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ジャーナリスト、原田正純の水俣病50年

(2012.06.19)  治すことのできる患者を治すのは医師の仕事として当たり前。問題は治すことがきわめて困難な患者を前にしたとき、医師は何をなすべきか。

 水俣病に医師として50年かかわってきた原田正純さんは、そう前置きして、おおむね、こうこたえていた。

 「患者のカルテに書かれていないことにも、つまりカルテの向こう側の患者の生活にも心を配って、患者に寄り添う。それこそが医者の仕事ではないか。そう思うようになった」

 この話を聞いて、若いときジャーナリストになりたかったという原田さんの人生が分かったように思った。カルテの書けるジャーナリストなのだ。

 Image638 ジャーナリストとして、そして医師として、埋もれている患者を生涯探し続けたのだ。中立、公平では真実は明らかにできない。この生き方こそ、水俣病患者の多くが原田さんを心から信頼した理由であろう。そして、この10年、続けている「私」という一人称の学問「水俣学」の初心ではないだろうか。

 先日再放送されたNHKのETV特集「追悼 〝水俣病〟と生きる 医師・原田正純の50年」を深夜見ながら、つくづくそう思った(6月11日死去。77歳)。

 深夜、一人、原田さんの編著

 『水俣学講義 第3集』(日本評論社、2007年) = 写真

を少し、読んでみた。世界に広がる、たとえばカナダ北部での先住民有機水銀中毒、つまりカナダ水俣病について、自ら詳しく追跡調査した話が出ている。1975年の健康被害調査と27年後の2002年の追跡調査というのは、「水銀汚染事件でこのように長期にわたって追跡調査をした例は世界中にない」、つまり、本家の日本の水俣にもない。そして、さらに2004年にも補充調査をしている。「のべ200人ぐらいの(大変貴重な)データがそろった」らしい。

 次の章では

 水俣病のグローバルな視点

という話が出てくる。水俣学というのは何を目指しているのかという問いに「一つは社会のなかで自らの権利や意見を表現することができない、そういう人たちの学問である」とこたえている。差別や偏見をさしてのことだろう。「もう一つは、(学閥だとか、医学だとか)そういう分野を飛び越えた学問、グローバルな視点を持った学問を探っている」とも書いている。まず足元の問題に取り組む。その成果を世界的な視野で考えるという意味だろう。

 読み返しながら、ふと、2001年、ユネスコの世界記憶遺産に登録された

 ハンセン病患者の登録記録文書(ノルウェー国立公文書館ベルゲン支部)

のことを思い出した。1856年から始まったこの数万枚にも上るハンセン病の患者調査票(個票原簿)により、ハンセン病の疫学的な研究が大いに進み、1873年、ハンセン病は遺伝病ではなく、菌による感染症であることが、G.ハンセン医師によって判明する。

 ユネスコの世界記憶遺産の登録は、後世に残すべき、しかも世界的にみて普遍的な価値のある文書や絵などの保存を目的に創設されている。原田さんが残した水俣病に関する膨大なカルテなどの記録文書は、ベルゲン文書の価値に劣らないと思う。

 現在、日本には、原田さんが在籍していた熊本大学医学部(熊本市)、熊本学園大学水俣学研究センター(2005年開設、熊本市)、資料収集の拠点となっている同学園付属社会福祉研究所(熊本市)および水俣学現地研究センター(2005年開設、水俣市)はじめ、国立水俣病総合研究センター(水俣市、1996年設立)+同付属水俣病情報センター(2001年)、水俣市立水俣病資料館(1993年開館、水俣市)など、設立主体が異なるさまざまな施設がある。

 これらの組織の間には、過去の経緯から今も確執や対立が根強い。水俣は一つではない。患者すら一つではない。それほど水俣病問題は複雑だが、いずれも患者を見つめ続けてきた歴史の証人である。その点では協力できるはずであり、ハンセン病記録文書のような

 水俣病記録文書を世界記憶遺産に登録する運動

を展開してほしいものだ。上記の原田さんの水俣学の二つの目的、つまり遺志を世界に、そして後世に伝える力となるだろう。登録の実現には、熱意をもって運動を推進する人がまず欠かせない。そんな人材を育てるのも水俣学のテーマの一つではないか。

 参考になるのは、1年前の2011年5月に日本で初めて世界記憶遺産に登録された

 山本作兵衛の炭坑記録画および日記などの記録文書計697点

だろう。福岡県田川市の田川市石炭・歴史博物館と福岡県立大学がもともと保存、所蔵していたものが、世界的にみても普遍的な価値があるとして、登録されることになった。

 運動に当たっては、水俣病に対してはまだまだ社会的な偏見や差別が根強いこと、カルテという個人情報がかかわっていること、水俣病患者と日本政府の関係は今もいがみあいや対立があり、、ノルウェーの場合のように、必ずしも良好ではなかったこと-など、ちょっと考えただけでも乗り越えなければならない課題は多い。

 しかし、水俣病は日本の公害、環境汚染による健康被害の原点であり、まだ終わっていない。それどころか、今後も世界で有機水銀汚染は広がる様相である。

 原田さんが亡くなった今、原点の記録文書を世界遺産として後世に伝え、世界の水俣学に育てる好機ではないか。

 補遺 

 実は、ブログ子は、2004年、原田さんたちが水俣学を精力的に始めたころ、原田さん宛てに手紙を出し、

 かつて汚染された「水俣湾を含む不知火海を世界遺産に登録する運動をしてはどうか」と提案したことがある。提案に添えて、当時、ブログ子が、その意図を述べた

 日本科学技術ジャーナリスト会議「会報」No.32 (2004年7月号)「会員だより」

 「有機水銀汚染が世界的に広がりを見せているなか、世界遺産に登録されている原爆ドーム、アウシュビッツ強制収容所と同様、水俣湾を含む不知火海も登録要件の「顕著な普遍的な価値」(世界遺産条約)を十分満たしている」

と書いた記事を同封した。ただ、原田さんは、趣旨に反対はしなかったものの、海を遺産登録するという発想には違和感を示していた。それに海底のヘドロもほとんど取り除かれていたことにも言及していた。それよりも、膨大なカルテなどの調査資料の散逸が心配だという趣旨の話をしていたのを覚えている。

 こう考えると、水俣病記録文書を「世界記憶遺産」することには、原田さんも、きっと賛成してくれるものと信じている。

 補遺2   2012年6月20日 記

 NHK-BSプレミアムで、2012年6月20日午後

 100年インタビュー(原田正純)

が再放送されていた(初回放送は2008年2月)。水俣病に50年かかわった原田さんは、インタビューの最後のほうで、すでに50代前後になっている胎児性水俣病の軽度障害者の調査をもっと徹底してやりたいと抱負を語っていた。そして最後に

 「100年後へのメッセージ」として、こう語った。

 「水俣病は、人間が自然の一部であるということを私に教えてくれた」

と。これと90分にわたるインタビューの内容と重ねて、少し補足すると、

 だから、便利さの追求もほどほどにすべきだ。便利だからたといって、また高度経済成長に欠かせないからといって、不自然なことをやりすぎてはいけない

ということを言いたかったのだと理解した。高校時代にはジャーナリストになりたかったと語った原田さんらしい。そんな原田さんだったからこそ、50年という人生をかけて水俣病にかかわれたのだろう。

 水銀を触媒とするアセトアルデヒドの生産が水俣工場でピークになるのは1960年前後。製造中止は1968年。この間、日本政府は経済成長路線、所得倍増政策を強力に推進した。

 その蔭に水俣病患者推定で「少なくとも約20万人」(インタビュー時の原田氏発言)という世界の公害史上まれにみる惨禍を生み出したことを忘れてはなるまい。そのほとんどは、救われることなく亡くなったか、今も苦しんでいる。

 せめて水俣病文書を後世に、そして世界に残す。それが今生きている私たちのせめてもの責任ではないか。そう感じたインタビューだった。

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