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対話らしくない「核をめぐる対話」 大石又七さんの後遺症におびえた57年 悲劇を繰り返さないために

 日曜日の教育テレビで、ノーベル文学賞受賞者の大江健三郎さんと、ビキニ環礁で被爆した元第五福竜丸乗組員、大石又七さんの

「核をめぐる対話」

を見た。場所は、都立第五福竜丸展示館(東京都江東区夢の島」の船上。大江さんとの対話は、相手が誰であろうと、たいてい話がかみ合わないので、大石さんの場合もそれほど、イライラすることなく大石さんの話に耳を傾けることができた。

 感想を一言で言えば、教えられることの多い大石さんの話だったが、対話がかみ合わないので組み合わせの妙から生まれると期待した提案がなかったのがさびしかった。

 大石さんが被爆後焼津に帰港したとき浴びた放射線量は

 1000-2000ミリシーベルト。一般の人の年間許容被爆腺量は

 1ミリシーベルト

であるから、帰港前にすでに、髪が抜けたり、嘔吐があったりしたらしい。

 加えて、放射性物質が大量に含まれている「死の灰」を吸い込んだことから、被爆後も長年にわたる体内残留放射能物質による「内部被爆」も加わる。その蓄積線量は、長年たつと直接被爆線量より多くなることが少なくないことがチェルノブイリ事故調査に長年関わっている広島大学の調査で次第に明らかになっている。

 教えられたことのひとつは、この事件で核兵器の恐ろしさを日本にふたたび知られたことから、米側は、核兵器からことさらに日本人の目をそらす狙いで

 原子力の平和利用

を打ち出したことだ。日本側も、読売新聞社正力松太郎氏、財界が挙げて、平和利用を叫んだという事情を知った。なぜ、アメリカが1950年代中ごろから急に日本に対して原子力の平和利用を強く支援することになったのか(1955年に原子力基本法成立)。それは実は、この第五福竜丸被爆事件(1954年3月1日)が背景にあったのだ。当時は反核運動が高まり、それを押さえ込む工作が冷戦の中、日米で盛んに画策されていた。長崎・被爆浦上天主堂遺跡もこうした流れの中で、保存運動から撤去へと転換に追い込まれていった。第五福竜丸も、その後行方不明となるなど、被爆の証言遺跡が次々と、反核運動のもの上がりの中で消えていったことは、偶然ではない。

 この間、被爆の後遺症が仲間から次々と現れて、がんなどで50代で死亡するなど、後遺症の不安におびえながら、故郷を離れ、東京でクリーニング店を営みながら、周囲の偏見と差別から逃れようと、心ならずも

「世の中から隠れることに集中」

したという。しかし、

「何の罪で隠れて生活しなければならないのか」

という憤りを感じざるを得なかったという。その怒りが東西冷戦の終わった1991年

『死の灰を背負って』(新潮社)

を刊行させ、広く自分の体験を語り継ぐ決意となったのだろう。こんな辛い目にあっているのに、自分たちが黙っているせいもあって、その体験が世間から忘れ去られていくという現実に耐えられなかったのだろう。大石さんの悲劇は1950年代の冷戦本格化とともに始まり、1991年の冷戦の終結とともに解き放たれて、重い口を開いたのだ。大石さんをはじめ第五福竜丸の乗組員は

冷戦の被害者

ともいえる。

 今、静岡県焼津市はヒロシマ、ナガサキに次ぐ

 第三の〝被爆地〟

として、核兵器廃絶に取り組もうと昨年から

 焼津平和賞

を制定した。つい先日、6月30日に第二回の授賞式があった。

  マーシャル諸島のビギニ環礁付近の住民も第五福竜丸と同様に被爆している。今もって、後遺症の甲状腺がんや障害に苦しむ住民も少なくないという。

 原爆よりも爆発力ははるかに大きい水爆の被害にあった第五福竜丸の悲劇は、そのときその場所にいた人たちの共通の悲劇である。このことを忘れてはならないが、しかしながら、それだけに関わらず、核兵器廃絶への地道な取り組みにも目配りして、「核のない世界」の理想に少しでも寄与するよう表賞の対象を今後さらに広げてほしい。

 繰り返しになるかもしれないが、中立で当たり障りのない表賞なら、主催者も受賞者も自己満足するだけであり、極端に言えば、なくてもいい。そんな表賞は、真剣に核廃絶に取り組んでいる人を不愉快にするだけだろう。そんなことを大石さんから教えられたような対話にならなtかった対話番組だった。2011.07.04

 追記 2011.07.23

 ブログ子など、科学ジャーナリズムにかかわるものも、この事件では大いに反省することがある。それは、1950年代半ばは、この事件を契機として、新聞社に科学部ができるなど、科学ジャーナリズムの必要性が叫ばれだしたのにもかかわらず、

 名ばかりだった「科学報道」

だったことだ。この点について、本の情報誌『本の時間』(毎日新聞社)2011年8月号の「気になる科学 第31回」で著者、元村有希子毎日新聞科学環境部記者が、この事件をいちはやくつかんだ読売新聞社が記事の扱いを紙面上異常に小さく扱ったことを批判した上で、

 「当時の新聞はどこも、この事件をもっぱら米国批判の材料として扱うが、原子力が本来持つ影の部分について深く考察することを怠った」

と断じている。まったく同感だ。

 また、事件の翌年(1955年)の新聞週間の標語は「新聞は世界平和の原子力」であったとして、影の部分に目をつぶった「名ばかり報道」であったと当時の科学ジャーナリズムの未成熟さを元村記者は皮肉っている。実は、現在でも日本の科学ジャーナリズムは、この傾向から向け出ているとはいえない。

 余談だが、もっとも、この標語は、意味不明。どういう意味かよくわからない。新聞は原子力というのはどんな意味だろう。新聞は、世界平和に通ずる原子力を支持するという意味か。そんなあいまいな意味では、核兵器だって世界平和を維持するのに役立っているともいえる。 

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