「木洩れ日の家で」 黒澤映画「生きる」の女性版
(2011.10.02) 久しぶりに、現代ポーランド映画を見た。浜松市民映画館「シネマ・イーラ」で先日ようやく上映が始まった
モノクロ映画「木洩れ日の家で」(監督・脚本=ドロタ・ケンジェジャフスカ、2007年)
だが、
テーマは、しのびよる人生の最後の時、どう決断し、過ごすか。一人、古い木造の大屋敷に犬と暮らす老婦人の過去との葛藤と、死を目前にした決断とを描いたものだ。孤独の中、生きるとは、どういうことか、それは一人でもできるある一つの決意だった。
テーマが重いのだから、暗いのは仕方がないともいえる。「鉄の男」(1981年)、「灰とダイヤモンド」(1958年)、「地下水道」(1956年)など、もともとポーランド映画は暗いと相場が決まっているとはいえ、それにしても陰鬱な映画だった。
見終わって、
この映画は、黒澤監督映画の名作「生きる」(主演=志村喬、1952年)の女性版
だということに気づいた。
ともに、息子夫婦に裏切られた絶望と、孤独感がストーリーの背景になっている。余命いくばくもない。それでもなお、生きることの意味とは何か。主人公は思い悩む。そして、決断する。
黒澤映画では主人公の市役所市民課長として、住民から要望されていた子供のための公園づくりに、それまでの無気力、事なかれ主義をかなぐり捨て、定年前の仕事として全力を挙げて完成させる。
今回の映画の場合は、子供たちのための音楽倶楽部を経営する隣に住む経営者夫婦が、手狭になった場所に悩んでいたのを知り、家と土地とをすべて寄付するという決断をする。
ともに、その決断後、すがすがしく、ブランコに乗る。黒澤映画では、ブランコに乗りながら、あの「ゴンドラの唄」を口すさむ。
そして、ともに、まもなく主人公は亡くなる。決断が次世代を担う若い人たちのために役立つ。結果として、そこに自分が生きる意味を見出している。
ともに、決断後の、あるいは完成後の主人公がブランコに乗るのは、自分も子供の頃こいだに違いない遊具によって、孤独な現代の老いを生きる意味を観客に暗示しようとしたに違いない。
孤独と絶望のなか、老いてなお生きる意味とは、たとえ、それがどんなに小さなことであっても、次世代を担う子供たちのために何をしてやれるかを考え、決断し、実行することなのだ。
ブログ子も、これからの人生最後の時には、小さくてもいい、そんな決断をし、実行したいと誓った。暗い映画だったが、
自分の人生は自分だけのものではない。次世代の子どもたちにつないでこそ、自分の人生が生きる
ことに気づかせてくれた。しかも、それは面倒な他人の手を煩わすことなく、自分だけの決心で今すぐにもでできる。それは小さなことかもしれないけれど、このことを悟れば、老いの孤独や絶望からは解放される。救われるともいえる。その意味で、勇気づけられもし、むしろ、さわやかな映画だったように思う。(2011.10.02)
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