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2012年6月

廃炉順では発電所のつながりも考慮せよ

(2012.06.30)  電力会社の株主総会が一斉に開催されたこともあり、新聞各紙に「廃炉」の見出しがしばしば登場した一週間になった。

 6月29日付中日新聞朝刊には、 

 浜岡 即時廃炉に 超党派議員ら

という記事とともに、自民党の河野太郎氏など超党派の「原発ゼロの会」が全国の50基の原発の危険度の高さを点数化し、順序づけした結果を発表した( 写真 )。

 Image680 政治的な判断で即時廃炉とすべき原発は24基。プラントで重大な事故をすでに起こしているか、実際に大きな地震に襲われたことがあるか、その危険が差し迫っていると考えられているもの、敷地内に新たに活断層の可能性が高いものが見つかったもの、いわば〝問題児〟がリストアップされている。

 営業運転42年と最も古い敦賀原発1号機(活断層、日本原電)と2号機(25年)や、想定東海地震の震源地にある浜岡原発(3、4、5号機。1、2号機はすでに廃炉。運転差し止め訴訟中。中部電力)、東京電力の柏崎刈羽原発7基全部(2007年7月の新潟中越沖地震で被災、火災事故も。震源は原発からわずか10キロ。この被災で運転差し止め訴訟中)

 そのほか26基については、即時ではないものの、危険度が高いとして

 大飯原発1(33年)、2号機(32年)

  美浜原発1(41年)、3号機(34年)、(美浜2号機は事故歴があり、即時廃炉に分類)

を上位にランキングした。

 問題児の即時廃炉には、それなりの根拠があり、即時廃止した場合の電力事情への悪影響を別にすれば廃止自体は妥当であろう。

 原発依存をゼロにする道程で大事なことは、今回の大震災の教訓を生かした廃止順序を賢明に選択することだ。

 それは、避難圏内の30キロ以内に別の原発が存在する原発密集地域の原発密集を緩和することに資する順序を急ぐことだ。今回の事故も、この密集で近隣原発が、原発職員の避難で、あわや原発がコントロール不能に陥り、首都圏3000万人が避難しなければならなくなるという最悪のシナリオが現実味を持って考えられてきた。

 原発の密集は国を滅ぼす

というのは、今回の事故を民間の立場でまとめた独立検証委員会の北澤宏一委員長の指摘である。

 だから、福井県若狭地方に15基という密集度は異常である。ここの4カ所の原子力発電所の30キロ圏内をつないでいくと、一つのエリアとしてつながっている。つまり、避難と原子炉コントロール不能が次々と繰り返されるドミノ倒しが起きる可能性があるのだ。

 そこで、廃炉では、互いに30キロ圏内にある高浜原発と大飯原発のどちらかを完全に廃止する。あるいは、これまた互いに30キロ圏内にある美浜原発と敦賀原発のどちらかを完全に廃止する。この間引きで、いざというときに、原子力発電所同士がドミノ倒しのように連鎖してコントロール不能におちいり、近畿地方全体が避難しなければならなくなるという破局を避けるべきだ。

 要は、「ゼロの会」のように、個々の原発ごとの事情だけで廃炉にするのかどうかを評価するのではなく、原子力発電所の位置、つまりつながり具合も考えよ、ということだ。原子炉の制御不能というドミノ倒しにならないよう、間引きする工夫が大事である。

 福島事故の最悪を想定したシナリオの恐さは、福島第一、その南の福島第二、そして、その南の110万キロワットの出力能力をもつ原発4基をかかえる東海第二発電所へと、原子炉コントロール不能のドミノ倒しが続き、あわや首都圏3000万人避難という事態になりそうだったところにある。

 こうした考え方については、菅直人前首相ら民主党有志議員による「脱原発ロードマップを考える会」が最近まとめた

 2025年までに稼働原発ゼロ 菅前首相ら提言

という毎日新聞記事(2012年6月28日付朝刊。写真)

でも、なされていないのは残念である。菅前首相は事故当時の首相として、この福島事故の最悪シナリオづくりに関わったのだから、こうした視点がほしかった。

  記事によると、すぐに廃炉にするものとして、福島第一の5、6号機、同第二の1-4号機のすべて、女川の1-3号機すべて、浜岡3-5号機すべての合計12基を具体的に挙げている。

  Dsc00193 首都圏中心の、それも太平洋側のみの安全対策である。日本海側の安全対策は視野にないという恐さがある。いかにも東京都出身らしい菅氏の視野の狭さがあわれでさえある。40年の稼働で順次廃炉にするという原則はいいとして、まだしも、先の「脱原発ゼロの会」のほうが全国的な目配りがあり、ここで指摘した欠点はあるものの、しっかりしている。

  残りの原発の稼働については、できるだけ再稼働させないようにして13年後の2025年までにゼロにするという。この時点で、50基すべてを廃炉にするということを明記しているわけではないものの、このときまでに前提としている新エネルギーが総発電量に占める割合を4割までに高める、省エネは2割までに向上させるなど、ほぼ不可能。現在の新エネルギーは1%にも満たないからだ。

  このロードマップは、ほんの試みの案、たたき台としても机上の空論であることはいなめない。いかにもイライラ菅さんらしい性急さだ。

  第一、百歩譲って新エネルギー政策が順調に進んだとしても、2025年までに停止させた原発を、その後再稼働させずにどうするつもりか。うまい具合に営業運転から40年近くたっていれば、廃炉も仕方あるまい。しかし、まだ10年、20年と使える原子炉はどうするのか。これは大変な政治問題だろう。

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バーベルあげちゃった 金沢学院大の女子重量挙げ

(2012.06.11)  偶然だが、日曜日夜、BS1のテレビを見ていたら、今をときめく西川美和映画監督が演出した

 「重力に逆らってまで」

というスポーツドキュメンタリーを見てしまった。金沢学院大学(金沢市)の女子ウエイトリフティング部のロンドン五輪挑戦物語である。ブログ子は、10年ほど前、同大の教員をしていたから、出演していた橋田麻由選手の今も健気で明るいその姿をなつかしく思い出した。

 見終わって、西川監督はどんなつもりで演出したかは知らないが、

 廃部寸前の大学相撲部を舞台にした「シコふんじゃった」(周防正行監督、本木雅弘主演、1992年)や

 埼玉県立川越高校の廃部寸前の水泳部をモデルにした青春映画「ウォーターボーイズ」(矢口史靖監督、2001年)

に次ぐ、第三の青春スポーツ映画に仕立て上げてほしいと思わずにはいられなかった。マイナーとはいえ、日本で初めての女性が主役のスポーツ青春映画である。マイナースポーツであるということで、かえって国民の多くが共感するだろう。

 学院大のトレーニング場には、

 常勝気流

という横断幕が高々と掲げられていたが、ブログ子の在籍した当時も今もこの気概に変わりがないように感じた。

  番組でも語られていたが、若い乙女が、なんで苦しい思いまでして「重力に逆らってまで」バーベルを挙げるのか。生きるとは何か、青春とは何か。そんな答えのないテーマにユーモアも交えてまじめに取り組む青春映画が今は少ない。それだけに、出演していた最重量級75キ超級の城内史子選手の明るい性格は貴重である。

 華やかな種目の、そしてオリンピックに誰が出場するのかということばかりが、放映されるようでは、日本のスポーツレベルやすそ野は飛躍しないし、広がらないだろう。

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そりの美学 東京スカイツリー

 (2012.06.23)  この25年近く無料で毎月送ってもらっている読書人の雑誌『本』(講談社)2012年7月号の表紙を見て、ハッとした( 写真 )。

 Dsc001902 上からと下から日本刀が切り結んだ瞬間の芸術といったらいいのか、この25年間、まれにみる緊張感のある作品である。材質はケヤキだそうだが、現代アートの澄川喜一氏(日本芸術院会員)の作品だという。

   この緊張感はどこから来るのだろう。現代アートとはいえ、どこか伝統美にもあるような気がする。そんな不思議な感覚である。

 解説の高階秀爾氏によると、

重力によってもたらされる「たわみ」、そりのあるかたち

なのだという。日本刀もそうだが、城の石垣が生み出す曲線、五重の塔の屋根のたわみ、日本家屋の軒にみられる「反り」の美学だ。安定の美学といっていいかもしれな

い。

 ところが、この反り、実は、今話題の東京スカイツリーの形にも取り入れられているという。何しろ、澄川さんは

 外観デザインのコンセプト

 日本の伝統美と近未来的デザインの融合

の監修者なのだ。あの東京スカイツリーの外観は、この表紙デザインと同じ

 そりの美学

が取り入れられている。

 あのスカイツリーの上空から地上までのゆるやかなたるみは、重力的には自然なのだろう。ただ、近未来的デザインとして、横断面は地上では正三角形だが、少しずつ鉄骨をねじりながら、中高度では丸みをおびた三角形となり、展望台付近ではほぼ円形となるらしい。いかにも、近未来の塔だ。ここが、京都タワーとは違う。また、超現代的なドバイの塔や上海の塔とも違う。

 一言で言えば、東京スカイツリーの外観を芸術的に抽象化すれば、この表紙になる。

 こうなると、現代アートもいいなあ、と感じた。まもなく、予約なしでもツリー展望台に登れるという。一度、行ってみたいという気になった。

 マスメディアは、ツリーの高さばかりを強調しているが、こうした伝統美にもふれた知的な報道をもっとすべきだ。日本のマスコミは知的レベルが低いことがわかった。

 それで念のために言うのだが、実用的には、ツリーはテレビ、ラジオの電波塔、つまり電波送信所の役割を担っている。

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広告付きの手書き名刺はどうか ? 

(2012.06.22)  時々、気になって読むエッセーに、「週刊新潮」の渡辺淳一氏の「あとの祭り」というのがある。6月28日号は、

 新しい名刺のつかい方

だった。定年後のサラリーマンには肩書がないのでさびしい。だから、現役時代の名刺に「元」をつけて活用してはどうか、と書いていた。名誉教授はその最たるものだと皮肉っている。さしたる主張、結論がないことからもわかるが、書くことがなくて、苦し紛れに書いたエッセーであることが、なんとはなく、わかるのが面白かった。

 Image653 そうではあっても、ブログ子には、しかし、参考にはなった。頼まれもしないのに、「富士山静岡空港 空からひらこう、しずおかの未来」という広告付きの手書きの、しかも単色カラーの名刺を時々使っているからだ( 写真 )。静岡県は、静岡空港に深く関わっているが、地方空港のごたぶんにもれず、赤字たれ流し。開港から3年、その解消のための乗客増加策、増収策に悪戦苦闘している。それで、一役を、というわけだ。

 この名刺、月に、せいぜい2、3枚書くだけだから、たかが知れているのだが、もらう人は面白がって、いろいろ静岡空港について聞いてくれる。コミュニケーションの端緒としては、いい。

 だって、霧が離着陸の邪魔になる空港を、いいお茶をつくるかぎとなる霧の発生しやすい茶畑のど真ん中につくるのだもの、経営収支が成り立つはずがない。そういえば、おもわず、会話が弾むのだ。

 東海道新幹線が空港ターミナルの真下を通るのに、JR東海と空港会社は経営的には競合関係にあるのだもの、アクセスの便がいいはずがない。そういえば、これまた、話題がわく。

 定年後の名刺は、「元」にしろ何にしろ、肩書を誇示するためにあるのではない。話題提供にあると心得よ。ブログ子の持論だ。手書きとなれば、人柄もでるし、その人のセンスもわかる。さすがの渡辺氏も、ここまでは気づかなかったかもしれない。

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東電の「原発事故報告書」を読む 予見性と回避性

(2012.06.22)  東京電力がどのような論理で、刑事責任、たとえば、通常の事故で言えば、業務上(重)過失致死罪に問われることをまぬがれようとしているのか、という観点から、先日同社が記者会見や同社ホームページで公表した「事故調査最終報告書」を読んだ( 写真 )。

 業務上(重)過失致死罪が成立するためには、業務上、当然払うべき2つの注意義務を怠ったかどうかが争点になる。

 一つは、事故があらかじめ起きることが予見できたのに、その努力を怠っていたかどうか、つまり事故の予見性である。

 もう一つは、予見できたとして、最新の知見を採用すれば回避策が可能であったかどうか、つまり事故の回避性である。

 この二つが成立すれば、つまり、予見できたのに、回避策はあったのに、それぞれの対策を放置していた場合、民事(損害賠償請求訴訟)とは別に、会社側の刑事責任が問える。

 東電の報告書は、この事故の予見性も、回避性も事実上、否定している。

 Image661 ポイントとなる報告書本編での論理はこうだ-。Image661_3

 まず、「地震・津波への備え」で、今回の地震・津波の規模について

 「当社のみならず国の調査・研究機関である地震調査研究推進本部においても、過去に事例のある個別の領域の地震動や津波は(どのくらいの規模であったのかなど)評価していたものの、これらすべての領域が連動して発生する(今回のような巨大な)地震は想定されていなかった」(括弧は、引用者の注)

として、事故の予見性の前提となる今回のような巨大地震と巨大津波の発生そのものの予見性を否定している。 

  その上で、「事故原因と対策」でこう述べている。

 炉心損傷事故の直接の原因は、1号機については「津波襲来によって早い段階で全ての冷却手段を失ったこと」。2、3号機については、1号機の水素爆発などにより作業環境が悪化し、「最終的に全ての冷却手段を失ってしまったこと」を挙げている。

 報告書は、このすぐあと、「すなわち」として、

 「これまでの原子力発電所における事故への備えは、今般の津波による設備の機能喪失に対応できないものであった。津波の想定高さについては、その時々の最新知見を踏まえて対策を施す努力をしてきた。この津波の高さ想定では、自然現象である津波の不確かさを考慮していたものの、想定した津波高さ(最大5.7メートルと設定)を上回る(最大で15メートル前後の)津波の発生までは発想することができず、事故の発生そのものを防ぐことができなかった」(括弧内はブログ子の注)

と述べている。そして「津波想定については結果的に甘さがあったと言わざるを得ず、津波に対する備えが不十分であったことが、今回の事故の根本的な原因である」と結論づけている。

  この根本原因を指摘することで、東電としては、その時々の最新知見を踏まえて、特段の津波対策を施してきたのであり、事故を回避する対策を怠ってきたわけではない、といいたいのだろう。

 根本原因の文言に出てくる「津波に対する備えが不十分」とは具体的に何を指すのか。一見、東電の責任を認めたようにみえる。

 しかし、踏み込めば、 政府(具体的には内閣府原子力安全委員会)が、事故に備える安全指針として全電源喪失を想定した対策をはっきりと打ち出していれば、電力会社としても対応せざるを得ず、したがって今回の事故は回避できたといいたいのだろう。それがなかった。東電はそれに従ったまでだというのだ。責任は政府にあるというのが東電の言い分だろう。

 以上のような論理で、報告書は東電に対する事故の予見性も回避性の責任も否定した。つまり、事故の予見性の前提となる、巨大地震・巨大津波を予見できなかった責任は国などの調査研究機関などにある。事故をさけることができなかった回避性の責任は安全指針として全電源喪失対策を打ち出さなかった政府にあり、東電にはそのいずれの責任もない。

 むしろ天災だったといいたいのだろう。

 これが東電の論理である。

 報告書は、「結び」で

 「結果として、大変な事故をおこしたことに、深くお詫び」、「得られた教訓を着実に具体化していく」

と反省と誓いを述べている。

 むなしい言い訳だが、この事故があたかも天災であるかのような論理で、東電の刑事責任が問われないとするなら、この事故による2万人近い犠牲者は浮かばれないだけでなく、日本の原子力行政や電力会社に対する失墜した国民の信頼は永久に回復することはないであろう。

  東電から関係者を招致した国会の調査委員会の報告書もまもなくまとまる。事故は、人災であるとの認識で、今後の責任追及を行うべきだ( 補遺2 )。神様を犯人に仕立て上げることがあってはならない。

 補遺

 この事故調査委員会の最終報告については、その要旨は各紙に報道されているが、朝日新聞は「事故原因」について項目を立てて掲載している。

 これに対し、読売新聞は倍近いスペースを割いて、要旨を掲載しているのに、報告書にある事故原因についての分析の要旨はない。事故調査報告書なのに、この項目を落とすというのは、どういうことか。報道機関の姿勢に欠陥があると言われてもしかたあるまい。たとえ、記者が書いた1面本記にそのことに言及があったとしても、報告書要旨には、きちんと正確かつ簡潔に明記するのが、報道機関としての正しい姿勢である。そうでなければ、記者の書いた本記の記事の正しさそのものを確認することができない。 

  補遺2  国と東電幹部に対する刑事告訴について

 Image705 1012年6月11日、福島県民1300人が、事故の刑事責任を明確にするために、東電役員ら幹部および原子力安全・保安院の事故当時の院長、内閣府の当時の原子力安全委員会委員長らに対して、刑法(業務上過失致死傷)および公害犯罪処罰法違反の容疑で、地元の福島地方検察庁に告訴した。

 これをいち早く、「特報」(2012年6月12日付= 写真)として詳しく今後の課題などを報道した中日新聞には、事故から1年以上が経過し、なんとなく刑事責任があいまいにされそうな情勢であっただけに、敬意を表したい。

 記事によると、法律の専門家は、事故の予見ができて、しかも津波対策など事業者として当然払うべき注意義務を尽くさずに放置したのであれば、業務上の過失が認定できるとしている。

 ただ、現在直ちに健康被害が出ていない低線量被爆が傷害にあたるのかどうか、あたるとしても事故と被爆傷害の具体的な因果関係が証明できるかどうか、つまり、その被爆傷害は事故のせいだと、症状が出ていない段階で証明できるのかどうか、はっきりはしていない。また、仮に、傷害にあたるとしても、避難誘導が適切ではなかったことが、直ちに業務上の過失にあたると認定できるかどうか。これらのポイントでは、公判が始まったとしても検察も、裁判所も難しい判断を迫られるだろう。

 地検は、提出された告訴状の事実関係を精査した上で、受理するかどうかを決めるとしている。これだけの事故を起こしたのに、裁判もしないうちに、だから国や東電の刑事責任がなんら問われずにうやむやにしてはならない。仮に刑事責任が問えない結果となったとしても、今回の事故で国や東電の何が問題だったのか、それを明確にするためにも、検察は裁判で決着をつける姿勢を明確にすることを強く望みたい。

 ( 7月3日現在、受理、不受理の結果は出ていない。おそらく地検は、東電幹部の参考人招致の結果が盛り込まれる国会の事故調査委員会の今夏の報告書公表を待って判断するものと考えられる。不受理の場合は、検察審査会の場で起訴相当の判断を仰ぐことも、告訴団は視野に入れるべきではないか。 )

 責任をあいまいにせず、裁判で決着をつけることは、電力各社をはじめとする電力業界にとっても国民の信頼を回復する近道ではないか。

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ジャーナリスト、原田正純の水俣病50年

(2012.06.19)  治すことのできる患者を治すのは医師の仕事として当たり前。問題は治すことがきわめて困難な患者を前にしたとき、医師は何をなすべきか。

 水俣病に医師として50年かかわってきた原田正純さんは、そう前置きして、おおむね、こうこたえていた。

 「患者のカルテに書かれていないことにも、つまりカルテの向こう側の患者の生活にも心を配って、患者に寄り添う。それこそが医者の仕事ではないか。そう思うようになった」

 この話を聞いて、若いときジャーナリストになりたかったという原田さんの人生が分かったように思った。カルテの書けるジャーナリストなのだ。

 Image638 ジャーナリストとして、そして医師として、埋もれている患者を生涯探し続けたのだ。中立、公平では真実は明らかにできない。この生き方こそ、水俣病患者の多くが原田さんを心から信頼した理由であろう。そして、この10年、続けている「私」という一人称の学問「水俣学」の初心ではないだろうか。

 先日再放送されたNHKのETV特集「追悼 〝水俣病〟と生きる 医師・原田正純の50年」を深夜見ながら、つくづくそう思った(6月11日死去。77歳)。

 深夜、一人、原田さんの編著

 『水俣学講義 第3集』(日本評論社、2007年) = 写真

を少し、読んでみた。世界に広がる、たとえばカナダ北部での先住民有機水銀中毒、つまりカナダ水俣病について、自ら詳しく追跡調査した話が出ている。1975年の健康被害調査と27年後の2002年の追跡調査というのは、「水銀汚染事件でこのように長期にわたって追跡調査をした例は世界中にない」、つまり、本家の日本の水俣にもない。そして、さらに2004年にも補充調査をしている。「のべ200人ぐらいの(大変貴重な)データがそろった」らしい。

 次の章では

 水俣病のグローバルな視点

という話が出てくる。水俣学というのは何を目指しているのかという問いに「一つは社会のなかで自らの権利や意見を表現することができない、そういう人たちの学問である」とこたえている。差別や偏見をさしてのことだろう。「もう一つは、(学閥だとか、医学だとか)そういう分野を飛び越えた学問、グローバルな視点を持った学問を探っている」とも書いている。まず足元の問題に取り組む。その成果を世界的な視野で考えるという意味だろう。

 読み返しながら、ふと、2001年、ユネスコの世界記憶遺産に登録された

 ハンセン病患者の登録記録文書(ノルウェー国立公文書館ベルゲン支部)

のことを思い出した。1856年から始まったこの数万枚にも上るハンセン病の患者調査票(個票原簿)により、ハンセン病の疫学的な研究が大いに進み、1873年、ハンセン病は遺伝病ではなく、菌による感染症であることが、G.ハンセン医師によって判明する。

 ユネスコの世界記憶遺産の登録は、後世に残すべき、しかも世界的にみて普遍的な価値のある文書や絵などの保存を目的に創設されている。原田さんが残した水俣病に関する膨大なカルテなどの記録文書は、ベルゲン文書の価値に劣らないと思う。

 現在、日本には、原田さんが在籍していた熊本大学医学部(熊本市)、熊本学園大学水俣学研究センター(2005年開設、熊本市)、資料収集の拠点となっている同学園付属社会福祉研究所(熊本市)および水俣学現地研究センター(2005年開設、水俣市)はじめ、国立水俣病総合研究センター(水俣市、1996年設立)+同付属水俣病情報センター(2001年)、水俣市立水俣病資料館(1993年開館、水俣市)など、設立主体が異なるさまざまな施設がある。

 これらの組織の間には、過去の経緯から今も確執や対立が根強い。水俣は一つではない。患者すら一つではない。それほど水俣病問題は複雑だが、いずれも患者を見つめ続けてきた歴史の証人である。その点では協力できるはずであり、ハンセン病記録文書のような

 水俣病記録文書を世界記憶遺産に登録する運動

を展開してほしいものだ。上記の原田さんの水俣学の二つの目的、つまり遺志を世界に、そして後世に伝える力となるだろう。登録の実現には、熱意をもって運動を推進する人がまず欠かせない。そんな人材を育てるのも水俣学のテーマの一つではないか。

 参考になるのは、1年前の2011年5月に日本で初めて世界記憶遺産に登録された

 山本作兵衛の炭坑記録画および日記などの記録文書計697点

だろう。福岡県田川市の田川市石炭・歴史博物館と福岡県立大学がもともと保存、所蔵していたものが、世界的にみても普遍的な価値があるとして、登録されることになった。

 運動に当たっては、水俣病に対してはまだまだ社会的な偏見や差別が根強いこと、カルテという個人情報がかかわっていること、水俣病患者と日本政府の関係は今もいがみあいや対立があり、、ノルウェーの場合のように、必ずしも良好ではなかったこと-など、ちょっと考えただけでも乗り越えなければならない課題は多い。

 しかし、水俣病は日本の公害、環境汚染による健康被害の原点であり、まだ終わっていない。それどころか、今後も世界で有機水銀汚染は広がる様相である。

 原田さんが亡くなった今、原点の記録文書を世界遺産として後世に伝え、世界の水俣学に育てる好機ではないか。

 補遺 

 実は、ブログ子は、2004年、原田さんたちが水俣学を精力的に始めたころ、原田さん宛てに手紙を出し、

 かつて汚染された「水俣湾を含む不知火海を世界遺産に登録する運動をしてはどうか」と提案したことがある。提案に添えて、当時、ブログ子が、その意図を述べた

 日本科学技術ジャーナリスト会議「会報」No.32 (2004年7月号)「会員だより」

 「有機水銀汚染が世界的に広がりを見せているなか、世界遺産に登録されている原爆ドーム、アウシュビッツ強制収容所と同様、水俣湾を含む不知火海も登録要件の「顕著な普遍的な価値」(世界遺産条約)を十分満たしている」

と書いた記事を同封した。ただ、原田さんは、趣旨に反対はしなかったものの、海を遺産登録するという発想には違和感を示していた。それに海底のヘドロもほとんど取り除かれていたことにも言及していた。それよりも、膨大なカルテなどの調査資料の散逸が心配だという趣旨の話をしていたのを覚えている。

 こう考えると、水俣病記録文書を「世界記憶遺産」することには、原田さんも、きっと賛成してくれるものと信じている。

 補遺2   2012年6月20日 記

 NHK-BSプレミアムで、2012年6月20日午後

 100年インタビュー(原田正純)

が再放送されていた(初回放送は2008年2月)。水俣病に50年かかわった原田さんは、インタビューの最後のほうで、すでに50代前後になっている胎児性水俣病の軽度障害者の調査をもっと徹底してやりたいと抱負を語っていた。そして最後に

 「100年後へのメッセージ」として、こう語った。

 「水俣病は、人間が自然の一部であるということを私に教えてくれた」

と。これと90分にわたるインタビューの内容と重ねて、少し補足すると、

 だから、便利さの追求もほどほどにすべきだ。便利だからたといって、また高度経済成長に欠かせないからといって、不自然なことをやりすぎてはいけない

ということを言いたかったのだと理解した。高校時代にはジャーナリストになりたかったと語った原田さんらしい。そんな原田さんだったからこそ、50年という人生をかけて水俣病にかかわれたのだろう。

 水銀を触媒とするアセトアルデヒドの生産が水俣工場でピークになるのは1960年前後。製造中止は1968年。この間、日本政府は経済成長路線、所得倍増政策を強力に推進した。

 その蔭に水俣病患者推定で「少なくとも約20万人」(インタビュー時の原田氏発言)という世界の公害史上まれにみる惨禍を生み出したことを忘れてはなるまい。そのほとんどは、救われることなく亡くなったか、今も苦しんでいる。

 せめて水俣病文書を後世に、そして世界に残す。それが今生きている私たちのせめてもの責任ではないか。そう感じたインタビューだった。

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無理のない脱原発の道 「40年廃炉」の設計基準を守れ

(2012.06.18)  焦点となっていた原子力規制を担う原子力規制委員会を新設する法案がようやくまとまった。規制委員会は、9月までに発足する見通しという。

 問題は、土壇場の与野の修正協議で、

 原発を稼働から40年で廃炉にする条文の例外規定が、自民党の要求で、規制委員会発足直後に「速やかに」修正する

となったことだ。修正は規制委に委ねられることになってはいるものの、それを決める委員の人事には国会の同意が必要であるところから、自民党の主張、つまり、電力業界の意向が反映される可能性は高い。

 どう修正されるのか。規制委員会設置法案の条文では

 「原子炉を運転する期間を、最初に使用前検査に合格した日から40年とする。ただし、安全性を確保するための基準に適合していると認めるときに限り、20年を超えない期間を限度として1回に限り延長の認可をすることができる」

となっている。この「20年を超えない期間を限度として1回に限り」という歯止めの文言が削除され、40年という本則が骨抜きにされる状況が出てきたのだ。つまり、適合している限り、延長の認可をすることができるとなるのだ。これでは、現行制度とまったく同じことになってしまう。事実上、「40年廃炉」の本則は空文化する。

 Image6503 40年というのは、これまでの原発設計で設定された寿命。実際には安全上、これ以上使用しても余裕を持つようにはなってはいるものの、安全性の根幹にかかわる技術上の原則は守るべきであり、政治の駆け引きにすべきではない。

  この原則が争点になっているのには、1970年代に建設された古い原発がそろそろ40年立つことから、電力会社にとっては深刻な問題になっているという事情がある( 注記 )。この事情は逆に言えば、ひとつのチャンスでもある。40年廃炉の原則堅持は、脱原発の自然な実現方策でもあるからだ。

  6月15日付朝日新聞「社説」 ( 写真 ) は、

 「40年で閉めていけば、新増設がない限り、原発の(供給電力に占める)比率は2030年に15%に下がり、50年にはゼロになる。もっとも緩やかな減らし方ともいえる。」

と書いている。その通りである( 注記2 )。現在の依存比率が約26%だから、合理的で無理のない、また、国民にもわかりやすい脱原発の道である。

 もう一つ、脱原発の道で考えてほしいのは、今回の原発事故でもわかったように、

原発立地の密集は、いったん事故が起こると隣接原発も制御不能になる可能性が高く、国を滅ぼす

ということだ。廃炉の順番をどのように決めるかの原則は、福井県若狭地方のような原発密集地を優先的に間引きし、原発密集度を緩和する原則を導入することであろう。あの狭い地域に原発が、「もんじゅ」「ふげん」を含めて15基も集中しているのは異常である。地元住民の安全を確保するためにも、この集中の緩和の原則は欠かせないのではないか。

  規制委員会は、発足と同時に、難問をかかえることになる。脱原発へ着実に踏み出してほしいというのが国民大多数の思いであろう。このことを強く受け止めた判断をしてほしい。業界からも、政治からも独立した規制委の存在意義が試される試金石、それが「40年廃炉」原則の堅持である。

  注記

 たとえば、原発が集中する福井県若狭地方の

 美浜原発(関西電力、1号機)は営業運転開始から今年で41年。2号機は39年。

 敦賀原発(日本原子力発電、1号機)は42年。

 高浜原発(関西電力、1号機)は37年、2号機は36年。

 今回事故を起こした福島第一原発の4基は、1号機の41年を先頭に、いずれも営業運転から30年以上立っている古い原発。事故で廃炉が決まったのも当然だろう。残った5号機(34年)、6号機(32年)も、設計上はそろそろ廃炉を考えてもおかしくないほど古い。

  つまり、今、「40年廃炉」が法律で明文化されると、事故を起こし、すでに廃炉が決まっている福島第一原発の4基を除いた全国50基の原発のうち、35年以上営業運転している8基(うち40年以上は2基)が直ちに廃炉問題に直面する。痛手は若狭地方に原発を設置している関西電力において特に深刻となる。廃炉で営業利益がでないばかりか、廃炉処理に1基当たり少なくとも数百億円と見積もられている莫大な処分コストと長い時間と多くの人手がかかる。

 これでは、関西電力をはじめ電力業界がこぞって明日はわが身とばかり、「40年廃炉」に抵抗するのも無理はない。

  注記2

  たとえば、ドイツのメルケル政権は、福島原発事故を受けて、

 10年後の2022年までに、全原発17基を順次廃止する脱原発の政策

をすでに決めている。これに比べれば、日本の50基を40年で廃止する方策は、原発数が3倍ではあるものの、ペースは緩やかであるといえる。

 ただ、このエネルギー政策の大転換は、ドイツでも壮大な〝実験〟と受け取られており、着実に実行できるかどうか、危ぶむ声も強い。というのは、すでに再生エネルギーの供給が原発を抜いて全体の2割を超えたのに、決定から1年がたった今も、その基盤となる電力アウトバーンなど送電網整備計画や実現までの工程表は策定できていない。ようやく送電網建設に伴う住民同意など難問を解決するための手続き法案が共同通信によると、今年中にまとまりりそうだという。

 ドイツのように、数社の送電会社があり、電力分野で競争原理が働きやすい環境がある程度整っている国ですら課題は山積している。

 いずれにしても 来年秋のドイツ総選挙の行方がカギ。ドイツ経済がこのところ好調であることから、メルケル首相が三期連続、首相に選出され、脱原発に今後強力に指導力を発揮するとの見方もあるが、EU経済危機もあり、そうなるかどうかは予断を許さない。

  補遺 浜岡原発について 2012年6月27日

 中部電力の株主総会は、脱原発(つまり浜岡原発の廃炉)提案の議案を否決した。ただ、これまでの原発推進の風向きは、変わりはじめている。

 つまり、原発が立地する御前崎市は、従来の原発推進の姿勢は変えていないものの、10-20キロ圏内にある隣接の牧之原市(西原市長)は、これまでの方針を180度転換。明確に廃炉提案の議案に賛成した。これには、議会が「浜岡原発の永久停止」をすでに決議しているという事情がある。

 事故を起こせば避難対象地域となる30キロ圏の外、つまり原発から50キロ離れている静岡市(田辺市長)は、脱原発廃炉議案に賛成も反対もしない、いわば保留の「白票」を投じている。田辺市長によると、この夏にまとまる国のエネルギー政策の見直しの結果を精査して見極める。牧之原市よりは持ち株のはるかに多い(それでも全体の株式数の0.6%)を所有している静岡市にも、これまでの原発推進一辺倒の態度から微妙に変化しはじめていることがうかがえる。 

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不滅のプルトニウム発電 官僚たちの35年

(2012.06.18)  国の原子力委員会が、原発から出る使用済み核燃料を再処理し再び利用するのか、それとも直接地下に埋めて捨ててしまうのか、国の基本政策の核燃料サイクルの見直しに小委員会を設けて、本格的な検討に入っている。

 資源小国の日本のエネルギー政策の切り札として登場した高速増殖炉(FBR)開発によるプルトニウム発電計画。軽水炉でできるプルトニウムを再処理工場で再処理し、高速増殖炉で再利用するという国の核サイクル政策は、1978年の方針決定から35年、いまや技術的にも経済性の面からも完全に破たんしたといえるだろう。

 NHKのETV特集「〝不滅〟のプロジェクト 核燃料サイクルの道程」(5月17日夜放送)

をみて、あらためてそう思った。この番組では、元科学技術庁の管理課に在籍していた伊原義徳さんが保存していた非公式な

 原子力政策研究会(島村武久・元同庁政策課長の私的な研究会)

の録音テープをもとに構成されていた。資源小国の切り札として、どのような経緯で「再処理」方針が決定されていったか、この方針に対するアメリカの横やりとその打開事情、さらには1990年代に軽水炉から高速増殖炉開発に本格的に政策の重点を移していったその間の事情、これまでほとんど表に出ることのなかった関係者の生々しい〝証言〟が紹介されていた( 注記 )。

 小委員会では、再処理で取り出したプルトニウムを核燃料とする高速増殖炉の開発と実用化の中止も含めて検討される。その実験炉については、1977年に「常陽」が臨界に成功している。それに基づいた原型炉については、1980年に「もんじゅ」建設が始まり、1995年8月に臨界にこぎつけたものの、直後(同年12月)、ナトリウム漏れ事故を起こす。以後今日に至るまで一度も本格稼働はしていない。実用化には、原型炉に次いで経済性を重視した実証炉の建設、さらには安全性の確保と運転のしやすさを重視した商用炉の建設が欠かせないが、いずれも技術的な見通しすら現在まったく立っていない。

  「常陽」臨界成功から35年、一貫して国の長期計画では再処理し、取り出したプルトニウムをリサイクルするという基本は変わっていない。取り出した後に残る高レベル放射性廃棄物については、電力会社の責任において事業主体を設立し、地下に埋設することが法律で定められている。しかし、事業主体は決まったものの、その最終処分場となる国内の場所探しは、まったく進んでいない。

  再処理方針の決定から35年の歳月と約1兆円の国費をかけて挑んだ〝夢〟の高速増殖炉開発計画が残したものは、半減期約24000年の数百トンもの行き場のない〝厄介なお荷物〟プルトニウムと、一度も本格稼働しなかった原型炉「もんじゅ」だけだった。

  燃やせば燃やすほど燃料が増えるというような、うまい話には落とし穴がある。このことを思い知らされた官僚たちの「いばらの35年」であったといえそうだ。

   そして現在。発電もしないのに、「もんじゅ」を維持するのに必要な費用は、年間約200億円。いつ生命維持装置を外すか。論議が始まった小委員会には、さまざまな思惑から、その決断を先延ばししようという動きもあるようだ。費用の面では、行くのも地獄だが、撤退するのも地獄だろう。決められない政治が、〝脳死状態〟の再処理工場+高速増殖炉開発プロジェクトを放置させることにつながってはなるまい。

 これからの正念場、いわば国民の「地獄の10年」をしっかり見つめていきたい。そんな思いを抱かせるETV特集であった。

 注記

 この私的な研究会が、原型炉「もんじゅ」の建設が始まった1985年に同庁内に設けられたことからもわかるが、研究会の目的は

 次の実証炉構想など、核燃料サイクル政策の推進方策

について、各電力会社と情報交換することだったらしい。この目的が大きく狂い出したのは、

 もんじゅのナトリウム漏れ事故(1995年12月)

であったことは間違いない。このとき、資源小国、日本の救世主とされたプルトニウム発電の計画は、事実上頓挫する。

 事故原因は、ナトリウムの温度を検出するほんの小さな温度計の設計ミス。これが致命傷となった。きちんとした検査対象ですらなかった部品がプルトニウム発電の息の根を止めたといえる。

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諸行無常 盛者必衰 平家琵琶を聴く

  (2012.06.17)  Image649 少し大げさに言えば、もののあわれを感じることのできた「語りの会」だったと思う。

 この半年間で吉川英治さんの『新・平家物語』全8巻を読破したということもあり、平家琵琶が聴けるというので、浜松市楽器博物館に出かけた。

 前田流平家詞曲相伝の鈴木まどかさんと、同じく同相伝の古川久美子さんの弾き語りに、800年前のいにしえに遊ぶことができた( 写真= 鈴木まどかさん。浜松市楽器博物館)。平家詞曲とは、『平家物語』の詞(ことば)に曲節をつけて語ることをいう。曲節の前奏として平家琵琶を弾くのである。

 具体的には、浜松にもゆかりのある「鵺(ぬえ)」(源頼政)、一門都落ち(平時忠)、義仲追討の源義経軍の橋合戦「宇治川」、一の谷で捕らえられた平重衡の東海道下り「海道下り」(池田宿)だった。いずれも『新・平家物語』に詳しく出てくる場面であるだけに、ブログ子としては、わかりやすかった。

 同じ琵琶といっても、雅楽の楽琵琶のような雅さも、琵琶に似た三味線のような勢いというのもない。あくまでもゆるゆるとした単調すぎる追悼音楽のようだった。まるで能を音楽にしたようなコンサートだった。上質な哀調とはこういうものかと感心した。

 節回しの音域は高いと低い、スピードははやいとゆっくりのそれぞれ二段階の語りなのだ。まあ、平たく言えば、浄土真宗のお経をごくごくゆっくり抑揚を少しつけてあげているような感じだったといえばいいか。ともに追悼だからか、共通するところがある。

   ちょっと驚いたのは、この追悼音楽、江戸時代の将軍死去のときの式楽だと解説されたことだった。徳川将軍の正式な儀式のときに演奏される式楽。源氏の流れであるはずの代々の徳川将軍家の式楽が、平家物語の平家琵琶があるとは知らなかった。 

  会場には、予想に反して、200人くらいの大勢の観客がいた。欲をいえば、たとえば、この一割、20人くらいが、京都洛北の狭い庵の和室に集まり、静かに語りを聴けば、しみじみと心の奥底からはかなくも無常な感情が、もっと湧き出てきたであろうと思った。平家琵琶の語りの上質な哀調とはそんなところにあるような気がした。

 それはともかく、入梅前の風流な一日だった。たまには、のんびり、こんな一日もいいものだ。

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拝啓 日本地震学会様 改革決意に具体性を

(2012.06.15)  6月14日付毎日新聞朝刊の「ひと」欄に

 先月、日本地震学会の新会長に就任した

 加藤照之さん(59歳)=東大地震研究所教授(地球惑星科学専攻でテクトニクス、地殻変動論が専門)

が紹介されている。戦後最大の3.11大震災を阪神淡路大震災に次いで、またしても「寝耳に水」と言っていいほどまったく予測できなかったと反省しきりだった地震学会が、満を持して選出した新会長であろう。だから、期待して読んだ( 写真 )。

 Image634 冒頭はこうだ-。

 「 東日本大震災を予測できず「反省」を続ける日本地震学会。学会内から自戒の声が上がっている。これを機会に新しい組織に生まれ変わりたい。」

 その通りだろう。それにはどういう具体策を新会長として提示するのか期待して、このあとを読もうとしたが、またまたくだくだ反省の弁がつづられている。そして、最後に

 「地震への備えは命に関わるテーマなのに、学会内の議論で終始してきた。ゆっくりでもいい。社会に向けて発信する組織にしたい。」

と、どうとも解釈できる抽象論を述べて記事は終わっている。

  これでは、新生日本地震学会に向けた改革は無理だろうという印象だけが、残った。新しい組織に生まれ変わるための具体策がない。

 これには、取材したT記者の聞き方にも問題があったであろう。しかし、新会長として、明確に、そして、具体的にこうするという方策を話さなかったことにも原因があると思う( 注記 )。それがあれば、いくらぼんくらな記者でも、ぐじぐじした反省の弁なんかカットして、それを冒頭に書くはずだ。デスクもそれを見逃さず、きちんとそこを見出しにも打つだろう。

 精神論だけの、また定年近い年齢での改革決意では、これまでの異端排除の体質、つまり地震学会=仲良しクラブから抜け出せるかどうか、きわめて疑わしい。批判を嫌うなど、風通しの悪い仲良しクラブの体質こそ、この5月に学会が公表した意見提言集でも、予測ができなかった原因として挙げられた「既存の理論に依存した過度の思い込み」を生む温床になっているのだ。

 そう思って、念のため、地震学会のホームページの「新会長あいさつ」を読んでみた。

 「これまでの地震学会のあり方を見直し」「ひるむことなく地震学会を改革し」という改革の決意はある。しかし、せっかく集約した意見・提言集をもとに、この1年、学会の対応臨時委員会に関わってきた経験も生かし、新会長として、 

 任期中に具体的にこれだけはやり遂げる、

という決意の具体性がない。決意の本気度の試金石となるものがない。これでは、何のための意見・提言集だったのかといいたくもなる。毎日新聞の取材記者ばかりを責めるわけにはいくまい。変革期の学会運営では、もっとリーダーシップを発揮してほしい。

 具体的には、秋の大会(10月、函館市)までに、行動計画(アクションプラン)を立て、具体的な行動の成果を報告することを期待する。この大会では、改革によってどの程度、風通しのいい学会になったのか、検証する必要もあるだろう。昨年の静岡市での特別シンポ = 「今、地震学を問う」だったが、函館大会では、特別シンポ =「 改革は進んでいるか アクションプランを検証する」を期待したい。

  記者会見や記者懇談会は仲良しクラブを強化する働きをしてきたことにいい加減気づいてほしい。「上から目線」の啓蒙主義はもういい加減抜け出してほしい。教えてやるという意識では国民が期待する改革はできない。こうしたことが巨大地震を予測できると思っていたのに、またまたできなかった原因なのだ。

 十数年前、日本考古学界に、旧石器時代に関する衝撃的な石器捏造事件がおきた(毎日新聞の大スクープ)。しかし、信頼が完全に失墜した日本考古学協会(学会)は徹底した学術論文の検証と事件から4年後の特別委員会調査報告書(2004年12月)の公表、相互批判を通じた仲良しクラブ体質の地道な改革で、紆余曲折はあったものの、今、よみがえろうとしている。この姿勢を地震学会も真摯に学ぶべきではないか。

  若手の登用、予測・予知はできないなどの批判論文に真剣に耳を傾け、それを尊ぶ真摯な気風の醸成、異分野の人材を再び学会に呼び戻す努力など、日本の地震学界の身を切る改革は今である。「百年の大計」を誤ってはならない。 

  注記

 加藤新会長からの私信(2012年6月16日付)によると、取材記者に対して

  会員間の議論の場や機会を設けること、地震・津波防災の関する他学会との連携の枠組みづくり、学会の委員会の構成の再検討-の3点について、その実現に努めていきたいと抱負を述べている。

  この3点については、学会内に設置した対応臨時委員会のこの1年間にわたる議論の総括を踏まえている。それぞれの点についての詳細は、日本地震学会ホームページに公表された意見・提言集(2012年5月)の中で、対応臨時委員会「総括 地震学への提言」に述べられている。臨時委員会はこの3点を含む総括と、臨時委員会の議論に基づいてまとめられた4つの各論的な会員意見論文の計5論文が地震学会への提言であると位置づけている。

    この対内的な総括と提言を携えて、加藤会長と対策臨時委員会委員長は、先月5月22日の地球惑星科学連合大会(幕張メッセ)のユニオンセッション「地震学への提言」に臨んでいる。

  このセッションには、ブログ子も一部参加したが、地球科学の大御所で、最近では地震学の範疇をこえた新しい観点から「予知はできる」とする上田誠也東大名誉教授がセッションのっけから、言葉を極めて猛烈な学会批判を展開していたのを目の当たりにした。今の地震学会が「地震の予測はできる」と考えていること自身がそもそも間違いであり、「やっとわかったか」とばかりに、予算獲得の苦労など日ごろの鬱憤をぶちまけていたのには驚いた。

  そんな中、学会側は、おおむね、提言として、研究を取り巻く現実を正確に認識すること、学会内外でコミュニケーションや意思疎通を深めること、出せる情報と、決定論的な予知など出せない情報を明確にすること、今は未熟であるとしても敗北にひるまず地震学は将来必要な学問になることを社会に伝えていくこと、身近な社会に関心を持ち、内にこもらず積極的に社会に関わっていくこと-などを訴えていた。

 補遺

 ブログ子の意見については、このブログ「科学・技術と社会」の

 http://lowell.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-c46a.html

を参照してほしい。昨年2011年10月の学会特別シンポを取材したおり、書いたものである。

 その要点は

 2011年12月10日付朝日新聞朝刊「私の視点」にも

 地震学の敗北 学会や報道の体質改善を

として掲載されている。

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現代の進化学 分子レベルでは「中立説」

(2012.06.13)  集団遺伝学を取り込んだネオ・ダーウィニズムもふくめてダーウィン進化論は、最近の分子レベルの研究から、ずいぶん分が悪くなっている。

 「種は変化する」というダーウィンの卓見は依然ゆるぎないが、種の変化はコツコツと遺伝的な変異を親から子へ蓄積していった結果だという論の土台となる考え方の漸進主義や、そのほか、たとえば進化論の核心 = 種の分化の仕組み、個体の形態変化の分子レベルの機構などの点でこの進化論の総合説が、理論的な整合性により、1960年代のように進化論の分野に君臨していられた時代は、今や完全に終焉したと言えそうだ。DNA本体の解明が急速に進んだ威力だろう。

 このことの一例を、前回のDNA版「ファーブル昆虫記」で紹介した。それでは、ダーウィン進化論はどのようなものと置き換わろうとしているのだろうか。

 進化論だって進化する。そう考えれば、いまだ包括的な理論、ないしは指導原理はないのも不思議なことではない。しかし、その進化の方向はみえてきており、分子レベルの進化論のパラダイム転換がすでに始まっている。1970年代の世界的な論争を経て、1980年代にほぼ確立した

 分子進化の中立説(論)

である。突然変異は、自然淘汰で(最)適者として生き残れるという意味で個体の生存に有利なものが生き残り、進化に寄与する。しかし、そうではない突然変異はすべて生存に不利であり、何代にもわたって生き残れず、したがって、進化には寄与しないという、ダーウィン以来の暗黙の前提が正しいのか、どうか。日本の木村資生氏が打ち立てた中立説(1968年)の出発点は、ターウィン進化論のこの暗黙の前提を吟味することから始まった。

   この吟味をするために、木村氏は、1968年論文で、分子レベルの進化速度、つまりほ乳類などの生物で実際に起きている突然変異の世代あたりの推定値と、細胞分裂に伴うDNA複製時の複製エラーとしての理論的な突然変異の世代あたりの発生割合を比較した。その結果、理論値の割合が、圧倒的に(2、3桁も)大きいことがわかった。このことから、

 「塩基配列によってひきおこされた突然変異の大部分は、淘汰をほとんど受けない中立なもの」

との結論に達した。言い換えれば、先の暗黙の前提は崩れた。むしろ、生物体内で実際に進化に寄与する突然変異のほとんど大部分は、その個体の生存に有利でも、不利でもない、いわば沈黙の突然変異なのだ。

 言われてみれば、明解で単純な指摘だが、集団遺伝学に精通し、しかも、1960年代という勃興期の分子生物学の成果をいち早く貪欲に取り入れた40代半ばの木村氏だったからこそ到達できた成果だろう。

 注意すべきは、上記の木村氏の結論は、分子レベルの進化速度という測定可能な観察データを土台にして、それと整合性のとれる数学理論として中立説を導き出している点だ。したがって、これを否定することは容易ではないばかりか、観察に基づいた理論であるだけに、理論の適否の指標でもある未知の物理量を予測し、観察データと比較すらできる。予測値から観察値を調べてみると、予測通りだった例もある。集団遺伝学のように繁殖率など、パラメーター依存が不要になったのだ。

 木村氏は、その著『生物進化を考える』(岩波新書、1988年)で「中立説は決してダーウィンの自然淘汰説(そのそもの)を否定するものではない」と書いている。その淘汰の働きが大きく変わり、有利な突然変異を持つ(最)適者が生き残るのではなく、遺伝的な浮動とい偶然、つまり(最も)運のいいものが生き残るというわけだ。自然淘汰はダーウィンの「適者生存」から中立説の「幸運者生存」にパラダイムがシフトしたといえるだろう。

 Image629 ここに、進化論が、いまだ包括的な指導原理はないものの、総合説を乗りこえ、真の意味で科学の分野として歩み出したといえるだろう。この意味で、中立説というより、今では中立進化論、あるいは中立進化学というべきかもしれない。

 大きな成果として一例を挙げておく。

 この中立進化論(たとえば、木村氏の1990年論文「進化の緩急」)によると、種の個体群のなかに有利でも不利でもない突然変異が大量に蓄積される静かな時期と、環境の激変によって、その蓄積された突然変異が一気に自然淘汰にかかる時期とがある( 注記2 )。

   この予測は、12年後の2002年に、前回のこのブログで書いたように、大澤氏のオサムシ分子系統樹の研究で大筋でその通りであることがわかった( 注記 )。

  木村氏の偉大さは、卓抜な研究論文(1968年Nature論文)そのものもさることながら、自分の説を最終的にきちんと整理して、世界に向けて、あるいは後身に向けて残し、一般の読者、社会にも学問の進展と成果をわかりやすく還元したことであると指摘しておきたい。

  具体的には、まず、『分子進化の中立説』(英文版、1983年)で、その成果を体系化し、世界の研究者に引渡し、日本国内については、大学院生など若き後身に向けて、その翻訳(1986年)を出版し、便宜を図った。同時に、一般の人々にも中立説のポイント解説した「生物進化を考える』(岩波新書、1988年)を上梓し、提唱者としての責任を果たしている( 写真 )。

  後身を育てるという意味では、所属していた国立遺伝学研究所(静岡県三島市)を世界の三大研究所にまで育て上げ、若い人材を継続的に輩出させる仕組みを、遺伝研に入所した戦後間もないとろから一貫して心掛けていたことを挙げておきたい。いまや、

 遺伝研は世界のミシマ

と言っていい存在になっている。ここに、ダーウィンもできなかった人材育成に心血を注いだ木村氏の真骨頂があったと思う。国立遺伝学研究所の斎藤成也教授(遺伝学)の『自然淘汰論から中立進化論へ』(写真= 右。NTT出版、2009年)はそうした継承の好例だろう。

 1994年、70歳で不慮の事故で亡くなったが、もう少し長生きしていれば、あるいはノーベル賞にも手が届いていたことだろう。

   注記

  前回のブログの大澤省三氏のオサムシ分子系統樹の結果のところでも述べたが、種は変わるべきときがきたら個体は一斉に変わるという、正統派学界からはほとんど無視された今西進化論の根幹とも合致することに注目したい。

  注記2

    詳しくは、『自然淘汰論から中立進化論へ』(斎藤成也、NTT出版、2009年)の第8章21世紀における中立進化論参照。中立進化の本来の定義は、機能が変化しないのではなく、(機能が変化しても、それが)自然淘汰を受けないということであるとして、表現型を含む大規模な進化の起こる仕組みを、中立論をもとに木村氏が提唱した4段階仮説でやや詳しく説明、紹介している(具体的には、同書p163以下)。 

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進化に「動」と「静」  現代「ファーブル昆虫記」

(2012.06.12)  先月27日付のこのブログで

 ファーブルはなぜ進化論に否定的だったのか

について、書いたら、少し反響があったことを、同じこの欄で先日述べた。今から100年以上も前に刊行された

 『ファーブル昆虫記』(全10巻、1879-1910年)

は、昆虫の行動や生活誌を具体的に明らかにし、その驚くべき本能について解明しようとしたものであった。

 そこから、本能の精妙さは、まるで当初から神から与えられたものであり、徐々に変化してきたものでは到底あり得ないとの結論に到達する。つまり、進化論には反対したというわけだ。これはマクロな視点からの結論だ。

 Image623 それでは、現代の虫好き、昆虫好き、いわば「現代のファーブル」たちは、どのような態度をとっているのであろうか。環境のわずかな変化にその時、その時、最もうまく適応できたものが生き残り、その遺伝的な変異が長い時間をかけて親から子に遺伝し、生存に有利な遺伝情報が種内に次第に広がっていく。このことで、種は環境的にも時間的にもゆっくりと変化してきたとする漸進主義のダーウィン進化論(ネオダーウィニズムも含む)をファーブルのように否定しているのであろうか、それとも肯定しているのであろうか。

 この問題については、アマチュアと協力して、世界中からオサムシ(甲虫類)を収集し、そのDNAの塩基配列のわずかな違いをたどって、種の分化の歴史を探ろうとした日本の研究がある。

  のちにこうした研究を分子系統進化学と呼ばれるようになるのだが、大澤省三名古屋大学名誉教授を中心に1990年代に本格的に行われたオサムシの分子系統樹づくりは、その嚆矢であろう。

 その成果は、「歩く宝石」とも言われるオサムシの図鑑でもある

 『DNAでたどるオサムシの系統と進化』(大澤省三 et al.、哲学書房、2002年)

という大著にまとめられた。人類遺伝学の尾本惠市東京大学名誉教授は、この本を「分子進化研究のバイブル」とまで激賞している。

 ブログ子も、この美しい本を持っているが、

 DNA版「ファーブル昆虫記」

と思っている( 写真 )。

   完成間もない2002年4月18日付日経新聞「文化」欄に、大澤氏自身の

 オサムシ、進化論を覆す ?

というタイトルで、かいつまんだ結果報告ではあるが、それでも長文の刺激的な寄稿がある。

 それによると、

 「世界のオサムシは、約四千万年前、短期間で一斉に主なグループが分化したようだ。三千万年たっても形の変わらないものもあれば、ずっと変化のなかった系統から突如形態の変わった別種が出た例もある。どうやら、進化には激しく分化する「動」の時期と「静」の時期があるらしい」

ということになる。つまり、ダーウィンの進化の漸進主義を否定している。大著の最後の結論の冒頭部分でも、この部分に触れて

 「主要な属は、5000-4000万年前のごく短期間にほぼ一斉に出現したことが分子系統樹によって示された」

としている。これは(適応)放散現象を思わせる。さらに、

 「「静」の時期を経た後に、時がくれば種は爆発的に、または不連続的に誕生するのである。」

としている。「静」の時期というのは、突然変異が蓄積される時期に対応するのだろう。時がくれば、というのは、隕石の衝突など環境の激変を指す。

「このように「動と「静」の組み合わせによる進化のメカニズムについて、分子遺伝学の立場からいろいろな仮説を提唱することも可能である」

として、今後の仮説の実証研究に期待をかけている。

 以前の川の流れでコロ、コロと角張った小石が転がるうちに、丸まった滑らかな石に変わるたとえ話をした。動と静について、そのたとえで言えば、

 Image6276 滝などの環境の激変があれば、小石は少しずつの変化ではなく、滝に落ちて、二つに割れて分化したり、川の外に放り投げられたりして転がることをやめる。つまり、絶滅するということだろう。進化とは静かな流れと滝や急流が交互に訪れる川の流れに、この分子系統樹進化学の成果からは、あるいはたとえられるかもしれない。

 今西錦司氏は『私の進化論』(1970年、思索社)で

 「種は変わるべきときが来たら、種内の個体は一斉に変わる。個体間に区別はない。環境激変期には、いちいちランダムな突然変異など待ってはいられない」

と指摘している(たとえば、同書p173など)。環境激変期に、そんな悠長なことをしているようでは、種は滅びてしまうというわけだ。生物の観察を長く続けてきた経験がそうした確信を生んだのだろう。

 今西錦司氏は、生物学者として遺書のつもりで書いた『生物の世界』(1940年)以来、半世紀にわたり一貫して、そして繰り返し、上記の主張をしてきたが、これまであり得ないこととして、正統派の学界からはほぼ完全に無視されてきた。しかし、1992年の彼の死後からは、皮肉にも、大澤氏の研究などからもわかるが、上記の主張を中核とする今西進化論の全体像は正しいのではないのかという情勢になりつつあるように思う。

 この件については、あらためて、再論、今西錦司の進化論 = 主体性の進化論は死んだかとして、後日取り上げてみたい。

 

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E.シートンは進化論をどう受け取ったか 

(2012.06.11)  先日5月27日付のこの欄で、

 ファーブルは進化論になぜ否定的だったか

と書いた。意外にも2、3人の方から感想をいただいた。そのなかに、E.シートンはダーウィン進化論をどう受け止めていたのか、という質問をいただいた。シートンは、より人間に近い鳥やほ乳類の観察を生涯続けたナチュラリストであり、画家であり、また『シートン動物記』など一連の動物物語の作家でもあったから、至極当然な質問だった( 注記 ) 。

  シートンは、1860年、ダーウィンの『種の起源』発行の翌年生まれ。『ファーブル昆虫記』全10巻が完成した1910年には50歳になっている。この間、最初の動物物語集『私が知っている野生動物』(1898年)を刊行した。また、1925-1927年には、物語の裏づけとなる資料集ともいえる動物学の大著『狩猟獣の生活』(全4巻)も出版している。このことからみて、当然、ダーウィンやファーブルの強い影響を受けていたであろう。

  シートン協会に所属する翻訳家、今泉吉晴氏のご教示(私信)によると、結論を先に言えば

  シートンは進化論に肯定的であった

といえる。

  以下、その理由を述べてみたい(文責はブログ子。「」内は今泉氏私信)。

  まず、ナチュラリストとして、研究者としての観察結果からの考察。主として鳥やほ乳類を観察し続けていたシートンは「人と動物とは、欲求と感覚のほとんどすべてを共有しており、違いは程度の差に過ぎない」と結論付けた。 

  これはファーブルの昆虫の本能行動の観察とは大きく違っており、シートンは神による「創造説ではなく、進化論に立脚していたと見なして99%間違いない」。

  次に、動物物語の内容やストーリー展開からの分析。シートンは、動物記のほとんどで、動物の子どもの成長過程をダーウィンの言う「最適者の生存」の考え方で描いている。「生息地によってちがう環境条件に適応しながら育つ個性的な動物の生き様」を描いた。つまり、「動物の子どもの個性の形成を方向付ける要因は「最適者の生存」とみた」。

   シートンは、進化論を「論」にとどめるだけでなく、それを足がかりに、より積極的に人間と対等に、絶滅に追いやられる動物の生存権すら主張していたと今泉氏は教えてくれた。

 注記

  質問には、このほか、オーストリアのG.メンデルについては、どうかというお便りもあった。植物学者でもあった彼は有名なメンデルの3法則(論文は進化論発刊6年後の1865年)の発見者であり、晩年は修道院長。1822年生まれで、1884年没。

  種は変化し、その変化は親から子へ生殖を通じて種内に広がっていくとする進化論が成り立つためには、当然、遺伝の法則があるはずだ。ダーウィン自身もその法則や仕組みを熱心に考察、探求したが、ついに見出すことには成功しなかった。

  メンデルはダーウィンの話題になっていた進化論を当然知っており、内心では共感したであろう。つまり、肯定した。しかし、ダーウィンの国、イギリスの国教会はローマ教皇庁とは別の新教であるからいいものの、メンデルの所属する旧教の総本山、ローマ教皇庁が進化論を激しく非難していた。このことから、教皇庁支配下の修道士、修道院長だったメンデルは、共感はしても表立って支持するまでには至らなかった。これがおおよその真相であろう。

  つまり、メンデルは、ダーウィンが受け取れば小躍りして喜ぶことがわかっていながら、自分の「雑種植物の研究」(1865年)を意図的に、ダーウィンに送らなかったことがうかがえる。この論文が学界でさほど注目を集めなかったことも、メンデルにとってはあるいは〝幸い〟したかもしれない。

 一方、ダーウィンは、当時無名のメンデルの研究は知らなかったらしい。事実、メンデルと意見交換した様子はない(ダーウィンとファーブルとは互いに意見交換していた)。

 これは科学の裏面史といえば、そういえるであろう。科学といえども、それは人間がつづるものである以上、データの捏造もあるだろうし、ときには保身もある。「それでも地球は動く」と堂々信念を貫くことは容易ではない。

 これは何も19世紀だけの話ではない。たとえば、20世紀に入っても、DNA構造の発見、いわゆる「二重らせん」の先陣争い(1953年前後)をめぐる熾烈かつ醜いスキャンダルもまたしかりなのだ。

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宇宙人はみんなどこにいる ? フェルミのパラドックス

(2012.06.08)  金星の太陽面通過を観察しようと思い立ったからかもしれないが、

 宇宙人って、みんなどこにいるのだろう ?

と考えるようになった。火星人なら、戦前、確かにいるかもしれないとアメリカでは信じられていた。1939年、火星人がニューヨークに現れ、人間を攻撃しているというので、実際にパニックが起きているくらいだ。テレビのない時代ではあるものの、パニックが起きたということは、火星人がいることをある程度信じていたことになる。

 Image620_2 最近では、どうやら、現在の地球人のような知的な文明を持つ生命は太陽系にはいないことは確実だ。いれば、地球にやってこないとしても、連絡や、少なくとも知的な文明が存在するなんらかの兆候、合図、信号が地球に伝わってくるはずだが、それが全くないからだ。

 それでは、太陽系外はどうだ。

 少なくとも4、50光年の範囲にはいないことも、これまた確実だ。というのは、そんな文明があれば、光の速さで飛行して、4、50年の範囲ということは、4、50年前に発射された電波が、少なくともいまごろまでには地球に届いているはずだ。ところが、この4、50年、こんなに電波天文学が地球で発達したにもかかわらず、ただの一度も確実に知的な文明からの信号、合図であると確証された情報は届いていないからだ。

  では、その50光年先の宇宙には、今の地球と同じ程度の、あるいはそれ以上の知的な文明を持った宇宙人はいないのか。知的な生命というのは、この10万光年の範囲に広がる銀河系の中には地球人だけしか存在しないのか、という疑問が出てきそうだ。

 この疑問については、地球文明が今のレベル、あるいはそれ以上のレベルであと10万年継続して続いていればわかる。まったく知的な文明からのものらしい信号、合図、兆候がなければ、このわが銀河系には、地球文明と似たような知的な生命は現在はいないということになる。今はただ、地球文明も地球外生命と連絡を取り始めてせいぜい50年くらいだからなんと言えないだけかもしれない。

 それでは、もし仮に、現在、わが銀河系に地球と似たような知的な文明を持っている惑星があるとしたら、その数( N )はどのくらいあるのだろうか。理論的には

 ドレイクの公式

というのがある。アメリカの電波天文学者が今から50年前に導いた公式であり、今もこの推計はいろいろ話題になっている。彼は当時の地球外知的生命探査国際会議でこの公式を発表している。F.ドレイク自身は当時、

    N = 約10個

と推計している。最近の日本の研究、たとえば、北海道大理学部の倉本圭教授( きよし、天文学)によると

  N = 30 - 120個

と推定されている。この種の推定には、かなりの誤差、あるいは未確定要素があるから、安全率として、±10倍をかけると、地球を除いて、

 N =  数個ないし千数百個

というところが、妥当な数字であろう。

 この数字の解釈はいろいろできるだろう。数個というのは、現在の銀河系には地球と似たような知的な文明は、誤差の範囲で、存在しないということもできる。また、千数百個というのは、10万年も待たなくても、その千数百分の一、つまり、運がよければ、あと百年もすればその太陽系に近い一個から合図、連絡、あるいは兆候がわかるという意味にも解釈できそうだ。

 とすれば、知的な生命が存在するならば、あと百年もすれば結果がわかることになる。ただし、存在しないというのを確かめるには、あと約10万年はかかる。

    ただ、ここまでの話は、宇宙人というのは、今の地球人に似たような知的な文明を持った生命であるとの前提がある(つまり、進化の結果、一個の大脳を持つようになった知的な生命)。この前提を外し、そうではない、たとえば複数の大脳を持った知的な生命がこの宇宙に存在していても、あるいはより根本的に三重らせんのDNAをもった生命がこの宇宙に存在していても、なんら不思議ではないが、これを含めて宇宙人を考えると、科学・技術の超高度化も考えたりできるので、空間範囲を銀河系に限ったとしても、確定的なことはほとんど何も言えないだろう。つまり、自由にどのような結論も導けそうだ。

 さらに、空間をわが3次元宇宙だけでなく、ほかの宇宙、たとえば時間も空間もない宇宙、時間はあるが空間のない宇宙、空間が3次元ではなく9次元、複数時間の存在する宇宙に存在する宇宙人を考えることも出来る。

 このようなさまざまな宇宙でも生物は存在できるだろう。少なくとも存在できないという確証は、今のところない。

 ここまでは考えないとしても、ブログ子には、わが宇宙について、一つの不思議を感じている。それは、

 生物にはなぜ心が宿る必要があったのか

ということだ。心とは自己決定権のこと。エネルギーや物質にはこの意味の心はないのに、生物にはなぜあるのか。

 エネルギーや物質は必然性の法則にしばられる。これに対し、情報を取り込む生物には偶然に支配される。神は最初の一撃さえすれば、あとは何も手を加えなくても、その後の宇宙の動きは必然的に決定される世界を退屈と考えたのか。だから、生物に心という偶然を導入したようにも思える。

 この哲学的な問いかけをここ十数年持ち続けている。

 補遺

 最近、思うのだが、人間とは無関係に存在するとされている

 物理学的な意味での「実体」とは何か

ということだ。

 さらに踏み込めば、

 自然界の実体である物理学的な事実、法則は、なぜ、人間の大脳が生み出したものにすぎない数学的な事実、定理と矛盾しないのか

ということだ。

 宇宙は人間の大脳とは無関係に存在しており、数学は人間の大脳だけから導き出されたものである。それぞれは別々なのだから、矛盾してもいいのに、宇宙のかかわる物理学の法則と数学の事実は矛盾しない。矛盾する事実はこれまで一例も見つかっていない。矛盾どころか、数学は論理的な帰結として予測すらしてくれる。物理学はその予測に大いなる恩恵を受けている。数学は物理学の武器なのだ。

 この数学と物理学の無矛盾性という関係は、とても不思議である。

 もう少し厳密に言うと、宇宙は人間の大脳とは無関係に存在するといったが、その存在をどう認識するかは人間の大脳での情報処理システムに依存する。だから、数学も物理法則も人間の大脳に立脚している。その論理はいずれも大脳の構造を反映している。それゆえにこそ、それぞれが矛盾しないのは、ある意味当然なのだと、大づかみにはいえるかもしれない。

 すると、数学と物理学の無矛盾性は、わが宇宙とは別の宇宙、あるいはわが宇宙にいるにはいるが、遠くの銀河にいて進化の道筋が地球人とはまるで異なる宇宙人でも成り立つのだろうか。

 言い換えれば、わが宇宙の外にいる宇宙人も、なぜ自分たちの「発見」した物理学が、自分たちの大脳から創った数学とは矛盾しないのだろうと頭を悩ましているだろうか(その宇宙人に頭があり、そこに大脳が少なくとも1つあるとして)。はたまた、もともと比較できないものをそのような比較をすること自体が無意味なのだろうか。

 こうなると、物理学者が人間の営みとは無関係に、つまり客観的に存在すると信じている「実体」とは何なのか、考え出すとなかなか眠れそうにもない。

  数学についても、人間の大脳から生み出されたことには違いないが、二重らせんのDNAを持ち、大脳1つを持つまでに進化した人間が「発明」したものなのか、それとも、そういう人間側の事情や経緯とは無関係に、もともと存在する(神が最初の一撃のときに授けた)真理の中から掘り起こされた「発見」なのか、どちらなのだろう。もし発見だとするなら、三つの大脳を持ち三重らせんDNAの宇宙人も同じ真理に到達しているはずだが、どうなのだろう(もし発明なら、宇宙人ごとに数学的な真理は異なる。だが、その数学と彼らの物理学の真理とは、ともにその宇宙人の大脳に立脚しているので、そこにはなんら矛盾ないともいえる)。 

 とんだ飛躍話になったが、いつの日か、このなぞ、つまり数学と物理学の無矛盾性についてきちんと、この欄で報告してみたい。

 ついでに言うと、なぜ、こんなことを考えるようになったか。それは、「JST news」(2012年6月号、科学技術振興機構)の「先駆ける科学人」に

 理化学研究所 脳科学総合研究センター 脳回路機能理論研究チームの寺前順之介副チームリーダーが登場していたからだ。かれは、この欄で、「数学を武器に脳の秘密に迫る」と題して、脳が自らつくる「ゆらぎ」を、生物が刻むリズムの「非線形」とあわせることであいまいさをうまく利用した情報処理をしていることを数学を武器に解明していると書いている。

 これを読んで、ふと思ったのだ。こうだ-。

 脳自身から生み出された数学を脳自身に適用し、脳がどういう仕組みで情報処理をしているのか、数学を使って解明する。この再帰性(リカーシブルな)をなんとも不思議に思ったのだ。あるサブルーチンにおいて、そのサブルーチン自身を呼び出すプログラムなのである。下手すると、無限に呼び出しが続いて、条件によっては永遠に結論に到達しない恐ろしさもありそうだ。

 サブルーチンプログラムのように、もし仮に数学が人間の脳による「発明」であった場合、この脳研究には堂々めぐりになる恐れがあるような気がする。

 堂々めぐりといえば、これはちょうど、鏡に映った自分を再び鏡に映すとどこまでも自分の姿が鏡の中に映り続けるだけのようなものだ。新たなものは何も見えてこない。脳科学の場合、何か、真理が見えてくるのだろうか。

 先ほど、ブログ子は数学や物理学はともに人間の脳に立脚点=土台を置いているから互いに矛盾はしないのではないかと無造作にいった。しかし、その脳を、発明にしろ、発見にしろその生産物である数学や物理学で解明するというのはどういうことなのだろう。

 先駆ける科学人は、どこまでこの恐さ、深淵さ、わかりやすく言えば、つまり堂々めぐりを認識しているのだろう。

 以前、この欄で取り上げた(5月1日付)「ベンハムのこま」の色の考察にも、同様な恐さがあるような気がする。

 またまた、今夜も眠れなくなりそうだ-。  

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金星の太陽面〝通過〟でわかったこと

(2012.06.06)  聞くのと、実際に見るのとは大違い、ということを今回の金星の太陽面通過を実際に観察してみて、思い知った。先月の金環食に使った日食メガネ( 写真 )で太陽面を眺めたのだが、どうしても金星を見つけることができなかった。金星と言えば、夕方、「宵の明星」として、よく知られた明るい惑星なのに-。

 Image617 国立天文台によると、日本中のどこからでも、午後1時ごろまでなら、晴れていさえすれば、明るく輝く太陽面を小さな金星が黒い点となってゆっくり、太陽面を左上(東側)から右下に向かって通過するはずだった。

 ブログ子の暮らす浜松では正午近くから晴れ始めたので、のぞいてみた。しかし、いくら探しても、黒い点など見えない。予想進路に沿って何度目を凝らしても見えない。おかしい。

 ブログ子は、メガネをかけたときでも(矯正)視力は0.5ぐらいしかない。これが原因かもしれないと、少し計算してみた。

 太陽の見かけの直径(視直径という)は、32′(1′は角度1°の60分の1)。金星のそれは1′。つまり、金星の見かけの大きさは、なんと太陽の32分の1しかない。太陽面の大きさに比べたら、ゴマ粒だ。これではよほど注意しないと見落としそうだ。

 たとえば、視力1.0の人は、この金星の見かけの大きさ1′を見分けることができるだろうか。計算してみた。

 視力1.0という識別能力は、5メートル離れたところに置かれた視力表のうち、1.5ミリメートルの間隔を認知できるかどうかというものだ(いわゆるランドル環の場合)。その解像度を角度(いわゆる弧度法)にすると、

 視力1.0とは、解像度  = 0.00030(ラジアン)の識別能力があることを意味する。

  これに対し、金星の見かけの大きさ1′が識別できるには

 解像度    =  0.00029(ラジアン)の識別能力が必要になる(360°= 2×円周率ラジアン)。

  これは、5メートル離れた視力表でいうと、1.45ミリ。視力1.0のときの識別能力1.5ミリにほぼ等しい。

 視力1.0の人でも今回の金星の太陽面通過を黒い点として確認するには、ぎりぎりなのだ。ましてや、広がりのある黒円にまでは見えないだろう ( 補遺 ) 。

 以上から、視力0.5程度のブログ子では、金星の通過を確認するのはそもそも無理ということがわかる。

 ただ、観察がまったく無意味であったわけではない。

 識別できないほど小さい金星に比べて、背面に輝く太陽はなんと大きいのだろう、という感慨を持てたことだ。見かけでこれだけ大きいのだから、金星よりかなり後ろある実際の太陽は金星に比べて、さらに大きいことになる。

 調べてみたら、見掛けの大きさ32倍に対して、実際の太陽の大きさは金星の100倍以上も大きいのだ。地球は金星と同じような大きさだから、

 金星の太陽面通過は、太陽がいかに大きいか、逆に言えば、太陽に比べて地球はいかに小さいか

ということが体感できたわけだ。

 その小さな地球の、そのまた小さな一角が日本だと思うと、毎日のこせこせした憂いや悲しみに一喜一憂している自分がいかにもバカらしく、小さくも思えてきた。

 太陽面を通過したはずなのに、見えなかった金星の〝観察〟から、そんなことを悟った。そう悟ったら、なんだか、人生、気が楽になった。

   補遺

  夜のテレビニュースでは、日食メガネで観察した小学生の多くは肉眼で

 黒い金星が(丸く)見えた

と答えている。ちょっと驚いたが、小学生は視力がいいのだろう。

 注記

 この金星の太陽面通過、次回は105年後の2117年12月。今回は今世紀最後の現象だった(知らなかったが、前回は2004年だったらしい)。

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「広報はままつ」6月号にびっくり これってホント ? 

(2012.06.04)  毎月5日に浜松市(広聴広報課)が発行している

 「広報 はままつ」(2012年6月号)

の表紙。浜名湖の風物詩として、浜名湖の潮干狩りが登場している( 写真 )。

 Image615 ブログ子も浜松市民だから、これを見ると、もう夏なのだなあ、と感じる。家族連れで楽しんでいるカラー写真にお父さん「がんばってね」とつい声をかけたくなるようないい写真である。浜松ならではの風景だろう。

 そして、その下に

 特集 / 浜松版 新エネ・省エネのススメ

というのが出ている。興味をもって読もうとした。ところが、「はままつでも気温上昇 !? 」とする本文の特集出だしを読んで、これってホントに温暖化のせいなの ? とびっくりした。 

 「実際に市内3地点の年平均気温は、30年で1℃前後上昇しています。」

として、その状況を具体的に、1980年から2010年の30年間に

 中区三組町  +1.3℃

 天竜区二俣  +1.0℃

 天竜区佐久間 +0.6℃

と数字をあげている。そして、いきなり、

 「このまま「地球温暖化」が進み、気温が上昇すると、台風」

うんぬんと話が、エネルギー政策の転換に移っていく。数字をあげている分、説得力があり、一見、もっともだと思えるが、よく考えるとおかしい。なぜなら、

 地球温暖化は100年単位の、しかもグローバルな現象であり、わずか30年間にこんな小さい地域でこんなに大きな差がでるはずはない

からだ。仮に、温暖化が事実であり、その原因が人間活動による二酸化炭素排出であるとしても、30年間の温度差は世界各地の平均として、せいぜい0.5℃以下である。

 それでは、この3地域のデータは何を物語るか。30年間の都市化の程度を示す局所的な現象の結果であろう。温暖化のせいではない。つまり、都市化の進展に伴うエアコン、コンクリート壁反射などの排熱、いわゆる都市の「ヒートアイランド現象」の結果なのだ。都市化の進んだ中区で一番大きい変化があり、もっとも都市化の進まなかった佐久間地区がもっとも変化が小さいのはある意味当然であり、自然である。

 だから、この影響を差し引いた残りが、もし、どの地域でも0.5℃以下で、誤差の範囲内で一致すれば、その一致した数値は、広報誌が指摘するように、あるいは温暖化による気温上昇であろう。温暖化の扱いについては、こうした処理が必要なことは、温暖化の専門家なら誰でも知っていることだけに、行政は注意してほしい。

 広報誌なのだから、市民に誤解を与えないよう、データの持つ意味をよく理解してデータを引用してほしい。

 もう一つ、特集で不親切なデータの引用があるので、指摘しておきたい。次のページにある、

 無限に降り注ぐ 太陽エネルギーを活かす

という記事である。年間の日照時間のイメージの図があり、

 全国トップ !! 浜松の太陽

の小見出しの下、冒頭

 「今年1月、気象庁によって、全国154カ所の観測地点における2011年の日照時間が発表され、浜松市は、2386.2時間で全国第1位となりました。わたしたちはこの自然の恵みを活かしていくべきではないでしょうか」

と訴えている。この訴えは正しいが、データの出所や紹介の仕方が意図的かどうか不親切である。

 まず、データの出所がどこか。どこにも明記されていないが、はっきりと、

 2012年1月4日付気象庁報道発表資料「2011年の日本の天候」

と小さくてもいいから注記すべきではないか。

 その上で、他県との、あるいは他市町村との比較や全国平均をわかりやすく書いて、訴えたいことに説得力を持たせてほしい。

 たとえば。

 浜松の年間日照時間は2386.2時間で全国1位。第2位は静岡市の2361.7時間。気象庁は全国平均をまとめていないが、同じ中部地方では富山市(1611時間)、金沢市(1718時間)、福井市(1691時間)の北陸に比べ、平均で43%も浜松市は長い。この特長を活かそう

という具合に。こうすれば、浜松市民も、よし、太陽エネルギーをもっと活用しようという気になるだろう。この43%という数字が抜けているために、記事の訴求力が格段に悪くなっていることに注意してほしい。 

 広報誌が誘導政策を取り上げ、特集する場合、データの引用にあたってはその出所の明記、正確な引用はもちろん、なるほどと市民に思ってもらえるよう説得力と訴求力を持たせることが、特に重要である。

  以上の二つを、わかりやすく説得力のある広報誌づくりに役立ててほしい。

 最後に、意図的なのだろうが、競争相手の日照時間全国2位の静岡市をイメージ図から(こっそり ? )外しているのは誠実さ、フェアプレーに欠ける。他県や他市と比較するのは、まずいという役人特有の事なかれ主義はできるだけ控えてほしい。信頼できる公正なデータの正確な引用なら、訴えたいことを明確にするために、なんの遠慮がいる。そんな行政マンであってほしい。あえて応援の意味で苦言したい。

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「立ち上がれ、男性諸氏」と渡辺淳一さん 

Image605_2 (2012.06.03)  ふと、駅のスタンドで週刊誌の立ち読みをしていたら、作家の渡辺淳一さんが

 立ち上がれ、男性諸氏

と書いていた。「あとの祭り」という長期連載である(「週刊新潮」2012年6月7日号)。団塊世代の定年後の孤独をどうするか、ということからそう主張していた。具体的にはこうだ-。

  まず外に出て、人と接する。ボランティアの集まりでも、サークルの会合でもいい。そして、できるだけ軽薄に、それもできるだけ話題が豊富そうな年配の女性に声をかけ、話しかける。これまた軽薄に話しかける。そうすると、生活が刺激的になり、面白くなる。定年後の孤独なんかどこかにいってしまうという。

 そんなことは、この歳でできないという人も多いだろう。エッセーでも、そのことを嘆いていた。

 そこで、ブログ子は、先日土曜日夕方、あえて渡辺氏の主張を実行してみようと、ある「ちょい」ダンスパーティーに平服で出かけてみた。ブログ子が暮らしている浜松市とその周辺のいくつかのレッスン教室の有志たちが合同で開いた社会貢献チャリティーだった。

  会場は広い体育館を借りてはいたものの、また中年以上の参加者がほとんどであったものの、華やかなものだった( 写真 = 浜北グリーンアリーナ )。ホテルのダンスホールを利用した本格的なディナー&ダンスパーティーとは一味違った明るい雰囲気が気に入った。ラテン系の「チャチャチャ」などを同じ世代の女性たちと楽しんだが、そのとき、若いときとは違った定年後の自由の良さ、楽しみをしみじみと感じた。渡辺氏の持論「老いても恋を」の一端にふれたような気にもなった。

 そして、思った。下手でもいい、生涯、ダンスを続けたいと。

 そして、思った。団塊世代よ、立ち上がれと-。

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ニッチでリッチな「ジビエ」料理 ?

(2012.06.01)  世の中には、したたかというか、アイデアマンはいるものだ。先日、小谷真生子キャスターのBSジャパン番組「WBS ワールド・ビジネス・サテライト」をたまたま見ていたら、

 ジビエ料理 ニッチでリッチな言葉

というのをレポートしていた。

 「ジビエ料理 ?  」

と戸惑った。「 gibier 」と書くそうだ。野生の動物の肉料理のことで、フランス高級料理の部類らしい。ジビエコロッケが和歌山県の子どもたちには人気とか。

 レポートを見ていると、どうやら、シカやイノシシが全国どこでも繁殖しすぎて、山里や高山でその食害が問題になっている。そこで、

 もっとシカやイノシシの肉を食べようという

ということらしい。今では、日本ジビエ振興協議会も設立されており、業態が異なる異業種交流も盛んだという。ワインとジビエ料理は相性がいいらしく、全国への普及も順調に進んでいるなど、ニッチらしいビジネスが生まれていることがわかった。

  Image581 ブログ子が暮らす静岡県でも、伊豆半島、富士山、南アルプスでシカの食害がこの10年手がつけられないほど広がっていて、作物が食い荒らされるなどで農家は苦しんでいる。それだけでなく、最近では南アルプスの山頂付近の高山植物が根こそぎ食い荒らされるなど、高山植物の保護の観点からも放置できない事態に至っている。

 その実態を少しでも肌で感じたいと、ブログ子も2009年、2010年と連続で、自然保護の関係者と静岡市北部のさわら島に出かけた。想像以上に高山植物が、主としてシカの食害のせいで減っていることを実感した。

 2009年11月7日付静岡新聞社説 ( 写真 )は

 南アルプスシカ食害 3県連携し対策急ごう

 2010年3月20日付「社説」でも、

 シカ被害防止 総合対策へ行動する時

をかかげいる。後者では、捕獲技術の高度化のほか「(殺)処分したシカの有効活用も欠かせない」として、伊豆市の県内ではじめての食肉加工場の建設方針について、触れている。

 しかし、工場もさることながら、消費や流通の拡大策が基本的な対策だろう。ジビエ料理というしゃれた言い方で、消費者を引き付ける作戦をぜひ成功させたいものだ。

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それからの「ザ・コーヴ」 水銀中毒は?

(2012.06.01)  もう、ほとんどの人は忘れてしまっただろう。今から3年前の2009年、アメリカで「ザ・コーヴ」という日本のイルカ漁をテーマとした映画が上映されたことを。それがアカデミー賞(長編ドキュメンタリー部門)を受賞したことを。そして、2010年、すったもんだの挙句、日本でも上映されて

 誰も知らなかったイルカ漁と捕鯨の問題を描く今年最大の問題作

として、話題になったことを( 写真 )。

 Image579 ブログ子も、このとき環境保護か、それとも食文化 ? と話題になったこともあり、浜松市の小さな単館系映画館に見に行ったことを思い出す。食文化として、今も鯨やイルカを食べる習慣は日本に残っているが、拝見して、伝統漁法であっても残虐な殺し方はやめたほうがいいとの感想を持った。

 それよりも、加害者として映画で槍玉に上がった和歌山県太地町の人々、特に漁師のメチル水銀中毒の実態のほうが、よほど心配だと思ったのを今も覚えている。鯨類を食べないほかの地域の人々に比べて、太地町の場合、食物連鎖の頂点にいる鯨やイルカを食べる機会が多いせいか、毛髪に含まれるメチル水銀の含有濃度が4倍も高いことがわかっていたからだ。

 5月31日付中日新聞によると、国立水俣病総合研究センターが、2010年に公表した初回調査のその後の追跡調査の結果、(メチル)水銀による健康被害は見られないと発表した。

 追跡調査によると、水銀濃度が比較的に高かった200人近い住民の平均は

 15.1ppm ( ppm = 100万分の1。1ppmとは、毛髪1キログラムに対して、1mgの水銀が含まれる )

と、日本人の平均2.5ppmの約6倍。世界保健機関(WHO)の安全基準の50ppmを超える住民は、約100ppmを最高に12人だったが、いずれの住民の検診でも、運動失調、指先の感覚麻痺といったこの中毒特有の健康被害はなかったという。

  一安心とはいえ、神経障害を引き起こす原因物質のメチル水銀は、悲惨な水俣病の事例でもわかるように、残留性が強い。また、胎児性水俣病のように妊娠を通じて、被害が親から子に拡大する。

 記事によると、センター所長は、検診結果を受け「これまで通り食べてもらって全く問題ない」と安全宣言したという。強い残留性と胎児性水俣病のことを考慮すると、そして、ごく一部であるとはいえ、国際基準をこえた住民がいたことでもあり、もっと慎重であるべきである。手放しの安全宣言は、言い過ぎではないか。

 メチル水銀による環境汚染は、過去の出来事ではない。ブラジルのアマゾン川でも、また、カナダでも問題になっている〝現代病〟である。おそらく、成長著しい中国やインドでも今後大きな問題になるであろう。

 高度経済成長期の蔭で苦い経験をした日本は、水銀汚染については、より敏感であってほしい。環境保護か食文化かの二項対立をこえて、映画は日本に体験者としての謙虚さを求めたものであると思う。

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