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憲法の起草者たちは何と闘って来たか 

(2012.05.04) 自主憲法制定をかかげる自民党が先月、ようやく念願の憲法改正草案をまとめたこともあり、憲法記念日をはさんだこの一週間、改正問題がいろいろなところで論じられた。

 NHKは3日夜の「時論公論」で解説委員が

 東日本大震災と憲法

について論じていた。大規模な災害時の緊急対応では、首相権限を強化して、トップダウンで被災者救済にあたることの必要性を訴えていた。現行の災害対策基本法でも、国会閉会中ならば、そうした非常事態に対応できるよう、必要なら首相に権限が集中できる仕組みになっている。しかし、国会開会中だった今回の大震災ではこれができなかったという点を突いていた。現憲法では、非常事態に対する条文はない(明治憲法には明文規定があった)。国益を損なわないよう明文規定は必要ではないか。

 民放でも、BS-フジ「プライムニュース」が、この一週間、5夜連続で自民党改憲案をはじめその日のテーマにふさわしい識者、国会議員、憲法学者、当事者、局解説委員を動員して二時間討論を行っていた。成立過程そのものの問題点、9条問題と集団的自衛権のあり方、国会のあり方=二院制のあり方と首相公選制など幅広く、しかも白熱して論じていた。

 いずれの場合も討論の最後に、討論者一人一人に結論や提案を一言でまとめさせているのがいい。単なるおしゃべりだけではすまさせないという局の意気込みが感じられた。

 変わったところでは、BS-歴史館で

 明治憲法の成立過程

について、識者が紹介していた( 追記 )。

 テレビ番組ばかりでは、申し訳がないので、書棚に野ざらしになっていた

 『明治憲法史論・序説 明治憲法への模索と決着』(小林昭三、成文堂、1982年)

  『憲法制定と欧米人の評論』(金子堅太郎、日本青年館、1938年)

  『史録 日本国憲法』(小島襄、文藝春秋、1972年)

を読んでみた。明治憲法と現行憲法をまとめて通覧、同じ視点で考えてみたいという思いからだ。

 Image540 さらに、改憲の現代的な意義、状況を知るために最近の衆議院憲法調査会の5年間にわたる審査をまとめた最終報告書も読んでみた。その詳報は2005年4月16日付朝刊各紙に出ている( 写真 )。

 また、過去の内閣の調査結果についても調べてみた。CD-ROM版だが

 1964(昭和39)年内閣憲法調査会編

 憲法調査会報告書

である。現行憲法の制定の経過、憲法運用についての実際の調査、さらには海外調査などについてまとめられている。 さきの国会報告書と比較して読むとなかなか面白い。

 これらを読んだり、テレビ放送を見て、思ったのは、

 明治憲法にしろ、現行憲法にしろ、当時の起草者たちが何を思い、何を恐れ、何と闘いながら起草にあたったのか

ということだった。結論を言えば、当然といえば、当然なのだが、

 起草者たちの既得の権利をいかに存続させ、拡大するのかということを優先させ、憲法草案づくりを通じて心をくだいたのではなかったか

ということだった。

 もっとはっきり言えば、明治憲法の起草者たちは、当時喫緊の課題だった日本の近代化を早急に推進するため強力な内閣をつくろうとして、〝邪魔になる〟議会をいかに抑えるかその方策に腐心し、闘った。これについては、

 「内閣の組織は議院の左右する所に任せざるべし」(伊藤博文「憲法意見」)

という断固とした決意を伊藤は貫いたことでもわかる。外遊中にこの原則をうたったプロイセン憲法を知って意を強くしたであろうことがよくわかる。

 この決意は明治憲法5条「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」との明文規定にもあらわれている。「統治権ヲ総攬」( 4条 )する天皇は立法権を手放してはいない(それどころか主体である)。言い換えれば議会は国権の最高機関ではないことを明記したともいえよう。

  明治憲法の起草者がいかに議会に足かせを設けるかに腐心していたかは、全体76条のうち22条が議会についての条文であり、内閣のわずか2条に比べ、極端に不均衡であることからも推察できる(現行憲法に比べても極端に不均衡)。

 そして、現行憲法は官僚(と占領軍GHQ)と闘っていたのだ。そのためには、輔弼(ほひつ)と称して、天皇も利用したといえば、言いすぎであろうか。

 明治憲法も現行憲法づくりも、もとより主権国家はどうあるべきか、という高邁な理想に燃えて統治機構を設計したとはとても思えなかった。それを純真に行ったのは、五日市憲法など、伊藤が一顧だにしなかったいわれている民間のいわゆる「私撰憲法」づくりだったのだろう。

 明治以前からずっと続いてきた太政官制から明治18年、藩閥内閣制へ。初代総理は伊藤博文。明治憲法がスタートしてからも、議会を無視した藩閥内閣は続く。そして、やがて議会で多数を獲得した政党が内閣を組織する政党内閣が登場する。大正7年に発足した原敬内閣である。この辺までのやや詳しい事情は「 補遺 」に。

 そして戦後。天皇主権から国民主権に大転換した。日本国憲法で

 国権の最高機関は国会

となる。政党内閣制は、戦後は内閣が議会に対して責任を持つ議院内閣制となり、憲法上、議院内閣制が確立する。国会がもっとも重んじられる時代になった。

 しかし、それでも、実態としては、行政の権能は議会のそれよりも強大であり続けた。内閣の下にある行政機構は戦後も政治主導であるはずの議会を一貫して官主導で運営させてきた。

 よらしむべし、知らしむべからず

という考え方にもあらわれているように、事実上、情報を独占することで主権者の国民に対しても、政治家に対しても、官僚機構が優位に立っていた。天皇主権から国民主権に変わっても、この状況は一貫して変わらなかった。天皇の地位は戦後変わったが、官僚の地位は依然として戦前のままだった。

 ここ10年、官主導から、国権の最高機関としてその役割を果たすべく政治主導への転換が叫ばれている。議会と一線を画すプロイセン型内閣制という伊藤博文が敷いた明治以来のいわば行政主導の政治から、民主導、政治主導の立法府への動きを、さらに徹底する動きであろう。

 国会と官僚制の関係をどうするか。この問題については現行憲法では明文規定はない。

 最近では、参院改革との関連で衆参の役割分担が言われだしている。政治主導には、先の衆院憲法調査会の報告書にも意見があったとの記述があるように、官僚をチェックする機能のひとつとして

 参院は決算審議を担当する、あるいは参院に行政監視機能や人事を含めた行政監察機能の権能を持たせる

ことで、民主導、政治主導の実質を確保するという改憲案がありそうだ。これまでのように総務省が行政監察をしてみても、官が官を監視するようなことではその効果はほとんど期待できない。事実、官僚の事なかれ主義から、できなかった。お手盛りの出来レースになるのはあまりにわかりきったことなのだ。

 最後に、以上のような行政 対 国会の闘いのほかにも

 たとえば、明治憲法には明示の規定があるのに、現行憲法にはそれがないものが、争点になっていることにも気づいた。

  明治憲法では、「天皇ハ国ノ元首」( 4条 )となっているのに、現行憲法では「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴」( 1条 )とだけあり、国家元首の規定がない。主権国家であるのに、対外的に国家を代表する元首規定がないのは(自主的に憲法を決めたにしては)おかしいというわけだ。

 明治憲法には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」( 11条 )と戦力を持った軍隊規定があるのに現行では「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」( 9条第2項 )とわざわざ戦力不保持を明記している。

 9条第1項で戦争放棄をうたっていることと合わせて、主権国家が自主的に規定したにしてはなんとも不思議だ。いつまでも自衛隊は戦力ではないから軍隊ではないとの意味不明な詭弁でいいのかということになる。主権国家の憲法に軍隊規定がないのはいかにも変則だ。国連憲章でも個別の自衛権はもちろん、集団的自衛権はどの主権国家にもみとめられているのだから、主権国家として遠慮せず自衛隊を憲法にはっきり明記し、位置づけるべきではないか。これはなにも自衛隊の士気を高めるためではない。主権国家のあるべき当然の姿なのだ。

 以上をまとめると、過去の懺悔もほどほどにしないとかえって侮られ、戦争を仕掛けられる危険さえあるといったらいいすぎか。言い過ぎではないと思う。軍隊さえ持たない国家、あるいは集団的自衛権を保持していてもこれを行使しないと明言しさえすれば日本は戦争には巻き込まれないという信仰は、あまりに幼い観念論ではないか。

  ただ、改憲は必要だとは思うが、首相の強いリーダーシップが心もとないなど今の政治状況をみると、こんな大仕事がやれる状況ではない。ここが悲しいといえば悲しい。

 しかし、その悲しい現実を生み出している最大の原因は、私たち有権者の怠慢、無関心にある。このことを銘記した大型連休であったように思う。 

 

 補遺

 明治憲法の代表起草者は、太政官参議だった伊藤博文である。明治14年当時すでに元老院がまとめた国憲草案はあった。しかし、それはヨーロッパ各国の憲法の切り張りにすぎず、日本の国情を斟酌していない、その運用の実態もつまびらかではないと伊藤は批判していた。そこで、10年後の明治23年に国会開設を政府が国民に約束したことを受けて、憲法起草にあたって実情調査のため伊藤はドイツなどを外遊する。

 この外遊で、伊藤はドイツ法学者、L.シュタインから行政学、憲法学の講義を受けた。行政制度がしっかりしていないと国は安定しないことを学んだのである。すでに外遊中、フランスの民衆の力の強さを現地で実感していた伊藤は、当時の私擬憲法草案で評価されていた共和制(国民主権+大統領直接選挙制)の導入をあっさりと捨てた。

 おりしも、ドイツ滞在中、伊藤は強力な指導力を発揮していたビスマルク首相が意外にも主権を持つ国民から議員で構成する議会の対策に四苦八苦している様子も目の当たりにした。ドイツ(プロイセン)憲法を手本とするのはいい。しかし、三権分立といっても、議会より、行政優位の統治機構にすることが絶対に必要だとはっきり認識したのである。土佐の板垣退助などから提出されていた民選議院設立建白書の扱いには神経質になったのだ。

 そこで、伊藤は帰朝後、足場を固めるために、まず行政庁を束ねる内閣を組織し、初代の内閣総理大臣に自ら就任する。いよいよ憲法起草にとりかかる明治18年である。三権分立にするとしても、

 国権の最高機関は行政

であることを具体的に示したのである。

 こうして明治憲法下では、勅撰議員による貴族院の構成など、立法権の議会や司法権の裁判所( 注記 )は、行政庁の風下に立たされた。三権分立は名ばかりになった。この反省から、現行憲法では、蔭の起草者GHQや日本側の起草者によって

 立法権を担う議会は国権の最高機関

と位置づけたのである。具体的には、内閣が行政権を行使するに当たっては国会に責任を持つという責任内閣制にした。その議会でも、参議院が衆議院の風下におかれたのも、戦前の貴族院の反動であろう。

   追記

 その中で、宮城県仙台藩の下級武士出身の千葉卓三郎氏が起草した

 五日市憲法草案=日本帝国憲法草案

の発見と紹介が面白かった。基本的人権の尊重や法の下の平等、三権分立、地方自治の保障など今日的な視点から見ても現行憲法とさほど遜色のない民主主義的な立場からの草案であり、200条をこえる〝大作〟だ。憲法創作ブームが庶民から巻き起こった明治12年から明治14年には全国で太平洋側を中心に50以上の草案が公表された。五日市草案はそのなかでも秀逸、かなり独創的なものだったらしいことを知った。

 注記 気骨の判決

  三権分立とはいうものの、あるいは司法権の独立が法理としてはあったものの、戦前の裁判所の司法権が判検一体という実態上、行政権のもとにおかれていたことは否めない。名ばかりの分立であり、司法権の独立だったのだ。

 これに戦時中、激しく抵抗し、司法権の独立を貫き、翼賛選挙無効の大審院判決を粛々と、そして、その良心に従って出した裁判官としては

 吉田久大審院裁判長

が知られている。これについては

 『気骨の判決 東條英樹と闘った裁判官』(清永聡、新潮新書、2009)

に詳しい。

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