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2012年7月

精神科医の憂うつ 学会が初の「処方」指針

(2012.07.31)  スーパー銭湯の湯上りで、生ビールを飲みながら、何気なく中日新聞を開くと、

 日本うつ病学会 安易な投薬に警鐘 初の指針

という短い記事(7月28日付= 写真上)が目にとまった。具体的には、指針では抗うつ薬の有効性や副作用の情報を盛り込み、軽症患者への安易な薬物療法に「慎重な判断が求められる」という形で警鐘を鳴らしているらしい。

 Image788_2 別にどうということもない記事のようにみえる。しかし、指針を出した背景には、世界、特にアメリカの精神科医の間をおおうある憂うつがあることに、ブログ子は気づいた。

 「抗うつ剤神話」の憂うつなジレンマ

という「ニューズウィーク日本版」(2010年3月10日号 = 写真下)の記事である。「うつは薬で治せる」と一般には信じられている。しかし、抗うつ剤の効果は、よほどの重症患者を除けば、偽薬(いわゆるプラシーボ)と大して変わらないというそんな最新研究(米国医師会報2010年1月号論文)が紹介されているのだ。

 具体的に、そしてわかりやすく言えば、抗うつ剤の効果の4分の3は、患者の思い込みと期待と希望の産物にすぎない偽薬効果だったというのだ。改善効果の大部分は、脳への直接的な薬理的な作用などではないというのだ。

 軽症患者の場合、小麦粉を固めたような薬効がない偽薬でも、精神科医が抗うつ剤として処方すれば、その暗示効果で本物の抗うつ剤と同様の効果があるらしい。逆に、本物を渡しても、これは気休めの偽薬ですと言えば、改善効果はたいていないのだそうだ。

 本物の抗うつ剤は、副作用のない偽薬と違って、神経伝達物質への働きかけを通じて脳に直接作用する分、副作用が出る場合がある。となると、飲むなら、偽薬のほうがいいとなる。

 Image793newsweek つまりは、抗うつ剤には治療効果はある。ただし、ただ同然の偽薬と同程度に。ただし、偽薬にはない副作用がある。精神科医や製薬業界にとっては、これは不都合な真実だろう。

 こうしたことが背景にあって、日本でも日本うつ病学会が指針を出して安易な投薬に初めて警鐘を鳴らしたのだろう。

 風邪を治すように、人の心が関わる病気を薬物で治そうという考え方には根本的に限界があることを精神科医は忘れてはなるまい。

 抗うつ剤は、もはや魔法の薬でも、万能薬でもない。

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素粒子は粒子か ?    「ヒッグス」発見以後

Image781 (2012.07.30)  ものに質量を与えるとされるヒッグス粒子の発見からまもなく1か月がたつが、「日経 サイエンス」9月号が、この粒子について特集を組んでいる ( 写真 )。

 素粒子の理論分野でノーベル物理学賞を与えられた小林誠さんや、益川敏英さんが編集部インタビューに応じ、発見の意義や今後の理論研究の展開について語っているのが、興味を引いた。

 この粒子の発見の決め手は、理論的に予想される粒子のいくつかある崩壊パターンに実験結果が合致し、かつ、その質量は125GeV付近にある確率がほぼ100%に近かったことだ。小林さんは、これについて

 「実験結果を素直に解釈すれば、今回の実験でヒッグス粒子が見つかったと考えるのが自然だ」

という表現で成果を高く評価している。残された最後の粒子の発見は「一種の完結」というわけだ。

 問題なのは、当初予想されていた質量140GeVではなく、なぜ125GeVだったのかという点だ。このズレから、ひょっとすると、発見されたのは、いくつかあるヒッグス粒子の中のひとつかもしれないという。ヒッグス理論では、ヒッグス粒子は一つであると証明していない。だから、ほかの基本粒子と同様、3種類(世代)あってもおかしくないというわけだ。

 それと、もうひとつ、質量を与えるヒッグス粒子そのものの質量がなぜ125GeVなのかという点だ。ヒッグス理論ではこれは説明できない。

  こうしたことから、発見に至ったデータをもとに、質量を与えるヒッグス機構を詳しく調べると、

 新たな理論の入り口

に至るのではないかと話す。つまり、単に45年前に予測された粒子が今見つかったというだけでなく、突破口(ブレイクスルー)になるということだ。

 益川さんも、

「 (1980年代以降) 30年間のこの理論の無風状態に新たな展開が期待できる」

と話す。たとえば、標準理論にある多くの任意パラメーターの確定、また、なぜそのような値になっているのか、さらには基本粒子の質量にはなぜ規則性がなく、ばらばらなのか-といったことが、今回の実験結果の先に見えてくるのではないかと期待を示した。

 Dsc00249 その先とは、ひも理論、超対称性理論などのことを指しているのだろう。今回の新粒子は、こうした最近の理論によって説明される可能性が高いと益川さんは、インタビューで語っている。

 これらの記事を読んで、

 〝素粒子〟は、果たして粒子か ?

という南部陽一郎さんが行ったある講演(1985年4月、東北大学理学部。 注記 )のタイトルを思い出した。素粒子は〝粒子〟ではなく、閉じたひも、つまり、ごく小さい輪ゴムのようなものであるという理論である。

 ここまでくると、実証性が求められる物理学も数学的、抽象的になりすぎて、とても、実験にかかるまでにはまだまだ遠い道のりだろう。

 注記

 南部陽一郎『素粒子論の発展』(岩波書店、2009)  「〝素粒子〟は粒子か」

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源氏絵 時代の価値観を映し出す絵鏡

(2012.07.29)  理系出身のブログ子は、とかく西欧に目を向けたがり、また、ありがたがるくせがある。国学の祖とも言われる賀茂真淵記念館(浜松市)の近くの高台に暮らしているのだから、もっと国学に関心を持たなければなるまいと決心。で、一転、この夏、何も知らないで、同館アカデミーの

 源氏物語の絵画化 その歴史と研究の視点

というのを受講し始めた。先日の初回講座では、地元の大学、静岡文化芸術大学の教授がさまざまな源氏絵をスライドで紹介してくれた ( 写真 )。

Image772_2  「源氏物語絵巻」のように、源氏物語を絵画化したものを「源氏絵」というらしい。驚いたのは、描かれた媒体には、絵巻ものだけでなく、冊子あり、扇面あり、色紙あり、掛け軸あり、大きなものでは屏風あり、ふすまありとさまさままな形態が使われていたことだ。源氏絵は、なんとなく絵巻ものだけだと思っていたので、次々とスライドで紹介されるのを見て、びっくりした。

 学問や研究は、まず、分類することから始まる。これは理系でも文系でも同じだ。そこで、ふと、思った。この媒体(メディア)の多様性は、一体何を意味するのだろうかと。多様性は、貴族のみならず、広く日本人の精神文化の形成と無縁ではないだろうと。

 講座を聞きながら、研究の視点として

 第一に、源氏物語のどの場面を絵画化するかという「選択の視点」からの研究がある。場面選択は時代により変化しているという。

  第二に、選択された場面をどのように絵画化するかという「絵画化の視点」からの研究。言葉から絵に移しかえる時のパトロンの注文や絵師の手法にどんな時代の変化があるのかということだろう。

 第三に、そうした描かれ方(図様)がどのように時代とともに継承されたり、またはこれまでとは違った新しい描かれ方をしてきたかという「継承の視点」からの研究

-の3つの側面があるらしいことがわかった。

 源氏絵の媒体の多様性を念頭に置きながら、この三つの視点から、源氏絵とは何か、ということが、おぼろげながらわかった。それは、

 源氏絵とは、それぞれの時代の価値観や美意識を映し出す絵鏡

なのだ。だから、時代とともに場面選択は変化する。絵画化されること自体、一般化を象徴する。価値観の普及に役立つし、また共有の道具なのだ。継承の視点とは、時代精神の変化を調べる道具として源氏物語を利用していることになる。

 となると、源氏絵は、単なるそえものの「さし絵」ではない。「源氏物語」に仮託して、つまり、その時代の人々が源氏物語をどう読んでいるかということを通じて、日本人の精神文化の変遷の研究をするのが、源氏絵研究なのではないか。そこに美術史にはとどまらない研究の広さを感じた。源氏物語という価値観を基準尺度に設定した、「やまと心」の分析研究といってもいいだろう( 注記 )。

 浮世絵の中には、その一部に源氏絵が描かれたものがあるそうだが、それは価値観の共有が、江戸時代には、貴族・武士階級だけでなく、一般庶民にまで普及した証左でもあろう。そう考えると、「国宝 源氏物語」は、12世紀前半の貴族階級・武士階級の美意識や価値観を表現したものであり、浮世絵の中の源氏絵は、基準尺度を同じにした場合の江戸時代の価値観の表現なのだ。単に媒体がカラーの浮世絵になったのではない。

 Image787_4 その意味で、文明開化の明治期の源氏絵は、明治人の時代精神が急激に変化したことに伴い、「継承の視点」だけでなく、絵画化の視点からも場面選択の視点からも、きっと劇的に変化しているはずだ。

 そして今、科学や技術が劇的に発達した時代、源氏絵が描かれるとすれば、これまた劇的に変化するはずである。絵画化の視点から、単に絵が、3DやCGになるだけではなく、場面選択の視点からも大きな変化がみられるだろうと予測される。

 これからの講座が楽しみだが、講師先生推薦の

 『週刊 絵巻で楽しむ源氏物語 五十四帖』(朝日新聞出版、刊行中。写真 )

の初心者向けの解説(稲本万里子教授)

 源氏絵とは何か ?

には、こうした分析はない (創刊号)。ばかりか、解説表題の源氏絵とは何かにすらきちんと定義し、はっきりとはこたえていないのは残念だった。曰く

 「したがって、源氏絵とは、日本美術の新たな側面を照らす、大きな流れを形づくる絵画なのである」

と、冒頭、意味不明な言葉でごまかしてしまっている ( 失礼 )。本文中には、なぜ側面を照らすのか、なぜ大きな流れを形づくるのか、具体的な説明はない。絵師の流派など、いかにも専門家らしいこまごまとした話に終始している。

 解説の最後は

 「それぞれの画風の違いを味わうとともに、日本の一流の絵師たちが連綿と描き続けてきた源氏絵のすばらしさを堪能していただきたい」

と結んでいる。あえて言えば、美術史的な視点ばかりが目立ち、やまと心の変遷とも言うべき文化史的な視点が解説に欠落している。源氏絵が連綿と描かれてきた社会的な意味は何か、またなぜ、さまざまな媒体で描かれてきたのか、媒体は違ってもその時代の共通点は何か、ズバリ解説してほしかった。

 初心者が源氏絵を見る場合のそうした視点を提示できれば、それこそ「日本美術の新たな側面を照らす」であろうし、源氏絵の見方も俄然奥深くなるだろう。

  源氏絵には、言詞も含めて、「国宝 源氏物語」とは別の独自の世界がある。単なる挿絵ではない。初回の講座からそんなことを学んだ。

 (以下に、注記2として、まとめ的な後日談)。

  注記 源氏絵とは何か

 古典「源氏物語」を手軽に楽しむための源氏絵ならば、必ずしも「源氏物語」を読む必要はないだろう。源氏絵に描かれた世界がそのまま源氏物語だと思えばいいからだ。

 しかし、源氏絵とは何か、ブログ子のこの仮説が正しいかどうかということになると、源氏絵が「源氏物語」とは別世界であるとはいえ、価値基準の尺度、つまり「源氏物語」を、せめて現代語訳ででも読んでおくことが不可欠だろう。源氏物語という最初の〝文字鏡〟が、その後、絵鏡としてどう映し出されてきたか、そのズレを計る必要があるからだ。当然だが、できれば原文で読んでおくことが一番いい。

 そんな思いで、ブログ子は、今、『円地文子訳 源氏物語』(全10巻、新潮社版)を読み始めている。

 ● 注記2  まとめ的な後日談 2013年1月28日

 このアカデミーの最終回の6回目は、

 源氏絵はなぜ描かれたのか

というものだった。あるいは、描かれ続けたのかということでもある。

 講義では、直接、明確な答えはなかったようだが、講義を聞いた感想から言えば、

 それは、源氏絵とは何か

ということにこたえることであり、次のようなことではないかと思う。

 つまり、第一は、

 当然だが、注文主が、長大なブランド作品『源氏物語』を手軽に楽しむために

描かれたのであろう。

 描かれ続けた理由としては、

 源氏絵というのは、その第一の目的を離れて、

 所有者や発注者の教養の程度を示すため、見せ付けるために

描かれたのであろう。男の教養の場合は、襖絵などに、女の場合は婚礼調度品などに。それらは、教養をそれとなく見せ付けるためにはうってつけのしつらえだからである。雅びの場面でもあるから、教養を示すにはもってこいなのである。

 以上が、美術史的にみた場合だが、価値観の伴う文化史としてみれば、これは結果として、

 源氏絵とは、「源氏物語」というブランド作品を統一基準にしたその時代、その時代の価値観、美意識を表現した絵鏡

ということになる。この場合、美意識、価値観というのは「場面選択」で表現されているというわけだ。ここから、当時、何に価値を置いていたかがわかるという按配だ。

 そうすると、価値観を表現したのが絵鏡なのだから、それがどのような図様であるかということ(しつらえ)は、およそ関係がない。だから、扇絵あり、襖絵あり、画帳ありとバラエティに富んでいるのはむしろ当然なのだ。

 もし、この解釈(あるいは仮説)が正しいとすると、源氏絵はそもそも、それとなく見せ付けるためのものだから、

  人に見せつけることを目的にしない源氏絵は存在しないか、ごく限られている

ということが予測される。この予測は正しいか。

 この点について、講師の先生(片桐弥生先生)も、大筋では予測はいいのではないかとの解答であった。

 また、もし、この仮説が正しいとするならば、「宇治十帖」のような心の内面を見つめるような場面選択を、ことさらに源氏絵にしたものは、存在しないか、または、ごく限られているはずだ

ということが予測される。というのは、内省的な宗教と教養を見せ付けるという行為とは相容れないからだ。この点でも、おおむね、正しいらしい。

 さらに、もう一つ、源氏絵が時代の価値観を映し出す絵鏡だとすると、

 たとえば、明治、あるいは昭和戦前から大きく価値観の変わった戦後の源氏絵は、おどろくほど「場面選択」が従来とは、図様はもちろん、内容も大きく異なっているはずだ

とも予想される。講義の最後の質問時間でも話が出たが、

 1980年代に連載された源氏物語の漫画化の代表、

 大和和紀『あさきゆめみし』(単行本は全13巻)

は、ブログ子はこの漫画をまったく知らないのだが、まさにこの予想がおおよそ正しいという。

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書庫で泳ぐ〝生きた化石〟 渡部昇一的世界

(2012.07.27)  ロンドン五輪が始まった。熱き戦いの中、それとはまるで別世界の

 書庫という水槽の中で泳ぐ〝生きた化石〟のような人

に出会った。ベストセラー『知的生活の方法』の著作でも知られる英文学者の渡部昇一氏(上智大学名誉教授)である。雑誌「男の隠れ家」が、21世紀知的経済自由人の生き方と題して増刊号を出している。御歳何歳かは忘れたが、その代表として渡部氏の自慢の書庫生活を紹介している( 写真 )。

  Image785 内外の貴重な本の収集家としても知られていることは、かねてうわさには聞いていたが、それはそれは立派で、広々とした書庫に整然と並べられた自慢の書庫が公開されていた。たいした量でもないのに本の置き場に難渋しているブログ子も思わず、うらやましいとため息をもらしたほどだ。

  ところで、タイトルにもなっている「知的経済自由人」とは何か。パラパラ読んでみると、どうやら、

 お金や生活の心配から解放され、自分の好きなことをしながら、時間も自由に使える、そんな知的生活をしている人

をさすらしい。具体的には、進化論で知られるC.ダーウィンなどは、さしずめこれだろう。何のことはない、昔から使われている「悠々自適」のことだ( 注記 )。

 そんな生活をしていると自認する作家、本田健氏が、取材で得た知見から、知的経済自由人になるための「100冊」を増刊号で紹介している。

 理系出身のブログ子としては、どんなサイエンス教養書が紹介されているか、興味を持ったが、なんと、

 大ベストセラー『バカの壁』(新潮新書)

は取り入れられていた。しかし、科学や技術の本は一冊もない。金儲けの本ばかりが、それも通俗本ばかりなのだ。『バカの壁』も話題の書ではあっても、およそサイエンス教養書とはいいがたい。多くのベストセラーがそうであるように、数年で忘れ去られる雑書だ。

 渡部氏が愛してやまないイギリス社会では、お金に困らない貴族はもちろん、紳士などの教養人には基本的な科学知識を身につけることは必須要件。科学する心を養う教養書が一冊もないというのは、いかにもずさんだ。

 そして、ふと思った。あの広大な、そしてりっぱな蔵書を収蔵する渡部書斎にも、科学書は一冊もないのではないかと不安になった。事実とすれば、知的ディレッタントとまでは言わないものの、経済自由人であることは間違いないものの、知的とはとてもいえないと、負け惜しみもあって放言しておこう。 

 とはいえ、ただ、ひとつ、これだけの書庫が、今話題の首都圏直下型地震で一夜にして灰燼に帰することのないよう、耐震、耐火など渡部氏にはしっかり管理してほしい。また、ご逝去後も保存対策を怠ってはなるまい。どこかの大学で管理してほしいような立派な蔵書のような気もする。

 注記

 それでは、ブログ子はどうか。使えるお金が少ないので「汲々」の毎日。しかし、自由な時間はたっぷりある「自適」の生活。とても生きた化石のような悠々たる生活とはいかない。せいぜいが「汲々自適」だと自慢しておこう。

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原発事故調報告、八つ当たりの日経「社説」

(2012.07.25)  4つの原発事故調の最終報告書が出揃ったので、7月24日付朝刊各紙の社説がどんなことを主張しているか、主張のポイントとなる主見出しを中心に、拾ってみた。

 Image775_2 経済紙の日経新聞は経団連の〝広報部〟的な存在であり、経団連の重要メンバーは事故を起こした東電をはじめ全国の電力会社なのだから、まず、日経新聞を拝見した。案の定、歯切れが悪く、論説委員も書くにあたって、神経をすり減らしたのだろう、

 「物足りない原発事故調報告」(=7月24日付日経朝刊)

と苦しい主張をしている ( 写真 )。しかも、第一社説(オスプレイ問題)の下に、重要度が少し落ちる第二社説として掲載していた。その気持ちはわかるが、東電への細やかな配慮ではある。

 それはともかく、八つ当たりとはこうだ。

 津波が来る前に地震の揺れによる重大な損傷が原発にあったかどうかということは争点としては重要だ。この点について政府事故調は大きな損傷はなかったと考えるのが自然との表現で、損傷の可能性を一応否定しながらも、断定を避けた。これに対して社説は「これでは事故調の教訓を原発再稼働の判断などに役立てるのは難しい」と腹を立てている。断定してくれれば、原発の地震対策は機能したことになり、再稼働に弾みがついたのにと悔しさがにじんでいる。

 その無念さが、政府事故調の委員長談話に〝雑言〟を吐いたり、その報告書内容についても取り立てて目新しいものがないなどとけなしたりする原因につながったようにみえる。平たく言えば、腹立ちまぎれの八つ当たり社説である。

  面白いのは、第二社説として書かれている中日新聞社説。津波が来る前に地震によって原発が重大な損傷を受けたかどうか、政府事故調は、東電の社内事故調と同様、一応否定したのに対し、国会事故調は損傷の可能性を否定できないとした点に注目、「国会が率先して解明を」と踏み込んだ。正鵠を射た指摘だ。

 産経新聞は、東電など関係者を国会で証人喚問するなど、4つの報告書を「責任追及の出発点にせよ」と話を一歩先に進めている。東電にとっては、もっとも厳しい社説だろう。しかし、その前に、まずそれぞれの報告書の総括結果を踏まえて、そこから主見出しを取るのが順序ではないか。

 朝日新聞の社説は「これで終わらせるな」と書き、毎日新聞も大型社説にして「原因究明は終わらない」と主張している。ともに、検証の継続のため、新たな調査委員会の設置を提案している。内容は大同小異で、この種の社説の定石どおりの無難な主張に終始している。

 地元紙、静岡新聞は、政府は「残る疑問の徹底解明を」と、これまた型通りの主張。残る疑問とは、放射能汚染予測データの公表遅れが避難誘導にどのような影響を与えたかの評価が、政府事故調と国会のそれとで見解が分かれた点などだ。

 最後に、大型社説を組んだ読売新聞は

 「原発の安全向上に教訓生かせ」

とし、脇見出しで「想定外に備える危機対策を」としている。当たり前すぎて、そして陳腐すぎて、何も言っていないのに等しい。東電との距離、原発との距離が社内で決まっていないらしいことがうかがわれる。このことをさらけ出した解説的な社説との印象が強い。事実上、主張のない大型社説である。

 ブログ子は、中日新聞の社説を評価したい。ほぼ同意見だ。

 もうひとつ、津波による全電源喪失後、建屋が水素爆発したほかのどの号機よりも圧倒的な量の放射性物質が、なぜ水素爆発しなかった2号機から外気に放出されたのか。ルートやメカニズムなど、この謎の解決はぜひとも究明しなければならない。どの報告書もこの解明があいまいだったり、あえて踏み込みを控えている。この点を明確に指摘した社説がなかったのは残念だ。原子炉の主蒸気逃し弁(SR弁)の開閉と計測された放射線量の増減の相関関係など、専門家の今後の再検証に期待する。

 最後に、どの社説も、現時点では、東電に重大な過失があったとして、当然払うべき注意義務を怠った場合の業務上過失致死傷罪という刑事責任を問う声はなかった。ブログ子にとっては、意外な気がした。国民世論が高まれば、過失と傷害との因果関係を広くとらえれば、これまでの情報だけでも十分に問えると思う。告訴・告発を受け、それらを受理するかどうか見極めている検察の今後の動きを注視したい。

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楽譜が読めるジャーナリスト 吉田秀和氏のこと

(2012.07.24)  NHK総合の「クローズアップ現代」を見ていたら

 「自分の考えはあるか」

と題して、今春亡くなった音楽評論家、吉田秀和氏を取り上げていた。この問いかけは、世相に流されない、回りにこびないで、自分できちんと分析した自分の考えがあるかという意味で、吉田さんの音楽評論の根本姿勢だった。

 Image7663 しかし、あまりにも番組に登場する識者が誰も彼も吉田氏をほめちぎる饒舌さにうんざりした。内容はほとんどない。ひとりぐらい、くそみそにこき下ろす識者があれば、吉田氏もさぞ喜んだにちがいない。それがない。女性キャスターもそんな話はもういいから、もう少しきちんとした話をしてほしいとばかり、話題を変えようとするのだが、饒舌さがとまらないのに閉口していた。

 ブログ子も、ヒマだねだし、ブログ子にクラシックがわかるはずもないし、チャンネルを切り替えようとした。

 そして、ふと、思った。吉田氏をほめちぎる識者たちには、自分の考えなどないのだと。受け売りなのだ。だから、饒舌でごまかしているのだと。

 晩年の吉田氏の講演を一度、金沢市文化ホールで聞いたことがある。文章で言えば、原稿は原稿用紙に万年筆で書く。楽譜を見ながら書く。五線譜に音符を書き込みながら書く。それも、ゆっくり、じっくり考えて、手直しする。そんなような、言ってみれば、

 言葉で奏でる音楽

のような講演だった。

 あの有名なピアニスト、ホロビッツの晩年の来日公演を「ひびの入った骨董品」、それもいく筋ものとこき下ろしたことで有名な吉田さんは、世論や世相にこびない、また権威や権力にもこびない独行道の人だったように思う。

 そして、また、ふと思った。吉田さんは、果たして音楽評論家だったのだろうかと。

 違うと思う。音楽で世の中を批評し、批判し続けた

 楽譜が読めるジャーナリスト

だったのではないか。だから、吉田さんの自宅には、クラシックファンなら当然備えているはずの高価なステレオなどない。ステレオではなく、楽譜なのだ。世の中なのだ。このほうが、ずっと吉田さんの人生を的確に言い当てていると思う。

 文化勲章なんかもらわなかったら、もっと、その人生の真骨頂は輝いたであろう。これが惜しまれる。

 こんなことをいったら、地獄か天国にいる吉田さんはどう言うだろうか。きっと、こういうだろう。

 「君には、自分の考えがある」

とはにかみながら、微笑んでくれるだろう。

 そんなことを考えながら、好きな新井満が詩をもとに作詞・作曲した

 CD「千の風になって」

を深夜聞き続けた。そして、やがて、ブログ子も、千の風になってあの星空にひとり帰っていくのだと、気づかせてくれた、ある意味、すぐれた番組だったように思う。

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発言を認め、原子力ムラの本音引き出そう

(2012.07.23)  ノンフィクション作家、柳田邦男さんの毎月1回の論説「深呼吸」が読みたくて、7月23日付毎日新聞を開いた。案の定、原発の将来をどうするか、その意見を国民から直接聞き取る政府の意見聴取会を取り上げていた。

  Image763_2 先日の名古屋会場では、中部電力の現役原子力部課長の「事故で放射能の直接的影響によって誰かが死亡したという報告はない」との発言をめぐって、いかにも柳田さんらしい鋭い分析が載っていた。

 事故の特異性と深刻さは、直接的死者数ではとらえられないところにあると指摘。避難生活を強いられている「命の現場」、被災者の視点からの徹底検証が必要と訴えていた。その通りであろう。

 問題は、こうした非常識な発言が幹部から確信を込めて出てくる根底には何があり、何が欠けているのか。

 柳田さんは、第一に、安全神話に寄りかかって、被害者の身になって問題を直視しようという発想がそもそもない、第二に、事故を他人事の視点でしかとらえられず、自分の家族が現場にいたらどうなるかという我が事の視点がない、第三に、意識にあるのは敷地内のプラントの安全性だけで、安全には地域の人々が含まれるという社会システムの意識がうすい-ことを挙げていた。これが、原子力ムラの論理の根底なのだ。

 同日付毎日新聞には、

 今後の聴取会では電力関係者が除外されることになったことについて、排除された電力会社側からは「なぜ個人の意見なのに話せないのか」との不満が噴出したとの記事が出ている。

 とするならば、ブログ子は、むしろ発言を今後も認め、原子力ムラの論理や本音を国民の前にさらけ出してもらうことのほうが、今後の原子力政策の立て直しには好都合なのではないかと思う。そうすれば、柳田さんの先の三つの根底にあるものがより具体的に、より鮮明に浮かび上がるだろう。

 期せずして、人気コラム「風知草」(山田孝男、同日付毎日新聞)も、意見聴取会の激白と題して、名古屋での聴取会騒動を取り上げ、

 「むやみな規制より、何が問題か、激白の中身を点検する方が建設的であろう」

として、名古屋会場での課長の発言を詳しく分析している。 

 原発が動かなくなれば、経済が冷え込み、今回の事故よりももっとひどい事故や事態が起きると言い放った点について、常識をこえると「原子力ムラ」の論理、本音を批判している。

 原子力ムラの何が問題か。その本音と意識を白日の下にさらけ出させるためには、原発関係者の発言を今後も認めるべきであり、除外すべきではない。このことがはっきりとわかったのが名古屋の聴取会だった。

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宇宙と海洋、日本追い抜く中国の科学・技術 

(2012.07.22)  低開発国、いや開発途上国の中国に、科学や技術の面でいよいよ日本が追い抜かれたということを実感させる出来事が静岡新聞にべた記事で載っている。

 Image751 中国の3人乗り有人宇宙船の打ち上げとその帰還成功であり、中国の有人潜水船の潜水記録が日本記録を追い抜いたというニュースである(写真= 2012年6月16日付静岡新聞「国際面」)。同日に、しかもべた記事であるところに、日本人の衝撃が感じられる。

 しかも、宇宙船については、3人のうち、一人は女性宇宙飛行士であり、中国独自の宇宙ステーションとのドッキングにも成功している ( 注記 )。

 宇宙については、もちろん軍事技術の向上や高度化に極めて重要であろうし、有人潜水船については、尖閣諸島問題でもわかるが、原子力空母の運用開始とともに中国の海洋東進戦略の要でもあろう。

 この十年で中国は、日本の軍事費たたきをしながら、自らは軍事費を20倍にも急拡大している。その成果がこれらの成果に結びついているのだろう。経済成長は、即軍事力の増大に結びついているのだ。

 国際政治は、今やプーチンロシアとアメリカと、中国によって動いていると言ってもいいだろう。日本とアメリカが、〝たかが〟オスプレイ運用うんぬんで、といったら沖縄県民には申し訳ないが、ゴタゴタしている場合ではない。輸送機ではないか。もっと戦略的な日米関係でありたい。今回のべた記事は、中国側からそんなことを〝警告〟しているように思う。

  注記

 7月27日、日本の使い捨ての無人補給機「こうのとり」が国際宇宙ステーションにドッキングし、ロシアの宇宙基地から送り込まれた星出宇宙飛行士が出迎えた。「こうのとりは」は地球大気圏再突入ができるようには設計されていない。再利用できないのだ。このことからも、中国宇宙技術の優秀性はもはや歴然。アメリカ、ロシアに迫るものだ。日本は、本格的に巻き返しを図るべきだろう。

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「うな重」3000円時代へ 浜松うなぎ考

(2012.07.22)  ウナギ好きの浜松っ子も、店先の値段表を見ながら、

 「結構するねえ。大丈夫だら ?」

と互いに相手の懐を気にしながら、なにやら不安をかかえて、のれんをくぐるようになった。

 Image755 浜松の代表的なうなぎの店といえば、浜名湖養魚漁業協同組合直営店「丸浜」がつとに知られている。JR浜松駅に隣接していることもあって、お客も多い。皮は香ばしく、身はふんわりと仕上げる手焼きの技は絶品。

 連れの中年につられて、ブログ子も意を決して入ったが、きものお吸い物付きで、

 うな重 2800円

 うな丼 2400円

である(税込み)。うな重(上)となると、うな重よりも、肉厚ウナギが使われており、メロン付きとはいえ、3900円。このところの稚魚のシラスウナギ高騰の折、これでもずいぶんと「勉強した」お値段にしてあるそうだ。

 去年も今ごろ食べたから知っているのだが、去年に比べてうな重が350円アップした。うな丼も300円、うな重(上)は700円のアップ。

 こうなると、独自の養殖ブランド「浜名湖うなぎ」のうな重3000円時代は目の前だろう。

 なにしろ、浜松市内のスーパーでも、

 蒲焼にした浜名湖産天然うなぎは、大きいもので2500円前後。小さいものでも1300円前後する。国内養殖では、大きいものは一尾1800円前後(小さいものは1300円前後)

 これに対し、蒲焼の中国産うなぎ(養殖解凍)は、ちょっとイワシと間違うくらいに小さいが、一尾分で約600円。2尾分で量的には国内産くらいになるが、1200円前後。輸送コストがかかるとはいえ、高い(年間国内消費量5万6000トンのうち、約半分は中国産養殖。国内産は約4割)。

  JR浜松駅のデパ地下には、こうした高騰に配慮してか、

 「うなぎ屋が焼いた」とラベルが貼られた「いわし蒲焼」が2尾で350円前後

で売られていた。さんまの蒲焼もそのくらいで、ずいぶん、ウナギに比べれば安い。

 なぜ、こんなにウナギが高くなったのか。原因は、シラスウナギの乱獲だ。

 たとえば、国内産シラスの漁獲高をみてみると、1960年代前半には200トン以上とれたのに対し、この3年では毎年10トン以下にまで激減した。最近は極端な不漁なのだ。

 原因のもう一つは、国際的にも、国内的にもシラスウナギの資源管理が遅れたのだ。日本は今年に入ってようやく緊急対策がとられ始めたらしい。EUでもワシントン条約にのっとって輸出規制をかけたのが5年前、全面輸出禁止は今年からだ。アメリカもそろそろ許可書が必要などの輸出規制に動き出したようだ。

 こうしたことから、浜松でもいまや、中国、台湾だけでなく、アフリカ・マダガスカル産の養殖ウナギが、量的にはまだ少ないが、輸入され始めている。

 ここまでくると、クロマグロ同様、日本は資源管理を急ぐとともにウナギの完全養殖の技術開発を急ぐ必要がありそうだ。この技術の実用化に去年あたりからようやくめどがだったばかりだ。天然のシラスを養殖し、とりつくしてしまう。そんな愚は、さけたいものだ。

 土用の丑、今年は27日。土用鰻割かれもっとも泣くを食ふ(角川書店編『俳句歳時記』)

  補遺

 セブン-イレブンが「ご予約」で提供する

 うなぎ蒲焼弁当

は、今夏の土用丑の日用で、1680円(九州産。小さめサイズのウナギ4分の3尾使用)。

 これに対し、中国産ウナギ2分の1使用の蒲焼弁当だと、980円(今春の土用の丑の日用の弁当も同一値段)。いずれにも、弁当ということで、たくあん2切れ付き。うな重はとてもじゃないが無理だろうが、1000円を切るかどうか、この辺が、うな丼、うなぎ弁当の価格の限界らしい。

補遺2

浜松市での養殖ウナギ卸値は、浜名湖の養殖卸業者によると、

 1キロ当たり 約4000円

で、昨年より、約1000円、3割くらい高騰している。卸業者としては、買い入れるシラスウナギの高騰との見合いもあるだろうが、どちらかというと、うれしい高値だろう。

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人生に乾杯 ! 秋吉久美子の場合

(2012.07.20)  小沢一郎よ決起せよ、と特集でけしかけていた「週刊朝日」(2012年7月13日号)を喫茶店でパラパラとめくっていたら、その特集の横に、

 インタビュー連載「人生に乾杯 ! 」Image741_2

という欄に静岡県富士宮市生まれの女優、秋吉久美子が登場していた。

 全共闘世代や団塊世代には圧倒的な人気だったが、こびずに、突っ張る、理屈っぽい美少女だった彼女の写真が大きく載っていた。18歳で映画界にデビューした当時の写真だが、にこりともしていない。こびないというのは、デビュー当時から変わっていないことが、これでわかった。

 驚いたのは、それから40年、現在、58歳の彼女がインタビューにこたえて、

 いつかギリシャ語を勉強して「プラトン」を原書で読んでみたい

とさらりと語っていることだった。彼女が言うと、本当にそうなるかもしれないと思うから不思議だ。

 理屈っぽいというのも、いまだ変わっていないのだ。別のインタビューシリーズ(「週刊現代」2004年2月28号「私の好きな唄」)で、中学時代には科学部に入っていろいろな実験をして楽しんでいたと語っているから、もともと根は理屈っぽいたちなのかもしれない。

 そんな彼女だが、

 今から8年前、50歳で再婚し、

 26歳年下の夫と〝男同士〟で暮らしている

というのも、すごい。人生いろいろとはいうものの、何度目かの壊し屋家業でもどっこい生きている小沢一郎氏も真っ青の破天荒さだ。

 そして、ふと思った。

 「いつか宇宙服を着て火星に〝帰って〟みたい」

と言い出すのではないかと。そういっても、少しも不思議に思わないほど、不思議な人生を生きる人だとうれしくなった。

  いや、ひょっとすると、

 「いつか宇宙服を着て太陽系の果て、冥王星に〝帰って〟みたい」

と言い出しかねない人のようにも思った。

 「人生に乾杯」というのは、彼女や小沢一郎氏のような尋常ではない険路の道を歩む人たちのために用意された言葉かもしれない。

 補遺 後日談

 それでは、58歳の彼女、さすがに少しは笑顔を浮かべているのではないか、と思っていた。ところが、なんと、彼女は今もってこびない。

 Image941 その証拠写真が、女性ファション月刊誌「クロワッサン プレミアム」(2012年10月号)の「秋吉さんが着るレースの魅力」というカバーと特集記事( 写真 )。いずれにも、微笑んでいる写真はない。これに対し、この写真にも映っている左端の「MORE(モア)」のカバーを飾っている女性は口をあけて快活に笑っている。これが普通なのだ。

 それでも、秋吉久美子は、懲りずに笑わない。しかも、レースの魅力について、特集記事で

 少年のような気持ちになってレースを着よう

と書いている。女性ファッション雑誌にこんなコメントをするのは、秋吉久美子大明神だけだろう。デビュー以来、この40年間、彼女の姿勢は一貫して変わっていないことがわかる。

 こんなこと、男にできるだろうか。ブログ子にはできない。それができる。そこが彼女の魅力なのだろう。

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脱「健康格差社会」 静岡からのコメント

(2012.07.18)  何気なく見たのだが、久しぶりに考えさせる解説番組に出合った。NHK総合「時論公論」の後藤千恵解説委員が脱「健康格差社会」を論じていた。もう1か月半も前に厚生労働省が発表した「健康寿命調査」がテーマ。

 この調査には、一生を終える平均寿命とは別の、介護も受けず、また寝たきりにもならず自立して生活ができる健康寿命について、男女別、各都道府県ごとにランキングされている。

 ブログ子の暮らす静岡県は女性が75.3歳で全国一長い。男性は71.7歳で全国2位だった(第1位はお隣りの愛知県)。定年を機会に、日本海側の金沢から転職、転居したブログ子としては、さもありなんという結果だった。一言でいって、お金などなくても暮らしやすいのだ。富士山の白く輝く頂を見ていると、不思議だが、ブログ子のような根暗な人間でも、長く生きたいという力がわいてくる。

 この研究調査は、もともと生活習慣病対策の効果に資するためのものだから、解説もどうせ生活習慣を変えましょうとか、各県や国は生活習慣病対策にもっと力を注ぎましようとか、呼びかけるのだろうと、たかをくくって聞き流していた。

 ところが、意外にも、そういう誰でも考えそうなお役所的な話は、軽く触れるだけだった。すぐに男性にしても、女性にしても、なぜ上位グループ県と下位グループ県との間に、ともに約3歳もの健康寿命の差があるのかというところを突いていた。データの多さから、この差は到底、統計的な誤差とは考えられず、きちんとした原因があるはずだというわけだ。その通りだろう。それを「格差」と見抜いたところは鋭い。これには社会的な原因、要因があるはずだとにおわせているのだ。

 平均値でものごとを考えていれば、こんな格差には気がつくまい。生活習慣病対策では、国を挙げて取り組み、各県も対策には等しく力を入れているのだから、この平均値からのズレ、あるいは格差は、生活習慣うんぬんとは、関係があるとしても、薄いのではないかというのは、うなずける ( 補足1 )。

 それでは何が主な原因かということになるが、よくわからないとしながらも、ずばり、

 地域との人のつながりの差

ではないかと、取り組みに熱心な1事例を挙げて、推測していた。ただ、この場合、ランキング上位グループの、しかも全県的な取り組み事例を紹介するのが論理的には常道のはずだ。番組ではそうでもない、小さな地域の事例だった。このことは、研究者の調査結果や分析も補足的に入れてはいたものの、指摘は狭い地域に限れば当たっているとは思うが、説得力が著しく欠けているとの印象を持った。小さな地域の取り組みを全県、大都市にそのまま当てはめて、政策をうんぬんするのは、わかりやすいが、誤りのもとである。

  番組最後の時間切れ間近に、

 希望格差が健康(寿命)格差を生んでいるのではないか

との仮説的な指摘には、下位グループ県はなかなか認めそうもないとは思うが、また定量的な分析もなかなか難しいとは思うが、当たっていると思う。ただ、それを無縁社会とまとめで直ちに結びつけるのは飛躍である。

 ここは、世界一の長寿国においては、健康寿命という指標であらわされる身体の健康づくりは、今や精神的に生きがいのある社会づくりなのだ。脱「健康格差社会」には、生活習慣病対策うんぬんというよりも、より広く精神面での取り組みがより大事なのではないか、とはっきり指摘して結んでほしかった( 補足2 )。つまり、健康づくりは社会づくりであるというだけでは、テレビの場合、あまりにあっさりしすぎていると感じた。

 まとめは、希望のない無縁社会を念頭に置いたものだったように思う。しかし、もう少し一般的な状況を視野に入れないと、健康寿命格差約3歳の定量的な解釈はとてもじゃないが難しいように思われた。あのまとめでは、下位グループ県には希望のない無縁社会の温床があるかのような、あらぬ誤解も生みそうだ。無縁社会の温床は静岡県はじめ、どの県にも等しくある。

 そうではなく、つまり、地縁、血縁、会社縁だけでなく、社会学者の上野千鶴子さんのいう、自分で選択できる「選択縁」( たとえば、補足2 )が、人とのつながりという点で、これからの自立した高齢社会づくりでは、大事になる。たとえば、急増する単身男性高齢者の心の健康問題は深刻だが、地縁づくりもさることながら、新たな選択縁づくりに一歩を踏み出せずに、ひとり悩んでいる。この始まったばかりの取り組みの県ごとの違いが、格差を生み出す主な原因の一つではないか。今後のきちんとした研究成果に注目したい、ということではなかったか。

 この点が番組では不分明であった。踏み込みが尻切れトンボになっていた。狙いが鋭かっただけに、「点睛を欠く」ようで惜しまれる。専売特許の無縁社会にとらわれすぎたのかもしれない。

 それはともかく、ヒマダネではあったが、それだけに視聴者に考えさせようという意気込みがあったことは確かで、その効果はあったように思う。

 補足1

  Image735 静岡県内では、この健康寿命の女性全国1位、男性2位について、生活習慣あるいは生活習慣病と関連付けて、真偽は医学的にはっきりとはしていないと思うが、

 緑茶の効果

が挙げられるのが、一般的だ。静岡は全国一のお茶生産どころであり、県民は緑茶を全国平均の倍程度は飲んでいる。緑茶の中のカテキンには、動脈硬化や糖尿病の予防効果があるとされているからだ。

 赤提灯の飲み屋では、水割りならぬ「緑茶割り」という言い方があり、この緑茶割りのことを「静岡割り」とも言う。お歳暮、お中元商戦のほかに、新茶の季節の4月下旬には、静岡県内ではもう一つ新茶商戦があり、デパート地下では特設会場ができる賑わいだ。

 補足2

 Image605 老境に入ったブログ子は、精神的に生きがいのある暮らしをしようと、人とのつながりを求め、

 目指せ定年後ダンス天国

を実行している(写真= 浜松市内 )。老いても恋(心)を、というのが、健康寿命をのばすのではないかと信じているからだ。身なりを正す、言葉を正す、姿勢を正すことが肝心な社交ダンスは、横着になりがちな老人の心、そして日常生活に張りをもたらす。このことは、

 映画「Shall We ダンス」(周防正行監督、役所広司/草刈民代)

を例に出すまでもなく、理解していただけるであろう。

 人とのつながりはこれだけに限らないが、よく笑い、よく出歩き、そして疲れたら「緑茶」をいただき一服。また新たな人とのつながりを求めて、ボランティアや週一回、社交ダンス教室に通い、ほどよくお金を使う。これが健康寿命をのばすコツ。そう個人的には信じている。

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アリバイづくりの「原発比率」意見聴取会

(2012.07.17)  将来の原発比率をどうするか。

 内閣府の国家戦略室や経済産業省などの政府は、国民的議論を呼びかけたはずなのに、その意見聴取会は、参加者が会場でボディチェックを受けたり、名古屋会場では意見発表者の中に〝個人の意見〟の披瀝を希望した地元電力会社の原子力部課長が含まれていたりと、とても真摯に国民的議論をしようという場とは思えない。

 課長の健気な〝勇気〟には敬意を表したいが、国民的議論がいつのまにか一方的な聴取にすり変わってしまった。これでは、混乱を招くだけであり、単にアリバイづくりを急いでいるだけだと指弾されても仕方がないだろう。

 将来(2030年)の原発比率について、冷静で、しかも大多数が納得できる国民的な議論がなぜ必要か。それは、単にエネルギー政策が将来の国の形を決める重要政策だからだけではない。

 仮に、この比率を減らした場合、その大部分、太陽光、風力などによる再生可能エネルギー発電が担わなければならないが、それには国民に今よりも重い負担を強いることになる。この転換に対する電気料金の追加的な負担に対する国民の納得が不可欠であるからだ。原発の比率を減らすことは、国民に負担の覚悟をしてもらうことにほかならない。

 具体的に言えば、今月から、水力を除く再生可能エネルギーの普及と促進を目的とした固定価格買取制度がスタートした。メガソーラーなど大規模な太陽光発電の場合、電力会社の買取価格は、発電コストより高めに設定され、1kWh当たり42円。

 この電力会社の負担を電気料金に転嫁する促進賦課金は、当初は月々100円程度(一般家庭)だが、普及が進めば、たとえば、現在の10倍に再生エネルギー発電が増えれば、当然、世帯の負担も10倍になり、月々1000円程度にもなる。その見返りとして、普及が進めば、原発比率は小さくできるというメリットがある。

 このように将来の原発比率の議論は、比率と表裏の関係にある固定価格買取制度の価格設定という国民の生活と密接に関係することから、包括的な検討が今求められている。

 しかも価格設定の論議には、これから10年、20年先の、たとえば太陽光発電の技術革新の定量的な分析が欠かせない。太陽光発電の発電コストは現在、1kWh当たり約25円だが、2020年には14円に下がり、さらに2030年には7円にまで下がるとの具体的な試算もある( 注記 )。普及が順調なら2020年代には、発電コストでは、再生エネルギーのほうが、原発より安くなるとの見方もある。

 さらに、原発比率の議論は、国際公約1990年比25%CO2削減という温暖化防止政策、あるいは使用済み核燃料の再処理方針を今後も堅持するかどうかなど核燃料サイクル政策の見直しにも深くかかわる。

 Image733 ここに国民的な議論を巻き起こすチャンスがある。急がば回れである。急げ、急げのアリバイづくりのような意見聴取会では、原発事故で国の原子力政策への国民の信頼が完全に失墜した今、

 「どのような結論に至ったとしても国民の不信は払しょくできないだろう」(6月18日付静岡新聞社説 = 写真 )。

 そのとおりであり、では、どうするか。将来の原発比率について意見集約の環境整備を訴えた同社説は

 現実的な答えを導くために国民投票を検討する手もある

と指摘、イタリアなど諸外国の事例を紹介している。有効な一案であろう。複数の重要政策がからんでおり、直接国民に判断を仰ぐのは理にかなっており、国民投票にかける価値は十分にある。

 具体的には、期限と達成目標、それぞれの利点と欠点を示した選択肢を国民が選ぶというわけだ。将来の原発比率の国民的議論を単なる「%」問題に矮小化してはならない。

 国民的な議論には、自民党政権時代の重要政策のたな卸しとリセットの意味合いがあり、関連政策の整合性を図る好機でもある。その決着は国民投票で決める。

 こうした意見集約の仕組みづくりは、険路ではあろうが、政権交代をかかげて国民の支持を勝ち取った民主党の当然果たすべき責務ですらあると思う。

 注記

 たとえば、独立行政法人科学技術振興機構「JSTnews」2012年7月号 特集2 「 明るい低炭素社会」への道筋を提案する ! 。低コスト化シナリオと太陽光発電の展開

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人は、知能機械よりも人間らしくなれるか ?

(2012.07.16)  この表題の質問に対する答えとして、少なくとも勝ち負けのルールがはっきりしている世界ではもはや、

 人は、知能機械よりも人間らしくなれない

といえるだろう。つまり、人間の知能には、知能機械には乗り越えられない何か、たとえば将棋でいえば大局観といった高度で高次な判断という人間だけが持つと信じたい何かというものはもはやない。将棋ソフトにもちゃんと大局観はある。

 そんなことを考えさせたのが、今年1月に開催された人間対コンピューターソフトとの公開対局(第1回将棋電王戦)。

 名人経験者の米長邦雄永世棋聖 対 将棋ソフト・ボンクラーズ(開発者=保木邦仁氏)

である。米長氏は現役を引退して長いとはいえ、名人位経験者であり、その人間味ある持ち味は多くの将棋ファンに親しまれている。その米長氏が、この対局で、中盤以降に逆転され、大敗する。一方、ソフト開発者、保木氏は将棋については、ルールを知っている程度で、将棋については、定石などもほとんど知らないのに等しいというから驚く。

 米長さんは、最近、その敗戦記

 『われ敗れたり コンピュータ棋戦のすべてを語る』(中央公論新社)

で、なぜ勝てなかったのか、その敗因の冷静な分析を披瀝している。たかが遊びと侮り、奇手で相手のコンピューターを混乱させようというのではもはや勝てない。あえていえば、大略、常に最善手を指すという勝負師の執念が欠けていたことが敗因と結論づけている。

 対局後の感想で、米長さんは受けの天才「大山康晴永世名人と対局しているような感じだった」と語って、ソフト開発者を大いに恐縮させていたように記憶する。

 5年前2007年には、現役の渡辺明竜王 対 ボナンザ( ボンクラーズの前身)

という対局があった。

  61uytyis3l__sl100__3 それまでの駒落ち対局から、本格的な平手戦の人間対コンピューター戦のはじまりだ。中盤の攻め合いから寄せの段階で、あわや竜王の負けかというきわどい局面もあった。しかし、攻めか守りかという最後の終盤では駒得よりも「歩のない将棋は負け将棋」という大局観に対する竜王の読みが功を奏し、竜王が勝ちを確実なものにした。

 この様子は、先日深夜、BS-アーカイブスで「運命の一手」と題して再放送されていた。

 それほどにこの10年で将棋ソフトは進化しており、人間の知能に近づいている

ということだろう。つまり、勝ち負けの規則があるゲームの世界では、人間らしい人間味も、人間くさいドロドロした人間ドラマも、人の体力の限界うんぬんも、いかにも人間らしい神経戦も、もはや勝ち負けには関係がなくなりつつある。

 これからの将棋電王戦(人間対コンピューターの対局)では、人は、知能機械よりも人間らしくなれない。それでは負ける。いかにその時、その時で最善手を指すか。冷酷で、非情の勝負師に徹することができるかどうか。それが勝負の分かれ目となる世界がそこにあるだけだ。

 1612年、徳川家康によって大橋宗桂というプロ棋士が誕生してちょうど400年、世襲の家元制度から実力名人制度を経て、今や将棋は、一流棋士の実力を超えようとしている。

 そして、今、将棋の世界に、世襲制、実力制に次ぐ、電脳制とも言うべき冷徹な第3の波

が押し寄せている。

  このことを超一流の米長さんは、私たちに体を張って、証明してくれたように思う。その意味で、価値のある、そして勇気のある『われ敗れたり』だったと思う。

 そんな思いで、つまり、それでは人間らしさの尺度とは何か、機械に思考は可能かについて突き詰めた体験ノンフィクションである最近の

 『機械より人間らしくなれるか』(ブライアン・クリスチャン、草思社)

を読んだ。哲学的な表現では、人間とは何か、ということになる。

 この本では、ルールのある勝ち負けではなく、人間らしさの判定材料が

 いわゆるチャット会話

である。「最も人間らしい機械」とは何かを競う、人工知能の世界的な競技大会を通じて、そのこたえを体験的に論じたものといえる。著者のクリスチャンさんは、「最も人間らしい機械」を狙う人工知能とは逆に、

 「最も人間らしい人間」賞

を狙ったという。それが、クリスチャンさんの著作のタイトルになっているというわけだ。この本を読むと、

 いつか、人間以上に人間らしい人工知能が現れるのではないか

という気持ちになる。あらためて、

 人間とは何か、人工知能にはない人間独自のものとは、具体的に何か、

を問わずにはいられなかった。そんなものはない。そういったら、言い過ぎであろうか。

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希望の『悩む力』 自殺3万人時代の幸福論

(2012.07.11)  先日、NHK‐BS1の地球テレビ「エル・ムンド」をみていたら、政治学者、姜尚中(カン・サンジュン)さんが出演していた。最後の団塊の世代といってもいいだろう。夜の華やかな雰囲気のある番組には、ちょっと似合わないのではないかと最初は思った。しかも、話は

 近著『悩む力』(集英社新書 ) 

なのだから、話が暗くなりそうで、かみ合わないのではないかと余計な心配もした( 『続・悩む力』もつい最近出た= 写真 。浜松市内の書店で)。ご本人もそう思ったのであろう、はにかみながらも、つとめて明るい笑顔で振舞っていたのは、姜さんの意外な面を知って、彼に対していい印象をもった。

 Image730 悩む力とは、悩むから生きる力もわいてくる、という意味らしい。絶望ではなく、可能性がいろいろあるから、かえって悩む。前向き、前向き志向ではなく、悩んで、立ち止まって、そして突き抜ける。それは、プロ野球選手になりたかった若き日の姜さんのにがい体験、悩みから得たものらしいことがわかった( 注記 )。

 かつて、作家の渡辺淳一さんのエッセー集『鈍感力』というのがベストセラーになり、ブログ子も読んだ。今のストレスの多い時代、鈍感なのは優れた才能、おおいに結構というものだった。

 依然として、この10年以上自殺者3万人超の時代が日本では続いている。世の中、渡辺さんの言うように、そうそう鈍感にはなれないものだからだろう。

 だったら、悩めばいい。そう、姜さんは言っているように聞こえた。

 悩む力というのは、

 一種の希望学

なのだ。社会学者の玄田有史さんは、学問として希望学プロジェクトをはじめ、

 「希望は、厳しい現実に立ち向っていく時に、わき上がってくる言葉」

と書いている(2010年2月12日付毎日新聞夕刊 新幸福論)。

 番組の最後で、姜さんは

 (人の心は) 悩みの海

と締めくくりの言葉を書いていた。韓国での言い方らしい。だから、希望を持って生きるんだというわけだ。考えてみれば、何の悩みもない人生とはなんと退屈なことだろう。想像するだに、死にそうだ。

 とすれば、聞き手に

 「悩む力。それは新しい幸福論ですね」

と一言、コメントすれば、地球テレビらしい番組になったと思った。

 うなづくだけでなく、華やかさだけでなく、ゲストに負けない教養と知性。それらが最後にチカッと光る。そんな番組であってほしい。

 注記

 つい最近でた『続・悩む力』には、具体的な悩む内容として、人間とは何かという大上段にふりかぶった哲学的な問いとともに、

 人生にはどんな意味があるのか。どうしてこんなに孤独なのか。

と、いわゆる人生論風、人生相談風ではない書き方で、問いかけられている。

 たとえば、人生に生きる意味はあるか、という問いには、この問いをした人に、神でも仏でも、愛する人でも、あるいは科学でも、何か信じるものがあるかどうかにかかっているとしている。それがない人には、残念ながら、人生に生きる意味はないということになるらしい。

 この伝でいくと、虚無主義、つまりニヒリズムを本気で信じている人には、それが明るかろうが、暗かろうが、人生に生きる意味はない。

 いろいろ考えさせられる本ではある。

 ただ、これが正続あわせて100万部にもなるベストセラーになるというのには、どこか売り方や社会の現状がおかしい。100年も昔の夏目漱石やマックス・ウェーバーが本の主題になっているが、本来は、ほそぼそと読まれるべきものだと、団塊世代のブログ子などは店頭で思った。

  ベストセラーというのは、売れ行き新書ランキングのトップ 

 『聞く力』(阿川佐和子、文春新書)

のような、もっと軽い本だろう(浜松市内の谷島屋書店調べ)。もっとも、この本に次ぐ第2位には、なんと

 『重力とは何か』(大栗博司、幻冬舎新書)

がランキングされていて、びっくりした。暇つぶしに読む本でも、本気で読む本でもないものが、こんなに売れるとは、ほんとかね、と不思議に思った。教養本として読むにしても重過ぎないか。出版不況乗り切り策の無理やりベストセラーかもしれないと思った。

 追記 (2012.10.04)

 ちょっと驚いたのは、上記の

 人の心は悩みの海

という言葉は、姜尚中さん自身のことでもあったと知った。「週刊文春」2012年10月11日号に、姜尚中さんの記事が出ていた。

 それによると、熊本市の在日集落に育った姜さんは、不登校の長男が自殺したり、あるいは病死したり、妻とは不和や確執があったりと、今、家庭崩壊の状態らしい。悩むから希望という力もわいてくるというのは、単なる言葉のあやで言っているのではなく、姜さんにとっては、現在進行形の生身の体験から出てきた言葉なのだ。

 65歳の定年を待たずに、まもなく東大教授を依願退職するという。宗教の道にすすむ、帰依するというのだが、何かと注目される東大教授で政治学者という肩書きが在日韓国人としては重荷になったのだろう。悩む力もいいが、それにも限界があり、早く重荷を下ろして自由になりたい。これだろう。

 人生いろいろだ。

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ヒッグス粒子は見つかったけれど、道遠し

(2012.07.10)  まだ一週間もたたないのに、世界的な話題だった「ヒッグス粒子」発見か、のニュースは一般には忘れられかけている( 写真=  7月5日付朝日新聞朝刊1面トップ)。この紙、いや、神の粒子について、わけ知り顔の御仁に言わせれば、

 世の中、そんなもん。神の粒子といったって、しょせん言葉遊びだもの

いちいち、科学ニュースなんか気にしてらんない。関心ない。どうでもいい。そんな風潮なのだろう。

 Image720 しかし、このブログは「科学と社会」をテーマにしているので、そうそう、そ知らぬふりもできない。なんとか、社会現象にたとえて、この発見について、語ってみたいとこの一週間、考えてみた。その結果はこうだ-。

 刑事裁判の場合、裁判官が被告人は犯人であり、有罪の判決を安心して書けるというのはどういう場合であろうか。

 第一は、たとえば殺人事件の場合、被告人が現場で凶器を被害者に突き立てている様子を偶然、通りがかりの人が写真を取り、公判でそれが証拠採用された場合である。直接証拠がある。これなら、裁判官は安心して、ほかの証拠がどうあろうと、有罪判決を書く。

 第二は、そこまでの直接証拠はないが、現場にあった凶器に被告人のDNAが付着していて、被告人のものと一致したという場合も、犯人を特定する直接証拠であり、裁判官は有罪判決を安心して書ける。

 しかし、そうではない、目撃情報から犯人は丸い眼鏡をかけていたとか、大阪弁を話していたとか、現場近くにいたとの目撃情報が寄せられたとかという場合はどうか。日ごろから、被害者を恨んでもいた。そんな、いわゆる状況証拠ばかりがいくらたくさんあっても、それだけで裁判官は被告人を犯人として有罪判決を書くだろうか。書いたりはしない。疑わしきは、罰せずの原則もある。

 それでは、状況証拠だけでは、被告人を犯人とすることはできないのだろうか。状況証拠しかない場合でも、実際の刑事裁判では、裁判官が有罪判決を安心して書くケースがある。

 それは、被告人が犯人でなければ、とうてい合理的な説明ができない状況証拠が少なくとも一つはある

というケースである。たとえば、女性が一人住まいのマンションにいて、そこに被告人がたずねてきたとする。中から女性の肉声がして、被告人は入室する。10分後に、被告人は帰っていったが、中には女性一人しかおらず、凶器で殺されていた。死後5分ほど立っていた、という鑑識結果が出たような場合だ。現場には被告人を特定するいかなる遺留品もない。被告人以外の人の出入りはない。

 この場合、被告人が犯人でなければ、とうてい事件を合理的に説明することはできないだろう。したがって、裁判官は被告人に有罪判決を言い渡すであろう。

 犯人を特定する直接証拠がなくても、少なくとも一つこうした状況証拠があれば、有罪判決は書ける。

 もう一つこうした別の状況証拠があれば、裁判官は有罪であるという心証をますます確実にいだくだろう。さらに、もう一つあって、そんな状況証拠が3つもそろえば、裁判官は直接証拠と同様な心証で、ほぼ確実に有罪判決を下せるだろう。

 今回のヒッグス粒子の発見は、このたとえに似た論理で、被告人を犯人、つまり、ヒッグス粒子と判断した。

 巨大な加速器の中の衝突実験で、ごくわずかな時間しか、ヒッグス粒子は姿を見せない。しかし、その衝突の様子から、ごく短時間の間に発生し、消えていった粒子がヒッグス粒子でなければ、起きた現象を、現代の標準理論に照らして、とうてい合理的に説明できない、というわけだ。

 裁判と違うのは、科学実験でこうした状況証拠による存在確率は、裁判官の心証ではなく、厳格に確率で数値化して検証している点だ。

 さきほどの状況証拠が3つもあれば、実際の裁判では有罪となるだろう。疑わしきは罰せずの原則は適用しなくてもいい。有罪の確証がある。

 しかし、科学の場合は、そうした状況証拠のデータを可能な限り、多く集めて、

 99.999%以上

の確かさで存在するとなったような場合、つまり、データのばらつき指標、標準偏差σの4倍ぐらいの確かさあれば、「発見」の確証となる(3σ= 99.7%、2σ=95.4%、1σ=68.3%)。

 言い換えると、そうした実験を10万回行ったとしたら、統計学的に1回ぐらいは、犯人ではないのに、つまりヒッグス粒子ではないのに、ヒッグス粒子であると誤って発表するぐらいの高い精度で、ヒッグス粒子が発見された。

 今回のニュースは、そんな意味である。存在を写真にとることができれば、それこそ動かぬ直接証拠となるのだか、姿を現すとすぐに消えてしまうので、それは困難なのだ。だから、衝突を引き起こした前後の状況証拠から、論理的に攻めたのだ。 

 ところで、この大きなニュースを聞いて、ブログ子は、どんな感想を持ったか。正直に告白すると、

 素粒子論の現状は、この40年間、つまり1970年代と比べて、ほとんど進展していない

という失望感だった。

 素粒子論の理論面での黄金時代は、南部陽一郎さんの自発的対称性の破れ、ヒッグス粒子理論、標準理論(ヒッグス粒子を含めて基本素粒子は18個とする1972年の小林・益川理論や1960年代後半のワインバーク・サラム理論)の1960、70年代。粒子探し実験の黄金時代は5つの新素粒子が続々と発見された1970年代である。

 当時、ブログ子は理系の大学院生だったが、小林・益川理論は仮説の一つにすぎないとは思ってはいたものの、同じ大学の研究者が唱えた説だったこともあり、いまにも、これら標準理論を土台に、アインシュタインの夢、つまり宇宙に存在する重力、電磁気力、弱い相互作用力、強い相互作用力という性質の異なる4つの力を統一する

 大統一理論

が完成するかのように感じた。ところが、いまもって、整合性のある理論は、予測ができる、あるいは実験で理論の正しさを検証できるなど説得力のある形では、できていない。

 Image721 2008年のノーベル物理学賞受賞者、南部陽一郎さんは、ヒッグス粒子予測理論を支える考え方を1960年代初期に提唱している。

 近著『素粒子論の発展』(2009年、写真 )によると、1990年時点からみた素粒子論の将来展望として

 物理学の「〝究極の統一理論〟が近い将来に見出されるであろう、というものではなさそうです」

と語っている。理論面でのさまざまなアイデアが「袋小路に行き当たってしまったかのように、私には思われる」「過去10年ほどの間、実験的には真の進展といえるものはひとつもありませんでした」と語っている( 補遺 )。

 2012年の時点でも、この展望はおおむね変わっていないだろう。

 ヒッグス粒子の発見にこれほどの時間がかかったことを考えると、理論的に、ましてや実験的にも確立した大統一理論の完成に至る道は、はるか遠く、また険路だろう。ブログ子の生きているうちに、その端緒をつかむことすらできるかどうか、定かではない。

 南部さんは、先の著書の中で、この混迷状態を

 ポスト・モダン物理学

と自嘲している。こうなると、われわれがいまだ知らない新しい数学が、物理学の思考手段として必要なのかもしれないとすら思えてくる。さらに、今の人間の英知、つまり大脳の構造をこえたところに、大統一理論があるとも考えたくなる。

 これを逆に言えば、今の人間の大脳で宇宙の真理をすべて知ることができると思うのは、人間の浅はかさのせいなのかもしれない。その保証はどこにもないのだ。

 今回のヒッグス粒子の発見は、そんな暗い予測を物語っている、といったら言い過ぎであろうか。

  補遺 

 ヒッグス粒子の存在を予測する理論の基本的な概念「自発的対称性の破れ」を出した南部さんが、今回の発見について、どういう感想をもったかについては、発見報道の一週間後の2012年7月12日付朝日新聞朝刊「科学」欄にメールでの問いに次のように回答している。

 「新粒子が本当にヒッグス粒子かはまだ言えないが、(ほぼ確かな結果が出たことは- ブログ子の注記) LHCの最初の成果でもあり、めでたし、めでたしだ」

とメールで知らせてきたらしい。LHCとは、利用した加速器のこと。記事には「ヒッグスの成果「めでたしめでたし」」と見出しが付いている。

 アイデア提唱者としては、当然、当たり前のコメントであるが、鋭いのは

 「質量の大きさは基本粒子などの種類によって違い、その間に規則性がない。これはヒッグス理論では説明できない」

とポイントを突いて、残る課題を挙げた点だろう。説明できる理論は、予測から50年たった現在もあらわれていない。発見のニュース報道で、この点を指摘したものはなかったように思う。メールのポイントは、めでたしではなく、

 基本粒子の質量の違い、今も謎

であり、これを見だしに取るべきだったと思う。そうすれば、素粒子論の展望は、ヒッグス粒子発見でも、開けていないことが読者にはっきりとわかったはずだ。

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「藪の中」の原発事故 真相は刑事裁判で

(2012.07.09)  これまでに福島原発事故の事故調査については、発表順に昨年12月の政府事故調(畑村委員会、中間報告)、2月の民間事調(北澤委員会)、先月の東電事故調、そして先日の国会事故調(黒川委員会)と、主なものだけでも、4つの報告書がまとめられている。

 Top_mv_7 東電に対しても、政府や原子力安全・保安院に対しても、最も手厳しかったのは、意外にも黒川委員会の結論だった。高く評価したい。審議時間が短かったにもかかわらず、次のように明確に結論づけている( 写真=国会事故調の審議の様子=事故調ホームページより )。

 原発事故は、巨大地震や巨大津波による自然災害ではなく、「明らかに人災だった」。

 その理由として、事故の予見もできたし、事故を回避する津波対策では、東電や保安院には何回も手を打つ機会があった。その都度、解決を先延ばしした。また、地震と事故の関係について、すくなくとも1号機が津波が来る前に、冷却材(水)喪失に伴う少なからぬ損傷を受けた可能性を否定することができない。

 さらに、事故当時首相だった菅前首相など政府と東電幹部との対応が相互不信感から「指揮命令系統の混乱を拡大させたことを人災の理由としてあげている。

 これを要するに、事故は東電と政府、特に保安院が共同正犯となって引き起こされたというわけだ。

 この場合、正犯同士、互いにもたれかかった怠慢というよりも、東電側が、規制当局の保安院を「虜(とりこ)」にして、裏でたくみに都合よくにコントロールし、あるいは隠れ蓑にしていたという実態があったとしているところから、東電の悪質性が報告書から読み取れる。事実上の主犯だろう。

 国政調査権を持つ国会の調査委員会が東電幹部を国会に招致して意見を求めた結果であり、この結論は、他の報告書よりも重い。

 これに対し、東電の報告書は、まったく逆の結論を導き出している。

 先日のこのブログでも書いたが、原発事故は地震発生の予見も回避もできないような予想外の自然災害によるものであった。それでも、すべての原発は地震では損傷を受けることはなかった。ただ、結果として、その後に襲ってきた巨大津波の対策については、不十分だったことは事実。しかし、それは保安院や内閣府原子力安全委員会の責任であり、東電は国の指示に誠実に従ったまでと主張。したがって、この点での東電の業務上の過失はないとしている。あまつさえ、官邸の介入が無用の混乱を助長させたことを考えあわせると、刑事責任があるとすれば、それは東電ではなく、政府側にあると言っているようにみえる。

  他の号機と違って建屋が水素爆発を引き起こさなかったのに、なぜ、2号機からもっとも大量の放射性物質が事故から4日後の3月15日、いわゆる「運命の日」に発電所外に漏れ出したのかという疑問については、原子炉を格納する格納容器内のガスが何らかの形で大気中に放出されたからだとの推測以上のことは、不明とした。

 東電報告書は、当然と言えば当然だが、今回の事故は不可抗力な自然災害説。それでも津波が襲ってくるまではすべての原発は地震に対しては正常に停止した。津波対策で、あるいは責任があるとすれば、政府だといわんばかりの政府主犯説を主張している。

 民間事故調は、事故が人災であり、その原因は主に東電=主犯、政府=従犯説だ。

 報告書の最終章の結論部分でこう言っている。

 「最後の頼みの綱の冷却機能が失われたのに、それへの対応が(事故翌日の)12日早朝までなされなかったことは、この事故が「人災」の性格を色濃く帯びていることを強く示唆している」。その上で「この「人災」の本質は過酷事故に対する東京電力の備えにおける組織的怠慢にある」と断罪している。

 最初に報告書を中間報告としてまとめた政府事故調は、事故は人災であり、主犯の東電の事故への対応が「極めて不適切」であったことを、次のように指摘している。

 1号機にある非常用の原子炉冷却装置を全運転員が作動させた経験がないなど、各号機の冷却操作で不手際や認識不足があり、炉心損傷を早めた可能性がある。こう指摘した上で、

「東電は事業者として極めて不適切」

と断じた。これを要するに、東電は業務上、当然払うべき重大な注意義務を怠たり、過失があったと認定したと言えよう。

 政府事故調の最終報告書はまもなく公表される。東電の主張、つまり、仮に事故が人災てあるとしても、その責任は、津波対策を怠った政府のみにあり、政府に忠実に従った東電にはないとする主張にどうこたえるか、反論など納得のいく最終報告をまとめてもらいたい。あるいは、検証したくても、できなかったものは何かという将来への課題の提示は必須と考える。

 芥川龍之介の小説に『藪の中』というのがある。黒澤映画「羅生門」の原作でもある。藪の中で何が起きたのか、起きた殺人事件の責任は誰にあるのか、物語は証言ごとに二転三転する。保身のため証言でウソをつくことが人間にはあるからだ。真相に迫るには、立場の異なる複数の証言を比較、考量し吟味する必要がある。

 この意味で、政府事故調の最終報告書では、すくなくとも、ほかの3つの検証報告書との異同を明確した総括的な対照表を提示してもらいたい。事故の全体像がわかりやすく浮かび上がるであろう。

 最終的には、原発事故の責任は誰にあるのか、その吟味の場は、刑事裁判をおいてほかにはない。すでに東電の刑法(業務上過失致死傷罪)違反などを問う告訴、告発団が訴訟の準備に入ろうとしている。低線量被爆が傷害にあたるのかどうか、事故といまだ症状のない傷害の因果関係の確定も大変ではあろう。難しい法律論議もあるようだ。

 しかし、検察は、告訴、告発を受けて、起訴するかどうかの判断に当たって、これだけの大惨事を引き起こした原発事故の社会的な影響の大きさを十分考慮すべきだろう。法律の枠内だけで立件の可能性を専門的な立場から判断するようでは、結果として東電の立場を支持することになりかねない。そうなれば、社会正義を旨とする検察の存在意義は大きく損なわれるであろう。

 今こそ、秋霜烈日の姿勢を国民に示すときではないか。

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読書会って、未来をひらくもとじゃん 

(2012.07.07)  読書会のテキストとして選ばれた本でなかったら、店頭で見ても、決して買わなかったであろうという本を、先日浜松市内のある塾主催の「大人のための読書会」で楽しんだ( 写真= 浜松市中区内 )。

 『論語なう 140文字でわかる孔子の教え』(牧野武文著、マイナビ新書=  写真 )

である。

 Image710 「孔子、ツイッターはじめました」として、論語は2500年前のツイッターなんです、とある。ITジャーナリストの牧野さんの手にかかると、論語の

 子曰く、君子は器ならず

というのを「なう」語に訳すと

 学歴がどうだとか、資格があるとかないとか、なにができるとか、人間ってそういうことじゃないだろ ?

ということになる。なんとわかりやすい現代の意訳だろう。感心した。つまり、要は器の中身だろう、というわけだ。

 子曰く、その位(くらい)にあらざれば、その政(まつりごと)を謀(はか)らず

というのも、その地位にいるわけでもないのに、政治のことを考えているやつってなんなの ?

 床屋談義では何も解決しない。講釈よりも行動こそ大事だ、というわけだ。

 そこで、ブログ子も、日ごろ、信念としていること、つまり、

 気持ちを明るく切り替えることが未来を拓く元である

というのの「なう語」訳をつくってみた。こうだ。

 気持ちを明るく切り替えるって、超「いいね」。それって、未来をひらくもとじゃん

という具合に。

 Image679 読書会は自己紹介のあと、5、6人のグループに分かれて、討論しながら、今なぜ「なう語」なのか、その魅力とは何かなどが思い思いに語られ、まとめられた。ブログ子のグループには、主婦、行政書士、社団法人の「よろず窓口」部長、ファイナンシャル・マネージャーなどだった。講師は日本語の小論文添削指導を主宰する女性だった。

 孔子の教えとは、忠と義など人間関係の徳目などを論ずる、変革期の政治的な人間関係学、もっと言えば、政治哲学である。煎じ詰めれば、周の伝統文化に基づく道徳立国論である。とかく、カビが生えそうに古臭く、説教調で敬遠しがちだ。

 「なう語」訳は、そうしたイメージを完全に払拭して、言いたいことは何かに的を絞り、孔子の言わんとしたことを現代によみがえらそうとした試みだ。

 共産党独裁の現代中国でも、統治手段としてその魅力が見直されて、若者を意識したテレビドラマ化も今年からスタートしている(タイトルは、「恕」の人、孔子)。信や義を重んじる孔子の時代と、それらを軽視しがちなパソコン時代の若者を結び付けようという制作意図がドラマからうかがえる。

 日本でも、中国でも表現手段を現代にマッチしたものにして、孔子の教えの根幹部分をよみがえらせようとしている。それには、孔子の教えについて、よく知っていることが大事であることは言うまでもない。

 孔子の教えは、つまるところ、信義のほか、仁、礼、徳、智、孝とは何かということだろう。これらに今も昔もないというわけだ。 

 孔子の教えを「つぶやき」と考える。悩める現代の若者の心に響く発想を聞かせてくれた読書会だった。

 

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平均値でものを考えない 節電の盲点

(2012.07.07)  ブログ子の家にも

 国から要請された5%以上の節電にご協力を

という趣旨のチラシが中部電力から届いた。夏の日中(14時ごろ)の電気製品の平均した使用例が在宅世帯の場合について円グラフで示されている( 写真 )。出典は経済産業省資源エネルギー庁の調べ。半分以上の58%がエアコンである。次いで、冷蔵庫の17%。

  Image707_2 電力需給が逼迫する8月中旬前後においては、一番電気を食いやすいエアコンが、常識的には節電のポイントだろう。チラシにも、在宅家庭の場合、日中最も電気を使っているとき、仮に、エアコンの設定温度を目安の28度前後から2度上げて設定した場合、10%程度の節電効果になるという。これは、国の要請の2倍にもなる。

 しかし、在宅していなければ、当然、最も電気を食うエアコンは使わないだろうし、在宅していても、そもそもエアコンを使わない家庭もある。それらの場合、円グラフは大きく変わる。

 さらに、人によっては、夏の暑い日中は、テレビなんか見ないという人もいるだろう。これでも、国の要請の5%になる。節電を呼びかけるテレビ局は多いが、こんな節電策には、意図的かどうか、まったく触れないのは不思議だ。

 要するに、円グラフはあくまで平均像であり、はたしてわが家はどうかと考える素材に過ぎない。

 そこで、わが家の電気製品それぞれについて、具体的にその消費電力を調べて、効果的な節電策を考えてみた。

 どの電気製品にも「定格消費電力」がワット(W)で示されている。定格というのは、わかりやすく言うと、その製品を通常の環境で、標準的な使い方をした場合をいう。したがって、定格消費電力が100Wとは、標準的な使い方でその製品を1時間使った場合、100W時の消費電力量になるという意味だ。電気の単位、ワットというのは、水道水で言えば、蛇口の大きさを表すと思えば、わかりやすい。普通の家庭では、この蛇口の太さは、3000Wか4000Wのどちらかだろう。

 以下に、ブログ子が調べたわが家の電気製品の定格消費電力を示す(括弧内は、資源エネルギー庁が調べた省エネ市販品の平均値)。

 エアコン(800W)         わが家= 840W

  冷蔵庫(200W)                    = 170W

  洗濯機(200W)                    = 430-490W

  電気ポット(800W)                = 1250W

  オーブン・トースター (1000W) = 900W

  電子レンジ(1400W)              = 940W

  液晶テレビ(100W)                = 60W

  蛍光灯                              = 72W×4 

 これを見ると、エアコンが節電のターゲットになるのは、定格消費電力が特に高いからではないことがわかる。つけっぱなしの長時間利用になりがちなのが問題なのだ。   

  そこで付けっぱなしになりがちな製品に注目する。 エアコンを除いて筆頭は、冷蔵庫。1日12時間稼働したとして、わが家の場合、一か月で60kWとなり、消費電力量の3分の1から、4分の1とかなりの割合を占める。

 だから、冷蔵庫のあまり使わない冷凍室の設定温度を「中」から「弱」に切り替えた。冷蔵室もついでに「中」から「弱」にしてみた。一度設定すれば、あとは節電のことを気にする必要がなくなるのがいい。これは意外に効果のある対策かもしれない。

 〝目の敵の〟エアコンは、7月中は使わない。8月についても、設定温度28度をできるだけ守ることを決意。

 つけっぱなしになりがちな蛍光灯だが、わが家では、大雑把な計算で、一か月20kWなので消費電力量は全体の約1割。またはそれ以下。こまめにつけっぱなしに気をつけても、それほど節電効果は期待できないことがわかった。手間がかかる割には、効果があまりないように思う。

 つけっぱなしでは、仮に、我が家のテレビ(定格消費電力60W)を1日12時間つけっぱなしにした場合、一か月の消費電力量は22kWで、夏場一か月の総消費電力量約300kW時の7%。まったく見なければ、半日つけっぱなしに比べて、7%もの節電効果があることがわかる。

 今年の夏は、テレビを見ない。テレビ局としては困るだろうが、そういう選択肢も5%節電の「ご協力」の有効な方法であろう。

 つけっぱなしの使い方にはならないが、頻繁に使い、消費電力もテレビなどより一桁大きい電子レンジも問題。1日3分ずつ、合計1時間は使うとすると、一か月28kWとなり、全体の消費電力量としては1割をこえ、大きい。

 わが家では使っていないが、電子レンジより定格消費電力がさらに一桁大きい電磁波型クッキングヒーターも、毎日、頻繁に使うだけに、注意が必要だろう。熱型より安全なのはいいが、節電という観点からは工夫が要るだろう。

 わが家の電気ポットは外国製品であるためか、定格消費電力がもっとも大きい。しかし、これは1日1、2回、それぞれ数分使うだけなので、消費電力量としてはわずかである。

 オーブン・トースターも定格消費電力900Wと大きいが、1日1回、それも5分程度なので、消費電力量全体に占める割合は小さいことがわかる。

  それはともかく、わが家では、この夏、特に注意したいのは、エアコンの使いすぎと、電子レンジの利用制限である。

   平均でものごとを考えない。ここから我が家の節電の盲点を洗い出し、対策を立てた次第である。

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問題が多すぎるインプラント治療

(2012.07.02)   ブログ子もそうだが、歳をとると、歯科にお世話になることが多くなる。歯周病が気になる。歯周病の悪化で奥歯が1本、がたがたになりはじめた。歯石もあることだし、それを取り除くこともかねて、自宅近くの歯科に出かけた。

 Image669 結局、歯周病で歯が二つに割れていて抜くことになった。ペンチのような抜歯用ハサミ( 写真 )で一気に取り去ってくれた。

 さて、このあとの治療をどうするか。方法は三つ。入れ歯にするか、しかし、かむ力が弱くなる。とすると、二つ目として、ブリッジと呼ばれる治療、つまり、抜けた部分の両隣の健康な歯を利用して、人工の歯(ブリッジ)をかぶせる。かむ力は確かに回復する。しかし、健康な歯の一部を削らなくてはならない。そこが虫歯にならないか、これまた心配である。

 三つ目がインプラント治療。骨と結合しやすい金属「チタン」を歯根として手術であごの骨に埋め込んで固定し、これを土台にしてその上に白い歯取り付ける。歯並びもよくなり、見た目もきれい。固いものでも食べられる。

 しかし、体の中に異物を埋め込むというのには、どうも違和感がある。定期的な検診が欠かせない。保険がきかない、いわゆる自由診療であり、歯一本つくるのに30万円ぐらいの費用がかかるらしい。

 費用のことはさておくとしても、このインプラント外科治療には、治療後トラブルが多いというニュースを読んで、ブログ子は、この治療を受ける気がしなくなった。

 毎日新聞(2012年6月25日付朝刊 = 写真)によると、なんと、

 歯科医6割 トラブル経験

との日本歯科医学会の初めての全国調査の結果が掲載されている。もっとも多いトラブルは、人工歯の破損(全体のうち67.5%)。次いで、インプラント周辺の炎症(55.4%)だ。

 Image671 記事を読んで不審に思うのは、日本で導入されて30年近くもたつのに、そして、これだけトラブルのある治療法なのに、歯科学会がこれまで本格的な全国調査をしてこなかったのはなぜかということだった。そんなに風通しの悪い組織体質なのかと言われても仕方あるまい。

 治療に当たって守るべき学会指針、あるいは標準的な治療方法ともいうべき「ガイドライン」すらないというのも、いかにも怠慢ではないか。これでトラブルが起きないほうが不思議である。これまで、ずいぶんと泣き寝入りした患者も多いのではないか。

 調査した広島大教授は、ほかの歯科診療所の取り組み、やり方を知る機会を設けるなどの仕組みづくりが必要だと話している。そんなこともしないで、これまでやってきたのかと、逆に不安にもなり、愕然とした。

 どうやら、ガイドラインができるまでは、インプラント治療は控えたほうが賢明だろう。

 そんなこんなでブログ子の場合、奥歯1本抜けたままの「欠損歯」にすることを決めた。歳を取れば歯は抜ける。それが自然なのである。それよりも、残った歯を大切にする養生こそ大事なのだと気づいた。

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たかが納豆、されど納豆 びっくりヒット商品

(2012.07.01) このブログは 「科学・技術と社会」をテーマにしているので、ブログ子は、1年の上半期、下半期ごとの

 ヒット商品ランキングベスト20 ( 静岡朝日テレビなど朝日放送系)

という民放番組はほぼ必ずみて、チェックしている。先日土曜日、2012年上半期のヒット商品ベスト20が放映されていた。

 納豆好きのブログ子がもっとも驚いたのは

 「納豆 金のつぶ」( 写真 )

である。

 Image695 納豆を食べるには、あのネバネバの豆に注意しながら、タレとからしを上手に豆に乗せないと、食卓がよごれる。匂いがつく。しかし、これなどは、おいしい納豆を食べるための手間であり、〝コスト〟と、この数十年信じて、何の疑いも持たなかった。

 ところが、この商品は、写真でもわかるように、まずパック上フタを外す。次に真ん中からパキッと折るだけ。それだけで豆の上にタレが乗っかるのだ。まったく手が汚れない。

 上ブタを真っ二つに折る、という発想。目からウロコとはこのことだ。

 この商品の販売は愛知県半田市の「ミツカン」。ブログ子の住む東海地方の会社だと知って、少し誇らしくなったことを正直に書いておこう。

 番組では、このほか、いろいろなヒット商品が紹介されていた。

 納豆に次いで、驚いたのは、

 エア縄跳び

で、なんと、両方の手それぞれに持つグリップはあるのだが、つながってはいないのだ。それぞれの先に「縄」は10センチくらいしか付いていない。10センチ先のところに錘のようなものが、それぞれついているだけ。

 普通に縄跳びができるのだが、また感覚も普通の縄跳びと同じだ。しかし、普通の縄跳びは家庭などの室内ではできないが、エア縄跳びだとできる。普通の縄跳びは縄が足に引っかかる心配があるが、エア縄跳びにはそもそもそんな引っかかりはないのがミソ。グリップのところに、回転数が表示される表示装置があるので便利だとか。いわばバーチャルな縄跳びといったらいいだろう。

 そのほか、これからの夏の必需品は扇風機だが、左右に首ふりをするだけでなく、左右、上下自由に動く扇風機、

 3D扇風機

が紹介されていた。円盤型のクルクル走り回るお掃除ロボット。成長の早い子ども用のダンボール家具。意外にも丈夫なんだそうだ。使用期間が短い場合には便利かもしれないと思った。

 そのほか、

 シェアハウス

というのも紹介されていた。個室は一部屋なのだが、誰でも自由に利用できる広い共同スペースが人気とか。菜園もあるらしい。レンタル家賃は都内だからだろうか、月約6万円とは安くはない。転勤、数ヶ月の長期出張などでは、孤独感もなくなり、共同の食卓を通じて仲間もすぐにできやすいので便利だろう。しかし、入居者同士でトラブルが起きないか、ちょっと不安もある。

 モノではないが、

 街コン

という企画もあった。食べ歩きの合コンと思えばわかりやすいかもしれない。一ヶ所に固定しないで、あちこち食べ歩きをすることで、座るたびに相手を変えることができるというのがミソらしい。

 Image716 この番組でのランキング1位は

 塩麹 (しおこうじ、発酵調味料)

だった( 写真= 伊勢惣 )。塩をふりかけるように、塩麹をつけるだけで、生ものなどがおいしくいただけるという。伝統的には、たとえば漬物床として知られてはいたが、発酵するものを調味料として食べ物に添加して利用するという発想は並みではない。

 番組では、麹ドリンクというのが紹介されていた。甘酒のような味だったらしい。ドリンクにも発酵調味料。日本の食の特長は発酵文化とも言われることもあり、いろいろレシピが開発されてくれば、なにかと利用が広がりそうな予感がする。

 番組を見終わって、食もまた日々これ新たなり、と感じた。

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