その意味もあり、中止した新聞社名を、先の「あとの祭り」から再掲しておきたい。

 十勝毎日新聞、福井新聞、岐阜新聞、山陽新聞、山陰中央新報、日本海新聞、大阪日日新聞、山口新聞、徳島新聞、愛媛新聞、四国新聞、長崎新聞、大分合同新聞、宮崎日日新聞、琉球新報、デーリー東北

の16紙である。

 一部を除けば、編集上にしろ、経営上にしろ、何かとこれまで問題の多い新聞社がここに多く名を連ねていると思うのは、ブログ子の偏見だろうか。 

  注記

 注意すべきは、この「愛ふたたび」問題は、

 1970年代に起きた「四畳半襖の下張」裁判とは対極にある

という点である。この裁判は、作家の野坂昭如氏と出版社社長が起訴されたが、日本最初の、わいせつとは何か、表現の自由とは何かをめぐって争われた日本文学に関する文芸裁判である。

 これに対し、今回のは、わいせつ性がなかった、あるいはそれを期待したのに、なかったことに対する表現の自由をめぐる問題なのである。

 しかも、下張裁判では、表現の自由を抑えたがる公権力が関与した。これに対し、今回のは、公権力に対し言論の自由や表現の自由を標榜している地方新聞社が引き起こしたという特異性がある。

 下張裁判では、最高裁は1980年11月、被告人の上告を全会一致で棄却する決定をし、被告人はいずれも有罪(罰金刑)が確定している。

  一言で言えば、表現の自由を守ろうと日本ペンクラブの支援で争われたチャタレー裁判(最高裁の上告棄却で被告人伊藤整と出版社に罰金刑確定、1952年)を踏襲した決定といえるだろう。

 東京地裁で審理が行なわれた一審裁判の一部始終は

 丸谷才一編『四畳半襖の下張裁判・全記録』(朝日新聞社、1976)

に詳しい。

 この本によると、渡辺淳一氏が裁判にたとえば、証人として直接かかわった様子はないが、表現の自由とは何かを具体的に知るにはいい機会であり、一読することをすすめたい。

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