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「藪の中」の原発事故 真相は刑事裁判で

(2012.07.09)  これまでに福島原発事故の事故調査については、発表順に昨年12月の政府事故調(畑村委員会、中間報告)、2月の民間事調(北澤委員会)、先月の東電事故調、そして先日の国会事故調(黒川委員会)と、主なものだけでも、4つの報告書がまとめられている。

 Top_mv_7 東電に対しても、政府や原子力安全・保安院に対しても、最も手厳しかったのは、意外にも黒川委員会の結論だった。高く評価したい。審議時間が短かったにもかかわらず、次のように明確に結論づけている( 写真=国会事故調の審議の様子=事故調ホームページより )。

 原発事故は、巨大地震や巨大津波による自然災害ではなく、「明らかに人災だった」。

 その理由として、事故の予見もできたし、事故を回避する津波対策では、東電や保安院には何回も手を打つ機会があった。その都度、解決を先延ばしした。また、地震と事故の関係について、すくなくとも1号機が津波が来る前に、冷却材(水)喪失に伴う少なからぬ損傷を受けた可能性を否定することができない。

 さらに、事故当時首相だった菅前首相など政府と東電幹部との対応が相互不信感から「指揮命令系統の混乱を拡大させたことを人災の理由としてあげている。

 これを要するに、事故は東電と政府、特に保安院が共同正犯となって引き起こされたというわけだ。

 この場合、正犯同士、互いにもたれかかった怠慢というよりも、東電側が、規制当局の保安院を「虜(とりこ)」にして、裏でたくみに都合よくにコントロールし、あるいは隠れ蓑にしていたという実態があったとしているところから、東電の悪質性が報告書から読み取れる。事実上の主犯だろう。

 国政調査権を持つ国会の調査委員会が東電幹部を国会に招致して意見を求めた結果であり、この結論は、他の報告書よりも重い。

 これに対し、東電の報告書は、まったく逆の結論を導き出している。

 先日のこのブログでも書いたが、原発事故は地震発生の予見も回避もできないような予想外の自然災害によるものであった。それでも、すべての原発は地震では損傷を受けることはなかった。ただ、結果として、その後に襲ってきた巨大津波の対策については、不十分だったことは事実。しかし、それは保安院や内閣府原子力安全委員会の責任であり、東電は国の指示に誠実に従ったまでと主張。したがって、この点での東電の業務上の過失はないとしている。あまつさえ、官邸の介入が無用の混乱を助長させたことを考えあわせると、刑事責任があるとすれば、それは東電ではなく、政府側にあると言っているようにみえる。

  他の号機と違って建屋が水素爆発を引き起こさなかったのに、なぜ、2号機からもっとも大量の放射性物質が事故から4日後の3月15日、いわゆる「運命の日」に発電所外に漏れ出したのかという疑問については、原子炉を格納する格納容器内のガスが何らかの形で大気中に放出されたからだとの推測以上のことは、不明とした。

 東電報告書は、当然と言えば当然だが、今回の事故は不可抗力な自然災害説。それでも津波が襲ってくるまではすべての原発は地震に対しては正常に停止した。津波対策で、あるいは責任があるとすれば、政府だといわんばかりの政府主犯説を主張している。

 民間事故調は、事故が人災であり、その原因は主に東電=主犯、政府=従犯説だ。

 報告書の最終章の結論部分でこう言っている。

 「最後の頼みの綱の冷却機能が失われたのに、それへの対応が(事故翌日の)12日早朝までなされなかったことは、この事故が「人災」の性格を色濃く帯びていることを強く示唆している」。その上で「この「人災」の本質は過酷事故に対する東京電力の備えにおける組織的怠慢にある」と断罪している。

 最初に報告書を中間報告としてまとめた政府事故調は、事故は人災であり、主犯の東電の事故への対応が「極めて不適切」であったことを、次のように指摘している。

 1号機にある非常用の原子炉冷却装置を全運転員が作動させた経験がないなど、各号機の冷却操作で不手際や認識不足があり、炉心損傷を早めた可能性がある。こう指摘した上で、

「東電は事業者として極めて不適切」

と断じた。これを要するに、東電は業務上、当然払うべき重大な注意義務を怠たり、過失があったと認定したと言えよう。

 政府事故調の最終報告書はまもなく公表される。東電の主張、つまり、仮に事故が人災てあるとしても、その責任は、津波対策を怠った政府のみにあり、政府に忠実に従った東電にはないとする主張にどうこたえるか、反論など納得のいく最終報告をまとめてもらいたい。あるいは、検証したくても、できなかったものは何かという将来への課題の提示は必須と考える。

 芥川龍之介の小説に『藪の中』というのがある。黒澤映画「羅生門」の原作でもある。藪の中で何が起きたのか、起きた殺人事件の責任は誰にあるのか、物語は証言ごとに二転三転する。保身のため証言でウソをつくことが人間にはあるからだ。真相に迫るには、立場の異なる複数の証言を比較、考量し吟味する必要がある。

 この意味で、政府事故調の最終報告書では、すくなくとも、ほかの3つの検証報告書との異同を明確した総括的な対照表を提示してもらいたい。事故の全体像がわかりやすく浮かび上がるであろう。

 最終的には、原発事故の責任は誰にあるのか、その吟味の場は、刑事裁判をおいてほかにはない。すでに東電の刑法(業務上過失致死傷罪)違反などを問う告訴、告発団が訴訟の準備に入ろうとしている。低線量被爆が傷害にあたるのかどうか、事故といまだ症状のない傷害の因果関係の確定も大変ではあろう。難しい法律論議もあるようだ。

 しかし、検察は、告訴、告発を受けて、起訴するかどうかの判断に当たって、これだけの大惨事を引き起こした原発事故の社会的な影響の大きさを十分考慮すべきだろう。法律の枠内だけで立件の可能性を専門的な立場から判断するようでは、結果として東電の立場を支持することになりかねない。そうなれば、社会正義を旨とする検察の存在意義は大きく損なわれるであろう。

 今こそ、秋霜烈日の姿勢を国民に示すときではないか。

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