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2012年5月

消費増税は国の税収増につながるか

(2012.05.30) 税と社会保障の一体改革で消費税率を現行の5%から、2年後に10%に引き上げる消費増税法案の衆院採決をめぐる動きが、会期末を目前にして山場を迎えている。

 増税に反対している小沢一郎元民主党代表がNHKの夜のニュース番組に出演、やらないと誓って政権を任されたのに増税をするのだから、その前にやるべきことがあるとして、反対の態度を明確にしていた。マニフェストでやると誓った年金改革など社会保障制度改革はいまだ法案すら国会に提出していない、大幅な補助金カットを含めた特殊法人改革や天下り制限など公約した公務員制度改革もまだほとんど進んでいない。

 これでは公党として嘘をついたことになる。国民の生活が第一を政策の中心に据えている小沢さんらしい。法案が成立すれば、国民は13兆円の負担増なのである。それらをまず、やってからだ。そういいたいのだろう。

 もっともである。だれも異論をさしはさめないような正論だ。だからこそ、党内復権を狙いNHKの夜の番組に出演したのだろう。

 嘘と言えば、マスメディアも随分と嘘をついている。

 たとえば。消費増税をすれば、国の一般会計の税収は増えるというのは嘘ではないか。ブログ子は、随分前からそう主張していた。

 ところが、なんと、というか、今ごろになって、「週刊ポスト」6月8日号の

 ニュースのことばは嘘をつく

という連載で、東京新聞・中日新聞論説副主幹が、これは歴史的にみて、嘘であることを、具体的にこの20年間の税収推移データ(財務省)のグラフを論より証拠とばかりに示して暴露している。

 1989年の竹下政権時代に消費税3%が導入された。1997年の橋本政権時代には現行の5%に引き上げられた。

 この間、税収は約60兆円からおしなべて右肩下がりで減少。最近では約40兆円で低下し、低迷している。消費税率をアップすれば、消費税の税収は、消費傾向がそれほど変化しないので当然、税率に比例して増加する。しかし、それに伴って、同様な基幹税である所得税や法人税の税収は減少する。消費税が景気を下押しするからだ。結果的に、税収は増えるどころか、減少し続けてきたのが現実なのだ。

 とすれば、野田総理が政治生命をかけて法案を成立させたとしても、税収はかえって減少するだろう。社会保障財政はますます苦しくなる。だから引き上げるとしても、景気が上向きになってからでないと税収増は望めない。 

 それでは、どうすればいいのか。当然だが、税収をアップするには、まず、経済成長を促す政策の実行が第一。政府は、2年前の菅政権時代に、名目で1%程度、実質で2%程度の成長戦略を大急ぎでまとめた。これをきちんと公約どおり実行するのが先なのだ。

 以上まとめて、わかりやすく言えば、消費税アップというブレーキと、成長戦略というアクセルを同時に踏んではならないということだ。

 当たり前のことを粛々と順序立てて実行することが、実は遅いようで早い。そんなことを考えさせる解散など政局がらみの昨今ではある。

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柳田邦男さんの嘆きと怒り

(2012.05.30)  久しぶりに、示唆に富む論考に出合った。5月28日付毎日新聞に、ノンフィクション作家の柳田邦男さんが連載「深呼吸」で

 「人間の災厄」捉えない貧困

と題して、どうして東日本大震災の全体像を政府として総合調査をしないのか、と嘆き、その組織づくりを強い調子で訴えている。まさに正鵠を射るとはこのことだ。

 論旨はざっとこんな風である。

 かつては災害の全体像を国として記録し、教訓を後世に伝えようとする文化があったと指摘。その上で

 「だが、日本という国に戦後最大の危機をもたらした3・11東日本大震災と原発事故について、国家として災害の全体像を把握し、被害者の苦悩をとらえる総合調査の取り組みの体制が計画されないのは、なぜなのか」

と怒りをあらわにする。今こそ、その組織と文化づくりをはじめるべきだと主張している。

 柳田さんは、戦後間もない頃でも、台風被害など大きな災厄について調査されてきたことを具体的に指摘している。

 柳田さんは触れていないが、ブログ子の手元にも、戦前の未曾有の災厄、関東大震災については、

 内務省社会局編 『大正震災志』 全4巻 ( 写真 )

という公式記録がある。

 この震災では、今回の大震災の約5倍、10万人以上の犠牲者を出したが、Image576 社会的、経済的な被害の調査報告(内編)であるばかりでなく、政府機関と地方自治体とが救護などをどのように連携、対応したのか、府県別に記録している(外編)。被害状況を記録した写真帳はもちろん、地図上に被害状況を県ごとにわかりやすく色刷りで図示している付図編もある。警察、消防の出動配置図、軍隊の、たとえば軍艦ごとの出動状況も一覧にしてあるなど、危機管理の公式記録でもあることがわかる。

 このような詳細がきちんとまとめられているのに、驚くべきことに、震災(大正12年9月 = 1923年)からわずか2年半後の大正15年2月には公刊されている。一応の復興までに7年ほどかかった大震災なのに、そのすばやさは見事である(昭和5年= 1930年、復興祭の開催)。柳田さんのいう教訓を後世に残すのが政府の責務であるとの文化が根付いていたからであろう。

 今からでも遅くはない。原発事故はもちろん、津波など被災状況の正確な記録が散逸しないよう、被災者の記憶が薄れないよう、政府はきちんとした態勢を早急に整えるべきである。

   補遺   近刊『大正大震災 忘却された断層』

  1923年の大地震は、関東大震災という言い方が一般的である。たとえば、吉村昭のノンフィクション『関東大震災』(文春文庫、1977年)などである。震源地を地震の名称にするというわけだ。

 ところが、最近、そうではなく、明治と区別して、あえて「大正大震災」と呼ぶことで、社会的、文化的に、その地震の意義がみえてくるものがありはしないか。そんな問題意識で書かれた本が最近出版された。

 『大正大震災 忘却された断層』(尾原宏之、白水社)

である。たとえば、大阪遷都の絶好の機会だった可能性。しかし、それがなぜ実現しなかったのか。その時代の背景が見えてこないか。

 大正大震災と呼ぶことで、どんな別の可能性が見えてくるのか。着眼点の見事さに感心した。

  今回の大震災を3.11大震災、あるいは東日本大震災と何気なく言ってはいるが、阪神淡路大震災に次ぐで起きた大震災であり、被害規模では戦後最悪の震災として、さらに、あわや首都圏3000万人が避難しなければならないという「破滅寸前の瀬戸際までいった」(当時の首相、菅直人氏の証言)という意味で、

 平成原発大震災

と呼んでみてはどうか。気象庁の命名はいざ知らず、今回の震災の核心は、大津波の東日本ではなく、原発事故だ。福島第一原発事故をきっかけにして、次々と付近の原発が人間による制御が不能におちいり、その結果、首都圏が破滅の危機に瀕した。こう考えれば、この命名で、文化的、社会的な時代背景が見えてくる。

 つまり、戦争の昭和時代が終わり、日本は平和な時代を謳歌するようになった。これに対し、たとえ日本が戦争を放棄したとしても、科学・技術の過信は、日本の破滅をも引き起こすという神様からの警告の災厄だったといえまいか。(2012.06.17)

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テレビを消すという節電 新聞社の欺瞞

(2012.05.27) 前回のブログで哲学者をコケにした感想を述べたので、今回はブログ子のかかわるマスメディアの欺瞞について指摘してみたい。

 テレビや新聞は今夏の電力不足について、あれこれご託宣を並べているが、もっとも不足が懸念される真夏の日中、ごくごく簡単で、しかも効果的な策は、

 テレビを消す

ことだ。これは政府も電力会社も認めている。なぜテレビ局も新聞社も知らんぷりをしているのだろう。欺瞞である。

 先の政府の検証委員会の結論は、電力不足のもっとも懸念される関西電力で、真夏のもっとも暑い日中でせいぜい15%不足。そのため、政府は、隣接するわが管内の中部電力はじめ、中国電力、北陸電力に、いざという時に融通できるよう5%程度の節電を求めている。

 一方、「できることからお願いします」とうたった中部電力の広報パンフによると、全世帯平均で、

 夏の日中(午後2時ごろ)の消費電力の5%はテレビ

なのだ( 写真 )。パンフでは、資源エネルギー庁推計であり、この数値は最大需要発生時を想定したもの、とわざわざ断っている。

 Image570 パンフでは「ご家庭の電気消費の約半分がエアコン」といかにも、電力不足のエアコン犯人説を匂わせているが、テレビにも節電効果があることは認めている。

 ところが、一部の非新聞社系を除いてマスコミではこのことに知らんぷり。

 たとえば。

 2012年3月14日付朝日新聞「記者有論」で経済部の小森敦司記者は

 省エネの夏、(消費者も産業界も節電の)覚悟を決めよう

と呼びかけている。読んでみると、「ゆがんだ電力の供給構造を見直そうともせず、経済成長できたとしても、そんな日本を誇れるだろうか」といっぱし、憂いてみせたものの、一番簡単なテレビを消そうなどと一言も言及していない。

 あまつさえ、2012年5月11日付朝日新聞社説は、

 電力供給検証 全国で節電していこう

と主張している。ここでも、空調や照明やら、コンピューターうんぬんと節電事例を挙げているが、もっとも簡単なテレビについては、知らんぷりを決め込んでいる。なんという偽善なのだろう。

 わしは節電しないが、お前たちは節電しろ

と言っているのに等しい。偽善というよりも、傲慢すぎよう。

 さらに具体的に言えば、もっとも電力不足が懸念されているのは、朝日新聞社主催の「夏の甲子園」決勝戦前後、8月中旬、下旬だ。エアコンをガンガンつけての日中のテレビ観戦をやめて、テレビを消そうと呼びかければ、今夏の電力不足は一挙に解消する。これほど簡単な対策は、まあないだろう。甲子園を管内とする関西電力としては、大助かりなのだ。

 それを知りながら、知らんぷり。大手新聞社の偽善、というよりもこれほど欺まんに満ちた社説も珍しい。

 この社説は「信頼回復のためにも、(電力会社は)全社をあげて(節電に)取り組むべきだ」と結んでいる。天下の朝日新聞社も全力をあげて節電に欺瞞抜きで取り組むべきだ。

  呼びかけることで視聴率は落ちるかもしれないが、原発事故で地に落ちた新聞社の信頼は、大きく回復するだろう。 

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ファーブルはなぜ進化論に否定的だったか

(2012.05.27)  ファーブルの昆虫記は、冒頭、

 「ざっとこんな具合に話が進んでいった。」

で始まる(  写真 =  『完訳 ファーブル昆虫記』(奥本大三郎、集英社) )。そして、ただちに、くそ虫、スカラベの行動のおどろくべき観察の様子が語られるのである。なんとしても多くの読者に知らせたい、わかってもらいたいという気概が伝わってくる簡潔な出だしだ。ずばり核心を突く書き方と言ってもいい。全10巻のこの大著、原題は「昆虫学的回想録」。この不朽の名作となったこの著作で、著者、ファーブルは、何を読者わかってもらいたかったのだろう-。

 このことを、ブログ子はずいぶん以前から気にしていた。

 折りしも、BS-プレミアムで、先日、三夜連続で

 「ファーブル昆虫記」

を再放送していたので、深夜にもかかわらず、見た。

 Image575 ハイビジョンの美しい映像と、虫好きの仏文学者、奥本大三郎さんと昆虫写真家、海野和男さんの二人の案内がうまく調和していて、楽しい番組に仕上がっていた。ファーブルが100年前の南フランスで観察したこと、実験したことを、南フランスと似た環境、気候の長野県小諸市の海野別荘兼研究室にある現代のハイテク機器で再現したり、ファーブルがしようとしてできなかったことをやってみせていた。虫好きの執念と恐ろしさに感嘆した。これには天国のファーブルも手をたたいて、喜んだであろう。

 それらを通じて、ファーブルの著述意図は、どうやら

 本能とは何か。その驚くべき精妙さを知ってほしい、わかってほしい

ということだったことが、理解できた。

 回想録の大部分がハチの記述に費やされているのも、そのせいなのだろう。というのも、本能の働きは、生き物の中では昆虫、特にハチやアリで高度に発達しているからだ。昆虫の生活誌や行動をつぶさに観察したり、実験したりすれば、本能とは何かが具体的にわかる、というわけだ。

 たとえば、テレビでも再現されていたが、ジガバチの例。上記の本によると、このハチは、イモムシやシャクトリムシなどのガの幼虫を麻痺させたまま、つまり生きたまま、地中に蓄え、それに卵を産みつける狩りバチの仲間。産みつけるその穴も事前に自分で掘る。穴は獲物を〝収納〟したあと、その入り口を、それこそ後足で砂をかけて、きちんと閉じる。その外敵対策の周到さにはびっくりする。

 一方、地中の幼虫は、その生かした獲物を殺してしまわないよう、順序を〝考え〟ながら、少しずつ食べて、ついに獲物がなくなるころ、成虫になる( 奥本完訳の第1巻下 )。

 ハチはまた、生まれながらの〝麻酔の名人〟だという。

 アラメジガバチの例。それはまさに「もっとも高名な解剖学者もうらやむような巧妙さ」だと、ファーブルは感嘆している。毒針を用いて獲物の筋肉に刺激を送る大もとの神経中枢を刺す。この瞬間の再現実験( 海野和男氏)がテレビで紹介されていたが、確かにその正確無比は現代の腕のいい解剖学者でも、とうていマネはできないだろう。ファーブルが

 「獲物についての正確な解剖学的知識が、ハチの針を導いているのである」

と記しているのも、うなづける( 第2巻上)。

 獲物をこのように殺さずにその運動能力だけを奪う。その鮮やかな狩りを司るものはものは何か。神業とも言うべきその見事な麻酔技術が、ダーウィンの言うように、少しずつ進歩(進化のこと)していくことなどあり得ないと言うのである。

 ここから、ファーブルは、ハチは生まれながらにして麻酔の名人であり、

 その「本能は、獲得されるものではなく、もともと具わっていたもの」

と結論付けている。

 ファーブルは、具体的には、まずアラメジガバチの観察と実験とが合わないことから進化論を疑うようになった

ということだろう。その後、いろいろ疑問が出てきたのだ。 

 その一方で、ファーブルは、このおどろくべき本能も、いったんスイッチが入ると、その後状況が変化しても、その変化に対応して、とるべき方策を類推し、その結果をもとに行動するという、人間ならだれでも備えている柔軟性はないとも指摘している。

 さらに、第2巻下では、ヌリハナバチに関する観察をもとに、

 「昆虫の心理についての短い覚え書」

という興味ある一章を設けて、昆虫には、人間のような類推能力はないと結論づけている。理性はないといいたいのだろう。

 これらの観察事実は、当時、ヨーロッパの科学界をにぎわしていたダーウィンの進化論に深刻な〝つまづき〟を与えたらしい。 ファーブルは、これでもかと言わんばかりに

 「進化論への一刺し」

との皮肉たっぷりの一章も設け、狩りバチの獲物と適応力について、論じている。

 進化論の説明のためにダーウィンが導入した「適応力」がもし本当にあるとするならば、なぜ動物は食物を限定するのか。ダーウィンの言う激しい生存競争に勝つためには何でも食べたほうが有利なのに、狩りバチは獲物をきちんと選んでいて、決まっている。なぜ昆虫にはそんな雑食性はないのか。

 進化論では、昆虫の食物選択を説明することはできない

と、手厳しく、批判している。これには、生前、ダーウィン自身も、心中穏やかではなく、ファーブルの精密、綿密極まる観察と実験は頭痛の種だっろうことは容易に想像できる。

 捕食、生殖や育児にかかわる昆虫の本能に関するファーブルの40年近い観察の結果、本能の精妙さや堅実性を根本的にゆるがす(ダーウィン進化論的な)事実はなかったとして、全10巻完成(1910年)後に書かれた、つまり決定版とも言うべきハードカバー判の「序」には

 「特に、知性を持ち出して昆虫の行う多くの行為を説明出来ると信じた進化論は、その主張を少しも証明したとは見えない。本能の領域は我々のあらゆる学説が見逃している法則によって支配されているのだ」(『完訳ファーブル昆虫記』山田吉彦・林達夫訳、岩波文庫、1993年)

と結論付けている。ここから、ファーブルは

 「いくら昆虫の形態を分類学的に吟味しても昆虫の習性はわかるものではない」

との理解に到達している(山田/林完訳第7巻)。むしろ、進化論の論理とは逆に、本能が形態を支配するとさえ説いているのだ。本能が昆虫の形を決め、本能が道具を使わせているというのだ。

 いわば、ダーウィン進化論では種の変化の方向は漸進的な自然選択説であるのに対し、ファーブル進化論は本能決定説であり、種は変化するとしても、漸進的ではない

ということになる。

  それでは、ファーブルの言う「本能の領域は我々のあらゆる学説が見逃している法則によって支配されている」ときのその法則とは何か。

 この点については、ファーブルは、それ以上言及していないようだが、思うに、

 当時のフランス哲学者、H.ベルクソンの主著の一つ『創造的進化』(1907年)

ではなかったか。「生の哲学」あるいはキーワード「生命の跳躍(あるいは飛躍)」という考え方である。

 ダーウィンのような進化の漸進主義ではなく、あるとき突然創造されたとでも言うべき、生命の飛躍的なある種の変化が、生き物の本能の起源である。

 そうファーブルは考えていたとしても、不思議ではない。

 これを身近な事例でたとえると。

 天竜川の上流でかけて小石ができたとする。そのでこぼこの石が数百キロという気の遠くなるような距離を長い長い時間をかけてコロコロと転がるうちに、ついに河口付近では美しい滑らかな小石になる。これがダーウィン流の考え方。小さな変化が、途方もない時間をかけて、最初には想像もできないほどの驚くべき変化につながる。人間も昆虫もその結果だというわけ。

 これに対し、ファーブルの考え方。

 そうは言っても、その美しく、滑らかな小石は小石である。もともととそう変わらない。いくら時間をかけても、腕時計のような精密機械にまで変化することは到底無理だ。本能という働きは、その精密腕時計ほどの見事なものなのだ。ダーウィンの考え方は本能にもとづく行動を等閑視しすぎている

というわけだ。

 この考え方をさらに現代流に〝発展〟させたのが、神の御手による創造説の変種、ID説。インテリジェント・デザインという意味だ。神の御手を現代的に言い換えて、人間を、あるいは精妙な行動をする昆虫を生み出したのは、知的な設計者によるものだという考え方である。知的設計者とは「神」の言い換えであろう。先のたとえで言えば、石を腕時計にまで跳躍させたのが、知的設計者なのだ。ダーウィンの言うような、自然の川の流れではないというわけだ。

 実証主義者のファーブルは、ここまでは主張しないであろうが、ダーウィン進化論よりはベルクソンの考え方、「生の跳躍」には、驚嘆すべき本能の働きを知っただけに共感を持ったであろうことは想像できる。

 同時代に生きたダーウィンとファーブルの研究成果やその解釈の違いはどこから来るのだろうか。

 これまた、たとえで言うと。

 南フランスをフィールドとして昆虫を観察したファーブルは、「地球は平坦」と考えた。

 これに対し、

 ビーグル号で世界を回ってさまざまな生物にであったダーウィンは、「地球は丸い」と考えた

 この違いであろう。

 少し解説すると、ダーウィンは世界周航でも地質学的な時間スケールで過去を記述したライエルの『地質学原理』を携えるなど、時間軸を研究に取り込み、生物の外側から「種は(時間的に)変化する」「種は(環境的にも)変化する」ことを示そうとした。

 これに対し、ファーブルは、時間軸ではなく、昆虫の生活誌や行動を、その内部に入り込んで本能とは何かを研究の軸とした。その態度は、観察するだけでなく、そこから仮説を立てて昆虫の行動を実験で確かめるという実証主義的なもので、ダーウィンを上回る徹底したものだった。

 生命の設計図DNA時代を迎えた現在では、ダーウィンの進化論は、生物の形態変化の謎を除けば、1980年代に進化中立説にとってかわられている。種は変化するというダーウィンの慧眼は正しいが、その原因はダーウィンの考えた自然選択によるものではないことがわかっている。環境に適した適者生存ではなく、運のいいものが生き残る、ただそれだけなのだ。

 また、ファーブルの本能とは何かという点については、今も謎のままであり、解明が待たれている。その意味で、100年前の研究態度は甲乙つけがたいし、すぐれたものだったというべきだろう。 

 もう一つ、この貴重な番組をみて、考えさせられたことがある。それはファーブルの生き方である。

 ファーブルが昆虫記という回想録を後半生をかけて書こうと決心したのは、教師を辞めさせられたことで、定収入がなくなったことがきっかけだったことだ。家族をかかえ、貧困に苦しんだが、

 「よし、働こう」

と、果然、二足のわらじから、昆虫観察や著述業に専念したのだ( 注記3 )。ライフワークに没頭するかたわら、科学普及書を書き出した。そのわずかな印税で、40年近くの後半生の生計を立てた。

 ファーブルの生涯を一言で言えば、逆境に強い一生だった

ようだ。

 このことが、徹底した観察に基づく洞察力とともに、この大著を世界的な感動の名著にしたように思う。

 忘れてならないのが、生計は苦しかっただろうが、その暮らしぶりはそれまでとはくらべものにならないほど、ファーブルにとっては

 至福の歳月

だったと思う。そのことは大著の回想録からも伝わってくる( 注記2 )が、50代からの後半生を過ごした南フランスの田舎村、セリニアンの自宅、つまり

 自由に昆虫観察ができる自然いっぱいの広い前庭と、研究室を兼ねた自宅

からもよくわかる。狭いベッドの脇で、いきいきと観察に没頭した様子がテレビ番組でここを訪れた奥本さんの案内でよくわかる。

 「アルマス(荒地)」とファーブル自身が名づけたこの場所は、昆虫記10巻を完成させたところでもあり、現在、博物館になっている(ファーブルは47歳のとき教師を辞めさせられたが、54歳の時、昆虫記第1巻を刊行。インクであろうか、表面が真っ黒に汚れている執筆に使った小さな机も展示されている 「注記」 )。

 ブログ子が、ファーブルの生き方に感動するのは、五木寛之氏の言う

 人生、下山の時代こそ、実りの時

との主張に対し、ここにその具体的な事例があると気づいたからだ。さらに言えば、経済的に余裕のある下山の時代よりも、かえって貧窮の下山である場合、より大きく花開くものである。富裕な一生を送ったならば、ファーブルは果たしてあの不朽の名著をものにしただろうか。環境さえ整えれば、良い研究ができるとは限らない。そんな思いがした。

 お金に困らない富裕な一生を送り、国葬並みの葬儀が行われたC.ダーウィン。種は変化すると喝破するなど、確かに偉かった。しかし、同時代に生きたH.ファーブルは、その生き方においてそれ以上に偉大であったと信じさせる番組であった。

  「人生に生きる価値はない」と書いた、あるいは主張する哲学者が日本にはいる。言葉のお遊びに明け暮れる哲学者のひねくれ人生は、あるいはそうかもしれない。しかし、ファーブルの92年の人生には、生きる価値が十分にあったと確信して言える。

 最後の第三夜は徹夜に近い視聴だったが、そんなことを知っただけでも、うれしかったことを正直に告白しておこう。

 注記 

 物理と数学の教師となったファーブルが昆虫に本格的に興味を持ったのは、番組によると、南フランス本土から地中海の孤島、コルシカ島に中学物理教師として赴任したことがきっかけらしい。太陽輝くこの島の海辺の生き物に

 「圧倒的に屈服した」

とファーブルは大著でその興奮を回想しているらしい。4年間のこの島での生活により、(無味乾燥な) 数学の sin、cos の世界から生き物、とくに昆虫の世界にのめりこむことになる。ファーブル25歳前後のことだというから、昆虫記刊行の30年も前のことである。番組では触れられていないが、このころすでに、ファーブルは、発表されたばかりのダーウィン進化論について、自分独自の見解(おそらく、懐疑的な)を持っていたらしい。 

  注記2

  スカラベの行動観察から始まった昆虫記だが、第1巻出版から18年後に出版された第5巻には、ついに、それまでどうしても突き止められなかった

 スカラベの食料付きゆりかごとも言うべき「育児球」づくりの一部始終の発見

が報告されている。その秘密の全貌が克明に図入りで説明されているのを見ると、ファーブルの100年前の感動が今も伝わってくる(奥本完訳第5巻上)。ファーブル70代に入ってからの発見である。そして、全巻完成に向かって、あと12年の歳月が流れたのである。

 この輝ける、そして、あくなき不屈の闘いこそ、ファーブルにとっての至福のときであり、不朽の名作につながった理由であろう。

  注記3  回想録を書こうと決意した動機は何か

  それは、ダーウィンの進化論『種の起源』(1859年)の続編ともいうべきベストセラー『人間の由来』(1871年)を失業直後の48歳のころに読んで、これは誤りだと確信したからだろう。以来、それまでの観察結果を整理し、コツコツと原稿に書き溜めて、54歳の時に回想録第1巻として出版にこぎつけた。第1巻の終わりに、ジガバチの事例を進化論に懐疑的な証拠として紹介されているのも、これだとうなづける。全10巻の最初から疑問をいだいていた証左だろう。

 上梓して確信を得たファーブルは、第2巻では、別の事例、つまりアラメジガバチの麻酔名人ぶりを紹介。さらに「進化論の一刺し」や「心理についての覚え書」を執筆することで、ますます、ダーウィン進化論は到底受け入れ難い誤りであると主張するようになった。

 そう考えると、回想録の執筆動機は、48歳ごろに読んだダーウィンの『人間の由来』(1871年)であり、その根本的な誤りをただしたい、世に問いたいためだったといえそうだ。

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「天竜川の石」は中央構造線からの手紙

(2012.05.22)  雪の結晶の研究で世界的に知られる科学者、中谷宇吉郎さんの有名な言葉に、

 雪は天からの手紙である

というのがある。地上に降ってくる雪の結晶には、驚くほどさまざまな形があるが、そのひとつひとつは、温度や湿度など上空の大気の状態の違いを反映したものであるという意味であろう。いかにも名随筆集『冬の華』の著者らしい的確で、美しい言い方である。

 この伝で言えば、

 天竜川のさまざまな石は、大断層である中央構造線からの手紙である

と言えるだろう。

  Image551_2 浜松科学館では、子どもたちを対象にした人気の「サイエンスアドベンチャー」活動を継続して行っている。先日、その一環として、天竜川の河原にころがっている石の標本をつくろうと、その河口に40人近い小学生とともにボランティアとして出かけた (  写真 )。

 広い河川敷には、いろとりどり、それも大小さまざまな石がそれこそ折り重なるようにごろごろとあったのには、驚いた。

 ブログ子は、生まれ故郷の九頭竜川やサラリーマン時代を過ごした金沢に近い手取川、大阪の淀川などを少し知っているが、そうそういろいろな石がころがっていたとは記憶していない。いずれも天竜川と同じ一級河川なのに、天竜川河口にこれほどいろいろな石が雑多にあるのを不思議に感じた。

 この違いは何なのだろう。

 指導、引率していただいたK先生によると、

 ほぼ北上する天竜川が、水窪、佐久間町(いずれも浜松市天竜区)あたりで北東に走る大断層・中央構造線と交差する

からだと教えていただいた。だから、いくら大河でも、構造線のかなり東側を流れていて交差しないお隣の大井川や、構造線のかなり西側を流れる矢作川の河川敷では、石の種類は多くはないのだそうだ(構造線に交差したり、沿ったりしながら流れる西隣りの豊川は、おそらく河川敷に天竜川同様、多様な石があると予想される)。

 中央構造線は、いわば地質的な境界であり、その境界は破砕帯となっており、川の浸食で地表では谷になっている(  注記 )。だから、ころころ石が流れてくる。

 調べてみると、中央構造線の東側には黒色片岩、緑色片岩が南北に配列している。天竜川と交差する佐久間ダム周辺では、花崗岩、ホルンフェルス、砂岩もある。これらが砕けて、みんな河口にころころとやってくるのだから、天竜川のあの広い河口付近は石の宝庫になるはずだ。

 こう考えると、なるほどと、

 天竜川河川敷で石の標本をつくろう (  写真 )

というK先生の着眼、慧眼に感心した。

 Image5592  事実、川原には、砂岩、緑色片岩、黒色片岩だけでなく、石の中に石が混じっているれき岩、天竜石とも言われる美しい模様が特徴の流紋岩、さまざまな花崗岩が容易に採取された。

  なかには、シェール石油を含んでいる粘土質の黒っぽい頁岩(けつがん、黒いようかんのような質感)、赤などさまざまな色と手触りのよいチャートもあった。そのほか、ブログ子にはとても石の名も判断できないような奇妙な石もいろいろあって、専門の先生を一瞬困らせる場面もあったようだ。

   高校時代に習った地学には、楽しい思い出はあまりなかったが、この体験学習でずいぶん地学が身近になった。親子版「サイエンスアドベンチャー」としても、十分通用するだろう。

注記 中央構造線について

 静岡県については、西から東へ、渥美半島の突端、伊良湖岬から北東に進み、豊川、豊橋を通り、水窪(みさくぼ)、青崩峠を進み、糸魚川-静岡構造線( 本州中央部を南北にわける、いわゆるフォッサ・マグナ)に行きあたる。

 このうち構造線が走る長野県大鹿村には、この地質境界が露頭しているところがあり、そこでは、はっきりと地質の違いを体感することができる。

 西へは、紀伊半島のど真ん中、紀ノ川あたりを横断し、四国の吉野川に沿って西に進む。さらに九州にまで届いているなど、第一級の地質境界線となっている

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千載一遇、5分間くっきりの浜松 静岡県839年ぶりの金環食

(2012.05.21)  この瞬間ほど、天気予報が外れてくれてよかったと思ったことはなかった。早朝の日食、浜松ではリング状の金環食が、くっきり5分間も見ることができた。全国でも屈指の長く楽しめた現象だろう。中区佐鳴台のわが家のベランダから見たのだが、ブログ子の暮らす静岡県内にとっては839年ぶりの金環日食らしい。とすれば、平安時代の末期に活躍した平清盛の晩年以来の珍しい現象ということになる。

 それも、もし金環食が30分早く始まれば、雲に妨げられてまったく見えなかったはずだ。そして、また30分遅く始まっても、これまた雲に邪魔されてダメだった。雲を通して、わずかにぼんやりとしか眺められなかっただろう。まさに

 幸運の1時間

だったと思う。

 太陽の右上(南東)から左下に欠け始め、ついにリングとなった。その後5分の間、いつもは、屋根などにとまってじっとしているカラスたちが盛んに鳴きながら、飛び回っていたのが強く印象に残った。それほどいつもより暗くなったとは思えなかったのに、リング食中、いかにも異変を体で感じているかのようだった。

   子どもたちに特に読んでほしいとして、この金環日食を取り上げた中日新聞社説(5月18日付)は、「千年に一度の朝だから」の主見出しの下、冒頭、

 「想像してごらん。今から九百三十二年も前の平安時代、天空に突如現れた金のリングを見た人たちの驚きを。」

と書いている。皆既日食から想像して、こう書いたのだろう。しかし、おそらく、驚くどころか、まだまだまぶしすぎて欠けていることすらまったく気づかなかったであろう。社説を書くえらい論説委員ですら間違うほど、地域を特定した場合、珍しい現象であることの証拠かもしれない。

  次回の金環日食は、今回同様3大都市を含む広い地域で楽しめるのは300年後の2312年だという。そんな広い地域ではなく東海地方で見ることができるという条件でも29年後の2041年後らしい。ブログ子の人生では、今回が最初で、そして東海地方を飛び出さない限り、最後の金環食となりそうだ。その意味で、今回の日食は

 単なる幸運というよりも、もっとありがたい「僥倖の1時間」

と思いたい。

 最後に、ただ、ひとつ気になったのは、この天体ショウ、学問的にどんな意味があるのかという点がほとんど紹介されなかったことだ( 注記 )。もはや現代では学問的な意味などがないということだろうか。単なるショウ、単なるビジネスチャンスでは科学と社会に興味を持つブログ子としては、いかにもさびしい。

 今起きているらしい太陽異変への関心を呼び起こす機会と結び付けられなかったか。異変が事実とすれば、先日のこのブログでも紹介したように、地球は温暖化ではなく、寒冷化に向かっている可能性だってあるのではないか。

 科学者の視野の広さを試す試金石、それが今回の金環日食であったと思う。

  注記

 わずかに言及している事例としては、たとえば、朝日新聞の2012年1月9日付「科学」欄では

 黄金の指輪 見逃すな

とカラーを多用して詳しく紹介している。この中で、わずかに、金環日食の観測で、活動の活発さにより膨らんだり縮んだりしているその時々の太陽の正確な大きさがわかるかもしれないと言及している。

 金環食帯と部分日食帯の境界線が実際にどこを通ったかを正確に調べることで、太陽の直径が逆算できる。3大都市圏では京都市北部が境界線に近い。限界線のほぼ真上にあたる明石市立天文科学館など、地元の科学館や小学校(たとえば、長野県上田市立小学校)が中心となって観測し、この境界が正確にわかれば、太陽の大きさが500キロメートル以下の精度で決まるという( 補遺 )。

   わかりやすい言い方をすれば、タッチの差で金環日食にならず、惜しくも部分日食に終わった瞬間を見た地域こそ、残念どころか、現代の天文学的にとっては貴重ということになる。その瞬間の日時を記録してあれば、なおいいだろう。

 逆にショウとしてはともかく、浜松のように5分間も金環食が続いた地域は学問的には(ほとんど)無意味となる。

 さらに言えば、そもそもガス球である太陽には、地球のように固い地面というはっきりした境があるわけではないはずだ。その場合、太陽の半径とは何を指すのだろう。そんな疑問を発するのも、科学する心を養うには大事なことではないか。

   世間の価値と学問的な価値とは、必ずしも一致しない。多様なものの見方、考え方がわかるなど「科学と社会」のあり方について、国民が深く考えるよい機会なのだ。とすれば、学問上の意義について、もっと天文学者は積極的に紹介してほしかった。今後に期待したい。

  補遺 5月21日夜のBSプレミアム番組「コズミックフロント」から

 たとえば、京都大学宇宙物理学教室の黒川宏企同大名誉教授の限界線決定プロジェクトが紹介されていた。目指す限界線は、限界線に垂直の京都・鴨川に人を配しての目視観測では判定には、どうしてもある一定の幅を持たさざるを得ないことがわかった。限界線の決定にも限界がある。当たり前だが、太陽の大きさを決めるには、元となる月の直径が正確に決定されていることが前提。でこぼこの月面の半径とは何か。これが、数キロの範囲で不確実。たとえば、1キロの誤差があると、月よりも400倍も遠い太陽では、400キロの誤差になる。こんなことも限界線が正確に決められない要因だろう。

 そんなこんなで、金環食には、画期的な事実の発見はともかくとして、学問的にはまだやるべき仕事はあるにはある。

  補遺2  太陽半径の正確な測定

 太陽の正確な半径が、限界線からではなく、ベイリービーズからわかった。測定した国立天文台(相馬研究室)によると、これまでの69万6000キロに対して、金環時は

 69万6010キロ± 20キロ

と精度を一桁上げた。金環食直後の5月24日のBS番組「コズミックフロント」の中で、相馬氏自身が明らかにしていた。

  ベイリービーズとは、リングになる金環食が始まった直後の太陽と月の接触面付近でのすだれ状の現象。これは月のでこぼこによってできる。

 

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規制庁、独立性と即応性備えた司令塔に 

(2012.05.16) どういう性格の、またどういう権限をもった原子力規制庁を設置するのがよいのかが焦点となっているが、政府は有識者でつくる委員会組織の独立性を高める法案修正に応じる方針を固めたようだ。

 安全神話づくりなど電力業界の意向を受けた原子力行政に対する国民の不信感は、福島原発で極度に高まっている。何よりもまずこの点での信頼回復には、電力業界から独立して人事や規制ができる組織であることは当然である。その意味で、今回の政府の方針転換は正しい。つまり、国家行政組織法3条に基づく、たとえば公正取引委員会のような、いわゆる「3条委員会」にする。

 同時に、せっかく独立性を確保しても、緊急を要する非常時に専門的な知識を生かして的確に即応できる組織でなければ、実効性は乏しい。国民の不信感を払拭するという喫緊の課題の解決にはつながらない。

 福島原発事故で、菅総理が携帯電話でこまごまと事故現場に指示を出している空恐ろしい事態を今後はなんとしても回避できる組織が必要だ。この原点を忘れてはなるまい。

 とはいっても、組織法8条に基づく「8条委員会」のような審議会ではこまる。ああでもないこうでもないの学者審議会では、有事の原発管制の司令塔の役割はこれまた果たせない。語弊を恐れず言えば、原発事故の対応では巧緻より拙速を尊ぶぐらいの即応性が大事だ。

 ここは、米原子力規制委員会(NRC)の緊急対応センターの組織のような、リアルタイムで24時間年中無休で規制が可能な組織にするよう、知恵を絞る時だ。一定の条件が必要だろうが、緊急時には自衛隊にも指示ができる即応体制にしてほしい。

 再稼働をするための見せ掛けの、おざなり規制庁づくり

では、再稼働はますます困難になるだろう。政府は腹をくくるときである。同時に、野党もここは国民の支持を引き付ける建設的な提案や法案修正の審議をしてほしい。

 駆け引きにばかり時間を費やしていると、

 日本の原発管制では、いっそのことNRCにオンラインで接続し、アメリカに面倒みてもらったらどうだ

との叱責が国民から飛んでこないとも限らない。

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ウソっぱち「自伝」のすすめ 

(2012.05.14)  大型連休明けとあって週刊誌を立ち読みしても、これというものはない。そんな中、「週刊新潮」(2012年5月17日号)に7、8年連載されているエッセー

 渡辺淳一 あとの祭り いかにして自伝を書くか

というのが比較的に面白かった。前号で、定年後のヒマな時間を利用して自分史を書いたらどうだろうかと呼びかけたら、意外にも反響が多かったらしい。

 自分のことを客観的になかなか書けない。家族に読まれたらどうしよう。恥ずかしい。主観的でいいのか。そんな点について問い合わせがあったらしい。

 恥ずかしいのなら書かなければいいのにと思うのだが、渡辺氏は、懇切に

 気の向くままに/ 昔の彼女のことも/ 主観的で結構 むしろそのほうが面白い

とけしかけていた。要するに、どうせ誰に見せるわけでもないのだから、好きなように書きなさい、とすすめているのだ。言外に、そんなことよりも、まず書き出すことだ、といいたいらしいことがわかる。実は、これが一番難しい。これさえできれば、内容なんていくらでも、後からどうにでもなる。そう、渡辺氏は言いたいのだろう。ブログ子も、そのとおりだと思う。

 自伝にしろ、日記にしろ、まず、書き出さなければ、ウソも、へちまも、本音もないのだ。だから、内容は二の次三の次なのだ。 

 筒井版『悪魔の辞典 完全補注』(アンブローズ・ビアス著、筒井康隆訳、講談社)には、

 「日記」の項に、

 「日常生活の中から、自分でも赤面しないで読むことができることだけを記録したもの」

とある。よほどの練達の作家でもない限り、たとえば、「断腸亭日乗」という面白い日記を書いた永井荷風のような作家でもない限り、そうなのだ。しかし、愚にもつかないきれい事ばかりでは、さすがに自分でもいやになって4日後には書くこと自体をやめてしまう。ましてや、自伝ともなれば、本当のことを知っているだけに、自分ながら、自分を欺く自伝を書くのがばかばかしくなる。

 すすめている当の渡辺淳一氏自身、エッセーの最後に、自伝を書いているかと問われて、

 「すべて、小説として書いています」

とオチをつけている。小説として昇華して書いているという意味なのだろう。有体に言えば、(ウソっぱちの)小説でなければ、真実は語れないというわけだろう。

 それならば、他人に見られても恥ずかしくないように、堂々と

 ウソっぱち自伝

と銘打って、ウソではない真実の自伝を書けばいい、というのがブログ子の主張なのだ。

  どういうことかというと、ウソと断ると、人間、なかなかウソは書けないものなのだ。もっともらしいウソを書くには、それなりの才能も要る。とすれば、ウソと称して肩の力を抜き、事実そのものを書いたり、細部は事実そのものとは少し違うが、大筋は真実であるものにならざるを得ない。

 つまり、ドキュメント小説のようなものになる。ウソと断った途端、不思議なもので、本当の気持ちが書けるようになる。かといって、とりとめもなく、事実を客観的にだらだら書くのもばかばかしくなってくる。主観をまじえて書くほうが、自分らしい自伝になることにも気づく。そうなると、当然、本人も面白くなるから、だんだん事実を取捨選択したメリハリのある長編にすらなる。家族にみられても安心、他人に知られても安全ということが、真実を書かせる推進力になり、なんだか小説を書いているような気分になる。

 世の中には、世間に対していい格好をするための自分と世間をあざむく自伝があふれているが、ここまでくれば、もうひまつぶしの自伝というよりも、ウソと銘打った「真実の自伝小説」に近くなる。さらに、それをテーマを明確にして煮詰め、昇華すれば、これはもう立派な渡辺氏の言う(一人称で書かれた)小説だろう。

 誰でも一生に一冊は小説が書けるといわれるが、これこそ、ウソっぱち自伝をすすめる所以である。

 ちなみに、ブログ子は自伝を書いているかと問われれば、その答えは、

 「すべて、このブログとして書いています」

としておこう。

  追記

 ただし、自分が何歳のとき、どんな出来事が起きたか、ということを知るのに便利な

 書き込み式の『自分史年表 愛蔵版』(出窓社)

は持っている。5年ほど前に買ったのだが、1920年から2013まで記入できる。だれにでも伝えておきたい人生があるとのキャッチフレーズにひかれて買ったのに、書き込むまでには至っていないことを正直に書いておこう。

 補遺 2013.07.27

  渡辺氏は、上記のように、自伝はかかず、すべて小説として書いているというのだが、

 自叙伝を書いている。「週刊現代」に2013年の5月あたりから、連載を始めていることをみつけた。

 タイトルは「いくつになっても」。

 能書きには、

 事実は小説よりも波乱万丈。

 愛し、愛されてこその人生。気負いもなく、衒(てら)いもなく、赤裸々に綴られる比類なき「自叙伝」

とある。

  第10回(2013年7月27日号)は、中学時代の話で、

 性の覚醒  オナニーを覚える

というのだから、なかなか赤裸々。

 要するに、「私の履歴書」など、世の中のどんな自叙伝も、しょせん、ワシャえらかったというたぐいのウソッパチ。このことに対するアンチテーゼとして、書かれたものであろう(その証拠に、渡辺淳一を取り上げた日経新聞文化欄「私の履歴書」(2013年1月)はその赤裸々さにおいて、おそらく前代未聞。いかに従来の自叙伝がインチキくさいかがおのずと暴露されている)。

 この私の履歴書についての感想については、

 http://agora-web.jp/archives/1516282.html 

が参考になるだろう。

 渡辺氏の「私の履歴書」にしろ、週刊現代の「いくつになっても」にしろ、自叙伝を書くなら、これくらいの覚悟がいるということを辛らつさを込めて示したかったのだろう。

 この意味では、小説を書くよりも、もっとすごい。渡辺淳一はエロ作家などではないことはこれでもわかる。小説家として「比類なき」覚悟がある。

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太陽に異変、地球は寒冷化 ?

(2012.05.11)  全原発が停止し夏場の電力不足が懸念されている中、意外な番組から意外な事実を教えてもらった。先日のBS-フジの夜の徹底討論番組プライム・ニュースで、なんと、

 太陽活動の異常で、地球に寒冷化の危機迫る ?

というテーマを取り上げ、専門家が議論していた。5月21日には、東京、静岡県など太平洋側では金環日食が見られるというので太陽に関心が集まりつつあることを受けた格好の話題というわけだ。

 硬派の同番組が、天文学のテーマで討論するのは異例だ。しかも、結論は、

 黒点数の最近の減少など太陽活動がこの10年ぐらい低下し始め、そのせいで、地球は1950年代から続いていた高温期を終え、低温期に移行し始めたのではないか

というのだ。人間が排出する二酸化炭素が原因で地球がこの50年、とりわけ1990年代から歴史的な温暖化が始まり、このままでは100年後の地球は熱死すると一般に信じられているのに、この結論は、いかにも意外だ。

 出演したのは、常田佐久氏(国立天文台教授、太陽観測衛星「ひので」科学プロジェクト室長)と、長沼毅(たけし、広島大大学院准教授)。長沼氏は新著『私たちは進化できるのか』(廣済堂新書、2012年)で、地球の寒冷化を警告している。温暖化では地球文明はなんとか生き延びることも可能だが、極端な寒冷化では人間を含めて生物はとうてい生きながらえることはできないからだ。

 Image545 常田氏らは成果を先月下旬に報道発表もしている(写真=2012年4月20日付朝日新聞朝刊)。

  あるいは、

 http://hinode.nao.ac.jp/news/120419PressRelease/

 常田氏によると、この10年くらいの太陽活動の異常は

 第一。黒点数が、従来のデータから予測される数より、かなり少ない

 第二。黒点数の増減サイクルの周期が、今のは従来言われている約11年より約1年も長くなっている

 第三。黒点数の変化サイクルに合わせて、その極大期に太陽の南極、北極の磁極が同時に反転するのに、南極のみが単独で予想より1年も早く、この5月に反転した(その結果、現在、南極、北極ともに正極という異常事態が出現している)

の3点。

 この異常がどのように地球の寒冷化に結びつくのか-。

 黒点数が少ないなど太陽活動が低下すると、それに伴い太陽の磁場も弱まる。すると太陽系内に侵入する系外宇宙線が太陽磁場に邪魔されにくくなるので、地球大気により多く入ってくる。宇宙線により大気のイオン化が促進される。すると、大気中に雲をつくるときに必要となる微粒子ができやすくなる。雲が多くなると、太陽光がさえぎられて、寒冷化する。

 これが、太陽活動が低下すると、地球が低温化する理屈らしい。風が吹けば桶屋が儲かるの理屈かもしれないが、一応、もっともで、それなりにメカニズムの正しさが実験で確かめられているらしい( 注記1 )。

 移行期が始まったという主張は、この10年、つまり、2000年に入り、温暖化傾向が鈍っているらしいという話とも符合する。

 この話は歴史的にみても、あり得る話なのだという。

 長く続いた高温期(太陽黒点数の極大期=地球高温期)から何かのきっかけで低温期への移行が始まり、つまり寒冷化が始まり、さらに黒点数の少ない極小期=地球の寒冷期になったとされる時期がこの400年間に二度あるという。

 1600年の極大期から移行し始めたマウンダー極小期(1650-1700年)

  1750年の極大期から移行始めたダルトン極小期(1800-1820年)

である。だから、現在は1950年ごろに極大期に入り、その後50年続いた高温期が、先の3つの異常を根拠に、2000年ごろから何かのきっかけで極小期に移行し始めたのではないか、との見方が出ているらしい。

 常田氏によると、この10年くらいの1サイクル活動だけの異常な観測結果から寒冷化予測を即断するには、事はあまりに重大であるという。確実なことを言うには、あと10年ぐらいの追跡観測が必要らしい。2010年代の2サイクル目も上記3点の異常が確認されれば、過去の歴史的な事実に照らして、

 地球は今、この5、60年続いてきた高温期を離れ、低温期に向けて、移行し始めた

とかなり高い確率で言えそうだという。

 これに関連して、長沼氏は

 「温暖化の二酸化炭素主犯説は、的外れかもしれない」

とコメントしていた。太陽主犯説かもしれないというわけだ。温暖化説は、科学的に詰めた結果というより、大なり小なり、論者の政治的な意図が感じられるというわけだろう。同氏は寒冷化に向かい始めたとすれば、これは温暖化よりも深刻で人類は滅亡する恐れも高いとの見方も示していた(長沼毅著『私たちは進化できるか』)

 いずれにしても、大変に面白い討論であった。

 ところで-。

  地球温暖化の国際会議、地球サミット(1992年6月、ブラジル・リオ)が開催されて、来月で20年になる。1990年代は、いわゆる〝ホッケースティク〟といわれるほどに温暖化が進んだといわれている。

 Image547_3 そのせいで、『ナショナル・ジオグラフィク』誌2004年9月号も、大特集「地球の温暖化 大地や海や生き物からの警告」を大々的に紹介した(写真)。ブログ子は、地球の温暖化が起きているのは事実であるとしても、その原因が人間活動で排出された二酸化炭素であるとの結論には同意しない。

 人間活動説には、ご都合主義、つまり科学的な根拠に基づいた定量的な理詰めになっていないなど疑問が多いからだ。一言で言えば、排除法で残った原因として二酸化炭素がやり玉に上がった感が強い。

 同意しないもうひとつの理由としては、1970-1980年代には

 科学者たちは、地球に氷河期がやってくる

と盛んに言っていたからだ。たとえば、一例にすぎないが、気象庁予報官だった

 根本順吉著『冷えていく地球』(写真=角川文庫、1981年。当初の単行本は1974年刊)

などがある( 注記2 )。

 20年ごとに氷河期説、温暖化説、そして、今また寒冷化説とサイクルが繰り返されてきた。その原因も天体としての地球自身に原因、人間の活動に原因、太陽自身が原因とさまざまに変化した。

 地球の温暖化がにわかには信じられないのと同様、今回の寒冷化もまたすぐには信用できないというのが、正直なブログ子の感想だ。

 地球表面の熱循環システムには、深層海流が深くかかわっていることがわかるなど、現在の気候学は地球温暖化の有無や原因を突き止めることができる程度にまで発達していないとの認識も、ブログ子が温暖化説に同意しない理由である。

 ただ、番組でも言及されていたが、

 地球の温暖化に、この寒冷化が重なれば、温暖化がうまい具合に〝相殺〟され、人間には都合がいいという単純な見方は、おそらく正しくはあるまい。

 温暖化や寒冷化が事実であるとしても、それが重なる場合、温暖化だけの場合に比べて、あるいは寒冷化だけの場合に比べて、はるかに予測が困難な異常気象が頻発するような気がする。単純な線形問題ではなくなり、より複雑な非線形問題という原理的に予測ができない事態が出現する。

 ただ、ひょっとすると、そんな時代の始まりかもしれないと思わせるような専門家の話だった。天文学は娑婆とは無縁なのんびりした気の長い学問という先入観は捨てるべきかも知れない。今後10年間、太陽活動の変化に注目したい。

 その取っ掛かりが、今月下旬の金環日食のような気がする。番組をみて、そんな気がした。

  注記1

  こうした太陽の磁場流束の変化と地球表面付近の年平均気温の変化との間には、データのあるこの120年間(1880年-2000年)については、強い正の相関がある。2005年6月26日付日経新聞朝刊「科学欄」には、

 地球号は今 温暖化、太陽が強く影響か

という見出しで、その見事な相関が図示されている。横浜国立大環境情報研究院の伊藤公紀教授の研究である。だから、風が吹けばうんぬんという言い方は必ずしも正しくないことになる。

 こうなると、温暖化の問題では、地球だけでなく、地球-太陽システムの気候学というよりマクロな視点から考えなければならないことになる。しかも、雲ができるかどうかということもあり、従来よりミクロな視点も同時に大事になってくる。つまり温暖化問題の解明は、極めて複雑になることが示唆される。一筋縄では温暖化問題は解決しないと言えそうだ( 注記3 )。

  注記2

 1970年代前半に書かれた根本氏のこの本には、気候変動の見通しの章で、

 「これから20年間、地球の低温化の影響が現れるということは、多くの人(世界の気象学者を指す)の一致した意見」と結論付けている。世界から収集したデータをもとに、さらに踏み込んで「現在の寒冷は氷河時代への入り口か」とも書いている。

 こうした状況を反映したせいか、イギリスで発行された『大氷河期の襲来』(1979年、著者は天体物理学者)が日本でも翻訳された(邦訳は1981年)。198Ⅹ年、突然北半球を襲った異常気象は地球が氷河期に突入する前触れだったというストーリーの近未来小説。

  注記3 BS-プレミアム コズミック・フロント「迫りくる太陽の異変」(2012年5月21日深夜)

  宇宙線の地球大気への侵入が地球の寒冷化を引き起こすことを新たな観点から突き止めたのは、宮原ひろ子博士(東大・宇宙線研究所)。樹齢1000年の倒木屋久杉の年輪ごとの同位体測定である。宇宙線の大気への進入でできる年輪ごとの炭素14同位体の割合の変化から、太陽活動の11年周期が伸びると、その後数十年、寒冷化が続くことを発見した。

  過去1000年で周期が伸びた事例は3回あるが、いずれも、年輪の成長速度から寒冷化がみられたことを突き止めたという。

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What do you tell me  団塊のGSと原発と

(2012.05.06)  浜松まつりの練りでにぎわう大型連休中、のんびり週刊誌を見ていたら、「週刊ポスト」2012年5月18日号の巻頭カラーグラビアは、

 全原発50基が止まったニッポン

として、それぞれの原発の様子を17枚の写真で見せていた。Image544 5月5日深夜に北海道電力泊原発が定期点検のため停止したのを受けたものだ。それにしては、なんとものんびりした風景が撮影されていたものだ。海辺で団らんの家族、原発をまん前にして突堤で一人で魚釣り、荒波の中で昆布取りの漁業者たち。一枚一枚の写真にはなにげない日常が映っているだけだ。しかし、全部を一度に見ると、これが日本の供給電力の約3割を生み出してきた原発の姿かと、あ然とする。連休中第一の奇観だろう。

 一部ではストップ原発再稼働のデモも行われてはいたものの、

 何の変哲もない日常の異様な光景

がそこにあった。原発のこれまでの40年の歴史では一度もなかった光景なのだ。さりとて、日本のどこにも停電という事態は発生していない。夏場の電力不足が心配といえば心配だが、節電でなんとか乗り切れないわけでもなさそうだ。

 今後、原発は問題が起きるたびにその対策費用がかさんでくる。その一方で、利用が増えてくれば再生可能エネルギーは少しずつ安くなる。莫大な廃炉費用も考えれば、2020年代には、むしろ原発の発電コストは再生エネルギーより高くなるとの試算もある。さらに、2030年代になれば、原発はかなり高コストなエネルギーであることもわかるだろう。

 とすれば、この機会に、

 本気で脱原発に向けて準備をしていく

ことが賢明ではないか。原発推進派だったブログ子ですら、そう思う( 追記 )。

 そんな思いで、深夜、のんびりテレビを見ていたら、NHK-BSで

 解散から40年、団塊のGS「ザ・タイガース」の武道館コンサート

の様子を流していた。なつかしいの一言に尽きるのだが、ブログ子と同い年のジュリー、こと沢田研二が歌い、兄・岸部修三(サリー、岸部一徳)がエレキギターを弾き、そして瞳みのる(ピー)がドラムをたたいていた。病の床から這い上がってきたような弟・岸部シローが渾身の力を込めて歌ったのには正直、感動した。

 あのシローが

という感動だ。会場は、案の定だが、50代の女性が圧倒的に多かったのは妙に納得し、妙におかしかった。

 君だけに愛を

 What do you tell me

の曲に若き日の思い出をよみがえらせはしたが、武道館コンサートには原発の「げ」の字もなかった。けれど、この平和がいつまでも続くことを祈らずには折られなかった。けっして、ノー天気とは思うまい。

追記 2012.05.08

 では、当面、この電力不足、あるいは電力会社、とりわけ原発依存の強い関西電力の窮状にどう対応するか。このままでは、一般家庭の電気代にも跳ね返ってくる問題であり、大企業のことであり、知ったことではないでは済まされない。関電では、燃料費がかさみ、このままでは数年後には債務超過におちいり、破たんすることは目に見えている。

   当面は、夏場の自販機(冷蔵庫)の自粛、エレベーターの運転休止、ギンギラギンのパチンコ店の夜の電飾の自粛、家庭の基本料の見直し(アンペアメーターの見直し)、家庭のエアコンの使用自粛、それでもダメというのであれば、計画停電やいわゆるシエスタ節電など節電に心掛けることが求められるだろう。

 去年の東京都の夏の実績で、これらを行えば、15%程度の節電は可能だ。

 こうした当面の対策のほか、根本的には

  電力会社の危機管理に対する統治能力の向上

が今求められている。再稼働にはストレステストさえクリアすればいいのだという目先の対策に終始しているだけでは、国民が信頼する、住民が納得する原発の安全性は確保できないだろう。具体的には、福島原発事故の原因を突き止め、それに基づいた安全性の確保対応こそ、今、東京電力はもちろん、ほかの各電力会社に求められる。

 それには、日本の電力会社は電力料金体系の透明性を高め、もっと競争する必要がある。かかった費用に利益10%をオンするというような丼勘定はもはや通用しない。

 政府としても、今回のような原発有事については、企業とは別に、津波であろうが地震動であろうが、全電源喪失など有事には、原発を確実に、しかも安全に停止させる仕組みづくりなど、非常事態の対応をしっかりするべきだ。今回の事故を想定した電力会社の運転員の再訓練も必要だ。安全神話を前提にした訓練ではなく、思わぬ事故が起きることを想定した訓練は再稼働の必須時要件だ。今のままでは、とても再稼働して大丈夫であると誰も言えないだろう。

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憲法の起草者たちは何と闘って来たか 

(2012.05.04) 自主憲法制定をかかげる自民党が先月、ようやく念願の憲法改正草案をまとめたこともあり、憲法記念日をはさんだこの一週間、改正問題がいろいろなところで論じられた。

 NHKは3日夜の「時論公論」で解説委員が

 東日本大震災と憲法

について論じていた。大規模な災害時の緊急対応では、首相権限を強化して、トップダウンで被災者救済にあたることの必要性を訴えていた。現行の災害対策基本法でも、国会閉会中ならば、そうした非常事態に対応できるよう、必要なら首相に権限が集中できる仕組みになっている。しかし、国会開会中だった今回の大震災ではこれができなかったという点を突いていた。現憲法では、非常事態に対する条文はない(明治憲法には明文規定があった)。国益を損なわないよう明文規定は必要ではないか。

 民放でも、BS-フジ「プライムニュース」が、この一週間、5夜連続で自民党改憲案をはじめその日のテーマにふさわしい識者、国会議員、憲法学者、当事者、局解説委員を動員して二時間討論を行っていた。成立過程そのものの問題点、9条問題と集団的自衛権のあり方、国会のあり方=二院制のあり方と首相公選制など幅広く、しかも白熱して論じていた。

 いずれの場合も討論の最後に、討論者一人一人に結論や提案を一言でまとめさせているのがいい。単なるおしゃべりだけではすまさせないという局の意気込みが感じられた。

 変わったところでは、BS-歴史館で

 明治憲法の成立過程

について、識者が紹介していた( 追記 )。

 テレビ番組ばかりでは、申し訳がないので、書棚に野ざらしになっていた

 『明治憲法史論・序説 明治憲法への模索と決着』(小林昭三、成文堂、1982年)

  『憲法制定と欧米人の評論』(金子堅太郎、日本青年館、1938年)

  『史録 日本国憲法』(小島襄、文藝春秋、1972年)

を読んでみた。明治憲法と現行憲法をまとめて通覧、同じ視点で考えてみたいという思いからだ。

 Image540 さらに、改憲の現代的な意義、状況を知るために最近の衆議院憲法調査会の5年間にわたる審査をまとめた最終報告書も読んでみた。その詳報は2005年4月16日付朝刊各紙に出ている( 写真 )。

 また、過去の内閣の調査結果についても調べてみた。CD-ROM版だが

 1964(昭和39)年内閣憲法調査会編

 憲法調査会報告書

である。現行憲法の制定の経過、憲法運用についての実際の調査、さらには海外調査などについてまとめられている。 さきの国会報告書と比較して読むとなかなか面白い。

 これらを読んだり、テレビ放送を見て、思ったのは、

 明治憲法にしろ、現行憲法にしろ、当時の起草者たちが何を思い、何を恐れ、何と闘いながら起草にあたったのか

ということだった。結論を言えば、当然といえば、当然なのだが、

 起草者たちの既得の権利をいかに存続させ、拡大するのかということを優先させ、憲法草案づくりを通じて心をくだいたのではなかったか

ということだった。

 もっとはっきり言えば、明治憲法の起草者たちは、当時喫緊の課題だった日本の近代化を早急に推進するため強力な内閣をつくろうとして、〝邪魔になる〟議会をいかに抑えるかその方策に腐心し、闘った。これについては、

 「内閣の組織は議院の左右する所に任せざるべし」(伊藤博文「憲法意見」)

という断固とした決意を伊藤は貫いたことでもわかる。外遊中にこの原則をうたったプロイセン憲法を知って意を強くしたであろうことがよくわかる。

 この決意は明治憲法5条「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」との明文規定にもあらわれている。「統治権ヲ総攬」( 4条 )する天皇は立法権を手放してはいない(それどころか主体である)。言い換えれば議会は国権の最高機関ではないことを明記したともいえよう。

  明治憲法の起草者がいかに議会に足かせを設けるかに腐心していたかは、全体76条のうち22条が議会についての条文であり、内閣のわずか2条に比べ、極端に不均衡であることからも推察できる(現行憲法に比べても極端に不均衡)。

 そして、現行憲法は官僚(と占領軍GHQ)と闘っていたのだ。そのためには、輔弼(ほひつ)と称して、天皇も利用したといえば、言いすぎであろうか。

 明治憲法も現行憲法づくりも、もとより主権国家はどうあるべきか、という高邁な理想に燃えて統治機構を設計したとはとても思えなかった。それを純真に行ったのは、五日市憲法など、伊藤が一顧だにしなかったいわれている民間のいわゆる「私撰憲法」づくりだったのだろう。

 明治以前からずっと続いてきた太政官制から明治18年、藩閥内閣制へ。初代総理は伊藤博文。明治憲法がスタートしてからも、議会を無視した藩閥内閣は続く。そして、やがて議会で多数を獲得した政党が内閣を組織する政党内閣が登場する。大正7年に発足した原敬内閣である。この辺までのやや詳しい事情は「 補遺 」に。

 そして戦後。天皇主権から国民主権に大転換した。日本国憲法で

 国権の最高機関は国会

となる。政党内閣制は、戦後は内閣が議会に対して責任を持つ議院内閣制となり、憲法上、議院内閣制が確立する。国会がもっとも重んじられる時代になった。

 しかし、それでも、実態としては、行政の権能は議会のそれよりも強大であり続けた。内閣の下にある行政機構は戦後も政治主導であるはずの議会を一貫して官主導で運営させてきた。

 よらしむべし、知らしむべからず

という考え方にもあらわれているように、事実上、情報を独占することで主権者の国民に対しても、政治家に対しても、官僚機構が優位に立っていた。天皇主権から国民主権に変わっても、この状況は一貫して変わらなかった。天皇の地位は戦後変わったが、官僚の地位は依然として戦前のままだった。

 ここ10年、官主導から、国権の最高機関としてその役割を果たすべく政治主導への転換が叫ばれている。議会と一線を画すプロイセン型内閣制という伊藤博文が敷いた明治以来のいわば行政主導の政治から、民主導、政治主導の立法府への動きを、さらに徹底する動きであろう。

 国会と官僚制の関係をどうするか。この問題については現行憲法では明文規定はない。

 最近では、参院改革との関連で衆参の役割分担が言われだしている。政治主導には、先の衆院憲法調査会の報告書にも意見があったとの記述があるように、官僚をチェックする機能のひとつとして

 参院は決算審議を担当する、あるいは参院に行政監視機能や人事を含めた行政監察機能の権能を持たせる

ことで、民主導、政治主導の実質を確保するという改憲案がありそうだ。これまでのように総務省が行政監察をしてみても、官が官を監視するようなことではその効果はほとんど期待できない。事実、官僚の事なかれ主義から、できなかった。お手盛りの出来レースになるのはあまりにわかりきったことなのだ。

 最後に、以上のような行政 対 国会の闘いのほかにも

 たとえば、明治憲法には明示の規定があるのに、現行憲法にはそれがないものが、争点になっていることにも気づいた。

  明治憲法では、「天皇ハ国ノ元首」( 4条 )となっているのに、現行憲法では「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴」( 1条 )とだけあり、国家元首の規定がない。主権国家であるのに、対外的に国家を代表する元首規定がないのは(自主的に憲法を決めたにしては)おかしいというわけだ。

 明治憲法には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」( 11条 )と戦力を持った軍隊規定があるのに現行では「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」( 9条第2項 )とわざわざ戦力不保持を明記している。

 9条第1項で戦争放棄をうたっていることと合わせて、主権国家が自主的に規定したにしてはなんとも不思議だ。いつまでも自衛隊は戦力ではないから軍隊ではないとの意味不明な詭弁でいいのかということになる。主権国家の憲法に軍隊規定がないのはいかにも変則だ。国連憲章でも個別の自衛権はもちろん、集団的自衛権はどの主権国家にもみとめられているのだから、主権国家として遠慮せず自衛隊を憲法にはっきり明記し、位置づけるべきではないか。これはなにも自衛隊の士気を高めるためではない。主権国家のあるべき当然の姿なのだ。

 以上をまとめると、過去の懺悔もほどほどにしないとかえって侮られ、戦争を仕掛けられる危険さえあるといったらいいすぎか。言い過ぎではないと思う。軍隊さえ持たない国家、あるいは集団的自衛権を保持していてもこれを行使しないと明言しさえすれば日本は戦争には巻き込まれないという信仰は、あまりに幼い観念論ではないか。

  ただ、改憲は必要だとは思うが、首相の強いリーダーシップが心もとないなど今の政治状況をみると、こんな大仕事がやれる状況ではない。ここが悲しいといえば悲しい。

 しかし、その悲しい現実を生み出している最大の原因は、私たち有権者の怠慢、無関心にある。このことを銘記した大型連休であったように思う。 

 

 補遺

 明治憲法の代表起草者は、太政官参議だった伊藤博文である。明治14年当時すでに元老院がまとめた国憲草案はあった。しかし、それはヨーロッパ各国の憲法の切り張りにすぎず、日本の国情を斟酌していない、その運用の実態もつまびらかではないと伊藤は批判していた。そこで、10年後の明治23年に国会開設を政府が国民に約束したことを受けて、憲法起草にあたって実情調査のため伊藤はドイツなどを外遊する。

 この外遊で、伊藤はドイツ法学者、L.シュタインから行政学、憲法学の講義を受けた。行政制度がしっかりしていないと国は安定しないことを学んだのである。すでに外遊中、フランスの民衆の力の強さを現地で実感していた伊藤は、当時の私擬憲法草案で評価されていた共和制(国民主権+大統領直接選挙制)の導入をあっさりと捨てた。

 おりしも、ドイツ滞在中、伊藤は強力な指導力を発揮していたビスマルク首相が意外にも主権を持つ国民から議員で構成する議会の対策に四苦八苦している様子も目の当たりにした。ドイツ(プロイセン)憲法を手本とするのはいい。しかし、三権分立といっても、議会より、行政優位の統治機構にすることが絶対に必要だとはっきり認識したのである。土佐の板垣退助などから提出されていた民選議院設立建白書の扱いには神経質になったのだ。

 そこで、伊藤は帰朝後、足場を固めるために、まず行政庁を束ねる内閣を組織し、初代の内閣総理大臣に自ら就任する。いよいよ憲法起草にとりかかる明治18年である。三権分立にするとしても、

 国権の最高機関は行政

であることを具体的に示したのである。

 こうして明治憲法下では、勅撰議員による貴族院の構成など、立法権の議会や司法権の裁判所( 注記 )は、行政庁の風下に立たされた。三権分立は名ばかりになった。この反省から、現行憲法では、蔭の起草者GHQや日本側の起草者によって

 立法権を担う議会は国権の最高機関

と位置づけたのである。具体的には、内閣が行政権を行使するに当たっては国会に責任を持つという責任内閣制にした。その議会でも、参議院が衆議院の風下におかれたのも、戦前の貴族院の反動であろう。

   追記

 その中で、宮城県仙台藩の下級武士出身の千葉卓三郎氏が起草した

 五日市憲法草案=日本帝国憲法草案

の発見と紹介が面白かった。基本的人権の尊重や法の下の平等、三権分立、地方自治の保障など今日的な視点から見ても現行憲法とさほど遜色のない民主主義的な立場からの草案であり、200条をこえる〝大作〟だ。憲法創作ブームが庶民から巻き起こった明治12年から明治14年には全国で太平洋側を中心に50以上の草案が公表された。五日市草案はそのなかでも秀逸、かなり独創的なものだったらしいことを知った。

 注記 気骨の判決

  三権分立とはいうものの、あるいは司法権の独立が法理としてはあったものの、戦前の裁判所の司法権が判検一体という実態上、行政権のもとにおかれていたことは否めない。名ばかりの分立であり、司法権の独立だったのだ。

 これに戦時中、激しく抵抗し、司法権の独立を貫き、翼賛選挙無効の大審院判決を粛々と、そして、その良心に従って出した裁判官としては

 吉田久大審院裁判長

が知られている。これについては

 『気骨の判決 東條英樹と闘った裁判官』(清永聡、新潮新書、2009)

に詳しい。

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新・平家物語ゆかりの地をゆく 熊野の長藤

(2012.05.04)  浜松市に暮らすようになって3年近くになる。NHK大河ドラマのせいで、最近では吉川英治の超大長編『新・平家物語」を読んでいる。そんな関係で、そのゆかりの身近な土地をちょこちょこ訪れている。

 先月のこの欄では、

 源範頼の蒲桜

を見に浜松市中区富塚をたずねたことを紹介した。Image538_2 今回は、かつて平安時代末までにぎわった東海道池田宿の行興寺(ぎょうこうじ。現在の磐田市池田)境内の

 熊野(ゆや)の長藤(ながふじ)

を見に出かけた。 平清盛の嫡男、平宗盛に見初められて側室となった遠江国池田の庄司、藤原重徳(しげのり)の娘、熊野が植えたと伝えられる見事な藤である。だから、樹齢800年ぐらいで、国指定の天然記念物、つまり国宝らしい。おそらくこの木からさし木したのであろう樹齢300年にもなる藤も境内には何本かあった。

 訪れた日、5月3日は、ちょうど彼女の命日にあたり、この見事な長い藤が咲き誇っていた( 写真 )。この藤が見える能舞台では、三曲による

 謡曲「熊野」

が合奏されていた。雨上がりの清澄な五月空の中、平安の雅び、今ここにありの風情にひたった。

 病に伏す母親を見舞うため帰郷したいとの願いを込めた歌、

 いかにせむ

    都の春も惜しけれど

   なれし東の

    花や散るらん

 平宗盛とともに京・清水寺の花見に出かけたときに詠んだという。とうとう宗盛も帰郷を許す。帰郷して彼女が植えたのが件の藤だったという。

 一方、この後、宗盛は平家に追われ、都落ちする。さらに壇ノ浦で源氏に破れ、一門は滅亡することになる。

 『新・平家物語」では、彼は壇ノ浦では生け捕りにされ、源氏の頭領、源頼朝の待ち受ける鎌倉まで連行される。取調べの終わった帰り道、息子清宗とともに近江の篠原宿で、源義経の見守る中、処刑(斬首)されている。とすれば、壇ノ浦以後、鎌倉までの行き帰りに東海道池田宿や、この藤の咲く土地ちかくを通ったことになる。天竜川の渡し舟に乗るために、この宿に囚人としてではあるが、宿泊したとしてもおかしくない。

 ただ、『新・平家物語』には熊野については、言及はないのが、さびしい。

 長藤は、こうした二人のはかない幸せと悲しみを映して、今も静かに4月下旬ごろになるとその花を咲かせる。その風情に当時の雅びと哀れさを感じざるを得ない。

  浜松には凧揚げ、屋台まつりなど勇壮な文化が多い。しかし、遠州にも平安のみやびを今につたえる風情は残っている。そんな思いだった。

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長生きしたければ病院には行くな 予防こそ

(2012.05.03)  歳をとったせいか、定年後はブログ子も何かと近くの病院にでかけることが多くなった。長生きをしたいと思うせいであろう。先日、その病院の帰り道、ふとコンビニで週刊誌を立ち読みしていたら、なんと、

 Photo_3 長生きしたければ病院には行くな

という表紙の文字に釘付けになった(写真=「週刊現代」2012年3月17日号)。岡田正彦新潟大教授×松本光正医師が大対談をしてる。そんなバカな話はない。またまた与太記事だろうと最初は思った。

 しかし、内容を拾い読みすると、なるほどとこの一見非常識な主張に納得することが多かった。しかも、岡田氏は新潟大学医学部卒で、公衆医学の同大教授。医学博士でもある。一方の松本氏も北大医学部卒で、関東医療クリニック院長。こちらは現役内科医。いずれも一般向けの著書も多い。まったくの飛ばし記事とはとても思えない。

 そこで、週刊誌を買って帰り、じっくり検討してみた。記事には、いちいち、きちんと主張する根拠が具体的に示されている。説得力がある。しかもデータだけでなく、豊富な臨床経験から得られた実感も踏まえているのだ。そこから、両氏は

  高血圧治療でかえって脳梗塞が起きる/ 健康診断は受けなくてもよい/ がん検診もⅩ線検査も不要

との結論を出している。その理由を一言で言うと、病院での治療、診断、検診に伴う効果というメリットと、それに伴う弊害ともいうべき副作用などのデメリットが互いに相殺する結果、何もしない人に比べて、せっせと病院に通う人が長生きするとは言えなくなってしまうというのだ。

  その良し悪しを具体的に言うと、分かりやすい。こうなる。

 脳卒中には高血圧がかかわる脳出血と、その大部分を占める高血圧に関係のない脳梗塞とがある。高血圧傾向の人には、血圧を下げる降圧剤治療は短期的には生きのびる効果があることは確か。

 その一方で、降圧剤には、脳卒中の8割を占める脳梗塞を起こしやすい〝副作用〟があるらしい。血液の流れが緩やかになり、梗塞が起こりやすい状態をつくりだからだ。この二つの効果が重なって、あるいは相殺しあって、結局、降圧剤治療をしてもしなくても、長期的な寿命には差が出ないというのだ。そればかりか、長期的に治療費がかさんでいく分、治療するほうがバカをみる。

 ただし、記事では明示的には触れられていないが、血圧が極端に高く危険が目の前に迫っているという短期的で緊急避難的な状況は除外する。誤解が生じないよう、このただし書きを記事に明記しておくことが正直だろう。そうすれば、記事中の「長期的な寿命」うんぬんの意味もはっきりする。

 だから、病気にかかってからジタバタするのではなく、その前の予防にこそ長生きの本当の秘けつがあるらしい。この対談の本当の狙いは、これだろう。

 そういえば、最近発行の

 『大往生したけりゃ医療とかかわるな 自然死のすすめ』(中村仁一、幻冬舎新書)

も基本的には同じ見方をしている。京大医学部卒で高雄病院院長や理事長を長年つとめた内科医としての経験がこのタイトルにつながったらしい。病院に行くヒマがあるのなら、もっと死と向き合う時間を大事にしてほしいと訴えている。

 たとえば、がんで死ぬのが一番いいと書いている。臨終までに身の回りを整理する時間が十分ある。死を見つめる哲学的な、あるいは人間らしい時間がつくれるのもいい。「生活の質」が高まるといいたいらしい。しかも、がんには痛みがあるとしても死の直前であり、それはそう長くないというのも理由だ。

 いずれの記事や新書の主張も、何の疑いもなく、お題目のように「早期発見・早期治療」を唱える医療に対する経験豊かな医師たちからの自責、自戒を込めた言葉として受け止めたい。

 もうひとつ、薬を飲む治療だけがすべてではない、それと同様、薬を飲まない、みだりに病院に行かない〝治療〟も大事であると受け止めたい。自然の治癒力をもっと信頼したいとも気づいた。

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ベンハムのこま ボランティアを楽しむ

(2012.05.01)  Image523 小さな子どもたちに科学で遊んでもらおうと、定年後は浜松科学館でサイエンスボランティアをしている。大型連休とあって家族連れでにぎわった先日は

 びゅんびゅんごまを作ろう、遊ぼう

だった。ブログ子も小さい頃、ボタンにひもを通し、手を左右にタイミングをはかりながら回して遊んだのを懐かしく思い出した( 写真 )。ただ、それだけなのだが、それだけでも子どもたちは大喜びで作ったり、回したりしていた。ボランティアとしては、その回し方を子どもたちに体で覚えてもらうよう手伝いする。  

   こまといっても、白いボール紙を半径5センチくらいの円形にくりぬき、中心付近にひもを通す穴を二つあける。ただそれだけなのだが、この白い円盤にいろいろな色で「ぬりえ」をして遊ぶ。どんな絵を描いてもいい。出来上がったら、こまを回して、円盤に描いた絵がどのように変化するかを楽しむという按配だ。

 同心円上に一色で一様にぬりえすると自明だが、回転しても変化はない。同じ同心円上でも色を変えると変化するのがおもしろい。

 さらに、こまであることを意識せず、まったくのぬりえとして描くと、意外に美しい回転模様が浮かび上がる。親子ともども歓声を上げたりするのがうれしい。

   それはそれでおもしろい。

   ところで、実は、ぬりえをしなくても、白黒のパターン( 上の写真 )を描くだけで、なんと、こまを速く回すと茶色に、比較的ゆっくり回すと黄色の模様が浮かび上がることを〝発見〟した。実験室の蛍光灯のもとでの話だが、びっくりした。念のため、窓の近くの太陽光(白色光)のもとで同じ白黒パターンのこまを回しても、そんな色は浮かび上がらなかった。白と黒の中間の灰色がぼんやりと見えただけだった。

 不思議だ。目の錯覚ではないか

 というのも、あまりに不思議なので、証拠として、浮かび上がった茶色や黄色のパターンをカメラで撮影したが、これまた不思議なことに色は写っていなかった。とすると、やはり目の錯覚か、つまり錯視か。

 ブログ子は不覚にも知らなかったが、こういうこまを

 ベンハムのこま

という。ベンハムという人は、100年以上も前のイギリスのおもちゃ製造業者で、その販売を通じてヨーロッパ中にこのおもちゃが広がったらしい。上の写真に写っているこまは

 大魔王

という。

 ベンハムのこまには、もっと単純なパターンもある( 写真下 )。このほかにも、多数のパターンが見つけ出されているという。

 Image526bjまた、名前がついているくらい歴史的にも有名なこまなのだから、ほかにもさまざまなパターンを使って実験している科学好きな人がきっといるに違いない。ネット上をいろいろとさがしてみた。

 あざやかなカラー写真付きで、しかも分かりやすいものを以下のアドレスで見つけた。

 http://www2.tokai.or.jp/seed/seed/minna7.htm

である。ブログ子の観察とおおむね同様だったが、こちらのほうは、より詳しく、丁寧に実験していた。結果の考察もなかなか鋭い。

 どうやら目の錯覚、つまり、

 人の目で受け取った光の情報が視神経細胞のパルスを通じて脳にどのように伝わり、処理されているか

ということが、このベンハムのこまは示唆しているらしいことがわかった。

 現在のところ、詳しいそのメカニズムはわかっていない(解明されれば、ノーベル賞ものらしい。補遺 )。しかし、

  脳への情報伝達システムの仮説が

 『理系への数学』(2008年5月号、西山豊・大阪経済大学経営情報学部)  数学を楽しむ 

にその概略が述べられている。同氏は大学の講義でこのベンハムのこまを事例として学生たちに教えているという。

 http://www.osaka-ue.ac.jp/zemi/nishiyama/math2010j/benham_j.pdf

にも再掲されている。

 それによると、わかりやすく言えば、こうだ-。

  まず、円盤のたとえば、左半分を黒く塗った場合、こま回しをしない時は当然だが、反射率の低い黒部分は黒、反射率が高い白部分は白のままだ。非常にゆっくり回転した場合もおおむね、色などに何の変化もない。黒の部分は目への反射光がほとんどなく、いわば目を休めている状態にあたると考える。

 それに対し、回転を次第に上げた場合。目が一点を見つめていると、白、黒、白という風に反射率が、目の網膜にある受光器上で極めて短時間に変化する。

 この時、目の網膜にある受光器は、反射率の変化を刺激として受け取り、視眼神経細胞を通じて脳にパルスを送る。これにより、脳は色などの感覚が発生する。

 十分にゆっくり回した場合、反射率の変化はゆっくりで、それに対応するパルスも十分時間間隔を置いて脳に届けられる。これでは何事も起こらない。

 問題は高速でこまを回したときだ。

 ここで目の受光器について、刺激を受けた瞬間からパルス発生までの時間間隔に仮定をおく。目が刺激されていた、あるいは刺激されていなかった時間が長いほど、パルスを発生させる反応が早いと仮定する。分かりやすいたとえで言えば、準備時間が長いと立ち上がりは早いとするのだ。

 つまり、白でも黒でもパターンが長く続くと、その継続時間に反比例して、白、または黒パターンへの切り替わった瞬間から受光器がパルスを発生させるまでの時間間隔(ディレータイム)は短くなると仮定する。生体のディレータイムは、事前の状態に依存することは一般に知られており、合理的である。この仮定は根拠のないことではない。

 この仮定の下で、こまを次第に速く回転させ、このデイレータイム程度の時間で一回転するほどまで高速にする。

 その状態で目をこまの一点を見つめながら、白、または黒パターンの通過を観察する。比較的短い白パターンが通過した後、〝目のお休みタイム〟の比較的長い黒パターンが通過し、次に白パターンに変わったとする。すると、出遅れた前の白パターン・パルスに後の白パターン・パルスが追いつき、重なり、脳に届く前に〝衝突〟する可能性がある。つまりパルスの〝干渉〟が目の情報伝達経路で起きる。踏み込んでいうと、脳の感覚器官には白でも黒でもない色の干渉信号が届くことになる。

 これが白パターンと黒(お休み)パターンの中間色ではない干渉色、つまり、茶色や黄色という、それも主観的な色になってあらわれるおおまかな原理ではないか。

 光源の違い(太陽光=白色光、蛍光灯)やこまの速度によって見え方が違うことや、人により見えたり見えなかったり、見えても発色に違いがあるというのもうなづける。ベンハムのこまから立ち上ってくる「色」は、人によって異なる、つまり主観色というのも、納得できそうな気がした。また、低速回転では人によらず、どの人も色は見えないのも当然なように思う。

 光の干渉パタンーとして知られるニュートンリングでたとえるとすれば、主観色は原理としては光の干渉によってできる静的なニュートンリングと同様だが、その干渉が体内で動的に起きるために出てくる現象ということになる。もう少し踏み込めば、

 刺激に対する生体の反応速度の違いが生み出す干渉色

だともいえるかもしれない。

 とすれば、個人差もあり、しかも主観的な現象でもあることから、定性的な理論を量的にもきちんと実験で証明するのは、現代の生化学でも難しいような気がする。ニートンリングの場合のように簡単には定量的な実証はできないだろう。

 この意味で、子どもたちの楽しんでいた

 びゅんびゅんゴマ

は今も解明を待つ謎なのだと知って、ボランティアの醍醐味や楽しさを味わった。

 その夜、このブログを書き終わって晩酌をしていたとき、ふと、

 色とは、そもそも主観ではないのか。色とは何だろう

という哲学的な認識論に思い至った。

  周波数とか波長が同じ光でも、人間以外の動物が感じる色と、人間が感じる色とは、波長が同じでも感覚器が違うのだから、当然同じ色に見えるとは必ずしもいえない。むしろ違うだろう。別の言い方をすれば、同じ波長でも、犬の感じ方と人間の感じ方とは同じではない。まてよ、しかも、それが違っているのか、同じなのか、どうして確かめたらいいのか。原理的に人間の目で確かめることなど果たしてできるのだろうか。

 そう思うと、さても色とは不思議なものだ。

 補遺 「JST news」2012年6月号(独立行政法人科学技術振興機構) 

 この広報誌を見ていたら、

 先駆ける科学人

という欄で、寺前順之介氏(理化学研究所 脳科学総合研究センター 脳回路機能理論研究チーム副チームリーダー)が、

 数学を武器に脳の秘密に迫る

として、ゆらぎと非線形をあわせて考えることで脳の情報処理の仕組みを探る研究を紹介していた。

 非線形とは、生物が刻むリズムに非線形的な法則が当てはまらず、「2つのものを入力すると、それらが作用しあってまったく別のものが出てくる」というものらしい。ベンハムのこまもこの種の非線形な現象なのではないかとブログ子は直感した。

 これに生物が持つ生体反応である脳自らがつくりだす「ゆらぎ」を加えることで、脳神経細胞同士はあいまいさを上手に利用して入力情報を処理をしているという。こうした非線形情報理論により、脳が働く原理の手がかりがつかめるらしい。

 ベンハムのこまは、このように最先端の脳科学とかかわっているらしいことを知り、驚いた。  

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