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ウソっぱち「自伝」のすすめ 

(2012.05.14)  大型連休明けとあって週刊誌を立ち読みしても、これというものはない。そんな中、「週刊新潮」(2012年5月17日号)に7、8年連載されているエッセー

 渡辺淳一 あとの祭り いかにして自伝を書くか

というのが比較的に面白かった。前号で、定年後のヒマな時間を利用して自分史を書いたらどうだろうかと呼びかけたら、意外にも反響が多かったらしい。

 自分のことを客観的になかなか書けない。家族に読まれたらどうしよう。恥ずかしい。主観的でいいのか。そんな点について問い合わせがあったらしい。

 恥ずかしいのなら書かなければいいのにと思うのだが、渡辺氏は、懇切に

 気の向くままに/ 昔の彼女のことも/ 主観的で結構 むしろそのほうが面白い

とけしかけていた。要するに、どうせ誰に見せるわけでもないのだから、好きなように書きなさい、とすすめているのだ。言外に、そんなことよりも、まず書き出すことだ、といいたいらしいことがわかる。実は、これが一番難しい。これさえできれば、内容なんていくらでも、後からどうにでもなる。そう、渡辺氏は言いたいのだろう。ブログ子も、そのとおりだと思う。

 自伝にしろ、日記にしろ、まず、書き出さなければ、ウソも、へちまも、本音もないのだ。だから、内容は二の次三の次なのだ。 

 筒井版『悪魔の辞典 完全補注』(アンブローズ・ビアス著、筒井康隆訳、講談社)には、

 「日記」の項に、

 「日常生活の中から、自分でも赤面しないで読むことができることだけを記録したもの」

とある。よほどの練達の作家でもない限り、たとえば、「断腸亭日乗」という面白い日記を書いた永井荷風のような作家でもない限り、そうなのだ。しかし、愚にもつかないきれい事ばかりでは、さすがに自分でもいやになって4日後には書くこと自体をやめてしまう。ましてや、自伝ともなれば、本当のことを知っているだけに、自分ながら、自分を欺く自伝を書くのがばかばかしくなる。

 すすめている当の渡辺淳一氏自身、エッセーの最後に、自伝を書いているかと問われて、

 「すべて、小説として書いています」

とオチをつけている。小説として昇華して書いているという意味なのだろう。有体に言えば、(ウソっぱちの)小説でなければ、真実は語れないというわけだろう。

 それならば、他人に見られても恥ずかしくないように、堂々と

 ウソっぱち自伝

と銘打って、ウソではない真実の自伝を書けばいい、というのがブログ子の主張なのだ。

  どういうことかというと、ウソと断ると、人間、なかなかウソは書けないものなのだ。もっともらしいウソを書くには、それなりの才能も要る。とすれば、ウソと称して肩の力を抜き、事実そのものを書いたり、細部は事実そのものとは少し違うが、大筋は真実であるものにならざるを得ない。

 つまり、ドキュメント小説のようなものになる。ウソと断った途端、不思議なもので、本当の気持ちが書けるようになる。かといって、とりとめもなく、事実を客観的にだらだら書くのもばかばかしくなってくる。主観をまじえて書くほうが、自分らしい自伝になることにも気づく。そうなると、当然、本人も面白くなるから、だんだん事実を取捨選択したメリハリのある長編にすらなる。家族にみられても安心、他人に知られても安全ということが、真実を書かせる推進力になり、なんだか小説を書いているような気分になる。

 世の中には、世間に対していい格好をするための自分と世間をあざむく自伝があふれているが、ここまでくれば、もうひまつぶしの自伝というよりも、ウソと銘打った「真実の自伝小説」に近くなる。さらに、それをテーマを明確にして煮詰め、昇華すれば、これはもう立派な渡辺氏の言う(一人称で書かれた)小説だろう。

 誰でも一生に一冊は小説が書けるといわれるが、これこそ、ウソっぱち自伝をすすめる所以である。

 ちなみに、ブログ子は自伝を書いているかと問われれば、その答えは、

 「すべて、このブログとして書いています」

としておこう。

  追記

 ただし、自分が何歳のとき、どんな出来事が起きたか、ということを知るのに便利な

 書き込み式の『自分史年表 愛蔵版』(出窓社)

は持っている。5年ほど前に買ったのだが、1920年から2013まで記入できる。だれにでも伝えておきたい人生があるとのキャッチフレーズにひかれて買ったのに、書き込むまでには至っていないことを正直に書いておこう。

 補遺 2013.07.27

  渡辺氏は、上記のように、自伝はかかず、すべて小説として書いているというのだが、

 自叙伝を書いている。「週刊現代」に2013年の5月あたりから、連載を始めていることをみつけた。

 タイトルは「いくつになっても」。

 能書きには、

 事実は小説よりも波乱万丈。

 愛し、愛されてこその人生。気負いもなく、衒(てら)いもなく、赤裸々に綴られる比類なき「自叙伝」

とある。

  第10回(2013年7月27日号)は、中学時代の話で、

 性の覚醒  オナニーを覚える

というのだから、なかなか赤裸々。

 要するに、「私の履歴書」など、世の中のどんな自叙伝も、しょせん、ワシャえらかったというたぐいのウソッパチ。このことに対するアンチテーゼとして、書かれたものであろう(その証拠に、渡辺淳一を取り上げた日経新聞文化欄「私の履歴書」(2013年1月)はその赤裸々さにおいて、おそらく前代未聞。いかに従来の自叙伝がインチキくさいかがおのずと暴露されている)。

 この私の履歴書についての感想については、

 http://agora-web.jp/archives/1516282.html 

が参考になるだろう。

 渡辺氏の「私の履歴書」にしろ、週刊現代の「いくつになっても」にしろ、自叙伝を書くなら、これくらいの覚悟がいるということを辛らつさを込めて示したかったのだろう。

 この意味では、小説を書くよりも、もっとすごい。渡辺淳一はエロ作家などではないことはこれでもわかる。小説家として「比類なき」覚悟がある。

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