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見かけ上の幸運と真の幸運  「神の見えざる手」とは何か

(2012.02.13)  日曜日の新聞は、読書欄のようにヒマネタが多いのだが、その分、考えさせられるコラムが時々、掲載されている。

 浜松科学館でのサイエンス・ボランティア活動の帰りに、喫茶店で、たまたま

 2月12日付朝日新聞オピニオン欄の挿絵付大型論説「ザ・コラム」(吉田文彦論説委員)の

 ヒロシマ・フクシマⅩ  「見えざる手」をも検証せよ

というのも、いい意味、悪い意味を含めていろいろ考えさせられるコラムだった。

 このコラムを読んでいない読者のためにその要点をまとめると、下欄の「注記」のようになる。

 まず、いい意味で考えさせられたこととしては、事故の拡大の原因にとどまらず、これまであまり追及されてこなかったが、その拡大がなぜ最悪の事態にまで至らなかったのか、その原因を徹底検証で探れ、と主張している点だ。ある一軒家の火事がなぜ次々と類焼し大惨事には至らなかったのかという問い同様、その追及は難しい。しかし、社会的な影響の大きい事故の場合、この追及は重要であり、鋭い指摘だと思う。新しい事故考察の観点だ。

 しかし、この追及には、できるケースとできないケースがあるという点を吉田論説委員は見落としている。

 このコラムが言いたいことを分かりやすく、簡単に言えば、

 「最悪の事態が回避できたのには、明確な原因があるはずだ。現場での事故収拾への努力が歯止めになったというような一般的な話であいまいなままに放置したり、単なる偶然、あるいは「神の見えざる手」という幸運のたまものだったとして片付けたりするな」

ということだろう。

 確かに、もし回避できた原因が本当に単なる偶然なら、サイコロの目が人知でコントロールできないように、偶然には前後のつながりに因果関係がないので、人知でコントロールすることは原理的にできない。因果関係がないことを逆に利用して確率論をなんとか適用しようにも、滅多に起こらない巨大事故ではそれも事実上、解析や分析が不可能だ。現実の役にはたたない。

 また、「神の見えざる手」が原因ということは、キューバ危機のような戦略ゲームの場合にはありえるかもしれない。別の言い方をすれば、

 数学のシュミレーションでいう、いわゆる非線形問題

だからだ。原因と結果が一対一でつながっている場合には、初期値の値を少し変えると最終的な結果も前のものと少し異なる。そのような単純な場合(これを線形問題という)とは本質的に異なり、因果関係はあるのだが、原因と結果がカップリングしていて一対一の関係ではない場合、原理的に最終的な結果はあらかじめ予測はできない(数学的には解析的に解けないと呼ぶ)。核戦略ゲームはそれに当たり、核抑止論が成り立たないのは、非線形という問題の性質上、数学的には明白である。マクナマラ氏が、核抑止論を信奉していたにもかかわらず、事態収拾は「幸運のたまもの」と言い切ったのも当然であり、無理はない。破滅が回避できた最終結果の原因が、この場合特定できないからだ。

 だから、それができたのは、人知を超えた神様のおかげ、幸運のたまもの、あるいは偶然、より具体的には土壇場での旧ソ連のフルシチョフ首相の理性のおかげ、恐怖心のおかげという情緒的な表現しかできなかったのだ。

 市場経済での価格決定も非線形のケースにあたり、アダム・スミスが言うように、ある一定の価格に収束したのは、人知が及ばない

 「神の見えざる手」

によるとしか表現できないのだ。

 その意味で、キューバ危機が最悪の事態に至らなかったのは

 真の幸運

だったといえるだろう。人知では原因が特定できないという意味で、まさに幸運な成功だったのだ。

 これに対して、フクシマの場合は、同じ幸運といっても

 見かけ上の幸運

であったのではないか。つまり、最悪の事態が回避できた原因は原理的に特定できる先の線形問題の場合に当たる。

 コラムを書いた論説委員が言うように、「負の連鎖」をもたらす、さらなる水素爆発や強烈な余震や津波が起きても不思議ではなかったが、自然が人間の行為を知って、それに反応して何かを引き起こすという関係ではない。ここがキューバ危機のような戦略ゲームとは本質的に問題の性質が異なる。人間がそれぞれの事態に的確に対応すれば原理的にはあらかじめ結果を予測できることなのだ。それはなかなか困難ではあろうが、ここが、先の戦略ゲームとは根本的に異なる大事なところだ。

 ブログ子が、悪い意味で考えさせられたというのは、このことだ。はっきり言えば、今論じたいフクシマ問題を、キューバ危機を引き合いに、幸運というキーワードで同日に論じているのは、間違っている。

 人知を超えた「真の幸運」で人類破滅を回避できたのがキューバ危機。フクシマのケースは、田坂氏が「幸運に救われた面、われわれがコントロールし切れていない何かに助けられた感は否めない」と吉田論説委員に答えたようだが、それに引きずられたせいか、何かとは

 「見かけ上の幸運」

なのだということを見落としてしまったのではないか。最悪の事態を回避できた明確な原因の特定は、冒頭にも言及したが、この場合、人知による判断で原理的にはできる。

 だからこそ、

 幸運という名の「神の見えざる手」をも検証せよ

というコラムの主張が成り立つ。

 だからこそ、

 「キューバ危機で核抑止のもろさが透けて見えたごとくに、フクシマの徹底検証は世界に大きな学びをもたらすだろう」

と言えるのだ。

 吉田論説委員には悪いが、

 キューバ危機とフクシマは問題の構造が根本的に違うからこそ、

 フクシマについては「見えざる手」をも検証できるのだ

ということになる。このコラムの結論は正しいし、賛成だ。しかし、思い起こした事例など、そこに至るまでの論理の展開の仕方を間違えている。

 念を押すようだが、事故という失敗には必ず合理的な原因がある。しかし、それが最悪の事態に至らなかったその成功の原因は、たとえあったとしても、必ずしも人知で特定できるとは限らない。人知では特定できない非線形の問題もあるからだ。

 以上、いずれにしても、いい意味、悪い意味で考えさせられるコラムだった。

 こういうのをコラムというのだろう。社説の無味乾燥には飽き飽きしているが、久しぶりに考えさせる骨太な論説に出合ったことを感謝したい。

 蛇足を一つ言うと、「お題」として見出しの前に書かれている

 「ヒロシマ・フクシマX」

に、なぜ、「ヒロシマ」があるのか、奇怪だ。本文中には「ヒロシマ」はどこにも出てこない。連載執筆なら、その旨、断りを入れるべきではないか。コラム筆者の一人合点は困る。

 注記 

 フクシマの事故原発が最悪の事態におちいった場合、どうなるか。それを予測した政府内の資料が昨年の3月に作成されたが、それによると、最悪の場合、首都圏3000万人の避難という事態になる。結果的にはこの最悪のシナリオは避けられた。現場での事故収拾への努力が事態悪化の歯止めになったことだろうとした上で、『官邸から見た原発事故』の著者で原子力工学が専門の田坂広志氏に聞くと、それでも最悪に至らなかったのは、「幸運に恵まれたというのが、危機に対処した人間の実感」であり、「われわれがコントロールし切れていない何かに助けられた感は否めない」との田坂氏の言葉を引用している。

 この幸運について、吉田論説委員は、人類が破滅の危機に立たされたキューバ危機を思い起こし、当時、意思決定者たちが考えていたよりも「はるかに核戦争に近づいていた」のに、最悪の事態を回避して事態を収拾できたのは「幸運のたまもの」との当時のマクナマラ米国防長官の述懐を披瀝している。 

 ここから「そこで大事なのは、起きた危機を徹底検証し、次なる危機の回避や対応で人知の及ぶ範囲を拡大し、確たるコントロールのもとで難局を乗り切る能力を高めることだ」としている。キューバ危機では東西冷戦後、意思決定にかかわった人物たちが一堂に集まり、その危機管理のあり方について国際的な検証作業が行われ、歴史的な教訓を得る成果を上げた。

 フクシマでは、どうだったのか。最悪にどこまで近づいていたのか。どこまで人知による判断が役立ち、どこが「神の見えざる手」に頼るところとなったのか。

 コラムの最後で、そんな境界についてはっきりさせるよう、問題提起をして、

 フクシマについて何が事故の拡大につながったのかという当然追及すべき原因にとどまらず、さらに深く何が最悪の事態を回避させたのかについても、

 つまりは、コラム見出しにあるように「見えざる手」をも検証せよ

と主張をしている。 

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