« 千載一遇、5分間くっきりの浜松 静岡県839年ぶりの金環食 | トップページ | ファーブルはなぜ進化論に否定的だったか »

「天竜川の石」は中央構造線からの手紙

(2012.05.22)  雪の結晶の研究で世界的に知られる科学者、中谷宇吉郎さんの有名な言葉に、

 雪は天からの手紙である

というのがある。地上に降ってくる雪の結晶には、驚くほどさまざまな形があるが、そのひとつひとつは、温度や湿度など上空の大気の状態の違いを反映したものであるという意味であろう。いかにも名随筆集『冬の華』の著者らしい的確で、美しい言い方である。

 この伝で言えば、

 天竜川のさまざまな石は、大断層である中央構造線からの手紙である

と言えるだろう。

  Image551_2 浜松科学館では、子どもたちを対象にした人気の「サイエンスアドベンチャー」活動を継続して行っている。先日、その一環として、天竜川の河原にころがっている石の標本をつくろうと、その河口に40人近い小学生とともにボランティアとして出かけた (  写真 )。

 広い河川敷には、いろとりどり、それも大小さまざまな石がそれこそ折り重なるようにごろごろとあったのには、驚いた。

 ブログ子は、生まれ故郷の九頭竜川やサラリーマン時代を過ごした金沢に近い手取川、大阪の淀川などを少し知っているが、そうそういろいろな石がころがっていたとは記憶していない。いずれも天竜川と同じ一級河川なのに、天竜川河口にこれほどいろいろな石が雑多にあるのを不思議に感じた。

 この違いは何なのだろう。

 指導、引率していただいたK先生によると、

 ほぼ北上する天竜川が、水窪、佐久間町(いずれも浜松市天竜区)あたりで北東に走る大断層・中央構造線と交差する

からだと教えていただいた。だから、いくら大河でも、構造線のかなり東側を流れていて交差しないお隣の大井川や、構造線のかなり西側を流れる矢作川の河川敷では、石の種類は多くはないのだそうだ(構造線に交差したり、沿ったりしながら流れる西隣りの豊川は、おそらく河川敷に天竜川同様、多様な石があると予想される)。

 中央構造線は、いわば地質的な境界であり、その境界は破砕帯となっており、川の浸食で地表では谷になっている(  注記 )。だから、ころころ石が流れてくる。

 調べてみると、中央構造線の東側には黒色片岩、緑色片岩が南北に配列している。天竜川と交差する佐久間ダム周辺では、花崗岩、ホルンフェルス、砂岩もある。これらが砕けて、みんな河口にころころとやってくるのだから、天竜川のあの広い河口付近は石の宝庫になるはずだ。

 こう考えると、なるほどと、

 天竜川河川敷で石の標本をつくろう (  写真 )

というK先生の着眼、慧眼に感心した。

 Image5592  事実、川原には、砂岩、緑色片岩、黒色片岩だけでなく、石の中に石が混じっているれき岩、天竜石とも言われる美しい模様が特徴の流紋岩、さまざまな花崗岩が容易に採取された。

  なかには、シェール石油を含んでいる粘土質の黒っぽい頁岩(けつがん、黒いようかんのような質感)、赤などさまざまな色と手触りのよいチャートもあった。そのほか、ブログ子にはとても石の名も判断できないような奇妙な石もいろいろあって、専門の先生を一瞬困らせる場面もあったようだ。

   高校時代に習った地学には、楽しい思い出はあまりなかったが、この体験学習でずいぶん地学が身近になった。親子版「サイエンスアドベンチャー」としても、十分通用するだろう。

注記 中央構造線について

 静岡県については、西から東へ、渥美半島の突端、伊良湖岬から北東に進み、豊川、豊橋を通り、水窪(みさくぼ)、青崩峠を進み、糸魚川-静岡構造線( 本州中央部を南北にわける、いわゆるフォッサ・マグナ)に行きあたる。

 このうち構造線が走る長野県大鹿村には、この地質境界が露頭しているところがあり、そこでは、はっきりと地質の違いを体感することができる。

 西へは、紀伊半島のど真ん中、紀ノ川あたりを横断し、四国の吉野川に沿って西に進む。さらに九州にまで届いているなど、第一級の地質境界線となっている

|

« 千載一遇、5分間くっきりの浜松 静岡県839年ぶりの金環食 | トップページ | ファーブルはなぜ進化論に否定的だったか »

学問・資格」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/533942/54773720

この記事へのトラックバック一覧です: 「天竜川の石」は中央構造線からの手紙:

« 千載一遇、5分間くっきりの浜松 静岡県839年ぶりの金環食 | トップページ | ファーブルはなぜ進化論に否定的だったか »