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映画「トータル・リコール」とは何か ? 原作を読む

(2012.08.20)  「我思う、ゆえに我あり」と言ったのは、近代哲学の父、ルネ・デカルト。自己を確認した安心感が伝わってくるが、この言葉は主著『哲学原理』に載っている。

 お盆休みというので、公開中の映画、新「トータル・リコール」を見に出かけた。SF作家、P.K.ディックの短編小説『記憶売ります』( 邦題 。原題= We Can Remember It for You Wholesale 。注記 )が原作。

 Image886 今の自分の記憶は、誰かに人工的に脳の中枢部に植え付けられたものではないのか、と思い始めた男の物語である。今の自分は仮の姿であり実在せず、もともとの本当の記憶を持つ自分は別にいるのではないか。そんな自分探しに出かけるSFアクション映画 ( 写真 )。

 映画を見た感想を一言で言えば、そしてアクション部分を取り去って述べれば、

 「我思う、けれども我とは果たして何者なのだ。ゆえに我あり、といえるのか」

という、自己確認できない恐怖感だった。言い換えれば、今ここにいる自分とは何者か、確かに実在するといえるのか、その場合の実在とは何なのか、そう考えている自分という存在の不確かさには、デカルトのいうような安心感がまるでない ( 補遺2 )。

 植えつけられた記憶がもし、本物の記憶以上に精緻であり、記憶を裏付ける証拠現物が手元にあるとしたら、どうなるか。

 それでも、自分の脳に蓄えられた記憶は、自分のものかという問いかけである。単純に「我思う、ゆえに我あり」とはいえないのではないか。我思うの我とは、考えている自分。我ありの我とは、自分の脳。心と肉体の分離の世界が描かれているのだ ( デカルトは、心身合一論者 )

 騒がしいアクション部分を取り去って考えると、そんなことを考えさせる哲学的な映画だった。

 トータル・リコールとは、完全なる( トータル ) 回想 ( リコール )

という意味である。本物以上に細部鮮やかな消えることのないリアルさ、現物の裏付けもある記憶、つまり、完全なる回想という意味を込めて映画タイトルをつけたのだろう。

 これは、前作、今回作の監督に共通した隠されたメッセージである。小説の原題の意味をよく咀嚼して、短くズバリと表現した。こうしたことは、映画だけをみていたのではわからない。ブログ子は、原作を読んで初めてわかった。

 もう一つ、映画を見ていて気づいたことがある。レン・ワイズマン監督は、明らかに

 バーチャル電脳空間映画「マトリックス」( ウォッシャウスキー兄弟監督、1999年)

を意識していたということだ。マトリックスは、今ここにいる自分はバーチャルで、実在は別のところにあるという逆転世界を描いている。マトリックスでの電脳空間での有名な戦いのシーンが、トータルリコールでも、地球中心部の無重力空間という場で演出されている。

 これは明らかに、監督からのもう一つの隠されたメッセージ

であろう。今見ているシーンは、マトリックス同様、現実ではない、バーチャルである

というメッセージだ。

 最後に一言、映画解説、批評への辛口批評。

 日本の映画批評は、あまりに幼稚である。批評とか、解説の名に値しない。思わせぶりな単なる宣伝文句の羅列に堕している。それだけではなく、ぐだぐだと饒舌なわりには、中身がほとんどない。十分映画の内容を理解していない証拠だ。

 映画批評家を含めて映像大好き人間のレベルの低さと言ってしまえばそれまでだが、もう少し知性のあるきちんとした解説、批評文化があってもいい。「ネタばれ」になるのでという言い訳で、自分の表現力不足、能力不足をごまかしてはならない。

 映画は文化度をはかるバロメーターである。映画の魅力アップや批評力を上げるには、映画の質を上げることもさりながら、解説する、批評する人を含めて映画ファンの知性のレベルアップが必要である。この映画をみて、つくづくそう思った。思わせぶりで、解説がずさんだった。

 結論。現状では、日本には映画批評文化は事実上存在しないと言い切れる。せいぜい映画産業に隷属したごく程度の低い妾文化の段階といえよう。こういえば、お妾さんのほうが「バカにするな」と怒るかもしれない。

   注記

 入手では、ハヤカワ文庫SFの中のディック短編集「トータル・リコール」が便利だろう。原作は、なんと1960年代に書かれたもの。

  補遺

   SF映画「アバター」(ジェームス・キャメロン監督、2009年)は、記憶をいじるのではなく、逆に、記憶はもとのままに、分身(アバター)をつくりだし、その分身に自分のDNAを改変して超肉体をつくりだすという物語。

 「トータル・リコール」は普通の人間の姿ばかりなのに対し、「アバター」は人間の物語なのに人間とは似ても似つかない超人間(心は人間)ばかりが登場するという構図の違いがある。

  補遺2

  この疑問をさらに延長していくと

 脳を考えているのは脳であるという唯脳論

に行き着く。ちくま学芸文庫『唯脳論』(養老孟司、1998年)は、この分野では、解剖学者の画期的な著作である。脳を外科移植手術でほかの人のものと取り替えると、手術から目覚めた人はどうなるか。一読をすすめたい本だ。トータル・リコールの世界の深遠さにも気づくだろう。

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