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東電の「原発事故報告書」を読む 予見性と回避性

(2012.06.22)  東京電力がどのような論理で、刑事責任、たとえば、通常の事故で言えば、業務上(重)過失致死罪に問われることをまぬがれようとしているのか、という観点から、先日同社が記者会見や同社ホームページで公表した「事故調査最終報告書」を読んだ( 写真 )。

 業務上(重)過失致死罪が成立するためには、業務上、当然払うべき2つの注意義務を怠ったかどうかが争点になる。

 一つは、事故があらかじめ起きることが予見できたのに、その努力を怠っていたかどうか、つまり事故の予見性である。

 もう一つは、予見できたとして、最新の知見を採用すれば回避策が可能であったかどうか、つまり事故の回避性である。

 この二つが成立すれば、つまり、予見できたのに、回避策はあったのに、それぞれの対策を放置していた場合、民事(損害賠償請求訴訟)とは別に、会社側の刑事責任が問える。

 東電の報告書は、この事故の予見性も、回避性も事実上、否定している。

 Image661 ポイントとなる報告書本編での論理はこうだ-。Image661_3

 まず、「地震・津波への備え」で、今回の地震・津波の規模について

 「当社のみならず国の調査・研究機関である地震調査研究推進本部においても、過去に事例のある個別の領域の地震動や津波は(どのくらいの規模であったのかなど)評価していたものの、これらすべての領域が連動して発生する(今回のような巨大な)地震は想定されていなかった」(括弧は、引用者の注)

として、事故の予見性の前提となる今回のような巨大地震と巨大津波の発生そのものの予見性を否定している。 

  その上で、「事故原因と対策」でこう述べている。

 炉心損傷事故の直接の原因は、1号機については「津波襲来によって早い段階で全ての冷却手段を失ったこと」。2、3号機については、1号機の水素爆発などにより作業環境が悪化し、「最終的に全ての冷却手段を失ってしまったこと」を挙げている。

 報告書は、このすぐあと、「すなわち」として、

 「これまでの原子力発電所における事故への備えは、今般の津波による設備の機能喪失に対応できないものであった。津波の想定高さについては、その時々の最新知見を踏まえて対策を施す努力をしてきた。この津波の高さ想定では、自然現象である津波の不確かさを考慮していたものの、想定した津波高さ(最大5.7メートルと設定)を上回る(最大で15メートル前後の)津波の発生までは発想することができず、事故の発生そのものを防ぐことができなかった」(括弧内はブログ子の注)

と述べている。そして「津波想定については結果的に甘さがあったと言わざるを得ず、津波に対する備えが不十分であったことが、今回の事故の根本的な原因である」と結論づけている。

  この根本原因を指摘することで、東電としては、その時々の最新知見を踏まえて、特段の津波対策を施してきたのであり、事故を回避する対策を怠ってきたわけではない、といいたいのだろう。

 根本原因の文言に出てくる「津波に対する備えが不十分」とは具体的に何を指すのか。一見、東電の責任を認めたようにみえる。

 しかし、踏み込めば、 政府(具体的には内閣府原子力安全委員会)が、事故に備える安全指針として全電源喪失を想定した対策をはっきりと打ち出していれば、電力会社としても対応せざるを得ず、したがって今回の事故は回避できたといいたいのだろう。それがなかった。東電はそれに従ったまでだというのだ。責任は政府にあるというのが東電の言い分だろう。

 以上のような論理で、報告書は東電に対する事故の予見性も回避性の責任も否定した。つまり、事故の予見性の前提となる、巨大地震・巨大津波を予見できなかった責任は国などの調査研究機関などにある。事故をさけることができなかった回避性の責任は安全指針として全電源喪失対策を打ち出さなかった政府にあり、東電にはそのいずれの責任もない。

 むしろ天災だったといいたいのだろう。

 これが東電の論理である。

 報告書は、「結び」で

 「結果として、大変な事故をおこしたことに、深くお詫び」、「得られた教訓を着実に具体化していく」

と反省と誓いを述べている。

 むなしい言い訳だが、この事故があたかも天災であるかのような論理で、東電の刑事責任が問われないとするなら、この事故による2万人近い犠牲者は浮かばれないだけでなく、日本の原子力行政や電力会社に対する失墜した国民の信頼は永久に回復することはないであろう。

  東電から関係者を招致した国会の調査委員会の報告書もまもなくまとまる。事故は、人災であるとの認識で、今後の責任追及を行うべきだ( 補遺2 )。神様を犯人に仕立て上げることがあってはならない。

 補遺

 この事故調査委員会の最終報告については、その要旨は各紙に報道されているが、朝日新聞は「事故原因」について項目を立てて掲載している。

 これに対し、読売新聞は倍近いスペースを割いて、要旨を掲載しているのに、報告書にある事故原因についての分析の要旨はない。事故調査報告書なのに、この項目を落とすというのは、どういうことか。報道機関の姿勢に欠陥があると言われてもしかたあるまい。たとえ、記者が書いた1面本記にそのことに言及があったとしても、報告書要旨には、きちんと正確かつ簡潔に明記するのが、報道機関としての正しい姿勢である。そうでなければ、記者の書いた本記の記事の正しさそのものを確認することができない。 

  補遺2  国と東電幹部に対する刑事告訴について

 Image705 1012年6月11日、福島県民1300人が、事故の刑事責任を明確にするために、東電役員ら幹部および原子力安全・保安院の事故当時の院長、内閣府の当時の原子力安全委員会委員長らに対して、刑法(業務上過失致死傷)および公害犯罪処罰法違反の容疑で、地元の福島地方検察庁に告訴した。

 これをいち早く、「特報」(2012年6月12日付= 写真)として詳しく今後の課題などを報道した中日新聞には、事故から1年以上が経過し、なんとなく刑事責任があいまいにされそうな情勢であっただけに、敬意を表したい。

 記事によると、法律の専門家は、事故の予見ができて、しかも津波対策など事業者として当然払うべき注意義務を尽くさずに放置したのであれば、業務上の過失が認定できるとしている。

 ただ、現在直ちに健康被害が出ていない低線量被爆が傷害にあたるのかどうか、あたるとしても事故と被爆傷害の具体的な因果関係が証明できるかどうか、つまり、その被爆傷害は事故のせいだと、症状が出ていない段階で証明できるのかどうか、はっきりはしていない。また、仮に、傷害にあたるとしても、避難誘導が適切ではなかったことが、直ちに業務上の過失にあたると認定できるかどうか。これらのポイントでは、公判が始まったとしても検察も、裁判所も難しい判断を迫られるだろう。

 地検は、提出された告訴状の事実関係を精査した上で、受理するかどうかを決めるとしている。これだけの事故を起こしたのに、裁判もしないうちに、だから国や東電の刑事責任がなんら問われずにうやむやにしてはならない。仮に刑事責任が問えない結果となったとしても、今回の事故で国や東電の何が問題だったのか、それを明確にするためにも、検察は裁判で決着をつける姿勢を明確にすることを強く望みたい。

 ( 7月3日現在、受理、不受理の結果は出ていない。おそらく地検は、東電幹部の参考人招致の結果が盛り込まれる国会の事故調査委員会の今夏の報告書公表を待って判断するものと考えられる。不受理の場合は、検察審査会の場で起訴相当の判断を仰ぐことも、告訴団は視野に入れるべきではないか。 )

 責任をあいまいにせず、裁判で決着をつけることは、電力各社をはじめとする電力業界にとっても国民の信頼を回復する近道ではないか。

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