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2012年11月

過去に目つむる者は 予測された巨大津波

(2012.11.30)  先日、アクトシティ浜松(浜松市)で、

 「南海トラフ巨大地震に備える」

という静岡県宅地建物取引業協会浜松支部のシンポジウムが、一般の市民も参加して開かれた(  写真 )。

 Image1309 ブログ子も参加したのだが、地質学の専門家によるマクロで骨太な国家的な視点の提示と、今すぐ足元で行動できるミクロな街づくりの具体的な主催者側提案がうまく結びついた企画に、驚いた。しかも、その間に浜松市という行政が重要な要素として介在し、巨大災害にどうこれから対応していくのか、議論されていた。

 結論を先に言えば、第一点は、講演は、かの有名な

 「過去に目をつむる者は、現在にも盲目であり、未来でも同じ過ちを犯すであろう」

というドイツ敗戦40周年に際しワイツゼッカー独大統領の連邦議会演説(1985年)の

 巨大災害版

であり、警告だという点。話をした箕浦幸治東北大大学院教授は、今回の巨大津波地震を20年以上も前に具体的に予測し、警告していた。

 第二は、講演を受けて、主催者の宅建協会からなされた街づくり方策は、

 未来でも同じ過ちを犯さないための具体策

と言えるだろうという点。それは、津波避難マンションの高層化など4つの提案だった。公益社団法人として協会が新しい出発をするにあたって開いたシンポにふさわしい、そして見識のある内容だったように思う。 

 そこで、以下に、この結論の2点について、ブログ子の私見もまじえて、少し具体的に語ってみたい。

 ● 20年前、100年前に「予測された巨大津波」

 講師となった箕浦さんは、今回の大震災の恐怖を仙台市で実際に体験しているのだが、専門は古環境変動堆積学。その揺れは、ものが下に落ちる重力の加速度(約1000ガル)をかなりこえていたのであろう、本などが真横に飛んでいた。

 その体験から、この地震は普通の大地震ではない。かつて自分が警告した、1000年に一度襲ってくるあの巨大津波地震の襲来だと直感したという。

 シンポでは紹介されなかったが、あの地震というのは、それまでほとんど存在を無視されてきた貞観地震(発生は平安時代の869年)のこと。箕浦さんは、その痕跡を仙台平野の掘削調査(1986年)で見つけた。そのことを論文

 K.minoura & S.Nakayama :  J.Geology (1991年)

として今から20年以上も前に発表、これまで何度となく警告してきた。なのに、東日本大震災が起きるまで、ほとんど無視されてきた。

 しかも、発掘調査だけでなく、当時の古文書「三代実録」にもこの地震の生々しい惨状記述があるのに、また、この古文書を元にこの地震を歴史地理学的に詳細に検討した 

 100年前の明治の歴史地理学者、吉田東伍の研究(1906年)

もあるのに、それでもなお貞観地震の重要性は無視された。その結果、ついに、不意打ちであるかのように大震災が原発事故を伴う形で起きた。

 しかし、それは不意打ちではなかったのだ。警告され続けてきた巨大地震だった。起こるべくして起きた巨大津波地震だった。

 まさに、先の「過去に目をつむる者は-」のワイツゼッカー大統領の警告どおりのことが、東日本で起きた。過去の貞観地震を無視つづけた結果、私たちの現在をみる目に、不意打ちのようにみえただけのことだった。

 ただ、箕浦さんの警告はまったく無視されたわけではない。少しは受け入れ、防潮堤のかさ上げをほどこした東北電力の女川原発は今回重大な事故は まぬがれた。これに対し、警告を意図的に無視した福島第一原発は大惨事というくっきりとした明暗を分ける結果になったことは注目されていい。

 講演でも指摘されたが、防潮堤を津波はその水圧で容易に破壊する。ましてや土台が「堤」に比べてしっかりしていない防潮「壁」ぐらいでは、巨大津波の水圧には耐えられないだろう。

 ● 浜岡原発は大丈夫か

 ひるがえって、防潮「堤」がないなど、津波に対してまったく無防備な現在の浜岡原発(中部電力)は果たして、こうした歴史の教訓をどう受け止めているのか、暗澹たる思いがした。

 全国でもっとも危険な浜岡原発がもっとも津波に対しても、活断層に対しても無防備なツケは必ず回ってくるだろうとシンポの講演を聞きながら感じた。建設中の防潮「壁」はおそらく役には立つまい。そうなれば、少し大げさに言えば国家の滅亡をも連想させる事態ではないか。

 ● 1000年単位の国家観を

 そんな思いは箕浦さんも同じなのだろう。

 ポルトガルの首都リスボンが巨大津波地震(1755年)で一挙に衰亡するなど、世界の歴史が事実でもって示したように、あるいはまた、貞観地震後の平安時代が危うく国家存亡の危機に立たされたように、

 1000年という長期スパンに立った国づくり

という国家観の必要性を今、確かに痛感する。

 たとえば、ブログ子は学生時代から約15年、京都市で暮らしたことがあるが、夏の祇園祭は、貞観地震直後に流行った全国的な疫病退散を祈願する八坂神社の祭りとして始まったことはよく知られている。

 巨大災害は国家をも滅ぼすという基本的な認識を持たなければならないと教えてくれた講演だったように思う。

 ● 主催者側が避難マンションづくりで4つの提案

 こうしたマクロな見地の講演を受けて、主催者側は、浜松市の沿岸、具体的には南区の海岸沿いの土地下落や人口減少に対して、子どもたちを津波地震から守りながら、さびれない元気な街づくりについて、具体的な提案をしていた。

 一つは、この地域(沿岸2キロ)における学校周辺で規制緩和を図り、小中学、高校周辺を中心に津波避難マンションの高層化、第二は避難マンションのオーナー支援制度づくり、さらに賃借する入居者も補助する制度づくり、最後に、太陽光発電など避難マンション屋上の非常時活用促進-だ。

 民間資金と公的な資金の組み合わせで街づくりを考えたしたたかな視野の興味深い提案だとブログ子は受け取った。

 行政側もボランティアの結束を図るソフト的な強化策、ハード面では、始まろうとしている防潮堤づくりについて説明した。防潮堤づくりは、来年6月にまとまる予定の静岡県第4次地震被害想定とも整合性を図る必要があることも指摘された。

 ただ、これらについて、会場の参加者と、行政も加わったパネリストとの間の論議を掘り下げる時間がもう少しほしかった。

 ● 終わりに

 東北大震災では、いまだ復興の国づくりが始まったばかり。しっかりしたハード面の充実は、言うまでもないが、真の復興には、

 巨大災害に備える1000年先を見通した新しい国家観

という国民的な課題に取り組む必要がある。目先ではないこうした課題解決は一朝一夕にはならない。

 しかし、再び過ちを犯さない、その遠大な道のりは、足元からの地道でしたたかな取り組みこそが、結局のところ近道であり、王道であることを、今回の大震災はものの見事に教えてくれたように思う。

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現実をSFにする映像技術  透明人間も

(2012.11.26)  映画館でSF映画を見たことがある人は多いだろう。

 ブログ子も、3D映画「アバター」を公開された3年ほど前に見た。その時は映画館の観客席で特殊なメガネをかけると、観客席と2次元のはずのスクリーンが一体になって、映画の仮想空間が、観客席という現実の世界にせり出し、飛び出してくるような感覚を覚えた。手を伸ばせば、そこに浮かんでいる映画の世界のものにさわることができるかのような視覚効果に驚いたものだ。メガネのせいで、見る人をSFという仮想現実に入り込ませてくれる。

 ところが、先日のNHK番組「サイエンスZERO」を見ていたら、メガネもかけずに、現実のほうをSFの世界にする映像技術、プロジェクション(投射)技術が紹介されていた。

 具体例では、この秋、復元された東京駅丸の内駅舎が踊り、動き回り、あるいはせり出し、崩れたり、消えたりするという仮想現実の映像を見せていた。

 東京駅に集まった多数の見物人も映ったそのイベントの実写映像は、たとえば

 http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1209/24/news103.html

でも、みることができる。まさしく、驚きの

 踊る東京駅

なのだ。これまで、人や建物というのは、映す被写体だった。それを、何か、仮想的なものを投射(プロジェクション)してそこに加算する、あるいは引き算するベースにする。その加算、引き算をするために、現実と仮想の継ぎ目をパソコン内でマッチングさせる技術をマッピングというらしい。

 いったんこの面倒な作業が出来上がってしまうと、仮想を加えたり、あるいは引き去ったりすることは、ベースを基準にパソコン内で容易にできる。踊らせるなり、壁を移動させたり、飛び出させたり、そして東京駅を消し去ることも自由にできる。

 3DのSF映画「アバター」は、仮想世界に観客席という現実が入っていくという融合。これに対し、このイベントはそれとは逆で、私たちが暮らす現実がまずあって、つまり東京駅丸の内駅舎がまずあって、それが踊る、せり出すという仮想の世界を加えることで現実と仮想が融合する。アバターの世界の舞台は、あくまで現実離れしたSFの世界なのに対し、これは舞台のベースになるのは現実の社会なのだ。それだけに衝撃的だ。

 この衝撃は「アバター」映画とは比較にならないほど新鮮。なにしろ、現実がそのまま仮想化するように見える映像技術なのだ。

 この駅舎を舞台にしたイベントは何か仮想的なものを駅舎という現実に加算する実例だが、引き算することで、

 透明人間もつくりだすことができる

ようになっていたのには、驚いた。この現実から、邪魔者を引き算する仮想現実については、

 再帰性反射材とハーフミラーとプロジェクター

を組み合わせることで実現しているらしい。このカモフラージュ的な

 光学迷彩

について、番組では慶応大学大学院(メディアデザイン)の稲見昌彦教授の研究グループが実演して見せていた。なるほど、映した人の後ろにも背景が映っており、透明人間の登場のように見えるところから、引き算効果が光学的に実現している。これはやってきた光の方向に光をほとんど減光することなく反射させるという再帰性反射材を着込んでいることがミソだとわかる。

 この再帰性反射材を使った光学迷彩の原理については、

 http://mcm-www.jwu.ac.jp/~physm/buturi03/camou03/aboutkm.html

にわかりやすく、解説されている。実験結果も載っていて面白い。また、こうした

 現実から映像を視覚的に〝引き算〟する技術

を使って、人は透明人間になれる。その実例として、透明人間マントが開発されている。具体的には、たとえば

 http://matome.naver.jp/odai/2127650387710824501

で紹介されている。これを着れば、あなたも透明人間になることができる。

 番組では、こうした原理などについては、今ひとつわかりずらかった。しかし、原理がわかってしまうと、それほど不思議なマントではないことも理解できた。

 リアルな現実に仮想を加算する、あるいは、透明人間のように現実から仮想を引き算するのはわかったが、問題は

 現実と仮想を融合させるという手法は、遠近法が発明された500年前にすでにあったということだ。具体的には、ダ・ビンチの

 最後の晩さん

の絵画で、ミラノの教会の修道士の食堂に飾られていた。巧みな遠近法で、本物の食堂が絵とまるでつながっているかのような効果をダ・ビンチの手によって生み出されている。食堂という現実に、絵画という二次元の仮想が遠近法により、ぴったりつながっている。修道士はまるでキリストとともに、1500年もの時空を超えて、ともに一緒に食事をしているかのような錯覚を覚える。

 ダ・ビンチは、遠近法を駆使して、

 新しい現実空間

を視覚的に生み出したともいえよう。

 さて。加算、引き算の重ね合わせのほかに、番組では何もそれには触れていなかったが、映像技術には掛け算、割り算はないのだろうか。

 リアルな現実に、ある変換をする演算子を作用させることで新しい現実空間を生み出す

ことも考えられるのではないか。たとえば、時間や空間が収縮する相対論的な時空を体験することもできる。番組を見ながら、そんな夢想までしてみた。

 さらに、飛躍して、この駅舎イベントもそうだったが、見物人の脳はこれまで通りとしている。

 Image886 しかし、どうだろう、駅舎に何も手を加える必要はない。仮想など加えたり、引き算したりする必要もない。その替わり、見ている人の脳のほうに直接働きかける。

 このことで、駅には何にも変化はないのに、まるで駅舎が踊りまくるように、視覚を司る脳のほうに何らかの刺激、作用を働かせる。これでも同じ効果を見物人は持つのではないか。

 たとえば、多くの見物人に脳の視覚に働きかけるサブリミナル波のような電磁波をいっせいに浴びせる。すると、駅舎には何も変化が起こらなかったのに、駅舎がSF的に動き回り、みんなが一様にすばらしいと感動する。

 これは、20年以上も前に日本でも公開された米映画「トータル・リコール」の世界であり、今年の新「トータル・リコール」の世界(写真)であるように思う。完全なる仮想の記憶旅行の世界である。

 現実に対し仮想を加算するにしろ、引き算するにしろ、ある演算子を現実に作用させるにしろ、その行き着く先の技術というのは、見ようとする人の視覚効果を司る脳の機能への直接的な働きかけのような気がする。

 そう考えると、この映像技術に驚いてばかりはいられないのではないか。

 なぜなら、リアルとバーチャルが融合した世界では、

 一体、実在とは何か

という問題に突き当たるからだ。

 私たちは、私たちの脳とは別に厳然と自然界には法則などの実在があると信じている。しかし、それは本当か。この目で見たから確かだ、実在するというのは、もはや必ずしも確かなことではない。それと同様、脳を離れて客観的な実在などないとも言えるのではないか。脳というのは、人間の進化、わずか500万年に発達してきたもの。永遠の実在なんてものはないことになる。脳の進化で、実在も変化する。

 Dsc0186720130629 番組を見終わって、少し、哲学的になったのは酔っていたからだろうか。

 ● 補遺 復原なった東京駅

 この踊る東京駅の舞台となった本物の「復原東京駅」に、ブログ子は、このブログを書いた半年後に見てきた。

 それが、最下段の写真である。撮影は、2013年6月29日午後。

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女は美貌、男は健康が得 in 浜松・忘年会

(2012.11.25)  新聞社の論説記者だったせいか、あるいは、この歳になったせいか、ブログ子は、こちらから問いかけたことに対する相手の即興的な返答で、その人の実力がズバリ、あるいは、おおよそわかる(と思っている)。

 Image41020111122_2 先日、勤労感謝の日の夜、行きつけの飲み屋で常連さんだけで少し早い忘年会を開き、ブログ子も参加した(写真は去年の様子)。店の常連さんといっても、知らない人もいる。お酒が少し入ったころ、きりっとしたなかなかの美貌の女性と、隣に座った40代の働き盛りの独身男性が好きなネコ談義をしていた。互いにネコ好きらしく男性の携帯の待ち受け画面には愛猫が映っている。

 話が途切れたようだったので、突然のように、その女性に

 「美人と言われるのは、女性にとって得か、損か」

と質問した。「同性の女性から憎まれて損」、あるいは「私にはわからない」と謙遜するだろうと予想した。ところが、件の女性、なんと

 「得。だって、それは男にとって健康が得であるのと同じだもの」

と堂々と即答したのには、びっくりした。これには参った。 

 というのは、たいていのほ乳類、たとえば、イノシシの仲間では、メスがオスを選ぶ場合、口から出ている角のような歯が二本ともきれいで、そして立派なほうのオスを選ぶ。形が曲がっていたり、不ぞろいだったりの不健康なオスには、どんなに好かれてもなびかない。生物学の世界では、よく知られている「法則」。

 オスは、健康そうな、見た目が大事

なのだ。人間の男も、いわゆるイケメンである必要はないが、健康であることは絶対なのだ。子孫を残すには。もちろん、健康でイケメンなら申し分はないだろう。

 この事実をズバリ言ってのけた件の女性の直感力の鋭さ、聡明さに感心した。

 41a8gmy48l__sl500__2 忘年会の席からいろいろ漏れてくる話をまとめると、この女性、どうやら若い時には(今もそうかもしれないが)ニューヨーク住まいでジャズ・ボーカリストをしていたらしい。どうりで、スタイリッシュなヒカリものを身につけていてもよく似合う。今は、ジャズっぽい演歌も歌うという。

 たとえば、昨年あたりから売れ出しているという浜圭介作曲の

 CD「愛の法則」(写真)

なども、そうらしい。

 今、そのCDを「アマゾン」で買って、聴いているのだが、秋田美人のこの店のママさんも、これはきっと許してくれるだろう。

 補遺 

  写真上は、昨年2011年11月の忘年会の様子。

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肉に見せられるワケ 朝日新聞「GLOBE」

(2012.11.19)  ブログ子は、今は新聞を定期購読はしていない。時々、街で気まぐれで、どの新聞を買うかも、その時々の気分で、各紙ほぼランダムに選んでいる。

 Image12973globe2 先日の日曜日は朝日新聞を買ったのだが、ほとんど読むところはなかった。見るも無残な広告にはうんざり。ごみ箱に捨てようかと思ったら、挟み込まれたカラー別刷の「The GLOBE」というのが、足元に落ちた。拾って一緒にごみ入れに入れようとしたら、カラーの表紙カバーデザインにびっくり( 写真 )。訴求力があった。

 肉食 Why eat meet ? ( 私たちはなぜ肉を食べるのだろう )

というものだった。

 「世界の肉消費量の推移」のグラフが焼きあがったステーキ肉を背景にして載っていた。

 なぜ肉を食べるのか、

というちょっと気付かない意外な疑問に答えようとしている特集が鋭い。しかも、この50年、世界の人口は2倍にしかならなかったのに、豚肉、鶏肉、牛肉をあわせた肉の消費量は4倍。

 Why ( なぜだ ) ? 

というわけだ。特集では、牛肉派でGLOBE記者の梶原みずほさんが、世界のあちこちを取材して、ほかのGLOBE記者とともにタブロイド版7ページにまとめている。安倍ジャーナリストフェローであり、ロンドン大キングスカレッジ客員研究員だからか、

 読み応え十分

だった。1部150円がとても安い気分になった。ひょっとすると本体の記事がつまらなかったからこそ、出合った記事だと感謝したくらいだ。

 7ページの特集を読めば、世界の肉事情を通じて、国際情勢がよくわかった。しかも、日本が置かれている立場も、なるほどと納得できた。

 さすがは、安倍ジャーナリスト・フェローだけのことはある。

 梶原さんは、特集の最後に、このカバー写真を撮った経緯を書いているが、肉が人に魅せられるワケをなかなか科学的に、そして見事に随筆風に解説していた。

 それを見て、肉食派とはとてもいえないブログ子も、牛肉でも、豚肉でも、鶏肉でももっと食べなくては、という気持ちにさせられた。せめて、もっと居酒屋でヤキトリでも食べなくては、と思ったものだ。

 梶原さんによると、肉の中には、もともと脳を刺激して快感を生み出す化学物質が潜んでいる

というのだから。それが、人が肉に見せられる科学的な理由らしい。

 そんな肉だが、実は、この肉、人間が人工的にはまだまだつくりだせないというから、驚くばかりだ。

  補遺

 脳はどのようにして食欲を生み出しているのか、そしてなぜ食欲が必要なのかを脳生理学の見地から解説した

 『食欲の科学』(櫻井武、講談社ブルーバック)

が、最近出版されている。食欲は食べるだけでは満たされないという、食欲の絶妙な仕組みに感心した。

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ボジョレー・ヌーボーと現代宇宙論

(2012.11.17)   たまには、こんな優雅な飲み方もいいのではないか、と自分決めにして、先日の新酒ワインの解禁日に買ってきた

 新酒ワイン、ミッシェル・ジャック

というのを飲んでいる。このワイン、初めての日本上陸らしい。静かな夜のムードにこの芳醇さが似合う。写真のグラスは、金沢在住時代に手に入れた陶器製の九谷焼で、ブログ子のお気に入り。

 Image12792 こんなときには、衆院解散のドタバタなど忘れて、悠然と、宇宙の起源という浮世離れした現代の最先端科学本でも読んでみるのもいいのではという気分になった。それが、写真の

 『宇宙が始まるとき』(ジョン・バロー、草思社、1996年。原著は1994年)

である。15年ほど前に買った本だが、高名なイギリス人の宇宙論学者の手になるだけに面白い。なんで、今まで最後まで読まなかったのか、悔やまれた。

 なにしろ、宇宙がビッグバンで始まる前には、猛烈な勢いで膨張したというインフレーション宇宙があったこと、さらにその前には、驚いたことに、1秒のごくごく、そのまた、ごく、ごく短い時間だけだが、量子宇宙があった。このことを現代の相対性理論や量子論が示唆していることを、とてもわかりやすく最後のほうで詳しく解説していた。

 しかも、そのごく、ごく、ごく、ごく、ごく短い時間の出来事こそ、現在の宇宙の大規模構造、たとえば、銀河団のつながりなどを決めたのではないかというのだから、すごい。

 しかもそのことを示す、観測的な証拠、たとえば観測衛星がとらえたCOBEデータなどがあるというのだから、二度びっくりする。机上の空理空論ではない。現代の宇宙論は、もはや机上の空論になりがちな哲学ではない。これがブログ子をおどろかせたもう一つの理由。1800円もした本だが、その値打ちは確かにある。

 そんなインフレーション理論を30年前に提唱し、現在、世界的に定説化している。この理論を初めて示した宇宙論学者、佐藤勝彦さんが、今、NHKのEテレで、毎週水曜日に

 相対性理論

について、解説している。時間というのは絶対ではない。時間は、つまり、相対的なのだという。1テーマ4回で放送する「100分 de 名著」シリーズだが、これは理系初の登場らしい。

 Image1298 京都での大学院生時代から少しも変わらぬ、そして飾らぬ雰囲気でわかりやすく解説していて、とても好感を持った。

 ブログ子は、ワインを飲みながら拝見した。先ほどの宇宙論を読んでいたので、佐藤さんが確立したインフレーション理論で、

 長生きすれば、いずれ、そして、きっと

 ノーベル物理学賞が取れる

だろうと確信した。これは、酔っていたせいでは、もちろんない。

 そのときには、もう一度、佐藤さんのために、いや、日本の科学のために、新酒ワインで祝ってみたい。

 そんな悠然たる夜だった-。

  追記1

  BSプレミアム コズミックフロント「素粒子が解き明かす宇宙の始まり(の1秒間)」によると、

 何が、ガモフの言う「宇宙のビッグバン」を引き起こしたのかについて、佐藤さんが取り組むきっかけになったのが、写真下に写っている

 S.ワインバーグの論文(1967年) A MODEL OF LEPTONS

だったという( 同テレビ番組より )。

 Dsc00342 佐藤さんが大学院に入ったころに発表された論文で、内容は、弱い相互作用と電磁相互作用を統一する電弱統一理論。後にワインバーグ=サラム理論と言われるようになるこの理論最初の有名な論文は、

 「自発的対称性の破れの存在」や

 「ヒッグス粒子の存在」

を理論的に示すなど、その後の物理学に大きな影響を与えた。当時、ワインバーグ氏はマサチュセッツ工科大教授で、この理論で1979年にノーベル物理学賞をサラム氏とともに授与される。

 この統一理論への最初の論文が、インフレーション理論への道を切り開くことにもなったということを、ブログ子はこの番組の佐藤さんの話を聞いて初めて知った。

 素粒子物理学の統一理論研究が、宇宙ビッグバンの起源を探ることにつながる。このことを具体的に示したのが、佐藤さんにとって出合いの論文、つまり、ワインバーグの1967年の論文であり、佐藤さんが1981年に発表した論文(真空の第1次相転移と膨張宇宙)なのだ。

  追記2 

 このコラムを書き終えて、BSプレミアムを見ていたら、

 米映画「マトリックス」(1999年公開)

というのを放送していた。この世の中は、実は、いわゆる仮想現実(バーチャル・リアリティ)で、本物ではない。コンヒューターのデジタル技術でつくられたニセの世界という奇抜な逆転の発想でストーリーが進む。真の世界の救世主というのも、映画の最後には登場する(実は、それは主役のネオ(俳優= キアノ・リーブス)という話)。

 この映画を見終わって、ふと思った。

 マトリックスというのは、もともとは英語圏では「そこから何かを生み出す背景あるいは基盤、母体」というぐらいの意味らしい。この背景こそ、真の世界という意味だろう。

 とすると、この話を先ほどの宇宙論に当てはめると、

 この量子宇宙を生み出した背景、つまり、「虚数」時間から量子効果のトンネル効果で、「虚数」時間からリアルな時間の宇宙が生まれた背景というのは、マトリックスから生まれたことになる。

 背景の奥は、虚数の時間が流れる真の実在ということになる。

 そこには、時間も空間も、真空のエネルギーもない。おそるべき「無」の世界。その虚数時間の世界から、つまり真の実在の世界から、私たちのこの宇宙が始まった。そして、ごく、ごく、ごく小さい量子宇宙が誕生した。しかも、その宇宙は仮の、そう、仮想の現実なのだ。この世界は。

 真の世界は、そう、マトリックス、背景。

 その背景の奥で、虚数の時間が流れる場所で、神は、静かに、ワイングラスを傾けている。そのワイングラスの中のワインに浮かぶ無数の泡。その中のたった一つがわれわれの住む宇宙のすべて。神がワイングラスで祝っているのは、きっと、その泡の中に人類がいることを見たからであろう。

 なんと雄大で、なんと悠然たる夜なのだろう。そう考えると、

 人生に乾杯 !

も悪くない気がしてきた。

 蛇足だが、神がこんなにもコンピュータ好きだったとは知らなかった。

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論説 = 地域と研究者とジャーナリズムと        ------「左側のない男」からの報告

                                               (2012.11.30) 

 ● 要約と結論・提案  - あなたは、自分の仕事を社会と結びつけて語れますか 非線形型社会を考える

  今回の大震災は、地震予知の失敗や原発事故に限らず、地域の環境問題も含めて科学や技術が、多くの限界や制約に直面していることをあらわにした。

 これは一時的な見かけ上の〝不協和音〟ではない。つまり、科学や技術と、それらが対象にする自然や社会とが、もはや分かちがたくカップリングしていることに起因する。いわば、

 科学・技術と社会とが、非線形の関係

になりつつああることを示す。科学や技術側、あるいは社会の側といった片一方だけからのアプローチでは、出発時には思いもしなかった重大事が起こることを震災は示した。これまでのような片一方だけで、つまり切り離して考えればよかった線形社会とは問題の性質が異なる。当初の変化が小さくても、結果は思いもしない大きな変化を生む。ケースによっては、予測不能に陥る。この教訓をまず認識することが大事だろう。

 数学の非線形問題がそうであるように、非線形型社会では、専門家は研究をその影響を刻々受ける社会と結びつけて語れることが必須の教養である。一方、社会を見つめる科学ジャーナリストは、「科学の社会学」の最新の成果に精通するなど専門性を習得することが必須の教養となる。その上で、互いに対等の立場で共同して課題解決に取り組むことがぜひとも必要である。

 その共同作業のささやかな出発点となる原発事故の検証をめぐるシンポジウム(日本科学技術ジャーナリスト会議と同大共催)がこの10月、名古屋大学で開かれ、お互いに反省すべきことを話し合った。地震予知にしろ、原発にしろ、出発したときには的を射ていたのに、なぜ思いもしなかった事態を招いたのか。報道側にも、一部報道を除けば深刻な問題点があったことが明らかになった。

 本論考では、この自己反省シンポの報告を通じて、科学・技術不信、さらにはジャーナリズム不信が国民の中にますます広がる中、非線形型社会で専門家やジャーナリストそれぞれに求められるものを提示する。警告する、予防する科学ジャーナリズムのあり方、さらには、地域の問題解決を目指す研究者とジャーナリストによる

 パブリック・ジャーナリズムの可能性

や簡単な実践例にも言及する。最後に、アカデミズムとジャーナリズムが協力する場合の有効なルールづくりの必要性を訴えたい。

  ● 再検証の名古屋シンポで自己批判

  Dsc00265 福島原発事故に関する4つの事故調がまとめた検証報告書を再検証するシンポジウムが10月下旬、名古屋大学で開かれた( 写真上 )。

 このシンポは全国紙・地方紙・テレビ局の科学記者や論説委員などでつくる日本科学技術ジャーナリスト会議(事務局・東京)が名古屋大学とともに開いた。討論会のパネリストとなった元全国紙論説委員や元NHK解説委員といったジャーナリストたちはいずれも、これまでの数十年にわたる自らの活動を総括し、情報をう呑みにしすぎたなど報道姿勢が甘かったことを認め、自己批判した。

 パネリストの同大大学院教授(原子力工学)や名大副学長も、いわゆる〝原子力ムラ〟に所属していたことを認めた上で、じくじたる思いを語った。 

 このことからもわかるように、福島原発事故は、できるはずの予知ができなかった地震学界、あるいは事故を起こした東電をはじめとする電力・原子力ムラのみならず、新聞やテレビなどの報道する側の古い体質、つまり自律性の欠如にも強い反省を迫っている。

 したがって、以下、シンポで浮かび上がったように、今回の大事故を前もって合図することのできなかった報道する側の問題点とその背景にある構造的な欠陥をまず指摘する。

 そのことで、ニュースを伝えるにあたって、そこに客観報道があたかもあるかのような幻想や、評論や論説といった言論活動においては赤勝て白勝てといった公平・中立、不偏不党があたかも、問題解決に資するかのような、あるいは公正であるかのような報道界の根強い誤解や錯覚を打破したい。

 シンポジウムで表明されたジャーナリストや専門家の自己批判やじくしたる思いは、記者のみならず、一般にもある。これらの幻想や誤解をまず解消する必要性を図らずも、震災は示したといえる。

 ● 疑わしきは報道する

 確実ではないにしても、社会通念上、信ずるに足る合理的な根拠がある場合、ニュース性のある新規な出来事については、

 疑わしきは報道する

という倫理規範が報道界にはあることになっている。しかし、この警告の規範が、この50年にわたる原発報道や予知報道では、守られていなかったか、規範意識がきわめて希薄だった。少なくとも、だれに対し、どういうタイミングで、何を期待してというようなきちんとした形としてはほとんどなかった。ジャーナリストたちのシンポでの反省からもわかるが、これら3条件がなく、ただ騒ぎ立てるだけでは警告の名に値しない。

 これこそが、今の報道界が今回の予知失敗や原発事故を前もって合図することができず、不意打ちを食らったもっとも大きな理由だ。

 ● 報道ムラ、原子力ムラの非倫理性

 だは、なぜ規範意識が希薄なのか。

 この点について、シンポで報告した元NHK解説委員の小出五郎氏は

 原子力ムラのペンタゴン

と総括していた。官界、政界、業界、学界、報道界の五つ、ペンタゴンが互いに

 資金提供、ポスト(就職先)斡旋、便宜供与の3点セット

という接着剤で強固な構造として組み上がっていたと指摘している。運営は「あうん」の呼吸であり、和もって尊しとする共通の精神だとも分析している。

 Image1116 報道界も、記者クラブ制度に安住すれば確認する取材も要らず楽。その上、時たまリーク情報がもらえれば特ダネも書ける。そんな便宜供与のほか、定年後のポストも得やすい

という報道ムラの構造がある。政府とは独立しているはずの国民のためのNHKですら、政権与党についていればスクープ報道が得られるという組織体質が根強いという。

 一方、原子力ムラを構成する大学のアカデミズムも国からの研究費資金提供や業界からの協力金なくしては立ち行かない。企業、業界も記者クラブ制度という発表ジャーナリズムは経営的にも便利だ。メディア界にとって、電力業界からの広告収入は魅力的である。どのムラも、それを乱す異端者は村八分。日経新聞がこうした構造の上に経営されているとみられていることは、つとに知られた事実であろう。 

 小出氏は

 原子力ムラの非倫理性

を指摘していたが、記者クラブ制度を中心とした

 報道ムラの非倫理性

も、突然の大震災による被害拡大に加担したと指弾されてしかるべきであろう。少し大げさに言えば、負託された国民の知る権利を奪ったともいえる。

 ● 起きてから騒ぐジャーナリズムの悲劇

 このほかの具体的なシンポ再検証結果の報告については

 http://lowell.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-461c.html

に譲るが、今回の大震災は、報道界の疑わしきは報道する、警告するという行動規範が希薄であったがゆえに、不意打ちの出来事となり、被害を拡大させてしまった。

 報道界が学界依存体質を抜け出していさえすれば、警告の機会は何度もあった。巨大であれ、活断層地震であれ、およそ地震予知はもちろん、長期予測すらできないこともわかっていた。また記者クラブ制度に安住し、安全神話に寄りかかっていなければ、原発の安全性についても警告できる機会は何度もあった。

 なのに、ペンタゴン構造に組み込まれ続けた結果、ついに予見性を発揮するまでにはいたらなかった。その分、起きてから騒ぎ出す日本のジャーナリズムのヒステリー性は悲劇的ですらある。

 ● なぜ自律も専門性もないか

 それではなぜ、戦後以来、日本のジャーナリズムは学界などに依存するなど、自律性が発揮できなかったのだろうか。

 それは、日本では放送界にしろ新聞界にしろ、記者職は医師や弁護士のような一定の行動規範に基づいて自ら行動しなければならないという独立した専門集団とは見なされていない、あるいは自ら見なしていないという構造的な欠陥があったからだ。

 記者自身、記者職は、いわゆるジェネラリストであり、うだつの上がらない専門職ではないと自負している。専門知識を持っていることをむしろ嫌う。今もって歴とした大手新聞社なのに科学部やその関連部署がないのはこのせいの顕著なあらわれである。

 裏を返せば、一社に一生所属するエリート社員であるという意識が強い。記者は、異動ごとに俸給が上がるいわゆる総合職に位置づけられており、一般職や専門職ではない。ここには専門集団のような転職によるキャリアアップという考え方はほとんど皆無だ。

 こうしたエリート意識から、日本の新聞、特に共同通信社や時事通信社から配信を受けない全国紙では、1面トップは、ほぼ必ず、自社正社員である記者が書くという慣行が出来上がる。

 米新聞界にはこうした慣行はないのと大きな違いであることに注意したい。たとえば、ニューヨークタイムズ紙では、1面トップをフリーランス記者に、ピュッリツァー賞相当のスクープ記事のために提供している。そしてそれは、そう珍しいことではない。

 これに対し、日本では全国紙であろうと地方紙であろうと、専門職を生かして転職するなどは例外中の例外。社内では、専門知識を必要とする科学技術部門の記者ですら、文化部に異動したり、経営部門、事業部門に異動する。まれには営業・販売部門に異動することもある。それが記者職の総合職としてのエリートコースである場合が多いという特異性すらある。

 ● 報道界の構造的な欠陥

 こうした報道界の意識について、最近、在日10数年のM・ファクラー氏(ニューヨークタイムズ東京支局長)は、その著書の中で、同様に

 日本の記者は専門職ではない

と指摘をしている(『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』(双葉新書))。注目すべきは、同氏の経歴。

 イリノイ大学とカリフォルニア大学バークレー校のジャーナリズム学部でそれぞれ修士号取得。ニューヨークタイムズ記者、ブルームバーグ記者、AP通信記者、またニューヨークタイムズの記者に戻り、現在、東京支局長。

 会社をリクルートすることでキャリアアップし、同時に分析能力など専門性を高めるために学問的なレベルアップも図っている様子がわかる。こうしたことは、専門集団としてジャーナリズムが独立した行動規範を持っていなければできないことであることに注意すべきだろう。

 これに対し、日本では、メディアごとに、特に新聞業界では記者が守るべき行動規範がばらばらであったり、規範意識が希薄な環境であったりする。これでは

 疑わしきは社会にいち早く警告し、予想される事件を地域や国民に合図する

という、もともとのジャーナリズムの役割を果たすための行動規範を新聞界の倫理として実質化することはむずかしい。会社優先の報道界の構造的な欠陥を改善し、専門性を高める改革をすること、これが今回の大震災から報道界が学ぶべきもっとも大きな教訓であり、非線形型社会に対応する喫緊の課題である。ここでの専門性とは、科学の専門知識を持つというだけでなく、社会の側に立って報道するには、「科学の社会学」という社会科学の専門知識を持つことを意味する。

 ● 不確実性は予防する

 一方、もう一つ、すなわち

 (因果関係に)不確実性がある場合は予防する

という行動規範がある。これは、因果関係が明白でなく、3条件そろえて警告ができなくても、発生すれば、社会的に重大な結果を招く恐れがある場合、想定外、あるいは予見できなかったと済ますことのないよう、報道する側が予防する観点に立って行動するというルールだ( 参考文献の拙書『科学ジャーナリズムの世界』第15章 )。

 予防の報道という行動を起こすには、先の警告の行動ルールとは異なり、不確かさを具体的に何らかの枠組みで洞察する必要がある。また予防策のメリットとデメリットの比較検討などでは、アカデミズムの研究者たちとの協力がないと、行動できないことが多い。にも関わらず、実施にあたってあえてデメリットを許容するかどうか、費用対効果を含めた社会的な意思決定に向けた世論形成が不可欠。このことから、ジャーナリズムの果たす役割は大きい。

 予防原則ルールのための行動規範について、今回の再検証シンポではまったく報告はなかった。またパネル討論の場でも言及はなかった。このこと自体、現在の日本の科学ジャーナリズムが未成熟であることを示唆するものだが、この具体的なルールについて、欧州委員会が2000年に定めた

 「予防原則に関する欧州委員会の通達」

を参考に論じた先の拙書(共著)に詳しい。

 ● 問題解決型のパブリック・ジャーナリズムの模索

  ただ、注目したいのは、大震災の教訓から、政府・行政当局と科学コミュニティとの役割と責任に関して、政策形成の段階での行動規範づくりが、国の科学技術振興機構(研究開発戦略センター)などで始まろうとしていることだ(参考文献)。

 Image1276 今年3月にまとめられた報告書の行動規範試案には、ジャーナリズムが果たす役割については、ほとんど触れられていない( 写真下)。ある意味、当然である。ジャーナリズムが、自律的に地域とアカデミズムの研究者の関係構築に向けて、行動規範をつくり、実践していくべきものであろう。

 その場合に参考になるのが、アメリカで生まれ、欧米で試みられている地域の問題解決にジャーナリストが積極的に関与して、解決策を模索する

 問題解決型のパブリック・ジャーナリズム

である。日本では、ジャーナリズムは、公平・中立の考え方から時代に超然として活動しなければならないとする伝統的なジャーナリズム観が全国紙の場合、とくに根強く、この問題解決型の介入については定着するまでには至っていないのが現状である。

 ただ、アメリカに学び、地域コミュニティとつながる地方紙づくりとして、地方紙の河北新報( 仙台市 )の試みは興味深いことを付け加えておきたい( 参考文献 )。

 というのは、今回の大震災直後において、全国から駆けつけてきた多くの記者が現地で取材に当たったが、自衛隊員の献身的な活躍に比べて、何も支援できない傍観者的な自分たちの無力感を訴えていたケースが目立った。ここには、公平・中立、時代に超然という観念では割り切れない感情があり、ジャーナリズムの本旨、つまりよりよい社会に資するという理念との矛盾がある。地域の問題を解決する、関与する、あるいは自ら介入する新しいジャーナリズムの必要性を示唆している。

 今のようなセンセーショナルに騒ぎ立てるだけ、いつしか問題が知りきれトンボになってしまうジャーナリズムは、とても非線形型社会には対応できないだろう。

 このことも、先の構造的な欠陥の是正とともに、今回の大震災がジャーナリズムに突きつけた解決すべき課題といえる。

  日本におけるパブリック・ジャーナリズムの萌芽としては、最近の事例として

 朝日新聞と京都大学による食事の放射能調査(2012年1月19日付朝刊)

がある。放射性セシウムの内部被爆線量をめぐる共同調査だが、その読者からの反響や今後の課題について、同紙は2月10日付朝刊にも「食からの被爆、解明はこれから」と見出しを付けて記事化している。

 あるいは、東京新聞の独自取材に基づく一連の原発調査報道は果敢なジャーナリズム報道として評価できるともいえよう(参考文献)。

 ささやかだが、ここには、意識するかしないかは別にして、ジャーナリズムが介在することによって、科学・技術と社会が相互作用する非線形型社会に対応しようという試みとして評価できる。 

 ● 終わりに

  Image1280 いずれにしても、そうした課題を解決するためには、そして科学ジャーナリストが専門性を持つためには、ジャーナリスト自身も

  科学の社会学

の最新の成果を習得する必要性があるだろう。科学者の有力な武器が数学であるように、科学ジャーナリストの有力な武器は科学の社会学、あるいは科学論の成果である。社会と科学のあり方を論理的に、有効に分析する武器として科学の社会学の成果は有効だ。

  たとえば、非線形型社会における実践的な科学論として

 『科学論の現在』(参考文献)

がある。1990年代以降の科学論、つまり、社会と論争する科学(レギュラトリー・サイエンス)などが紹介されている。地域の問題を地域住民とともに、研究者とジャーナリストが共同して解決していこうとする場合の有効な科学論として注目したい。

    ( 写真中=  2012年10月22日付毎日新聞「社説」検証の特集 )

 ● 参考文献

   原発事故や原発報道について

    『原発報道 - 東京新聞はこう伝えた』(東京新聞特別報道部、東京新聞社、2012年) = 2012年度の菊池寛賞、日本ジャーナリスト会議(2012年度のJCJ大賞)

     2012年10月22日付毎日新聞 特集=戦後60年近くの毎日新聞原発「社説」検証

  「週刊金曜日」2012年10月19日号 特集= 原発報道の正体

  民間事故調『福島原発事故独立委員会 調査・検証報告』(日本再建イニシアティブ、ディスカヴァー、2012年3月)

    『原発再稼働 最後の条件 福島第一事故検証プロジェクト最終報告』(大前研一、小学館、2012年7月)

    『原発訴訟』(岩波新書、海渡雄一、2011年11月)

   『脱原発』(浜岡原発差し止め訴訟弁護団長+大下英治、青志社、2011年6月』

  地震予知や報道について

  「週刊ポスト」2012年11月9日号 地震学会「予知はできない」

  報告「地震予知計画の実施状況等のレビューについて」(測地学審議会地震火山部会、1997年)

    科学ジャーナリズムについて

  『「客観報道」とは何か 戦後ジャーナリズム研究と客観報道論争』(中正樹、新泉社、2006)

  『科学ジャーナリズムの世界』(日本科学技術ジャーナリスト会議編、化学同人、2004年)

    『科学論の現在』(金森修+中島秀人、2002年)

    『シビック・ジャーナリズムの挑戦』(寺島英弥、日本評論社、2005)

    政治と科学のあり方について

    戦略提言「政策形成における科学と政府の役割及び責任に係る原則の確立に向けて」(科学技術振興機構 研究開発戦略センター、2012年3月)

   米科学誌「Science」2012年9月7日号 「Rebuilding Public Trust in Science for Policy-Making」 T.Arimoto and Y.Sato 

  キーワード  地域と研究者とジャーナリズムと 

            パブリック・ジャーナリズム

           科学の社会学

                        大震災の教訓 論説

            浜名湖をめぐる研究者の会

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拝啓 地震学会殿  風通しはよくなったが-

(2012.11.08)  先月開かれた注目の日本地震学会の秋の函館大会について、「週刊ポスト」が最新号(11月9日号)で現地ルポの形で取り上げている( 写真 )。

 Image1253_2 東北大地震を予知できなかったことから、予知について、学会はどう対応していくのか、またM9.0の大地震は日本では起きないとの思い込みがあったという昨年秋の静岡特別反省シンポジウム。この反省に立って、具体的にどういう学会改革をするのか、論議が交わされた。その様子をジャーナリストの伊藤博敏氏がまとめていた。

 静岡大学で開かれた去年の静岡特別シンポでは、ブログ子も地元ということで、参加した。その時に比べて、記事を読むとずいぶん風通しがよくなっていた。予知などできるわけがないなどとする若手研究者と主導的な地震予知学者とが、それこそ喧々がくがく、渡り合ったらしい。

 この点は、評価したい。

 しかし、どうも、まだまだ、全体的には相互批判が希薄で「仲良しクラブ」の域は出ていないようだ。新しく学会長になった加藤照之(東大地震研教授)の

 「新しい組織に生まれ変わりたい」

というには、ほど遠い。なにしろ、具体的な対策として、

 地震予知

という用語の使い方の見直しをこれから検討していくことになったという程度なのだ。その手始めに、

 学会の地震予知検討委員会の名称変更

を検討するという。あたかも予知ができるかのような印象をあたえるからというのが理由だ。他愛もない話だが、提案者自身も、もちろん、看板の架け替えにすぎないことは承知だろう。

きっと

 地震調査検討委員会

という名称に変わる。そんな言葉遊びをしているほど、地震学会は暇ではあるまい。

 Image1254 いつまでも、予知がらみで研究費を獲得するためだけの「錬金術」にうつつを抜かしていれば、国民からの信頼は地に落ちるだろう。

 今回の学会では、事実上、阪神大震災後の15年前、国の測地学審議会地震火山部会の報告書(いわゆる「レビュー」= 写真下 )の

 「現段階では、地震の予知は困難」

という認識をそのまま追認したにすぎない。

  ことにあたって学者に 決断力を求めるのは無理かもしれない。しかし、学者に良心を求めるのは決して無理ではない。とするならば、こうだ-。

 なぜ、自分たちは、この50年間失敗し続けてきたのか、本格的な学際研究を学会挙げて取り組むことが信頼回復の王道だ。「失敗学」の権威ある、そして格好の教科書となるだろう。

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「自然な死」のむずかしい時代を生きる

(2012.11.07)  この映画を見て、つくづく

 昔のような「自然な状態で死ぬ」ということのむずかしい時代に生きている

ということを痛感した。この映画というのは、今、公開中の周防正行監督の尊厳死をテーマにした

 「終(つい)の信託」(草刈民代/役所広司/大沢たかお)

のことである。

 Image1177 発作を起こした治療中のぜんそく患者が意識不明のまま病院に搬送されてくる。長く担当してきた主治医の医師が、見るに見かねてほかの医師には相談しないまま筋弛緩剤を注射し、死亡させた。果たしてこれは終末期医療なのか、はたまた殺人なのか。15年くらい前に実際に起きたそんな事件(川崎協同病院事件)がモデルである。

 簡単に言ってしまえば、そうなのだが、実際の医療現場はそんな簡単なものではなかったらしい。

 医療現場での医師同士の対立と葛藤や、患者や患者の家族、それぞれの心の葛藤もある。その辺を医師役の草刈さんや、患者役の役所さんは好演していた。しかも医師が呼び出しを受け検察庁に出頭、待たされ、取り調べられ、そして逮捕されるまでのほんの3時間ぐらいの物語として構成されている。周防監督のその脚本力にも感心した。検事役の大沢たかおの迫力ある演技がこの映画をずいぶんと引き締めており、俳優として出世作となるのではないか。

 それでも見終わって、ブログ子は、周防監督は、この映画で何を言おうとしたのだろうかと思って、いろいろ考えた。タイトル「終の信託」から、なんとなく意図はわからないでもなかったが、はっきりしなかった。

 そんな折、先日金曜日午前、NHK第一ラジオの番組「すっぴん !」のインタビューコーナーに周防監督が出演していた。

 「終活について、この映画で何か答えを用意していたわけではない」

とこたえていた。むしろ、この映画を機会に、みなさんそれぞれその答えを考えてほしいというわけだ。こんな個人的な問題で誰にでも当てはまる答えなどあるはずもないと気づいた。

 周防監督は、

 「こうしてほしいという大まかなことは決めて、きちんと残しておくのが家族にとってはありがたいだろう。もっとも、あんまりこまごまと厳格に言われてもかえって家族は困るだろうが」

という趣旨の発言もしていた。終末期の「命の信託」といっても、せいぜいその程度なのだろう。

 実際の事件では、ぜんそく患者が長年書き綴っていた闘病日記に、無理な延命治療は望まないこと、最後は担当医の先生にお任せするという趣旨のことがつづられていた。この結果、医師は裁判で有罪とはなったが、執行猶予がついたらしい。

 具体的にどのようなことを大まかに意思表示するかは、なかなかむずかしい。最近、ブログ子は、国立長寿医療センター(愛知県大府市)などで行っている

 事前指定書制度

を知った。経管栄養補給法や人工呼吸療法を望むかどうか、死期が迫ってきた場合、できるだけ延命治療を望むかどうか、それとも自然な状態におくのか確認をする手立てである。医師にとっても家族にとっても、これは助かるだろう。

 もうひとつ、映画を見て考えたことは、これ以上治療を続けるかどうか判断に迷い、負担が重くのしかかる医師への免責である。

 つまり、なんらかの一定条件が整えられれば、この映画のように刑事責任には問われないようにする法整備である。論議を呼ぶテーマであるが、尊厳死の法制化の動きは、現在、国会でも超党派で論議が進んでいるらしい。

 植物状態、脳死状態、後戻りのない脳死のいずれをもって尊厳死段階とするか。たとえ患者の「お任せします」の事前意志があったとしても、一般化することは大変に難しい。下手をすると、嘱託殺人になりかねない。

 そうならないためには、もうこれ以上延命治療をしても無駄だ、と複数の医師が治療をあきらめる判断材料として、

 すくなくとも脳波検査

は不可欠だろう。これにより、先の尊厳死のどの段階かも確かめられる。つまり、死が避けられず、しかも切迫しているその度合いが客観的にわかるし、また記録にも残せる。映画では、この脳波測定が慢性患者なのになかった。

 映画にも再現されていたが、気道を確保するための

 気管チューブの取り外し

はどうか。

 自然死を望む意思が明確なら、脳波検査から死期が避けられず、しかも迫っている場合なら、ブログ子は取り外してもかまわないと思う。嘱託殺人には当たらない。

 問題は、映画のように、託された尊厳死だからと言って、また、肉体的な苦痛を目の当たりにしたからといって、楽にしてあげるとの善意から医師が、積極的に

 筋弛緩剤を(致死量をこえて)投与する

ことは、尊厳死とは言えないだろう。自然な状態で死にたいという患者の意思に反する。

 気管チューブ取り外しとどこが異なるのか。

 それは、自然な状態で死を迎えさせているかどうかの違いだ。積極的な投与はこの状態に反する。嘱託殺人と言われても仕方がないだろう。

 そんなこんな、いろいろなことを考えさせる映画だった。

 公開初日の土曜日の夕方に見に行ったのだが、200人以上収容の観客席にシニアを中心にわずか、2、30人にすぎなかった。なのに、映画館の外に出たら、好天の夕闇のなか、浜松まつりの大勢の市民で街はにぎわっていた。

 楽しい映画ではない。また、観客自ら考えなければならない映画でもある。そんな映画を見ようという人が少なくなったのではないか。とすれば、映画ファンとしては、さびしい。  

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現代「昆虫記」 驚異の微小脳へ、ようこそ

(2012.11.06)  毎年、文化の日に出かけている

 「新しい文化論」

と題する科学講演会がある。浜松ホトニクスという会社が支援し、公益財団が開いている光に関する科学と芸術のための

 「浜松コンファレンス」

である。もう30年近く続いているらしいが、今年のテーマは

 昆虫パワーの科学 昆虫からみた脳科学の未来

というものだった。

 Image1187 人間への応用を目指した「サイボーグ昆虫」づくりの最前線を、東大教授の神埼亮平さんが、とてもわかりやすく、紹介してくれていた。東京大学新聞のランキングでは、人気教授の上位に入っているらしいのだが、なるほどと納得できる。

 もし、この名講演を100年前の、かの『ファーブル昆虫記』の著者が聞いていたら、どんな感想を持っただろうか。

 そう想像してみた。きっと、あのとき観察した昆虫の驚嘆すべき本能行動とはこういう仕組みでなされていたのか、とその微小脳の働きに感心しただろう。そして、ファーブルは、こうも思ったはずだ。

 100年前に書いたときには、神業とも思えるその本能の精妙さから、私は進化論に対しずいぶんと懐疑的だった。しかし、もしかすると、種は変化するという点で、ダーウィンの進化論は基本的に正しいかもしれない

と。

 昆虫は生き残りの手立てとしては十分な能力をすでに持っている。だからこそ、今繁栄している。しかし、互いを愛するとか、未来を予想するとか、分析的に思考するとかいう点では、人間にはとうていかなわない。 

 しかし、だからと言って、巨大脳の人間のほうが進化上、有利であるとも上等であるとも一概には言えない。それぞれにいいところも、欠点もある。

 この講演の意義はこのことをサイボーグ昆虫を使って明らかにし、強調した点であろう。

 さらに、「新しい文化論」の見地から敷衍すれば、

 人間とは何か

という哲学的な問いに対し、科学の側から具体的にアプローチしたことにあったように思う。

 さて、どういう理由で、そんなことが言えるのか。

 講演を聞いて、ブログ子が最も驚いたのは、

 昆虫という無脊椎動物(節足生物)と人間のような脊椎動物の脳とが、微小と巨大、あるいは神経細胞の連鎖構造と管状構造に違いはあるものの、情報の受け渡しなど、その果たしている機能については基本的に同じ

という点だった。サイボーグ昆虫研究が人間への応用に資するためには、この事実は大変に重要だ。逆に言えば、この事実があるからこそ、サイボーグ昆虫の研究が成り立つのだろう。

 陸上生物が無脊椎と脊椎に分かれたのは、カンブリア紀というから5億年以上前。なのに、それ以来、脳が果たしている基本的な機能には変化はなかった。ただ、脳の基本的な構造だけが進化により変化してきた。

 無脊椎の昆虫は、生存に日々必要な酸素取り込みの効率がいい、からだの小さいサイズを選択した。これに対し、脊椎動物は、とりわけ恒温動物は保温性の効率がいい、体制の大きなサイズを選択し、巨大脳の人間にまで進化。巨大脳の進化では酸素の拡散取り込みのままでは非効率であり、代わって気管など別のシステムが新たに必要になってくる。

 だから、どちらが繁栄の〝賢明な〟選択なるかは、選択時にはわからなかったはずだ。が、結果的には、現在の地球の生物種の約7割が昆虫である。この昆虫惑星地球の現状からすると、小サイズ志向の昆虫、つまり微小脳のほうが人間の歩んできた巨大脳の進化の道よりも、ある意味賢明だったとも言えよう。

 しょっちゅう餌を探し回らなければならないとか、また短命とかがあっても、小さいことは、小型、軽量、低コストなのでいい、ということになろうか。

 とすれば、巨大脳の人間は、よく

 「小さくて、取るに足りない虫けら」

と言うが、昆虫たちの繁栄の秘密、つまり驚異の微小脳について知らなさすぎるということになる。小さいことはいいことなのだ。大きいことは、進化上、都合がいいとは限らない。

 このことを少し、工学的な面から考えてみる。

 巨大脳の神経細胞数は人間では約1000億個。これに対し、昆虫などの微小脳は、わずか2ミリ程度の空間に約10万個。人間の100万分の一しか神経細胞がない。

 しかし、この昆虫の微小脳の特徴は、巨大脳に比べて、情報量が少ない分、受け渡しが高速処理できるという点にある。ここが大事。多ければいいというものではない。

  Image1189_2 講演によると、たとえば、昆虫の目の機能の場合、複眼という構造の解像度は低い。巨大脳のように精密な解像度はない。視力はがんばっても0.01くらいという。

 それでも、昆虫に高速で何かがぶつかってくるような場合、素早くその情報を処理し、回避行動に移ることができる。これは車に乗る人間への応用にヒントを与えている。

 昆虫は、たとえばゴキブリは、人間の10倍以上の俊敏さで、風速の変化に反応できるのも、高速処理のおかげなのだ。人間がいくら新聞紙でゴキブリたたきをしても、ゴキブリはいち早く逃げ去ってしまうのは、この微小脳の高速処理にあるという。巨大脳が微小脳にかなわない日常的な事例だ。

 時間間隔でも、人間はせいぜい数十分の一秒程度のチカチカしか目には感じない。しかし、高速処理の昆虫は、たとえばミツバチは、数百分の一秒程度のチカチカでもそれを識別して感じることができる。時間分解能が人間より10倍も高い。

 このことを逆に言えば、講演では触れられなかったが、人間に比べ10倍ゆっくりしたスローモーションの世界を生きることを意味する。つまり昆虫自身の感覚ではずいぶん長生きしたように感じるだろう。

 人間は言語を持つことで高等動物になったと信じている。空気中に空気の振動、つまり粗密波を生み出すように息を出し入れし、相手はそれを音声として耳が聞き分ける。

 これに対し、昆虫も匂いという言語を持っている。匂いやその種類まで感じる仕組みも、微小脳は専門部位として持っている。メスがパルス状の匂い化学物質を空気中に放出すると、あたかも鬼ごっこのように、手の鳴る方向ならぬ、連続的に出るパルス状のにおいのする方向に向けてオスは巧みに探索をはじめるというのだ。

 その検知方法は複雑だが、いくつかの決まったパターンもあるという。メスという匂い源を探索・検知する仕組みを再現するために、講演ではカイコガを使ったサイボーグ昆虫の研究の一端が紹介されていた。

 詳細はよく理解できなかったが、神崎さんの研究仲間、水波誠さんの

 『昆虫 驚異の微小脳』(中公新書、2006)

に丁寧に解説されているので、参照してほしい。

 いずれにしても、何か化学物質で昆虫は言葉を交わしているにちがいないと観察から喝破したファーブルも、この本能行動の神秘を具体的に解き明かすサイボーグ昆虫をみたら、驚嘆することであろう。

 なにしろ、世界一高速の日本が誇るスパコン「京」を持ってしても、昆虫の微小脳のこれらの処理能力のすごさには、まだまだかなわないというものだったからだ。

 このように生き残り戦略としては、昆虫も人間も、等しく優れている。優劣はない。この講演のメッセージとは、まさにこれであろう。私たち人間の偏見を取り除いてくれたと同時に、だからこそ、昆虫から学ぶことも多いのだろう。

 それはともかく、聞き終わって、詳細はわからなくても、ファーブルがそうであったように、昆虫に対する畏敬の念すら持ったことを正直に告白しておきたい。

 そして、ふと、思った。

 逆に昆虫は、わたしたち人間に対して、それほどに畏敬の念を持ってくれているだろうかと。また、それに値する行動を人間自身が今しているだろうかと。

 そう考えると、「新しい文化論」にふさわしい哲学的な科学講演でもあったように思う。

  補遺

 このブログを見た神崎さん自身からの追加的なアドバイスとして、

 『ロボットで探る昆虫の脳と匂いの世界 - ファーブル昆虫記のなぞに挑む』( 神崎亮平、2009年。フレグランスジャーナル社)

や、昆虫も含めたより一般的な考察として

 『ゾウの時間 ネズミの時間』(本川達雄、1992年。中公新書)

が寄せられた。「歌う生物学者」として知られる後の著作は確かに面白く、また名著だろう。薦めたい。

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「ダンスタイム」デビュー in 浜松 

(2012.11.05)  このブログのような言葉による自己表現とは勝手が違うが、気後れすることなく、なんとか、いわゆる

 「ダンスタイム」デビュー

を果たすことができたように思う。男女がペアを組み、体全体を動かすとあって、自己表現はもちろん、きちんとリードできるまでにはまだ道は遠い。が、その楽しさを実感し、生涯続けていきたいと思うことができた1日だった。

 浜松市内のあるダンスレッスン教室の発表会を兼ねたホテルでの「ディナー&ダンスパーティー」に先日参加した( 写真上、中= 発表会、下= ダンスタイム光景 )。

  Dsc00269 ダンスタイムというのは、サークル活動の成果発表やほかのダンススクールのプロ演技披露の合間に設けられているティータイムのような時間帯。参加者が大勢一度に自由に誰とでも、また相手を変えながら踊ることができる。ダンスシューズは必要だが、平服でもOK。知らないダンス曲であっても、そのテンポさえ合わせることができれば、初めて聞く曲であっても踊ることができる。これがブログ子にとっては都合がよかった。

 毎週1回、レッスン教室に通い続けて1年。スタンダードのワルツ、タンゴ、ブルース、そしてラテン系のジルバ、ルンバ、チャチャチャの初歩がぎこちないながらも踊れるようになったのは、体育オンチのブログ子にとっては、驚きだった。

 一方、レッスン教室ではできても、いざ実践の場では、そうそううまくはいかないときもあった。そこから、体育というよりも

 ダンスとは、体で伝えるコミュニケーション

であることも少しずつわかり始めた。言葉ではなく、身体の動きで相手にこちらの意図を伝える。これが難しい。そんな時は、なぜもっと早くレッスンを受けなかったのか、ちょっと悔しい思いもした。

 Photo 同じ食卓テーブルの人たちとそんな話をしていると、たいていの同世代シニアも同じ感慨を持っているらしく、話は盛り上がったりもした。

 パーティーに出席した来賓のあいさつによると、2012年度から、武道とともに、

 中学校の保健体育の授業でダンスが必修

になったという。その狙いは、身体を使って自己表現する楽しさを学んだり、相手異性とのコミュニケーションを図るすべを学んだりすることだろう。

 一口にダンスといっても、伝統舞踊などのフォークダンス系、創作ダンス系、それから若者に人気のヒップホップなどの現代的なリズムダンス系があるらしい。

 Image1240 今回の発表会がそうであったように、あらかじめ決められた振り付けにそって男女ペアが踊る。あるいは複数ペアが揃いの衣装でシンクロしながら踊るボールルームダンスや、そうした振り付けのないアドリブの社交ダンス。これらがどの分類に入るのか、ブログ子はわからない。

 いずれにしても、男女共学の時代の学校教育なのだから、これらがきちんと学校教育のなかに位置づけられることを願わずにはいられない。 

 数年前から、静岡県でも必修化に伴う体育教員の1日程度の研修も始まっている。これまでも、学校ごとの選択科目としてはダンスが学ばれてはいた。しかし、中国の儒教の教え「男女七歳にして席を同じうせず」でもなかろうが、どの学校でも、たいてい男子は「武道」、女子は「ダンス」を選択するという。

 それが男子も女子も必修という完全実施になるのは、今年かららしい。効果を上げるには、そして、生徒たちに

 体を動かすダンスは楽しい

という実感を持ってもらうには、つまり、今風に言えば、

 ダンスの力

を教育の現場で引き出すには、諸外国の成功事例が示すように、学校教諭とダンス教師の連携が欠かせないように思う。

 自己表現としてのダンスがダンスホール主流の時代から、公共の体育館などでの大人の生涯学習に生かされたり、学校での生徒たちのコミニュケーション教育に生かされたりすることが普通の感覚となる時代へ。そんな時代が来ていることを教えられた一日だった。

  それはともかく、どんな人生にも、またどんなまちにも、音楽は必要だろう。

 ダンスもまた同様ではないか。世の中が男と女で彩られている限り。

 「ダンスタイム」デビューの夜、その余韻が残るなか、パーティーでも流れた

 ダンス音楽、「My Way(マイ・ウェイ)」(ルンバ曲)

を高台の自宅で聴きながら、そう思った。

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マコモとマコモダケの違い 夜の浜松市場

(2012.11.02)  浜松市の中心街で、この数年続いている、生産者が直接自らの生産物を販売し、見知らぬ消費者と向き合うにぎやかなイベントを先日の夜のぞいてみた。夜のまちなかとあって、スタンドバーのマスターや赤提灯の女将も店先の路上に立つ。常連客と見知らぬ消費者とが路上でごっちゃになったイベントである。

 Image1173 生鮮食料品はスーパーで買うもの、と思っていたブログ子にとっては、対面販売の良さにあらためて気づかせてもらえる機会となった。

 なにしろ、

 マコモとマコモダケとは同じもの

と思っていたのだが、浜松市の隣り、磐田市から出店して来て、マコモダケやトマトを販売していた農家の鈴木信好さんによると、

 マコモダケというのは、マコモが夏場、根元でいくつかに別れて増え、それぞれの茎が太ったもの

と笑って教えてくれた。マコモとマコモダケというのは、竹がどんどんあちこちに根をのばし、竹の子がそこからいたるところにできるような関係なのだ。

 マコモの苗を休耕田に一度植えると、ぐんぐん成長し、人の背丈をこえる。ほとんど手間がかからず、毎年今頃に刈り取っても、また翌年どんどん成長する。イネ科の多年生草らしい。

 こんな楽な農産物はない

というのだ。トウモロコシよりも、人手がかからない。生サラダにしても、おいしい。竹の子のつもりでいろいろ料理してみたら、という誘いで、ブログ子も1束(200円=写真)買ってみた。

 そんな講釈を聞いていたら、近くの中華料理店の料理人が平台にあったマコモダケの全束すべてを買い占めた。のぞいていたみんなは、

 何にするの?

と質問。炒め物にするらしい。中国や台湾ではどこにでもある人気メニューという。ひとしきり、この料理人と農家の鈴木さんとみんなで、食談義になった。豚肉とともに油炒めにすると、甘みが増して、うまいという。

 Image1176 そんなこんなで、滅多に家で料理などしないのに、竹の子の皮をはぐようにして、中身の白身を取り出し、生サラダにしてみた。そのままでも十分うまかったが、静岡県は生わさびの産地ということもあり、刺身の要領で、日本酒でわさびを付けて味わってみた。なかなかおつな味だった( 写真下 )。焼いて醤油を付けても食べてみた。いける味だ。

 マコモというのも、この20年で少しずつ日本でも知られるようになってはきているが、それでも普及したとはまだ言えない。

 それでも、このマコモ、湖や沼の岸辺に生えているヨシと同様、水質浄化にも役立っているというのだから、なかなかの働き者なのだ。

 そんなことを教えられたのも、対面販売の良さなのだろう。そんなこのイベントは私にとってスーパーの店先にはなかなかない〝旬の味〟だった。

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人生80歳、3者3様の季節             「方丈記」も結構だが

(2012.11.02)  ときどき見る「週刊新潮」だが、最新号11月8日号の随筆「あとの祭り」で、作家、渡辺淳一さんが、また老人らしい話を書いている。このところ毎週老人をテーマにしている。今回は傘寿(さんじゅ)、数え年で80歳になった自分の誕生日について。若い頃、芥川賞や直木賞の候補に何度かなった時の思い出を披露しながら、長生きの意味について論じていた。

 ご本人が実際読んでいるのどうかは知らないが、ネット上の公式ブログ「渡辺淳一楽屋日記」には、編集者たちに囲まれ、なかなかオシャレなピンクのワイシャツ姿で、お酒の入ったこじんまりとした傘寿パーティに出席している写真が載っている。

 日常生活についても、公開していて、

 「朝は、少し早く起きて、ボーっとしながら、ニュースを観るのが日課」

らしい。朝の連続ドラマにもハマッていると書いている。〝余生〟を楽しんでいる様子がわかり、何とはなくうらやましい。

 しかし、世の中、こんな80歳ばかりではない。びっくりするような80歳もいる。その典型が、このブログでも紹介した、プロスキーヤーで冒険家の三浦雄一郎さん。

 なにしろ、70代で2度のエベレスト登頂に成功し、来年5月には3度目の登頂、それも、よりむずかしいルートとされる中国側から世界の最高峰に挑戦するというのだから、常識外れの超人ぶりである。

  Image1117_2 もうひとりは、ご存知、都知事の石原慎太郎さんである。

 14年近くつとめた知事を投げ打って、日本の最高峰、総理大臣を目指す新党結成に動き出した。日本の元凶だとして、今の官僚支配をぶっ壊すという、その政治信条はともかく、晩節を汚すのではとの危惧もなんのその、余生などくそくらえという心意気には敬服する。

 言葉によるあれこれの評論ではなく、今必要なのは行動だと、石原さんはその行動で語っている。

  以上、3者3様の80歳、その意味するところとは何か。

 老い支度の鴨長明の「方丈記」( 写真 )も結構だが、クラーク博士ではないが、人生最後、何をやりたいのか、 

 シニアよ、今一度、明確な大志をいだけ

ということだろう。

 補遺

 「週刊ポスト」の最新号2012年11月9日号を見ていたら、冒頭の写真コーナー「people」欄に、両氏が大きくクローズアップされていた。今、話題の人だからだろう。

 特集を組んだ石原氏のほうの写真「Zoom」の見出しは

 「方法論」「矛盾論」「実践論」

だった。

 毛沢東を嫌う石原氏だが、革命の方法論である毛沢東の著書「実践論・矛盾論」を辞任表明の理由演説で言及していることを揶揄していた。

 目の前の矛盾の背後にはさらに大きな矛盾、つまり現行憲法や中央官僚支配があり、それを実践行動で自ら総理となって改革したいというのが、突然の知事辞任の理由といいたいのであろう。果たして80歳の革命家となるかどうか。毛沢東は天国で、あるいは地獄でどんな感想を語っているだろうか。

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