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湯川秀樹の「急がば回れ」 原子力と政治 

(2011.11.18)   静岡新聞朝刊に随時連載されている

 原子力時代の死角 原発導入の源流(11月16日付)

を興味深く読んだ。科学と政治について具体的に考えさせてくれたからだ。日本の原子力の研究・開発・利用の方向性がほぼ決まったのは、1950年代。学者の国会と言われる日本学術会議が1949年設立されて、原子力は平和目的に限定し、しかも民主的、自主的に行い、情報公開の3原則の下に行うことが採択された。 

 この間、湯川秀樹氏が核力の原因解明の研究でノーベル物理学賞を受賞(1949年)やアメリカのビキニ環礁での水爆実験で日本の第五福竜丸が被爆するなどの出来事が起きた。こうしたことから、日本の原子力行政の憲法とも言われている原子力基本法も学術会議の採択を尊重する形で1955年に制定された。

 しかし、1950年代後半に入ると、この3原則は大きく変質していく。自主ではなく出来合いの原発を手っ取り早く輸入する方向に大きく舵を切った。戦後復興に伴って、当時、エネルギー不足が深刻化していたからだ。その中心人物が、原子力委員会の初代委員長、正力松太郎氏であった。戦争の痛手から一刻も早く抜け出したい経済界の後押しもあり、自主に基づく独自開発路線をあきらめ、イギリスやアメリカで開発された原発の輸入を強引に推し進めた。

 このことが今日の大震災での福島第一原発の事故につながったのだ。ここの原子炉はアメリカのGE社製であり、1980年代には全電源喪失時には水素爆発などが発生する危険性が報告書などで指摘されていた。しかし、輸入技術の悲しさで、日本ではそのシュミレーションの結果は知らされなかったのだ。

 原子力委員会が設立された当時、湯川氏は原子力委員の一人だったが、政治家や経済界の動きに反発し、任期わずかで辞任している。

 そこで書棚から、

 『湯川秀樹著作集』(岩波書店)

を取り出し、紐解いてみる。湯川氏は次のように当時の日本の原子力の状況について、第5巻の「平和への希求」で書いている。

 「どこかの国が基礎科学の成果の中から、大きな実利を見つけだしたのを知ると、あわてて最後の結果だけをとり入れようとする。 (中略)  「急がばまわれ」という諺がある。原子力の場合には、これらの言葉がピッタリとあてはまる。順序正しく進むこと、緩急の調整をあやまらないこと、各方面の人がそれぞれの狭い立場に閉じこもってしまわないで超党派的に協力すること、などの諸点が守られるなら、原子力の平和利用についてのわが国の前途は決して悲観したものではないのである。」(1957年1月、『現代科学と人間』)

 エネルギー不足を解決するには、当然踏むべきステップを飛びこして原子力発電を急速に実現したいという経済界の動きに対して、50年代後半の当時、まだまだ原発をめぐる情勢は流動的であるとして、湯川氏は

 「苗を育てる下地を作っている最中に、いきなり大きな切花を買ってくる」

とのうまい表現で、二十年、三十年先を考えないで、目先の「小さな狭い意味での」実利にとらわれすぎてはならないと警告。功を急がず着実に進むべきだと訴えている。

 東日本大震災の今にして、この指摘の重みを感じざるを得ない。

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