« 2011年10月 | トップページ | 2011年12月 »

2011年11月

希望の持てる社会 大河ドラマ「江」最終回を見終わって

(2011.11.28)  NHK大河ドラマ「江」の最終回を見終わって、最終回タイトル「希望」からの着想だが、この一年間のドラマは何を言いたいのか、その現代的な意義に初めて気づいた。

 それは、戦国時代も現代もなお男優先社会にあって、

 希望の持てる社会をどう築いていくのか

ということではなかったか。その姿を、戦国の世の悲哀とともに、たくましく生きる江に託して描いたのだと思う。何度となく挫折を繰り返し、その都度、どうそれを乗り越えていったのか。それは希望というものがあったればこそではなかったか。「泰平の世」という希望である。

 姫たちの戦国

という視点も斬新だが、その現代的な意義は今の世にも通じるように思う。ただ一人、江がススキの高原を馬に乗って一人颯爽と夕日に向かって走り抜けていくシーンは、

 女性や子どもたちが希望の持てる社会はきっと来る

ことを暗示させており、秀逸であり、優れた演出であった。

 ただ、少し辛口の批評をすれば、それだけに、最終回のほかの部分はもう少し引き締まったものにしてほしかった。お涙頂戴的なシーンが多すぎた。視聴率を気にしたからだろう。

 新・幸福論として、東大教授の玄田有史(労働経済学)さんは、希望学という新しい社会学を研究している。その玄田さんによると、

 「希望は、幸せな時や楽しい時にではなく、厳しい現実に立ち向かっていく時に、湧き上がってくる言葉」

と指摘している。ドラマでも最終回の最後で、秀忠が、馬で一人駆け出そうとしている江に向かって

 「そなたは、わしの希望だ」

と言葉を投げかけているシーンは、これから立ち向かう厳しい現実を彷彿させる粋な演出だ。

 玄田さんは、こうも言っている。

 「一人の希望を持った行動が、必ずや地域や組織の人に伝わり、社会を動かす風になっていく」

 大河ドラマでも、時代に流されない江の生き方が、軟弱と言われた秀忠を大きく変えていったように描かれていたが、これは単なる絵空事ではない。現代にもありえることだと思う。

  ただ、昨年の大河ドラマ「龍馬伝」との関連が少し気になる。龍馬伝の最終回は龍馬暗殺だったが、その一つ前の回。龍馬は明るい窓に向かって、大声で

 「新しい日本の夜明けだ」

と叫ぶシーンがあった。口癖だった「みんなが(とりわけ、女性が)、笑うて暮らせる世の中にせにゃならぬ」、そのための大政奉還だという筋立てになっていたが、そうすると、徳川時代=江戸時代が終わろうとしていたときになっても、なお江や秀忠が願っていた理想からは遠かったことになる。

 そして、龍馬の言う「新しい日本の夜明け」は、現代の今もさまざまな問題を抱えながらも、とにかく明治維新によって実現したものの、その中身から言えば、

 希望の持てる社会

の実現の道のりは、まだまだ険しいと言えそうだ。

 追記

 玄田さんの言葉については、

 2010年2月12日付毎日新聞夕刊 「新・幸福論」からの引用

  補遺 2011.11.30

  番組批評の追加をしたい。

 「江」の大阪の陣から最終回までの5、6回分に、まったく

 伊達政宗

が登場しないのは奇異な感じがした。ブログ子は、今年一年かけて、山岡荘八の『徳川家康』全18巻と、『伊達政宗』全4巻(山岡荘八)を読破したが、政宗は、家康はもちろん、秀忠、家光に多大な影響を与えた。外様大名ではあっても、家康はともかく、秀忠、家光の時代、徳川家のお家騒動になりかねない動きを未然に防止する政策決定に深く関与している。

 姫たちの戦国

という視点からは、男の視点を切り落とすのはある程度はやむを得ないが、政宗の反骨精神を取り入れたなら、最終回のお涙頂戴シーンはもっと引き締まったであろうと思う。そうすれば、秀忠が大物外様大名でかぶき者の政宗を上手に使った「守成」の将軍として、その存在の大きさを視聴者に示せたであろう。これによりドラマにぐっと深みが加わったはずだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ブラックホールを見つけた男  

(2011.11.27)  本棚を整理していたら

 『ブラックホールを見つけた男』(草思社、2009年)

というのがあった。暇になったのを機会に通読してみた。インドの若き天才、S.チャンドラセカールの伝記であるとともに、

 いかにしてこの奇妙な天体を理論的に発見したか、1920年代の世界の物理学界の思い込みと偏見と闘った男の人間くさい物語である。

 当時の物理学の常識、ブラックホールなどという奇妙な天体など存在しない

という雰囲気の中で、彼は理論的にはありうるとして大御所、A.エディントン卿に挑んだのである。それはインド人という人種差別むとの戦いでもあった。

 理論的には1920年代にはその存在は信じられるようになった。しかし、実際にそうした天体を発見することは当時、不可能だと信じられていた。光を出すことすらできないのでは観測できないからだ。

 ところが、1970年代、連星系の一方がブラックホールなら、相棒の普通の星から大量の物質を吸い込むときに、強烈なⅩ線を出すはずだとの想定で、ついに、日本人の小田稔が

 ブラックホールを観測的に見つけた男

となった。

ブラックホール発見第1号、白鳥座Ⅹ-1

である。消されかけた世紀の発見が、50年の歳月の後、華々しくよみがえった瞬間であった。Ⅹ線天文学の始まりと言っていいだろう。

 単独の星がブラックホールになるには、もともとの質量が太陽の8倍以上必要であると理論からわかっていたが、

 山形市のアマチュア天文家で、超新星ハンター、板垣公一さんが2005年7月に発見した超新星「SN2005cz」のもともとの星の質量が、太陽の質量の約8倍であることがわかり、これまでのうち最も軽量だとわかった。これにより、ブラックホール理論の正しさが証明されたらしい(2010年5月20日付静岡新聞=共同通信配信)

 板垣さんは、2011年夏、70個目の超新星を見つけている日本一のハンター。蔵王のふもとに設置した私設天文台で夜な夜なコンピューターとにらめっこしながら、気長に記録更新を続けているブログ子と同じ歳の団塊世代である。本業は小さな菓子メーカーの経営者。山形大学から名誉博士号ももらったらしい。天文学への貢献度からすれば当然で、その価値は十分ある。

 団塊世代は元気なのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

専門家の思い込み 神話が崩壊するとき

(2011.11.27)  リニューアルオープンしてまもない浜松市博物館(中区蜆塚)をたずねた。いつか対面したいと思っていた

 浜北人(縄文時代以前の、今から14000年から18000年も前の旧石器時代人。化石人骨)

にお目にかかった。といっても、頭骨、右上腕骨、右尺骨、骨盤(女?)の精密なレプリカ(本物は、東大総合研究博物館所蔵)。出土地は浜松市浜北区根堅の石灰岩の割れ目から出土したという。説明板には「本州で最古の人骨」とあった。

 この若い女性と考えられる新人は、今から約10万年前、アフリカ東部を出発した新人(ホモ・サピエンスの中の現生人類)が世界中に広がり、約4万年前には大陸と陸続きであった北海道か、九州・沖縄から日本列島に入ってきた人たちの子孫の一人なのだろう。

 博物館の近くには、佐鳴湖(かつては遠州灘とつながっていた)があり、博物館に隣接した巨大な貝塚がいくつもあり、縄文式の建物も数棟発掘されており、その復元もあった。ということは、博物館のあたりには、かつて縄文集落(今から3000年から4000年前)があったことになる。シジミや三方原台地の木の実を食べていたのだろう。たまにはイノシシやシカも食べたらしい。貝塚にその骨が出て来るそうだ。

 浜北人の出土地と蜆塚遺跡とはそう遠くない。ということは、

 あるいは浜北人の子孫が縄文時代に蜆塚をつくった

と考えても不思議ではないだろう。

 とすれば、旧石器遺跡がこのあたりに発見されてもおかしくないことになる。

 日本で初めて縄文以前の旧石器時代の遺跡が発見、確認されたのは戦後間もないころだが、それまでは考古学の専門家は、

 日本には縄文以前の旧石器時代(今から12000年以上古い無土器時代)は存在しない

と信じられていた。発見したのは、アマチュアの考古学者、相沢忠洋である。先入観のない目でこつこつと遺跡探しをやって見つけたものだ。思い込みがなかった。日本に旧石器時代はないという科学的な根拠のない、いわば神話であることがこの岩宿遺跡(群馬県、今から約25000年以上古い)の発見によって初めてわかったのだ。

 驚いたことに、これを契機に続々と国内に旧石器遺跡が全国で見つかっている。つまり、土器は使用していないが、磨製石器が出土する。いわゆる後期旧石器時代の遺跡だ。今では、全国に10カ所近くもある。

 残念ながら、旧石器時代人の人骨は見つかっているが、浜松にはまだそうした旧石器遺跡は見つかっていない。思い込みを排して、丹念には浜北区あるいは中区の佐鳴湖付近を調査すれば、後期旧石器時代の住居遺跡が必ず出てくると思う。

 この湖の近くからは、今から約1万年まえから数十万年前に生息していた

 ナウマンゾウの大腿骨(今から約20万年前のもの)

や歯、後ろ足と骨盤の一部が見つかっている。当時、食料にしようとしてこのナウマンゾウを追って大陸から新人もやってきたはずだ。定住もしただろう、協力して獲物をしとめるため集落もつくっただろう。

 いつか、きっと、浜松には旧石器時代の遺跡・住居跡が発見されるだろう。

 そんな思いで、博物館を後にした。

 思えば、専門家の思い込みは、何も考古学だけでなく、最近では

 日本付近では、M9.0以上の超巨大地震は起こらない

という根拠のない神話が東日本大震災で一挙に崩れた。崩れた跡では、M9.0の地震は過去にもあった、今後もその可能性があるとの専門家の学会発表、論文発表が相次いだのは皮肉なことだ。

 また、宇宙の膨張についても、重力が働いて当然、膨張は減速しながらふくれており、いずれはその膨張は止まるという神話

も崩壊した。今年のノーベル物理学賞は膨張は、減速するどころか、ますます加速しているという観測的な成果に授与される。ここにも専門家の思い込みがあった。

 既成概念、既成理論は思い込みを生む。

 ノーベル賞の発想とは、専門家がその思い込みにいかにブレイクスルー(突破口)を開く着想を得ること

であろう。

 追記 

 上記の博物館の表示で

 浜北人は、本州最古の人骨(旧石器時代人)

となっている理由は、沖縄県には

 港川人(旧石器時代人の全身骨格、約18000年前)

など、約15000年前から約32000年前の人骨(後期旧石器時代)が数体発見されているからだ。この事実を言わずして、本州最古とするのは、ある意味、来館者に不親切であり、「日本最古の人骨」という誤解を与えかねない。表示に一工夫が必要だ。

   それともう一つ、間違いではないが、「浜北人は、本州では旧石器時代人の唯一の出土例で、最古の人骨」と唯一を強調すべきではなかったか。説明にはこの「唯一」がない。説明板の説明では、本州にはいたるところに旧石器時代人の骨が出土しているが、その中でも最古」という意味に早合点されて、出土品の貴重さが十分に来館者に伝わらない恐れがある。せっかくの貴重な展示品の値打ちを博物館自らが見逃しているのは残念だ。

 追記2

 ブレイクスルーに関する好著には

 『ブレイクスルー イノベーションの原理と戦略』(Ohmsha)

がある。ノーベル賞級の発想の数々が書かれている。思い込みを取り除くには、一般化する、あるいは遊びなど、違った見方をしてみるという柔軟さも一つ方法穂だと指摘されている。技術者や科学者ではない人にも一読の価値がある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

多くの謎残したオウム事件 科学と宗教

(2011.11.22)  多くの死者を出し、世界を驚かせた狂気の事件としては、アメリカでの同時多発テロ(2001年)や日本では、連合赤軍による浅間山荘事件(1972年)が思い出される。いずれも政治がらみの出来事であったが、同じ事件でも

 オウム事件(1995年)

というのは宗教と科学が絡んだ理解に苦しむ特異の事件だった。それだけに多くの謎が残った。

 『悪魔の辞典』の著者、A.ビアスは同著で

 宗教とは「希望」と「恐怖」の間の娘(所産というぐらいの意味)

と喝破した。宗教は信者に希望や救済を与える。しかし、同時に、科学や技術と結びつくと恐怖にもときとして変わりえるのだ。そのことを残酷なまでに教えてくれたのが、オウム事件だったといえそうだ。

 オウム事件のような極端な出来事でなくとも、知らぬ間に科学や技術の成果の喜びの声が、一部の人々に恐怖の声となって迎えられることのないように心したいものだ。

 オウム関連の一連の裁判で最後に残った元オウム真理教幹部、遠藤誠一被告の死刑判決が最高裁で先日、確定した。これで13人の死刑判決が確定したことになる。

 遠藤被告に対し最高裁は「科学的知識を利用して犯行に関与し、重要な役割を果たしており、刑事責任は極めて重大」として死刑が確定した。

 謎の第一は、なぜ事件が起きたのかということだ。このそもそもの原因についてはついに法廷では解明できなかった。

 遠藤被告(京大理系大学院)もそうだが、信者や幹部に理科系のインテリが比較的に目立ったことから、

 なぜインテリ層が非科学的で、ある意味で神秘的な世界にのめり込んでいったのか

という不可思議さがこの事件にはあった。合理性を尊ぶはずの理系インテリがなぜ神秘的な考えに立ち至ったのか。単に、〝洗脳〟という言葉だけでは説明付かない。あるいは「ポア」(これ以上悪業をさせないように殺すこと)を恐れて仕方なくという面もあったかもしれないが、幹部たちの積極的な行動はそれだけでは理解できそうもない。閉鎖的な組織にありがちな行動の深層に

 共同幻想

があったというのも、あやしい。なぜインテリともあろうものが、すぐにも気が付きそうな幻想をいだいたのか。これまた常人にはわからない。

 そんなことを考えながら、各紙社説を読んでみた。

 「朝日」社説 「この過ちを伝えていく」

として、解明できなかった点も多いことから、事件を風化させないためには「「オウム」について考え続ける環境を整えていくことが大切」と書いている。もっともだが、しかし具体的にどうすればよいのかには言及していないのが残念。

 謎の核心には触れていないが、長すぎる裁判に対して、迅速化を図る裁判員裁判が始まったことを評価したり、死刑制度廃止に対する考えが薄れ、国民が厳罰を求めるようになったことを憂いている(ような)腰の引けた論調なのが、いかにも朝日らしいが、ブログ子としては不満だ。

 「中日」社説 「問いは社会に残された」

として、理系インテリ層がなぜこのような狂気の事件を引き起こしたか、今後も解明を続けるべきだというような論調。

 「産経」社説 「テロの備えは不十分だ」

として、なお残るオカルトの温床に言及している。1本大型社説以外にも、この事件を大きく取り上げ、なんと、一面トップに死刑判決を受けた元教団幹部13人の顔写真を大きく載せて

 野田政権は執行できるか

と、迫っている。できないのではないかとの皮肉たっぷりなのもいかにも産経らしい記事構成。

 「毎日」社説 「過去の事件にするな」

と朝日に近い論調。

 死刑制度については、最近、高等検索庁の検事としてかつて死刑に実際に立ちあった元検事が最近の裁判員裁判で、立会いの経験をもとに現行死刑制度は残虐な刑罰にあたり、

「死刑は憲法違反」

と証言している。死刑制度を平時はもちろん、戦時においてもEU各国では認めていない。が、日本ではやはり、こうした事件がまだまだ生々しいこともあるのか、最近の内閣府の世論調査では、死刑制度の存置派が以前より、むしろ増えており、当分続けられるであろう。

 などなど、いろいろ考えさせられた16年だったように思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

人の行けないところへ  ロボットと社会

(2011.11.20)   先日、このブログで、

 ロボカップ(サッカーで、人に勝てるロボットの実現)の話をした。ロボットに人に近い能力をいかに持たせるかが勝負なのだが、その逆というか、

 人にはできない、あるいは行くことのできない

機能を持ったロボットづくりも盛んだ。ロボカップでも

 災害救助・救出ロボット部門(レスキュー・ロボ)

がある。

 最近では福島第一原発において、高い放射能物質で汚染されていて、とても人が入って作業できないような危険な建屋で活躍するロボットが

 NHK教育テレビ「サイエンスZERO」

で紹介されていた。番組では千葉工業大学の事例が紹介されていた。

 このロボットは、ゴム製のキャタピラー車輪。右側に3つのキャタピラーをつないでいた。左側も同様で、合計6つのキャタピラーで移動する。これだと、崩壊したがたがた通路、ものが散乱しているところ、ゆがんだ階段も、4台のカメラで人と共同しながらどんどん屋内に入り込み、放射線量を測ることができていた。階段から落下しても、無事にもう一度再開できるのにはびっくり。

 こうしたロボットについては、軍事大国アメリカが最も先端的な技術を持っていることは言うまでもない。無人攻撃戦闘機、無人戦車、火星表面での無人探査機などだ。今回の原発事故災害でも、アメリカ製のロボット放射線量測定ロボットが事故直後から活躍していたのは記憶に新しい。

 これに比べて、決して見劣りしない日本の技術がなぜ、出遅れて出動したか。

 その理由は、アメリカの場合、事故や災害に備えて、ロボットが実戦配備されていたり、人とロボットとの訓練も常時行っているのだ。日本の場合、そこまでは進んでいないので、出動に手間取ったらしい。

 このほか、津波でばたばたになった港湾の海底捜索は、人のダイバーでは危険が高い。そこで

 被害者の捜索のための水中探査ロボット

なども、日本でもすでに実用化している。地震で倒壊した瓦礫のわずかな隙間からでも人がうずまっていないかどうか、探知できる胃カメラのようなへび型ロボットも登場している。

 ここらへんが、つまり、技術開発に力を注ぐだけでは片手落ちであり、すぐに出動できる体勢づくりが欠かせない。日本にとって、福島第一原発事故でのロボット活用における教訓として、こうしたことを今後に生かすことが大事ではないか。

   そんな思いで、ものづくりの街、浜松市内の展示場を先日見て回っていたら、

  四輪駆動の車輪が

 正三角形型の金属キャタピラーになった災害救助用ロボット

が紹介されていた。丸いゴムタイヤよりも、地震などで倒壊した場所のがたがた道をなんなく乗り越えて進んでいた。

 さすがは浜松と驚いた。メーカーは浜松市北区に本社を持つ

 原田精機

だった。技術開発部のS技師にお話をうかがったら、インターネットで人とロボットを結んでやれば、さまざまなところで、ロボットに取り付けたカメラの映像を見ながらできる、と丁寧に教えてくれた。このメーカー、ISO14001も取得している優良企業なのだ。

  北区には、町工場のような小さな企業が多く目立つが、その中にはこうした

 先端企業

も少なくないことを知った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

山城サミット in 浜松 女忍者も〝歴女〟も参加して

 (2011.11.20)  土曜日(講演など)、日曜日(現地見学会)と二日間、浜松市で開かれた全国山城サミットに参加して、歴史小説を読むのもいいが、

 やはりその道の専門家 の話をよく聞いてみるものだ、現地には行ってみるものだ

としみじみ反省した。かの有名な山岡荘八の『徳川家康』全18巻を、じっくり読んで、つい最近読破したのだが、それでも、とんでもない思い違いをしていたことに気づかされたのだ。

 その第一。日本中世史が専門の小和田哲男さん(静岡大学名誉教授)の基調講演。武田信玄率いる武田軍約3万が満を持して、遠州に進攻、浜松城に近づき、そして、三方原台地にやってきたのはよく知られた事実だが、通説どおりに、ブログ子は、てっきり北部の遠州から南下、重要拠点の二俣城を攻めたと信じていた。小説を読んでいるときも、それを念頭に入れていた。

 ところが、この通説は正しいものとブログ子は思い込んでいたが、なんと小和田さんの講演では、そうとは限らないようだ。当時持病が悪化していた信玄であることを考えると、当然考えられるルートは、甲府から静岡に出て、平坦な海岸線沿いに東から西に、すくなくとも信玄率いる本隊は進攻したとしてもおかしくない。同氏はこのルートについて、その可能性が高いからだろう、通説には触れずにさらりと語っていた。通説のルートは、別働隊の可能性があるらしい。これにはびっくりした。何か根拠があるはずだが、浜松城の展示にも、通説のみの進攻ルートが地図に描かれているので、今後の研究が待たれる。

 第二の思い違い。これは見学会の説明員(浜松市文化財課職員)の話で気づいた。現地で二俣城と鳥羽山城(二俣城の南に位置する)の説明があったが、両城は歩いても20分くらいの距離にある。したがって、当初からセット、つまり、最初に二つとも今川氏が築城し、その後、家康が両方とも奪い、三方が原の戦いで、ともに武田方のものになった。それをまた家康が奪還したというように早合点していた。二俣城の北、東、西にある砦も、この二つの城を守るために最初からあったと思い込んでいた。

 ところが、それは間違い。北遠の守りの要衝、二俣城を家康が武田方から再び奪還するために、その真南の前線基地(陣屋)として鳥羽山城が築城されたのだ。そのとき、北、東、西にも、二俣城を取り囲むように家康は砦を築いたという。だから、浜松城と鳥羽山城の築城、つまり石垣のつくり方などは似ているらしい。

 考古学のことを知らないで、現状だけみていたり、小説だけ読んでいると、こんな錯覚、思い込み、誤解がなかなか解けずにいることがあるのだ。

 もう一つ、今度は再認識した点が一つあった。ブログ子は、3年前に浜松に定年転職で金沢から転居してきたが、いわゆる城、砦が北陸に比べてかなり多いことに気づいていた。

 それもそのはず、浜松市政情報誌2号(2011年10月号)によると、城と砦、城館などの戦国時代の軍事施設が

 なんと100以上もあった

とある。これにはびっくり。同誌によると、

 政令指定都市では、学術的に貴重な城として指定史跡になっているものは、浜松市が

  16城

 で、全国一。第2位は岡山市(11城)、第3位に、ようやく北陸の新潟市(7城)が、広島市とならんで登場する。家康の隠居城のあった静岡市は、意外にも少なく2城に過ぎない。立派な名古屋城のある名古屋市もわずか2城。

 浜松は〝山城の街〟

なのだ。

 見学会の帰りのバスでふと、浜松市の指定史跡の山城

 遠江の最北端の山城、高根城

を、来秋にも、たずねてみたいと思った。場所は水窪である。築城は、15世紀前半というから城の起源は戦国時代が始まる以前のものらしい。水窪の中心部と北遠江と南信濃を結ぶ信州街道(またの名を秋葉街道、通称は塩の道)を見下ろすことができることから、このルートを押さえる、あるいは警備するのがこの城の目的だったらしい。それだけに攻防も激しかったのではないか。

 とにかく、いろいろ教えられることの多い二日間だったが、会場、あるいは山城見学会に歴史好きな〝歴女〟がちらほら参加していたことや、

 女忍者(天竜区応援隊、天竜区役所職員)

が出迎えてくれ、同行してくれたのは楽しかった。

 歴史は夜と、女で動いてきた

ことを考えると、もっと女性参加者の増えることを祈りたい。

 追記。

 二俣城には、本丸に石垣の

 天守台

はある。しかし、その上に天守閣があったかどうかは不明という(説明員の解説)。たぶんなかったのではないかという。というのは、天守台に天守閣を築くために必要な礎石を置いた跡ががまったく見当たらないからだ。鳥羽山城にも本丸はあるが、天守台も天守閣もともに、もともとからつくらなかったらしい。城攻めのための臨時の陣屋だったからだろう。

追記

 二俣城の近くに旧二俣町役場があるが、その近くに清龍寺があり、その境内には

 自害した家康の嫡男、信康の廟

がある。一度、一人で静かに訪れてみたい。家康が愛して止まなかった息子のこころが知りたくなったからだ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

湯川秀樹の「急がば回れ」 原子力と政治 

(2011.11.18)   静岡新聞朝刊に随時連載されている

 原子力時代の死角 原発導入の源流(11月16日付)

を興味深く読んだ。科学と政治について具体的に考えさせてくれたからだ。日本の原子力の研究・開発・利用の方向性がほぼ決まったのは、1950年代。学者の国会と言われる日本学術会議が1949年設立されて、原子力は平和目的に限定し、しかも民主的、自主的に行い、情報公開の3原則の下に行うことが採択された。 

 この間、湯川秀樹氏が核力の原因解明の研究でノーベル物理学賞を受賞(1949年)やアメリカのビキニ環礁での水爆実験で日本の第五福竜丸が被爆するなどの出来事が起きた。こうしたことから、日本の原子力行政の憲法とも言われている原子力基本法も学術会議の採択を尊重する形で1955年に制定された。

 しかし、1950年代後半に入ると、この3原則は大きく変質していく。自主ではなく出来合いの原発を手っ取り早く輸入する方向に大きく舵を切った。戦後復興に伴って、当時、エネルギー不足が深刻化していたからだ。その中心人物が、原子力委員会の初代委員長、正力松太郎氏であった。戦争の痛手から一刻も早く抜け出したい経済界の後押しもあり、自主に基づく独自開発路線をあきらめ、イギリスやアメリカで開発された原発の輸入を強引に推し進めた。

 このことが今日の大震災での福島第一原発の事故につながったのだ。ここの原子炉はアメリカのGE社製であり、1980年代には全電源喪失時には水素爆発などが発生する危険性が報告書などで指摘されていた。しかし、輸入技術の悲しさで、日本ではそのシュミレーションの結果は知らされなかったのだ。

 原子力委員会が設立された当時、湯川氏は原子力委員の一人だったが、政治家や経済界の動きに反発し、任期わずかで辞任している。

 そこで書棚から、

 『湯川秀樹著作集』(岩波書店)

を取り出し、紐解いてみる。湯川氏は次のように当時の日本の原子力の状況について、第5巻の「平和への希求」で書いている。

 「どこかの国が基礎科学の成果の中から、大きな実利を見つけだしたのを知ると、あわてて最後の結果だけをとり入れようとする。 (中略)  「急がばまわれ」という諺がある。原子力の場合には、これらの言葉がピッタリとあてはまる。順序正しく進むこと、緩急の調整をあやまらないこと、各方面の人がそれぞれの狭い立場に閉じこもってしまわないで超党派的に協力すること、などの諸点が守られるなら、原子力の平和利用についてのわが国の前途は決して悲観したものではないのである。」(1957年1月、『現代科学と人間』)

 エネルギー不足を解決するには、当然踏むべきステップを飛びこして原子力発電を急速に実現したいという経済界の動きに対して、50年代後半の当時、まだまだ原発をめぐる情勢は流動的であるとして、湯川氏は

 「苗を育てる下地を作っている最中に、いきなり大きな切花を買ってくる」

とのうまい表現で、二十年、三十年先を考えないで、目先の「小さな狭い意味での」実利にとらわれすぎてはならないと警告。功を急がず着実に進むべきだと訴えている。

 東日本大震災の今にして、この指摘の重みを感じざるを得ない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

すそ野を拡げよう ロボットがW杯サッカーで優勝する日  技術と社会 

(2011.11.13)   浜松科学館でサイエンスボランティアをしていると、これまで経験したことのない仕事を任されることがある。それがボランティアの楽しさかもしれない。同時に、技術と社会を具体的に考える良い機会となった。

 先日、同館で世界大会(第16回=来年2012年、メキシコシティ)の出場にもつながる

 ロボカップジュニア 浜松ビギナー大会

が開かれ、ブログ子は、サッカー競技のタイムキーパー役を担当した。小学校高学年と中学生で男の子ばかりだった。試合時間は前半後半ともに5分。途中に5分のハーフタイムがあり、この時間を使って、前半の戦い方をにらんでプログラムの修正を行うこともできる。サッカー場の広さはたたみ一枚分くらいで塀で囲まれている。ボールからは赤外線ビームが発射され、ロボットはそれを感知して、なんとかゴールに球を押し込むというゲーム。

 参加者を二手に分けて、それぞれ総当たり戦(リーグ戦)を行い、それぞれ上位2チームで決勝トーナメントを行う。3位決定戦もある。1チームは、2機で構成する。

 優勝者は、19歳以下を対象とした浜松オープン戦優勝者とともに、来年春の東海地区大会の出場権を得る仕組み。ここで優勝すれば全国大会へ、そして、世界大会へと進める。

 ビギナー大会は、初めてマシンにさわり、制作し、戦い方のアルゴリズムを自分なりにプログラムする。だから、世界大会の最初の入り口である。

 オープン大会とは違って、初心者大会だから、ごく簡単なことしかできないが、2ヵ月くらいでなんとか戦えるマシンが出来上がる。後は、プログラムの改良が決め手となるらしい。本格的な大会では、ロボット同士のコミュニケーションは不可欠だが、ビギナーではそんな複雑な機能はない。自ら赤外線を出して、ボールの位置を探索することもできない。などなど、オープン戦とは異なり、さまざまな制約があるが、それでも迫力ある戦いには感心した。

 そもそもロボカップというのは、

 2050年までに、ロボット工学や人工知能研究の成果を生かして、自律移動ロボット(人間のような2足歩行型でも、車輪型でもよい)チームをつくり、人間のW杯サッカー優勝チームに勝つことを目的にしている。 

 ロボカップジュニアというのは、オープン大会やビギナーも含めて、ロボットの設計、プログラミングを通じて、ロボカップの担い手を育てるのが目的。

 ロボカップは、日本で生まれたプロジェクトであり、かれこれ20年近い歴史を持つ。

 NPO法人「ロボカップ日本委員会」があり、国際委員会もある。最近では、サッカーだけではなく、救助(レスキュー)を目的にしたもの、家庭で生かすことを目的にしたものなどもある。

 ビギナー大会に携わった感想を一つ。女子児童・生徒も参加してはどうかということ。第二は子供たちビギナーを指導する指導者の育成、第三にはジュニアオープン大会を盛んにすること-などだ。浜松はものづくりでは日本の先端を行っているのに、別の日に設定されていたオープン戦がさびしかったのは残念である。来年の奮起を期待したい。

 世界大会へ、ジュニア層のすそ野をぜひ、もっと拡げたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

七宝焼  浜松科学館「大人の創作時間」

 (2011.11.07)  ブログ子は、定年後から浜松科学館のサイエンスボランティアをしている。主として子供たちのお手伝いをしているが、今年から「大人の創作時間」を設けている。その手伝いをした。

 七宝焼の美しさは、東海地方に来て、まじかに作品を見てみて、その美しさに驚いたが、幕末ごろからオランダからその技術が入ってきて尾張地方で盛んになったようだ。最も有名な先達としては、

 梶常吉

が知られている。

 そんなこともあり、浜松でも七宝焼に関心を持つ女性は多い。そこで、創作してみたい大人を募集して、制作の手伝いをした。手ごろなところから、丸いブローチを制作した。

 土台は、銅版。その上にガラス質の釉薬を並べていく。本格的な制作の時には、色の違う釉薬の境には、描きたい形に折り曲げた細い「銀線」をおいて〝仕切り〟にする。実習では10種ぐらいのガラス釉薬を細い竹べらで銅版においていく。仕切りはつくらないから、釉薬と釉薬の境を、釉薬同士が重なり仕上がったときににじまないように調整する。さりとて、基盤の銅版が見えるようではダメ。そうならないように好みの図案を作り上げる。このへんの微妙な加減が難しい。

 模様が出来上がると、500度ぐらいの電気炉で焼き固めると出来上がり。これだけだが、繊細な手さばきが必要なので、意外と時間がかかった。焼く前と、焼きあがったときとでは、色が全然違っているので、出来上がりを想像して釉薬を置いていくのがコツとか。

  参加者は思い思いのデザインに対して、どんな仕上がりになるのか、どきどきしながら電気炉を見つめていた。

  反省としては、最初は試作品をつくってもらい、その後で本番に臨むというように二段階にすれば、仕上がりはより満足の行くものになったはずだ。それには、銅版を二枚渡して、制作するという工夫が好ましいのではないか。

 七宝焼は正倉院にもあるので、歴史は古いが、幕末から盛んになったようだ。明治、大正時代が最盛期らしい。名古屋市の西に隣接する町に七宝町があり、名古屋市西区には全国に知られた

 加藤七宝製作所(名古屋市西区)

がある。ここでは、約40色のガラス釉薬を使って、しきりには細かい銀線をおく「植線」工程が一番神経を使う仕事らしい。それが終わると釉薬をその中におく「施釉」工程に入る。どれくらいの量をおくかは職人の感だそうだ。細かい模様をつけたつぼなどを七宝焼にするには、ベテラン職人でも、100時間、200時間とかかる手間の要る作業だという。焼き上がりの段階で、銀線はきれいに消えてしまうらしい。不思議な技法である。

 最近では、この七宝焼の利用として、

 付けツメというネイルアート(ネイルジュエリー)

として販売されているという。新たなファッションとして新規事業が始まっている。または、高級時計の文字盤を七宝焼にした豪華さは、目を見張る。七宝焼の文字盤の上のごくわずかな空間に正確に釉薬を置かないと、時計針が引っかかるという問題もあり、気の抜けない技が要求される。

 そんな様子を、BS日テレテレビは

 手わざ恋々和美めくり

と題して、壇れいが工房を訪ねる形で、七宝焼の制作現場を先日、紹介していた。

 たまには、民放BSも味な番組をつくる。

 壇れいが工房を訪れて、控えめに、丁寧に職人に話を聞く。宝塚ファンとしては、そんなしっとりとした番組だったのがうれしかった。ジャリタレがよくやる押し付けがましさがないのがいい。

奥ゆかしい。楚々とした美貌の壇れいはいまだ健在だ。

 サイエンスボランティアをしていると、こうした番組にも目がいくのがうれしかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

正倉院に挑む 竹工芸・橋本仙雪の執念

(2011.11.05)  金沢で20年暮らし、今は浜松に住むブログ子だが、金沢の竹工芸家、橋本仙雪さんの遺作展が石川県立美術館で開かれていると聞いて、先日、出かけた。兼六園下の工房に何度か訪れ、その仕事ぶりを垣間見せていただいたことを懐かしく思い出した。

 最初におうかがいしたときには、とっくに70歳をこえていたように記憶する。一人黙々と手を動かし続けている様子がガラス越しに道路からも見えた。言葉はよくないかもしれないが、玄関先工房と言えば、わかりやすい。しかし、道路を行きかう金沢人も、そして観光客も、そのほとんどは、橋本さんが正倉院の作品に魅せられて、それをなんとか現代によみがえらせようと執念を燃やした時期があったことを知らないだろう。いや、それだけではなく、往時の職人がなそうとしてできなかった技を生み出そうとまでしていた。橋本さんの還暦60歳ごろのことだ。

 その完成品が、陳列室にある直方体の形に編み上げた

 蘇芳染竹網代飾箱(すおうぞめたけあじろかざりばこ)

 四ツ菱の模様が底を除いた五面に継ぎ目なく編みあがっている。上部の四ヵ所の角でも

模様が切れ目なく流れるように処理され、垂直面に入り込んでいく。これを描くのではなく一本の竹で編み上げるのである。

 このお手本というか、この挑戦的な作品づくりの元になったのが正倉院御物の中にあった。橋本さんは若いころ、20年も正倉院展に通ってこの正倉院御物の竹工芸品の編み方を研究した。

 橋本さんのお弟子さんの解説によると、正倉院のものは直方体の各面ごとに編み上げ、最後にそれらを直方体につないだものだった。

 橋本さんは、この2次元的な組み立て作業を、3次元立体に一気に編み上げる技を身につけることに成功したという。2次元組み立てに比べて、模様の入れ方、編み方が極端に難しい。そのかわり、橋本さんの飾り箱には、面と面のあいだにつなぎ目はなく、スムーズに模様が上面から垂直面にやや丸みを持たせて流れている。三つの面が集まる角のいずれも統一的な模様と形で違和感なく、滑らかに仕上がっている。

  竹の持つしなやかさを織り込んだ見事なわざである。逆に言えば、竹の持つ柔軟性と反発力を引き出したいがための3次元作品への挑戦ともいえよう。

 ここに、古典に学ぶとともに、古典にとどることなく、往時の職人がなそうとしてなし得なかったわざに挑み、発展させた橋本さんの執念が漂ってくる。 

 橋本さんは正倉院の技術に挑むことで、往時の職人の心を味わいたかったと当時語ったらしい。

 思うに、橋本さんは作品を編み上げ、完成させたことで、千数百年の時を超えて古典をつくった往時の職人と気後れすることなく対話ができたのではないか。自信が付いた。そのことは、還暦後の作品に表れていた。古典の技を大事にしながら、古典の模倣ではない独自の境地で、なくなるまでの30年間を竹工芸づくりにささげたのではなかったか。

 言い換えれば、正倉院の作品に出合い、当時の名工たちにもできなかった技を生み出すために、自分の前半生があったと実感していたように思う。だから橋本さんにとって、世俗的な名誉や栄誉はほとんど眼中にはなかったと思う。あったのは、古代人の技への畏敬と発展だった。

 特別陳列には、美術館で同時開催中の「日本伝統工芸展」の会場のような賑わいがあったとはいえない。帰り際、静かな展示室を振り返ると、数々の展示作品が

 誰が知ろう、古典の職人の心を。そして、その技の深さを

と語りかけてきたような錯覚を覚えた。

 その心と深さを現代人に垣間見せてくれたのが橋本さんの執念だが、それを支えつづけた妻の存在を忘れてはなるまい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

4%宇宙  〝ダークマター〟の探索実験

(2011.11.03)  最近話題の

 ダークマター(暗黒物質)の探索実験

について、日本をリードする鈴木洋一郎氏(神岡宇宙素粒子研究施設長、東大宇宙線研究所教授)の講演が浜松市であるというので出かけた。

 この講演を聴いて、ようやく、ダークマターとはどういうものかということがおぼろげにではあるがわかったような気がした。さすがは、世界最先端の実験のリーダーであるだけに、迫力のある話だった。

 戦前から、銀河天文学では、

 不明な物質として〝ミッシング・マス〟という概念は存在した。しかし、それは観測精度が上がれば、ある程度は解決するか、または、現在の分子、原子、素粒子の範囲で解決すると考えられてきた。しかし、どうやら、そんなことでは解決できない事態になりだしたのが、この10年であろう。

 つまり、既存の物質、既存のエネルギーでは宇宙の成り立ちが説明できない。われわれがまだ知らない新しい物質やエネルギーが確かに存在する。正体不明の物質やエネルギーは観測誤差や探索不足による幻ではない。未知の素粒子が存在する、あるいは介在するという認識が急速に研究者の間で定着してきたのだ。

 その表れが、ダークエネルギーとも関連があるとされている加速度的に宇宙が膨張し続けているという驚くべき観測結果に対して、今年のノーベル物理学賞が授与された点である。

 講演の概要は、実験装置はXMASSと呼ばれていて、約1トンの液体キセノンを用いて、そこでの正体不明の物質、ダークマターとの相互作用を光電子増倍管でとらえて、その正体を明らかにしようというものだ。このときの核心となる増倍管は浜松の先端企業が開発したものであるところが、浜松に暮らすブログ子にとってはうれしい。

 正体不明の物質といっても、これまでの天文学的な観測から、

 重力を持つこと、安定している粒子であること、宇宙の大規模構造の形成を妨げない程度の速度(つまり非相対論的な速度)であること、電気的には中性であること、光、電波、エックス線などの電磁波は出さないこと

 などがわかっている。

 この天文学的な要請から、正体不明の素粒子が持つべき素粒子物理学的な要請として、この正体不明の物質候補(WIMP)としは、

 質量は陽子の100倍程度

 一立方㍍に3000個程度

 運動速度は毎秒200キロ程度

と推定されているという。これを地中深くに設置したXMASSでとらえようというのだ。実験は2009年秋ぐらいから本格化している。

 問題は、642個の増倍管を張り巡らせた実験装置の中で、どれくらいの頻度で、キセノンとの衝突などの現象が検出されるかということだ。

 講演によると、これまでの海外での増倍管の感度に対して、100倍も鋭い増倍管を使っても、

 数日に1回程度

という。さまざまな観測的素粒子物理学の知見から、この正体不明の物質の検出には

 季節的な周期性(夏季のイベント数は多く、冬季のイベント数は少ない)

があることが予想されるので、ほんとうに探索している物質なのかどうか、確証の一つとなりうるのである。

 正体不明の物質の有力候補(WIMP)に、理論的な考察から

 超対称性粒子の一種

という新しい素粒子が挙げられている。

 つまり、ダークマターの正体は、超対称性理論で予言されている安定で電気的には中性の新素粒子ということになる。今は、理論からの仮想上の粒子だが、XMASS実験が成功すれば、観測的宇宙論と理論的宇宙論が統一的な宇宙像を描き出す大きな一歩になりそうだ。

そして、ダークエネルギー。

 宇宙の物質・エネルギーの総量は、この10年続けられている宇宙背景放射観測衛星(WMAP衛星)の全天マップデータ、あるいは、宇宙の銀河団のつながりを示す「宇宙の大規模構造の形成づくりのシュミレーション」などの結果から 

 宇宙全体の物質・エネルギーは、おおよそ(E=m×光速の2乗で換算)

         重力を持つ物質として、星や銀河などの割合    約 4%

                         ダークマターの割合    約25% 

                                       計約30%

         重力には無関係なダークエネルギーの割合     約70%

という構成になる。これを見て驚くのは、私たちが見ている夜空の物質(そのほとんどは水素とヘリウム)は、宇宙全体の物質・エネルギーのわずか4%に過ぎないという点だ。もうひとつ、正体不明のエネルギー、ダークエネルギーが宇宙全体の物質・エネルギーの半分以上を占めていることにもも驚く。

 4%宇宙

という言葉さえ、最近では言われだしている。

 もう一つ言うならば、未知のダークマターは、なんと、われわれが長い間宇宙で見てきた星や銀河、あるいは銀河団という物質やエネルギーの5-6倍もあるのだ。ということは、20世紀までの天文学は、宇宙のほんのわずかの姿しか研究してこなかったことを意味する。

 ダークエネルギーの正体については、静的な真空のエネルギ(アインシュタインのΛ項に対応)とか、動的には粒子の場を想定する考え方も理論的宇宙論では唱えられ始めているらしい。

 今回の講演は、ブログ子に、ダークマター、ダークエネルギーについての基本的なことを教えてくれた。

 繰り返すが、今の宇宙は

 4%宇宙なのだ。(2011.11.03)

  追記 

  こうした宇宙像について、10年前はどのようなものであったか。そんな思いで、書棚をいろいろ探してみたら

 月刊科学誌『科学』(2001年8月号、岩波書店)に

 特集 宇宙論はどこへ向かうのか?

というのを見つけた。

巻頭言は、

 宇宙論の転換期を迎えて 

と題して、岡本定矩さん(東大理学部大学院、天体物理学)が、ダークマターやダークエネルギーの謎について言及している。

 特集内容でも、総説として、佐藤勝彦さん(東大理学部大学院、素粒子宇宙論)が

 宇宙はどのように膨張しているのか

と題して、10年後の現状をほぼ的確に、言い当てているのには驚いた。同氏が提唱した

 宇宙の初期の進化を説明するインフレーション理論がこんにちでも理論的宇宙論の土台になっているとをうかがえさせる。

 ビックバンの瞬間そのもの、あるいはその直後については、

 『SCIENTIFIC AMERICAN』 1999年1月号

の特集(最新観測はこれまでの宇宙論の見方を塗り替えた

としている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

盲目のバイオリニスト、穴澤雄介の世界

(2011.11.01)  兼六園の唐崎松に雪吊りがつくられはじめた快晴の金沢を久しぶりに訪れた。定年までの20年間を過ごした金沢だが、兼六園、香林坊界隈といったまちなかは、一段と美しくなっていた。

  金沢を離れた三年前にはなかった黒御影石の瀟洒な高層ビルには

 JOURNAL STANDARD

と大きく書かれたビル。中にはケーブルテレビのスタジオが設けられており、誰でも放送の様子が見れるように開放されていた。

 夜の金沢もますます美しくなっていた。誰もが一度は訪れてみたいと思うような夜の優雅できらびやかな街に変貌しつつある。

 そんな夜、盲目のバイオリニスト、穴澤雄介

 ディナー・ライブコンサート

に旧友たちと出かけた。運良く、穴澤さんと同じテーブルだったので、いろいろ話をうかがうことができた。心臓に障害があることから途中失明したとのことだったが、ピアノとの見事な呼吸は少しもハンディを感じさせなかった。

 最後は、バイオリンの弦が切れるほどの熱演だった。

 ハンディを持つが故の利点とは何か

と意地悪く聞くと、すかさず

 あれこれ迷わず、好きな、性に合ったバイオリン演奏に集中できること

だという。今は、目の前に与えられた仕事をとにかくこなすことに徹しているという。

 CDアルバムにもある

 未知なる世界へ飛び立とう

という曲を聴いて、心が洗われるとともに、あきらめるにはまだ早いと勇気付けられた。

 そうかと思うと、小泉八雲の『怪談』に出てくる

 十六桜

の曲も聞かせてくれた。雪の降る真冬の旧暦正月十六日に花開く桜の話だ。その話に魅かれて、曲をつけたのだろう。凝然として死地に向かうひとりの古武士の威厳が、ピアノとバイオリンによる哀愁の調べでもって表現されていた。襟を正したくなるようなひと時だった。

 コンサートが終わって、ふと夜空を見上げると、街中なのに、木星の輝きが見えたのには驚いた。そんなしじまの金沢の木倉町通りの

 やきとり横丁

に一人出かけた。20年来のいきつけの店で、同年輩のマスターと二人でカウンター越しに語りあった。この店で出会った人々は、この店で交差して、また、新しい旅に出かけていることがわかった。マスターはその交差点に立つ、いわば人生の達人のような気がした。

 人生とはなんだろう

そんな話になって気づいた。

 人生とは、旅に招かれた客

なのだと。招かれた先に

 未知なる世界がある。そんな気持ちにさせてくれた夜の金沢だった。

 これからも、十六桜にも似た曲想を胸に未知の旅を続ける客となりたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年10月 | トップページ | 2011年12月 »