山城サミット in 浜松 女忍者も〝歴女〟も参加して
(2011.11.20) 土曜日(講演など)、日曜日(現地見学会)と二日間、浜松市で開かれた全国山城サミットに参加して、歴史小説を読むのもいいが、
やはりその道の専門家 の話をよく聞いてみるものだ、現地には行ってみるものだ
としみじみ反省した。かの有名な山岡荘八の『徳川家康』全18巻を、じっくり読んで、つい最近読破したのだが、それでも、とんでもない思い違いをしていたことに気づかされたのだ。
その第一。日本中世史が専門の小和田哲男さん(静岡大学名誉教授)の基調講演。武田信玄率いる武田軍約3万が満を持して、遠州に進攻、浜松城に近づき、そして、三方原台地にやってきたのはよく知られた事実だが、通説どおりに、ブログ子は、てっきり北部の遠州から南下、重要拠点の二俣城を攻めたと信じていた。小説を読んでいるときも、それを念頭に入れていた。
ところが、この通説は正しいものとブログ子は思い込んでいたが、なんと小和田さんの講演では、そうとは限らないようだ。当時持病が悪化していた信玄であることを考えると、当然考えられるルートは、甲府から静岡に出て、平坦な海岸線沿いに東から西に、すくなくとも信玄率いる本隊は進攻したとしてもおかしくない。同氏はこのルートについて、その可能性が高いからだろう、通説には触れずにさらりと語っていた。通説のルートは、別働隊の可能性があるらしい。これにはびっくりした。何か根拠があるはずだが、浜松城の展示にも、通説のみの進攻ルートが地図に描かれているので、今後の研究が待たれる。
第二の思い違い。これは見学会の説明員(浜松市文化財課職員)の話で気づいた。現地で二俣城と鳥羽山城(二俣城の南に位置する)の説明があったが、両城は歩いても20分くらいの距離にある。したがって、当初からセット、つまり、最初に二つとも今川氏が築城し、その後、家康が両方とも奪い、三方が原の戦いで、ともに武田方のものになった。それをまた家康が奪還したというように早合点していた。二俣城の北、東、西にある砦も、この二つの城を守るために最初からあったと思い込んでいた。
ところが、それは間違い。北遠の守りの要衝、二俣城を家康が武田方から再び奪還するために、その真南の前線基地(陣屋)として鳥羽山城が築城されたのだ。そのとき、北、東、西にも、二俣城を取り囲むように家康は砦を築いたという。だから、浜松城と鳥羽山城の築城、つまり石垣のつくり方などは似ているらしい。
考古学のことを知らないで、現状だけみていたり、小説だけ読んでいると、こんな錯覚、思い込み、誤解がなかなか解けずにいることがあるのだ。
もう一つ、今度は再認識した点が一つあった。ブログ子は、3年前に浜松に定年転職で金沢から転居してきたが、いわゆる城、砦が北陸に比べてかなり多いことに気づいていた。
それもそのはず、浜松市政情報誌2号(2011年10月号)によると、城と砦、城館などの戦国時代の軍事施設が
なんと100以上もあった
とある。これにはびっくり。同誌によると、
政令指定都市では、学術的に貴重な城として指定史跡になっているものは、浜松市が
16城
で、全国一。第2位は岡山市(11城)、第3位に、ようやく北陸の新潟市(7城)が、広島市とならんで登場する。家康の隠居城のあった静岡市は、意外にも少なく2城に過ぎない。立派な名古屋城のある名古屋市もわずか2城。
浜松は〝山城の街〟
なのだ。
見学会の帰りのバスでふと、浜松市の指定史跡の山城
遠江の最北端の山城、高根城
を、来秋にも、たずねてみたいと思った。場所は水窪である。築城は、15世紀前半というから城の起源は戦国時代が始まる以前のものらしい。水窪の中心部と北遠江と南信濃を結ぶ信州街道(またの名を秋葉街道、通称は塩の道)を見下ろすことができることから、このルートを押さえる、あるいは警備するのがこの城の目的だったらしい。それだけに攻防も激しかったのではないか。
とにかく、いろいろ教えられることの多い二日間だったが、会場、あるいは山城見学会に歴史好きな〝歴女〟がちらほら参加していたことや、
女忍者(天竜区応援隊、天竜区役所職員)
が出迎えてくれ、同行してくれたのは楽しかった。
歴史は夜と、女で動いてきた
ことを考えると、もっと女性参加者の増えることを祈りたい。
追記。
二俣城には、本丸に石垣の
天守台
はある。しかし、その上に天守閣があったかどうかは不明という(説明員の解説)。たぶんなかったのではないかという。というのは、天守台に天守閣を築くために必要な礎石を置いた跡ががまったく見当たらないからだ。鳥羽山城にも本丸はあるが、天守台も天守閣もともに、もともとからつくらなかったらしい。城攻めのための臨時の陣屋だったからだろう。
追記
二俣城の近くに旧二俣町役場があるが、その近くに清龍寺があり、その境内には
自害した家康の嫡男、信康の廟
がある。一度、一人で静かに訪れてみたい。家康が愛して止まなかった息子のこころが知りたくなったからだ。
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