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ローエル再発見の旅  没後100年を前に

Dsc00208_2  (2012.09.28)  ちょっとした縁で、10年前に設立した日本ローエル協会( 小尾信弥会長=東大名誉教授 )の研究集会に先日、1泊合宿で参加した。

 P.ローエルというのは、100年以上前、あの火星人説をとなえたアメリカの天文学者。1889(明治22)年5月には東京から中部日本を横断し、能登半島の突端近くの穴水町まで旅行した。

 だから、今回のワークショップ( WS )も、穴水町で開かれた。

 今、なぜローエルかという、研究対象の現代性と、もう一つ、なぜローエルは能登半島にやってきたのかという、探検といってもいい旅行の目的、そして、なぜ、旅行後、火星人説を唱えるようになったのか、その合理的な理由、最後に、文系、理系に秀でた大富豪のローエルとは、結局、何者だったのかという人物評価にブログ子はこれまで興味を持ってきた。

  結論を先に言えば、今回のWSは、ようやくブログ子なりに、その人物評価ができそうなローエル再発見の旅だった。

 ローエルは、天文学者というよりも、当時としては珍しい国際ジャーナリストだった

というのがブログ子の仮説である。WSでは、このことを裏付けるような発表がいくつかなされたように感じた。

 一つは、ハッとさせられた金沢市在住の会員の発表。旅行中に撮られた大量の写真に関する分析であるが、何を被写体にしているかという観点から、人物に焦点を当ててはいるものの、ローエルは人物の後ろや脇に、山や道標、目印の石、目印の家など背景をたくみに写しこんでいる。

 このことは、人物だけでなく、その人物と背景との関係を見るものに知らせようとローエルが考えていた証拠である。

 まさに、報道写真、つまり「ニュース写真」の撮り方

なのだ。写真が何の目的で、どこで、いつ撮られたか、あとでわかるように工夫している。単なる文化人類学的な手法ではない。ましてや人物だけを写す記念写真や珍しいもの、あるいは見栄えのいいものを撮る観光写真のやり方ではない。人物を写すにしても風景を重視した撮り方なのだ。これはローエルがジャーナリスト的な目で旅行していることを示唆している。

 第二は、現代日本文明論を大学で講義している東京都在住のゲスト研究者の発表だった。

 Image1004_2 『極東の魂』( 1888年 )、『オカルト ジャパン』( 1894年。注記 )など、ローエルの日本人論は多くの外国人に影響を与えたが、その一人に、ラフカディオ・ハーンがいることはよく知られている。来日前のアメリカでは「タイムス・デモクラット」紙の新聞記者であり、来日後には神戸市で発行していた「クロニクル」紙の記者を引き受けている。小泉八雲として日本に帰化までしている。

 ローエルがジャーナリストの目を持っていたからこそ、同じ新聞記者だったハーンもローエルに引き寄せられるように来日したのであろう。

 ブログ子の先の仮説が妥当であるとすれば、ハーン以外にも、国際的に活躍する新聞記者が当時まだまだいたはずだと思う。

 その一人が、ゲスト研究者が取り上げた

 グアテマラ生まれで、パリでコラムニストとして活躍していたE.G.カリージョ

だと知って、驚いた。やっぱりいたのだ。

 同氏によると、カリージョの文学論、社会論、紀行などはスペイン語圏の人々をとりこにしたという(2003年7月1日付読売新聞夕刊「海外の文化」)。

 同氏は今回の研究会で、

 「カリージョを『ラテンアメリカのハーン』と形容しても、さほど唐突ではなかろう」

と発言している。元グアテマラ大使だった同氏であるだけに、重みのある指摘であると思う。

 第三は、ベテラン会員によるローエル死去に伴う追悼演説の翻訳紹介。この追悼は、C.M.マコーレーによって書かれたものであるが、ローエルは一つの枠にとらわれないで国際的な活躍をしたことが如実にわかる演説である。 

 それでは最後に、そんなローエルはなぜ、日本横断を企画し、実行し、その結果を『NOTO 人に知られぬ日本の辺境』(1891年)にまとめたのだろう。能登行きはこの2年前の1889年5月。

 この著作の冒頭では「ふとした思いつきで能登に出かけることにした」と書いてはいる。その思いつきは、どこから得たのであろうか。この著作の翻訳に心血を注いだ協会の名誉会長は、かつてブログ子に「ある意味、それは謎」と話してくれた。

 それは、まだ推測だが、米ジャーナリストで、アマチュア探検家、H.スタンリーの世界的なベストセラー『暗黒大陸横断記』(1878年)に刺激を受けたのではないか。横断記には、イギリスの探検家でアフリカで行方不明になったリビングストン救出の様子が詳しく書かれている。

 もう一つ、コンゴなど、当時よくわからなかった中央アフリカの内陸部の様子をいきいきとつづった、これもスタンリーの『暗黒のアフリカ』(1980年)にも、この本の発行前からのさまざまなジャーナリスティクな情報などにより、ローエルに能登行きを決意させたのではないか。

 というのも、ローエルもスタンリーも、野望をいだくと、行動は大胆であり、学会と対立することもいとわないなど、性格が似ている。ローエルも負けていられなかった。

 ローエルはスタンリーの行動を聞くにつけ、自分も能登までの日本横断記を書いてみたいと競うように思ったとブログ子は想像している。これが能登旅行を「ふと思いついた」理由である。

 Dsc00237_2 だが、ローエルの場合、ユニークな日本人論にはたどり着いたものの、スタンリーのようなジャーナリスティクな、あるいは欧米人を驚嘆させるような劇的な発見はなかった。

 この点、当時はまだダーウィンの死後まもないころで、ダーウィンの進化論との関係で、アフリカに欧米人の関心が高まっていたのとは、大きな違いがあった。

 すでに外交官たちが良港探しでローエルよりも先に能登に訪れていることを旅行先で知ったのも、ローエルを大いに落胆させたであろう。

 しかし、穴水湾を小さな船で航行するうちに、当時ヨーロッパで論争になっていた「火星表面の線状模様」は火星人による〝運河〟ではないかという着想に、進化論との関係から、たどり着いた。能登と火星の接点がここに生まれる( ローエルが船から穴水に上陸した地点=写真下、穴水町川島 )。

 ローエルがなぜ能登旅行後、あんなに火星にのめりこんでいったのか、その謎がこれで解けそうだ( ローエルは1895年に『火星』を出版している。同じ年には、なんと改訂版『NOTO』も出版している )。ローエルをして地球文明論にまで踏み込ませたのが、穴水旅行だったと思う。このことは、先のマコーレーの追悼文の中にあるローエルの進化論的な考え方とよく符合する。

 以上は、まだ仮説だが、一応のつじつまは合うと思う。

 こうした解釈や仮説から、ローエルの現代性に対する見通し、たとえば学際研究の重要性なども、概略見えてきた。火星人説も、それまでとは違って科学的に検証可能な仮説にした点で、学際研究から生まれたものだったように思う。

 4年後の2016年は、ローエル没後100年。それを前に、久しぶりに知的な刺激を受けた。ローエル再発見の予感を感じさせた1泊2日の旅だったように思う。

  注記

 このWSでは、会員によってこのローエルの著作が日本で初めて日本語に翻訳され、近々、出版の運びになったとの報告があった。ローエル以後の日本人論に、いいにつけ悪いにつけ、大きな影響を与えた著作であり、特筆に価する。日本人あるいは日本文明論を論ずるときの基本文献の役割を果たすよう、期待したい。  

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