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進化に「動」と「静」  現代「ファーブル昆虫記」

(2012.06.12)  先月27日付のこのブログで

 ファーブルはなぜ進化論に否定的だったのか

について、書いたら、少し反響があったことを、同じこの欄で先日述べた。今から100年以上も前に刊行された

 『ファーブル昆虫記』(全10巻、1879-1910年)

は、昆虫の行動や生活誌を具体的に明らかにし、その驚くべき本能について解明しようとしたものであった。

 そこから、本能の精妙さは、まるで当初から神から与えられたものであり、徐々に変化してきたものでは到底あり得ないとの結論に到達する。つまり、進化論には反対したというわけだ。これはマクロな視点からの結論だ。

 Image623 それでは、現代の虫好き、昆虫好き、いわば「現代のファーブル」たちは、どのような態度をとっているのであろうか。環境のわずかな変化にその時、その時、最もうまく適応できたものが生き残り、その遺伝的な変異が長い時間をかけて親から子に遺伝し、生存に有利な遺伝情報が種内に次第に広がっていく。このことで、種は環境的にも時間的にもゆっくりと変化してきたとする漸進主義のダーウィン進化論(ネオダーウィニズムも含む)をファーブルのように否定しているのであろうか、それとも肯定しているのであろうか。

 この問題については、アマチュアと協力して、世界中からオサムシ(甲虫類)を収集し、そのDNAの塩基配列のわずかな違いをたどって、種の分化の歴史を探ろうとした日本の研究がある。

  のちにこうした研究を分子系統進化学と呼ばれるようになるのだが、大澤省三名古屋大学名誉教授を中心に1990年代に本格的に行われたオサムシの分子系統樹づくりは、その嚆矢であろう。

 その成果は、「歩く宝石」とも言われるオサムシの図鑑でもある

 『DNAでたどるオサムシの系統と進化』(大澤省三 et al.、哲学書房、2002年)

という大著にまとめられた。人類遺伝学の尾本惠市東京大学名誉教授は、この本を「分子進化研究のバイブル」とまで激賞している。

 ブログ子も、この美しい本を持っているが、

 DNA版「ファーブル昆虫記」

と思っている( 写真 )。

   完成間もない2002年4月18日付日経新聞「文化」欄に、大澤氏自身の

 オサムシ、進化論を覆す ?

というタイトルで、かいつまんだ結果報告ではあるが、それでも長文の刺激的な寄稿がある。

 それによると、

 「世界のオサムシは、約四千万年前、短期間で一斉に主なグループが分化したようだ。三千万年たっても形の変わらないものもあれば、ずっと変化のなかった系統から突如形態の変わった別種が出た例もある。どうやら、進化には激しく分化する「動」の時期と「静」の時期があるらしい」

ということになる。つまり、ダーウィンの進化の漸進主義を否定している。大著の最後の結論の冒頭部分でも、この部分に触れて

 「主要な属は、5000-4000万年前のごく短期間にほぼ一斉に出現したことが分子系統樹によって示された」

としている。これは(適応)放散現象を思わせる。さらに、

 「「静」の時期を経た後に、時がくれば種は爆発的に、または不連続的に誕生するのである。」

としている。「静」の時期というのは、突然変異が蓄積される時期に対応するのだろう。時がくれば、というのは、隕石の衝突など環境の激変を指す。

「このように「動と「静」の組み合わせによる進化のメカニズムについて、分子遺伝学の立場からいろいろな仮説を提唱することも可能である」

として、今後の仮説の実証研究に期待をかけている。

 以前の川の流れでコロ、コロと角張った小石が転がるうちに、丸まった滑らかな石に変わるたとえ話をした。動と静について、そのたとえで言えば、

 Image6276 滝などの環境の激変があれば、小石は少しずつの変化ではなく、滝に落ちて、二つに割れて分化したり、川の外に放り投げられたりして転がることをやめる。つまり、絶滅するということだろう。進化とは静かな流れと滝や急流が交互に訪れる川の流れに、この分子系統樹進化学の成果からは、あるいはたとえられるかもしれない。

 今西錦司氏は『私の進化論』(1970年、思索社)で

 「種は変わるべきときが来たら、種内の個体は一斉に変わる。個体間に区別はない。環境激変期には、いちいちランダムな突然変異など待ってはいられない」

と指摘している(たとえば、同書p173など)。環境激変期に、そんな悠長なことをしているようでは、種は滅びてしまうというわけだ。生物の観察を長く続けてきた経験がそうした確信を生んだのだろう。

 今西錦司氏は、生物学者として遺書のつもりで書いた『生物の世界』(1940年)以来、半世紀にわたり一貫して、そして繰り返し、上記の主張をしてきたが、これまであり得ないこととして、正統派の学界からはほぼ完全に無視されてきた。しかし、1992年の彼の死後からは、皮肉にも、大澤氏の研究などからもわかるが、上記の主張を中核とする今西進化論の全体像は正しいのではないのかという情勢になりつつあるように思う。

 この件については、あらためて、再論、今西錦司の進化論 = 主体性の進化論は死んだかとして、後日取り上げてみたい。

 

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