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歴史の思い込み 祇園祭の京を訪れて 

File0012  久しぶりに7月14、15日、祇園祭りの京都を訪れた。街中の俗化した姿に憤慨したのはもちろんだが、学生時代を通じて15年以上、京都市内で暮らしたのにも関わらず、

 歴史の思い違い

に痛感させられた一泊二日の小旅行だった。

 思い違いのその一。秀吉の建てた聚楽第は、なんとなく御所の東側の左京区にあった。

となんとなく思っていた。これは完全に間違い。聚楽第は御所から500メートル以上も西の堀川通りよりもまだ西側。堀川通りに面する安倍清明神社の鳥居に接するように

 千利休居士聚楽屋敷址

という石碑が建っていたのには驚いた。

  彼は、この聚楽第内にあった聚楽第内屋敷から出て、近くの私邸屋敷で切腹したのだ。その屋敷とは、堀川通りと烏丸通の間だろう。このあたりは大名屋敷がひしめき合っていた。

 聚楽第は堀川通り一条戻り橋より西。つまり「西陣」、それもかなり西にあったのだ。

 第二の思い込み。織田信長が明智光秀に殺された

 本能寺は、いまの京都市役所前

というのも、間違い。確かにそこにはいま、本能寺があるが、これは秀吉の都市計画で移転した結果なのだ。

 焼け落ちた本能寺は、四条西洞院(四条堀川)上がる、つまり京都市立堀川高校構内

だった。その白御影石柱が瀟洒な堀川高校入り口に立っている。お墓は、信長の遺体は見つかってはいないが、

 大徳寺の総見院

であることはよく知られている。

 思い違いの第三。伏見区の丹波橋から見える大天守閣の伏見城は、秀吉のつくった伏見桃山城である。

 これも完全に誤りであることが、現地を訪れて、お笑い種の間違いであることに気づかされた。本物の秀吉の木幡伏見城=伏見桃山城は、あの天守閣よりも東の

 桃山御陵の中の明治天皇の陵あたりに天守閣があった

のだ。では、いまのあの〝立派な〟大小ふたつの天守閣はなにかというと、これは、近鉄が遊園地「伏見キャッスルランド」をつくるにあたっての人寄せ目玉施設としてお金をかけてつくった鉄筋の建物なのだ。昭和39年開園と現地の解説立て札にあった。いまはそのキャッスルランドも閉演して8年もたつ。ブログ子が訪れたときには、人っ子ひとりいない無人の「運動公園内」にむなしくたっていた。したがって、文化財的な価値はないのだ。現地近くに長く住んだことがあっただけに、かえって思い込みがなかなか解けなかったのだ。

 閑話休題。

 以前にもこのブログにも書いたが、定年後の楽しみとして、ブログ子は

 大長編小説を味わうこと

を心掛けている。たとえば、全10巻を読むには時間がかかるから、その間に、現地探訪ができて、思い込みや間違いなどに気づくことも多い。その分、味わいもよくなる。もうひとつ、大長編だと、小説に登場する人物の対立とそれぞれの心の葛藤が深く、深く書き込まれている点がいい。さらに、多様な角度から掘り下げられていて、大変に味わい深い。いまもって、現役時代にもっと大長編小説を読んでおけば、もっと出世するか、人生の哀愁を理解できたのになあ、と反省している。

 これまで、現役の時に買ってはみたものの、ついつい読んで来なかった大長編を読むことをすすめたいというのが今回の京都小旅行だった。

 祇園祭では、錦市場のある鮮魚店(錦大丸)で夜が、売り物のその鮮魚を囲んでの飲み屋になる。見知らぬ人たちと、あるいは浴衣姿の女性と大いに酒と魚で盛り上がった。季節柄、ハモ料理(落としという)が人気だった。

 一時間いたが、わずか1200円だった。こういう京風情こそ残してほしいというのが、鮮魚台を囲んだ多くの人たちの心だったように思う。2011.07.17

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