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海の上の雲 勝田銀次郎と篆刻アートの旅    - 北室南苑 「観」の時代を拓く

(2013.01.27)  作家、司馬遼太郎さんのライフワークともいうべき長編歴史小説に『坂の上の雲』というのがある。

 いまから100年以上も前に起きた日露戦争に明治政府や国民がどのように対処したか。それがテーマなのだが、幕府側だった松山藩(愛媛県松山市)出身の秋山真之、秋山好古兄弟、そして同じ松山出身の近代短歌の革命児、正岡子規を軸にした物語である。数年前、3年にわたるNHK特別ドラマにもなった。

 ● 明治という時代の明るさ

 このドラマは毎回冒頭、同じナレーション「まことに小さな国が、今、開花期を迎えようとしている」で始まる。このことからもわかるように、ドラマには

 明治という若い近代国家の正義、つまり、ロシアの南下膨張政策阻止と、門閥にとらわれない実力主義による人材登用という国民個人の正義

が同一視できた時代の明るさがあった。

 まことに幸せな時代といえるが、この国家の正義と個人の正義の一致を司馬さんは

 坂の上の雲

と表現したのだろう。政府も国民も同じ方向にまっすぐ上を向いて、いちだの雲に向かって前進する。それが明治という楽天的な明るさ、閉塞感や行き詰まりを打破していく変革期の明るさの原因であろう。

 ● 坂本龍馬の志を受け継ぐ人物

 篆刻アートの世界を金沢で探求し、約40年の旅を続けている私(北室南苑)だが、最近、もうひとり、彼ら主人公とほぼ同じ時代を歩んだ、これまた同じ愛媛県松山市出身の勝田銀次郎という人物がいることを知った。

 結論を先に言うと、この人物の志を司馬流に表現すれば、

 海の上の雲

ということになろうか。洋の東西という枠にとらわれず、水平線のかなたに浮かぶいちだの雲をみつづけてまっすぐに船を動かしつづけた生涯だったように思う。

 今も、勝田の残した掛け軸「書」が残っているが、それはまさに

 前を向いて、力強く歩いていく「坂の上の雲」

の確信に満ちた志そのままを表現したものだった。

  少し、この生涯を文学的に表現すれば、まっすぐ坂を上り詰めたところに浮かんでいた「坂の上の雲」。峠からその雲を眺めると、それはまた、かなたに見下ろせる海の上に輝く雲でもあったということになろうか。私がいだいた勝田のイメージは、ほぼこれに近い。

 Image596_2 勝田は、のちに神戸市長になる人物だが、松山中学を卒業し、ブラジル、満州に夢をいだいた。さしあたり新天地、北海道の開拓も目指したらしい。いかにも、門閥にとらわれない実力主義時代の到来を象徴するような人物である。

 その彼は日露戦争後10年ほどして、貨物船を使った貿易会社「勝田商会」(神戸市)を設立し、ロシアのウラジオストク、中国の天津との交易に力を注いでいる。

 世界と貿易することを終生の夢としていた幕末の坂本龍馬の志を受け継いだ人物といえば、そうもいえるかもしれない。龍馬の非業の死から6年後に勝田は生まれているから、そういってもあながち、的外れではあるまい。

 ● ロシア革命の荒波をこえて

 勝田の正義、あるいは志というものを

 海の上の雲

と私は書いたが、地上にいる私たちからは水平線の向こう側は、西洋、あるいはロシアであるという固定した観念が抜けない。文化も政治体制も違う。だから芸術のあり方も違うと思いがちだ。水平線のこちらは東洋、中国や日本であり、それは水平線の向こう側とは異なるというわけだ。

 しかし、水平線のかなたに浮かぶいちだの雲、勝田の志から見れば、そんな区別はない。上空から見ればそんな線などないからだ。一続きの海なのだ。

 そのことを勝田は、交易を通じて実感していたのであろう。坂の上の雲を、洋の東西のない、つまり海の上にぽっかりと浮かぶ雲に発展させたのが、勝田銀次郎である。日本の雲から、世界の雲に押し広げた。

 そのことをはっきり、行動力で示したのが、

 アメリカ赤十字社の依頼を引き受け、1920年、ロシア革命で首都サンクトペテルブルクからウラジオストクに逃げ延びてきた約800人のロシアの子どもたちを、自分が所有する貨物船「陽明丸」に乗せ、ウラジオストクを出航する

という出来事だった。室蘭から太平洋を横断、ニューヨークを経て、大西洋を横断。3か月の大航海の末、見事、サンクトペテルブルク近くのフィンランド領コイビスト港(現プリモルスク港)まで、子どもたちを送り届けるという快挙をやってのけた。

 当時、日本は革命に干渉するためシベリア出兵中という複雑な国際関係があったこと、多数の子どもたちを運ぶためには客船として改装する必要があり多額の改装費用がかかること、世界一周に近い大航海であることに加えて、第一次大戦直後とあって機雷接触の危険があったこと-などを考えると、陽明丸のオーナーとして、重大な責任と覚悟が要ったことは間違いない。

 一歩間違えれば、800人の命が失われるかもしれない。成功したとしても新たな国際問題になりかねなかった。それでも、

 海の上の雲

を見つめる勝田の心は揺るがず、やり遂げた。船長も偉かったが、指揮した勝田銀次郎の「海の上の雲」の志の高さと実行力は、生きていれば坂本龍馬も驚いたであろう。

 若き日の龍馬は、神戸で、近代操船技術を学び、いつの日か世界の海に羽ばたくことを夢見ていたから、

 勝田銀次郎は、明治の坂本龍馬

ではないかとさえ、思えてくる。

 この3か月にわたる航海については、当時、もうひとり、船長をつとめた茅原基治(岡山県笠岡市出身)という人物による

 手記『露西亜小児輸送記』(金光図書館、岡山県)

が刊行されている。この輸送記を読み解くことで、当時の勝田や茅原の心の軌跡を追ってみたいと私は思っている。きっと、明治という当時の変革期の明るさが見えてくるだろう。

 ● サンクトペテルブルクで篆刻アート展  

 というのも、私が、勝田銀次郎という人物に出会うきっかけとなったのは、この800人の子どもたちの故郷だったサンクトペテルブルクで、2009年秋に開いた

 篆刻アートの個展

であったからだ。この会場に

 運命の人、オルガ・モルキナ

という婦人が、陽明丸の船長、茅原(基治)を探し出してほしいという依頼をしてきた。800人の子どものなかに、モルキナさんの祖父か祖母も乗っていたらしい。彼女は、この出来事に遭遇した子どもたちのその後の運命を訪ね歩いた浩瀚な著作(ロシア語)を最近まとめていたから、依頼は具体的で、真剣だった。

 手がかりは、篆刻アートとはなんの関係もない。ただ、航海で陽明丸が立ち寄った室蘭港の「室」と、私の名前、北室の「室」が同じだから、あるいは知っているかもしれないという、ほとんど手がかりともいえないようなつながりで彼女は個展会場にやってきていた。

 そんな風だったから、当然、茅原という人については、私はまったく知らなかった。だが、私は、そこに、つまり、

 「MURO」という表音文字の国、ヨーロッパやロシアと、「室」という表意文字の漢字を結びつける何かがある

とは感じた。洋の東西をこえたものがそこにあるという書家としての直感である。天啓といえるかもしれない。

 この何かこそ、

 表意文字そのものを芸術の対象にする篆刻アートの核心、つまり真髄

ではないか。なによりも、この真髄があったからこそ、彼女は会場にやってこれた。

 漢字、ましてや篆書や篆刻とは、無縁の地、サンクトペテルブルクで個展をあえて開いた意味については、当時、私はまだ気づいていなかった。しかし、今では、これこそ、この40年、私が創作の現場で追い求めてきた篆刻アートの力ではないのか、と思うようになっている。表音を頼りにオルガさんを呼び寄せたのは、この漢字の力なのだと。

 こうして、「茅原(KAYAHARA)」を探し出す私の

 2年にわたる「室」の旅

が始まったのである。

 そして、ついに陽明丸のオーナーであり、大洋汽船の創業者、勝田銀次郎や、陽明丸の船長、茅原基治にたどり着くことができた。個展から2年後の2011年夏だった。

 その探索の旅の概要は、昨年2012年6月、

 「革命の荒波をこえて ロシアの子ども800人を救った日本人船長」(北陸朝日放送など、ANNのテレビ朝日系列)

と題した30分番組として全国にも放送された。 

 ● 独創性は「観自在」の辺境の地から  

 私は、書家として、独創性の原点となるものは、あるいは新しい時代を切り開く芸術というものは、異端とも思えるような見方、つまり

 観自在

であると信じ、この言葉を大切にしている。「観」はあえて、旧字(正字)にして篆書にしたため、この3文字を玄関に扁額にして、かかげている。

 往々にして独創性のある新しい芸術が中心地から遠く離れた辺境の地から起きるという歴史的な事実がある。観自在の精神が辺境の地にあるからだろう。なぜなら、辺境の地だから、芸術とはこうあるべきだという既成概念にとらわれる必要がないのだ。既得権益から自由というのも原因だろう。

 たいていの辞書からもわかるが、観自在とは

 なんの束縛も障害もなく思いのままに物事をみること

という意味である。

 しかし、今回の運命的ともいえる出会いとなった旅を通じて、私が気づいたのは、観自在ということのもっと深い本当の意味である。

 篆文では、「観」の正字の左側の編は、「毛角のある鳥の形」。したがって、正字の「観」とは、鳥占(とりうら)によって神意を察することをいう(「新潮日本語漢字辞典」)。

 だから、観自在とは、

 地上、世俗の枠組みにとらわれず、神意を察せよ

ということだろう。自在といっても、しゃにむに好き勝手に振舞うのではなく、大局的な鳥の目になって神意を感じる。これが、もともとの「観」なのだ。たった一文字にこんな意味がある。これこそ漢字の持つ力、表意文字の持つ力であり、中国4000年の文明が連綿と今日まで一つのまとまりとして続いてきた力の源泉であると私は気づいた。

 こう考えると、たった一文字「室(むろ)」という神意が、私をサンクトペテルブルクへの旅をさせたように思う。東だけでは気づかない。西だけでもわからない。しかし、勝田がいみじくも実証したように、それらは一つの水平線でみごとにつながっている。

 それを知っているのが

 海の上の雲

なのだ。司馬流の言い方ではそうだが、私流に言えば、海の上の雲とは、

 観自在

ということになる。

 既成の枠からは、当然だが、新しい芸術は生まれない。観自在に、それを破壊するところから芸術は生まれる。今の時代、これは大変に難しいことではあるが、これなくして、今の芸術の行き詰まりを打開することは難しい。

 既成の枠にとらわれた芸術を果たして芸術と言えるのかどうか。そんな疑問の一方で、既成観念の上でつくりあげるもっと楽な芸術でいいのではないか、いつも私は、その間で自問し続けてきた。

 おそらく、この同じ自問は、分野は異なるが、90年以上前、事業家としての勝田銀次郎も、茅原基治も感じたであろう。見返りはまったくなく、しかも引き受けることのリスクの大きさを考えれば、ことわることもできたはずだ。

 しかし、私が、観自在で、まったく未知のサンクトペテルブルクに導かれるように出かけたように、銀次郎たちも、また、

 当時の神意に導かれて、あえて困難が予想される未知の大航海

に出かけたのであろう。そこには「海の上の雲」という正義があざやかに輝いていた。観自在、神意を察することなくして、このような大航海を決断することはとうていできまい。

 今、神意と書いたが、繰り返すようだが、具体的に言えば、オルガさんが手がかりとした「室(むろ)」という

 漢字の持つ力

であり、篆刻、篆書という芸術の持つ力といっていい。

 勝田銀次郎や茅原基治にとっての神意とは、

 坂の上の雲、言い換えれば、洋の東西をこえた「海の上の雲」という正義

であろう。かつての明治、大正という時代には、洋の東西をこえた神意、正義が、ときとして人を動かしていたのである。そうした正義は、

 明治という変革期の「観自在」精神

なくして、生まれなかったであろう。また、こうした枠組みをこえる変革精神は、彼らが主流から離れた松山藩という辺境の地出身者であったからこそ出てきたことも忘れてはなるまい。

 ここに、銀次郎たちを語り継ぐ現代的な意義がある。変革が必要なときにこそ、観自在の精神が、海の上の雲という正義が必要なときなのだ。

 ● 銀次郎・基治を語り継ぐ現代的意義 

    - 閉塞の時代から「観」の時代へ

 ひるがえって21世紀現代の日本。

 多くの識者が語るように、東西冷戦は終結したとはいえ、この20年、失われた20年といわれるように、閉塞感が漂い続けている。一向に日差しは見えず、明治のような高揚感、明るさからは程遠い。

 一部識者、政治学者によると、東西冷戦終結で

 「文明の衝突」

が始まったとさえ、言われている。暗い世界文明観である。

 政治だけではなく、私は芸術の分野でも行き詰っていると思っている。

 東西文明の融合から生まれたかつてのシルクロード芸術の日本での輝きはどこへ行ってしまったのか。日本の浮世絵の大胆な構図がフランス印象派に与えた活気ある衝撃はどこへ行ってしまったのか。

 そんな思いで、観自在の気持ちとともに、サンクトペテルブルクを訪れた。私は、勝田銀次郎や茅原基治についてロシア、日本、そしてアメリカ、中国でその事跡を具体的に調査・検証・分析し、その成果を広く一般に語り継ぐことで、微力ながら

 この閉塞感を打ち破り、洋の東西を一体とする「観」の時代

を切り開きたいと思っている。これが、篆刻アートにかかわって40年、僭越かもしれないが、辺境の地、金沢で暮らす私の天命であると信じている。 

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コメント

差別と偏見は悲しいことにいつの時代にも存在してきた。人間の業とも言えるものか。

優越感と劣等感・・・その相克と軋轢・・。(≧∇≦)

投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2015年12月14日 (月) 20時23分

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