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人間冒とくの残酷物語 エンディングノート

(2012.01.10)  一見、家族のきずなで結ばれた愛の物語のように思えるが、それは家族の錯覚で、末期がんで死んでいく本人からすれば、

 ひとりで死んでいかなければならない死に際ぐらい、せめて静かな孤独の時間がほしい

と思ったのではないか。 ドキュメンタリー映画「エンディングノート」を拝見したときの正直な感想である。

 チラシには

 「残された時間を前向きに生きようとする父と、家族の姿。涙と笑いに包まれても、誰もが自分の家族に思いを寄せるあたたかな作品」

とある。しかし、はっきり言えば、この映画は、この制作意図とはまったく正反対の人間冒とくの残酷な物語ではないか。父親本人は末期がんの宣告を受けぬまま、父親の刻々と死に向かってゆく様子を、まもなく死ぬことを知っている娘の監督が克明にカメラを回し続ける。

 けなげにも、父親はユーモアと笑いで家族に接する。最後までサービス精神旺盛な家族思いのやさしい父親だと思う。しかし、家族は、刻々と死に向かっている父親にやさしい思いやりをしたであろうか。

 チラシには「エンターテインメント・ドキュメンタリー」となっているが、娘が肉親の父親を材料に撮り続けたとはいえ、娘が監督だからといって、生身の人間の死に際の、死に様を道化役者のように〝エンターテインメント〟していいのだろうか。ユーモアのうらにある死への恐怖、苦しみがあることに気づいていたであろうか。若い監督の初監督作品だそうだが、人間の尊厳が感じられない映画であり、後味の悪い、という上品な言い方より胸くその悪い作品だと感じた。

 チラシに作家のよしもとばなな氏が

 「この映画は希望だと思った」と、「結束のかたい家族への愛」にエールを送っているが、何かの間違いではないか。

 作家、山田風太郎の、古今東西の著名人の死に際の生き様を活写した傑作に

 『人間臨終図巻』(徳間文庫)

というのがある。死亡時の年齢順に「いかに死んだか」をこれでもかこれでもかと書き綴っている。その中に、

 自分の死は地球よりも重い。他人の死は犬の死よりも軽い。

というこの作者の強烈な言葉が出てくる。今回の映画を見ていて、この言葉が思い浮かんだのは偶然であろうか。

 こちらは、偶然だが、この映画を見た夜、NHKBS放送で、

 「生きる」(黒澤明監督、1952年、東宝)

を見た。余命半年の末期がんにおかされた公務員(市民課長)の生き様を描いている。あまりにも有名な映画だから、そのあらすじをここでは省略するが、

 生きるとは何か

をしみじみと見るものに訴えかけている。がんにおかされたものの恐怖と悔恨が映像から伝わってくる。この映画には家族に裏切られた主人公が自分の人生を振り返りる、悔恨と孤独、そして静かな時間が流れていた。特に、雪の降る深夜、主人公が心血をそそいで実現させた公園のブランコに、ただひとり揺られながら歌うラストシーンは、主人公の死直前の内面を描いていて、すばらしい。

 新人監督の初作品と世界の黒澤映画を同日に論じることは、あるいは黒澤映画の冒とくになるかもしれないが、

 エンターテインメントとは、人間をおもしろ、おかしく〝おもちゃ〟にすることではない。ましてや、死に際の人間を。上っ面をなぞるのではなく、黒澤映画のように人間の真実に迫ってほしい。

 二つの映画を見てそう思った。

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