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2012年12月

経済学は科学か、それともただのお話か

(2012.12.29)   安倍第二次内閣が先日発足し、大型の経済対策が打ち出されつつある。来年度予算と一体化させた「15か月予算」という言葉も聞かれる。切れ目のない対策という意味だろう。

 ところが、これほど経済問題が焦眉の急なのに、経済学者の登板の機会はそれほど多くはない。 関与があるとしても、お飾り程度で、主導するというようなことはまずない。

 そんな折り、講談社の読書人の雑誌『本』11月号を見ていたら、その理由がわかった。 

 経済学への「愛」と「がっかり」

という、数学者でもある異色の経済学者、小島寛之さん(帝京大教授)が書いた一文である。この中で、

 「経済学の現実説明力はがっかりするほど乏しいと実感するようになった」

とある。現実解析の科学であるはずなのに、

 「現状の経済学では、不況や格差などの社会問題を解決することは到底不可能だと失望」

してしまったとまで書いているのには、びっくりした。 これでは、政府が経済対策で、経済学者の手を借りようとは思うまい。

 数学とのかかわりでも、今の経済学は、既存の数学を安易にあてはめることで、真実性を失い、荒唐無稽化してしまっているとばっさり。

 ● 今の経済学は経験則の学問

 経済学は、数学の有力な、そして有用な応用分野であると、ブログ子などは思っていた。しかし、そこから得られる結論には、社会的な真実性が抜け落ち、荒唐無稽化しているという。 これをはっきり言えば、

 今の経済学は、実証性のない、ただの金儲けのお話

ということに帰着する。床屋談義と変わらない。とても実証性、再現性が求められる科学の範疇には、経済学は入らないというわけだ。地震予知の現状と同様、数学的な装いはほどこされてはいるものの、しっかりした土台はなく、せいぜいが経験則をよりどころとしたあやしげな学問ということになろうか。

 Image554 経済学には、一物一価という経験法則があるが、これとて実証されたものではない。現実ともずいぶん異なる。株価の変動や為替変動といった経済現象には正規分布が経験則として取り入れられているが、これもまた証明されたものではない。いわば仮定である。また現実にもそうではなく、冪(べき)分布らしいことも、最近わかってきた。

 こういう目で経済学を見渡してみると、経済学の基礎には、なにひとつ、物理学のような揺るぎのない土台が存在しないことに気づく。

 こうした経済学に対する「がっかり」感に対して、経済分野を物理学の有力な、そして有用な応用先としているのが

 経済物理学( 写真 )

である。今世紀に入って目覚しい進展を見せている。

  従来の経済分野に単に数学を持ち込むのではなく、数学に加えて実証ずみの物理法則をも同時に持ち込む。そのことで現実解析の科学にする。たとえば、物理現象として分析の過程で

 相転移現象、カオス現象、フラクタル現象

といった物理学の概念を適用し、これまでの経済学がなしえなかった予測性を生み出すなど、大きな成果を上げている。

 現在の経済学では、ミクロ経済学とマクロ経済学は別物である。このことを経済学者は当然のように受け取っているように見える。が、よく考えてみると、木に竹をついだようで、一貫性がなく、おかしい。

 これに対し、経済物理学では、ミクロの経済現象と、それらを足し合わせた結果であるマクロ経済の現象とは、きちんとつながっている。

 それというのも、あたかも、統計物理学が、ミクロな物理現象と、私たちの日常の物理現象とをみごとにつないで、統一的に記述できるのと、同じである。つまり、ミクロな現象の物理量から、マクロな物理量を導出できるのだ。

 ブログ子は、大学時代、久保亮五東大教授のあの分厚い名著『大学演習 熱学・統計物理学』に取り組み、そうした導出が見事にできることを知り、感激した懐かしい思い出がある。

 ● 株価暴落を予測する経済物理学

 ミクロとマクロをつなぐことが、経済分野でもできるようになったのは、大量の、それも時々刻々変化する膨大なデータが入手できるようになったかららしい。

 たとえば、株価暴落をある程度予測できるようになってきている。具体的には、

 「株価暴落前後特殊な揺らぎ」

として、2006年2月16日付富山新聞「経済情報BOX」欄=共同通信社配信にこんな記事が掲載された。

 「1987年のブラックマンデーで株価が暴落した前後に、株価指数に「臨界揺らぎ」と呼ばれる特殊なパターンが出現していたことを東京大の清野健研究員や山本義春教授らが15日までに見つけた。

 臨界揺らぎは、大きな揺らぎ、小さな揺らぎが同じ確率で起きている特殊な状態で、その発生の有無は株価データを解析すればリアルタイムで検知できる。現状では暴落の時期や規模は予測できないものの、株式市場が暴落につながる〝危険水域〟に入ったことを探知するのに使える可能性がある。」

 写真の

 『経済物理学の発見』(光文社新書、高安秀樹、2004年)

には、市場の臨界的な性質について章立てし、

 くみこみでインフレの方程式を導く

という大変に興味ある記述もある。市場原理の予測性という問題にも触れている。最後には、経済物理学からの政策提言として年金問題などが取り上げられている。

 こうなってくると、経済物理学は予測のできる、そして実証性のあるりっぱな科学ということになる。たんなる経験則ではない。さらには、将来、

 デフレの克服や不況の回避

という喫緊の切実な問題に対しても、物理学の知識を駆使した経済物理学は役立つような気がしてくる。ということは、いずれ

 経済政策の立案に、経済物理学という応用物理学は、有効

と考えたくなる。これまでの理論経済学や数理経済学では、到底なしえなかったことが、経済物理学という応用物理学ならできる。つまり経済分析の有用なツールになる。

 ● 破局を防止する経済物理学を

 ただ、有用なツールにするには、留意すべきことがある。

 優秀な数学者を動員してつくりあげた金融工学という学問分野が、リーマンショック(2008年9月)を引き起こしたという点だ。金融工学にも不十分ながら、物理現象の相転移現象の考え方が組み込まれていた。

 金融工学のからくりを簡単に言えば、消えるはずのないリスクを〝飛ばし〟見えなくし、あたかもリスクが存在しないかのように金融関係者を欺く数学的なマジックである。それが金融工学が生んだ金融派生商品の正体だった。

 この商品はアメリカ社会に、もっと、もっとのギャンブルまがいの

 強欲資本主義

を生み出し、強欲を歯止めなく世界全体に拡げた。その結果、制御が不可能なまでにリスクが膨れ上がり、ついに、ないはずのリスクが一気に弾け、世界中にリスク破局の連鎖をまきちらした。

 経済物理学が威力を発揮するのは、金融危機などの破局を招かない理論づくりではないか。金儲けの金融工学には、そもそもこれがなかった、というか、もともとできなかった。

 先ほどの新聞記事もそうだが、株価暴落、金融危機など破局の防止に経済物理学の成果をどう生かすか。これは喫緊の課題だ。確たる基礎が確立していない今の経験則の経済学では、こうした破局の予測はもとより、破局回避のためのリスク制御は到底不可能のようにみえる。

 一言で言えば、経済物理学の目的は金儲けではない。最終的には資本主義のがんとも言われる株価暴落などの破局の予測とその回避、破局に至る過程のリスク制御理論の構築だろう。

 こうした現実解析の科学として今の経済学を鍛え直す、あるいは革新する。ここに経済物理学を研究する意義があろう。

 金儲けなら、従来の「役立たず」の経済学で十分だ。なにも物理学が、そんなことにわざわざ手を貸す必要はない。

  ● 補遺 現実解析の経済学と、価値が伴う経済思想との関連について

 ただ、注意すべきは、現実解析の科学としての経済学を鍛え直す、あるいは革新すると言っても、そこには一定の限界があることだ。

 というのは、現実解析の経済学は、自然科学とは違って、その土台には、こうあるべきだという経済思想、つまり価値判断が紛れ込んでおり、いくら数学や物理学といった論理性で導き出した結論のつもりでも、一義的に決まらないことが多々ある。

 経済学には、物理学と違って、何を重視するかによって、たとえば重商主義なのか、重農主義なのかによって何々学派というのがあるのは、この理由による。

 とすると、たとえば、消費者は経済合理性に従って行動するという公理から、数学や物理学を駆使して導き出した結論、つまり命題を、社会で起こっている経済的な事実と照らし合わせて検証したとする。別の学派は、また別の経済思想が紛れ込んだ公理をもとに演繹し、結論、つまり命題を導き出し、事実と突き合わせて検証したとする。

 ところが、出発点の公理にそれぞれの学派の価値判断がまぎれこんでいるのだから、つまり物理学のように共通の公理にもとづく基礎方程式がないのだから、事実に照らし合わせて検証しても、いずれの学派も正しいという結果になることもあり得る。どの学派の経済分析が正しいというように一義的な検証はできないということになる。

 この一義的な検証不可能性は、物理学や数学の問題ではない。倫理観も含む経済思想という「べき」論に原因がある。つまるところ、論理性や解析力の問題ではなく、その前提となる倫理的な選択の問題。したがって、経済物理学と言えども、そこに一定の限界がある。

  ● 公理から経済思想という価値観を峻別できないか

 こうなってくると、公理と、そこに知らず知らずに紛れ込んでくる経済思想の価値観とを峻別できないかという問題が出てくる。結論を先に言えば、できないということになろう。

 その理由をわかりやすく言えば、ニュースという一見客観的な事実を取り上げているようでも、そこには記者のなにを取り上げるかという主観的な取捨選択が働いている。客観報道が意外にも幻想であるのと同様、客観的な経済事実などというのも、実は意外なことだが、幻想なのだ。

 事実、かつて、J.シュンペーターは、峻別できる確信し、その大著『経済分析の歴史』に取り組んだが、ついにこの晩年の大著をもってしても、その峻別がいかに難しいかを思い知るはめになる。

 また、経済学に数学を持ち込み、独自の見解を展開した新古典学派のA.マーシャルも、

 Cool Head But Warm Heart

ととなえ、

 冷静な事実分析とともに、しかし、人間らしい価値判断を持て

と訴えた。が、その間を峻別することはきわめて困難なことは、新古典学派の流れをくむ今の新自由主義者の多くも認めている。

 価値判断が大きく影響する

 貧困と失業問題

を経済学が、いまだにまともに、どこからの異論もなく自然科学のように、きちんと解答できていないことは、なによりも雄弁に、峻別不可能性を証拠立てている。 

 ● 「経済思想」物理学が要る ?

 そもそも「経済」という言葉は、経世済民、つまり世を経(おさ)め、民を済(すく)う、という意味に由来する。したがって、経済学というのは、どういう価値判断で、おさめすくうのかという点で、政治学であり、経済学であり、倫理学・哲学であり、それらを総合した実践学である。そこには、いくら分析が科学的になったとしても、科学では決して扱わない価値判断が伴う。

 だから、いくら経済物理学が優れているとは言っても、そこには、経済学ほどではないにしても、やはり、役立つ実践学であろうとすると、価値観の選択が伴う。

 ということは、

 経済物理学は科学か、実証性の乏しいただのお話か

という悩ましい問題からは依然として逃れなれない。

 夢想だが、これを解決するには、つまり経済物理学を完全な科学の範疇にするためには、

 経済思想物理学が要る !  

 経済物理学の永遠のテーマだろう。

 補遺

 経世済民として、つまり実学として経済学がいかに、役に立たないかは、物価の番人として金融政策の当事者であるはずの日銀の政策を見てもわかる。

 この15年、デフレ脱却政策に向けた政策決定で、手を代え、品を代え、あるいは総裁を何人代えても、そこから一向に抜け出せない。しかも、その原因すらいまだに解明できていない。このことをみれば、

 経済学は実際の役には立たない

というのは明白だろう。予見性も回避性も効果的に、あるいは定性的にも示せないというのでは、経済学は科学ではない。ただの与太話といわれても仕方あるまい。

 ● 余談 ケインズか、ハイエクか

 今風に言えば、

 「大きな政府」という経済思想のJ.M.ケインズか、はたまた

 「小さな政府」のF.A.ハイエクか

という問題も、つまるところ、時代精神を反映した経済思想という価値観も問題であり、またそれぞれの歩んだ人生の環境の違いもあり、論理だけで決着するものではないことがわかる。

 言い換えれば、

 失業対策では公共投資すべきとする経済社会主義のケインズか、それは「隷従への道」として排斥すべきとする自由市場主義のハイエクか

ということになる。この世紀の経済論争は、結局、今もって決着していないのも、むべなるかなである。

 というのも、東西冷戦が社会主義の崩壊で終結し、一見、ハイエクが論争に勝利したかにみえる。しかし、2008年のリーマン・ショックという〝暴走する〟強欲資本主義という形で自由市場主義も敗北する。ハイエクもまた論争の最終的な勝者ではなかったことをこのショックは示した。

 その結果、アダム・スミスの市場の自由放任主義という経済思想がますます万能のように、今もってばっこしている。200年以上たった今も、この「神の見えざる手」を公理とする経済学(古典学派)をこえる経済学派は、実践学としては存在しないように思う。

 ● 余談 『貧乏物語』の河上肇か、『厚生経済』の福田徳三か

 同様に、日本でも経済思想という価値観の伴う経済論争が、関東大震災前後に起きている。

 主著『貧乏物語』の河上肇(京大教授)と、主著『厚生経済研究』の福田徳三(一橋大教授)の間の

 貧困をめぐる論争

である。かたや河上は、貧困は本人の怠惰というような個人的な要因などではなく、貧困の装置化ともいうべき自由市場の景気循環、つまり社会的な要因が原因と主張。今で言う

 ワーキング・プア

を直視した。かたや福田は、個人主義を標榜し、怠惰は処罰すべきと主張する。利他主義の河上、個人主義とも言うべき利己主義の福田ということもできそうだ。

 この論争は、関東大震災を契機に、学問論争から、とるべき具体的な経済政策、あるいは失業労働者の生存権をめぐる論争にまで及び、激越を極めたらしい。

 その行き着くところは、河上の革命による経済改革、福田の現体制内で経済改革というイデオロギー色の強いものになっていった。

 ただ、ともにクリスチャンであったせいか、あるいは当たり前の思想であったせいか、二人の間には、世をおさめ民をすくうには

 人間中心主義の経済であるべきだ

という点では共通している。大震災から立ち直るには、まず、

 人間を復興する経済学であるべきだ

という倫理的な点では差がなかったのである。

 違いは、河上のように経済社会主義で現状を根本から立て直すのか、それとも福田のように、弱肉強食のような人間性をまるで否定するような野放しを規制することで労働者の生存権を保障し、現状の自由市場主義を押し広げ、立て直すのかという点であった。

 福田のこの考え方は、戦後、憲法25条の「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」との努力目標としての生存権の確立に結実する。

 福田は、そのための土台として、経済効率と所得分配を考慮した

 『厚生経済研究』(全3巻)

という浩瀚な主著を晩年にまとめている。今で言うと、競争と共生を両立させる

 「共生経済」

ともいうべき著作。

  一言、コメントすると、世をおさめ民を救う経済は、人間復興でなければならないという経済思想から出てくるということ。これを今の問題で言うと、

 東北大震災からまもなく2年、いまだに32万人もの人々が仮設住宅に〝放置〟されている現状は、とても経済の名に値しないということになろう。生活再建、住宅再建の経済、復興財源をもっと人へ。これが人間復興の経済なのだ。

 「コンクリートから人へ」というスローガンだけで、すまない問題だ。

 ●  参考文献

 以上の経済学のひどい状況に対して、経済思想家はどうみているか。この点について、経済思想が専門の猪木武徳・前国際日本文化研究センター所長が

 近著『経済学に何ができるか 文明社会の制度的枠組み』 (中公新書)

という本を書いている。執筆の動機が

 経済学は無力

という批判に対して、真摯にこたえたいという思いがあるからだろう。いかにも、まじめな経済学者らしい。いまほど経済学者がつらい立場にたたされたことはかってない。それだけに、経済学の道に40年、その経験を生かし、歴史的な視点から、何ができるのか、考察している。

 ほとんど何もできないということを確認するには、一読の価値はあるだろう。先の小島氏とは違い、オーソドックスな経済学者の貴重な言い分、言い訳を知ることができる。

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トイレのなかに芸術を わが家の場合

(2012.12.26) クリスマス・プレゼントのような随筆風コラムに出合って、うれしくなった。12月22日付朝日新聞の

 暮らしのなかに芸術を採り入れてみよう

という金子由紀子さんの「お金のミカタ」エッセーである。ブログ子は、ご本人を知らないのだが、金子さんは、いわゆるシンプルライフを実践しているフリーライターらしい。

 「芸術は、制限された生活の中にあって、「永遠」と「無限」に触れることのできるツールです」

と書いていたが、その通りだろう。東京芸大の「尊厳の芸術展」を見た感想をつづったものだが、素直な文章に感心した。

 ただ、ちょっと気になったのは、

 「遣えるお金が少ないことは、自由を制限し、世界を狭くするかもしれません」

という言い方。多分、これは、失礼な話だが、勘違いだろう。ひょっとすると、この自由を制限し、というのは、物理的な自由を制限し、という意味だろう。

  Image546_2 なぜなら、定年退職して、使えるお金の少なさでは「汲々」で、使える自由時間の多さでは「自適」という「汲々自適」を信条としているブログ子にとって、今は

 世界をとても広くしている

からだ。言い方を変えれば、

 丁寧な暮らし

をしているという実感がある。お金のある現役時代のマスコミ生活とは比較にならない充実感である。汲々の生活がこんなに面白いとは思わなかった。金子さんのいう精神的な自由がそう感じさせているのかもしれない。

 そういうブログ子だが、現役時代に手に入れたちょっと値の張る絵画を

 トイレのなか

に飾っている。写真がそれだ。もう10年以上も前にあるきっかけで手に入れた。わが家では一番豪華な場所なのだ。

 作者は、二紀会会員の砂場三郎画伯。画伯の

 画文集 スケッチ紀行『スペインのいなか街』(日本文教出版)

にも、この淡い色の水彩画「分かれ道」が、ほかの何枚かのスケッチとともに紹介されている。写真に写っている本がそれだ。

 トイレのなかで、この絵画をひとり、じっと眺めていると、確かに、金子さんの言う永遠と無限を感じることもある。なによりも、肩の力を抜いて生きる。そんな力がわいてくるのが不思議だ。金子さんのいう

 厳しい環境でも心を守ることのできる

 芸術の力

なのだろう。守るというよりも、バランスを保つことのできるといいたい。

  え? それにしても、なぜトイレなんかに、だって?

 窮屈で小さなオリのようなトイレにこそ、ひととき、尊厳の芸術が似合う。芸術は、不自由なオリにこそふさわしい。

 取り付けたときは、そこまでは思わなかったのだが、このエッセーで、そう確信するようになった。とすると、このトイレの絵、一生の財産かもしれない。随筆を拝見して、そう思うようになった。

 これまでの、そして、これからの人生の「分かれ道」。トイレ同様、長い付き合いになるだろう。

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環境守るには「リサイクルしてはいけない」

(2012.12.25) 年末大掃除の時期とあって、ブログ子も家庭ごみと資源の区分けに、このところ苦労している。

 ● プラスチックは劣化する。が、格好な燃料

 わが暮らす浜松市では、来年4月からは、これまで区ごとに異なっていた出し方も、統一するため変わる( 写真上 )。

 Image552 一部はリサイクルするものの埋め立て処分場行きの「もえないごみ」。これに分類されていた「かたいプラスチック製品が、新しい出し方では、なんと「もえるごみ」に変更される。

 もえないとされていたプラスチック製バケツやプランター、CDケースなどは、今度は焼却処分するらしい。

  よくよく考えると、プラスチック類というのは、もともと石油から少し変形してつくられたのだから、使用して劣化したら、その後、格好な燃料になるのは当たり前なのだ。いわゆる、石油の〝二度目のご奉公〟というわけだ。ごみ発電の燃料にいい。逆に言えば、そもそもいきなりエネルギー源として石油を燃やしてしまうのはもったいないともいえる。

 さらに、これまでの「もえないごみ」として、いっしょくたにしていたライターや、蛍光灯などは「特定品目」に区分変えされるというから、ややこしい。混乱する。

 「分ければ、資源 !」とは言うものの、その出し方の複雑さ、ややこしさには、悲鳴をあげたくなる。分別で資源化という合言葉は、本当に合理的かどうか、疑いたくもなる。きっと、変更点を周知する説明会でも、担当職員も、戸惑うことも多いだろう。

 これでもまだ10区分、と少ないほうで、浜松市天竜区などは、これまで15区分(品目)もあるというから、驚く。一般の住民にとって区分するその苦労は大変なものだろう。

 いや、いや、どうして、天竜区は自然が多く残っている分、環境保全に役立つ分別収集の重要性の認識が住民に徹底している。意識が高い。そう考えられなくもない。それに比べると、まちなかの中区の高台に暮らすブログ子などは、意識がまだまだ低い。そう考えてもおかしくない。

 ● 使い捨て新品より、環境負荷がかかるリサイクル

 ところが、月1回参加している近くのこじんまりした学習会で、先日、講師から

 「リサイクルすればするほどごみが出る。環境にやさしい生活するためには、むしろ、リサイクルしてはいけない」

との趣旨の話を、なぜそう言えるのか具体的にその理由まで聞いて、びっくりした。まさか、そんなことはあるまいとさえ、思ったが、話には説得力があった。即座には反論できなかったのだ。

 Image549 講師は、静岡県内で廃棄物処理技術の会社を経営していて、廃棄物処理技術やリサイクル処理現場の実情に詳しい人だっただけに、二重に驚いた。

 さらには、この話には、きちんとした学問的な、つまり、工学的な裏付けがあった。それが、講師も推奨していた

 『リサイクルしてはいけない 環境にやさしい生活をするために』(武田邦彦、青春出版社、2000年2月)

 であり、独自に見つけた同氏の

 『リサイクル幻想』(武田邦彦、文春新書、2000年10月)

である( 写真中 )。武田氏は、執筆当時、芝浦工業大学教授で、同大環境・情報材料センター長(現在は中部大学総合工学研究所教授)。リサイクルなどの分離工学を専門としている。

 最初の本によると、ペットボトルの場合、新品ボトルの製造コスト(7.4円)に比べて、薄く散らばった使用済みボトルを回収する輸送コスト(26円)が上積みされ、再生ボトルのコストは3倍、つまり、27.4円もかかる。

 ここで、大事なことは、環境に対する影響度を、コストという価格で評価するということ。価格というのは、物質の使用量とエネルギーの量によって決まるので、ほかの恣意的な指標より、なにかと公平性を保ちやすい。だから、環境の負荷の指標としては、価格の変化は優れているという分離工学的な考え方である。

 この例で言えば、再生ペットボトルは、環境負荷が新品ボトルより3倍以上もかかる。

 ● 分離工学のキング原理

 もう一つ、鉱物資源でも、リサイクルでもそうだが、薄く広く散らばっているものを集めて原材料にする場合、

 濃度の薄いものほど、製造コストがかかる。もとより、安い製品はできない

という分離工学の原理(キングのダイヤグラム)があるということ。この原理があるので、

 ボトルに限らず、再生品は、かならず、新品製品より安くは製造できず、したがって、より環境に負荷をかける

ということになる。多分、再生品は使用過程、リサイクル過程で劣化するので、新品の原材料にくらべて粗悪であろう。

 ● なぜ、「常識」に反するのか

 これらをまとめると、

 ペットボトルと紙のリサイクルには意味はない

ということになる。環境にやさしい生活、つまり、環境保全には、何の役にも立たないということになる。

 リサイクルは環境にますます負荷をかけ、汚すという、この工学的な結論が、ブログ子もそうだが、私たちのこれまでの「常識」に反するように感じられるのはなぜかということだ。

 この件について、武田教授は、

 全国に散らばっていて濃度の薄いものをリサイクルのために輸送したり、選別したりしてコストをかけている。そこには、形を変えた膨大な資源の無駄遣いが起きている。形を変えた「みえないもの」のコストが「みえるもの」のコストの背後にあり、環境負荷を押し上げている。

 つまり、ペットボトルという目の前の「みえるもの」だけに注目していては、リサイクルの本当の姿はみえてこない

と大筋、そう喝破している。その通りであろう。

 目の前にあるものを大切にすると同時に、その背後のコストもトータルで考える必要があると指摘しているのだ。

 ブログ子は物理学出身だが、熱学の大原理

 現象の乱雑さを示すエントロピーの増大法則

というのがある。これに逆らって、再生品をつくろうとすれば、外部からのエネルギーの投入なくして、つまり、環境負荷を増大させない限り、物理学的には不可能

なのだ。外部からエネルギーを新たに投入するということは、とりもなおさず環境に負荷を新たにかけることなのだ。コストも当然かけている。このことを私たちは、見逃していると武田教授は言いたいのだろう。この原理を、価格という指標を物差しにして、工学的に具体的に示して見せたのが、武田教授の指摘なのだと、気づいた。

 ただし、それでは、リサイクルはまったく税金の無駄遣いかというと、そうではない。

 環境に負荷をかけないという意味ではリサイクルはダメだが、

 雇用の確保や、より環境に負荷をかけすぎない技術開発の確保

という点では、意味がある。つまり、経済対策としての意味はある。

 ● では、どうすればいいのか 備蓄型の人工鉱山づくり

  この点については、現状に代わる解決策として、武田教授は、先の『リサイクル幻想』の著書の中で、かなり踏み込んで

 いまのような分別万能主義の短期リサイクルではなく、簡易なピックアップ分別はするが、長期にわたる備蓄型の循環社会に向けた「人工鉱山」づくり

を提案している。傾聴に値する考え方だ。

 このシステムができたあかつきには、

 「家庭から出るごみの半分は紙で、不燃物は10%ちょっとです。この割合が大きく変わらない限り、焼却熱を考えると、すべてを混合して焼却するにはとても都合の良い燃料と考えられます」(『リサイクルしてはいけない』)

として、粗大ごみも一緒に

 「分別せずに収集し、(輸送コストの少ない)近い場所の自治体で焼却する。(10分の一ぐらいに減った残りの)灰は(人工鉱山のある)遠くに送る」(同著)

 そこで将来に備え貴重な原材料を備蓄するというわけだ。ただし、水銀などの有毒物を含む電池などはのぞくとしている。そんな巨大な人工鉱山を引き受ける遠くの自治体があるかどうかは不安だが、システムとしては合理的なように思う。

 一言で言えば、そして誤解を恐れずに言えば、

 分別しない、という考え方で地球環境にやさしい社会づくりを

というのが骨子。誤解というのは、人工の灰置き場にあたる人工鉱山が実現すればという前提を忘れてはいけないという意味だ。それがない今は、分別しないでごちゃ混ぜにするのは、混乱するだけで、もってのほかであり、無責任ということになる。 

 詳しいことは、同著を読んでほしいが、ポイントは再生品はかならず環境に過酷な負荷をかけるが、その負荷をできだけ軽減することはできるという構想だ。分別しない方法もあるというわけだ。今の分別万能主義は、複雑であると同時に、その分、手間隙がかかり、やればやるほどますます環境に負荷をかける。このことは確かだ( 注記1、2 )

 ● 混乱のペットボトル市場

 折りしも、その複雑な事情を垣間見せてくれる記事が、2012年12月22日付朝日新聞に出ている( 写真下 )。原油価格の乱高下で、

 混乱するペットボトル再生市場

の様子がレポートされている。

 Image551 ペットボトルのリサイクルが複雑すぎて、ペットボトルを利用する事業者団体や、容器包装リサイクル法に従ってリサイクルにかかわるリサイクル協会、ごみ処理の責任を負い回収にあたる市町村自治体が、在庫処理や入札をめぐって翻弄されているという。今のような、それぞれの間の直接取引を改めて、市場原理導入を考えるべきだという意見も出始めているという。

 このように、ペットボトルの高品位から低品位へのリサイクルについて具体的に知れば知るほど、理想と現実が乖離し、今の分別収集のあり方には深刻な問題があることがわかってくる。読んでいて、このままでは早晩、リサイクル事業が行き詰るような気がしたのは、ブログ子一人ではあるまい。

 ● 浜松市のごみ処理費用、年間約80億円

 上記冒頭のパンフによると、浜松市民は、赤ちゃんも含めて、一人当たり年間平均約300キロのごみを出す。1日にして1キロ。これにかかる浜松市の処理費用はこのところ、年間約80億円前後で推移している。

 そんなこんなで、武田教授の提案もさることながら、現状のリサイクルが本当に合理的な環境保護につながっているのかどうか。まずはパンフをしっかり読んで、きちんと理解する。ここから現状の改革を考えていかなければならない。そんな気になったことは確かだ。

 ブログ子が暮らす地域には、数千年前の縄文人集落のごみ捨て場、

 蜆塚遺跡

が国の史跡として大切に保存されている。近くの佐鳴湖でとれたのであろうシジミのおびただしい貝殻が捨てられている。そんな貝塚が集落の周りに何か所も出土している。

 このように、ごみ問題は、程度の差はあれど、実は、人間にとって社会が自然環境とどう共存していくかという具体的、総合的なたたかいなのだ。

 家庭ごみと資源物の出し方パンフレットをみながら、そう思った。

  ● 注記1 今すぐにできること 

 武田教授によると、人工鉱山づくりとそこからの精錬学の構築のほかに、環境に負荷をかけるリサイクルを今すぐにでも極力減らす方法がある。私見もまじえて、言えば、こうだ-。

 まず、メーカーは、モデルチェンジ、新製品を今のように次々と、頻繁にしないこと。設計上の耐用年数に見合う5年ないし10年に一度、満を持して新しい家電製品やモデルチェンジをするという見識を持ちたい。そうすれば、その分、買い替えに伴う廃棄リサイクルが減り、環境負荷がずいぶんと軽減できる。現在では、家電の場合、耐用年数の半分ぐらいで買い換えている。いかにも異常であり、もったいない。

 また、消費者も、新製品を買うのは、その家電製品の耐用年数がすぎてから考えるという節度がほしい。買い替えるほうが、環境に真にやさしいという新製品、モデルチェンジの家電など、もはやほとんどない。環境にやさしいと称する新製品、モデルチェンジ製品でも、よくよく考えると、買い替えない場合に比べて環境に過酷な負荷をかけている。

 しつこいようだが、環境にやさしいと称する新製品に、その通りであったためしはない。 ましてや、月々の電気代が1、2割お得などという程度では、まあ、ほとんど売るためのまやかしといえる。そんなのは環境にやさしい家電製品のうちには、とても入らない。そう心得るのが、環境に賢い真の消費者というものだろう。

 むやみにモノを買わない、買い替えない。このことを、これからの循環型社会の美徳とする新しい消費文化を根付かせたい。これは、何を買ってもリサイクルしさえすればいいという今の社会のあり方とは異なる。現状の大量リサイクル社会は、リサイクルしない場合に比べて環境により過酷な負荷を強いているからだ。

  ● 注記2 海外の成功事例紹介を

  環境守るには「リサイクルしてはいけない」という主張は、私たちの「常識」にやや反する。誤解も起きやすい。

 これをただすには、武田教授の上記2著作に、リサイクルしないでもうまくやっている海外事例を、少しでもいいから盛り込んでくれていたら、ずいぶんと説得力は増しただろう。現状を変えるには、環境先進国といった海外の成功実践例をもっと紹介すべきであろう。

 あるいは、かつての日本人の知恵についても紹介してほしかった。そうすればリサイクルしないという考え方や選択肢に対する理解者も、ずいぶんと増えてくるだろう。今後の課題だ。

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最後にサンタがやってきたのはいつですか

(2012.12.24)  クリスマス・イブになると、ブログ子は、毎年、たいてい、このビデオ映画をグラス片手に自宅でみている。もう、10年以上になる。

Image54134  「34丁目の奇跡」( 写真 )

という映画である。

 サブタイトルには、

 「最後にサンタがやってきたのはいつですか」

とある。サンタさんなんか、そもそもいないというおしゃまな小さな女の子、スーザンが、ついに、サンタさんは、確かにいるということを信じるまでのラブコメディ。戦後のアメリカ映画の定番らしい。

 オリジナル版は、ブログ子が生まれたころに公開されたのだが、あのナタリー・ウッドがスーザン役を演じている。ブログ子は、そのリメイク版(カラー)が、現代風なつくりになっており、いいと思っている。

 この映画を見ていると、シニアになっても

 サンタがやってくる

という気持ちになる。だから、わが家には、これからも毎年、サンタがやってくると信じている。

 これから歳末になるが、この時期で忘れられないのが、かつて話題になった

 「一杯のかけそば」

という童話的な本。

 こういえば、きっと、

 ああ、あの話か。ぼくも、あれには、一杯食わされた

と思い出す人もいるだろう。泉ピン子さんが主演で映画にもなった。そう、札幌の「北海亭」の出来事だったよねえ。大人の童話と考えれば、いい。そう考えると、作品そのものは、決してウソではない。

 そして、もう一つ。

 画家、東山魁夷の

 年暮る

と題された絵画。1968年に制作されたものだというが、京都の雪の降る大晦日を描いたもの。「青」の風景画家らしい作品だと思う。

 ブログ子は、学生時代を含めて15年間、京都で暮らした。今も、人っこひとりいない温かみのある、こんな歳末風景が好きだ。屋根の下にある庶民の生活が目に浮かぶ。

 以上、3つ。

 これらに接していると、今の世の中、政治がどうあろうと、

 人生に乾杯

といいたくなる。人間って、いいなあという気持ちになる。

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視聴率など気にするな 大河「清盛」の総括

(2012.12.23)  1年間の放送の最終回を見終わって、よくぞ、むずかしいテーマを、骨太に、そして、上質なドラマに仕上げたものだと、感心した。大河ドラマ「清盛」のことである。

 最終回に清盛(松山ケンイチ)が

 「時忠があらずんば、平家にならず」

 「時子、そなたこそが紫の上じゃ」

と言ったときには、ブログ子も、なるほど、そうだと思ったものだ。一年間、ドラマに付き合った視聴者なら、だれしもこれに異存はあるまい。藤本有紀の「作」らしいのだが、見事な原作であり、脚本家の腕を見せてもらった。

 平清盛といえば、おごれるものは久しからずの「悪」のイメージがつきまとう。それに対して、ドラマは、「武士の世」づくりに立ち向かった

 中世の革命児

として、清盛を描いている。「菊」のタブーにも果敢に挑んでいる。こうした明確なテーマ設定に、一貫してぶれていなかったのがいい。

 しかも、面白くみてもらいたいということで、

 遊びをせんとや生まれけむ

 たわむれせんとや生まれけむ

というテーマの歌設定も、ドラマの進行によくマッチしていたと思う。遊びとは「双六」遊びのことである。その上に、自省的な、あるいは内省的な面も出ていた。ここらあたりが、俗受けをあえて避けたつくりになっていた。

 騒がしい歌舞伎仕立てではなく、能楽のような上質な仕上がりだった。

 だから、案の定、視聴率はかんばしくなかったようだ。

 年間平均で、12%前後

というから、昨年の「江」の18%前後、その前の「龍馬伝」の19%前後に比べてずいぶん低い。この10年で一番低いのではないか。

 このことは、視聴率が低いということは、上質なドラマであることの証明でもあることを示している。

 Image547 確かに、平家物語を取り上げるのは難しい。武士だけではなく、朝廷内のごたごたが、その背後にあるからだ。

 ブログ子なども、事前に、

 吉川英治『新・平家物語』(新潮社、全8巻。 写真 )

を読破していた。だから、朝廷のうごきも大筋わかった。それがなかったら、映像だけ見ていては、何のことか、わからず、途中から、投げ出していたと思う。

 そんな、こんなを考え合わせると、

 ドラマの「質」と、視聴率は反比例する

ということである。これは、ブログ子の持論でもある。「清盛」の視聴率が、断然低かったことは、大河ドラマ「清盛」の成功を物語っており、大衆に迎合しないNHKの一面をみた思いであり、あるいはNHKの誇りでもあろう。

 これからの大河ドラマは、視聴「質」

を競うものにしてほしい。 

  最後に、この大河ドラマは、歌人で、もとは北面の武士だった西行の次のような和歌で終わっている。

 願わくは 花の下にて春死なむ 

      そのきさらぎの 望月のころ

 和歌の意味そのものは、明解である。では、この和歌のドラマ上の意味はお分かりであろうか。ドラマ作者は、この和歌で何を言いたかったのだろうか、という意味である。

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民主党は何を間違えたのか 

(2012.12.21)  この一週間、総選挙の結果、つまり、民主党の大敗北、自民党の大勝の原因分析やら、自民党への期待やら不安やら、そして、期待外れの第3極やらが新聞紙面をにぎわした。

 各紙の社説も大同小異で、たとえば12月17日付朝日新聞では、

 自民大勝、安倍政権へ  地に足のついた政治を

という大型社説を掲載していた。可もなく不可もない無難な社説だが、要するに、自民党は、おごることなく実行力のある政治をしてほしいというだけの内容。民主党に対しては、参院では第1党であり、いつでも交代できる党となるよう「みずからを鍛え直す機会としてほしい」と結んでいる。

 そんななか、民主党は何を間違えたのか

という点が、今ひとつ明確ではなかった。その点をはっきりと示したのは、

 近著 『証言 民主党政権』(薬師寺克行、講談社、写真 )

だった。一言で言えば、右顧左眄の世論調査政治に翻弄され、身動きできなくなってしまったとかっ破している。わかりやすく言えば、日々の切実な民意をくみ上げるということと、時々刻々と移ろいやすい世論「調査」というものをごっちゃにして、その調査結果に振り回された。世論調査と民意とは似て非なるものだという認識が欠けていた。

 Image1411 1996年に52人の国会議員で結党した民主党。その結党の精神は正しかったとブログ子は、思う。

 つまり

 利益誘導政治からの脱却

 鉄の政官業トライアングル社会構造の改革

 官僚主導の政策決定の打破

という、いわば

 「統治システム改革」

という方向は正しかった。1990年代当時の自民党的な小手先の政治改革では、しがらみが強すぎて、これらは到底なしえない。

 切実な民意をくみ上げ、こうした改革で成果を上げるには、時には、世論に抵抗する政治が必要なのに、世論調査に迎合することに、汲々として、足が地についていなかった。自民党政治以上に「ばらまき政治」がはびこったのもこのせいだ。

 まとめれば、世論調査結果を気にするあまり、またマニフェストに縛られるあまり、国を整合的に統治することの重要性を等閑視してしまった。これでは、先の3つを柱とする統治改革が行き詰るのも無理はない。みずからの党すら統治できないのに、国を統治できるはずはないからだ。ここに民主党政権の大きな蹉跌、つまずきがあった。

 ひるがえって自民党。

 しがらみを断ち切って、先に述べたかつての自民党的なものから抜け出せるかどうか。切実な、特に地方の切実な民意をくみ上げる国づくりに取り組むことができるか、どうか。もう一度チャンスを与えたというのが、今回の選挙の民意であろう。

 もう一つの明確な民意は、

 エネルギー問題では、脱原発に道筋をつけよ

ということだ。国民は、この民意をどう扱うか、今、じっと自民党の動きを見ている。

  補遺 2012年12月22日

 こう書いてきたブログ子だが、経団連の〝広報紙〟とも揶揄されている日経新聞が、12月22日付の社説で

 何を反省すべきかわからない民主党

という第一社説を嬉々として、載せていた。この3年半の鬱憤を晴らすかのように、冒頭

 「政権交代させてやはり正解だった。」

と書いている。大敗北後の民主党の見苦しいまでの右往左往を皮肉った。代表選の日程すら決められない事態では、そう言われても仕方がない。ざまあみろ、というわけだ。冷静な敗因分析などできるわけがないというわけだ。

 だからというわけか、社説は、

 「民主党には綱領がない。主義主張がばらばらの人たちの選挙互助会という以上のまとまりがなかったことが党分裂の要因」

と解説してみせている。もちろん、それだけではないが、一本筋が通っていなかったのは確か。右も左も寄ってらっしゃい、見てらっしゃいという「友愛」だけでは、党として一貫性のある政治は成り立たない。

 日経社説は、少し言い過ぎたと思ったのであろう、

 「解党的出直しに踏み出してほしい」

と上品な、お決まりの社説言葉で結んでいる。本当に解党して、出直せといいたいのかもしれないが、抜本的な出直しを、というぐらいの意味だろう。先の朝日社説に比べて、これを除けば、ずいぶんと下品で乱暴な社説だが、その分、朝日よりは一面の真理を突いている。

 だから、本気で立ち直りたいならば、選挙互助会と言われたくなかったら、民主党は、この社説を、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)の思いで、よくよく拳拳服膺(けんけんふくよう)してもらいたい。

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誰が今の「コンピュータ」を発明したか

(2012.12.21)  上記の質問については、ブログ子は、かつて、電子計算機のプログラムの書き方を専修学校で教えていた経験があるので、

 それは、アメリカ人のJ・エッカートとJ・モークリー

であり、大戦直後の、

 1946年夏に完成した汎用型電子計算機「ENIAC(エニアック)」

とこたえることができる。軍用の弾道計算などに使われたこと、あるいは真空管を演算素子に利用したことなど、科学技術の歴史を少し知っているたいていのひとは、そうこたえるであろう。

 Dsc00557_2 ところが、先日、BS1の深夜テレビ「世界のドキュメンタリー」で

 ヒットラーの暗号を解読せよ

という番組を見ていて、驚いた。どうやら、この質問のこたえは、

 イギリス人の数学者、ビル・タットと、工学者、トミー・フラワーズ

であり、その電子計算機は

 ドイツの高性能暗号機「ロレンツ」( 写真上 )

が打ち出す暗号を元の平文に戻す、つまり自動的にすばやく復号化できた

 「COLOSSUS(コロッサス)」( 写真下 )

であることを知った。完成は、大戦中の1943年12月。ENIAC同様、演算子には真空管が使われた。完成場所は、

 イギリス諜報機関、MI6の暗号解読本部のあったロンドン郊外「フラワーズ通り」。

らしい。コロッサスは、暗号解読専用で汎用型ではなかったが、プログラム内蔵式である点など、事実上の汎用コンピューターと言っていい。

 Dsc00536_2 この解読機では、天才数学者、アラン・チューリングの指導と、その情報理論の成果が応用された。

 番組によると、解読コンピュータにより、ドイツ側の動きが筒抜けとなり、連合国側のノルマンジー上陸作戦(1944年)を成功裏に導くことに貢献したらしい。

 問題は、なぜ、この事実がながらく一般には知られず、伏せられていたかということだ。

 それは、暗号解読にかかわる機密であり、大戦後の冷戦時代でもこの暗号機がソ連側で使われていたことに起因している。

 久しぶりに、わが家の「日本大百科全書」を開いてみた。「コンピュータ」の項目によると、この件の国家機密の一部が解除されたのは、1975年10月。国際的な科学史会議で

 「事実上世界初の汎用コンピュータは、1943年12月に完成していたイギリスの電子式暗号解読器COLOSSUS(コロッサス)であったらしい。これには1500本の真空管が使われていた」

と報告されたということが書かれている。

 1975年前後の70年代といえば、まだ、個人用のPCなどはなく、もっぱら汎用コンピュータの発達期。ブログ子も盛んに大型電子計算機を、バッチ処理方式で利用したことを懐かしく思い出す。

 Dsc00558 それにしても、暗号解読という特殊な分野とはいえ、発明から30年以上も国家機密として扱われたのでは、発明者の努力は報われまい。番組によると、今も、発明者の当時の任務が何であったかなどの詳細は機密扱いのままだという。

 輝かしい科学技術の歴史には、まだまだ多くの国家機密がありそうだ。技術開発に心血をそそいだ科学・技術者がその名誉に浴することなく、なくなっていった人材が多くいる。そんなことを、この番組は示唆している。

 ( 写真は、いずれもNHKBSテレビからの画面撮影= 2012年12月18日深夜。このBBCが2011年に制作した番組に登場した上記のコロッサスは、復元されたもの )

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原発直下の活断層問題 問われる「浜岡」   - 南海トラフ「浜岡」を追う

(2012.12.20)  日本原子力発電の敦賀原発2号機の真下を通る断層(D-1)は、単なる地層の破砕帯などではなく、地震による明白な横ズレを起こした活断層であることを、国の原子力規制委員会は評価会合で正式に認めた。

 ● 脱原発の民意、多様な回路をつなぐ 「浜岡」は試金石

 会合のこの結論は、原発に強く依存する日本が、脱原発に向けて具体的に動き出す歴史的な転換点であり、転換点にしなければならない。

 それには、先の衆院選で示された原発依存度ゼロという「脱原発の民意3000万票」の声を、多様な取り組みにおいて一つの回路につなぐことで、今後生かしていく必要がある(この票数は脱原発をかかげた政党の比例合計票)。

  とりわけ、浜岡原発は、巨大地震を引き起こす南海トラフにごく近い立地であるなど、日本で最も危険であるといわれている。しかも、差し迫っている。加えて、日本列島のど真ん中にあるなど、もっとも広い地域に深刻な被害が及ぶことは必至といわれている。

 その意味で、南海トラフ「浜岡」問題の解決は、その回路づくりの試金石であろう。いわゆる〝一本槍〟の取り組みでは限界があり、明確な旗印の下に、多様な力を結集する取り組みが必要だ。

 その旗印とは、疑わしきは国民の利益に、というかつての公害における企業の無過失責任の原則である。

 以上が結論と、まとめであるが、どうしてそのようなことが言えるのか、以下に少し詳しく書いてみたい。

  なお浜岡原発とその周辺活断層についての最近の二つの動きについては、参考文献の冒頭に、ポイントを注記して、まとめておく。

 ● 疑わしきは国民の利益に 

 外部専門家4人を交えた評価会合のこの結論は、現地調査を踏まえた科学的な根拠に基づくもので、活動時期が特定できるなど決定的な直接証拠までは見つからなかったものの、専門家全員がさまざまな間接証拠をもとに同意した( 写真上 )。グレーではもはやなく、限りなくクロに近いということだろう。

 Image1382 原子炉等規制法の定める原子炉建屋などの国の耐震審査指針(2010年)では、活断層の真上に建屋をつくることは、はなから想定していない。その結果、建設許可申請時はもちろん、建設後にわかった分についても、そもそも運転の前提となる安全審査の対象外( 補遺 )。

 原発敷地内に最近動いたことのある活断層が走るなどということは、異常を通り越して危険極まりないものであり、運転うんぬんなどは論外もはなはだしいというわけだ。これは、東京駅の真ん前に原発をつくり、運転することは、誰も想定していないのと同様の論理なのだ。

 ● 電力会社に「活断層ではない」との立証責任

 電力会社がこれに反論できるとすれば、それは、自ら調査を行い

 科学的な根拠に基づいて、D-1は活断層ではないことを実証する

以外にはない。結論のさきのばしを狙って、これまでのようにあれこれ難癖をつけるだけでは説得力はなく、規制委の結論を否定する証拠が求められる。

  実証できないというのなら、

 限りなく疑わしきは「黒」、廃炉

にするしかないだろう。

 電力会社は、これまで100%「活断層である」との確証がなければ、都合よく、それは「活断層ではない」という態度に終始してきた。この論法の欠陥は、調査をサボれば、サボるほど、ずさんにやればやるほど、自分に有利になる点にある。こうした非倫理的な論法や態度をもはや許されない。

 代わって、「活断層ではない」と自ら証明できなければ、それは活断層とみなすという、かつての公害同様、公益に立った事業者責任原則が、いわば「賢明なる回避」の態度が必要だ。疑わしきは、国民の利益に、という原則だ( 注記。事業者の立証調査の実施については注記3)。

 敦賀原発のほかにも、こうした活断層が疑われ、再調査する予定の原発は、日本海側の志賀原発(石川県)、太平洋側の東通原発( 青森県 )5ヵ所。浜岡原発はこれまでのところこの中に含まれていないが、活断層は本当にないのか。活断層から枝分かれしたとされる断層(破砕帯)は敷地内に何本も走っている( 写真下 )。

 その理由などについて、以下に述べてみたい。

 ● 「浜岡」も再調査が要る

 浜岡原発(1、2号機)は、今回の敦賀2号機同様、1970年代に地質調査が行われており、果たして大丈夫か。原発、それ行けドンドンの時代の地質調査や国の安全審査がずさんだったことを考えると、そしてまた、今回の敦賀2号機からもわかるが1970年代の活断層研究がまだまだ未熟であったことを考えると、「活断層ではない」ということをはっきりさせる再調査が必要ではないか。

 それというのも、浜岡原発が、もし万一大事故を起こせば、日本全体が壊滅的な被害をこうむるからだ。失礼な言い方かもしれないが、敦賀原発や福島第一原発どころの騒ぎではないだろう。

 日本沈没

といっても、大げさではない。菅直人元首相が停止を要請したのも、この認識があったからに他ならない。

 南海トラフ巨大地震の震源直下に位置する浜岡原発は、地震に対して最も危険とされている。それなのに、あまつさえ、たとえば全国で一番津波対策が脆弱な原発。なにしろ、防潮「堤」がないなど、大震災前にはまったくといっていいほど津波対策に手をこまねいてきた全国でも屈指の原発なのだ。

 Image1384 今ごろになって、あわてふためいて、応急的な防潮「壁」を建設中なのだが、こんな壁はおそらく、巨大な津波の水圧には耐えられまい。そんなことは、今回の大震災で、あの頑丈そうにみえた三陸の本格的な防潮「堤」がもろくも破壊されたことでも実証済みといえまいか。ましてや付け焼刃の壁のかさ上げなどでは、とうてい役にはたたないだろう。

 津波対策もさることながら、浜岡原発については、そもそも大津波が到達する前に、これだけ震源に近い原発となれば、大きな損傷はまぬがれまい。

 具体的に言えば、浜岡原発が南海トラフ巨大地震で実際に受ける加速度は、耐震想定加速度(ガル)を数倍もこえるだろう。つまり3000ガルは下るまい。これでも今回の大震災なみ。実際は、今回の地震より、震源がはるかに陸地に近い分、南海トラフ巨大地震の場合、これをこえる加速度が浜岡の原子炉にかかると考えるのが妥当であろう。

 この恐ろしいほどの数字を、わかりやすく言えば、重力(約1000ガル)とはほとんど無関係にものがあちこちに飛び交う状態なのだ。イザと言うとき、運転中の原子炉の核暴走を止める働きをする制御棒が、果たしてうまく燃料体に差し込まれ、核反応が急停止するかどうか、確証できる専門家はまず、いないであろう。

 地盤は磐石、大丈夫というのなら、少なくとも、浜岡原発敷地内の断層が巨大地震によってズレを引き起こす可能性のある活断層ではないのだから、再調査を自ら進んで国に要請する、あるいは自主的に再調査して、いわば〝身の潔白〟を証明することにはなんら問題はないはずだ。電力会社としても、正々堂々、すっきりする。

 というのは、内閣府の原子力安全委員長、斑目春彦氏が、痛恨の思いを込めて、委員会廃止に当たって、原子力安全の確保には

 「事業者の自主的安全性向上努力を引き出す規制の構築」

が、ぜひとも必要だと「所感」で訴えているからだ( 近著『証言 斑目春彦 原子力安全委員会は何を間違えたのか』( 聞き手=岡本孝司東大工学部大学院教授、新潮社 写真左 )。

 Photo これがなく、国の規制をクリアしさえすれば、こと足れり、としていたところに、大きな問題があった。形式主義では安全は確保できない。そう言っているのだ。

 今回の事故を最小限に食い止めることができなかった重要人物のひとりからの痛恨の警告であるだけに、急所を突いた指摘であると思う。

 仮に、もし、再調査の結果、活断層ということになれば、直下型大地震、あるいはプレート型巨大地震が起きれば、原子炉建屋とタービン建屋をつないでいる多数の配管がズタズタに引きちぎられることは、よほどの幸運が重ならない限り、ほぼ必定である。

 ● 中部電力、行きがかり断ち切る好機

 中部電力は、ほかの電力会社のように原発依存度はそれほど高くない。10%程度だ。活断層の再調査や、その結果に伴う廃炉の決断をするとしても、経営的にはそれほど深刻な打撃にはならない。むしろ、今後ドンドン余計なコストがかさみ、原発は割り高な電源ということになるだろう。ただ、電力業界に対する遠慮があるから、真っ先に、ひとり勝手には決断ができないだけなのだ。

 科学的な根拠を待つというさきのばしの、そして後ろ向きの経営判断では、痛恨ともいえる東電の二の舞を演じることになるだろう。今、日本のど真ん中にある電力会社としての度量と見識が問われているとも言える。

 浜岡原発(廃炉中の1号機)は、想定東海地震が指摘される直前に運転を開始してしまった発電所である。この経緯を、今こそ思い起こすべきだ。もう少し早く、指摘がなされていたら、中電とて、おそらく建設には二の足を踏んだであろう。

 中電にとって、今は、行きがかりを断ち切り、自主的に原発の安全性と向き合うまたとない好機ともいえる。脱原発、あるいは脱原発依存の時代へという大いなる大義名分がある。誰に遠慮が要るというのか。むしろ〝国策〟に協力する電力会社として、高い評価を受けるであろう。

 私たち自身が安全性と向き合うという点では、福島地検などで告訴・告発を受けて起訴するかどうか、現在見極められている

 業務上過失致死傷罪という刑事責任を東電に裁判で問うこと、

 浜岡原発の運転差し止め訴訟および、その本訴(東京高裁)を支えること

が、大事であろう。かつての水俣病裁判もそうであったが、国民の健康を守るには、どんな原則に立って、国はどんな責任を負っているのか、明確にする必要があるからだ。裁判は出来事を風化させない有力な手段でもある。

 浜岡原発のなかでも、海側に近く、地盤に異常がある恐れが高いなど、最も危険と思われる5号機についても、訴訟で問題点を洗い出すことは、この意味で有意義だろう( 補遺2 )。 

  そのほか、多様な回路づくりでは、つぎのような取り組みも重要だ。

 原発住民投票条例づくりへの新たな取り組み、金曜デモ。さらには、これからの原発・エネルギー政策づくりなど科学・技術の政策決定における国レベル、あるいは自治体レベルでの新しいルールづくり、ジャーナリズムの社会的な責務の明確化や予見のできる科学ジャーナリズムの確立などは必須と言えるだろう。

 とりわけ、予見のできる科学ジャーナリズムの確立は急務と考えたい。起きてから騒ぐ今の科学ジャーナリズムが、ある意味で、今回の原発事故を引き起こしたと言っても過言ではない。

 ● 原発政策で自民、公明に大きなへだたり

 大勝した自民党と公明党は連立を組む。しかし、今後の原発政策では自民党が原発ゼロにはせず、原発依存度を下げる方向性を出している。これに対し、公明党は、民主党同様、段階的にゼロにするとしており、そこには大きなへだたりがある( 補遺3 )。

 ゼロにするにしろ、依存度を下げるにしろ、全国でも最も危険な状況にある浜岡原発の活断層の再調査や、発電所内の使用済み核燃料棒の安全保管は、もはや待ったなしである。

 来年には導入される見通しの運転40年制限制度を守っていたのでは、浜岡原発3号機-5号機は、南海トラフ巨大地震の発生に遭遇する可能性が高い。巨大地震の発生は、今世紀中ごろまでには確実だとされるからだ。

 斑目委員長は、先の証言所感で、

 日本の安全規制は、30年前の技術水準

と、その規制の甘さを認めている。30年前といえば、おおよそ浜岡原発が立ち上がったころだ。この証言には、安全規制の指針改定が、電力業界の圧力などでなかなかできなかったくやしさがにじむ。この水準を上げなければ、このままでは、大変な事態が起きかねない。

 再稼働を急がず、安全委員会に代わって新たに発足した規制委員会は、Plan(計画)-Do(実行)-Check(評価)-Action(修正)という品質管理向上サイクルに従い、早急に安全規制の水準向上に、電力会社には、自主的な安全性向上に積極的に取り組んでもらいたい。

  ● 「地方は世論の本(もと)なり」

 最後に、疑わしきは国民の利益に、という旗印とともに、もう一つ、地方に暮らす私たちの基本的な姿勢、旗印として、

 地方は世論の本(もと)なり

という考え方をしっかりと持ちたい。主権者は私たちである。国家が主権を独占する時代は終わりつつある。

 これまでひとえに国の政策であった原発・エネルギー政策を問い直すことは、この意識を問うことでもあり、これなしには成就することはないであろう。 

   ( 写真中は、今回の評価会合を原子力規制行政の大きな転換点と評価した2012年12月11日付朝日新聞社説「脱・安全神話の時代へ」 )

  ● 注記 原発の行政訴訟における立証責任について

 伊方最高裁判決(1992年10月)によると、違法性の裁判所の判断基準は、行政訴訟の裁判ではすべての資料が国側にあることから、立証責任のあり方について述べ、

 「行政庁が主張、立証を尽くさない場合には、行政の判断に不合理な点があることを事実上推認されるものというべきである

と判示している。立証責任は事実上、行政にあるとした。

 このことを、北陸電力会社を相手取った住民の民事差し止め訴訟にも適用、あるいは準用した判決が、住民側勝訴の

 志賀原発2号機差し止め訴訟(2006年3月、金沢地裁、井戸謙一裁判長)

である。この民事裁判では、今回、活断層ではないかと問題になっている断層や、それとは別にある付近の断層帯の危険性が争点となった。

 後に、この判決を書いた井戸裁判長は、住民側が指摘する具体的な危険性について、

 「電力会社が、十分に反証できなかった。住民の利益は、生命、身体なのだから、電力会社の公共性を考えたとしても、一企業の経済的な利益より優先される」

とコメントしている(『原発訴訟』(海渡雄一、岩波新書)。これは、伊方最高裁判決を踏まえた差し止め判断といえよう。

 なお、この差し止め訴訟は、控訴審の名古屋高裁金沢支部で住民敗訴(2009年3月)。住民側上告に対し、最高裁は「上告棄却」の決定をしている(2010年10月)。

  ● 注記2  志賀2号機差し止め訴訟判決に対する地元紙、北國新聞の一連の社説

 志賀原発2号機 疑問の多い「差し止め」判決(2006年3月25日付)

  志賀原発訴訟 地裁判決の取り消しは必然(2009年3月19日付)

  原発差し止め訴訟 上告棄却は自然な成り行き(2010年10月30日付)

  この社説が掲載されて、4か月半後に、今回の福島原発事故が発生していることは注目される。

 注記3  2013年1月23日付中日新聞朝刊

 この新聞には、

 事業者の日本原子力発電、敦賀「活断層ではない」強調

という記事が出ている。この反論の要点は、規制委が活断層と認定した問題のD1断層と、2号機直下の断層とは、直接つながっていない、関連がないというもの。この主張の正しさを実証するため、22本の追加ボーリングを敷地内で実施する計画を発表した。その地質調査現場も公開した。2月下旬にも調査結果がまとまる見通しという。注目したい。

 ● 補遺 安全対策のバックフィット制度に注目

 Image53900 新しい安全基準ができる来年7月以降、規制委は、再稼働の可否について、科学的な根拠に基づき、速やかに審査するとしている。敦賀原発2号機は、この審査の対象外となる。発電のできない原発を廃炉にするか、どうかという判断には、規制委はタッチせず、事業者の日本原電の経営判断に委ねられる。

 来年7月からは、規制委設置法に基づいて、既存の原発にも最新の安全対策を課す、いわゆる「バックフィット制度」の運用も始まる。これにより、活断層が原子炉建屋の真下などに新たに見つかった既存の原発に対しては、廃炉を命ずることはできないものの、運転停止を命ずることができるようになる。運転停止のままどうするか、それは経営判断に委ねられるとはいえ、これは、移設は現状ではほとんど不可能だから、事実上、廃炉にするしかないであろう。

 また、原発の原則40年運転制限制度も導入する予定。最低限の原則として意味がある。しかし、これでは、運転が始まって間もない浜岡5号機は、運転中に南海トラフ巨大地震に遭遇する可能性はきわめて高い。この対策を真剣に考えるべきだ。

 一律40年ではなく、原発の立地危険度、原発の密集度を考慮した優先的な廃炉順位付け制度も検討課題だろう。今回の大震災は、原発の密集がメルトダウンの連鎖を招き、次々と大規模避難を強いられかねないことを示した。この対策を忘れてはなるまい。

 補遺2 

 浜岡原発5号機の安全性への不安については、静岡県内で最大震度6弱を記録した駿河湾地震(2009年8月、M6.3 )直後の静岡新聞(9月10日付1面)に次のような記事が掲載されている(最大震度はまさに浜岡原発のお膝元、御前崎市)。

  中電は地震で緊急停止した浜岡原発4号機の運転を9月15日にも再開する。一方、揺れが突出した5号機は、再開のめどが立っていない。5号機は地下2階で1ないし4号機の約4ないし2.6倍の加速度426ガルを観測した。岩盤(地下22メートル)上の揺れは314ガルで、国の中央防災会議による想定東海地震の揺れ395ガルに迫ったことが、市民や関係者の不安につながっている。8月末の原子力安全。保安院の小委員会でも不信の声が上がった。中電は「地下構造を把握し、要因を突き止めたい」と説明しているが、今後の耐震性議論に影響するのは必至だ。

  その後の結果については、1年後の2010年7月29日付静岡新聞朝刊に

 浜岡5号機、地層特性考慮しても耐震性確保 -中電、国に報告

との記事が出ている。 

 5号機直下の地下構造を調査した中電報告によると、「低速地層」と呼ばれるやわらかな地層が見つかり、これが地震波を増幅されたのが高いガルの主因としている。この調査結果をシュミレーションで十分に考慮しても、想定東海地震に対する耐震安全性は確保できると解析。しかし、保安院の構造設計の専門家からなる小委員会では、これに対し異論が相次いで、さらに検討することになったという。

 このほか、海岸に近い5号機については、安全審査を受け2年後の再稼働を目指してはいるが、過去に原子炉内に海水が流れ込むという運転事故もあり、ほかの号機より、安全性が高いとは言えない状況であることに注意すべきである。このことは、発電所敷地内にある膨大な数量の使用済み核燃料の安全保管問題に深刻な影響を及ぼしている。

 この喫緊の課題が解決しない限り、再稼働の安全審査申請などはあり得ないのではないか。使用済み核燃料の安全保管がいかに大事であるかは、今回の大震災の福島第一原発4号機の最大の、そして最悪の悪夢からの教訓であることを忘れてはなるまい。

  補遺3

  自民党と公明党の安倍新政権の原発政策の骨子(安倍普三首相年頭所感)。

 第一。再稼働については、7月にまとまる規制委の安全審査新基準をパスしたものの中から、今後3年をかけ、政府の責任で再稼働を認めていく方針。

 第二。原発依存については、今後10年間かけて、原発新増設も含めて電力のベストミックスを見極める( 注記 原発依存度をゼロにはしないが、ゼロを打ち出している公明党に配慮して、依存度を当面減らす方向の意味だろう。1号機、2号機の代替(いわゆる「リプレイス」)である浜岡6号の計画は、新設や増設に当たらないとして生き残る可能性 )

  第三。この間、再生エネルギーの開発に全力で取り組む 

  ● 参考文献

■ 浜岡原発と活断層 真下に巨大活断層の可能性

Dsc00773 ○ 中電プレスリリース(2012年2月29日付) 活断層の連動性について。リリースは、大震災を受けて、浜岡原発の周辺における活断層の連動性に関する検討について、保安院から再解析を指示されて作成された報告の概要。その結果は「連動性を考慮する必要のある活断層の組み合わせはない」というもの。ここには、右写真のように、もっとも大きな影響が予想される「石花海(せのうみ)海盆内西部断層帯」など、浜岡原発の海側の16の活断層が図示されている。

 配布資料=浜岡原発と活断層

   「hamaoka.pdf」をダウンロード      

○ 浜岡原発の真下に巨大活断層の可能性 名大教授指摘 室戸岬まで全長400キロ(2011年7月17日付東京新聞)。この記事によると、海上保安庁のデータをもとに、鈴木康弘名大教授(変動地形学)が数百メートルの海底にある活断層によってできたと推定される「たわみ」を確認したというもの。「遠州灘とう曲帯」と名づけられた。

○ 「新たな活断層調査について」(政府の地震調査委員会、2009年4月)。地表から見えない活断層、あるいは海沿いの活断層など、新しい選択基準に基づいて、活断層の再調査に乗り出している。この基準では、陸域ではこれまで考慮されなかった短い活断層、あるいは地表に現れていない活断層の調査も実施する。さらに、これまでほとんど長期評価がなされてこなかった海沿いの活断層の調査にも力を入れている。目標は「活断層基本図」の作成で、10年後の完成を目指している。

 注目されるのは、つい最近、その第一弾として原案がまとまった九州地域。活断層の数が倍増している(1月14日付のYOMIURI ONLINE ニュース)。

  また、注目の稼動中の大飯原発の敷地内を横切るF-6破砕帯が近くの活断層と連動して動くかどうか、それとも地すべりなのか、その2回目の調査結果について検討する規制委の評価会合が、2013年1月16日に開かれた。しかし、評価の結論は出ず、調査を継続することになり、評価は先送りされた。仮に活断層と認定されれば、敷地内を走る重要施設の緊急取水配管がこの破砕帯を横切っており、今後の再稼働の安全審査に重大な影響が出ることは必至。

○ 『新編 日本の活断層』 (活断層研究会編、1991年)

 ■ 最近のブログ「左側のない男」から

○報道する側の問題点

論説=地域と研究者とジャーナリズムと(2012年11月17日付)

画竜点睛を欠く中日新聞 原発放射能拡散予測(2012年10月26日付)

もう一つの「原発のできなかった町」珠洲  告白的ジャーナリズム論(2012年8月22日付)

原発事故調報告、八つ当たりの日経「社説」(2012年7月25日付)

発言を認め、原子力ムラの本音引き出そう(2012年7月23日付)

アリバイづくりの「原発比率」意見聴取会(2012年7月15日付)

「藪の中」の原発事故 真相は刑事裁判で(2012年7月9日付)

平均値でものを考えない 節電の盲点(2012年7月7日)

○原発事故関連

低線量被爆は高レベルより安全か 細胞膜を破壊するペトカウ効果の脅威(2013年1月8日付)。注記-このブログには、事故で大量に放出された放射性ヨウ素131が静岡県内にどのように拡散してきたか、その拡散シミュレーションが紹介された2013年1月12日放送のNHKスペシャル「空白の初期被ばく」をもとに論じている。

危険値の100倍被爆の驚愕 なお驚く非公開 東電はまともな企業か(2012年12月3日付)

なぜ消された?「テレビ会議」録画 名大シンポ(2012年10月30日付)

疑わしきは予防する 低線量被爆の脅威(2012年10月16日付) 

最も危険な「浜岡5号機」は間に合わない(2012年9月16日付)

急ぐべきは「使用済み」の安全保管  浜岡原発差し止め訴訟原告代表訴える(2012年9月12日付)

大量放射能漏れは東電の過失 これで刑事責任は問える(2012年8月29日付)

「藪の中」の原発事故、真相は刑事裁判で(2012年7月9日付)

○エネルギー論関連

コーヒー一杯の分のエネルギー革命を 夏を乗り切った「電力」(2012年9月2日付)

脱原発のコスト 1世帯平均年1万円を10年(2012年8月7日付)     

○南海トラフ地震関連

過去に目をつむる者は 予測された巨大津波(2012年11月30日付)

静岡県は住んでよし、訪れてよしの「ふじのくに」のはずなのに(2012年8月31日付)

■ 最近の新聞記事から

原発の新たな安全基準づくりの攻防(2013年1月14日付「静岡」)。

注記- 今年7月施行予定の注目の基準づくりの様子が記事になっている。ポイントは、「原子炉建屋など重要施設は、地震で直接動く主断層やそれに伴いずれる副断層などの活断層の直上に設置してはならない」と直接的で明確な文言を盛り込めるかどうかである。

  もう一つのポイントは、活断層の定義の変更。これまでの12万年から13万年前以降に活動した断層というものから、無用の論争をさけるため、40万年前以降の活動断層と再定義する。2013年1月末までには、基準の骨子案がまとまり、公表される見通し。

原発10基超 防災に不備 経産省が調査開始 可燃ケーブル使用(1013年1月1日付「毎日」)

原発事故 100人超聴取へ 検察、東電旧経営陣ら(2012年12月30日付「産経」)

原子力規制委、断層調査の暴走が心配だ(2012年12月30日付「産経」社説)

「地すべり」か「活断層」か 地層の「ずれ」埋まらぬ溝 大飯原発(2012年12月30日付「産経」)

原発はブラック・スワンなのか モスクワ支局長「日曜日に書く」(2012年12月30日付「産経」)

関東、大地震の確率上昇 今後30年以内、「浜岡」は95%(2012年12月22日付「朝日」)

敦賀 廃炉の公算大 「原発直下に活断層」 規制委、再稼働認めず(2012年12月11日付「朝日」)

敦賀原発 脱・安全神話の時代へ(2012年12月11日付「朝日」社説)

甲状腺被爆 最高1.2万ミリシーベルト WHO報告書 福島第一の作業員(2012年12月1日付「朝日」)

静岡原発条例の教訓 民意発信、多様な回路を(2012年10月14日付「朝日」社説)

■ 最近の著書から

『人間と環境への低レベル放射能の脅威 福島原発汚染を考えるために』(グロイブ/スターングラス。肥田舜太郎ほか訳。あけび書房。2011年6月)

『脱原発』(浜岡原発差止訴訟弁護団長=河合弘之、作家=大下英治。青志社、2011年6月)

『原発訴訟』(海渡雄一、岩波新書、2011年11月)

『福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書』(日本再建イニシアティブ、ディスカヴァー、2012年3月)

『原発再稼働 最後の条件 「福島第一」事故検証最終報告』(大前研一、小学館、2012年7月)

『原発報道 東京新聞はこう伝えた』(東京新聞報道局、東京新聞社、2012年11月)

『原発と地震 柏崎刈羽「震度7」の警告』(新潟日報社特別取材班、講談社、2009年1月)

「週刊金曜日 特集=原発報道の正体 新聞、テレビ、ラジオは何を伝えているのか」(2012年10月19日号)

「週刊ポスト」2012年11月9日号「いまさら何だ、地震学会! 「予知はできない」」

2012年10月22日付毎日新聞特集=この国と原発「毎日新聞社説」検証

2012年2月29日付朝日新聞「耕論」=科学者の責任(東日本大震災1年特集)

「GRAPHICATION」2012年1月号「ジャーナリズムと専門家の社会的責務」池内了

戦略提言「政策形成における科学と政府の役割及び責任に係わる原則の確立に向けて」

(科学技術振興機構研究開発戦略センター、2012年3月)

「Science」2012年9月7日号「Rebuilding Public Trust in Science for Policy-Making」 注=元科学技術立案官僚からの政策提言として注目したい

「科学」(岩波書店、2013年1月号)「大飯原発の活断層について」(島崎邦彦規制委委員長代理)

2012年8月27日付朝日新聞「私の視点」河合弘之弁護士=原発事故と検察、録画入手へ捜査乗り出せ

2011年12月10日付朝日新聞「私の視点」井上正男科学・技術担当論説委員=地震学の敗北、学界や報道の体質改善を

 なお、浜岡原発の津波や地震に伴う安全性など幅広い問題については、大震災後の2011年5月以降の

 静岡新聞の長期連載「続・浜岡原発の選択」

が貴重(記事全文は

 http://www.at-s.com/news/featured/genpatsu/sentaku_2/all/ 

で読むことができる)。取材班、特に特定の記者が一貫して取材を続けており、名古屋に本社がある中電内部の動きを除けば、有用な記録である。

 原発に対する立ち位置、スタンスは、6号機計画の撤回など、脱原発依存。「再稼働は住民の不安解消後に」を提唱している。

 ● 活断層と原発、廃炉 - その海外事情  2013年1月27日深夜 付記

 この問題については、この日放送された

 NNNドキュメント( 静岡だいいちなど、日本テレビ系列)の

 「活断層と原発そして廃炉」

が参考になる。

 1960年代、アメリカ西海岸に建設を予定していた

 ボデガヘッド原発(サンフランシスコ郊外)

は、建設工事中にプレート型活断層が発見され、1964年に一度も稼働することなく廃炉になった。

 稼働後、付近に活断層が発見されたものに

 1972年に稼働を始めたフンボルトベイ原発(西海岸)

がある。80キロをこえるプレート型活断層で、大地震による配管破断(いわゆるギロチン破断)のおそれから、稼働から10年後に廃炉(1983年)。

  もうひとつ、カリフォルニア州ロスアンゼルス郊外に建設された

 ディアブロ原発

についても紹介されていた。付近を通るホズクリ活断層の発見後も稼働していた。しかし時の安全基準を満たすために必要な莫大な追加補修、すくなくとも当時の費用で1000億円がかかることがわかり、廃炉となった。続けていれば、さらに5000億円にものぼるコストがかかったであろうと番組。

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ミッドウェー海戦なみの大敗北  衆院民主党

(2012.12.17)  今回衆院選の与党民主党の選挙結果を一言で評するとすれば、

 ミッドウェー海戦なみの大敗北

ということになろう。なにしろ、前回の2009年衆院選では308議席を獲得するという真珠湾攻撃なみの大勝利だったのに、

 わずか57議席

にまで議席を減らした。

 この敗北で、民主党は、内閣不信任決議案を単独で提出できる、あるいは予算を伴う議案を単独で提出できる51議席をわずかに上回ったものの、再起不能に近い打撃をこうむった。まさに、空母4隻を一挙に失ったミッドウェー海戦に匹敵する出来事。

  このことは、民主党は参院では比較第1党とはいえ、日本における2大政党制の危機だともいえよう。

 注目したいのは、日本維新の会や日本未来の党などの第三極の獲得議席である。

 Image13901 維新の会は、石原慎太郎代表や橋本徹代表代行などは、「次」を見越して100議席以上を狙っていたふしがあるが、54議席。これまた、かろうじて、内閣不信任決議案を単独で提出できる程度の議席数ではあるものの、過半数241議席をうかがう政権を狙うにしては小さすぎる。

 あえて言えば、今回、維新の会は国政進出の地歩を固めたとはいえるであろう。

 これが、政権への道を歩むことができるかどうかについては、来夏の参院選が正念場であろう。与党となる自公は、現在、参院過半数に16議席足りない。参院現有3議席の維新がどの程度伸ばせるか、つまり、自公参院過半数を阻止できるかどうか、ここにカギがありそうだ。 

 未来の党にいたっては1桁の9議席。予算の伴わない議案を提出できる議席数21にすらはるかに届かない。10議席必要な党首討論にすら参加できないのでは、衆院においては話にならない。

 キャスティング・ボートを握れる位置にある参院の現有勢力8議席を別にすれば、来夏の参院選まで果たして党自体を維持できるかどうかすら危ぶまれる。ドタバタで急にできた党というのは、太陽の党しかりで、ドタバタで急になくなるという危惧がある。党としての土台づくりのほうが先だ。

 一方、絶対安定多数の269議席を上回った自民党は、連立する公明党の31議席を合わせると325議席(単独では294議席)。これは、参院で否決された法案を再可決・成立させることのできる320議席(衆院議席の3分の2)を上回る。

 ただ、参院の現況は自民、公明を合わせても過半数には届いておらず、国会は依然、衆参ねじれ状態。それだけに、この大量議席の獲得は自公にとって好ましいようにみえる。

 しかし、この1年の国会運営をみていると、衆院再議決は、「決める政治」には必ずしもつながらず、むしろ国会を機能麻痺に陥らせる結果を招きそうだ。参院軽視をむき出しにするからだ。それだけに、自民党も、民主党の二の舞は避け、再議決には慎重になるだろう。

 とすれば、政権奪取にはまだまだ道は遠いが、単独で内閣不信任決議案の提出ができる維新の会は、少なくとも再議決をめぐって自公対民主の間で対立した場合、いわゆるキャスティング・ボートを握ったとは言えよう。

 自民党としては、来年の参院選、その次の参院選で勝利し、自公で少なくとも過半数、できれば議席の3分の2を獲得し、ねじれの解消、あるいは憲法改正への環境整備にこぎつけたいところだろう。

 ただ、その場合、連立を組む公明党は、自民党のいう憲法改正には慎重な姿勢を崩していないのがポイント。今後互いに参院選挙で協力したとしても、もうひと波乱もふた波乱もある。

 最後に一言。今回、政権選択を問うという大事な選挙であったにもかかわらず、また期日前投票が選挙期間中ずっと行われていたにもかかわらず、投票率が全国平均で60%にも届かず、戦後最低であったことは、いかにも残念だ。

 この国民にして、この政治あり、といえるだろう。

 「決められない政治」の原因には、国民の政治意識の低さがあることを、ブログ子は今回、思い知らされた。寄らしむべし、知らしむべからずという戦前の封建的なお上意識、いわゆる官尊民卑がいまだに根強い証拠だろう。戦後70年近くたっても、政治を変えるのは国民だという当事者意識が国民に今もって希薄。

 ブログ子にとって、このことが今回の一番のショックだった。このしっぺ返しは、いつか、必ず来る。

 一挙に、あるいは劇的にかどうかはともかく、政治は変えられるという意識をまず持ちたい。

 ( 写真上は、2012年12月13日付中日新聞より )

 

 蛇足

 先日のこのブログで書いたように、共同通信社出身の後藤謙次政治コラムニストの予測は、ブログ子が予想した通り、

Image14032  200議席以上と予測した自民党の獲得議席数も、100超と予測した民主党の議席数も、また、100議席にどれだけ迫るかという維新の会の議席も、ものの見事に、そして、大幅に外した。

 新聞社に配信しているだけの共同通信社には、大衆の気持ちはわからないということを実証した典型的な見本だろう。

 これに対して、大筋、予測を当てたのは、投票日直前に発行された「週刊現代」(12月22日/29日号。写真 )で、

 自民282、民主83、維新48

だった。さすがは、大衆の見方の週刊誌である。すごい。

   

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ヒマラヤ「デス・ゾーン」 竹内洋岳の挑戦

(2012.12.15)  なんとなく、それも途中から、ぼんやり見ていたNHKスペシャルだったが、途中から、

 これはすごい

ということに気がついた。それも、番組の趣旨とは関係ないところで、まったくもってすごいと思った。その番組というのは先日、総合テレビで放送された

 ヒマラヤ8000メートル峰 全14座登頂に挑む

という登山家、竹内洋岳41歳の達成までの21年と、最後のダウラギリ峰(8167メートル)の登頂成功の様子だった。

  静岡県に住み始めているのに、富士山にだってろくに登ったことのないブログ子が何に驚いたかというと、生き物らしい生き物がまったく生息できない

 8000メートルをこえる、いわゆる「デス・ゾーン」

に、おそらくすべて無酸素で14回も成功したという事実である。これは

 超人というか、超生物的な快挙

だろう(しかもエベレスト山頂の気温はなんと零下50度前後)。

 Image1383_2 なぜなら、生物が陸上に進出して以来、5億年以上たつが、この間、地表の酸素濃度は、12%以下になったことは一度もないからだ(現在の地表の酸素濃度は21%)。このことは、

 『恐竜はなぜ鳥に進化したのか』(原題= Out of Thin Air(薄い大気の中で)。P.ウォード、文藝春秋、2008年。写真上 )

に詳しい。そのことを知っていたので、番組の流れとは関係なく、これはすごいと思ったのだ。なにしろ、8000メートルをこえると、

 写真下の手書きグラフからもわかるように、

 8000メートルでの酸素濃度は、8.5%

以下。8000メートル級の山々の頂に、無酸素で登頂するには、これ以下の過酷な状況に長時間、おそらく10時間以上たえなければならないからだ。

 陸上生物が長時間生存できる酸素濃度の限界は、進化論的には先ほどの12%ぐらいが限界。山の高さで言えば、だいたい、5000メートルが限度なのだ。富士山の山頂に近づくと、あるいは長くそこにいると、ブログ子もそうだったが、頭痛などの高山病の症状が出るのもこのためだ。体が異常を知らせるのだ。

 なのに、竹内さんは、8000メートルをこえるヒマラヤ高山を14座も征服している。

 グラフでもわかるが、6000メートルでの酸素濃度は地表の半分、9000メートルで3分の1近くになる。

 Dsc00521 竹内さんの話では、酸素マスクを使わない無酸素の場合、

 8000メートルをこえる山では、登頂というよりも、本来行けないところをなんとか、頂上経由で元の7000メートルのスタートのキャンプまで、ちゃんと生きて戻ってくることができるかどうかという闘い

なんだそうだ。

 それでも一気に頂上まで登ることはできない。いったん、8000メートルの危険地帯をうかがう7000メートル前後のキャンプで

 高度順化

をする。体を慣らす。その後一度、より低いキャンプまで降りる。そうした準備をした上で、天候を見ながら、頂上を目指す。そんな様子が映像で紹介されていた。運がなければ、成功は難しいらしい。体力のある、そして若ければ成功するというものではない。

 事実、番組では、竹内さんに同行した若い登山家は高山病の症状で、デスゾーン目前で下山を余儀なくされている。

 14座すべて登頂に成功したのは、竹内さんが日本人としては初めてらしい。快挙というよりも驚異である。

 進化論的な見地からは、酸素マスクを付けた登山と、そうではない無酸素とでは、まったく意味が異なるということになろう。

 一方、世界一のエベレスト山でも、その山頂の上空をインドガンやアネハヅルがゆうゆうと飛んでいく。これは、さきほどの本によると、鳥は、人間の肺機能より、3割も効率的だかららしい。さきほどの手書きのグラフから推算すると、

 つまり、鳥にとっての「デス・ゾーン」は9000メートルぐらい

ということになる。これだと、鳥はなんとか、エベレストの山頂をこえていける計算だ。しかし、それでも、しんどいことは、しんどいだろう。

 竹内さんの挑戦をみて、地球上の生物の進化の苦闘の様子をまざまざと見せつけられたような発見の番組だとわかった。

 エベレスト登頂などのヒマラヤ登山というのは、人類の進化、いやそれよりもはるか昔の数億年の過去にさかのぼる生き物たちの物語なのだ。

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針の穴に糸を通す イン 浜松科学館

Image14012  (2012.12.17)  ことの難しさを表現する言葉に

 針の穴に糸を通すような

という言い方がある。針の穴にゾウを通すという言い方もあるらしい。とても、無理だ、とてもじゃないが不可能という意味になる。

 小さな子どもたちに、ごく薄い透明なプラスチック板を見本の絵の上において絵をなぞって写し取り、あるいはそれにオリジナルな絵を書き加えて、出来上がったのをトースターで、食パンよろしく焼き上げるという

 プラ板工作 

をやってもらった。ボランティアとして参加している浜松科学館の年間行事のうち最大のイベント

 おや!なぜ?横丁

の40以上の出店ブースの一つである。プラスチックの板は、10秒前後、熱を加えると大幅に、約3分の1くらいに縮まる。

 透明なプラスチックの板に自分で描いたのが熱で小さくなり、焼く前に空けた穴に飾りひもを通せば、立派なストラップになるのだから、しかも塗り絵もできるとあって、子どもたちには人気。付き添いできたお母さん方もついつい、自分でもつくってしまう。だがら、小学校に上がる前の幼児や小学校低学年が、親子で一番参加しやすいテーマということになる( 写真上 )。

 子どもでも簡単にできると思っていたが、

 小さな穴に糸のようなひもを通す

というのは幼児には大変に難しいことらしいことがわかった。直径2、3ミリの穴に穂先の少しばらけたひもをどうしたら、うまく通せるか。子どもたちは悪戦苦闘する。

 ひもの先を指でひねって尖らせようとする子ども。つばをつけてとがらせようとする幼児もいたが、なかなか容易ではないようだ。せいぜい半分くらいしか成功しない。

 ただ、さすがに、小学低学年になると、この穴通しは、7、8割はできる。ただし、その後の

 ひも結び

では、どんな結び方でもいいから、とにかくうまくできたのは、3分の1くらい。日常生活で、ちょうちょ結び、まる結びといったような「結ぶ」という行為があまりないからだろう。

 そんな中、ある低学年の男の子が、なんと

 本結び( 写真下 )

をして見せてくれた。ブログ子は、恥ずかしい話だが、これまで一度もこんな結び方をしたことがない。だから、この子どもの結び方はまちがいだと思ったくらいだ。

 そのやり方は、

 ひもの端を、まず、1回からめて結び、続いて、もう1回、今度は最初とは逆向きにひもをからめて結ぶやりかた

である。これだと、いかなひもはほどけない。

 Image1405 事実、子どもの〝まちがい〟を直そうとして、解こうとしたが、解けなかった。ブログ子は、これまで、2回目も同じ方向にからめていた。このやり方でも結びとしては問題はないが、解けにくい堅い結びという点では、この子どもの結び方が断然正解なのだ。

 そこで、調べてみて驚いた。

 この本結びという結び方は、なんと、人類では、新石器時代から知っていた結び方。しかもそれは、ロープ結びといって、結びの基本中の基本らしいことを知って二度びっくりした。

 60歳すぎまで一度も気づかなかったことを小さな子どもに教えられた1日だった。ボランティアに参加していなければ、死ぬまで「本結び」など知ることはなかったであろう。

  注記

 Image13941_2 このほか、イベントでは、浜松医科大学奇術部サークルの科学マジック

 I.ニュートンもびっくり、重力に逆らう「防すい棒」

にも感心した。丸い棒のほうは、ころころ坂道を転がり落ちる。なのに、防すい棒は坂道をゆっくりと登っていく。既製品らしいのだが、タネを想像するのにちょっと戸惑った( 写真下 )。

 

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外の風を入れる「TQC」に 東電内部改革

(2012.12.14)  以前のこのブログ(2012年10月12日付)で、東京電力が自ら設置した社内改革委員会とも言うべき

 原子力改革特別タスクフォース会合 

の席上、社長・会長も出席した上で、外部の監視委員会に対し、

 原発・津波事故は対処可能であった

と公式に東電自らの不作為の責任を認めたことを、書いた。

 これほどの津波はそもそも予測不可能だったとするこれまでの主張を180度転換した瞬間だった。この転換を引き出した改革タスクフォースのスタートから3か月の取り組みをNHKが密着取材した。その様子が、先日

 クローズアップ現代(瀬戸際の東電内部改革)

で放送されていた( 写真上 )。

  福島第一原発では、押し寄せる津波の高さが15.7メートル、浸水深さ5.7メートルになる恐れもあることが、社内シュミレーションで早くから弾き出されていた( 写真下 )。しかし、それは経営陣には届いていたが、一般には伏せられていたことがタスクフォースの調査で分かった。

 Dsc004961_2 番組では、重要リスク管理表が作成されていたとはいえ、原発の稼働率を下げないという経営論理が暗黙のうちにあった。このルールに忠実に行動すると、安全対策が置き去りにされる。当然、安全対策の優先順位が下がる。タスクフォースメンバーの一人は、そう苦しい胸のうちを吐露していた。

 つまりは、起きる可能性があるものは、いくら確率が小さいので起きないと都合よく解釈しても、いつかは必ず起きるという法則が、経営論理に押しのけられてしまった。それが今回の事故の原因だったというわけだ。

 この論理が、少しずつ、少しずつ原発の安全マージンを削り取っていった。これは否定できない現実だろう。

 とすれば、経営の論理に隷属しない新しい安全文化を社内に根付かせる必要があろう。それは何か。後述するが、

 自由な発想に基づく「品質至上主義」

というかつての日本が世界に誇った取り組みに学ぶことだ。

 もうひとつ、社内だけではなく、対社会に対しても、上から目線という問題点があった。

 タスクフォースのメンバーの発言だが、今も、かつての東電の発想で考えているのではないかという忸怩たる思いを語っていた。原発は安全という、いわゆる国家的な「上から目線」の発想であり、社会にとって安全かどうかという視点がなかった。いまもそうではないのかとの思いもあるらしい。

 わかりやすく言えば、そこのけそこのけ、原子力が通るという、知らず知らずのおごりだ。確かに、このことも、事故を防ぐことのできなかった重要な原因だろう。

 なぜなら、上から目線は、せっかくの危惧をそんなはずはないと一蹴してしまいがちだからだ。おごりは、そのリスクが現実化するかもしれないという健全な発想を根拠もなく押さえ込んでしまう。

 改革タスクフォースの事務局長が

 「まだまだ安全性を向上させる余地はあった」

と発言していたのも、社内的な経営論理の優先、対外的な上から目線のおごり体質という問題点の反省の上に立ったものなのだろう。

 この二つの問題点を改善するには、

 外の風を入れる全社的なQC(品質管理)活動

が有効ではないか。

 Dsc0050615m2 外部からタスクフォースを監視する委員会(デイル・クライン委員長)というのも、一定の効果はあろう。が、実のある真の安全対策には限界がある。かつての、とりわけ1960年代の日本のQC活動のような現場の声を生かすサークル活動は「不良品ゼロ」運動として大変に有効であった。

 現場からの問題を指摘する意見、改善点の提案など自主的で、そして全社的な、いわゆるTQC活動こそ、安全性向上に対してその真価を発揮するだろう。

 QCには、一般に設計上の品質管理と、実際の製品上の品質管理がある。原発安全対策の場合、前者は国家レベルで基準や規制を強制的に行うのに対して、後者は電力会社が担う。

 この場合、問題点の洗い出しや改善点の提案では、社員が経営論理など社内のしがらみにからめ取られないためには、

 社会からの苦情、クレームの窓口づくり

 デミング賞など安全性向上に資する活動に対する表賞制度

 内部からの、あるいは外部からの告発などに対する降格人事や制裁の禁止制度

などの仕組みは必要だろう。

  国の安全基準さえクリアすればよい。今回の大惨事は、それだけでは不十分であることをはっきりと示した。そんな形式主義、見せかけ主義から抜け出し、社内の自主的な取り組みによる

 品質至上主義

を組織内に安全文化の根幹として根付かせたい。平たく言えば、品質至上主義とは、かつてのソニー主義だ。

 こう考えてくると、こうした組織づくりは、ひとり東電だけでなく、各電力会社が共通して取り組むべき課題だとわかる。しかも、それは、何も特別なことではない。かつて「メイド・イン・ジャパン」として、世界に冠たる日本のお家芸だったのだ。

 番組を拝見して、そう思った。

  注記

 12月14日夜のNHKニュースによると、

 東京電力は、原発の存続を前提に原子力組織の改革案として、

 (これまでの稼働率重視に代えて)安全性を最優先する経営方針

を打ち出した。タスクフォースを監視する外部委員会に出席した同社社長と会長が正式に報告した。この方針を含めた最終報告書がまとまるのは、来年2月ごろという。

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Jアラートは役立ったか  「ノー」である

(2012.12.12)  今回の北朝鮮のミサイル発射に対して、浜松市防災ホッとメール、つまり、空襲警報にあたる全国瞬時警戒「Jアラート」が、ブログ子のパソコンにも、あらかじめ登録しておいたので、確かに届いた。しかし、

 ミサイル発射が午前09時49分なのに対し、メールが届いたのは25分後の10時14分

だった( 発射基地から1500キロ離れた沖縄県上空通過は10時01分。ミサイルは発射から12分後に沖縄上空を通過している )。

 今回の実験からすると、北朝鮮から1200キロ離れているブログ子の住む名古屋、浜松に、もし〝着弾〟するとしたならば、それは発射から約10分後。 避難には、どうしたって5分はかかる。

 Image1385 とすると、それを差し引くと発射5分後にはJアラートがパソコンに届かなければ避難には間に合わない。それが、現在のシステムでは、25分もかかっているのだ。とうてい、間に合わない。つまりは、役には立たない。現状のシステムでは、メールが届いたころには、ブログ子は着弾後で、すでに死亡している。

 そんなことがわかった。

 人手が介在するからだろう、発射から空襲警報が市民に届くのに25分もかかる( 今回の場合、国が警戒を全国の自治体に呼びかける連絡をしたのは、沖縄の上空通過の6分前の9時55分。発射6分後には国は処理している。なのに、受け取った自治体が住民にメールを届けるのに20分近くかかっている)。ほかの地域でもこれとそう違いはすまい。これを全体で5分以内に短縮するには、もはや自治体という人手を介在させていては、実現は無理だろう。 課題は、いかに空襲警報発令までの時間を短縮するかだ。思い切って、自治体の介在を排し、自動化することが不可欠だろう。

 そうでないと、Jアラートとは、冗談ではないが、瞬時とは名ばかりで、全国「逡巡」警戒システムに堕してしまう。

  とはいえ、国に、こんな優れた市民向けの防空警戒システムがあるのは、日本だけである。だから、有効な運用には、先ほどのような欠陥があるという事実から目をそらしてはなるまい。国のアラート後は、完全自動化を図るべきではないか。

 これが、先制攻撃はもちろん、交戦権のない自衛隊しか持たない専守防衛の日本が、今回のミサイル発射「成功」という厳しい現実から学ぶべき教訓なのだ。

  (  写真は、2012年12月13日付中日新聞朝刊1面  「衛星」軌道に進入 )

 注記

 それにしても、解せないのは、北朝鮮がいうように平和目的の〝人工衛星〟の打ち上げだとするなら、成功の確率を高めるために東に向かって打ち上げるはずだが、あえてなぜ、制御が難しい真南に向かって打ち上げたのか。いかにも、おかしい。とうてい、単なる平和目的の人工衛星の打ち上げ実験だとは思えない。

 南北を回る極軌道に乗せる衛星の技術開発だとすれば、それは偵察衛星を視野に入れているか、地上への落下を前提に弾道ミサイルの性能を海上着弾でテストする着弾実験ということになる。海に着弾させれば、外国に軍事機密である切り離したロケットを回収される心配がない。

 今回の打ち上げでは、北朝鮮があえてトラブルがあるように偽装し、すきをついて、突然打ち上げたのは、明らかに日本やアメリカのミサイル探知の対応能力を探るためだったのだろう。

 こうした北朝鮮のたくみなゆさぶりは、日本もおおいに学ぶべきであろう。北朝鮮は、日本などに比べてはるかに老獪というべきだろう。

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ハーモニカと「貧」主主義 小沢昭一的こころ

(2012.12.12)  定年後、しばらく、ブログ子は、静岡市に本社のある新聞社につとめていたことがあるが、その時、駅までの夕方の送迎バス車内には、たいてい、

 小沢昭一の小沢昭一的こころ

というラジオ番組が流れていた。小沢さんが亡くなるまで、なんと、40年近く続いていたとは、当時、知らなかった。

 それでも、小沢昭一的こころというのは、何だろうと、帰宅する駅までの10分ぐらい、ときどきぼんやりと思ったものだ。

 そんな小沢さんが亡くなったというので、BSプレミアムで数年前の在りし日に収録した

 長時間の「100年インタビュー」

を放送していた。これを拝見して、そのこころがわかった。舞台に、映画に、ラジオに活躍した俳優、小沢さんのいう、

 小沢昭一的こころとは、ハーモニカと「貧」主主義

のことだと。

 Dsc00477 貧主主義とは、つつましい、そして、お金がない分、モノを大切にする経済小国をめざそうという意味であり、いかにも庶民に寄りそう小沢さんらしくていい。バランスのとれた経済小国、経済中国ではなぜいけないのか、とも嘆いていた。

  戦後は、経済的な豊かさや民主主義を叫ぶあまり、貧主主義の良さを忘れてしまったのではないかというわけだ。ひところのストイックな「清貧の思想」とは、また一味違った独特の言い回しだ。あえて言えば、

 めげない、したたかな「貧の思想」

ということだろう。

 ブログ子のような団塊世代にはなつかしいハーモニカ。この楽器には、モノのない戦後昭和の時代のこころ、つまり、お金がなくても心豊かに暮らしたいという思いがこもっていると、小沢さんはいいたいのだろう。うたうのが好きだった、そして民衆芸能をこよなく愛した人らしい。

 番組では、小沢さんが、胸ポケットから使い込んだハーモニカを取り出し、好きな

 東京ラプソディ

を吹いてみせてくれた。

 「貧乏はかまわない。それが、ぼくなんかを育ててくれたのだから」という小沢さん。でも、

 「戦争だけは、いけない。やめたほうがいい」

と最後に、しみじみと人生を振り返って語っていたのが印象に残った。戦争体験者に共通の思いだろう。

 インタビューの最後に、小沢さん、どういうわけか

 好きになった人

を、これまた、ハーモニカで吹いてくれていた( 写真 )。いわゆるエンディングのつもりなのだろうが、どこか、少し物悲しい気持ちにもなった。

 俳人、草田男ではないが、今年なくなった「放浪記」の女優、森光子さんといい、

 少しずつ、昭和も、そして民衆芸能も遠くなりにけり

ということなのだろう - 。

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浜名湖の生き物が持続できる水環境づくり       - 研究者の会

Image1351_3 (2012.12.11)  このブログが機縁で、

 「浜名湖をめぐる研究者の会」

という会合に先日参加した。

  東大農学部大学院の付属水産実験所(浜松市西区弁天島)が毎年1回、今ごろ開いているごく気軽なワークショップ(WS)で、今年で21回目らしい。全国からの研究者だけでなく、会場には地元高校生、静岡大学の大学院生なども成果をポスターに張り出し参加している。総合討論では地元漁師が発言をリードしたり、市会議員あり、県庁の技師あり、と多様な分野の人たちが浜名湖やその周辺の環境について、日ごろの成果をまとめたパネルを前に熱っぽく語り合っていた( 写真上 )。

 この実験所は、浜名湖の海水を使ったトラフグの研究が有名で、ここの鈴木譲教授がこの10年手がけている( 写真 )。通常のオスのトラフグは「XY」の性染色体を持つのに対し、遺伝子解析と何世代もの育種で「YY」の染色体を持つ、いわば

 「超」オス

をつくりだすのに成功した。いわゆる

 オス、メスの産み分け技術

がトラフグで確立した。こうした技術を使うと、生まれてくるフグがすべてオス、あるいはすべてメスという産み分けができるので養殖への利用も考えられているという。

 Dsc00465 ブログ子も、そのYYの「超」オスの2010年ものと、まだ少し小さい2012年ものが、実験水槽のなかで元気に育っている様子を見せてもらった。WSのポスターセッションでは、この産み分けの仕組みを鈴木さん自身が解説してくれていた( 写真右と下の2枚 )。

 このほか、浜名湖のウナギの生態についての特任研究員の成果など、地域研究にも力を入れていた。どうやら、ウナギは、11月ごろに銀化という体制を整え、南のマリアナ海溝めがけて南下していくらしい。その、よし行くぞ、とウナギが決心するのは、ある特殊なホルモンが関係しているらしいことも突き止められたという。

 ブログ子も、「科学・技術と社会」という見地から、ポスターセッションで参加した。内容は、このブログの

 http://lowell.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-18f9.html 

と同じ、

 「論説 あなたは、自分の仕事を社会と結びつけて語れますか」

というもの( 写真中 )。

 Image1356 地域と研究者とジャーナリズムと - 非線形型社会を考える

というサブタイトルも付けた。

 こうした観点から、会場のポスターを見て回った。

 浜名湖北部の「最終処分場計画の危険性」(奥山地区環境保全対策協議会)や「浜名湖地域の6次産業- 県内事例から見た浜名湖の可能性」(静岡県経済産業部水産振興課)の発表が目を引いた。「いのちを守る森の防潮堤をつくろう」(NPO法人縄文楽校)では、今回の大震災の教訓を生かした取り組みである。

 見て回って、ふと、づいた気づいた。この会合というのは、研究者それぞれはバラバラに研究しているようにみえるが、つまるところ

 浜名湖の生き物が持続できる水の環境づくり

ということを考える会ではないのかという点だ。ポスターセッションの佐鳴湖のヤマトシジミ再生の取り組み(静岡県立浜松北高校)などはその典型だ。シジミを再生させるには、上流河川からの、いわゆる「押し水」が必要なのだ。単に水を浄化するだけでは再生にはなかなかつながらないことがわかってきたという。

 そこで、去年の14件のポスターセッション予稿集にも目を通したが、大きなくくりとしては、持続可能な水環境づくりと関連しているテーマが多い。

 持続できる水環境づくりは、また、浜名湖の「豊かさ」とは何かを、その変遷を通じて問うことでもある。

 こうした枠組みで、これまでの講演要旨一つ一つを時系列をいったんはなれて、たとえば、フィールドデータなどの発見的なまとめ方、KJ法で分類、整理して総合的に分析する。きっと

 海域、浜名湖の喫水域+淡水の佐鳴湖、河川流域という水循環の今後の展望

が見えてくるのではないかと思ったりもした。KJ法というのは、東工大教授(文化人類学者)だった川喜田二郎さんが開発した野外調査のためのデータの発見的なとりまとめ技法である。

 Image1345 主催者側の現時点でのブレーンストーミングも取り入れて、20年間分の講演要旨をこの方法でまとめれば、これまで関係ないと思っていた取り組みが時間を飛び越えて、思わぬところでつながる、あるいは死角となっていた課題も浮かび上がってくるのではないか。

 その結果、きっと、発見的な地域研究にまとまる。また、そうすれば、生き物の水環境の展望を開く出口戦略も、ポスターセッションでも展示されていた「浜名湖の可能性」(木南竜平)よりも、さらに具体的に見えてくるのではないか。

 一言で言えば、浜名湖をめぐる生き物が持続できる水環境の構築というこの20年間を俯瞰する発見的なまとめ報告がほしい。

 そんな、こんなで、いろいろ考えさせてくれたワークショップ会合だったように思う。

 補遺

 Image1381jst このまとめ提案は、たとえば、国立環境研究所が中心になり、さまざまな研究者が協力し現場重視で行っている

 「持続可能な水利用を実現する革新的な技術とシステム」(「JSTnews」2012年12月号に概要説明 = 写真左)

の生物版であり、フィールドも浜名湖やその周辺に絞ってより具体的にアプローチするものにあたるであろう。

 別の言い方をすれば、

 社会のための科学・技術という見地に立つ

 科学技術公共政策における

 「アウトリーチ活動」の推進

ということになろう。異なる専門分野が分野をこえて協力し、よりよい社会技術を開発しようという試みである。

  補遺2   2012.12.14

   今回の会合には、これまで謎だったニホンウナギの産卵場所を特定したことで数年前話題になった

 塚本勝巳教授( 東大大気海洋学研究所)

も参加していた。

 塚本さんに、話をうかがったら、特定は偶然ではなく、

 成長しながら回遊するウナギの回遊ルートは海水の潮目ときっと密接に関係があるとの仮説を立てたらしい。そこから、ウナギの仔魚(しぎょ。レプトセファルス)を手繰り寄せ、ついに、

 ニホンウナギの天然魚卵

をグアムなどのあるマリアナ諸島の西方深海で発見した。つまり、日本人におなじみのニホンウナギの産卵場所が、世界で初めて特定されたというわけだ。2009年5月のことだった。このとき、塚本さんの40年にわたる執念が実ったという。

  201207242055931n_3 そんな挑戦については、塚本さんの近著

 『ウナギ大回遊の謎』( PHPサイエンス・ワールド新書。写真右)

に詳しい。浜名湖にやってくるニホンウナギは、そのマリアナ諸島の深海の産卵場所からやってくるというわけだ。そして、また、そこに帰ってゆく。進化とも関係しているらしい大回遊といっていいだろう。

 注記 参考文献

 浜名湖の動的な水環境については、

 『浜名湖水のふしぎ 内湾の自然と海水の動き』(松田義弘、静岡新聞社、1999年)

が名著だろう。著者の30年近い研究の成果を、23のテーマと問題意識に分けて、丁寧に、しかも、グラフや図でわかりやすく書かれている。

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合唱のある人生 「第九」演奏会に出かけて

(2012.12.10)  先日土曜日の夜、JR浜松駅前のコンサートホールで開かれた

 ベートーベンの交響曲「第九」演奏会

を聴きに出かけた。第九なんて、10年ぶりである。

 Image137820121208 友人に誘われて出かけたのだが、今回は、近所のちょっとした知り合いが合唱のテノールで出演するというので、が然、行く気になった。

 感想を一言で言えば、

 世知辛い世の中だが、生きている限りは、音楽、さらに言えば合唱のある人生はやはりいいものだ

という実感だった。同時に、

 人生にひとりでうたう歌が必要であるように、街にもみんなで声をそろえて歌う音楽が必要だ

とも思った。自分たちの街に誇りを持ち、自信につながる。

 件の出演している知人はクラシックファンで、地元の浜松フロイデ合唱団に入っているらしい。

 今回の合唱では、男女160人くらいが参加していた。プロの声楽家も4人。オーケストラは、50人くらいだったから、大編成である。ブログ子には、クラシックの妙味はわからないが、編成の大きさだけでも、豪華な気分になった。

 後半の「歓喜」の合唱では、いやなことから開放されたように、心が高ぶった。一時間半くらいの演奏が終わったときには、思わず拍手を繰り返していた(写真)。

 こんな気持ちになったのは何年ぶりかである。

 こうしたいわば

 地域の市民からなるコミュニティ合唱団の成功例

には、イギリスの

 サウスオキシー合唱団

が最近、話題になった。ロンドン郊外のすさんだ街、サウスオキシーで、カリスマ合唱指揮者

 ギャレス・マローン

が合唱団の結成を呼びかけた。最初のころの市民の反応は、けんもほろろ、散々だったらしい。それでも1年後には、立派なひとり立ちの合唱団に育て上げてしまった。若くて、スタイルもよく、ハンサムな青年がタクトを振るのだから、街が活気を取り戻すのも、ある意味、当然だったかもしれない。

 その様子を最近、テレビのドキュメンタリーで見たのだが、マローンさんのほめ上手、やる気を引き出す魅力的な話し方には感心した。これがあったからこそ、わずか1年で成果を出せたのだろう。マローンさんは、そんな仕事を2年ぐらいの周期で、いろいろな都市をめぐって合唱団づくりをしているらしい( 補遺 )。

 それに比べたら、浜松は、楽器の街ということもあり、めぐまれている。フロイデ合唱団などは、もう40年近く活動を続けている。10年ほど前にはアマチュア合唱団としては、全国で初めて自立したNPO法人格も取得しているという。

 地域合唱団は、街を元気づけるコミュニケーションの場

である。そんなことを納得した夜だった-。

  補遺 2012.12.26

 ギャレス・マローンさんは、このほかにも、

 「軍人の妻」合唱団を結成し、

 イギリスの王立陸軍士官学校

で、妻たちの合唱の成果を披露している。成果がでるまでの様子が12月26日のBS1「世界のドキュメンタリー」で、紹介されていた。合唱団としてみんなで歌うことで、アフガニスタンなどの前線に派遣された兵士の妻たちの不安と孤独を和らげることができる。そんな妻たちの実感が番組から伝わってきた。

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外食レストラン内、最も汚いのはどこ?

(2012.12.05) 表題のような質問をされたならば、たいていの人は、そりゃトイレだろう、いや、ドアの取っ手。いや、待てよ、テーブルかな、ひょっとすると、ナイフやフォークかもしれない。そう思うだろう。

 一応、そうなのだが、そんなことは、レストラン側も承知だから、消毒には気をつけている。だから、意外にも、これらには、ばい菌がそんなに付着しているわけではないのだそうだ。

 先日のBS1夜の国際ニュース情報番組「ワールド Wave」を見ていたら、最後のほうの

 「News カフェ」

のコーナーで、この問題を調査したアメリカABC放送の番組を紹介していた。

 意外にも、

 第三位は、料理に絞り汁をかけるレモン

なんだそうだ。なるほど、意外な盲点がもしれない。レストラン側でも、お客に出す前にレモンの表面をきれいに消毒しようなんて考えもしないだろう。わが家でもそうだ。

 第二位は、メニュー表。

 たいていのお客は手に取るが、レストラン側もここまでは気がつかないようだ。

 そして、なんと

 第一位は、腰掛けるイス

なんだそうだ。肘掛け椅子だと確かに、手に触れて、その手で食事をするわけだから、ばい菌が口に入りやすい。赤ちゃんのオムツを堂々と仕替えるお母さんもいるそうだから、こわい。アメリカの調査では、17種類もの病原菌を含めた雑菌が検出されたそうだ。

 気がつかない意外なところにばい菌の巣があったわけだが、よく考えると、意外な場所だからこそ、消毒しなかったからだということになる。今時のレストラン、意外なところでないとばい菌はいないということでもある。 

 自衛策は、食べる直前に手を石けんでよく洗うこと。それだけで、口に入るばい菌はかなりの部分を排除できるらしい。ところが、外食レストランで、手を石けんで洗っている人はほとんどみかけない。ここに、このニュースの核心がある。 

 歳末とあって大掃除の季節に入る。こうした自衛策は、わが家でも、言えそうで、ブログ子も、番組を見終わってから、早速、いつも座っているイスのアルコール消毒をした。

 消毒が終わって、ふと気づいた。

 このコーナーの話はよく覚えているのだが、売りともいうべき、肝心の伝えていた国際ニュースが何であったかは、ほとんど覚えていない。国際ニュース番組というのは、身近な問題に、あるいは関心事に結びつかない限り、しょせん、そんなものなのだろう。

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各紙の世論調査を検証する

(2012.12.07)  世論調査などに惑わされずに、自分の頭で考えて、候補者の実績、あるいは候補者の将来性をじっくりと勘案して投票しようと、ブログ子は先日訴えた。今もそう思うが、

 世論調査の驚くべき素早さ

には、ほとほと感心した。ひどいを通り越して、すばらしい。

 Image13401206 何しろ、調査をした日の翌々には、何万人もの全国電話世論調査の分析結果が朝刊にでかでかと掲載される時代なのだ。無作為抽出によるといっても、電話番号などもコンピュータが自動的につくりだし、かけまくる。出てきた人に、だれかれなく、問いかけ、プッシュホンで選択肢を選ばせる。人間を介さない完全自動の調査なのだ。

 なにしろ、そうして無機質に集めたデータを分析しようにも、時間がないから、かなりいい加減な分析にならざるを得ない。

 巧緻より拙速を尊ぶ

の代表みたいなやり方だ。新聞社も、考えている暇などないのだ。

 今の選挙で言えば、公示日の4日と翌日の5日の両日に調査した結果と分析は、6日の各紙朝刊には1面トップに掲載されるのだ( 写真 )。戦後間もないときには、調査から掲載までは早くても1カ月はかかっていたのに比べると、隔世の感である。

 そんな12月6日付の朝刊各紙だが、各紙一斉に世論調査の結果が出ている。

 結論を先に言えば、1面を見る限り、ブログ子の地元、

 静岡新聞( 写真 )

が、一番まとまっていた。知りたいことが、きちんとすべて1面に出揃っていた。

 一番ダメだったのは、ブロック紙の中日新聞( 写真下 )。

 静岡新聞では、

 自民 単独過半数の勢い

と読者が一番知りたいことを横見出しに打っている。縦見出しは、

 民主激減 70前後か

としていて、具体的に書いている。共同通信社の世論調査をうまく、活用した。1面には、具体的な推定獲得議席数が、誤差を加味して一覧表にまとめている。見事である。

 しかも、地元はどうなのか、というもっとも読者の知りたいことについても、

 県内6選挙区で自民優勢 未決定47% 第三極伸び悩み

とズバリ分析している。8選挙区のうち6選挙区で自民が勝つといっているのだ。しかも、それがどの程度なのか、その根拠のグラフが選挙区ごとに1面に、とてもわかりやすく棒グラフで表示されている。

 見出しを見ただけで、読者の知りたいことは、すべて、しかも、具体的に数字で知ることができる。

 Image13386 これに比べて、中日新聞1面は、あろうことか、

 自民優勢 民主苦戦

と縦見出し。そんなことは、もはや読者は知っている。問題は、どのくらい自民が優勢で、どのくらい民主が苦戦しているのかという序盤の情勢を知りたいのだ。中部9県で3万人もの独自電話調査をしたのに、これでは、台無しだ。ひどすぎる( 注記 ) 。

 共同通信ではなく、独自の調査をした朝日新聞も、静岡新聞と同じ見出し

 自民 単独過半数の勢い

と打っている。民主100議席割れも 維新50前後か

と具体的に見出しを打っている。国民の関心がなへんにあるか、十分承知した上での見出しであり、世論調査とはいえ、訴求力がある。

 読売新聞も、独自に世論調査(約10万人電話調査)して、

 自民 過半数超す勢い

と打っている。連立の公明を含めると「300議席を超す」と本文では書いている。民主については、本文で「厳しい戦いになっており、大きく議席を減らす公算」としていて、見出しだけでは、詳しい様子がわからない。せっかくの大規模調査が紙面に生かされていない感が否めない。整理記者の腕の見せ所なのだが、それがなかったと言える。

 そんなこんなで、世論調査の楽屋裏を知ってしまうと、やはり、自分の頭で考えることの大事さをつくづく感じる。曰く。

 有権者よ、世論調査の結果に惑わされるな。自分の信念で投票を。

  注記 2012.12.13

 さすがに、中日新聞も、発行してしまってから、これはひどいと思ったのであろう。

 12月13日付朝刊1面。トップではないが、準トップで

 自民 過半数超の勢い 民主 100割り込む 4割投票未定 本紙世論調査

という記事を掲載している。共同通信社と中日新聞の独自取材という形を取っているのが、苦しい。

 補遺 脱原発の各党のスタンス

 今回の選挙の争点の一つは、原発政策の今後であろう。

 この点については、

 即原発ゼロ   共産党、民社党、新党日本

 段階的にゼロ  民主、未来、公明、みんな、新党大地

 ゼロにはせず依存度を下げる 自民、維新、国民新党、新党改革

となっている。 自分の頭で考える場合、科学・技術の視点からの政党選別のひとつの大雑把な基準にはなろう。

 ただし、廃炉にする基準、どの原発を廃炉にするのか、という点については、各党ともにあいまいな公約になっている。

 さらに突っ込んで言えば、原発ゼロの場合、再処理工場の取り扱い、最終処分場探しという「核のごみ」問題については、どうするのか、ほとんど公約には言及がない。

 また、ゼロにするにしても、しないにしても、たまる一方の、そして今回の原発事故で危険極まりないとわかった原子力発電所内部の使用済み核燃料の保管方法をどうするのか、具体策はまつたく争点にはなっていない。

 さらには、29トンものプルトニウムの処分をどうするのか、国際的な疑念を招かない方策はあるのか、という点に至っては、ほとんど議論すらなされた気配も形跡もない。

 いずれにしても、これらは、新政権の喫緊の課題になる。 

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酸素の代わりに水素で生きる生物はいるか 土星のタイタン

(2012.12.07)  写真は、土星最大の衛星、タイタンの写真。ブログ子のパソコンの前に張ってある。NASAの土星探査機、カッシーニが今年の夏、タイタンが土星の輪っかを横切る様子を撮影したときのものだ。なかなか珍しいものだが、地球の半分くらいの大きさらしい。土星から、地球-月間の3倍ほど離れたところを回っているという。

 なんとも、雄大な光景だが、この衛星に、ひょっとしたら、というか、多分に、

 生命がいるのではないか

という番組を、先日、BSプレミアム「コズミック・フロント」で放送していた。

 しかも、それは、地球の動物のような酸素呼吸ではなく、水素を取り込んで生きる生物の可能性が高いという。形も、衛星が極低温なところから、効率よくえさを取り込めるよう、

 平べったいシート型生物

が考えられるらしい。

 Dms1208301536019p120120830nasa_2 いろいろな話が一度に出てきて、すこしわかりにくかったのだが、要するに、

 タイタンは、原始地球の気象あるいは気候にそっくり

というわけだ。

 ただし、地球の水に対し、タイタンのメタンという違いがある。地球が20度前後なのに対し、タイタンの温度がマイナス180度という違いが、その原因。

 タイタンには部厚い大気があり、ほとんどが窒素で一部メタン。硬い大地があり、地表には、地球の湖に似た液体のメタン湖がある。また、地球の河口に見られるような丸みを帯びた石のようなものがごろごろしている。大地には風が吹いているらしく、その音まで観測された。

 さらに。

 地球の大地は土でできているが、タイタンでは、マイナス180度の表面は水の氷。くぼんだところには、地球では湖だが、タイタンでは液体のメタン湖。一部は、下の氷にしみこんでいるらしい。

 大気には、地球では水蒸気の水なのに対し、メタン雲である。 大気の厚さは、地球は数十キロ(対流圏)だが、タイタンは約1000キロと桁違い。

 地球の大気大循環のような循環が、タイタンにもあり、メタンが大循環している。地球では水の雨が降る。タイタンでは、メタンの雨が降る。

 火山もある。ただし、地球の活火山は溶岩が噴出しているが、タイタンでは、アンモニアが溶け込んだ水が噴火している。タイタンの地下には、つまり、氷の下には、巨大な海があるらしい。

 こうした気象環境で、そもそも生命のもととなる遺伝情報、DNAが形成されるのか。

 驚いたことに、DNAの構成要素の一つ、アデニン塩基をつくりだすことができるらしい。そのほかの塩基物質もできることが実験で確かめられているという。

 そんなわけで、なんと、タイタンの大気は、地球を除けば

 太陽系で最適な有機物製造工場

らしい。

  タイタンの生物としては、現在の地球でもみられる

 古細菌

に近いらしい。この細菌は、水を必要としていない。水素と炭素でできている炭化水素のアスファルトを食べて生きているのだ。

 もっとも、同じDNAを持っていたとしても、タイタン型生物は、地球上の「酸素」生物とは異なり、進化という点では、まったく別系統のもの、あえて言えば

 「水素」生物

だろう。

 この番組を見た感想を一言で言えば、

 太陽系の中ですら、さまざまな形の生物が存在する可能性が浮かび上がってきたということは、生命の定義を、地球生命と同じ二重らせんのDNA構造を持っているものに限ったとしても、銀河系全体では、驚くほど多種多様な系統の生物が、存在しているだろう

というものだった。とすると、人間の進化など、神はいちいち、そしてまったくご存じないことになる 。人間は神に選ばれたものというのは、人間の身勝手な無知、あるいは無恥から出てきたものであろう。

 わかりやすく言えば、夜郎自大。

 そして、もう一つ、根本的なタイタン型生物に対する疑問がわいてきた。

 そんなに生命発生の環境が地球に似ているのに、なぜタイタンには、水とメタンとの違いはあるものの、地球のような高度文明が誕生していないのか

という疑問だ。

 この深夜の番組をみて、ふと、そんなことを思ってしまった。

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天文学の〝モナリザ〟              -- アンティキテラの機械

(2012.12.04)  ブログ子は、この歳まで海外旅行はほとんどしたことはないが、もし、今から行きたいところはどこかと聞かれれば、

 ギリシャのアテネ

とこたえるだろう。アテネ国立考古学博物館には青銅器時代の遺物として

 「アンティキテラの機械」

というのが展示されているからだ( 写真 )。

 Dsc003946 今から2000年以上も前にギリシャの南部沖、アンティキテラの海底に沈んだ当時の難破船から見つかった青銅製の機械で、天文器具だったらしい。その見事な美しい出来栄えから

 天文学の〝モナリザ〟

という人もいるくらいなのだ。海底から引き上げられたのは、今から100年ほど前。しかし、今日まで、何に使われたのかなど、この謎の機械についてはほとんど解明されないままだったらしい。

 この謎を解く番組が先月下旬にNHK-BSプレミアム「コズミツク・フロント」で放送されたのだが、あまりの面白さに、ついつい、先日の再放送も見てしまった。

 新たに各国から専門家を集めて結成された研究プロジェクトにより、これが、なんと、

 多数の歯車を使ったアナログ式の日食・月食予測機械、

 つまり、

 古代ギリシャの天文コンピュータ

だったことが明らかになったというのだ。番組では、紹介されなかったが、この国際プロジェクトチームの研究報告が

 「Nature」2008年6月30日号

に詳細に出ている。ついつい、ブログ子もその4頁にわたる論文を読んでしまった。論文にはこの機械には、古代ギリシャ語で、一部は失われてはいたものの、その「取り扱い説明書」までついていたことが出ている。

 Dsc003883 予測するにあたって、月、太陽、地球が相対的に同じ位置にくることを示すサロス周期(223朔望月=約18.0年)やメトン周期(235朔望月=約19.0年)がたくみに歯車に組み込まれていて、それをもとに日食、月食の日付、どんな日食、どんな月食になるのか、月食の色までを表示板を見ればたちどころにわかるような仕掛けになっている(朔望月=月の満ち欠けの周期、29.53日)。

 この機械がつくられたのは、日本で言えば、弥生時代前期に当たるのだが、出来栄えの感想を一言で言えば、あまりの精巧さと完成度の高さに

 確かに、天文好きなら、モナリザと呼んでもおかしくはない

というものだった。

 機械が制作されてから1500年以上も後の、あの万能の天才、レオナルド・ダ・ビンチも驚嘆したであろうことは、間違いない。

 日本では、江戸時代の終わりごろになっても、日食の予報はたぶんに不完全であったことを思うと、この機械の驚異的な出来栄えには神秘的ですらある。

 Dsc003904_2 この機械の完成度の高さから推察すると、機械の起源はさらに時代をさかのぼるという。そう、紀元前3世紀のアルキメデスの時代には、登場していたらしい。

 日本で言えば、縄文時代末期、あるいは弥生時代初めにはこんな機械が、ギリシャには登場していたのだ。 

 最近のギリシャ危機では、ギリシャ国民の自堕落な国民性が明るみに出ている。だから、ブログ子などは、破たん国家の危機は自業自得であり、つまらない国、行きたくない国の一つだった。

 が、この番組と論文を見たり、読んだりして、

 さすが、ギリシャ、腐っても鯛

と感心したり、見直したりしたものだ。 

 注記

 写真は、いずれも、NHK-BSプレミアム「コズミック・フロント」=2012年12月3日夜放送をデジカメ画面撮影。

 なお、ブログ子は読んでいないが、

 『アンティキテラ 古代ギリシャのコンピュータ』(J・マーチャント著、文春文庫)

があることを付記したい。

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危険値の100倍被曝の驚愕 なお驚く非公表         東電はまともな企業か

2012.12.03)  この記事は何かの間違いではないかとさえ思った。12月1日付朝日新聞1面トップの

 甲状腺(内部)被曝  最高1.2万ミリシーベルト

 WHO報告書 福島第一の作業員

という記事のことである( 写真 )。

 Image132312000msv 12000ミリシーベルトといえば、発ガンなどの危険値目安100ミリシーベルトの120倍。そんな被曝を昨年の事故直後、作業員はさらされていたというのだ。それも、危険値を上回っていたのは検査を受けた500人以上の約3分の1近い「少なくとも178人いた」というのだから驚愕する。これは、あの10年以上前の東海村の臨界事故をほうふつさせる事態ではないか。

 事故当時は、大混乱だったから、その時は、本人にも知らせず、公表もしなかったというのなら、あるいはわかる。しかし、1年以上もすぎているのに、かなりの人数の本人にも、知らせていない。

 なのに、WHO(世界保健機関)だけは、個人情報は伏せたとはいえ、情報を提供していた。これを犯罪といわずになんと言おう。人権無視もはなはだしい。

 最高被曝作業員の危険度は、もし作業員が20歳とすれば、35歳までに甲状腺がんにかかる危険度は、通常の人の30倍以上、40歳なら、普通の人の約7倍危険だという。

  200ミリシーベルト被曝でも、20歳だと普通の人の1.5倍、40歳で約30%危険度は高まる。

 公表しない理由は、東電の言い分として、また医学的なことも含めていろいろあるだろう。しかし、WHOには報告するが、なんと肝心の本人や国民には知らせていないというのはどう考えても、あべこべであり、企業倫理に著しくもとる。

 東電は企業として、まともとはとても思えない。

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地方は世論のもとなり               - リアルタイム調査の危うさ

(2012.12.02)  きょう、日曜日午前、これまでほとんどなったことのないわが家の固定電話がなった。発信元を確認する表示には「表示圏外」とあった。どうせ、商品の勧誘だろうと思ったが、久しぶりに固定電話の声を聞いてみたくて、受話器を取った。

 Image13332 いきなり、総選挙の世論調査です、お答えできる範囲で結構ですのでご回答くださいとあらかじめ録音されているらしい無機質で平板な女性の声が流れてきた。当然ながら有無を言わせぬ一方的な言い方であり、質問は7つだと押してきた。

 従来の支持政党、今度の投票に行くかどうか、投票する候補者を決めているかどうか、今回投票する政党、あるいはどの党の候補者に投票するか、その基準、回答者の性別と年齢層などを、いくつかの選択肢の中から選んで、その番号をプッシュする。 そして、どこの世論調査なのか、はっきり聞き取れないうちに電話は5分ほどで切れた。

 いわゆる電話帳からの無作為抽出による電話世論調査である。

 ブログ子としては、回答時にはできるだけ正直に回答したつもりだったが、がく然としたのは、電話が切れた直後なのに、

 どう回答したのか、肝心なことは覚えていない

という事実であった。録音の声にただこちらも機械的に反応しただけであり、考えた末のものではなかったせいだからだろう。手間や暇がかかる紙に書いてもらう調査、あるいは面接調査とは違う電話調査の大いなる弱点であり、限界だろう。

 みんながみんな、ブログ子のようなそこつなことをしているわけではないにしても、お手軽で素早い電話世論調査のずさんな実態が垣間見えて、恐ろしくなった。

 なにしろ、薬師寺克行東洋大教授の分析によると、

 「世論調査を気にしすぎる政治が民主党を徐々に侵食し、変質させ、政権運営の失敗につながった」( 「世論調査政治」の落とし穴 『本』(講談社、2012年11月号) )

からだ。同氏は、複数の民主党政権幹部の証言インタビューからこの結論を引き出している。その世論なるものの調査は、かくもいい加減なものなのだ。薬師寺氏は、

どれだけやれば気が済むの ?

と警告している。

 「だから有権者に言いたいのは、世論調査に重きを置かずに、自分で考えて投票してほしい」( 「週刊現代」12月8日号の総選挙特別対談記事 以下の「補遺」参照 )

と呼びかけている。薬師寺氏は、元朝日新聞政治部長であり、論説委員だった人だが、この指摘はその通りだろう。

 Image1331 最近では、その世論調査も、分単位のリアルタイムでなされるようになっている(写真下 =12月1日付朝日新聞。11人が一堂にそろった党首討論に対するツイッター投稿分析)。どの党首のどういう発言にネットは反応しているかが分単位でわかるというものすごさである。

 こんなことに一喜一憂する政治、あるいは政党は明らかにばかげている。

 しかし、現実には、この反応に踊らされて、投票行動したり、政党は政策を変更している。大衆迎合主義も、ここに極まったというべきだろう。たとえば、国民の関心を集めている「維新の会」の右往左往ぶり、あるいは変質ぶりはまさにしかりである。

 注意すべきは、だからと言って、世論など、あるいは地方の世論など無視してよい、聞く耳を持たなくてよいといっているわけではない点だ。そんなことをすれば、独裁政治になってしまう。人気取りの政治はするなということだ。

 わか家には、写真上のような

 「地方是輿論的本也(地方は世論の本なり)」

という掛け軸があり、この20年、大切にしている。地方の切実な問題に政治家は真摯に耳を傾けよ、というぐらいの意味で、ブログ子の信念でもある。

 もともとは、北陸のある地方紙の創刊者であり、主筆でもあったジャーナリスト、赤羽萬次郎の信念だった。赤羽は、今から100年以上も前の明治時代に、いくつかの新聞を渡り歩いて活躍した。近代日本のジャーナリズムの先駆けとなった反骨の新聞人だったと言っていいだろう。

  そんなこんなで、今朝かかってきた無機質な電話は、図らずも、世論調査政治などに惑わされずに、自分の頭でよく考えてから、投票するようにと警告してくれた、ありがたいメッセージであったと思う。政治が悪いのは、国民の民度も低いからなのだ。そんなことがわかったのだから、今時の固定電話の効用も、ばかにはならない。

 注記

 自分の頭で考える場合、各党の公約、マニフェストを比較出るサイトとして、

 http://d.hatena.ne.jp/scicom/20121216/p1 

は、参考になる。ここには、科学技術政策を各党ごとに公約が要約してまとめられている。

 また、第三極の新党や政党を選択する場合、どうせ、総選挙後は、解党、合併などの離合集散が避けられないだろうから、党を選ばず、将来性、実績などから人を選ぶのは、一票を国政に生かす賢明な策であろうとブログ子は考えたい。

 補遺

 この特別対談の相手は、共同通信社の元政治部長、元編集局長だった政治コラムニストの後藤謙次氏。

 同氏の講演を何度か聞いたことがあるが、そして、政治予測が好きな割には、あまり当たらなかったことを記憶している。

 ちなみに、同氏は、薬師寺氏との対談で、総選挙公示直前時点で、政党の獲得議席を次のように「ざっくりした数字」と断ってはいるものの、予言している。

 解散時118議席だった自民党「200議席超」

 解散時230議席の民主党「復元力が維持できる100議席超」

 第3極の筆頭、維新の会「100議席にどこまで迫れるか」

 公示直前結成の新党未来については、週刊誌発行後とあって言及はない。ただ、合流する小沢一郎氏率いる

 解散時40議席前後の「国民の生活が第一」は「10議席超。20議席に届くかどうか」

と読んでいた(ただし、数字の根拠の明示はない)。

   この後藤氏の予測は、おそらく、おおむね、あたらないだろう。ちなみに、後藤氏は、民主党支持派とみられている。

 衆院解散時21議席の公明党、同9議席の共産党については、言及なし(公明党は比例も含めて30議席の大台、共産党も倍増を目指している)。公明党は、総選挙後は自民党との連立を視野に入れている。

 なお、読売新聞・日本テレビなど読売新聞系の最新の電話10万人世論調査では、自民党は過半数241議席を上回る勢い(「ニュースZERO」12月5日夜で発表)

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米国は「他力」の国になるか 五木寛之の旅

(2012.12.01) 何気なく、先日午前、寝ぼけまなこでBSプレミアムを見ていたら

 作家、五木寛之の

 「他力」に救い求めるアメリカ

というのを放送していた。21世紀の仏教のあり方を求める旅シリーズなのだが、大震災直後の2011年4月の再放送らしい。久しぶりに見る五木さんは、確か、80歳近いはずだが、とてもそんなには見えない。若い。小男ではあるが、ダンディで、写真は必ず向かって右側からしか撮らせないという伝説があるくらいだ。この日の解説出演もそうだった。

 さて、番組は、要するに21世紀の仏教はどういうふうになるか、世界をめぐって考えてみようというものらしい。

 結論は、どうやら、

 仏教は、「他力」を世界の共通語として、再生する

という五木さんの印象を紹介したもの、といえばあたらずといえども、遠からずだろう。他力とは、阿弥陀仏の本願力のことである。俗に、他力ではダメ、本人の自助努力というアレである。しかし、五木さんが言いたかったのは、今の「心の危機」の時代には、他力の力、共助の力が求められているということだろう。

 五木さんには他力との出会いを中心にした自伝エッセー『TARIKI』という英文に翻訳した著書まである(写真= 「アマゾン」HP www.amazon.co.jp より)。五木さんの思いはそうであっても、他力に救いを求めるアメリカというのは、本当だろうか。

 他力とは、番組に登場した僧りょの巧みな表現で言えば

 I am sorry であり、Thank you であり、I love you

である。一言で言えば

 他力とは、自律した寛容の精神

ということになろうか。 これに対し「自力」とは、座禅などで自らの修行で解脱することをいう。

 この他力の考え方は、浄土真宗の元祖、親鸞の教えでもある。ブログ子は、真宗の盛んな北陸に生まれ、育ったせいか、この考え方にはなじんでいる。わかるのである。

 これに対し、アメリカは、もともと自助努力、すなわち仏教でいうところの「自力」の国。そういって悪ければ、つまり、もう少し踏み込めば

 自力の共和党、他力の民主党

ということであろうか。

 最近の米大統領選挙では、

 divided America(分裂するアメリカ)

という傾向が強まっている。アメリカの各州は、政治的には赤の共和党、青の民主党というように、都市部あるいは海岸沿いは「青」、これに対し、農村部や内陸部は「赤」、つまり共和党の地盤という色分けが、黒人大統領の登場で最近急速に2極化している。

 かつて奴隷制があった州かどうかで色分けされているといってもいいかもしれない。そして、それはだんだん、相互対話を不能にするほどまでにはっきりし始めている。

 41d6qkemtsl__bo2204203200_pisitbsti 2011年にアメリカを訪れた五木氏が、そんな政治地図など知るよしもないだろうが、なかなか言いえて妙、他力、自力の考え方ではあろう。一理はある。

 共和党のロムニー氏と民主党のオバマ氏が激烈に争った今回の大統領選挙は、

 自力と他力の争い

ともいえるような気がした。

 親鸞が1262年に没して、2011年は没後750回忌。

 親鸞が生きていれば、この選挙をどう見たであろうか。阿弥陀は、他力本願が勝利したと胸を張るだろうか。

 わざわざアメリカの人っ子ひとりいない湖のほとりにまで行って思索してきた五木さんには悪いが、その思索の旅は、二つの意味で、

 煩悩の旅だった

ような気がしてならない。

 一つは、オバマ大統領が再選されても、アメリカが他力の国になることはないだろうということ。強いアメリカの源泉が「自力」にあるとその歴史が教えてくれている。このことを国民自身がよく知っているからだ。

 そして、第二は、日本の仏教もまた今のままでは、世界共通の宗教として再生することはないだろうということ。他力の仏教自身があまりに他力を当てにしているからだ。他力とは、自律であることを忘れている。これでは世界宗教になどなれるはずもない。

 番組を見て、正直、そう感じたことを告白しておこう。

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