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蔵書は一代 どうする死に際の処分

 「週刊文春」(6月2日号)の写真コラム

 CATCH UP 児玉清さんが遺した1万冊の「才人の証」

というのが目に付いた。児玉さんは先月5月になくなった。銀行の待合室で待ち時間を利用してちらちら読んだが、無類の本好きだった児玉さんの書庫には、きちんと分類して整然と本が並んでいた。全集、著作集など長尺ものが多そうな書庫の前で、ご自身、本をぺらぺらめくっている生前の姿がほほえましい。

 一万冊となると、これはよほどしっかりした基礎工事がしてないと、書庫が崩壊する。そんなこともがっちりとした立派な書庫をみて、うらやましいなあ、とブログ子はため息をついた。

 ところで、ふと、気づいた、テレビ司会、俳優稼業に忙しかった児玉さんだが、本好きなのだから、平均して週に二冊、だから年間100冊をなめるように読んだとしても、30年で3000冊。二十歳から本好きで買いあさり、読み続けたとしてもせいぜい50年、5000冊を読破するのが限度だろう。

 つまり、半分しか、読めないのだ。いや、本好きというのは、読むだけでなく、手元に本があるだけで、満足なのかもしれない。

 写真を拝見すると、ラベルがきちんと貼られている。取り出しやすい整理がしてあるように思うが、貴重な本、高価な本は見当たらない。

 そこで、ふと、思った。この書庫の本は、児玉さん亡きあとどうなるのだろう。他人事ながら、はっきり言えば死蔵だろう。いまどき、図書館ではよほどの貴重本か一級資料しか寄贈を受け付けない。古本屋もたいていの本は、引き取らない。ひきとってもびっくりするほど安い。

 ブログ子も、引越しのとき、金を払って、そして頭を下げて、引き取ってもらった経験が何度かある。それでも引き取らないときは、こんどは古紙回収業者に古紙として引き取り料のお金を払って、引き取ってもらうことになる。 

 司馬遼太郎さんの膨大な蔵書は、同氏の記念館にほとんど収容されて、社会的に活用されているらしいが、児玉さんのものは知らないが、ブログ子の蔵書などはほとんど、死後は紙くずとして消えていくような気がする。

 蔵書は一代

というのが蔵書界の常識らしい。

 遺しておき、子供たちに役立たせようという場合、処分のコツは、

 全集、著作集などをまず処分する。雑書は残す

のだそうだ。その心は、全集ならいつでも図書館で読める。安価で珍しい雑書は図書館ではなかなか読めないからなんだそうだ。図書館も本であふれて、全集は残すが、古い、しかも安価な本は珍しくて貴重なものでも、その価値はそう簡単には判別できないから、一律に「廃棄」する。

 だから、蔵書の廃棄は、図書館の逆の処分、高価でいかにも保存したいような全集から処分せよ

というわけだ。卓見だろう。

 ブログ子もこれまで引越しのたびに本を処分してきたが、定年過ぎた今でも、2000冊ぐらいは持っている。書庫はないし、息子は本をほとんど読まないから、蔵書はすべて古紙回収業者に渡るのだろう。

 だから、前回も書いたように、お迎えが来る足音が少しずつ聞こえてきた最近は、これまでつんどいた大長編の小説や、全集などを次々と熟読する気になった。日本国語大辞典(全20巻)、諸橋轍次氏の大漢和辞典(全13巻)、日本大百科全書(全24巻)をできるだけ、活用するようにしている。そうそう、このブログを書くにも、「新世紀ビジュアル大辞典」(全1巻)をよく活用しているし、日本史辞典(角川書店)、世界史小辞典(山川出版社)などハンディタイプのものはできるだけ手元において利用するようにしている。

 蔵書は、書庫にしまっておくより、生きているうちにまず、自分が活用することが、第一なのだ。うかつにも、そんなことに、死ぬ間際になってようやく気づいた。

 これなら、死後、ブログ子の本が古紙回収にまわってもあきらめがつく。大判の高価な美しいカラー天体写真集は、自宅近くの科学館にボランティアに行っていることもあり、何冊もあるので寄付しようと考えている。こどもたちの夢を育てるのに少しは役立つだろう。

蔵書は、読まずに死ぬな。これである。2011.06.01

 

 

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コメント

読書は量より質である。児玉清は蔵書が1万冊以上あり、事実、彼は稀代の読書家であったらしい。しかし、彼は百田尚樹の『永遠の0』を絶賛し、この本の文庫本の解説を書くほどに知性とは縁遠い人物であった。同じ読書家でも加藤周一の蔵書は2万冊以上あり、それも日本語だけではなく、英独仏3カ国語の本があり、彼は中国語は喋れなかったが、読むことはできたという。何よりも加藤周一は読むだけではなく、書く人であった。残した著作は膨大な量になり、その内容は充実しており、まさに「知の巨人」の呼称に相応しい。いくら本を読んでも、知性とは関係ないといえるだろう。

投稿: | 2016年6月11日 (土) 12時20分

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