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2013年1月

新聞小説「愛ふたたび」の地方紙による検閲 

(2013.01.29)  先日も、このブログで書いたことだが、地方紙などに連載中の「愛ふたたび」が作者の渡辺淳一さんに何のことわりもなく、多数の新聞で中止になっていたことがわかった。

 Image645 しかも、一社とか2社とかいうのではなく、連載していた19社のうち16社もが、しかも昨年12月9日で一斉に中止していたという。なかには、勝手に「終わり」としてしまったところもあるらしい。

 異常な事態だが、渡辺さんは「小説を検閲するとは」と怒りをぶちまけている(写真= 「週刊新潮」2013年1月31日号「あとの祭り」)。

 結論を言えば、渡辺さんの怒りは正当なものであり、言論機関であるはずの地方紙による「表現の自由」「言論の自由」の侵害に当たる。

 日本の憲法では、21条で

 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

 検閲は、これをしてはならない。

と規定されている。条文の前後の関係、あるいは前文の理念から、

 最大限に尊重されるべき基本的人権を侵さない限り、あるいは公共の福祉に反しない限り、さらには公序良俗に反しない限り

という前提があるのはもとより当然である。

 ただ、憲法が言う「検閲」とは、歴史的な経緯から主として公権力による検閲を想定している。しかし、社会的に有力な組織、たとえば政党や大企業、言論機関が、自らの不利益につながる報道や表現を抑える私的な検閲も広く含まれるといえよう。

 今回の〝事件〟は、この私的な検閲であり、それもあからさまな事後検閲に当たる。

 小説の内容は、読者によってはやや不愉快な部分があるかもしれないが、それは見解の相違であり、それもごくわずか。読んでみてもわかるが、いわゆる「わいせつ性」もない。わいせつ文書の販売を禁ずる刑法175条に違反するなどということもとうてい考えられないのであり、この前提を十分満たしている。

 中止理由は、公表されていない。各社いろいろだろうが、販売部数増につなげたいと思ったのに、一部読者からの苦情があり、これではかえって部数が減少しかねないという判断があったのではないか。

 さらに、突っ込んで言えば、この小説はインポテンツ(勃起不全)をテーマにしていて、皮肉な言い方をすれば、むしろ、ことさらに、あるいはもっぱら性欲を刺激するという『わいせつ性」がないことが、新聞社の気に入らなかった原因かもしれないとすら、思える。新聞社の期待が外れたのだ。

 しかし、一番問題なのは、つまり、この中止問題の核心は

 社説などで言論機関を標榜することをかかげている新聞社が、予想に反して気に食わないからといってそれも一斉に、ことわりもなく一方的に中止するという言論弾圧、おだやかに言えば「表現の自由」を踏みにじったという責任は重い

ということだろう。地方紙に籍を置いたこともあるブログ子としては、

 今回中止をした新聞社の一方的なやり方は、言論機関としては万死に値する蛮行

であるといいたい。編集権の乱用うんぬんの次元ではない。連載中のものを一方的に新聞社の都合で打ち切ることは、どういうものを紙面で取り上げるかという選択にかかわる編集権(ケースによっては、事前検閲にはあたるが)とは関係がない。

 その意味もあり、中止した新聞社名を、先の「あとの祭り」から再掲しておきたい。

 十勝毎日新聞、福井新聞、岐阜新聞、山陽新聞、山陰中央新報、日本海新聞、大阪日日新聞、山口新聞、徳島新聞、愛媛新聞、四国新聞、長崎新聞、大分合同新聞、宮崎日日新聞、琉球新報、デーリー東北

の16紙である。

 一部を除けば、編集上にしろ、経営上にしろ、何かとこれまで問題の多い新聞社がここに多く名を連ねていると思うのは、ブログ子の偏見だろうか。 

  注記

 注意すべきは、この「愛ふたたび」問題は、

 1970年代に起きた「四畳半襖の下張」裁判とは対極にある

という点である。この裁判は、作家の野坂昭如氏と出版社社長が起訴されたが、日本最初の、わいせつとは何か、表現の自由とは何かをめぐって争われた日本文学に関する文芸裁判である。

 これに対し、今回のは、わいせつ性がなかった、あるいはそれを期待したのに、なかったことに対する表現の自由をめぐる問題なのである。

 しかも、下張裁判では、表現の自由を抑えたがる公権力が関与した。これに対し、今回のは、公権力に対し言論の自由や表現の自由を標榜している地方新聞社が引き起こしたという特異性がある。

 下張裁判では、最高裁は1980年11月、被告人の上告を全会一致で棄却する決定をし、被告人はいずれも有罪(罰金刑)が確定している。

  一言で言えば、表現の自由を守ろうと日本ペンクラブの支援で争われたチャタレー裁判(最高裁の上告棄却で被告人伊藤整と出版社に罰金刑確定、1952年)を踏襲した決定といえるだろう。

 東京地裁で審理が行なわれた一審裁判の一部始終は

 丸谷才一編『四畳半襖の下張裁判・全記録』(朝日新聞社、1976)

に詳しい。

 この本によると、渡辺淳一氏が裁判にたとえば、証人として直接かかわった様子はないが、表現の自由とは何かを具体的に知るにはいい機会であり、一読することをすすめたい。

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海の上の雲 勝田銀次郎と篆刻アートの旅    - 北室南苑 「観」の時代を拓く

(2013.01.27)  作家、司馬遼太郎さんのライフワークともいうべき長編歴史小説に『坂の上の雲』というのがある。

 いまから100年以上も前に起きた日露戦争に明治政府や国民がどのように対処したか。それがテーマなのだが、幕府側だった松山藩(愛媛県松山市)出身の秋山真之、秋山好古兄弟、そして同じ松山出身の近代短歌の革命児、正岡子規を軸にした物語である。数年前、3年にわたるNHK特別ドラマにもなった。

 ● 明治という時代の明るさ

 このドラマは毎回冒頭、同じナレーション「まことに小さな国が、今、開花期を迎えようとしている」で始まる。このことからもわかるように、ドラマには

 明治という若い近代国家の正義、つまり、ロシアの南下膨張政策阻止と、門閥にとらわれない実力主義による人材登用という国民個人の正義

が同一視できた時代の明るさがあった。

 まことに幸せな時代といえるが、この国家の正義と個人の正義の一致を司馬さんは

 坂の上の雲

と表現したのだろう。政府も国民も同じ方向にまっすぐ上を向いて、いちだの雲に向かって前進する。それが明治という楽天的な明るさ、閉塞感や行き詰まりを打破していく変革期の明るさの原因であろう。

 ● 坂本龍馬の志を受け継ぐ人物

 篆刻アートの世界を金沢で探求し、約40年の旅を続けている私(北室南苑)だが、最近、もうひとり、彼ら主人公とほぼ同じ時代を歩んだ、これまた同じ愛媛県松山市出身の勝田銀次郎という人物がいることを知った。

 結論を先に言うと、この人物の志を司馬流に表現すれば、

 海の上の雲

ということになろうか。洋の東西という枠にとらわれず、水平線のかなたに浮かぶいちだの雲をみつづけてまっすぐに船を動かしつづけた生涯だったように思う。

 今も、勝田の残した掛け軸「書」が残っているが、それはまさに

 前を向いて、力強く歩いていく「坂の上の雲」

の確信に満ちた志そのままを表現したものだった。

  少し、この生涯を文学的に表現すれば、まっすぐ坂を上り詰めたところに浮かんでいた「坂の上の雲」。峠からその雲を眺めると、それはまた、かなたに見下ろせる海の上に輝く雲でもあったということになろうか。私がいだいた勝田のイメージは、ほぼこれに近い。

 Image596_2 勝田は、のちに神戸市長になる人物だが、松山中学を卒業し、ブラジル、満州に夢をいだいた。さしあたり新天地、北海道の開拓も目指したらしい。いかにも、門閥にとらわれない実力主義時代の到来を象徴するような人物である。

 その彼は日露戦争後10年ほどして、貨物船を使った貿易会社「勝田商会」(神戸市)を設立し、ロシアのウラジオストク、中国の天津との交易に力を注いでいる。

 世界と貿易することを終生の夢としていた幕末の坂本龍馬の志を受け継いだ人物といえば、そうもいえるかもしれない。龍馬の非業の死から6年後に勝田は生まれているから、そういってもあながち、的外れではあるまい。

 ● ロシア革命の荒波をこえて

 勝田の正義、あるいは志というものを

 海の上の雲

と私は書いたが、地上にいる私たちからは水平線の向こう側は、西洋、あるいはロシアであるという固定した観念が抜けない。文化も政治体制も違う。だから芸術のあり方も違うと思いがちだ。水平線のこちらは東洋、中国や日本であり、それは水平線の向こう側とは異なるというわけだ。

 しかし、水平線のかなたに浮かぶいちだの雲、勝田の志から見れば、そんな区別はない。上空から見ればそんな線などないからだ。一続きの海なのだ。

 そのことを勝田は、交易を通じて実感していたのであろう。坂の上の雲を、洋の東西のない、つまり海の上にぽっかりと浮かぶ雲に発展させたのが、勝田銀次郎である。日本の雲から、世界の雲に押し広げた。

 そのことをはっきり、行動力で示したのが、

 アメリカ赤十字社の依頼を引き受け、1920年、ロシア革命で首都サンクトペテルブルクからウラジオストクに逃げ延びてきた約800人のロシアの子どもたちを、自分が所有する貨物船「陽明丸」に乗せ、ウラジオストクを出航する

という出来事だった。室蘭から太平洋を横断、ニューヨークを経て、大西洋を横断。3か月の大航海の末、見事、サンクトペテルブルク近くのフィンランド領コイビスト港(現プリモルスク港)まで、子どもたちを送り届けるという快挙をやってのけた。

 当時、日本は革命に干渉するためシベリア出兵中という複雑な国際関係があったこと、多数の子どもたちを運ぶためには客船として改装する必要があり多額の改装費用がかかること、世界一周に近い大航海であることに加えて、第一次大戦直後とあって機雷接触の危険があったこと-などを考えると、陽明丸のオーナーとして、重大な責任と覚悟が要ったことは間違いない。

 一歩間違えれば、800人の命が失われるかもしれない。成功したとしても新たな国際問題になりかねなかった。それでも、

 海の上の雲

を見つめる勝田の心は揺るがず、やり遂げた。船長も偉かったが、指揮した勝田銀次郎の「海の上の雲」の志の高さと実行力は、生きていれば坂本龍馬も驚いたであろう。

 若き日の龍馬は、神戸で、近代操船技術を学び、いつの日か世界の海に羽ばたくことを夢見ていたから、

 勝田銀次郎は、明治の坂本龍馬

ではないかとさえ、思えてくる。

 この3か月にわたる航海については、当時、もうひとり、船長をつとめた茅原基治(岡山県笠岡市出身)という人物による

 手記『露西亜小児輸送記』(金光図書館、岡山県)

が刊行されている。この輸送記を読み解くことで、当時の勝田や茅原の心の軌跡を追ってみたいと私は思っている。きっと、明治という当時の変革期の明るさが見えてくるだろう。

 ● サンクトペテルブルクで篆刻アート展  

 というのも、私が、勝田銀次郎という人物に出会うきっかけとなったのは、この800人の子どもたちの故郷だったサンクトペテルブルクで、2009年秋に開いた

 篆刻アートの個展

であったからだ。この会場に

 運命の人、オルガ・モルキナ

という婦人が、陽明丸の船長、茅原(基治)を探し出してほしいという依頼をしてきた。800人の子どものなかに、モルキナさんの祖父か祖母も乗っていたらしい。彼女は、この出来事に遭遇した子どもたちのその後の運命を訪ね歩いた浩瀚な著作(ロシア語)を最近まとめていたから、依頼は具体的で、真剣だった。

 手がかりは、篆刻アートとはなんの関係もない。ただ、航海で陽明丸が立ち寄った室蘭港の「室」と、私の名前、北室の「室」が同じだから、あるいは知っているかもしれないという、ほとんど手がかりともいえないようなつながりで彼女は個展会場にやってきていた。

 そんな風だったから、当然、茅原という人については、私はまったく知らなかった。だが、私は、そこに、つまり、

 「MURO」という表音文字の国、ヨーロッパやロシアと、「室」という表意文字の漢字を結びつける何かがある

とは感じた。洋の東西をこえたものがそこにあるという書家としての直感である。天啓といえるかもしれない。

 この何かこそ、

 表意文字そのものを芸術の対象にする篆刻アートの核心、つまり真髄

ではないか。なによりも、この真髄があったからこそ、彼女は会場にやってこれた。

 漢字、ましてや篆書や篆刻とは、無縁の地、サンクトペテルブルクで個展をあえて開いた意味については、当時、私はまだ気づいていなかった。しかし、今では、これこそ、この40年、私が創作の現場で追い求めてきた篆刻アートの力ではないのか、と思うようになっている。表音を頼りにオルガさんを呼び寄せたのは、この漢字の力なのだと。

 こうして、「茅原(KAYAHARA)」を探し出す私の

 2年にわたる「室」の旅

が始まったのである。

 そして、ついに陽明丸のオーナーであり、大洋汽船の創業者、勝田銀次郎や、陽明丸の船長、茅原基治にたどり着くことができた。個展から2年後の2011年夏だった。

 その探索の旅の概要は、昨年2012年6月、

 「革命の荒波をこえて ロシアの子ども800人を救った日本人船長」(北陸朝日放送など、ANNのテレビ朝日系列)

と題した30分番組として全国にも放送された。 

 ● 独創性は「観自在」の辺境の地から  

 私は、書家として、独創性の原点となるものは、あるいは新しい時代を切り開く芸術というものは、異端とも思えるような見方、つまり

 観自在

であると信じ、この言葉を大切にしている。「観」はあえて、旧字(正字)にして篆書にしたため、この3文字を玄関に扁額にして、かかげている。

 往々にして独創性のある新しい芸術が中心地から遠く離れた辺境の地から起きるという歴史的な事実がある。観自在の精神が辺境の地にあるからだろう。なぜなら、辺境の地だから、芸術とはこうあるべきだという既成概念にとらわれる必要がないのだ。既得権益から自由というのも原因だろう。

 たいていの辞書からもわかるが、観自在とは

 なんの束縛も障害もなく思いのままに物事をみること

という意味である。

 しかし、今回の運命的ともいえる出会いとなった旅を通じて、私が気づいたのは、観自在ということのもっと深い本当の意味である。

 篆文では、「観」の正字の左側の編は、「毛角のある鳥の形」。したがって、正字の「観」とは、鳥占(とりうら)によって神意を察することをいう(「新潮日本語漢字辞典」)。

 だから、観自在とは、

 地上、世俗の枠組みにとらわれず、神意を察せよ

ということだろう。自在といっても、しゃにむに好き勝手に振舞うのではなく、大局的な鳥の目になって神意を感じる。これが、もともとの「観」なのだ。たった一文字にこんな意味がある。これこそ漢字の持つ力、表意文字の持つ力であり、中国4000年の文明が連綿と今日まで一つのまとまりとして続いてきた力の源泉であると私は気づいた。

 こう考えると、たった一文字「室(むろ)」という神意が、私をサンクトペテルブルクへの旅をさせたように思う。東だけでは気づかない。西だけでもわからない。しかし、勝田がいみじくも実証したように、それらは一つの水平線でみごとにつながっている。

 それを知っているのが

 海の上の雲

なのだ。司馬流の言い方ではそうだが、私流に言えば、海の上の雲とは、

 観自在

ということになる。

 既成の枠からは、当然だが、新しい芸術は生まれない。観自在に、それを破壊するところから芸術は生まれる。今の時代、これは大変に難しいことではあるが、これなくして、今の芸術の行き詰まりを打開することは難しい。

 既成の枠にとらわれた芸術を果たして芸術と言えるのかどうか。そんな疑問の一方で、既成観念の上でつくりあげるもっと楽な芸術でいいのではないか、いつも私は、その間で自問し続けてきた。

 おそらく、この同じ自問は、分野は異なるが、90年以上前、事業家としての勝田銀次郎も、茅原基治も感じたであろう。見返りはまったくなく、しかも引き受けることのリスクの大きさを考えれば、ことわることもできたはずだ。

 しかし、私が、観自在で、まったく未知のサンクトペテルブルクに導かれるように出かけたように、銀次郎たちも、また、

 当時の神意に導かれて、あえて困難が予想される未知の大航海

に出かけたのであろう。そこには「海の上の雲」という正義があざやかに輝いていた。観自在、神意を察することなくして、このような大航海を決断することはとうていできまい。

 今、神意と書いたが、繰り返すようだが、具体的に言えば、オルガさんが手がかりとした「室(むろ)」という

 漢字の持つ力

であり、篆刻、篆書という芸術の持つ力といっていい。

 勝田銀次郎や茅原基治にとっての神意とは、

 坂の上の雲、言い換えれば、洋の東西をこえた「海の上の雲」という正義

であろう。かつての明治、大正という時代には、洋の東西をこえた神意、正義が、ときとして人を動かしていたのである。そうした正義は、

 明治という変革期の「観自在」精神

なくして、生まれなかったであろう。また、こうした枠組みをこえる変革精神は、彼らが主流から離れた松山藩という辺境の地出身者であったからこそ出てきたことも忘れてはなるまい。

 ここに、銀次郎たちを語り継ぐ現代的な意義がある。変革が必要なときにこそ、観自在の精神が、海の上の雲という正義が必要なときなのだ。

 ● 銀次郎・基治を語り継ぐ現代的意義 

    - 閉塞の時代から「観」の時代へ

 ひるがえって21世紀現代の日本。

 多くの識者が語るように、東西冷戦は終結したとはいえ、この20年、失われた20年といわれるように、閉塞感が漂い続けている。一向に日差しは見えず、明治のような高揚感、明るさからは程遠い。

 一部識者、政治学者によると、東西冷戦終結で

 「文明の衝突」

が始まったとさえ、言われている。暗い世界文明観である。

 政治だけではなく、私は芸術の分野でも行き詰っていると思っている。

 東西文明の融合から生まれたかつてのシルクロード芸術の日本での輝きはどこへ行ってしまったのか。日本の浮世絵の大胆な構図がフランス印象派に与えた活気ある衝撃はどこへ行ってしまったのか。

 そんな思いで、観自在の気持ちとともに、サンクトペテルブルクを訪れた。私は、勝田銀次郎や茅原基治についてロシア、日本、そしてアメリカ、中国でその事跡を具体的に調査・検証・分析し、その成果を広く一般に語り継ぐことで、微力ながら

 この閉塞感を打ち破り、洋の東西を一体とする「観」の時代

を切り開きたいと思っている。これが、篆刻アートにかかわって40年、僭越かもしれないが、辺境の地、金沢で暮らす私の天命であると信じている。 

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真剣勝負の「愛ふたたび」 金沢で考えたこと

Dsc0093320130119_2 (2013.01.22)  定年後の現在、ブログ子は、浜松に生活しているのだが、先日、ふと、懐かしさもあって20年間暮らした雪の金沢を訪れた( 写真 = 兼六園・唐崎の松 )。今も付き合いのある男友達、女友達との語らいを楽しんだ。

 雪明りの夜は、かつての仕事仲間と、行きつけの赤提灯やおでん屋で、ワイワイと話が弾んだ。

 「老いても、やっぱり恋だよねえ」

という話に落ち着いた。

 そんななか、昨年夏から全国の10以上の地方紙、あるいは夕刊紙「日刊ゲンダイ」で次々に始まった渡辺淳一さんの

 「愛ふたたび」

が話題になった。話題というのは、あろうことか、あまりに過激なので、作者にことわりもなく、新聞社のほうで連載中止、あるいは中断、あるいは、渡辺さんにことわりもなく「終わり」としてしまった社がいくつかあったらしい。

 『老人力』の著作でも知られる渡辺さんだから聞き流すかと思いきや、これには渡辺さんも怒った。連載依頼に対して過激ですよ、いいですねと、渡辺さんは念を押した。これに対し、結構です、思い切って書いてくださいと新聞社のほうでも、配信元を通じて了解したらしい(「週刊新潮」2013年1月24日号の渡辺氏の連載エッセー「あとの祭り」= 中断された新聞小説。注記)。

  それなのに、中断とはなんだと渡辺さんの怒りはおさまらない。

 無理もない。

 渡辺淳一、愛ふたたび。

 こうくれば、たいてい、そのストーリーは想像できる。読んでいないブログ子なども、このタイトルだと、例によって例の如く、不倫だろうと、思った。せいぜい、老いらくの恋。いつものことで、不倫先は京都への旅か、寒い札幌と相場が決まっている。

 しかし、今回は様子が違った。結論を先に言えば

 渡辺さん、人生最後、真剣勝負の新聞連載「愛ふたたび」

とブログ子は直感した。それを、いわば、知らぬまに中断させられた。

 真剣勝負だったことは、79歳になる渡辺さんが連載に当たって、昨年7月の「日刊ゲンダイ」に載せた「作者の言葉」からも、うかがえる。

 大事な点だから、短いので、全文を引用する。

 「私はこの連載で、日本人の固定観念を根底から覆したい。実に殺伐として詰まらない社会に一石を投じ、老いというものを前向きに捉え、多彩で豊かな人間関係を築くための、起爆剤にしてほしいと思っている。これまでにない、人生と性の深遠に鋭く迫る作品を目指します」

と、日本初のインポテンツ(性交不能、勃起不全)問題を真正面から取り上げる「愛ふたたび」の執筆動機を披瀝している。渡辺さん自身がどうやらインポテンツに悩んでいるらしいので、小説に迫真性があるのも当然だろう。

 Image619 そこで、ホテルに帰って、その日の、地元紙、北國新聞夕刊で「愛ふたたび」(第12部 京への旅(4) = 写真)を読んでみた。雅号「気楽堂」と名乗る70代前半の整形外科医(渡辺さんの分身らしい)が弁護士の愛人と京都の法金剛院を訪れる場面であり、どうということはない。純文学だ。

 数日前のストーリーでは、同級生同士の会で、話しづらいインポテンツについて、正直に話し合い、さまざまな気持ちを分かち合い、主人公は心地よい気持ちになるというもの。

 これなら、ブログ子も共感できる。まじめな、言ってみれば、小説だ。おそらく、インポテンツを乗越えた先に、

 本当の愛とは何かが見えてくる

ということを、自分の体験からにじみ出るような筆致で描き、渾身のライフワークとして完成させたい。そんな意欲が感じられる。性交を離れて、愛は成立するかという深遠な問いかけでもあろう。

 いかにも、

 老いても恋を

というのを終生の持論としている渡辺さんらしい。

 渡辺さんは、これまで、

 40代主人公の『失楽園』

 50代主人公の『愛の流刑地』

 60代主人公の『エアロール それがどうしたの』

と、自分の体験も織り交ぜ、自分の実年齢に重ねて、書いてきた。それの完結編が、今回の

 70代主人公の『愛ふたたび』

ではないか。おそらく、気力という点でも、最後の新聞連載だろう。テーマも医師だった渡辺さんらしいものであり、ほかの作家ではとうていリアルには描けまい。それだけに、渡辺文学の「愛」の集大成にしようと、力が入っていたと思う。ほかに類をみない恋愛小説の到達点を目指した社会派的な小説とも言えるような気がする。

 こう考えると、新聞連載を中止した地方紙のほうが悪い。渡辺さんに対する偏見あるいは誤解というよりも、渡辺文学の理解を間違えている。

 先の「作者の言葉」を待つまでもなく、渡辺さんは、79歳の体に鞭打って渾身の力で執筆していたのだと思う。

 「週刊新潮」連載エッセー「あとの祭り」で、渡辺さんは、かつて、読者に自分史を書くことをすすめていた。その渡辺さん自身、自分史を書いているかと問われて

 「書いていない。すべて小説として書いている」

と告白している。今回の〝事件〟で、これが 事実だと知った。 

 作家とは、なんと恐ろしい、因果な商売なのだと思った。

 注記 2013年1月27日

 「週刊新潮」1013年1月31日号の「あとの祭り 小説を検閲するとは)によると、

 連載が中止となっているのは、

 十勝毎日新聞、福井新聞、岐阜新聞、山陽新聞、山陰中央新報、日本海新聞、大阪日日新聞、山口新聞、徳島新聞、愛媛新聞、四国新聞、長崎新聞、大分合同新聞、宮崎日日新聞、琉球新報、デーリー東北

の16紙(これらは、なんと、2012年12月9日に、いっせいに、作者にことわりもなく掲載を中止したという)。これに対し、掲載を続けているのは

 日刊ゲンダイ、北國新聞、富山新聞

の3紙。見識だろう。検閲ではないかと、怒る渡辺氏は、しかるべきところに提訴も考えているらしい。提訴先として、裁判ではなく、「もし提訴するなら、日本ペンクラブがいいか、とも考えている」と「あとの祭り」連載のこの号で書いている。

 あとの祭りで終わらせたくないという決意のあらわれであろう。当然である。

 提訴となれば、

 平成の「わいせつ」裁判

という話題性があろう。

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低線量被曝は高レベルより安全か       細胞膜破壊するぺトカウ効果の脅威 

(2013.01.08) 科学・技術と社会をテーマとするこのブログのタイトルは、

 左側のない男

というようになっている。なぜこんなタイトルをつけたのか、ときどき友人に聞かれることがある。結論を先に言えば、

 世の中の常識を一度疑ってみよう。そうすれば、新しい考え方が生まれる

という意味がこのタイトルには込められている。

 ● 常識を疑ってみる

 Image540 このブログを書き始めた最初にも、書いたのだが、実際に、この世の中には左側のない男、あるいは女が医学的に存在する。この事実を、ブログ子は今から10年以上前に取材で知ったからだ。信じられない出来事だった。

 左目も右目も、普通の人と同じようにきちんと見える。眼球には少しも異常はない。しかし、その〝患者〟はこの世界に左側があるなどというようなことは、夢にも思わず、まったく認知できない。右側しか認知できない。

 具体的に言えば、たとえば患者の右側に鏡をおいて、左側に置いたリンゴを患者にみえるように鏡に映す。普通なら、左側を向いて、そのリンゴを取ろうとするだろう。しかし、その大人の患者は、右側に置かれた鏡に手を突っ込み、しきりに鏡の中のリンゴをとろうとあせっているのだ。どうしても、それが取れないのを不思議に思うというのだ。

 この患者には、この世界には、右側同様、左側もあるということがどうしても理解できない。つまり、眼球は両方とも正常なのだが、何らかの理由で、左側を認知する脳の機能がない。

 こういう人を患者というべきか、特殊な能力を持ったすぐれた人物と見るかは人それぞれであろう。唯一つ、言えることは、

 人は左側も右側も見えるのは当たり前という常識の通用しない世界がある

という事実だ。ここから、科学・技術と社会の関係を考える場合、常識を一度疑ってみるという発想がうまれた。科学というのは、まず疑うことから始まる。ものの考え方についても、科学同様、疑うことから

 新たな知の水平線

が開けてくるだろう。このブログのタイトルは、そんな願いから付けられた。

 ● 常識をくつがえすペトカウ効果 

 原発事故直後、放出された放射性物質の線量の低いことなどを念頭に、政府がよく使った

 「健康に、ただちには影響がない」

という言い方があった( 注記 )。一見、常識のように思える。しかし、この常識は、無条件には通用しない。これが通用するのは、遺伝情報の入っている細胞核の破壊の場合に限られる。それ以外の、たとえば細胞を守る細胞膜の破壊については、むしろ、低レベルであればあるほど、高レベルよりも、より効率よく破壊を進行させることができる。つまり、線量が少ないほど影響が大きくなる、いわゆる

 逆線量効果

というのがある。この結果、長時間にわたる低線量被曝の健康への深刻な影響が、いわゆる閾値以下であるというもっともらしい理由で、あるいは、細胞核への影響だけに限定されるなどで、過小評価されやすい。実際には細胞膜の破壊は、がん以外にもさまざまな慢性疾患、たとえば血管などの循環器疾患を引き起こす可能性が高い( 補遺 )。

 この効果は、カナダのA・ペトカウ博士が1972年に発見したもので、その実験結果を著名な医学雑誌に論文として発表した。

 細胞膜の破壊に関するペトカウ効果

がそれである(注記に参考文献)。この効果については、その後、複数の研究者により、実証されている。

 一例を挙げれば、トータルで約7mSvのX線量を、10時間かけてゆっくりと少しずつ照射すると、人の細胞膜が破壊される。これに対し、16Sv/時という高い線量の照射では、約2時間、つまりトータルで32Sv=32000mSvも照射しないと膜の破壊は起こらない。いかに活性酸素などのフリー・ラジカルが低線量で効率的に発生するかがわかるだろう。

 今では、照射実験だけではなく、こうした膜内に発生する活性酸素が、どういうメカニズムで膜を破壊するのかという理論の詳細もわかっている。

 このことから、細胞核の破壊と、細胞膜の破壊の話とをごちゃ混ぜにした

 「健康に、ただちには影響がない」( 補遺2 )

という常識は通用しない、誤りであることがわかるだろう。

  ● 原爆被ばく者「手帳」でさえ、積算で2mSv

  そもそも、低線量では、

 「健康に、ただちには影響はない」

という思い込みは、どこからくるのか。それは、広島・長崎の原爆であろう。

広島・長崎の被爆者同様、原発事故被災者に、無料の健康診断、医療費の無料化などを保障する

 「健康管理手帳」の交付

を国に求める動きが、民間組織の原子力情報資料室などを中心に昨年秋以来あるのもうなづける。

 しかし、その広島・長崎被害でさえ、トータルで浴びる線量は

 2mSvが限界

としていることを忘れてはなるまい。それ以上は高レベルでも危険としているのだ。

 厚生労働省の説明によると、「原爆放射線症」として認定され、原爆手帳が交付されるのは、

 広島の場合、爆心地から、おおむね約半径12キロ以内の被爆者

である。ごく短期間に浴びるその線量は、

 トータルで約2mSv (自然界からの被ばく、医療被曝は除く)

である( 文献= 星正治ほか 『新しい原爆線量評価体系DS02』)

 これ以上では、原爆症と認定するのもやむを得ないと、国ですらそう言わざるを得ない数字なのだ。

 疑わしきは、被災者の利益に

という1970年代の公害責任の原則を今こそ、思い起こすべきであり、チェルノブイリ事故のウクライナ政府警告を今こそ真摯に受け止めなければならない。

 

  ● 注記 事故直後、静岡県内の駿河湾にも

     -放射性ヨウ素131「雲」の拡散シミュレーション

 この件については、ヨウ素131の半減期がわずか7日と短いことから、これまでその実態がよくわかっていなかったが、2013年1月12日の

 NHKスペシャル「空白の初期被ばく/消えた放射性ヨウ素131」

が、参考になる。この番組では、放射線測定学が専門の岡野真治博士、気象研究者ら専門家チームは、

 事故で大気中に出た放射性ヨウ素の雲が、事故直後、どのように事故現場から風にのって拡散していったか

というシュミレーションが紹介されている。その結果のテレビ画面が右側の写真。

 Image573_2 放射性物質は、運命の3月15日に断トツに大量放出された。それがどのように拡散したか。事故現場周辺では、10万超ベクレル/立方メートル。それが南風に乗って、静岡県の駿河湾にまで、その日のうちに到達しているのがわかる。解析から、事故で大気中に放出された放射性ヨウ素は、トータルでおよそ20京ベクレル(京は、兆の1万倍)と推定されているらしい。

 放射性ヨウ素の量の程度を具体的に言えば、東京都世田谷区の産業技術総合研究所がとらえた測定データ(241ベクレル/立方メートル)と同程度の濃度の雲が来ていたことがわかる。これらの解析には、大津波でも助かったモニタリングポストがとらえたデータと、当時の風などの気象データをもとに再現された。

 問題は、この放射性ヨウ素「雲」、あるいはそこから出るガンマ線が、私たちの暮らす地上にどの程度やってきたかということである。雨も降らず、雲が上空を通り過ぎてくれれば、ほとんど問題はない。半減期をはるかにすぎてしまった今となっては、被曝を正確に算出することはなかなか難しいだろう。

 全貌は無理でも、一端ではあるが、事故当時の甲状腺被曝の初期の実態が分かるようになってきた。弘前大学などの研究者の素早い初期対応が功を奏した。

 それによると、

 事故現場から30キロほど離れた福島県浪江町では、

 放射性ヨウ素が出すガンマ線に対する体細胞反応が鈍い大人でも、トータル(積算)で30mSv前後

 強く反応する子どもでは、その倍、つまりトータルで60mSv前後

被曝した可能性があると、番組のなかで専門家は推定していた。

 がんとの因果関係を認めた国際的な基準では、50mSv前後で甲状腺がんのリスクが、普通の人に比べて高まることから、住民、特に子どもたちの健康被害が心配になる。健康管理手帳を浪江町が独自に発行するようになったのも、うなづける。 

● 補遺1、2 チェルノブイリはいま 

 ウクライナ政府は、チェルノブイリ事故から25年を記念して、2011年春、がん疾患以外の血管の病気なども含めた広範囲で、詳細な臨床医師らによる疫学調査の結果をまとめ、

 『未来のための安全 ウクライナ政府報告』(英文)

としてチェルノブイリ検証国際会議に提出している。IAEA(国際原子力機関)などの国際社会は、甲状腺がん以外では、放射線と慢性疾患との疫学的な因果関係を認めていない。調査データの質や量が学問的に十分ではない、あるいは比較対象の取り方など統計処理方法上に問題がある、不確かさがあるなどという理由である。

 しかし、チェルノブイリの数十キロ圏の地域(今も年間平均5mSv/年以上。ほとんどは立ち入り禁止区域だが、一部には人が暮らしている)では、ここで述べたペトカウ効果などにより、低線量被爆による深刻な健康被害が進行、あるいは広がっていることをうかがわせるに十分な報告書内容であるように思う。

 このことは、福島原発事故とも直結する話であることを忘れてはならない。

 その第一。

 先の数字、つまり調査対象にした地域の年間の5mSv/年というのは、毎時にして約1.0μSv/時である。そのほとんどは「立ち入り禁止区域」ではあるものの、この程度なら、福島の原発被災地でも、そう珍しくない数値である。年間許容量(約1.0mSv/年)の3.5倍にあたる比較的に高い

 0.8μSv/時

というところも、ある。

 事実、原発の安全性を問い直すために、2012年12月、福島を訪れた米NRC前委員長、G.ヤッコ氏が視察した地域は、まさに、この数値を示していた。

 ● 福島事故作業員の驚くべき被爆の実態

 その第二。

 ところが、なんと、2012年12月1日付朝日新聞1面によると、

 福島原発事故作業員のなかには、甲状腺での被ばく線量が

トータルで100mSv超が178人

もいるというのだ。東京電力が、本人にも知らせずに、WHOの要請で、非公開で報告していた。

 このうち2人は、なんと、10000mSv超

だったというから、深刻だ。

 当然だが、甲状腺がんなどの発症リスクは、普通の人の数倍にも高まることが予想される。さらに、がんだけでなく、低線量被ばくによる、細胞膜破壊のペトカウ効果、つまり血管などの慢性疾患も心配である。

  ● 注記 参考文献

 ペトカウ効果の解説については、

 肥田舜太郎・竹野内真理訳の

 『人間と環境への低レベル放射能の脅威』(あけび書房、2011年6月。原著はチェルノブイリ事故前の1985年)

  および

 A.ペトカウ博士の原著論文は

 Health Physics 第22巻 p239-244 (1972年)

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他紙社説を手玉に取った元日付「朝日」社説

(2013.01.06)  混迷の時代の年頭に、という元日付の朝日新聞社説を読んで、ついにやったかと、ブログ子はついつい笑ってしまった。主張にあたる主見出しは、

 「日本を考える」を考える

というもの( 写真 )。冒頭、

 新年、日本が向き合う課題は何か、日本はどんな道を選ぶべきか-。というのは、正月のテレビの討論番組や新聞社説でよく取り上げられるテーマだ。

 でも、正月のたびにそうやって議論しているけど、展望は開けてないよ。なんかピントずれていない ?

と、こんな調子で始まっている。さらに、今かかえる問題について

 「日本は」と国を主語にして考えて、答えが見つかるようなものなのか、と。

と鋭く問いかけている。

 ブログ子も長年、二つの地方新聞社で社説を書いていたから、お正月の社説執筆には、うんざりしていた。だから、この冒頭には見事一本取られたと笑ったというわけである。地方紙でも、日本は、という大上段に振りかぶった、ある意味気楽な書き方をしていたからだ。

 Image56410130101_2 元日付社説は、そもそも建前の社説のなかでも、極め付きの建前を述べるのだから、それで展望など開けるわけがない。こんなことは、年末にいやいや書かされた経験のある論説委員なら誰でも知っている。

 ところが、他紙の元日付大型社説のほとんどが、見事なほど手玉に取られていた。

 その典型が、「政治の安定で国力を取り戻せ」という超大型の読売新聞社説。

 出だしは、なんと

 日本は、国力を維持し、先進国の地位を守れるかどうかの岐路に立たされている。国力うんぬん

となっていて、いの一番冒頭から主語は「日本は」だった。これには、朝日新聞論説委員会の論説陣も笑ってしまったであろう。

 おまけに、結びも

 今年を日本が足元を固め、反転攻勢をかける年にしたい

となっていて、再び主語の「日本」が出てくる。このほかにも、「日本は」の主語がしばしば出てくる。これでは、朝日社説を引き立てるために、あるいは、こういう読売の社説はダメよという実例として、読売新聞社がわざわざ超大型社説を書いたということになる。完全に術中にはまってしまった。

 こうなると、せっかくの超大型社説を最後まで読む気がしなくなるのは避けられない。同社としては手痛い。

 こういう目で、ほかの元日付社説をみてみると、決して読売新聞社を笑えない。悲しいことに、読売と大同小異なのだ( 注記 )。

 ただ、わずかにブロック紙の中日新聞社説「人間中心主義を貫く」が、かろうじて独自性を発揮している。「です、ます」調なのもいい。日ごろから地方というものに目をこらし、そこに軸足を置いているからだろう。

 肝心のブログ子の地元紙、静岡新聞は、呼びかけ調の

 視界良好な社会築こう

と書いていたのは、好感される。しかし築くには、具体的に地元で何をすべきか、掘り下げた提案がほしかった。これが惜しまれる。

 たとえば。原発についても書かれているが、足元の浜岡原発にどう向き合うのか、中部電力を念頭に置いた「視界良好な」考え方を県民に提示してほしかった。主張に具体策がない。これでは、全国紙ならともかく、地元に責任を持つ新聞社としては、さびしい。地元をいとおしむ「愛しい」社説であってほしい。

 ひるがえって、では朝日社説は、それほどりっぱなことを元日付で述べているのかというと、そんなことはない。

 一言で言えば、国家が主権を独占する時代は終わりつつある。自治体など大小の共同体と分け持つ仕組みの時代が今、ゆっくりと、そして着実に訪れようとしている

というだけの話。この高まる自治拡大の声というのは、昔の言葉で言えば、

 「地方分権の時代」がやってきている

というだけの主張にすぎない。地方紙では、この20年、たいていこの種の主張を社説でこれまで何回も書いているはずだ。

 事実、ブログ子がいた地方新聞社なども

 地方は世論の本(もと)なり

という主旨の社説を何度も 書いていた。

  たいした主張でもないのに朝日社説が一人勝ちしたところに、今のマスコミ界の脆弱さ、危うさ、ひ弱さがあるといえば、いえる。

  注記

 たとえば、日経新聞1月1日付の社説は

 目標設定で「明るい明日」切り開こう

という主見出しの超建前社説。出だしは、なんと、

 日本の国の力がどんどん落ちている。

で始まる。「日本」で始まるのだから、「朝日」のおちょくりに見事にはまっている。最後も、ご丁寧に

 「日本国民よ、自身を持て」

で終わっているのだから、朝日新聞社論説委員会は、自嘲も手伝って笑いが止まらないだろう。日本の新聞社というのは、悲しいかな、この程度のレベルなのだ。

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南極の「もの食う人々」  料理人の視点 

(2013.01.05)  BS放送も含めて、テレビには、お手軽だからか、芸能人が食べ歩きする番組があふれている。が、これほど視聴者を小ばかにした低俗番組も珍しい。もちろん、ブログ子は、なんだか芸能人のセックスシーンを見せられているようで、気持ちが悪く、また恥ずかしくて、そんな番組は見ない。

 そんななか、かつて共同通信社の記者だった辺見庸氏が1990年代に連載した

 もの食う人々

というのは、ギョッとさせられる硬派の作品だった(後に、角川文庫)。この軟派版というのが、

 映画「南極料理人」(沖田修一監督)

であろう。料理人役の堺雅人、雪氷学者役の生瀬勝久が好演していた。

 南極という極地の「もの食う人々」というテーマで、しかも料理人の視点から、食うということの意味を軽妙なタッチで描いている。公開された2009年に一度見たのだが、先日、BS民放で、食をめぐる傑作映画祭というタイトルで放送していた。新潮文庫には原作エッセーもあるらしい。

 Image562 南極は、とかく学術的な視点から取り上げられることがほとんど。それを隊員をサポートする料理人の立場から、ユーモラスにしかも鋭く描いていた。

 舞台は、昭和基地(年平均気温マイナス10度)よりもはるかに寒い

 ドームふじ基地(年平均気温マイナス54度)

である。ここは昭和基地から東京と大阪ぐらいの距離を内陸に入った高地である。標高で言えば、昭和基地の約2000メートルに対し、ドームふじ基地はなんと、約3800メートル。富士山より高いのだ。

 しかも、南極の冬(つまり、日本の夏ごろ)は、一日中太陽は出てこない。一日中、暗闇。南極の夏(ということは、日本では冬)は、一日中太陽が沈まない。

 空気も地上の6割程度というから、高山病になるような環境だ。そんなところでの一年にわたる越冬生活は、とてもじゃないが、続かない。いくら研究熱心、物好きが行くところだとしても、ブログ子などは、気が狂う。それだけに食べることだけが、楽しみだというのもわかる。

 人間にとって食うということは、単なる栄養の摂食ではなく、精神的なバランスを保つための本源的な営みなのだ。そんなことを、映画はあらためて気づかせてくれる。野放図なチンドン屋のようなたらふく芸能人の食べ散らかし歩きとはまったく違う映画だった。

  ( 写真は、大学共同利用機関法人国立極地研究所のパンフレット「南極観測」から ) 

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「現代数学」を発見した武士 関孝和

(2013.01.04)  年末も押し迫った日曜日の夜、偶然だが、放送大学(BS放送)の

 江戸に咲いた和算の夢

というのを見た。Dsc00599 数学者、関孝和という人については、理系出身のブログ子も、おぼろげには知っていたが、この放送大学「ゆとりの時間」の専門科目特別講義は面白かった( 写真= 放送大学BS特別講義番組より )。

 関心した第一点は、どういうふうに和算を行なったか、関孝和が考案したその詳しい手順方法を

 四日市大学(三重県)の小川束教授が、実際にやって見せていたことだ。これには、びっくり、見事な解説だった。特別講義と銘打つだけはあると感心した。

 特に関孝和の主著の和算書で、代数方程式論とも言うべき

 『発微算法』(1674)

の解説は、面白かった。関孝和の新史料発見の話も具体的に紹介されており、ブログ子の不明をただしてくれたのもうれしい。

 第二点は、これがもっともブログ子がうなった点だが、孝和の科学史上の意義を明解に現代数学者がまとめていた点だ。四日市大学関孝和数学研究所の上野健爾所長(数学者)が、上記第一点を踏まえながら、

 孝和は、それまでのような個々の問題の解法にとどまらず、その背後にある数学的な一般的性質を考察している点を評価していた。

 具体的には、孝和以前は、今の小学校のツルカメ算や中学数学レベルだったのを、孝和は、高校レベル、大学レベルの現代数学にまで引き上げた。つまり導関数の考え方、判別式などの代数方程式論、行列式論、無限等比級数論にまで、一気に、それも幕臣の仕事のかたわら独力で確立したという。

 講義のタイトルは「江戸に咲いた和算の夢 数学者 関孝和物語」と、ややおだやかな表現になっていた。しかし、上野所長の評価、および番組を見た感想をズバリ、一言で、ブログ子の言葉で表現するとすれば、

 「現代数学」を発見した武士 関孝和

ということになろう。講義タイトルは、優れた鋭い内容にしては、少し工夫が足りないように感じた。

 それはともかく、関と同時代の17世紀後半に活躍した西欧の大数学者としては、微積分法を確立したG.ライプニッツやI.ニュートンが知られている。関は、彼らと少しも引けをとらない存在だったという気がした。

 関孝和といえば、円周率を詳しく算出した数学者うんぬんというイメージが日本人の教養として根強い。しかし、むしろ、日本人として初めて現代数学という高みを発見した男というのが正しい評価ではないか。しかも、その高みは、明治のような西欧の物まねからではなかった。日本人の独創性から生まれたものだった。

 日本人の独創性を具体的にみずから実践、実証してみせた。関孝和研究の第一の現代的な意義はここにある。言葉を変えれば、

 先の『発微算法』などは、関孝和からのわれわれ日本人への具体的な遺言であり、メッセージ

であるといえよう。

 このメッセージにこたえるには、関の独創性が、つまり、近世に咲いた和算の夢が、なぜ西欧のように明治の近代、現代へと受け継がれていかなかったのか。そこにどんな事情や限界があったのか。江戸時代について西欧との比較教育制度論的な考察も必要だ。関孝和=天才数学者論で片付けては、関も浮かばれないだろう。

 その考察から、今求められている独創性を育てる現代教育のあり方に大きな示唆を得ることができる、あるいは可能性がある。これが

 関孝和研究の第二の現代的な意義

だと特別講義を拝見して強く、そう思った。

 放送大学「学歌」で、小椋佳さんが、大意、

 いつでも学び直すことのできる場が身近にある。それ自体、最高のぜいたくのひとつ

と歌っている。これに実感を持った歳末だった。

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思いがけないほどグロテスクな映画、ホビット

(2013.01.03)  こういうのを

 グロテスクな映画

というのだろう。新明解国語辞典には、グロテスクの意味として

 普通の意味での美とはひどくかけ離れていて、長く見ているのがいやな(見ていて気持ちが悪くなるような)様子だ。グロ。

とある。

 世界公開間もない3D映画「ホビット 思いがけない冒険」(ピーター・ジャクソン監督)は特殊なメガネをかけて楽しむ3D映画だということで、正月に見た。

 しかし、ブログ子などは、上映時間の半分、1時間半をすぎて、耐えられなくなり、観客席を離れた。文字通りのグロ映画だった。

 巨大竜に奪われ、支配されてしまった「はなれ山」を奪還するファンタジー物語というので、面白そうだと思った。だが、思いがけないグロテスクさに耐えられなくなったというわけだ。なにしろ、前半1時間半の間には、女性は一人も出てこないのだ。グロ、グロナンセンス映画だった。

 出てくるのは、観客の代理をつとめる主人公役のバギンズと、魔法使いのような男が率いる

 13人のドワーフ(「どアホ」ではない。言い得て妙ではあるが、念のため)たち

なのだ。原作は1937年に発表された小説『ホビットの冒険』らしい。

 この映画の宣伝あおり文句は

 君はホビットを見たか !

   「ロード・オブ・ザ・リング」はこの物語から始まった 大ヒット上映中

 旅の仲間になろう !

というのだが、仲間など、j真っ平、御免というのが正直な感想だった。

 こんな映画を正月に、しかも3時間も〝楽しむ〟人の気が知れない、ましてや、ほめるなどというのは、常識外れを通り越して、新鮮な驚きすら感じた。

 「あっという間の3時間」「キャラクターの宝庫」「CGがすごい」「すごいけど、思いもかけず上映時間が長い」

 確かにCGはすごいが、それとても、3年前のあの3D映画「アバター」に比べたら、大したものではない。もはや平凡ですらある。

 こうしたさなか、さすがイギリスのBBC放送「News」である。ちゃんと、この映画には賛否両論が映画批評家の間にはあることを伝えている。3人に1人ぐらいは、批判的らしい。

 ほとんどの映画評論家の批評というのは、そのほとんどは「ヨイショ」だという常識を考えれば、この数字は異常に高い批判率だ。それほど、ひどい映画だということになろう。

 日本の映画評論家も、幼稚な「ヨイショ」ばかりしないで、もう少しきちんとした批評をすべきだ。配給会社の〝男妾〟でないことを示す絶好の機会だろう。

 正月に、

 思いがけないグログロ映画

を見せられた夜、ふと初夢で思った。この映画って、映倫の「18禁」ならぬ

 「100禁」

ではないかと。そう言ったら、きっと100歳以上の人たちは、バカにするな、俺たちにも見せてくれるなというだろうか。そうなら、御免。

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宇宙論と神 遊びをせんとや生まれけむ    - スタートさせたいライフワーク

(2013.01.01 元旦)  新潮社の広報雑誌「波」(2012年12月号)の表紙を見て、思わず 、うなった。そのど真ん中に、50代半ばの小説家、奥田英朗さんの筆跡で、

 そろそろ遊んで暮らしたいなあ

と書かれている。

 Image555 シニア世代に入ったブログ子も日ごろ、そう思っていたのだが、表紙の写真は、その奥田さんが執筆の合間にくつろぐ自宅のリビングルーム。都内のマンションの一室をご自分の好みに合わせて改装したらしい( 写真 )。

 思わず、いいなあ、とため息をついてしまった。うらやましい。

 ブログ子も、こんなにりっぱなものではないが、湖のほとりの高台にある自宅の仕事場を

 「佐鳴台 方丈庵」

と勝手に名づけて、このブログなどを書いている。

 湖の向こう岸に林立するメタセコイアなど、四季の移り変わりが眺められて、とても心が落ち着く。まるで、東山魁夷の風景画を見ているようなのだ。窓からは、沈みゆく夕日も眺められるのがうれしい。生きながら、西方浄土を体験している気分だ。そのせいか、現役時代のうつ病が、ウソのように治った。これが、都会にはない、田舎暮らしのいいところなのだろう。

 そろそろ遊んで暮らしたい

というのを、別の角度から取り組んだような新連載が、集英社の読書情報誌「青春と読書」(2013年1月号)で始まった。

 ブログ子の敬愛する高名な宇宙論学者、池内了さんの

 宇宙論と神

である( 注記 )。池内さんは、ブログ子より、少しだけ年上の世代。第一回は、

 宇宙における神の存在

だった。歴とした物理学者がこんな問題を取り上げるのだから、よほどの自信と遊び心がなければできない。

 このブログでも、

 ボジョレー・ヌーボーと現代宇宙論(2012年11月17日付)

 〝神の一撃〟以前 「無」の前の痕跡に迫る観測的宇宙論(2012年8月24日付)

などを取り上げた。

 池内さんは、第一回のなかで、

 科学が神を必要とする理由

について、論じている。

 科学の真理を一心不乱に突き詰めていって、ある美しい結果が出たとする。なぜ、そんな美しい結果になる必要があったのか。それは科学では説明できない。

  たとえば、この宇宙になぜ人間が登場しなければならなかったのか。科学ではその解答は得られない。そこで神に登場を願うというわけだ。

 神は自分の創った宇宙の美しさを誰かに知ってもらいたかったからだ、という風に。

 つまり、このように、科学が神を必要とするのは

 至高の神であれ、便宜的な神であれ、恣意的に使えるからこそ神の使用価値がある

からだとなる。逆に言えば、

 人間が創り出している宇宙論が神の居場所を保証してくれてもいる

となる。

 だから、

 科学者は一番神を意識している存在なのかもしれない

となる。だから、

 科学(者)は神を否定していない

ということになる。

 こういう科学の側からの神の考え方には、当然ながら神の立場に立つ宗教学者、あるいは宗教者からの異論もありそうだ。これからの展開が楽しみである。まだ第一回を読んだだけだが、ひょっとすると、池内さんの著作の代表作になるような気がする。

  というのは、池内さんは2007年6月3日付日経新聞の「半歩遅れの読書術」欄に、三年後には私も定年を迎えると前置きして、定年後の読み書きについて、

 新境地を拓きたい

と書いているからだ。「新しい博物学」を提案しているのだから、文学や歴史と科学をうまく接合したものにしたいものだとも述べている。そんな例として、日本人の「数」とのかかわりを時代背景とともに考察した数の博物誌ともいうべき『「数」の日本史』(伊達宗行)を例として挙げている。その上で、最後に、私(池内)も定年後にはこんな本を書きたいと結んでいる。

 それが、この

 新連載「宇宙論と神」

のような気がする。いかにも宇宙物理学者らしい博物誌になるかもしれない。

 ブログ子も、しばらくは付き合っていきたいと思う。

 そのなかで、私もライフワークを早く見つけたい。

 それは、ともかく、池内さんも述べていることだが、『梁塵秘抄』に

 遊びをせんとや生まれけむ 

 戯れせんとや生まれけむ

というではないか。 

  心を解き放った遊びや戯れから、深い思索や思わぬ成果も生まれる。

 新しい年が明けたが、奥田さんの言うように、そろそろ遊んで、戯れて暮らしたいと思う。そこからライフワークが出来上がったら、言うことはない。そんな初夢を見たい元日である。

 注記

 宇宙とは、中国の古典『淮南子』に出てくる

 四方上下、これを「宇」という

 往古来今、これを「宙」という

に由来する、つまり、宇宙とはすべての空間と、すべての時間を指すことになる。なんとも見事な定義ではないか。 

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