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2012年2月

三葉虫の目 驚異のブーメラン形

(2012.02.25)  定年を機会に、浜松科学館でサイエンスボランティアを始めて、そろそろ一年。専任スタッフのお手伝いをするのだが、休息の時間に館内の展示物を見ていると、意外な発見をして、びっくりすることがある。

 同館には、いろいろな地質時代のホンモノの化石がさりげなく展示されている。

 今から約6億年前の先カンブリア紀のストロマトライト(らん藻類)

などは、オーストラリア・シャーク湾にあることは知っていたが、現物を見たのは初めて。大気中に酸素を供給したことで知られる。そんな中で、ふとその隣りのガラスケースに収められた

 今から約5億年前のカンブリア紀の三葉虫

に目がいった。全体がカブトガニのような形で、長さ20センチくらいの化石である。よく知られている化石で本屋の古生物学の本で何度もみた。しかし、ホンモノの化石を見るのは初めてだった。ケースに顔を近づけてよく見て、驚いた。

 目がある。しかも、左右にそれぞれブーメランの形をした目である。

 よくよく観察してみると、この目が後ろも見えるように顔の形も整えられている。つまり、

 前後左右、360度が一度に見渡せる超パノラマの目

なのだ。顔のかたちからきっと目からの情報を処理する脳もありそうだ。とすると、目は左右対称に二つあるから遠近が把握できる。

 先カンブリア紀の生物には、おそらく目はないだろうから、地球上で初めて目を持った生物が三葉虫なのだろう。ダーウィンの進化論がこの時代にも適用できるかどうか、疑わしいが、仮に適用できるとすると、

 こんな優れた目を備えた三葉虫は、大変に生き残りがしやすい

と直感した。事実、科学館の三葉虫の説明によると、今から4億年前のシルル紀まで生き延びたようだ。

 ここから想像すると、カンブリア紀の生き物は、海の中で、目を持つようになって爆発的にさまざまな形態に進化していったように思う。

 目がカンブリア紀の進化を爆発的に促進した

という言い方もできるのではないか。とすると、これはダーウィンの漸進主義的な進化論ではとうてい説明できないことになる。

 進化のありかたも、地質時代によって異なる。ダーウィンの進化論はその一つに過ぎない。ダーウィンの進化論に代わる有力な理論として、

 生物進化の中立説

がある。木村資生博士が1970年代に打ち出した。分子レベルでは、1980年代すでに世界の学界で定説として確立しているらしい。しかし、

 そんなことをふと、ボランティアをしながら、思いめぐらした。

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東日本大震災から学ぶこと 避難3原則

(2012.02.21)  前回、このブログで東日本大震災を「情報」という観点から検証した『震災と情報』という新書を紹介した。結論は、ブログの最後に「注記」としてまとめたが、

 個人情報手段が唯一の希望

であった。個人情報手段というのは、なにも機器だけではない。人間の声や行動もきわめて重要な手段であり、より強力な力を発揮する場合がある。

 その具体的な事例として、静岡県危機管理部が発行している「自主防災」最新号(No.81=2012年3月号)で見つけた。

 例の岩手県釜石市の釜石東中学校と鵜住居小学校の児童・生徒たちの的確な避難行動である。この行動が子どもたち全員の命だけでなく、付近住民の命も津波から救った。

 どちらの学校も「明治と昭和三陸大津波」の浸水域の外にあった。しかし、日ごろからの津波教育の成果なのだろう、まず、より大槌湾に近い中学生たちが、状況を判断し、とりあえずあらかじめ指定されていた避難場所(グループホーム)へ避難した。それを見た小学生たちもただちに中学生たちとともに避難。それにつられて、付近住民も急いで指定避難場所に走り出した。

 しかし、それでも危険と判断(事実、この避難場所は今回、津波で浸水)、さらに高台目指し二回目の避難(介護福祉施設)を開始した。ここは指定避難場所ではないが、日ごろの津波教育の成果なのだろう、独自の判断で二回目の避難行動をしたらしい。事実、今回は、湾から遠く離れたこの避難場所にも津波は押し寄せた。

 そこで、ここもまた危ないと、なんとさらに避難して、全員助かったのだ。

 こうしたことから、「自主防災」情報紙は津波「避難3原則」として

 まず、想定にとらわれるな

と書いている。想定はとりあえずの目安にすぎないというわけだ。

 次に、最善を尽くせ

だ。もういいだろう、もう大丈夫だろうは禁物。事実、もし第二の避難場所でこの気持ちになって三回目の避難行動を起こさなかったら、大変なことになっていたことが後からわかった。命がかかっている。念には念を入れよだ。

 そして、最後は、率先して避難行動をせよ

だ。そうすれば、周りはそれにつられてついてくるというわけだ。この事例では、最初の避難行動を行った中学生の果敢な判断が数千人の命を救った。

 これとは逆に、避難するかどうか、どうしようどうしようと、言葉は悪いが教諭など大人たちがもたもたと〝小田原評定〟していて、多くの児童生徒の命が失われた別の学校の事例もあったことはよく知られている。日ごろの防災教育が十分でなかったのも一因だろう。

 自分の命は自分で守る。他人の判断任せにしない。この当たり前の心構えこそ、一刻、いや分単位を争う津波避難では大原則だと気づかされた。

 ところで、分単位の津波避難だが、想定されている駿河湾内を震源域とする東海地震の場合、津波は早いところで地震発生後どのくらいの時間で沿岸を襲うか、という県の「県民意識調査」の結果が載っている(大震災後の平成23年11月実施)。

  それによると、正解は「5分以内」だが、正答率は41%と、2年前の前回調査の50%に比べて大きく落ちている。津波の恐ろしさは大震災でまざまざと認識されたが、それが足元の東海地震となるときちんとした理解がなされていないという課題があらわになった形だ。

 事実、ブログ子も、福島第一原発に津波が襲ったのは地震発生から30分以上たっていたことから、漠然と、東海地震では

 せいぜい10分ないし20分以内ではないか

と思っていた。大間違いなのだ。

 食料の備蓄については、3日分以上という認識は前回より高まった。しかし、家具の固定など手間と費用のかかる問題については、ほとんど改善がみられない。大部分固定しているという家庭は、わずか14%に過ぎない(7軒に1軒)。一部固定がせいぜいなのだ。固定していないとの回答がなんと3軒に1軒の30%近くもあり、前回調査時に比べてほとんど改善していないのも課題だろう。

 想定東海地震について、「非常に関心がある」との回答は64%と、二年前の前回調査(50%)に比べて跳ね上がったのは当然としても、その関心が具体的な行動にあまり結びついていないお寒い状況だ。これでは、果たして実際に地震が起きた場合、減災につながるのかどうか。ましてや富士山噴火もあり得るという状況なのに、これでは心もとない。

 想定東海地震については、最悪の場合、大きな揺れ、津波、浜岡原発事故、そして、富士山噴火の4災害が静岡県内でほぼ同時に起こる可能性がある。

 東日本大震災から学ぶことは多い。が、このように独自な問題もかかえている。その具体的な対策を急ぐ必要があろう。

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「前代未聞の傑作」?  楽読楽書 

(2012.02.19)  前回のこのブログで、読書欄など日曜日付の新聞にはヒマダネが多いが、しかし、考えさせるものもあると書いた。

 そんな思いもあって、2月19日日曜日付の静岡新聞「読書」欄を開いてみた。まず、驚いたのはトップ「楽読楽書」の見出し

 前代未聞の傑作に注目

というものだった。最近刊行されたSFのいくつかを拾い出し、紹介する書評なのだが、前代未聞と傑作という言葉がどうもブログ子の頭の中で結びつかないのだ。書評子としては、ほめたつもりなのだろう。しかし、

 前代未聞=今まで聞いたことが無いような変わった(あきれた)こと(新明解国語辞典)

という意味であり、主に、変わったというなかでも「あきれた」というニュアンスが強い。だから、

 前代未聞の傑作

というのは、ほめ言葉としてはおかしい。あとに来る言葉は、不祥事などあまりほめられたことではない単語がつくのが通常だからだ。傑作はほめ言葉だから、おかしい。

 書評の中身を見ると、

 前代未聞の傑作とは、どうやら、一番の注目作品として挙げられている

 『都市と都市』(ハヤカワ文庫SF)

のことだ。

 書評子は「折り紙つきの傑作」と持ち上げ、「突拍子もない設定」と感嘆し、最後に

 「前代未聞の都市小説」

と手放しで激賞している。ここから件の見出しが新聞社の整理記者によってつけられたのだろう。前代未聞の都市小説という言い方は、別に違和感はない。しかし、これらを総合して

 前代未聞の傑作

となると、おかしくなる。見出しをつける難しさを痛感した。ただし、読者を引き付ける見出しという意味では、〝成功した〟見出し付けかもしれない。

 最近はSFものはとんと読まなくなったが、このレビュー欄には、このほか

 『闇の国々』(小学館集英社プロダクション)

というフランス語圏の漫画も紹介されている。この中には

 なぜか重力が斜めに作用するメリーの数奇な人生を描く

 「傾いた少女」

などは、書評を読んだだけでも読みたくなる独創性が感じられる。

 この読書欄には、「今週のベストセラー」コーナーの第一位に

 五木寛之著『下山の思想』(幻冬舎新書)

が挙げられていた。高齢社会を意識したネーミングだ。マスコミにもまれてきた五木さんらしい。うまい。

 また、「文庫案内」コーナーでは

 中島義直著『人生に生きる価値はない』(新潮文庫)

が紹介されている。哲学者の著者はブログ子と同世代だが、これは簡単に言うと、人生というのは所詮、暇つぶしということか。そうとすると達観だとも言えそうだが、ともかく一瞬、ぎょっとする。

 考えてみれば、大河ドラマ「平清盛」ではないが、

 「遊びをせんとや、生まれけり。戯れをせんとや、生まれけり」

ということでもあろう。

  しかし、書評子の解説によると、

 このタイトルもそうだが、「世間の常識にとらわれず、自ら価値を創造しながら自由に生きよう」という「明るいニヒリズム」の哲学エッセー集らしい。いかにも、恍惚の、いや硬骨の中島さんらしいタイトル付けだ。タイトルにも考え方にも感服した。

 ニヒリズム(虚無主義)というのは、一切の既成の秩序・権威・制度を破壊しようという主義。とかく戦前を思い出し、暗いイメージが付きまとう。これに対し、「明るいニヒリズム」を提唱しているのがユニーク。人生は生きるに値する、と思いたいし、そういう既成概念もある。それを破壊して見せたのが、この本なのだと思う。

 とすると、ニヒリズムは、創造性、独創性ともつながる明るい哲学だと気づいた。決して、所詮は人生暇つぶしという短絡的なことにはならない。といって単に意表を突くという考え方とも違う。

 その関連で言うえと、人生に生きる価値はない、という題名は、そもそも

 人生に(必ずしも)生きる価値はない

という意味であろう。人生にもいろいろあるというわけだ。

 人生は(全面的に)生きる価値がない

と全否定しているわけではないところがミソではないか。また人生に生きる意味がない、などとも言っていないことに注意する必要があろう。さすが言葉を大事にする哲学者らしい(実は、このタイトル、著者ではなく、編集者がつけたと著者自身があとがきで告白している)。それにしても、考えさせられる書名だ。

  「新書ガイド」のコーナーでは、最初に取り上げられていた

 徳田雄洋著『震災と情報』(岩波新書)

が興味を引いた。東日本大震災について「情報」をキーワードにして分析・検証した好著らしい。つまり、住民にとって知りたい避難判断のための情報などはなぜ的確に伝達されなかったのかという問題意識で書かれているという。津波で伝達基盤が流されたり破壊されたりしてしまったという物理的な空白があったことは確かだ。

 しかし、もう一つの空白、つまり、大手メディアが政府などの公式発表を優先して大量に伝えた、もっとはっきり言えば流し込んだために空白が生じたということが主な原因だろう( 注記 )。鋭い指摘だ。ブログ子は、その根底に日本の発表ジャーナリズム、記者クラブジャーナリズムの大きな弊害が横たわっているように思う。

 阪神大震災でも、この問題がクローズアップされた。

 被災者が今必要としている切実な情報を中心に伝えようと決意し、実行した当時の神戸新聞社の長期にわたる取り組みが、今回も十分生かされたとはいえなかったことは、ブログ子も今、痛感している。

 この書評欄では、無難な発表モノではなく、足で稼いだ「地元タネ」の重要性を思い起こさせてくれた。日本のジャーナリズムに根強くある地元タネの軽視風潮は危険だ。

 以上、「前代未聞の傑作」に驚かされたおかげで、ずいぶんこの読書欄で勉強させられたような気がする。価値ある日曜日だった。

 日曜付新聞には、無味乾燥な社説を除いて、かくも考えさせられるものが多いのだ。

  注記

 では、どうすれば、いいのか。この点について、

 徳田氏は<終わりに>で次のように指摘している。

 大手メディアが同じような公式発表を繰り返している現状では

 「危機の中で生じる情報空白を乗り切る方法は、個人情報手段が私たちの唯一の希望」

 と結論付けている。この場合の「個人情報手段」とは、携帯電話やメールであり、facebookなどのSNSを指している。

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見かけ上の幸運と真の幸運  「神の見えざる手」とは何か

(2012.02.13)  日曜日の新聞は、読書欄のようにヒマネタが多いのだが、その分、考えさせられるコラムが時々、掲載されている。

 浜松科学館でのサイエンス・ボランティア活動の帰りに、喫茶店で、たまたま

 2月12日付朝日新聞オピニオン欄の挿絵付大型論説「ザ・コラム」(吉田文彦論説委員)の

 ヒロシマ・フクシマⅩ  「見えざる手」をも検証せよ

というのも、いい意味、悪い意味を含めていろいろ考えさせられるコラムだった。

 このコラムを読んでいない読者のためにその要点をまとめると、下欄の「注記」のようになる。

 まず、いい意味で考えさせられたこととしては、事故の拡大の原因にとどまらず、これまであまり追及されてこなかったが、その拡大がなぜ最悪の事態にまで至らなかったのか、その原因を徹底検証で探れ、と主張している点だ。ある一軒家の火事がなぜ次々と類焼し大惨事には至らなかったのかという問い同様、その追及は難しい。しかし、社会的な影響の大きい事故の場合、この追及は重要であり、鋭い指摘だと思う。新しい事故考察の観点だ。

 しかし、この追及には、できるケースとできないケースがあるという点を吉田論説委員は見落としている。

 このコラムが言いたいことを分かりやすく、簡単に言えば、

 「最悪の事態が回避できたのには、明確な原因があるはずだ。現場での事故収拾への努力が歯止めになったというような一般的な話であいまいなままに放置したり、単なる偶然、あるいは「神の見えざる手」という幸運のたまものだったとして片付けたりするな」

ということだろう。

 確かに、もし回避できた原因が本当に単なる偶然なら、サイコロの目が人知でコントロールできないように、偶然には前後のつながりに因果関係がないので、人知でコントロールすることは原理的にできない。因果関係がないことを逆に利用して確率論をなんとか適用しようにも、滅多に起こらない巨大事故ではそれも事実上、解析や分析が不可能だ。現実の役にはたたない。

 また、「神の見えざる手」が原因ということは、キューバ危機のような戦略ゲームの場合にはありえるかもしれない。別の言い方をすれば、

 数学のシュミレーションでいう、いわゆる非線形問題

だからだ。原因と結果が一対一でつながっている場合には、初期値の値を少し変えると最終的な結果も前のものと少し異なる。そのような単純な場合(これを線形問題という)とは本質的に異なり、因果関係はあるのだが、原因と結果がカップリングしていて一対一の関係ではない場合、原理的に最終的な結果はあらかじめ予測はできない(数学的には解析的に解けないと呼ぶ)。核戦略ゲームはそれに当たり、核抑止論が成り立たないのは、非線形という問題の性質上、数学的には明白である。マクナマラ氏が、核抑止論を信奉していたにもかかわらず、事態収拾は「幸運のたまもの」と言い切ったのも当然であり、無理はない。破滅が回避できた最終結果の原因が、この場合特定できないからだ。

 だから、それができたのは、人知を超えた神様のおかげ、幸運のたまもの、あるいは偶然、より具体的には土壇場での旧ソ連のフルシチョフ首相の理性のおかげ、恐怖心のおかげという情緒的な表現しかできなかったのだ。

 市場経済での価格決定も非線形のケースにあたり、アダム・スミスが言うように、ある一定の価格に収束したのは、人知が及ばない

 「神の見えざる手」

によるとしか表現できないのだ。

 その意味で、キューバ危機が最悪の事態に至らなかったのは

 真の幸運

だったといえるだろう。人知では原因が特定できないという意味で、まさに幸運な成功だったのだ。

 これに対して、フクシマの場合は、同じ幸運といっても

 見かけ上の幸運

であったのではないか。つまり、最悪の事態が回避できた原因は原理的に特定できる先の線形問題の場合に当たる。

 コラムを書いた論説委員が言うように、「負の連鎖」をもたらす、さらなる水素爆発や強烈な余震や津波が起きても不思議ではなかったが、自然が人間の行為を知って、それに反応して何かを引き起こすという関係ではない。ここがキューバ危機のような戦略ゲームとは本質的に問題の性質が異なる。人間がそれぞれの事態に的確に対応すれば原理的にはあらかじめ結果を予測できることなのだ。それはなかなか困難ではあろうが、ここが、先の戦略ゲームとは根本的に異なる大事なところだ。

 ブログ子が、悪い意味で考えさせられたというのは、このことだ。はっきり言えば、今論じたいフクシマ問題を、キューバ危機を引き合いに、幸運というキーワードで同日に論じているのは、間違っている。

 人知を超えた「真の幸運」で人類破滅を回避できたのがキューバ危機。フクシマのケースは、田坂氏が「幸運に救われた面、われわれがコントロールし切れていない何かに助けられた感は否めない」と吉田論説委員に答えたようだが、それに引きずられたせいか、何かとは

 「見かけ上の幸運」

なのだということを見落としてしまったのではないか。最悪の事態を回避できた明確な原因の特定は、冒頭にも言及したが、この場合、人知による判断で原理的にはできる。

 だからこそ、

 幸運という名の「神の見えざる手」をも検証せよ

というコラムの主張が成り立つ。

 だからこそ、

 「キューバ危機で核抑止のもろさが透けて見えたごとくに、フクシマの徹底検証は世界に大きな学びをもたらすだろう」

と言えるのだ。

 吉田論説委員には悪いが、

 キューバ危機とフクシマは問題の構造が根本的に違うからこそ、

 フクシマについては「見えざる手」をも検証できるのだ

ということになる。このコラムの結論は正しいし、賛成だ。しかし、思い起こした事例など、そこに至るまでの論理の展開の仕方を間違えている。

 念を押すようだが、事故という失敗には必ず合理的な原因がある。しかし、それが最悪の事態に至らなかったその成功の原因は、たとえあったとしても、必ずしも人知で特定できるとは限らない。人知では特定できない非線形の問題もあるからだ。

 以上、いずれにしても、いい意味、悪い意味で考えさせられるコラムだった。

 こういうのをコラムというのだろう。社説の無味乾燥には飽き飽きしているが、久しぶりに考えさせる骨太な論説に出合ったことを感謝したい。

 蛇足を一つ言うと、「お題」として見出しの前に書かれている

 「ヒロシマ・フクシマX」

に、なぜ、「ヒロシマ」があるのか、奇怪だ。本文中には「ヒロシマ」はどこにも出てこない。連載執筆なら、その旨、断りを入れるべきではないか。コラム筆者の一人合点は困る。

 注記 

 フクシマの事故原発が最悪の事態におちいった場合、どうなるか。それを予測した政府内の資料が昨年の3月に作成されたが、それによると、最悪の場合、首都圏3000万人の避難という事態になる。結果的にはこの最悪のシナリオは避けられた。現場での事故収拾への努力が事態悪化の歯止めになったことだろうとした上で、『官邸から見た原発事故』の著者で原子力工学が専門の田坂広志氏に聞くと、それでも最悪に至らなかったのは、「幸運に恵まれたというのが、危機に対処した人間の実感」であり、「われわれがコントロールし切れていない何かに助けられた感は否めない」との田坂氏の言葉を引用している。

 この幸運について、吉田論説委員は、人類が破滅の危機に立たされたキューバ危機を思い起こし、当時、意思決定者たちが考えていたよりも「はるかに核戦争に近づいていた」のに、最悪の事態を回避して事態を収拾できたのは「幸運のたまもの」との当時のマクナマラ米国防長官の述懐を披瀝している。 

 ここから「そこで大事なのは、起きた危機を徹底検証し、次なる危機の回避や対応で人知の及ぶ範囲を拡大し、確たるコントロールのもとで難局を乗り切る能力を高めることだ」としている。キューバ危機では東西冷戦後、意思決定にかかわった人物たちが一堂に集まり、その危機管理のあり方について国際的な検証作業が行われ、歴史的な教訓を得る成果を上げた。

 フクシマでは、どうだったのか。最悪にどこまで近づいていたのか。どこまで人知による判断が役立ち、どこが「神の見えざる手」に頼るところとなったのか。

 コラムの最後で、そんな境界についてはっきりさせるよう、問題提起をして、

 フクシマについて何が事故の拡大につながったのかという当然追及すべき原因にとどまらず、さらに深く何が最悪の事態を回避させたのかについても、

 つまりは、コラム見出しにあるように「見えざる手」をも検証せよ

と主張をしている。 

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立春すぎの夜は  ひとり酒「極寒しぼり」

(2012.02.10)  めっきり「家呑み」が増えたブログ子だが、「家呑みつまみ」という本を買ってきて、アサリの酒蒸しなんかつくって夜はひとり酒を楽しんでいる。毎年、白山麓の加賀の菊酒蔵元(造り酒屋)から、この季節だけの

 極寒しぼりたて(もろみからしぼったままの生まれたての酒。火入れも、ろ過もしていない)

を送ってもらって楽しんでいる。昔は蔵元でしか飲めなかったらしい。それがこのごろでは、宅配便で住んでいる浜松まで1日で届くのだから便利な世の中になったものだ。

 北陸では酒米としては五百万石とか、山田錦が一般的のようだ。秋口から、その酒米を削って精米し、ぬかを抜いて白米にする。その白米を洗って蒸気で蒸す。その蒸米を麹でアルコール発酵したものが、

 いわゆる「もろみ」

である。そのもろみをいまごろの季節に絞って生酒が出来上がる(しぼりかすが酒粕)。ろ過前で、しかも火入れ前の酒だから、酵母菌も生きている。酵素も働いている。だから日に日に発酵が進む。出来上がった清酒にはないその変化を楽しむわけだ。

 冷蔵庫で冷やして、5度から10度くらいの温度で、そのままストレートで飲むと、

 もうすぐ春だなあ

と北陸育ちのブログ子はつくづく思う。これが雪の吟醸蔵から出てきた酒か、となるわけだ。 

 贅沢といえば贅沢なのだが、年に一度、立春のこの季節ぐらいは酒好きにも、こんな贅沢が許されていいのではないか。ひとり、自分にそう言い聞かせている。ろ過紙し、火入れをしてしまえば原酒として販売をまつばかりの清酒の出来上がりだ。

 そんなこともあって、住んでいる「浜松の酒」展(浜松市博物館)に出かけた。かつて昭和時代には、浜松にはおよそ11の蔵元があったという。それが今では、

  花の舞の銘柄で知られる花の舞酒造(浜北区宮口、創業1864年)

 出世城の銘柄で知られる浜松酒造(中区天神町、創業1871年)

のふたつの造り酒屋しかなくなった。静岡県内の蔵元数は、磯自慢酒造(焼津市)など38あるが、浜松ひいきのブログ子としてはちとさびしい。

 しかし、かつては、

 天竜の酒「樹里(じゅり)」の銘柄で知られる天竜の酒株式会社(浜北区中瀬)

 「今男(いまおとこ)」の銘柄で知られる北遠の「今津屋」(天竜区水窪)

など、懐かしい蔵元が街道筋の主な町を中心に各地にあったという。

 それが今では、1990年代の焼酎ブームに押されて、清酒はどうも形勢が悪くなる一方らしい。

  暗い話はこれくらいにして、生きづらい世の中、お酒を飲んでいるときぐらい、呑み天国でいたいものだ。そして定年後ダンス天国も。

 早春賦ではないが、

 春は名のみの風の寒さや

  である。とくに、浜松はまだまだ風寒しである。

 追記  2012.02.11

 建国記念日の夜、サタデーシアターで(BS朝日)で、海軍若手将校によるテロ事件、五・一五事件(犬養毅首相暗殺事件、1932年)から、陸軍若手将校による軍部クーデター、二・二六事件(岡田啓介首相暗殺未遂事件、1936年)までを描いた

 「動乱」(高倉健・吉永小百合主演)

を見た。久しぶりの高倉健であり、吉永小百合である。しみじみとした悲しみがこみ上げてきた。

  思えば、中国でも旧日本軍が仕掛けた満州事変(1931年9月)の過程で、日本軍による謀略戦争、第一次上海事変(1932年1月)、第二次上海事件(1937年8月)が起きている。こうした中で南京事件が起きたことを思うと、あらためて、昭和恐慌後の1930年代日本は、

 動乱の時代

というよりも、荒海に浮かぶ小船のようにもてあそばれたようにも思う。

 それに付け込んだのが、旧日本軍だったように思う。その結果、日本は破滅に向かうことになったのだ。それは、もはや誰にも止められない、そして引き返すことのできない人知の限界をこえ、当初、旧陸軍参謀本部が思いもしなかった方向、つまり、日米全面戦争という最悪の事態への暴走となった。

 そんな感慨をもった建国記念日の夜の「動乱」だった。

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白熱のEテレ番組、テストの花道

(2012.02.07)  仕事の関係で、月曜日夕方、ときどき高校生が対象の

 NHK教育テレビ(Eテレ)「テストの花道」(所ジョージ顧問)

を見ている。なかなかの白熱番組だ。面白くて、ためになならなければEテレじゃない、という支えるスタッフの意気込みが伝わってくる。

 2月6日(月)は、

 知識をホンモノにする

がテーマ。誰でもが知りたいテーマだが、学校の教科書で習った知識を、身近な日常生活といかに関連付けるか、そして、それをうまく整理することで知識を確かなもの、ホンモノにするための術、つまり「ターゲット・シート」というものを紹介していた。

 街で拾った関心のあるモノを的の中心にすえる。その周りを二つの円で囲む。内側の円には、中心に書いたモノに関係あるモノを、連想ゲームの要領で思い出せるだけ、思い出し、小さな紙に書き出し、貼り付ける。これは、かつて

 ブレーン・ストーミング

といっていたやり方だ。そして、書き出したものと、今度はさまざまな教科書に書かれたこととの関連を洗い出し、これまた外側の円に貼り付けていく。

 これで、中心に書き出した身近なモノと三重丸の外側の教科書知識とが結びつけられるというわけだ。その間をつなぐのがブレーンストーミングだ。

 こうした関連付けによる整理で教科書の知識があやふやなものから身につく、つまり、ホンモノになるというわけだ。

 確かに、今回の番組では、

 「学ぶことの基本」

を知った。

 この番組を見ていて、気づいたのだが、このターゲットシート法の一般化が

 知的生産の技術のための「KJ法」

なのだ。文化人類学者、川喜田二郎さん創案であり、ブレーンストーミングで思いついた言葉を書き出し、分類する発見的情報整理術だ。今でもこのKJ法の根強いファン、とくにフィールドワーク分野の研究者は多いだろう。「分類するチカラ」を存分に発揮する道具だからだ。

 関連があるかないか分からない多くの情報を目に見える形で分類し、整理する術

なのだ。

 大学受験や社会人の面接、小論文にも役立つように、次回は

 「自分の観点を持つ」(2月13日夕方)

も、必見だ(  注記 )。

 ところで、BS放送では

 放送大学の講義

もある。しかし、おもしろくないのはもちろん、到底、ためになるような代物でもない。話し方もいかにも自信なげにもぞもぞと話す。どうしてそうなるのか。授業プログラムに動機付けがないことも原因だが、それよりもなによりも、講義する先生に面白くしようという気持ちがまるでないことが原因だろう。授業を面白くするなどは、自分の沽券に関わるととでもいいたいような退屈な番組だ。

 その根底には

 教えてやる

という旧態依然とした「上から目線」があり、それが鼻につく。

 だが、ハーバード大学の「白熱教室」が示すように、面白くするという言い方が下世話に聞こえるなら、

白熱教室

をつくりだす授業といってもいい。

 もう一つ、放送大学のテキストは面白くない本のつくりかたの典型例だ。芸がない。のみならず、無味乾燥を教科書にしたような干からびたテキストにはあきれる。

 大学の秋入学が話題になっているが、良い学生を集めるには、そんな小手先ではなく、教育の中身改革、教育する教授陣の意識改革がまず先決だろう。そうした改革が白熱化しないかぎり、放送大学の未来はないと、元私立大学教師のブログ子として断言できる。

  注記    書き出しと「な・た・も・だ」を使おう

 テストの花道には、これまでの番組をまとめた単行本

 『テストの花道』(河出書房新社)

が最近出版されている。人は「考え方」を手に入れたとたん頭が良くなる!と銘打った本編のほかに、試験に必要な「考えるチカラ」が身につく勉強術と腰巻をつけた続編(弱点攻略術)も出ている。

 あまりにも面白く、かつためになるので、二冊ともメモを取りながら読んでみた。その一部を紹介すると-。

  まず、本編。

 ノート術。ノートを見開きにして、左ページは板書を筆記するメモ用、右ページは授業後に調べたことも記入する整理用に使うというもの。さらに、まとめの右ページは

 パッと見てすぐわかるように

 色分けする。

 次に、感想文ではなく、論理的な文章術。

 自分の言いたいことをまず述べる「書き出し」と「きっかけ言葉「な・た・も・だ」を使う

というのだ。

 「な」とは、なぜならのことで、「書き出し」で述べた自分の意見などの理由をまず明確にする。これは起承転結の「起」にあたり、それを具体的に表現した呪文。

 「た」とは、たとえばのことで、わかりやすい具体例を挙げて考えるきっかけをつくる呪文。これは「承」にあたる。

 「も」とは、もしものことで、別の視点から考えてみるきっかけ言葉。「転」である。

 「だ」とは、だからのことで、結論を述べるきっかけ言葉。

 起承転結よりも、具体的なのがいい。

 次に、続編。

 文章を構成する一文の書き方が伝授されている。

 いつ、どこで、だれが、なにを、なぜ、どのように行ったかという

  5W1H

である。この6つの文の構成要素に注意して、過不足のない論理的な一文がかけるというものだ。

 また、5W1Hから、類推するチカラもつくという。というのは、それぞれの文中の単語間の共通点が探しやすくなるからだ。共通点が見つけることができれば、「類推するチカラ」もつくというわけだ。文の構造に注意すると、類推もしやすくなると指南している。

 いずれもなかなか面白い指摘である。なによりも具体的なのがいい。

 この続編には、国語だけでなくほかの科目も加えて、なんと総合テストまである。

 大学生、社会人にも読んでもらいたい〝名著〟だろう。

 最後に一言。番組タイトルを、テストの王道とせず、花道としたいかにもしなやかな感覚は、すばらしい。ほとんど同じ意味だろうが、あえて花道とした感性。スタッフのなんとか高校生をひきつけたいという気迫のこもった名言と受け止めたい。

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植物にも〝自己犠牲〟 マングローブの秘密

(2012.02.04) 偶然だが、立春のきょう、

BSプレミアム 「ワイルドライフ(野生の生き物)」

という番組を見ていて、日ごろ不思議に思っていた疑問が解けた。

 海水と淡水の境、汽水域に生息するマングローブの森は、普通の植物のように、なぜ塩害で枯れてしまわないか

という問題だ。

 マングローブは、アカネ科などいろいろな(落葉、常緑)広葉樹から成り立っている熱帯・亜熱帯の汽水域にある森。塩害で木全体が枯れないのは、生い茂る葉っぱのごく一部が根元から吸い上げた塩分すべてを一手に取り込んで、ほかの葉っぱを塩害から守っているというのだ。映像で、その黄色く変色して落葉する〝自己犠牲〟の様子を見せられて、ワイルドライフのたくましさにつくづく感嘆した。

 映像は亜熱帯の西表島のものだったが、マングローブにはそんな仕組みが、生き残りをかけた海への進出という進化の過程で生まれたのだろう。

 木全体の葉っぱが秋になるとエネルギーの消費をできるだけ少なくするために黄色や赤に変色し落葉するのは、生物学では「アポトーシス(自殺)」というが、珍しいことではない。自己防衛本能だろう。しかし、ある特定の葉っぱだけが、あたかも仲間のほかの葉を守るかのように落葉するとは知らなかった。

 また、今回の番組では、海の生き物(動植物)と淡水の生き物が汽水域でたがいに共生している様子を鮮やかに映し出していた。たとえば、潮の満ち干しを通じて、マングローブの森は、引き潮では軍隊ガニとも呼ばれるミナミコメツキガニと見事に共生していた。さらに引き潮ではマングローブの森に落ちた葉っぱを海から来た巻貝が食料にする。逆に満ち潮では魚も葉っぱをえさにするという具合だ。

 この映像をみると、ある特定の種だけを保護するというのは大変に難しいことがわかる。やはり、その環境に生きる種全体を守る環境づくり、つまり、共生という考え方をそこに生きる動植物全体に拡張した

 生物多様性

の考え方が今後は重要であることを改めて気づかせてくれた。

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柳の下の「はやぶさ」 ああ日本映画の衰退

(2012.02.03)  きょうは節分、明日は「立春」。気分も新たに、いつもの単館系映画館ではなく、久しく行っていないシネコンにでも行こうか、と思った。

 「はやぶさ遥かなる帰還」(瀧本智行監督、科学者役は渡辺謙、東映)

がまもなく公開されることを知った。2010年6月にさまざまなトラブルに見舞われながらも奇跡的に地球に戻ってきた日本の小惑星探査機の物語である。日本中がその壮絶な帰還にわいた。

 ところが、すでに、昨年10月に

 「はやぶさ HAYABUSA」(堤幸彦監督、科学者役は西田敏行)

が公開されたし、この3月には

 「おかえり、はやぶさ」(本木克英監督、科学者役は藤原竜也、松竹)

も公開されるという。

 科学者が主役の、しかも事実に基づいた映画が立て続けに配給されるなんて、日本では異例中の異例だろう。

 もっとも、本当の主役は科学者ではなく、はやぶさという探査機なのだが、これを競作というにはあまりにも、言ってはなんだが、見え見えの

 柳の下のなんとか

ではないか。

 当たると分かっているテーマに絞り、しかも低予算でしかつくれなくなった日本映画の衰退もここまで来たか、という印象だ。なんとか「制作委員会」という、その場その場の寄り合い所帯というか、無責任というか、なんだか実態不明な方式による映画づくりしかできなくなった日本映画界の悲しい現実を見ているようで、シネコン系映画館にはますます行く気がしなくなった。

 そんなにがにがしい思いでいたら、2月2日付毎日新聞夕刊コラム「シニア映画「歓」」 で筆者の野島孝一さんが、こうした〝競作〟について

 「日本映画は知恵がない」

と嘆いていた。そのとおりだろう。言葉はわるいが、貧すれば鈍するの典型例だ。

 それに比べると、実話を基にした

 米映画「アポロ13」(ロン・ハワード監督、船長役はトム・ハンクス、1995年)

は、実写と最先端CGを駆使した見事な人間ドラマに仕上がっていた。事実は小説よりも奇なりというのを地で行った映画だ。

 1970年、3度目の月面着陸を目指した米有人宇宙船アポロ13号が地球から月到着直前で爆発事故を起こた。2基の酸素タンクが二つともダメになりながらも、地球に生還する絶体絶命の人間ドラマだ。最難関の地球大気圏への再突入では、船長が筆算し、手書きの計算式チェックリスト(月面モジュールシステム稼動手順書 注記)で、しかも実行は手動で行うというドラマチックな出来事を見事に再現している。

 刻々と死が迫る中での行き詰るラストシーンは、今もブログ子は忘れられない。

 アポロ11号の人類初の月着陸の成功(1969年7月)も偉大だが、アポロ13号の奇跡の生還というアメリカの危機管理能力の高さ、科学技術水準のすごさをまざまざと見せ付けたという点では、アポロ13号の事故は、あまりにも偉大な失敗だった。

 映画制作にあたっては、実際に航空機で無重力状態をつくりだしたりしたという。こうしたことについては、

 『アポロ13号奇跡の生還』(H.クーパーjr.、立花隆訳、新潮文庫、1998年)

に詳しい。

 「2001年宇宙の旅」のようにSFにも優れた作品は多い。しかし、SF映画では人間の真実に迫るには限界がある。SFにはない、つまり人間の真実をえぐる感動のサイエンティフィク・トルー・ドラマ(STD)というものがあるとすれば、その嚆矢は「アポロ13」だろう。トルー(true)とは、事実に基づくという意味で、フィクションの対語である。

 日本のはやぶさ映画も、アポロ13号の映画の出来とまではいわないが、単なる金儲けの材料として利用しただけの商用映画に終わらせたくない。日本のSTDのさきがけにしたいものだ。

 注記

 この船長手書きの計算式を含むチェックリストが、つい最近、競売にかけられ、約3000万円で落札されたという。

  追記 2012.02.04

  かつて見た「アポロ13」をこの機会にあらためてDVDで見てみた。この船長の計算では、コンピューター時代の到来直前ということもあり、当時としては見慣れた

 計算尺

を使って行われたことを知った。宇宙船に計算尺が持ち込まれていたとはオドロキだ。ブログ子も大学院に入った頃、タイガー計算機とこの手計算で使う計算尺は研究には欠かせないものだったのを懐かしく思い出した。

 しかし、17年も前の映画だが、その感動は少しも変わらなかった。SFにしろ、STDにしろ名作とはそういうものだろう。

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大地の上の雲 映画「戦争と平和」

(2012.02.02)  前回のブログで、歴史を動かすもの、それは

 リーダーの恨みつらみと打算であり、それに偶然と不運が重なったもの

だと書いた。論理明解な大構想や大戦略などというものは歴史家が後知恵でこじつけたものだとも言った。確かに、ミクロ的に戦争と平和を考えるとそうだが、世界史的に考えると、つまり、100年、200年というマクロ的な時間スケールと地球規模スケールで歴史を眺めてみると、様相はだいぶ違っているように感じる。

 運命、とりわけ国家の運命とか、国民の運命とか

というものが歴史を動かしているようにも感じる。

 BSプレミアムで3夜連続の

 ソ連映画「戦争と平和」(1966年、全4部)

を深夜にも関わらず見た感想である。ナポレオン率いる大陸軍と帝政ロシア軍の間に展開されたボルジノの戦いなど壮大な戦争シーン(1812年秋)は圧倒的だ。もちろん、原作は世界の文豪、レフ・トルストイの同名小説。

 ブログ子は、1860年代に執筆されたこの原作を読んではいないが、ナポレオン戦争にかろうじて勝利したものの、戦後ロシアの貴族社会がやがて崩壊するであろうとの予兆を見るものにうかがわせる一大叙事詩と言える。すくなくともトルストイ自身の予感が感じられる。

 映画を見ていると、盛んに、壮大な戦闘が繰り広げられている大地を雲よりも上空から雲の動きと戦闘の様子を見下ろすように映している。また、しばしば大地から上空に流れる雲だけを延々と映し出したりもしている。そんなシーンを見ていると、ふと、トルストイ同様、崩壊の予兆を感じる。国家の運命は、無数の個人の運命を押し流す力を持っているとも感じる。

 司馬遼太郎さんの日露戦争を描いた『坂の上の雲』ではないが、そんなシーンを見ていると

 大地の上の雲

という崩壊する国家の運命を想起せざるを得なかった。司馬さんの「雲」は明るい理想の雲だが、大地の上の雲のほうは、貴族社会を崩壊させる運命の雲だ。

 その崩壊を決定的にしたのは、

 その約100年後の

 日露戦争(1904年)

であろう。この戦争は、帝政末期のロシアに

 血の日曜日事件(1905年)を経て、ロシア革命(1917年)

を用意した。

 いみじくも、

 ロシアの復活は大地から始まる、とトルストイは書いている。その意味は、トルストイ文学に共通する思想であるが、

 歴史を動かすものは英雄でも貴族でもない。それは農民である

ということだろう。

 それから、これまた約100年後、共産党ゴルバチョフ時代を経て、再び今

 プーチン〝帝政〟時代

を迎えようとしている。

 トルストイは、ロシア革命をみることなくなくなったが、晩年の大作「復活」のような、ユートピアとも思える理想の共産主義を思い描いていたらしい。

 もし、今、トルストイが生きていたら、

 ロシアの新貴族社会の到来

をどんな目で眺めるだろうか。

 晩年のトルストイが思い描いたような〝偉大な思想〟ほど、現実は単純ではないようだ。そんな思いで深夜の超大作を見ていた。

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