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「自然な死」のむずかしい時代を生きる

(2012.11.07)  この映画を見て、つくづく

 昔のような「自然な状態で死ぬ」ということのむずかしい時代に生きている

ということを痛感した。この映画というのは、今、公開中の周防正行監督の尊厳死をテーマにした

 「終(つい)の信託」(草刈民代/役所広司/大沢たかお)

のことである。

 Image1177 発作を起こした治療中のぜんそく患者が意識不明のまま病院に搬送されてくる。長く担当してきた主治医の医師が、見るに見かねてほかの医師には相談しないまま筋弛緩剤を注射し、死亡させた。果たしてこれは終末期医療なのか、はたまた殺人なのか。15年くらい前に実際に起きたそんな事件(川崎協同病院事件)がモデルである。

 簡単に言ってしまえば、そうなのだが、実際の医療現場はそんな簡単なものではなかったらしい。

 医療現場での医師同士の対立と葛藤や、患者や患者の家族、それぞれの心の葛藤もある。その辺を医師役の草刈さんや、患者役の役所さんは好演していた。しかも医師が呼び出しを受け検察庁に出頭、待たされ、取り調べられ、そして逮捕されるまでのほんの3時間ぐらいの物語として構成されている。周防監督のその脚本力にも感心した。検事役の大沢たかおの迫力ある演技がこの映画をずいぶんと引き締めており、俳優として出世作となるのではないか。

 それでも見終わって、ブログ子は、周防監督は、この映画で何を言おうとしたのだろうかと思って、いろいろ考えた。タイトル「終の信託」から、なんとなく意図はわからないでもなかったが、はっきりしなかった。

 そんな折、先日金曜日午前、NHK第一ラジオの番組「すっぴん !」のインタビューコーナーに周防監督が出演していた。

 「終活について、この映画で何か答えを用意していたわけではない」

とこたえていた。むしろ、この映画を機会に、みなさんそれぞれその答えを考えてほしいというわけだ。こんな個人的な問題で誰にでも当てはまる答えなどあるはずもないと気づいた。

 周防監督は、

 「こうしてほしいという大まかなことは決めて、きちんと残しておくのが家族にとってはありがたいだろう。もっとも、あんまりこまごまと厳格に言われてもかえって家族は困るだろうが」

という趣旨の発言もしていた。終末期の「命の信託」といっても、せいぜいその程度なのだろう。

 実際の事件では、ぜんそく患者が長年書き綴っていた闘病日記に、無理な延命治療は望まないこと、最後は担当医の先生にお任せするという趣旨のことがつづられていた。この結果、医師は裁判で有罪とはなったが、執行猶予がついたらしい。

 具体的にどのようなことを大まかに意思表示するかは、なかなかむずかしい。最近、ブログ子は、国立長寿医療センター(愛知県大府市)などで行っている

 事前指定書制度

を知った。経管栄養補給法や人工呼吸療法を望むかどうか、死期が迫ってきた場合、できるだけ延命治療を望むかどうか、それとも自然な状態におくのか確認をする手立てである。医師にとっても家族にとっても、これは助かるだろう。

 もうひとつ、映画を見て考えたことは、これ以上治療を続けるかどうか判断に迷い、負担が重くのしかかる医師への免責である。

 つまり、なんらかの一定条件が整えられれば、この映画のように刑事責任には問われないようにする法整備である。論議を呼ぶテーマであるが、尊厳死の法制化の動きは、現在、国会でも超党派で論議が進んでいるらしい。

 植物状態、脳死状態、後戻りのない脳死のいずれをもって尊厳死段階とするか。たとえ患者の「お任せします」の事前意志があったとしても、一般化することは大変に難しい。下手をすると、嘱託殺人になりかねない。

 そうならないためには、もうこれ以上延命治療をしても無駄だ、と複数の医師が治療をあきらめる判断材料として、

 すくなくとも脳波検査

は不可欠だろう。これにより、先の尊厳死のどの段階かも確かめられる。つまり、死が避けられず、しかも切迫しているその度合いが客観的にわかるし、また記録にも残せる。映画では、この脳波測定が慢性患者なのになかった。

 映画にも再現されていたが、気道を確保するための

 気管チューブの取り外し

はどうか。

 自然死を望む意思が明確なら、脳波検査から死期が避けられず、しかも迫っている場合なら、ブログ子は取り外してもかまわないと思う。嘱託殺人には当たらない。

 問題は、映画のように、託された尊厳死だからと言って、また、肉体的な苦痛を目の当たりにしたからといって、楽にしてあげるとの善意から医師が、積極的に

 筋弛緩剤を(致死量をこえて)投与する

ことは、尊厳死とは言えないだろう。自然な状態で死にたいという患者の意思に反する。

 気管チューブ取り外しとどこが異なるのか。

 それは、自然な状態で死を迎えさせているかどうかの違いだ。積極的な投与はこの状態に反する。嘱託殺人と言われても仕方がないだろう。

 そんなこんな、いろいろなことを考えさせる映画だった。

 公開初日の土曜日の夕方に見に行ったのだが、200人以上収容の観客席にシニアを中心にわずか、2、30人にすぎなかった。なのに、映画館の外に出たら、好天の夕闇のなか、浜松まつりの大勢の市民で街はにぎわっていた。

 楽しい映画ではない。また、観客自ら考えなければならない映画でもある。そんな映画を見ようという人が少なくなったのではないか。とすれば、映画ファンとしては、さびしい。  

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