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2011年8月

津波対策、「四連動」想定必要 ?

  (2011.08.31)  防災の日が近づいていることから、今回の東日本大震災を念頭に、太平洋側の地震発生について、津波対策では

 従来の「三連動」に加えて四連動の想定が必要

との記事が出ていてびっくりした(中日新聞8月29日付朝刊)。東海地震+東南海+南海に加えて、それらの沖合い(で南海トラフの内側)震源の四つが同時に発生する可能性があるという、東大地震研究所の古村孝志教授の研究成果だ。東日本大震災はこのタイプで、津波被害が大きかった。

 第四の震源については、これまでの歴史地震の例では、慶長地震(1605年)と宝永地震(1707年)があり、いずれも津波被害が大きかったが、連動については、東日本大震災が発生するまではあまり考慮されてこなかった。

 今回、改めて、連動を考慮して、調べてみると、四連動は起こりうるし、その場合、津波の規模は、従来の1.5倍から2倍にもなるという。

 こうした成果について、現地の高知大学研究グループも慶長地震、宝永地震の津波が大変に被害が大きかったとするなど、四連動性の現実性は否定できない。つまり、東日本大震災と同様のメカニズムで四連動地震が起きるというわけだ。

 思えば、阪神大震災後の2000年ごろまでは、東海地震単独発生説が地震予知可能研究者の間では有力だった。その後、観測データから2000年から2005年にも起きておかしくなかったのに、おきなかった。そのことから次第に、今世紀半ばごろに三連動説の地震が発生する、つまり単独では起きないとの説が有力になっていた。名古屋大などのコンピューターシュミレーション研究によると、まず、紀州の東南海地震が発生し、そのあと、しばらくして東海地震というシナリオまで(真偽はともかく)最近では描かれている。

 そんな中で、東日本大震災が起きたものだから、

 四連動説

も、とだんだん予知が難しくなってきた、というか、予知はできない雰囲気になってきたようにみえる。

 つまり、地震の予知など複雑すぎて、あるいは理論的、原理的にもできない

という地震学会の主流派(つまり、大多数派)の言い分が正しいように、ブログ子には思われてきた。

 要は、予測に頼らないで、意識が薄れないよう繰り返し防災訓練することが重要だというごく当たり前の結論が以上から出てきそうだ。

   「ブループリント」と言われた国の地震予知研究が本格的に始まってまもなく、50年。一度は、阪神大震災後、「前兆現象をとらえての予知は困難」との国の測地学審議会が意見(1997年6月)をまとめたりした。審議会の結論をもとに、もう一度、あのときの真摯な気持ちに立ち帰って、果たしてできるのか、できないのか、予知研究の理論的な基盤について公開で議論すべき時期に来ているような気がする。国民に予知研究に過剰な幻想をいだかせるのは危険だ。日本だけが、予知は可能といっているのはいかにも奇異である。(2011.08.31)

 

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ダンス、ダンス、ダンスの一日 

(2011.08.30)  定年後の「下山の時代」を楽しむというわけで、先日、日曜日、朝早くから

中部日本ダンス選手権大会(後期)

を見に、静岡市のグランシップに出かけた。ブログ子は、定年前まで金沢の新聞社で働いていたが、ひょんなことから、社交ダンスの個人レッスンを、週一回受けていた。定年で、静岡に転職し、これまで2年ほど社交ダンスから離れていた。そして、これまたひょんなことから、再び、ダンスを習いたいと、マンション近くの

「岡ダンス教室」(浜松市)

に週一回通いだした。そんなこともあり、この選手権大会を見てみたいし、また、教えてくれる先生が選手権大会に出場するとあって、応援もかねて、出かけた。会場にはファンが3000人以上いて、熱気が会場の外にもあふれていた。

 ブログ子の社交ダンスは、ルンバ、チャチャチャ、ワルツ、タンゴ、ジルバがなんとか踊れるくらいの初級。大会では、このほかジャイブや、スロー・フォックス・トロット、クイック・ステップ、ウインナー・ワルツなどを軽快に、そして、華やかにリズムに乗って踊っていていた。

 いつになるか、わからないが、あんな風に踊れるようになりたい

とうっとりして、見ていた。

 私の応援したのは、スタンダード、ラテン・アメリカンのうち、ラテンアメリカンに出場した

 高橋朋宏・吉田由美

のペアだった。準優勝までは勝ち残れなかったのは残念だったが、その迫力は、ダンス教室で教えているときの

 おとなしく、やさしい感じ

のインストラクターではなく、情熱的なものだった。一言で言えば、まるで別人のようだった。ダンスの魅力、もっと言えば魔力であろう。だが、裏を返せばブログ子のようなアマチュアとは異なり、それを生業としている

 プロフェッショナル分野

というのは、やはり、楽しいというよりも、まず厳しいということだろう。

 私の歩んだ学問の世界もそうだったが、「プロフェッショナル」となると、厳しい。

 ブログ子は、ダンスを美容と健康のために習っているわけではない。老いても恋を、という気持ちで通っている。人生、枯れて生きていたのではむなしい。(2011.08.30)

  追伸 

 この選手権大会は、静岡新聞・静岡放送の後援になっていたが、翌日の「県総合」面に、

 607組が軽快ダンス

という見出しと写真付で掲載されていた。しかし、ひどい記事だった。前半は県大会、後半は中部選手権大会なのに、前座の県大会の記事しか書かれておらず、肝心の中部選手権大会にはまったく触れていないのはどうしたことか。しかも、肝心の各部門の選手権優勝組の掲載もなかった。これではニュース記事としては致命的な欠陥だ。主催者はがっかりしたというよりも、怒っているのではないか。

 あまりの与太まがいの記事に、憤慨する気にもならなかった。県紙の記者の取材レベルは年々落ちていることをまた証明した。新聞業界が斜陽産業化しているから、いい人材が集まらないのだろう。

 では、中日新聞は? と調べてみたら、一行も出ていなかった。なぜだろう。

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毎日が夏休み 家族の絆が危うい

(2011.08.29)  長かった夏休みも、もうすぐ終わるが、先日、

 毎日が夏休み

という金子修介監督の映画を深夜のNHKプレミアムで見た。山田洋次監督が選んだ日本の映画100本に入っているらしい。1994年の製作で、主婦役は風吹ジュン。原作は大島ひろみの同名コミック。母も父も再婚同士で、母の連れ子の中学生、スギナは学校でいじめにあい登校拒否。父はエリートサラリーマンだったが、これまたわずらわしい人間関係の一流企業になじめず自ら突然妻にも内緒でドロップアウト。父親役に佐野史郎、中学生役に新人の佐伯日菜子を登用した監督の才能は高く評価していいのではないか。深刻な映画を見事にコメディータッチに仕上げている。

 この題名は、城山三郎の窓際族の悲哀を描いて話題になった

 『毎日が日曜日』(1976年)

をもじったものだろう。

  金子監督の映画を偶然見て、つくづく感じたのは、突然不都合が家族に起きても、家族それぞれにある程度の寛容さがないと、家庭はそのままでは維持できないということだった。社会学者の上野千鶴子流に言えば、他人の主張を入れる寛容さがないと

 近代家族は崩壊

するのである。家族の絆を保ちたいなら、他人の生き方を拒否しないしなやかさが必要で、その辺の事情をスギナは新人ながら、うまく表現していた。監督の腕だろう。

  このことは、林真理子原作のテレビドラマ

 『下流の宴』(主婦役は主演の黒木瞳)

でもいえると思う。高校を中退した息子と、娘も派遣社員を辞めて、エリート社員と結婚したもののその夫も精神病患者となり、会社勤めも無理な状況。父親はというと、一流会社に勤めてはいたものの突然の合併騒ぎで出向、給料は大幅ダウン、出向先でもリストラ寸前。医者になることだ上流と思い込んでいる専業主婦(黒木)に衝撃が走る。

 ここでも、自分の家庭は上流、下流と決め付けないで、人生をしなやかに生きていく寛容さがこれからの時代、いや、今の時代に必要だということを視聴者に語りかけている。一度決められた安定の道をひた走るだけの人生は、ふいの出来事に対応するにはあまりにもろく、危うい。家族みんながそれぞれに非寛容では家族を余計に不幸にする。思いもしなかった出来事を冷静に受け止める。家族の絆を回復するには、他人を責めない。自らも寛容に対応していく、ある意味狡猾さが必要な時代になっているように思う。

 寛容がいやなら、妥協の要らない一人暮らしを覚悟することだ。これはこれで、自ら知縁をつくり、自ら律するという厳しい選択だ。そんなことを、

 毎日が夏休み

の映画は教えてくれた。

 そんなことを考えると、これからの社会は

 高齢男性単身者だけでなく、若い女性単身者が急速に増えていく単身急増社会の時代がやってくるような予感がする。(2011.08.29)

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「戦争と平和」にもがいた建設者、徳川家康

(2011.08.29)  このブログで定年後は、ゆったりとして

「下山の時代」をもっと楽しもう

と書いた。賛同者から二、三通のメールをいただいた。下山の時代には先にも書いたように時間がたっぷりあるのだから、現役時代には読みたくてもなかなか読めず書棚にほこりをかぶっていた

 超大長編小説を読もう

と書いた。まず隗より始めよで、この春から

 『徳川家康』(山岡荘八、全18巻、講談社、布張り製の単行本)

を、読み始め、つい先日読破した。

 読後感を一言で言えば、この本を現役時代に精読していれば、もっと仕事がうまくいっていただろうし、もっとましな人間になっていただろうというものだった。それくらいに、現代でも示唆に富む作品であり、著者の人間観を余すところなく、しかも、深く、多面的に描いている。

 一例を挙げると、「人生では何が一番大切かその心得を仰せ聞け下さりませんか」と、民衆のための政治にあたるものの心がけを京都所司代が家康に教えを請うている場面(第13巻、江戸・大阪の巻)がある。

「- 人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如しじゃ。急ぐべからず。 (中略)  勝つことばかり知って、負くることを知らざれば害その身に至る。おのれを責めて人を責めるな」

などは、家康の人生に裏打ちされた名言であろう。

「及ばざるは過ぎたるにまさるものぞ」

というのもある。これは普通は、過ぎたるは及ばざるが如し、というところであるが、勝ちすぎはいけないということを諭しているのであり、家康の人生観がにじみ出ている。勝ちすぎは勝ったほうにおごりが蔓延し、かえって身を滅ぼすという意味だ。家康は、大阪の陣でこのことを強く意識し、戦後処理に心を砕いていたらしい。

 これらは、教えられることのほんの一部だ。少し、注釈をすると、この場合の重荷を負うての「重荷」とは何か。家康にとっては、

 武力による斬り取りが正義であった戦国の世から、武力によらない「泰平の世」をどうして築くのか、という変革期の建設者の苦闘をさすことが小説を読み進むうちに浮かび上がってくる。

 破壊者にはない建設者の重荷

なのだ。このことは、明治維新における新国家建設に列国の餌食にならないよう冷徹に心を砕いた大久保利通の重荷

にも通じよう。

 ただ、この大長編は

 武将たちの戦国時代とその終焉

を描いたものであり、女性はほとんど歴史の添え物、「物」としてしか扱われていない。つまり、男性史観に基づく作品である。

 これに対し、最近のNHK大河ドラマ

「江 姫たちの戦国」

は、まったく新しい視点、つまり女性の視点から戦国の世を描いており、この意味で高く評価したい。男性同様、女性も歴史を動かす力があったことを具体的に示しており、優れた企画であると思う。男性史観では歴史の真実は半分しかわからない。

 それにしても、北海道新聞、中日新聞などブロック紙に執筆18年間。この間、読者の関心を引き付け続けた著者の筆力には驚嘆すべきものがある。この小説を読むまでは、山岡荘八氏というは、大衆娯楽小説家だと根拠もなく思い込んでいたが、完全な誤りだったことを告白しておきたい。

 ブログ子は、司馬遼太郎ファンだが、同氏の徳川家康の生涯を描いた上下2巻『覇王の家』(新潮社)などは、山岡氏の超大長編の前では、失礼ながら、影が薄いと感じた。(2011.08.29)

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反骨の人 それはどこから生まれるか

( 2011.08.19)   先日、偶然に、NHK「100年インタビュー」を見ていたら、

 96歳のジャーナリスト、むのたけじ

というのを有働由美子アナウンサーが聞き手となって紹介していた。有働さんの聞き方は、はつきりいって的外ればかりだったのにはがっかりした。ジャーナリストではないのだから仕方がないとは言えるが、もう少し、スポーツの場合のように勉強して相手してほしかった。質問のレベルが低すぎた上に、引き出し方も拙劣だった。

 それはおくとして、この人がまだ生きていたのか、というのが、ブログ子の最初の感想だったが、とにかく元気いっぱい、よくしゃべった。戦前は報知新聞、戦争中は朝日新聞記者だった人だ。大本営発表ばかりで、従軍記者として、現地で自分が見たこと、聞いたことを書いてもほとんど「没原稿」にばかりされたのに失望。終戦とともに郷里、秋田県横手市に帰郷。戦争中、国民が知るべきことが少しも大新聞は書かなかった忸怩たる思いがあったから、自宅にかの有名な、地元言葉で本音を書く

 たいまつ新聞社 むのたけじ(武藤武治)

を設立した。週刊新聞だが、家族も手伝ったりして、780号まで出した気骨はたいしたものだ。『たいまつ16年』(企画通信社、1963年)にはそのいきさつがくわしい。

 この人のインタビューを聴いていて、

 反骨のジャーナリスト

という言葉が頭をよぎった。反骨の人というのは、時の権力におもねらず、時の大衆にも安易に迎合しないで、国民が知るべきことを社会に伝えた人

とすると、むのたけじさんは、反骨のジャーナリストというのには当たらない。時の権力というか、時の大新聞社のデスクに従っただけなのだから。それについて、戦後大いに反省して、大新聞の限界を身をもって知って、今、言わなければならないことを自由に発表できる零細新聞社を設立した。それによって社会に与えた影響は何ほどもなかっただろうが、その精神は立派だというに過ぎない。

 戦前の反骨のジャーナリストの代表は、金沢市高岡町出身の

 桐生悠々

だろう。ブログ子の尊敬する言論人だが、その理由については

 『新聞研究』(日本新聞協会)  2004年 3月号  特集 記者読本

を紹介するにとどめておきたい。

 大新聞の限界を知って、反骨のジャーナリストとなったのは戦後では、

 田中角栄研究で知られる立花隆氏(週刊文春記者)

だろう。時の権力と真正面から対峙して、その巨悪を倒した。

 ジャーナリストに限らず、戦後の反骨の人を幾人か挙げてみると、 

 吉田久 大審院民事部裁判官 東条英機と戦った男 福井市出身

 石牟礼道子 作家 『苦海浄土 わが水俣病』 (講談社)  熊本県天草

 原田正純  医師(元熊本大学医学部教授) 『水俣学研究序説』 鹿児島県出身

 猿橋勝子 地球化学者 元気象庁気象研究所所員 第五福竜丸「死の灰」を調査、

        放射性物質が大量に含まれていることを成果に公表した 東京都出身

 吉田久氏については、

 『気骨の判決』(清永聡、新潮新書)

に詳しい。

反骨の人は、大体において、地方出身者、あるいは、エリートコースを歩まなかった人たちから多く輩出している。これは決して不思議ではない。(2011.08.19)

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100000年後の安全

(2011.08.15)  今日は終戦記念日であり、お盆でもある。家族や日本の将来について、国民一人ひとりが心静かに考える日でもあろう。

 先日、浜松市民映画館「イーラ」で

フィンランドのドキュメンタリー「100000年後の安全」(2009年)

という映画を見た。

原発の安全性については、原子炉自体の安全性(高々、50年間の)ほかに、その高レベル放射性廃棄物の最終処理まで約10万年も含めて考える必要があるとすると、

 原発に未来はあるか

と問われれば、誰しも明快な答えはできないだろうという印象を映画を見終わって持った。

 この映画には、フィンランドで世界で初めて、原発から出る高レベル放射性廃棄物の最終処分場(深地層処分)が決まり、今、本格的な建設が始まり、2020年ごろから100年間の稼動に向けて準備が進んでいる様子が淡々と映し出されていた。場所は、首都ヘルシンキから西に250キロ離れは、オルキルト島オンカロ。地下数百メートル。この一億年、安定した環境を維持しているらしい。

 ここに原発から出る使用済み核燃料の高レベル放射性廃棄物をガラス固化して永久廃棄する。

 放射能減衰は、

 放射能の強いセシウム137  で半減期 約30年

       ストロンチウム90    で半減期 約29年

となる。半減期が長くなるにつれて、放射能は弱くなる。

        プルトニウム239  で半減期 約24000年。

 天然に存在するウラン235では半減期は約1億年。

 映画の「10万年」という数字はどこから出てきたのだろう。

 いろいろな半減期を含む廃棄物は、おおよそで、1000年後には現在の放射能の10000分の一くらいに減衰する。ずいぶん減衰したことはわかるが、それだけでは人体に安全かどうかはわからない。

 また、いろいろな半減期を持つ放射性廃棄物は、その内容物によって減衰の仕方も変わってくる。放射による原子の崩壊の過程で、別の半減期を持つ放射性物質に変わることがあるからだ。

 そこで、原発に装てんするもともとの原材料であるウラン1トン(核分裂するウラン235を5%程度含む)、つまり、掘り出したウラン鉱石でいえば750トンが自然に出す放射能レベルにまで、廃棄物が減衰するようになれば、安全は確保できたと仮定する。一応の安全基準だが、それは、数万年の年月かかるといわれている(電気事業連合「原子力エネルギー」図面集)。

 だから、余裕を見て、10万年後の安全

ということになったのであろう。

 日本でも、深い地層での処分の方法について、

 北海道の北端部、幌延町の深地層研究センターで安全で確実な埋設方法の研究がずいぶん以前から行われており、一般の見学会も行われているが、成果は遅々としてあがっていない。原発に未来がないことが一因であろう。

 もうひとつ、愛知県瑞浪市にも瑞浪深地層研究センターがあり、岩盤の安定性、地下水など安全な埋設のための研究が行われている。予算としては、両施設を含めて地層処分関連で、年約100億円程度を国が計上している。ただ、研究目的を一般の人にもわかるようにわかりやすく打ち出していないことから、技術者の士気は決して高くない。おこぼれ頂戴の日陰の研究となっているのが問題。有能な人材が集まらないのも当然かもしれない。

 また、各電力会社の出資で設立されている日本原子力発電環境整備機構(NUMO)も最終処分場探しを10年前から重い腰を上げて始めている。しかし、住民が協力してくれそうな有力候補地は今も見つかっていない。これまた、原発に未来はないことを国民が肌で感じているからだろう。職員の士気も決して高くないのも気になる。先の見えない仕事を仕方なくやらされているという空気が組織内にあるのは否めない。出向人事で組織が成り立っていることから、是が非でも候補地を見つけようという積極的な仕事ぶりにはつながらない。責任の所在があいまいなのも熱意を減退させる原因であろう。

 原発の時代の50年を過ぎて、今、人類は、廃炉の時代を迎えようとしている。

 この機会に、一度立ち止まり、

 「原発に未来はあるか」

じっくり考えてみる時期に来ているのではないか。(2011.08.15) 

 追記 2011.08.15 1980年代、想定されていた福島第一原発事故

   きのう、14日夜、教育テレビで

 アメリカから見た福島第一原発事故

というのを放映していた。福島原発の製造元、米GEの元設計技術者などが登場し、(全電源喪失が起こった場合)その原子炉格納容器の奇妙な形に問題はないか、水素爆発の可能性はないかなど、1980年代に徹底してシュミレーションしていたし、その報告書もGE上層部に報告されていた。しかし、それは取り上げられることはなかった。放送での説明では、公表すれば「GEの原発ビジネスは終わる」からだという。

 日本の内閣府の原子力安全委員会の委員長は

 全電源喪失は考えてもいなかった

との発言を事故後しているが、アメリカの原発開発の事情を専門家としてつぶさに調べていれば、こんな発言はできないはずであった。業務上過失にも相当する不見識だろう。

 こういう失態を聞くにつけ、

日本の原発に未来はない

と思わざるを得ない。

 参考 2011.08.28

   最終処分場問題にゆれる幌延町については、

 毎日新聞2011.08.24日付朝刊

に詳しい。交付金がもらえることから、財政事情の厳しい町の町長としては「文献調査」について、「検討すべき課題」だとして議会答弁したが、町民の反対により、この発言を撤回したことを報じている。

  参考 最終処分場についての世界の情勢

 フィンランドは、最終処分場が決まり、運用に向けて具体的に処分場建設が始まっている。

 原発大国のフランスは、最終処分場が決定し、2025年からの運用を目指して建設が始まろうとしている。

 ドイツは、最終処分場は決定しているが、その計画が一時的に「棚上げ」になっている。

 アメリカは、最終処分場の計画自体が「白紙」戻った。

 原発建設が進むインド、中国は、計画づくりが始まったばかりであり、最終処分場は決まっていない。

 最後に、日本は、20年以上にわたって最終処分場探しは行われてきたが、地下処分するという方針は法律で決定しており、そのための研究も行われている。しかし、具体的なその候補地探しは、北海道北端の幌延町など名乗りを上げていた自治体もあったが、住民の反対で「白紙」に。候補地探しは振り出し戻った。

 六ヶ所村の再処理工場の中間処理施設が事実上、最終処分場になる可能性も出ている。しかし、青森県は六ヶ所村を最終処分場にしないとの確約を政府と交わしており、現在、最終処分場探しは袋小路に入っている。

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『ファーブル昆虫記』 貧窮生活から生まれた執念の名作

 (2011.08.12)   連日の猛暑日に、うんざり、プールにも行ってみたが、芋の子を洗うような人ごみにますます暑さを感じ、たまらなくなり、近くの浜松市立図書館で

 『ファーブル昆虫記』(集英社、奥本大三郎個人完訳 現在第8巻まで刊行中)

を借り出して、美しい写真を眺めてみた。この本は、フランスの博物学者、H.ファーブルが学校の先生を50代で退職し、この後、30年もの歳月をかけて1909年に完成したかれのライフワーク。

 読んでみると、その人気の秘密や魅力がすぐわかった。学者なのに、小学生にもわかるようにわかりやすく書いている。魅力的な文章である。それも教えてやるという姿勢ではなく、一緒に昆虫の生活誌や行動について調べ、時にはどう行動するか、実験してみようという姿勢が貫かれていた。そこにこの昆虫記の面白さ、魅力がある。単なる図鑑ではない。

 第一巻はふんころがしといわれている「スカラベ」というコガネムシの仲間の生活誌がつづられている。牛などが牧草地に排泄したふんを食料にしている。球状にたくみに丸めて自分のねぐらまで、後ろ足で転がしながら運ぶ。

 先日、NHKプレミアムの番組で、完訳者でフランス文学者兼日本昆虫協会会長がファーブルが生まれた、そして昆虫記を書き上げた南フランスの現地を実地調査し、ファーブル体験記を放送していた。そのときも、このスカラベの後ろ足のふんころがしの様子を詳細に映像で見せていた。

 ファーブル昆虫記にもあるのだが、この転がし中に、針などで、突然、球状ふんを串刺しにして地面に固定して、ふんが転がらないようにしたら、スカラベはどんな行動をするか。

 驚いたことに、たまたまやってきた仲間の助手が手伝う。二人がかりで何とかこの針を引っこ抜こうとする。その前に、なぜ、球状ふんが急に動かなくなってしまったのか、きっと、運搬の道に障害物があって、動かなくなったいるに違いないと、これまで以上に後ろ足で押してみるが動かない。動かないものだから、ふん球のまわりを何度もぐるぐるまわって点検。そこで、ふん球の天辺に登って原因を調べる。ファーブルは針の頭をふん球のなかに押し込み見えないように差し込んでおいたので、スカラベはここでも異常はなしとする。どうにもならなくなったスカラベは近くの仲間に、どうするか相談。二人で、それぞれ押したり、引いたりしてみる。

 そして、突然、ふん球の下に何かがあるのだとばかり、ふん球の下を二人で掘りはじめたのだそうだ。これは天才的なひらめきだとファーブルは書いている。

 そして、まもなく、動かない原因はこの針だと気づくのである。

 ここからが、オドロキである。二匹は、それぞれ球の反対側からふん球の下を掘り始め、もぐりこみ、ふん球を自分の背中にのせて、針を引き抜こうとしだしたのだ。ファーブルはこの様子を昆虫記に絵入りで書いている。

 そして、自分たちの体の厚みだけはふん球を持ち上げたものの、針が抜けるまでには至らない。それでも抜けないとわかると、足を突っ張ってなんとか、ふん球をできるだけ高く背伸びして持ちあけて、針からふん球を取り除こうとする。それでも抜けない。そこで、どうしたか。

 これこそがびっくり仰天の知恵を発揮する。チンパンジーでもできるかどうかの天才的な道具を使うのだ。

 その様子が、昆虫記に絵入りで詳しく紹介されているが、驚くべきものだ。

 ファーブルは、足場となる踏み台となる平たい石をいくつかふん球の近くにそっとおくという手助けをして、観察を続行。

 するとついに、どちらかのスカラベが偶然にその石の脚立の上に乗ったとき、背中にふん球が接触した。しかし、これでは針からふん球を引き抜くことにはわずかにたりない。

 そこで、ファーブルは、もう一個平たい石をこれまでの石の上に載せて、また、観察。

 すると、ついに、スカラベは二段重ねの脚立石に乗り、背伸びして、背にふん球を乗せて、串刺しになっていたふん球をはずしてしまったのだ。こうすれば、こういう目的を達するはずだという見通しをスカラベは持っていたのだ。

  踏み台はファーブルがこっそりスカラベに気づかれないように串刺しのふん球のそばにおいたのだが、スカラベはそれには気づいてはいないだろう。とすると、二段の脚立を使えば、ふん球は、針から引き抜けるとの見通しが、この場合、スカラベにはあったことになる。

 なんとすばらしい発見であろう。ただし、二匹のコガネムシが互いに協力して、自分の背中を貸して、もう一匹がその上に乗り、ふん球を針から取り除くこともできた。しかし、こうした協力関係はコガネムシにはないらしい。おそらくチンパンジーにもないだろう。

 それにしても、協力はしなくても、チンパンジーでも、脚立を二段重ねにすれば、針からふん球は抜けるということに気づくことは用意ではないだろう。

 テレビでの実験では、長い針にふん球を突き刺して、ふん球のてっぺんに針が突き出ていた。この場合は、そこから、ふん球を二つに分割して、わが家に持ち帰っていた。これとて、なかなか優れた知恵といえまいか。

 第一巻上ですでに、こんな面白い話がとびだすのだから、全巻にはまだまだびっくりするような昆虫の生活誌、知恵が紹介されていることだろう。

 徹底した観察者だったファーブルの『ファーブル昆虫記』は1909年に完成されたが、ダーウィンの進化論『種の起源』(1859年)について、懐疑的であったらしい。この昆虫記を読むと、一分のすきもないと思われる精妙で合目的な行動を知るにつけ、ダーウィンのような、長い時間をかけて都合のいい(突然変異の起こるのを待ちながら)環境に適合する行動がとれるように試行錯誤しながら進化してきたというのでは、昆虫はそもそもまず個体として子孫を残し、生き残れないということだろう。ファーブルは、昆虫の行動は進化の最初から完全なものであったと信じた。したがって「種は変化しない」のだ。いかにも、自分の目で確かめたことしか信じない完全徹底主義者らしいものの見方である。言い換えれば、それほどに昆虫の行動、特に生殖行動は精妙で首尾一貫しており、試行錯誤を許さないとの観察結果に基づく信念がある。

 これについては、ダーウィンもある程度理解を示していたという。昆虫は例外であると。

 それはともかく、動物行動学の元祖が『ファーブル昆虫記』だが、なお、以前にも紹介したかもしれないが、

 『建築する動物たち』(マイク・ハンセル、青土社)

にも、とうてい、本能であるとは思えないようなシロアリの生活誌、行動が紹介されている。

 猛暑も吹き飛びそうな昆虫記だったが、訳者の奥本氏はブログ子より4歳年上に過ぎないのに、どういうわけかテレビでは杖を突きながらの南フランス行き(2009年夏?)だった。刊行が予定より遅れ気味らしいが、あと一息、全10巻(全20冊)の完成を祈りたい(2011.08.12)

 忘れてはならないのは、昆虫記が、正規の教育を受けてこなかったファーブルの官学派からのいわれなき中傷、科学教育への教会からの理不尽な非難、愛息の早すぎる死、晩年のどん底の貧窮生活の中から生まれたということである。これらの障害を乗り越えさせたのは、昆虫への限りない興味と愛情があったからだろう。

  追記 2011.08.13

  種の変化するが、それは長い時間をかけて漸進的に進むとするダーウィンの進化論については、現代でも、昆虫学者、いわゆる虫屋からは必ずしも支持されていない。たとえば、世界の昆虫愛好家の協力で、オサムシの系統と進化について、4000万年を追跡した

 『DNAでたどるオサムシの系統と進化』(大澤省三、蘇智慧、井村有希、哲学書房)

の浩瀚な研究がある。結論として、代表の大澤氏は、世界のオサムシは約4000万年前、短期間で一斉に主なグループが分化したという事実を突き止め、

 「どうやら、進化には激しく「分化」する「動」の時期と「静」の時期があるらしい」

と述べている(日経新聞2002年4月18日付「文化」欄)

 大澤氏は、オサムシが従来の漸進主義の進化の定説を覆す日が来るのを静かに夢見ている、とこの記事では結んでいる。つまり、小さな突然変異が長年積み重なって形が変わっていくというダーウィン的な進化とオサムシの成果とは異なっていることを示唆している。

 この考え方は、100年前の徹底した観察からダーウィンの漸進主義進化論に反対もしくは懐疑的だったファーブルの意見と基本的に一致していることは、注目に値する。

 そして、生物学者の今西錦司氏の40年以上にわたる信念(『私の進化論、思索社、1970)

 「生物の種は、変わるべきときがきたら、(いつ起こるかあてにならない突然変異なんか待っていないで)みんな一斉に(一定方向に向けて)変わる」

に通ずる。

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原爆投下知っていた日本陸軍  米、降伏する前に急いで投下せよ

 (2011.08.07)  戦争の非情さというのはこういうことを言うのだろう。

 土曜日夜のNHK総合「原爆投下」を見て、そう感じた。参謀本部の特種情報収集班が、米側がテニアンから特殊な爆弾など特別な任務を担ったB29が広島など日本に近づきつつあることをつかんでいたことを初めて明らかにしたドキュメンタリーを紹介していた。広島に原爆が投下された3日後にも、まったく同様の通信を傍受。その情報を参謀本部の上層部に上げたけれども、取り上げられることはなかったというものである。長崎に原爆が投下される5時間前にも投下の可能性をその通信記録から特種班は気づいていた。あるいは察知していたらしい。

 こうした話は、今思えば、という結果論が付きまとうが、参謀本部の指揮に重大な判断ミスがあったのではないか。もう原爆投下はないと、根拠薄弱な希望的な観測で思っていたのかもしれない。それとも、長崎原爆投下の旧ソ連の突然の満州進攻で参謀本部は、混乱、あるいはソ連進攻に気をとられていた可能性もあろう。

 もっと非情な事実を、NHKプレミアムで同じ土曜日の夜放送していた。

 タイトルは、「ヒロシマの黒い太陽」

である。科学者たちの原爆開発の様子を描いたものだが、あらゆる困難を乗り越えて、政治的な要請から一刻も早く開発、いかに実験成功にこぎつけるか。オッペンハイマー博士など科学者の無邪気なまでの熱心さには感心した。科学者は偉いと思った。

 だが、敗色の濃い日本が降伏するのは時間の問題だった。にも関わらず、開発をぎりぎりのタイミングで完成させ、米側は直ちに日本に投下することを急いで決定したのはなぜか。

 日本が降伏する前に、原爆を投下せよ

という政治的な思惑があったからだ。つまり、旧ソ連などに対して、原爆の威力を実戦で誇示しておくことは、大戦後の国際政治において、米国が無限の外交力を手に入れることになるという判断からだ。それと、莫大な国費をかけて完成していたのに、もし実戦では使われなかったとしたら、そして、その分、米将兵の命が多数失われたとしたら、当時のトルーマン大統領は戦後、激しい非難を受けたことだろう。大統領としては、降伏前にどうしても投下する必要があったのだ。

  原爆投下は、戦後の国際政治の主導権を米国が握るために行われたのだ。戦争を早く終わらせるためにやむなく投下したというのは、後からつけたこじ付けだったのだ。

 その犠牲になったのが広島市民であり、長崎市民だった。戦争とは、かくのごとく非情なものであることをあらためて思い知らされた。未知の技術に対する科学者の熱心さは賞賛に値するが、その社会的な責任にもそれと同様に熱心でなければなるまい。(2011.08.07)

  追記 

 米側は日本が降伏する前に原爆投下をする必要性に迫られて開発を急いだのだが、実は、旧ソ連側も、日本が降伏する前に一刻も早く満州から参戦するよう極東で参戦準備を急いでいたのである。

 アメリカの原爆開発に対して、スターリンは

 原爆による脅しはきかない

ということを示すために、旧ソ連もまた原爆開発を急ぎ、4年後の1949年8月に最初の原爆実験に成功している。これはほぼ、アメリカが開発に成功するのに要した時間に近い。いずれの国にとっても、最も時間がかかったのは、高濃縮ウランの入手であった。大量のウラン鉱石の入手であった。

 この間、トルーマン米大統領は、米議会で反共演説(1947年)をしているし、旧ソ連はこれに対抗し、西ベルリンの陸路封鎖を断行している(1948年)。この年には、韓国が独立し、続いて北朝鮮も独立し、冷戦は過激度を増していった。

 こうした事情については、

 『スターリンと原爆』(大月書店、D.ホロウェイ)

に詳しい。旧ソ連の原爆開発には、アメリカの開発資料のスパイによる流出が開発時間の短縮に大きく寄与したといわれたりもするが、開発時間はそれらよりも、やはり、高濃縮ウランの生産ラインの効率的な建設によってほとんど決まったといっていい。

 実は、日本軍(陸軍)も、戦争後半になって、理化学研究所を中心に:原爆開発を計画したが、なにしろ、肝心のウラン鉱石が国内にほとんどなかったことで、計画倒れに終わったいきさつがある。(2011.08.07)

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「脱原発」の憂うつ 依存しない社会は可能か

(2011.08..06)  原発関係者にとっては、あるいはマスコミ関係者にとっては

 憂うつな夏

となっているようだ。福島第一原子力発電所事故から何を学ぶかという課題を突きつけられているからだ。

 広島市長は、今年の平和宣言の中で、この事故に関連して、原子力など「早急に国のエネルギー政策の見直し」を求めた。しかし、どう見直すべきなのか、その方向性ぐらいは言及してほしかった。現状認識と各論併記に終わったのは、いかにも、まだ迷いがあることをうかがわせて残念だった。これに対し、式典に出席した菅首相は

「原発に依存しない社会を目指す」

と誓った。これが「原発ゼロ」を意味するのか、それとも、これ以上増設しないというのか、現状より基数を削減するという「減原発」の意味なのか、あいまいだった。いまや、核兵器だけでなく、原子力の平和利用までもが、否定的に論じられるようになってきた。根はおなじであるという認識が広がり始めているのだ。

 ブログ子の先輩であり、「科学と社会」について真摯な発言を続けている総合研究大学院大学の池内了教授(宇宙論)も、世界平和アピール七人委員会の一員として、すばり、「原発に未来はない」と言い切り、

 原子力の平和利用よりも、原発のない社会目指そう

と訴えた(8月3日付中日新聞「時のおもり」)。七人委員会は、科学者、作家、写真家などが不偏不党の立場から、世界連邦政府構想など、平和の実現のための意見を述べる団体。

 池内さんたちは、「欲しいだけ電力を作る生活から、利用できる範囲で生活する、そんな生き方への転換」を呼びかけている。そんなことが実際、国民一人一人ができるか、疑問だが、その趣旨は、第一原発事故の恐怖を考えると、誰もがうなずけるだろう。

 なにしろ、この2日に、茨城県東海村で開かれた、原子力の利用のあり方を考えるシンポジウム(主催は日本原子力学会)の席上、東海村の村上達也村長が冒頭、「地域からの問題提起」と題して発言し、「脱原発」の必要性を強調した。東海村といえば、日本で初めて「原子の火」をともした由緒ある村であり、この50年、多数の原子力関連施設を受け入れてきたが、ついに、福島の事故を見て、堪忍袋の緒が切れたのか、「安全な暮らしは原発マネーと交換できない」と手厳しく、国の政策を批判した。東海村もついに、「脱原発」にかじを切ったといえそうだ。

 日本原子力学会の会員は、科学者、技術者、原発関連メーカーで構成されている(原発推進派が中心の)団体である。来月9月19日に、福島から遠く離れた北九州市で「秋の年次大会」を開く。当初はなかったが、世論がうるさくなったこともあり、この事故を受けたシンポもなんとか急遽開かれる予定。

 しかし、九州電力や新日本製鉄の見学会は計画されているものの、なんと、福島第一原発の事故現場見学会はないのだ。現場を見ずにどうしてシンポができるのか、また、いくら専門家集団であったとしても、現場も見ずに、どうして事故原因の究明や有効な対策が立てられるのか、まことに疑問であり、無責任な学会であると言われても仕方あるまい。

 事故から、半年以上もたって開かれる原発推進の学会が、準備に時間がかかるとはいえ、事故現場への見学会を学会大会にあわせてセットできないというのでは、あるいは意図的にさけたのではないかと邪推されるようでは、もはや、この学会に対する国民の信頼は地に落ちたといえよう。

 原発推進派に入るブログ子でさえも、あきれるのだから、反原発派はもちろん、急速に増えつつある「脱原発」派からも見放されるであろう。早急に、原子力学会として、現地視察会を開催することを強く求めたい。

 そんな中、産経新聞社系の緊急出版、

 オピニオン月刊誌『正論』8月臨時増刊号 大特集 「脱原発」で大丈夫か ?

が今、書店に並んでいる。推進派の専門家の意見も出ている。なかなか、説得力があるといえば、誤解を受けるかもしれないが、

 「脱原発」は結構だが、そう簡単にできるものか。一時的な激情に任せないで、頭を冷やせ

ということだろう。

 事実、日本の発電量の構成(総発電量に対する比率)はおおよそ、以下のとおりである。

 太陽光発電、風力発電など「再生可能エネルギー」の発電量      約  3%

          うち、太陽光発電 0.5%程度  風力発電 0.5%程度

 大規模水力発電量                            約  5%

  火力発電量(石油、石炭、天然ガス)                                       約 60%

  原子力発電量                               約 30%

   この表からいえば、日本の再生可能エネルギー発電は、まだまだお寒い。原発の実力が大人であるとすれば、再生可能エネルギー発電は幼稚園児なのだ。

 民主党の菅政権は、2020年までに、技術革新の下、再生可能エネルギー発電量の比率を現在の3%から20%に引き上げると繰り返し、明言している。しかし、その具体策に沿った実現の道筋は示されていない。

 また、菅首相の「原発に依存しない社会目指す」とすると、原発そのものを廃止・廃炉をしなければならないが、この技術はいまだ完成していない。また、完成していたとしても、100万キロワット時の原発一基処理するのに、今のところ、数十年はかかる。実際は50年は必要だろう。とてもじゃないが、原発に依存しない社会がそんなにすぐ実現するというのは幻想だ。

 それに、発電量の大半を占める火力発電も、化石燃料(再生不可能エネルギー)を使うので、温暖化防止上からも、比率を下げていく必要がある。これを担ったのが、原発だったが、今回、原発増設は温暖化対策の「解」ではないことが明らかになったのだから、

 「脱原発」は言うは易く、数十年で実現するのは不可能

といえそうだ。

  それでもなお、ブログ子も「原発に未来はない」という認識に賛成だ。というのは、原発社会が実現するには、核廃棄物の処理など核燃料サイクルが確立していることが前提だが、今のところ、このサイクルは、青森県六ヶ所村の再処理工場の稼動停止などいたるところでトラブルが続いているからだ。増殖炉開発も原型炉段階でまたまた「もんじゅ」トラブルが起きている。

 将来の「解」として、

 放射性廃棄物の出ない、太陽の中心部で起きているような「核融合炉」

に光明が見出されるかもしれない。それとても、日本など国際的な協力で原型炉の建設が当初の計画を大幅に縮小してフランスなどで進んでいる。しかし、実用化は、うまくいっても50年以上先のことであろう。(2011.08.06)

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哀愁と悠久の魅力奏でる「のこぎり音楽」

 (2011.08.02)   三角型の西洋のこぎりという一枚の金属板がしならせ、弓を弾くだけでこれほどまでに「歌う」楽器になるとは知らなかった。少し大げさに言えば、哀愁をおびたビブラートの利いた口笛のようにも聞こえたり、100億光年の宇宙のかなたからの悠久の響きにも聞こえたのは不思議だった。

 自衛隊浜松基地近くの会場で、8月2日午後、「のこぎり音楽を楽しむ会」(伊藤優樹代表、愛知県豊川市)のギター伴奏に合わせた「のこぎり音楽」を初めて楽しんだ。東三河を中心に活躍しているグループだそうだ。

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 最初は、きっと、えんやこーらの、きこり金属音音楽、だから、男の音楽のように思った。しかし、聴いてみると、ゆっくりとしたやさしい音色にびっくり。むしろ女性が好む音楽のように思った。そう思ってその魅力について、女性演奏者にうかがったら

 「ゆっくりとした音色に、(弾いていて)いやされるのが好き」

とのことだった。ゆっくりとした曲想、浜辺の歌、エーデルワイス、グリーンスリーブスなどがあっていたようだ。当日は、基地からの2機編隊スクランブル、早期警戒機の轟音など、演奏条件は、はっきり言って、よくなかった。

 それでも、この楽器の魅力がどこにあるのかがわかった。それは、人間の手と足で、三角形金属ののこぎりの両端を微妙にしならせるところにあると気づいた。そこから、口笛よりも深いビブラートが生まれる。美しい音楽というよりも、また、癒しの音楽というよりも、神秘の音楽のような気がした。

 そして、想像した。もし、この会場が、大自然に囲まれた、たとえば、静岡県と山梨県の県境近くの赤石岳のふもと、南アルプスの登山口、

 さわら島のロッジ、それも、夜のしじま

の中で奏でられたら、おそらく、聴く人は、大自然との一体感で、涙が止まらなくなるほどの心の振るえを感じるだろう。このロッジの屋外には、サッカー場くらいの下草の生えた原っぱがある。その横を夏でも冷たい川がさわさわと流れている。原っぱの中央で、ゆったりとしたのこぎり音楽を奏でたら、夜のしじまの中、森や山のささやきをきいているようで聴衆はその魔力に、きっととりつかれるであろうと想像した。

 いつの日か、夜の沈黙と静寂の中で、耳を澄ましたい「のこぎり音楽」だった。(2011.08.02)

 

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これぞ、反「ナマコ天国」主義者 ?

(2011.08.01)   床屋においてあった「週刊現代」8月6日号の

 写真記事「The Target」 登山家、プロスキーヤー、三浦雄一郎 「人生には目標が必要だ」

には、びっくり仰天した。

 なにしろ、今年78歳の男が、2年後、つまり80歳で、3度目のエベレスト登頂成功を目指す、というのだ。だから、今、そのトレーニング中で、記事ではその様子を紹介していた。一度目は、70歳のとき、二度目は75歳のときに成功したという。だから、世界最高年齢の80歳で三度目の成功を、というのだ。しかも、記事によると、一度目の成功前には、二度も不整脈治療の心臓手術をしているのだ。

   1985年にプロスキーヤーとして、世界七大陸最高峰での滑降に成功。60歳近くになって、初めて、プロスキーヤーとして

 「定年退職だ」

という気持ちを抱き始めたという。65歳を過ぎてからは、メタボ体型になり、高血圧、糖尿病、腎臓病も患ったらしい。

 イギリスの登山家、ジョージ・マロリーは、

 なぜ山に登るのですか

と問われて、

 そこに山があるからだ

と答えた話は、その真偽はともかく、有名。そう答えたのは、ばかな質問をするなと、質問者をからかったのだとブログ子は思うが、三浦さんの場合は、この質問はばかな質問ではない。

 「人生には目標が必要だ」

というのだから。定年退職しても、つまり60歳すぎても、やはり目標は必要だ。でないと、体ががたがたになってしまうからと考えたらしい。しかも、それまでのプロスキーヤー生活の中で山は身近なものだった。だから、世界一のエベレスト登山を次の人生の目標にするに勝るものはないというわけだ。

 これって、一言で言えば、ナマコなんてくそ食らえの

 反「ナマコ天国」主義者

なのだろう。何事にも、人間のことだから、例外はあるものだ。

 そう思って、ふと、気づいた。

 三浦さんは、定年退職するまでは、プロスキーヤーとして、山を滑り降りるのが専門だった。それが、定年後は、山に登るのが専門に成っただけであり、普通の人の逆、つまり

 「下山の時代」から「登山の時代」

に移行したに過ぎないのかもしれない。三浦さんにとって、下山の時代はひたすら脇目もせずに滑り降りる命がけの時代。今は、自分のペースで、じっくり回りを見渡しながら、楽しむ時代を目指していると言えるかもしれない。

 とすると、三浦さんにとって、登山は「下山の時代」なのだ。

 そう考えれば、三浦さんも

 ナマコ天国

を楽しんでいるのだろう。いろいろ考えさせる写真記事だった。なにより、後期高齢者になっても、エベレスト山頂近くまで来ると、

 「歩いて、このまま宇宙までいけるんじゃないか」

と思えてくるのだそうだ。

なににもまして、この明るく前向きなのがうれしい。元気が出る読み物だった。2011.08.01

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