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生物の「寛容」性  9.11から10年

 (2011.09.10)  世界的な免疫学者、多田富雄さんが、旅先の金沢で脳梗塞で倒れたのは同時多発テロの起きた年、2001年の5月(2010年4月に肺炎で死去)だった。先日、NHKはプレミアム「100年インタビュー」でその倒れてからの多田さんの闘病の様子を縦軸に、

 「病気になって初めて生きることの実感を持ったこと」

 「リハビリは6カ月で中止は死の宣告であり、許せないこと」

 「(倒れた直後の一時期は死ぬことばかりを考えていたが、リハビリなど治療が進むにつれ立ち直り)寛容の世界があるかぎり、絶望はしない、と決意したこと」

 「生物や人間には、自己と他者とを区別し、非自己を攻撃するという免疫システムが巧妙な形で組み込まれているが、時には区別しても他者への攻撃をせず、自己と他者とを共存させる寛容性も持っていること」

 などが三宅民夫キャスターによって語られた(放送は8月26日)。

 寛容とは、自己とは違うものとして、他者をことさらにとがめだてせずに、その存在を認めて、互いの利益と生存を図るためになんとか共存することである。生物には、この考え方が免疫システムにはあるという。たとえば、劇症肝炎は免疫システムの非寛容性の結果であり、慢性肝炎は寛容性の結果だという。肝炎ウイルスを患者の体内に生かしたまま肝硬変、肝臓がんなどへとゆっくりと進行することで、互いに生存を何とか確保する。

 この番組は、多田さんの死後にまとめられたので、なかなか多田さんの真意が今ひとつ伝わってこないので、多田さんの闘病記

 『寡黙なる巨人』(集英社)

を読んでみた。

 本のタイトルとなった寡黙なる、そして鈍重なる巨人とは、脳梗塞で倒れた後の自分のことをさす。リハビリにより、脳は元に回復するのではなく、新しくつくりだされた「もう一人の私」をつくりだす。しかし、これはこれまでの私とは別ものなのだと書いている。自分の中の他者とも書いている。その巨人は、リハビリをいくらやってもなかなか思うように体を動かせない「のろまで、醜い」という。

 多田さんの場合、脳梗塞で倒れて以後、その後遺症で、言葉も話せなくなった。だから、この巨人は、言葉もしゃべれないのだ。孤独だ。しかし、いやおうなく、これから一生付き合っていかなければならない相手だとものべている。脳には、再生能力が備わっているが、そうして再生した人間というのは、元の自分ではなく新たな自分であるというわけだ。いかにも、能にも造詣が深い多田さんらしい表現である。

 多田さんは、そうした考え方、つまり、生物の世界の寛容性とのかかわりで、同時多発テロについても、この寛容性こそ互いの民族が生存していくためには大事だと考えていたようだ。妥協を許さない非寛容の世界には絶望しか残らないというわけだ。

 最近、同時多発テロの首謀者と見られているビンラディン容疑者が米特殊部隊に暗殺されたことを示す映像が大きな反響を呼んだ。これを手放しで喜んでいるアメリカの若者たちの映像も流れていた。復讐心に燃える気持ちはわからないわけではないが、民主国家、アメリカの非寛容性を見る思いで、残念だ。

 あるアメリカの高名な国際政治学者が、同時多発テロ発生直前に

『文明の衝突』

という浩瀚な著作を公にし、注目された。

 これに対する多田さんのメッセージとは何か。

 いがみ合うそれぞれの民族が共存を認める寛容性

に希望を託していたのではないか。この本を読んでそう感じた。

 ここまで書いて、ふと日本の歴史を思い出した。

 戦国時代、天下統一への和平には、一切の妥協を許さず、根絶やしの死を敵に強いた織田信長がなぜ、非業の死に倒れたのか。これに対し、同じく、和平の確固たる信念を持ちながら、互いの生存を認めながら、じっと時期を待ち、譲るべきところは譲りながら、ついに、天下の統一を果たした寛容の家康。

 これは日本だけでなく、世界の歴史を見てもいえることである。パレスチナ問題の解決には、アラブとイスラエルそれぞれ共存を認める寛容性が必要なのだろう。

 寛容なき「戦争と平和」は、無限の怨念の連鎖を生み出すという意味で、幻想なのかもしれない。

  明日は、9.11同時多発テロから10年-。

 日本はもちろん、世界は今、内向き志向から脱し、非寛容性に陥りがちな状況を打破することを誓うときではないか。 (2011.09.10)

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