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欠けていた「浜松発のまちづくり」の視点 家康公シンポ   

(2011.12.04)  よくあることだが、パネラーに豪華メンバーを取りそろえてシンポジウムを行うと、たいてい、その顔ぶれに幻惑されて、あるいは満足して、シンポそのものは実のないものに終わる。

 先日、浜松市で市制100周年を記念して開かれた

 家康公シンポ

も、その典型だった。何しろ、このシンポのパネラーには

 徳川宗家18代当主、徳川恒孝(つねなり)氏、つまり将軍家当主

 家康の四天王、酒井忠次の子孫、酒井忠久氏(酒井家当主)

 家康の四天王、本多忠勝の子孫、本多隆将(たかゆき)氏(本多家当主)

  家康の四天王、榊原康政の子孫、榊原政信氏(榊原家当主)

  家康の四天王、井伊直政の子孫、井伊直岳(井伊家当主)

が初めて、一堂に集うというのだから、歴史的なシンポだ。応募者は募集人員をはるかに超える人気だったらしい。

 しかも、コーディネーターが、話上手でテレビや講演会にも頻繁に登場する日本中世史が専門の小和田哲男氏(静岡大学名誉教授)とくれば、ひとが集まらないわけはない。

 シンポのサブタイトルは、100周年を機会に、

 家康公を振り返り、家康公と歩む浜松発のまちづくり

を考えようというものだった。

 しかし「振り返り」もほとんどといっていいくらいなかった。ましてや、「まちづくり」に一言でもいいから触れたパネラーは、一人もいなかった。コーディネーターも、これらの点に水を向けることもしなかったのは不思議だった。

 シンポは、案の定、失敗だった。この種の豪華メンバーを揃えたイベントは、中身より、顔を揃えるのがすべてなのだ。中身などどうでもいいのだ。

 後世、出世城と異名をとる浜松城だが、現在は、「古城」と呼ばれる現在の東照宮など、ごく一部を除いて、ほとんどその原型をとどめていない。浜松市博物館の「城絵図」展の立体模型(家康在城時)を見てもこれはいえる。なにしろ、当時の浜松城の二の丸のど真ん中を、現在の国道152号線がぶち抜いている。

 また、シンポの際、配られた

 浜松城推定復元図

には、現在の地図が重ねられており、これを見ても、かつての浜松城は、現在ほとんど原型をとどめていない。たとえば、浜松市役所・中区役所は、かつての本丸と二の丸の境に位置しているが、当時をしのぶものは、よほどの専門家でない限り、わからない。城の表玄関、大手門の位置すら、一般にはその痕跡すら見ることはできないというのでは、あまりにさびしい。

 「浜松発のまちづくり」とは、言葉だけではないか、といいたくもなる。また「家康公と歩む」とシンポのサブタイトルにあるが、こうした現実を前にすると、なんだか、むなしいし、かなしい。というか、気恥ずかしい。もっとはっきり言えば、情けない。

  そのせいだろう、配布パンフのこの復元図(浜松市文化財課)には、小さく、

 三の丸をはじめ城域の多くは市街地の(地)中に埋もれている

と書かざるを得なかった。これでは復元図というよりも、浜松城破壊図といったほうが、わかりやすい。

 天守閣も、はっきりした根拠もないまま〝復元〟されたというから、文化財もへちまもない。唯一、家康時代の面影を残す東照宮(古城=引馬城、曳馬城)も、訪れる人もほとんどなく、さびしい放置状態といえなくもない。放置していないというのならば、少なくとも案内板が必要ではないか。

 昔のものを大切にし、それを生かしたまちづくりを本気でする気ならば、そして、シンポで浜松市長がいみじくも言ったように

 浜松に勤務経験を持つと、必ず、その後出世する

ということを本物にする気ならば、うわべだけのシンポではなく、知恵を出し合う実のあるシンポが期待される。

 薄暗くなったシンポの帰り道、そんなことを浜松市民として思った。

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